赤い夕陽⑳ 閑話休題
敗戦前を少しさまよう あの頃の隣人と級友
三橋雅子
戦前は隣組というのがあって、隣近所と無縁に暮らすことは出来なかったが、我が家は最低限の回覧板を回すことくらいで、熱心なお付き合いはなかったらしい。特に一番近いお隣さん、岸信介邸に私は一度だけ回覧板を持って行って門越しにお手伝いさんに渡したことがあるが、以後ずっと岸邸への回覧板は使用人の役目だった。道を隔てて反対周りは、依然として私の役だったが。「大の役人嫌い」の父の采配か?岸氏は当時、満州国の重鎮官僚?門の前に横付けされた車への出入りだけで拝顔の機会はなかったが。それは我が家の父とて同じで、それも以前のように、馬車の送り迎えだった時は、私は好物の人参で馬の鼻づらをさするのが楽しみだったが、やがてフェラーリやダットサンになってからはその楽しみもなくなって、味気なくなった。この黒いダットサンが、またまた私は大の苦手、あのガソリンの匂いで、「お出かけ」は益々は憂鬱になった。
岸家の二人のお姉様(その一人が安倍現首相の母君か)は父親似のひょろ長ーい顔のお嬢様達だった。それを思い出したのは、60年安保闘争の時、「岸タイジーン」を叫ぶ、あちこちのプラカードの似顔絵が、岸家のお姉さまたちによく似ていたからだった。やや懐かしくも、おかしくもあった。現首相は父親似か?あのお姉様達に全然似ていない。
同年齢の大きい姉達とは、違う女学校だったこともあろうか、下の姉は同じ女学校の後輩だったにも拘らず、岸家のお嬢様達と交わることはなかった。わざわざ道を隔てた向かい側の、岸家と同年齢のお姉さまたちとは始終行き来して、クリスマスやお正月には、いろんなゲームをして過ごした。一番近かった岸家の令嬢たちとはおしゃべりすら、したことがなかったのは、単に相性が悪かったのか?父の差配でも働いていたのか訊き損なった。
1945年8月9日のソ連の宣戦布告で新京の町が混乱のるつぼになった時、何時の間にお隣、岸邸が空っぽになったかは知る由もない。恐らく、関東軍がもぬけの殻になるより先に、であろう。間もなくソ連の進駐軍が侵攻してきて、界隈では真っ先に我が家が接取されて追い出されたが、既に空っぽだった、お隣の岸邸が将校達の住処になったのは、ずっと後のことだった。何で、隣が空き家なのに……うちが追い出されるの?と私は憤懣やるかたなかった。当時の官邸は、今日のそれのように(?)豪華なものではなく、誠に質素な「官僚にふさわしい」ものだったのか?我が家が少々派手すぎたのか、「とんがった青い屋根のハイカラな家」は目立ったらしく、界隈で真っ先に「追い出し」の標的になって、言葉も通じず事情がわからないまま荷物を放り出し、行く先の当てもなくボウ然としていた。その時、やたら「ブイストラ、ブイストラ」とお尻を拳銃で突つかれ、せかされた忌まわしいセリフが、軽食屋ビストロの由来だということを知ったのは、ずっと後の事。そもそも第二次大戦後のドイツで、ソ連兵たちが「早く何か食わせろ」と「ブイストラ、ブイストラ(はようせい)」とわめきながら入ったのが軽食屋だった、それでそういう店が、ブイストラなまってビストロとなった、とか言われる。
更に脇道へ行くと、「逃げ足早かった関東軍」で思い出すのは、同級生だった山田乙蔵大将、関東軍総司令官の孫娘、Y嬢である。この敗戦の年の五月か六月頃、私のクラスに彼女が東京から転校してきた。こちらにとっては、当時多かった東京からの疎開組の一人、ただの転校生としか思わないが、なにやら外野が物々しく、担任の先生の緊張振りと張切り方もおかしかった。四年生の、我が三組に入ってきた彼女は中くらいの大きさで真ん中へんの席だったが、ちびで一番前の席だった私がその隣に席替えさせられた。「級長の隣」が必要なら、彼女が私のそばに来ればいいじゃん、というのが私の思いだったが。この不満も含めて夕食の席で報告すると、滅多に夕食を共にすることがない父が珍しくその日は同席していて、私の何気ない報告に、「うーん、山田乙蔵の孫か……」と箸を置き、腕組みして考え込んでしまった。その重い反応に私の方がやや驚いた。空襲の危険からの疎開という、東京からの転校生は当時多かったが、関東軍総司令官の身内となれば、満州の安泰に余程自信がなければ……というのが父の思惑だったに違いない。本当に関東軍は、「満州はわが軍が居る限り、『盤石の砦』」と思っていたのだろうか?カモフラージュで 孫娘を手元に?とも思えぬやり口を前に、父は腕組みして、さまざまな思惑に耽ったたらしい。
子供の社会でも、否、だからこそか?早くも「取り巻きグループ」的なものが形成されて、彼女は「お姫様ぶり」を発揮し、かなり傍若無人な振る舞いをしていた。隣に座らせられて「お世話係」の筈だったのかどうか、私はご機嫌を取るどころか、彼女の不当なわがままをいさめる側だったので、彼女は恐らく、けむたかったにちがいない。彼女が自邸の関東軍総司令官のヤカタに級友を招待することになったとき、きっと私の扱いに悩んだ筈だが、「級長をご招待する」ことの利を、小さい頭でひねり出したのか、私も「取り巻き達」と一緒にご招待にあずかることになった。私は彼等と共に、広い官邸の門から長ーい道を上って行った。「ワアーHさんち(私の家)より広ーい」などと皆口々に言うのを「当たり前じゃ、『泣く子も黙る天下の関東軍』の総司令官邸じゃないか、我が家の比ではないはず」と私はボヤキながらついて行った。広い官邸を走り回り、探険した後に出てきたお八つの豪華さに、また皆は度肝を抜かれた。これにもまた、私はヤヤ驚く。我が家での友達に出すお八つに、母はかなり神経を遣って、酒保(兵営内・艦内にある兵士相手の日用品・飲食物などの売店。)からの豊富な「甘いもの」など出しひかえて、「内地からのさつまいも」のふかしたの、などを出すようにしていたからだった。これはもちろん、「あそこはツテあって、今時貴重な甘いものに事欠かない」などという非国民呼ばわりを配慮しての事だった。ここでも私は、そんな我が家での気遣いなどはどこ吹く風の、「何をやってもいい、さすが『泣く子も黙る関東軍』」と、その威力を感じたのだ。
間もなくの、突然のソ連の宣戦布告に、関東軍はどれだけ寝耳に水で慌てたのか、ある程度の予測をしていたのかは知る由もないが、少なくとも、この稿のしょっぱなに書いたとおり、彼らの半端でない「慌てぶり」からは、関東軍のノーテンキな構えが窺われる。少なくとも、北からのソ連の侵攻は予想図になかったのではないか?安泰を装うカモフラージュではなかった筈の、総司令官が呼び寄せた、お孫様の姫君も、予想が外れての慌てぶりで、いち早く内地行きの飛行機で飛び帰ったのではないか?
こうして、繰り返すが、安泰の筈の満州が、未曽有の不安と混乱のるつぼになった時、頼りにすべき、「泣く子も黙る関東軍」はおろか、何らかの指針を当てにした役人も、皆わが身の「少しでも」の安全確保のために、恥も外聞もなく、身内だけで、そそくさと飛び立って行った。住民には露ほどの「情報」も手だても残さず。今更驚くことも、憤ることもない「当然の」姿、彼らにとってはごく当たり前の、自然ななりふりと世渡りテクニックに他ならないのであろう。本稿のしょっぱなに記した、8月9日のソ連の満州侵攻に慌てふためいて、飛行機や特別列車で家族もろ共この地を逃げ出したのが、「泣く子も黙る関東軍」の正体だった。軍隊とはきっとこのようなものなのだろう。その後に続くのが高級官僚。彼らが己の逃亡に手いっぱいで、住民を積極的な犠牲にはしなかっただけで、その必要があれば、住民はいつでも犠牲にされる。彼らの保身のためには。沖縄戦の実態が良くそのことを物語っている。
植民地での戦後のどさくさは、当然ながら「関心は我が身のみ」の本心に、きっと、わずかなりの疚(やま)しさも痛みもないのが、今日の、わが身の欲得にのみ恥も外聞もない政権トップたちの、あられもない姿に明らかなのだろう。今更驚くことも、憤ることもない「当然の」姿、彼らにとってはごく当たり前の、自然ななりふり、遺伝子的に受け継がれ、古くから染付いて脈々と受け継がれてきた本性と世渡りテクニックに他ならないのか?
かつてのお隣のお姉様方、ごきげんいかがですか?相変わらずの、ぬくぬくの現状にご満足でしょうか。かつて、時には零下30度にもなる満州の凍土に打ち捨ててきた同胞など、片時たりとも瞼に蘇ることなどなかったでしょう。お姉様方と、ご一緒にゲームに興じた時間と思い出を共有しなくてよかった。クワバラクワバラ。ごきげんよう。