『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**赤い夕陽⑳ 閑話休題**<2018.5. Vol.100>

2018年06月29日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑳ 閑話休題
敗戦前を少しさまよう あの頃の隣人と級友

三橋雅子

 戦前は隣組というのがあって、隣近所と無縁に暮らすことは出来なかったが、我が家は最低限の回覧板を回すことくらいで、熱心なお付き合いはなかったらしい。特に一番近いお隣さん、岸信介邸に私は一度だけ回覧板を持って行って門越しにお手伝いさんに渡したことがあるが、以後ずっと岸邸への回覧板は使用人の役目だった。道を隔てて反対周りは、依然として私の役だったが。「大の役人嫌い」の父の采配か?岸氏は当時、満州国の重鎮官僚?門の前に横付けされた車への出入りだけで拝顔の機会はなかったが。それは我が家の父とて同じで、それも以前のように、馬車の送り迎えだった時は、私は好物の人参で馬の鼻づらをさするのが楽しみだったが、やがてフェラーリやダットサンになってからはその楽しみもなくなって、味気なくなった。この黒いダットサンが、またまた私は大の苦手、あのガソリンの匂いで、「お出かけ」は益々は憂鬱になった。

 岸家の二人のお姉様(その一人が安倍現首相の母君か)は父親似のひょろ長ーい顔のお嬢様達だった。それを思い出したのは、60年安保闘争の時、「岸タイジーン」を叫ぶ、あちこちのプラカードの似顔絵が、岸家のお姉さまたちによく似ていたからだった。やや懐かしくも、おかしくもあった。現首相は父親似か?あのお姉様達に全然似ていない。

 同年齢の大きい姉達とは、違う女学校だったこともあろうか、下の姉は同じ女学校の後輩だったにも拘らず、岸家のお嬢様達と交わることはなかった。わざわざ道を隔てた向かい側の、岸家と同年齢のお姉さまたちとは始終行き来して、クリスマスやお正月には、いろんなゲームをして過ごした。一番近かった岸家の令嬢たちとはおしゃべりすら、したことがなかったのは、単に相性が悪かったのか?父の差配でも働いていたのか訊き損なった。

 1945年8月9日のソ連の宣戦布告で新京の町が混乱のるつぼになった時、何時の間にお隣、岸邸が空っぽになったかは知る由もない。恐らく、関東軍がもぬけの殻になるより先に、であろう。間もなくソ連の進駐軍が侵攻してきて、界隈では真っ先に我が家が接取されて追い出されたが、既に空っぽだった、お隣の岸邸が将校達の住処になったのは、ずっと後のことだった。何で、隣が空き家なのに……うちが追い出されるの?と私は憤懣やるかたなかった。当時の官邸は、今日のそれのように(?)豪華なものではなく、誠に質素な「官僚にふさわしい」ものだったのか?我が家が少々派手すぎたのか、「とんがった青い屋根のハイカラな家」は目立ったらしく、界隈で真っ先に「追い出し」の標的になって、言葉も通じず事情がわからないまま荷物を放り出し、行く先の当てもなくボウ然としていた。その時、やたら「ブイストラ、ブイストラ」とお尻を拳銃で突つかれ、せかされた忌まわしいセリフが、軽食屋ビストロの由来だということを知ったのは、ずっと後の事。そもそも第二次大戦後のドイツで、ソ連兵たちが「早く何か食わせろ」と「ブイストラ、ブイストラ(はようせい)」とわめきながら入ったのが軽食屋だった、それでそういう店が、ブイストラなまってビストロとなった、とか言われる。

 更に脇道へ行くと、「逃げ足早かった関東軍」で思い出すのは、同級生だった山田乙蔵大将、関東軍総司令官の孫娘、Y嬢である。この敗戦の年の五月か六月頃、私のクラスに彼女が東京から転校してきた。こちらにとっては、当時多かった東京からの疎開組の一人、ただの転校生としか思わないが、なにやら外野が物々しく、担任の先生の緊張振りと張切り方もおかしかった。四年生の、我が三組に入ってきた彼女は中くらいの大きさで真ん中へんの席だったが、ちびで一番前の席だった私がその隣に席替えさせられた。「級長の隣」が必要なら、彼女が私のそばに来ればいいじゃん、というのが私の思いだったが。この不満も含めて夕食の席で報告すると、滅多に夕食を共にすることがない父が珍しくその日は同席していて、私の何気ない報告に、「うーん、山田乙蔵の孫か……」と箸を置き、腕組みして考え込んでしまった。その重い反応に私の方がやや驚いた。空襲の危険からの疎開という、東京からの転校生は当時多かったが、関東軍総司令官の身内となれば、満州の安泰に余程自信がなければ……というのが父の思惑だったに違いない。本当に関東軍は、「満州はわが軍が居る限り、『盤石の砦』」と思っていたのだろうか?カモフラージュで 孫娘を手元に?とも思えぬやり口を前に、父は腕組みして、さまざまな思惑に耽ったたらしい。

 子供の社会でも、否、だからこそか?早くも「取り巻きグループ」的なものが形成されて、彼女は「お姫様ぶり」を発揮し、かなり傍若無人な振る舞いをしていた。隣に座らせられて「お世話係」の筈だったのかどうか、私はご機嫌を取るどころか、彼女の不当なわがままをいさめる側だったので、彼女は恐らく、けむたかったにちがいない。彼女が自邸の関東軍総司令官のヤカタに級友を招待することになったとき、きっと私の扱いに悩んだ筈だが、「級長をご招待する」ことの利を、小さい頭でひねり出したのか、私も「取り巻き達」と一緒にご招待にあずかることになった。私は彼等と共に、広い官邸の門から長ーい道を上って行った。「ワアーHさんち(私の家)より広ーい」などと皆口々に言うのを「当たり前じゃ、『泣く子も黙る天下の関東軍』の総司令官邸じゃないか、我が家の比ではないはず」と私はボヤキながらついて行った。広い官邸を走り回り、探険した後に出てきたお八つの豪華さに、また皆は度肝を抜かれた。これにもまた、私はヤヤ驚く。我が家での友達に出すお八つに、母はかなり神経を遣って、酒保(兵営内・艦内にある兵士相手の日用品・飲食物などの売店。)からの豊富な「甘いもの」など出しひかえて、「内地からのさつまいも」のふかしたの、などを出すようにしていたからだった。これはもちろん、「あそこはツテあって、今時貴重な甘いものに事欠かない」などという非国民呼ばわりを配慮しての事だった。ここでも私は、そんな我が家での気遣いなどはどこ吹く風の、「何をやってもいい、さすが『泣く子も黙る関東軍』」と、その威力を感じたのだ。

 間もなくの、突然のソ連の宣戦布告に、関東軍はどれだけ寝耳に水で慌てたのか、ある程度の予測をしていたのかは知る由もないが、少なくとも、この稿のしょっぱなに書いたとおり、彼らの半端でない「慌てぶり」からは、関東軍のノーテンキな構えが窺われる。少なくとも、北からのソ連の侵攻は予想図になかったのではないか?安泰を装うカモフラージュではなかった筈の、総司令官が呼び寄せた、お孫様の姫君も、予想が外れての慌てぶりで、いち早く内地行きの飛行機で飛び帰ったのではないか?

 こうして、繰り返すが、安泰の筈の満州が、未曽有の不安と混乱のるつぼになった時、頼りにすべき、「泣く子も黙る関東軍」はおろか、何らかの指針を当てにした役人も、皆わが身の「少しでも」の安全確保のために、恥も外聞もなく、身内だけで、そそくさと飛び立って行った。住民には露ほどの「情報」も手だても残さず。今更驚くことも、憤ることもない「当然の」姿、彼らにとってはごく当たり前の、自然ななりふりと世渡りテクニックに他ならないのであろう。本稿のしょっぱなに記した、8月9日のソ連の満州侵攻に慌てふためいて、飛行機や特別列車で家族もろ共この地を逃げ出したのが、「泣く子も黙る関東軍」の正体だった。軍隊とはきっとこのようなものなのだろう。その後に続くのが高級官僚。彼らが己の逃亡に手いっぱいで、住民を積極的な犠牲にはしなかっただけで、その必要があれば、住民はいつでも犠牲にされる。彼らの保身のためには。沖縄戦の実態が良くそのことを物語っている。

 植民地での戦後のどさくさは、当然ながら「関心は我が身のみ」の本心に、きっと、わずかなりの疚(やま)しさも痛みもないのが、今日の、わが身の欲得にのみ恥も外聞もない政権トップたちの、あられもない姿に明らかなのだろう。今更驚くことも、憤ることもない「当然の」姿、彼らにとってはごく当たり前の、自然ななりふり、遺伝子的に受け継がれ、古くから染付いて脈々と受け継がれてきた本性と世渡りテクニックに他ならないのか?

 かつてのお隣のお姉様方、ごきげんいかがですか?相変わらずの、ぬくぬくの現状にご満足でしょうか。かつて、時には零下30度にもなる満州の凍土に打ち捨ててきた同胞など、片時たりとも瞼に蘇ることなどなかったでしょう。お姉様方と、ご一緒にゲームに興じた時間と思い出を共有しなくてよかった。クワバラクワバラ。ごきげんよう。

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『みちしるべ』**【生きていて本当に良かった!】**<2018.5. Vol.100>

2018年06月28日 | 平出正人

【生きていて本当に良かった!】
――帰って来た酔っ払い――

道と環境の会 平出 正人

 古い資料の整理をしていたら机の奥から、2000年9月12日(当時私は40歳)の総合検査報告書が出てきました。

 ちょうどその日は急性肝炎で尼崎市内の近藤病院に入院した日でした。 検査報告書には、肝臓の状態を表す数値として血液検査項目のGOTが25300・GPTは10870と記載されていました。

  この恐ろしく高い数値がいかがなものなのか、当時の私にはまったく理解できなかったのですが、マジ苦しくて死にかけていました。医療関係に詳しい人に聞くと、「生きているのが不思議、いつ死んでもおかしくない数値。」だとか! しかし、悪運の強い私は多くの方々に励まされ、医師の懸命な治療により、どうにか死の淵から生還することができました。 ただ、何故突然こんなに数値が上がったのか原因は未だにわからないままです。

  約1ヶ月半の入院期間中、「日々、病室に顔を見せて大丈夫かと励ましてくれた先輩」、「病室を呑みに行く待ち合わせ場所にしていた不届き者(病院が国道2号線沿いにあり、目と鼻の先が飲み屋街。)」、兄貴夫婦と田舎から見舞いに来たお袋。そのお袋は私の顔を見るなり「お前の亡き骸(?)に供えようと早朝から巻き寿司を巻いて持ってきた!」と……。まだ、あの世の手前で踏み止まり、この世を彷徨していた私。兄貴、お袋に俺の病状をどんなふうに説明したんや? そして極めつけは、「平出さん、これが美味しいんですわ! 冷やして呑んで下さい。」と誇らしげに冷酒の詰合せを持って見舞いに来てくれたS君。何考えてんねん、俺は急性肝炎で緊急入院してるんやぞ!。

 今でも当時を思い出すと腹が立つやら噴き出すやら、思わず目頭が熱くなります。あれから18年、 今は阪神医療生協で定期的に健康チェックを受けています。驚くなかれ、コレステロ-ルが少し高いぐらいでその他は正常値です。“三途の川”の手前で初めて気付いた健康であることのありがたみと友の優しさ、思いやり。つくづく生きていてよかったなと思いつつ、今も当時と変わらぬ愉快な仲間に深く感謝しています。

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『みちしるべ』**私の「つぶやき」(私のtwitterより)**<2018.5. Vol.100>

2018年06月27日 | 単独記事

私の「つぶやき」(私のtwitterより)

A.S.

女児遺棄事件。やはり変質者の計画的な犯行だろう。

毎日の時間の立つことの速さは、何に例えよう。もう正午。 昨日買っておいた草餅でも食べよう。

米朝トップ会談は中止となった。米韓の合同軍事演習が不満と。約束履行できないお国がらでしょうか。

昨日、暑い中、汗かいてコラーゲンを買いに行きました。腰痛対策です。

吉本喜劇の辻本茂雄さん、ギャグの積りでしょうが、怒りを露わにしないほうが貴方の顔にふさわしいですよ。

twitter読んでたら眠たくなりました。多様なツイッターがあり、疲れます。

娘にもらった鉢植えのミニイチゴ。今朝の朝日を浴びてしぼんだ。ゴメン!

国は1,000兆円の借金があり、国民一人当たり換算すれば980万円に相当すらしい。 何れ、どういう形で精算されるのか。増税の一方、歳出をしぼり、国民生活は貧しくなるでしょうね。明治時代に戻ろう。

キムジョンウンさんは「日本は、何故直接言って来ないんだ」拉致の事でしょうね。事案は、小泉総理の時代から強く言い続けているんではないでしょうか。

コカコーラさんも、容器を瓶にもどして、廃プラし、地球を綺麗にしよう。

プスチック製品が海底、山上、気中と地球いたるところに散乱している。廃棄ゴミとして中国では輸入禁止した。行き先を失った大量の廃プラ対策は危急を要する。昔、醤油などは木製の一斗樽から量り売りしていた。昔に返ろう。

薬屋さんが、外国の薬品会社を6兆円で買収。自社による資金なのでしょうね。やはり「薬九層倍」と言われてきたように、大儲けして来やはったんやわ。

立憲民主党に11名参加? 党の綱領を少し読んだが、総花的な文言が目立つ。唯一具体的なのは「税金の使い道を精査」なら、良しとしよう。が官僚に勝てるか。

キムジョンウンさんは「核兵器を米国に打ち込む準備がある」と言ったが、実は恐ろしくなって、二回も中国を訪れ、習さんにとりなしをお願いしたのでしょうか。ま、この事によって暫時人類の滅亡は回避されそうです。

TVの6CHでTOKIOのコメンテーターの録画見ている。連日、仔細の説明、食傷気味。

ハリル監督さんは、TV向けにはベンチから激しいジェスチャーで選手達を鼓舞していたが、はたして意志は伝わっていたのだろうか。

【5/16~5/1のtwitterより 書いた順番は上が新しいもの】

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『みちしるべ』**ウズベキスタンの道路・自動車事情他**<2018.5. Vol.100>

2018年06月26日 | 川西自然教室

ウズベキスタンの道路・自動車事情他

田中廉 

 今年4月、旅行社のパック旅行で7泊8日のウズベキスタン旅行を楽しみました。目的はチュ-リップをはじめとする園芸植物の原種を自然状態で見たかったからです。以下、5日の間に垣間見た町・郊外の様子です。

 ウズベキスタンは旧ソ連邦の共和国でしたが1991年に独立。中央アジアに位置しカスピ海の西側で北はカザフスタン、南はアフガニスタン等と接し、国境を接する国全てが内陸国という二重内陸国(世界に2国しかなくもう1国はリヒテンシュタイン)です。シルクロードのちょうど中間点に位置して栄えた地域で、また、チム-ル帝国の中心だった国です。人口は2800万人で約80%がウズベク系で、ロシア系・タジク系が夫々5%弱で他に朝鮮系・タタール系などが暮らす多民族国家です。

 朝鮮系の人は旅行中2組出会いました。一組は娘さんが大学の医学部に通っているという母親と娘さんで、もう一組は観光地で音楽が流れた時にそれに合わせて踊り始めた中年の女性二人で、よっぽど調子のいい曲なのか我々の現地ガイドさんもそれに合わせて踊っていました。朝鮮系の人たちはもともとロシア沿海地域に住んでいましたが、スタ-リンにより中央アジアに強制移住させられ、中央アジア中心に50万人ほどがいるそうです。(ウズベキスタン20万人、カザフスタン10万人、ロシア10万人他)

1.自動車・道路事情

 自家用車は都市部では90%程がシボレ-です。理由は簡単です。ウズベキスタンでは国内産業保護で国内生産されている車の競合車種の関税が100%と高く、国内生産しているのがシボレ-(もとは韓国の大宇)だけだからです。次はソ連時代の車(Lada)ですが、田舎ではその比率は高くなります。荷物を運ぶのに便利だそうです。フラワーハイキングの起点となった山麓の村では、ほとんどの車がLadaでした。その多くはかなり古い車ですが、時折新しいLadaも走っていて、それなりの人気はあるようです。

 バスは中国製が多く、私たちが乗車していた大型バスも中国製で、車体に「金竜」と書かれていました。現地ガイドの話では、数年後には欧州の会社との合弁会社がバスの国内生産を開始するので、バスの関税は倍以上に跳ね上がるだろうとのことです。トラックはいすゞが現地生産をしており、「ISUZU」マークのトラックはよく見かけました。フラワーハイキングで大型バスが入れない時にステーションワゴンを使用しましたが韓国製でした。昨年はトヨタ車を使用したところ、大き過ぎ入山の許可が出なかったそうです。どちらも中古車として輸入されたそうです。

 タクシ-も都市部では日本並みの頻度で見かけますが、郊外では乗合タクシーが主力です。乗合タクシーはフロントガラスに行き先(たぶん)を手書きしたダンボ-ルが立てかけてあります。それとヒッチハイクも盛んで、タシケント郊外では若い女性を含む多くの人が道路わきに立ち車を止めていました。いくばくかのお金を払い乗せてもらうそうです。サマルカンドで道路わきに立ち手をあげて車を拾っている若者がいましたが、すぐにタクシーを含め色々な車が寄ってきて彼と話をするとすぐに去ってゆきます。たぶん行き先か、料金が折り合わなかったのでしょう。結局10台以上が寄ってきましたが交渉成立とはいかなかったようです。

 乾燥した土地で埃っぽいのでサマルカンドでは早朝、散水車が道路に水をまいていました。長距離バスでは運転手は2名が義務付けられているそうで、私たちのバスも2名が乗車していました。しかし、運転するのは同じ人でもう一人はアシスタントという感じでした。5日間で見かけた日本の乗用車は緑色のプレートのカムリ1台だけでした。プレートが緑色というのは外国企業の車だそうで、多分日本の企業の車なのでしょう。

 日本企業は16社(2014年)で長期滞在の日本人は117名(2013年)です。ウズベキスタンは発展途上国というイメージがあるかもしれませんが、つい最近まで飛行機の生産が行われていました。第二次大戦中、ドイツの攻撃を避ける為100以上の工場がモスクワからウズベキスタンに移されたそうで、それを基礎に技術が維持されていたそうです。が、独立後、技能者は高級を求め海外に移り、少し水準が下がったそうです。

 幹線道路は片側2車線で舗装され、まずまずの状態ですが、田舎道はひどいです。一応舗装されているのですが、補修されていないので凸凹でノロノロ運転で曲芸のように穴を避けながら走ります。中国・韓国が共同で西部の観光都市からサマルカンドまで、高速道路の建設が計画されているそうですが、途中の都市まで完成したが、そこからサマルカンドに向かう工事は今中断しているそうです。

2.素朴な子ども達

 子どもの多い国です。観光地には先生に引率された子供たちが「うじゃうじゃ」と表現したくなるほど大勢います。小学校高学年か中学生程度になると携帯を持った子供も多く、日本人が珍しいのか一緒に写真を撮りたいとジェスチャーでアピールしてきます。OKをするとグループの5~6人がわっと集まってきて、しかも自分の携帯に撮りたいので次々と交替して、なかなか終わりません。

 歳は関係ないようで後期高齢者で白髪であっても人気は同じです。「一緒に写真」は子供だけでなく、おばあさんや若い女性からも頼まれることが多々ありました。私は数人のうら若い女性から声をかけられ、何か一生分の「モテ運」を使い切った感じです。ガイドさんに聞くと「白人は大きくてこわそうだが、日本人は自分たちと同じ程度の背丈で顔も怖くなさそうなので人気がある」との解説でした。そういえばヨーロッパからの観光客も多くいましたが、余り「一緒に写真」の風景はありませんでした。タイからの観光客もいましたが、彼らも良くもてていました。アジア人が良いのでしょう。大人も、子どもも親しみやすい人たちでした。

3.言葉

 中学生らしき若者から2回、英語で話しかけられました。話す内容は2回ともほぼ同じで「英語を喋れますか?」「どこから来ましたか?」「ウズベキスタンを好きですか?」が必ず入っています。「ウズベキスタンの人はフレンドリーで好きです。」と答えると嬉しそうな顔をして「サンキュー」と言って会話は終わります。英語の勉強のために勇気を出して外国人に話しかけたのか、緊張して直立不動で何か微笑ましい姿でした。独立前はソ連邦の一員だったのでロシア語が必須だったのが、今は英語の人気が高まっているそうです。

 フラワーハイキングに出かけるときは、現地ガイド以外に植物の先生(元教師のウズベキスタン人)が同行し、先生の説明を現地ガイドが日本語に訳します。一度、夜に先生の「ウズベキスタンの植物」の講義があったのですが、その中で先生が「ハラショー」と叫んだので、後でガイドさんに先生は何語で話しているのかと聞いたところ、ロシア語とのことでした。専門的なことはロシア語でしゃべる方が話しやすいそうです。たぶん高等教育、特に専門用語の多い科学分野はロシア語で行われていたのでしょう。

 日本では、日本語で書かれた専門書が沢山あり、また専門用語はほぼ漢字で表記しています。考える基礎になる専門書や最新の情報なども翻訳され豊富にあります。母国語で高等教育を受けられ国は多くなく、これは非常に幸せなことです。なぜなら画期的な発見や独創的な発明、アイデアーを出す時に日本語で考えることができます。母国語だから柔軟に、精密に、また、ヒラメキをそのまま生かすことができます。一度英語に翻訳する必要が無いのです。よっぽど英語に堪能な人でない限り、英語で難しいことを考えれば効率は数段堕ちるそうです。こんなことをウズベキスタンでロシア語を聞いて考えました。

4.農業

ウズベキスタンは年間降水量が100~200mmですが地域差が大きく、タシケントでは420mmほどです。昔から綿花の生産が盛ん(アラル海に注ぎ込む川の水を綿花生産に大量に使用した結果、水量が大幅に減りアラル海が非常に小さくなったのは有名な話)ですが、今は穀物や果樹などに軸足を移しています。バスや列車の車窓からはブドウ、アンズ、リンゴの果樹園が多く見られました。特にリンゴは若木の果樹園が多くこれから生産が多くなると思います。

 野菜畑はほとんど見ませんでした。雨は冬と春に降るだけなのでほぼ全ての耕地に灌漑設備が付設されているそうです。乾燥地帯なので隣国との水の争奪戦があり、主要河川の上流であるキルギス、タジキスタンが自国の農業用水確保と発電のために大規模ダムの建設を計画しており問題となっています。ソ連邦の時代は上の方で調整が出来ていたのが独立国同士となり、調整が難しくなったそうです。独立も良いことばかりではないようです。

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『みちしるべ』**東日本大震災から7年目の追悼行事**<2018.5. Vol.100>

2018年06月26日 | 山川泰宏

東日本大震災から7年目の追悼行事

2018(平成30)年3月11日

神戸・心絆 会長 山川泰宏

 東日本大震災から7年目の命日、「ひょうごボランタリープラザ」(主催)と「神戸・心絆」(協賛)は、宮城県名取市閖上地区愛島東部仮設住宅で開催の7年目の追悼行事に、愛島東部住宅自治会からのお招きを頂き、今年も、3泊4日の観光バスでの追悼行事に参加してきました。東日本大震災が東北地方を襲い、その後の大津波で多数の犠牲者や行方不明者を出して7年目の3・11です。

 神戸・心絆(旧神戸・市民交流会)として、東北地方への追悼行事参加への山川が関わってのボランティア活動の履歴を少し書き込んでみます。

  • 2011年3月11日14:46
    M9.0 東日本大震災の発生。その後、大津波による町や村が根こそぎされるような惨状と津波犠牲者の惨状でした。
  • 2011年7月30日~8月2日
    宮城県石巻市 旧北上川 川村孫兵衛翁追善法要
    川開き花火大会及び追悼灯籠流しに参加。
  • 2012年3月10日~12日
    宮城県名取市閖上地区 主催:旧神戸・市民交流会 山川
    閖上中学校1年目の追悼行事、岩手県陸前高田市訪問
  • 2013年3月09日~13日
    宮城県名取市閖上地区 開催:兵庫ボランタリープラザ
                    協賛:旧神戸・市民交流会 山川                    
                                              
    閖上中学校2年目の追悼行事 竹灯籠の追悼他
    宮城県仙台市青葉区勾当台公園 追悼行事
  • 2013年8月15日~18日
    宮城県名取市閖上地区 愛島東部仮設住宅お盆追悼行事
            
            主催:ひょうごボランタリープラザ
                    協賛:旧神戸・市民交流会

    毎年3月、8月訪問しています
    年2回宮城県名取市閖上地区 愛島東部仮設受に
  • 2018年3月10日~13日
    宮城県名取市閖上地区 主催:ひょうごボランタリープラザ

                    協賛:神戸・心絆
    第10回目の愛島東部仮設住宅 7年目の追悼行事
  • 2013年8月
    愛島東部仮設住宅は名取市閖上地区の市民が180世帯の大規模の仮設住宅でした。しかし、7年目の3月現在は40世帯がいまだこの仮設住宅で避難生活を送っている現状です。復興住宅の建設の遅れや、色々な諸事情、行政と被災住民との問題等で東北の中で一番遅れているのかもしれない。しかし、福島原発被災地の汚染地域の状況は又、別問題であります。

 さて今回、7年目の愛島東部仮設住宅の追悼行事で、神戸市西区在住のダウン症の書道家 隅野由子(32歳)と仮設住民と交わりがあり、竹灯籠を用いた追悼行事を一緒に支援協力の機会となり、書の言葉を学ばせていただきました。

隅野由子(32歳)書道家の言葉
【いのち 神様がくれた その人の時間】
【一瞬にして何もかも 流されてしまう 自然の怖さ 命をたくして
                 次のつなげる これが命を使う という事なのか】

 温かみの感じる文字で語られる言葉に、多くの被災者が涙を流しているのを見た時、何気なく語る日常の会話が、これほど人々に喜びと希望の明日に向かう勇気を与えてくれるのを目の当たりにして感動しました。

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『みちしるべ』**2018年4月21日の例会に参加して**<2018.5. Vol.100>

2018年06月26日 | 単独記事

2018年4月21日の例会に参加して

よっしー

 風は少しあるけど暖かかったです。芦屋~神戸に架かる阪神高速(5号湾岸線)と並行している一般道の橋(歩道あり)を渡りました。

 高い所は50Mあります。北に六甲山、甲山。南に海(あたりまえ)です。ちょうど一番高い所まで来た時に、真下を船(中型?!)が橋をくぐっていきました。初めての経験。めっちゃすごい!めっちゃ迫力!めっちゃ壮観!

 少し遠くの海では何艇(あってる?!)ものウィンドサーフィン。全て帆が白でひとつの絵画のよう。近くの海では水上スキーの女性。かっこいィー!気持ちいいやろなあ。よっしーも大昔(20年ぐらい前)やらせてもらったが(スキーではなくボ-ド)、全然立てませんでした。ほぼうつぶせで寝た状態でした。気持ちはよかった……トホホ。

 遠くにタンカーあり。近くに釣り人あり。散歩する人あり。人のいる風景を上から失礼します。

 渡り終えてから阪神高速の橋げたを見た。1995年の阪神淡路大震災の後、補強したというワイヤー。藤井さんいわく、ひとりの人間を糸(普通の縫うやつ)で引っぱりあげてるような感じとのこと。えぇーっ、何それ。意味ないやん!

 午後1:50~2:32、渡った時間。何度も立ち止まり、感想を口々に言い、風景を眺め、写真を撮ったりしたので時間がかかりました。

 参加者は5人。Yさん、Sさん、Fさん、Hさん、Y。橋ですれちがった人、3人。

 その後、今日の感想、今後の活動の事を議題(?!)に交流会をしたのは言うまでもありません。また渡りたいです。

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『みちしるべ』**「第二名神 神戸まで開通」**<2018.5. Vol.100>

2018年06月26日 | 川西自然教室

「第二名神 神戸まで開通」

平田信活

 2018/03/18の午後3時に第二名神(新名神=初めは第二名神だったのに…)が神戸まで開通した。

 翌日3/19の早朝登山の時、何も感じることがなかった。3/20、21は雨で登山は休み。3/22に登った時のことだ。登り始めはいつもと同じだったが、尾根筋に出ると、「ゴォー」と唸るような響きが聞こえる。「ワッ、何だ」というのが第一印象。そして「アッそうか、第二名神がつながったからや」と分かったのだが、岩場までのゆるやかな尾根道を歩いている7~8分の間ずっとその唸りのような音が止まらない。

 岩場に着くと国道173号線にかかる高速道路の高架橋とトンネルの入り口が見える。3/18以前とは比べ物にならないほどの交通量だ。音がストレートに登ってくる。この時、心に「静けさは奪われた」という言葉が湧き上がってきた。「爆音のない静かな夜を返せ」というスローガンは横田基地公害訴訟のものだが、今までも国道の音は、多少は聞こえていたが、第二名神の音はその何倍もあり、途切れることがない。岩場で味わうあの爽快さは奪われてしまったのだ。

 岩場で奥山のかすみ具合を見たり、開発地にシカがいるか双眼鏡で調べる。その間に、キジやホオジロが囀り、言葉で言い表せない自然の恵みを全身で受けていたのに、あの唸るような音でイライラしてきた。と同時に怒りの感情も湧き上がってきた。もしかして、よほどのことがない限り、騒音の無い静かな岩場はもう戻ってこないのだろう。

 尾根道を下る時もあの唸り声はまとわりついてきた。まっすぐ西に降りていく尾根から外れ、南へ下る尾根に入った。ここは第二名神とストレートな位置関係ではないので大丈夫だろうと思っていたが、あの唸り声はやまない。回り込んできて、国道の音、能勢電の音とミックスされ加上され更にひどいように思われた。低い雲に覆われていたという気象条件にもよるのかもしれないが、結局、枝尾根道のほとんどの場所で聞こえていた。

 大和団地の西南端にある田中廉さんの家ではどうか聞いてみたが、音はしないという。また、東畦野の旧「美の坪」の長谷川さんにも聞いたが、「たくさんトラックが走っているのが見えるが、音は聞こえない。家より上を通っているからではないか」という。更に、一番近いうちの檀家さんにも聞いたら、やはり全然聞こえないということだった。

 翌3/23、やはり尾根に出た途端、あの唸り声が聞こえてきた。岩場で休憩する楽しみが苦しみにかわってきた。また一つ、安らぐ場所が奪われてしまった。下る時、インターに向かう交通量が増えて枝尾根もうるさくなったのではないかと思う。きっとNO₂も変化が出ていることだろう。臨時に緊急調査をしてみてはどうだろうか。

 こんな事を書きながら第2名神を利用したら自己矛盾も甚だしいなー。うぅッー

(2018/03/25)

開通後 後日談

 その後、4/21に三木市の吉川に仕事があり、時間的なこともあり車で行った。初めての第二名神体験をしてしまった。平野のお寺から7~8分で川西インター。高速に入って20分ほどで吉川。インター降りて5分で目的地のお寺。なんと、40分弱で着いてしまった。便利!! ああ自己矛盾。

 ゴールデンウィークの5/4?の夕方だったと思うが、知人の車に乗せてもらって、初めて石道を抜けるアクセス道に猪名川町の方から入った。この道を作らなくても、すぐ近くに2本も立派な道路があるのに、六石山の低いところとはいえ切通しになっている。ああ勿体ない。そして、猪名川本流を渡り、左岸側を南下している。目の前、かなり高いところに光の行列が見えた。なんと、第二名神が渋滞しているのだ。カーナビには第二名神がまだ載っていないのに、渋滞の表示が道もないところに出ている。不思議な画面だ。神戸新聞には第二名神ができたおかげで宝塚トンネルの渋滞回数が減ったと効果をアッピールしていた。

 5/29、ゲンジボタルの調査に行く。工事以前の石道は周りを完全に山で囲まれて、通過する車は一切ない。街の灯りは空からの乱反射だけで、暗闇とカエルの鳴き声の静寂の世界で、予定ルートにあった古い用水路はゲンジボタルの光で埋め尽くされ、同時明滅すると曲がりくねった大きな龍が呼吸をしているように見えた。また、7月になると広い水田に数えきれないヘイケボタルがまるでダイヤモンドダストのように光るのを見たことがある。ところが工事が始まってからは一変し、用水路のゲンジボタルは手つかずの所を除いて0に、ヘイケボタルもめっきり減ってきた。さて、今年は、東西方向にバイパスと下りのぼりの高速道2本。南北方向には猪名川町へ抜けるバイパス1本。強烈な光が川や水田を照らし、車のうなり声がカエルやケリの鳴き声とぶつかり合う。もちろんゲンジボタルは激減。7月のヘイケボタルも難しいだろう。数年前までの暗闇と静寂は奪われてしまった。もう二度と戻ってこない。

(2018/06/01)

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『みちしるべ』**砂場徹 えんどうの煮物 阪神間道路問題ネットワーク**<2018.5. Vol.100>

2018年06月25日 | 澤山輝彦

砂場徹…えんどうの煮物…阪神間道路問題ネットワーク

澤山輝彦

 えんどうやそらまめの花が好きだ。畑や家庭菜園に咲いているのを見ると、必ず立ち止まり、その色、形を愛で飽かず眺める。まさに名歌「野薔薇」のごとくにである。そんな野菜として栽培されるえんどうやそらまめではなく、雑草と言われて迷惑植物にされているカラスノエンドウのピンクの花もまた可愛いものだ。春の散歩にそれを見つけるのは無償の喜びである。であるから我が家の小庭に侵入したカラスエンドウは抜き捨てられることもなく天寿をまっとうする。

 花だけではなく、実、豆もいい。スーパーなどで売られている袋入りの甘い煮豆は、おかずよりおやつにして食べてしまう。えんどうの煮物や豆ごはんは旬の物、いいなぁ、大好きだ。シーズンに一度か二度食卓に上がるが、この一度か二度という回数は少ないが、それがまたいいのだ。今年もう一度あるかなぁ、もう来年まで待たねばならないか、もういっぺん食べられるかどうか、そんないやしい期待を持たせてくれるからである。

 阪神間各地で道路公害、道路建設をめぐって様々な反対運動が取り組まれていたのを、それらがいっしょになって、共通の問題意識を持って闘おうではないかと、道路問題ネットワーク立ち上げを計ったのが亡き砂場徹さんであった。当時、川西市には第二名神高速道路建設計画が発表され、自然保護団体である川西自然教室はそれに反対することになった。そこへ、ネットワーク立ち上げの案内があったらしい。川西自然教室のリーダーだった私はリーダー会議の席で、その会合に参加してくれないかと言われ、私が行くことになった。そしてそれが今日まで続くことになったのだ。

 その初会合、日時は思い出せない。「みちしるべ」のバックナンバーを見ればわかるはずだが、どこにしまったのか探しだせないのだ。とにかく日中ではなく夜の集まりだった。砂場さん宅、どこだったかな武庫之荘へ移転される前のお住まいであった。近くから電話をして迎えに来ていただいた。話し合いの後、ビールかお酒が出た。ごはんもいただいたかな。ごはんのおかずだったのか、酒の肴にでたのか、小鉢に入ったえんどうの煮物が出たのだ。好物のこの豆の煮物だけは忘れられない、しっかり覚えている。というのも他にどなたが参加しておられたか、後には分かることになるが、自分では思い出せなかったのだから。砂場徹、えんどうの煮物、阪神間道路問題ネットワークはこうつながっているのだ。

 この五月(2018)大和郡山市にある禅寺、慈光院へ行ってきた。やや強い雨の日であった。そのおかげか私達の他には二人の女性だけという、ほぼ貸切状態の中で国の名勝・史跡に指定されている庭園を眺めながら茶を喫するという、一寸した贅沢を味わってきた。その寺の壮年の僧侶と話をする機会があった。面白かったのは、この僧が自院は石州流という茶道の発祥地であるにもかかわらず、現代の茶道のあり方を批判したのである。その他色んな話が出たが、中でも「この頃は人を家へあげる、招くことがなくなったようだ。会うといえば、どこそこでと外の場を指定するようになった。」という話しにぴんと来るものがあった。そうだ砂場さんとの出会いは砂場さんの自宅で始まったのだ。人を自宅に招く、砂場さんに息づいていた昔気質の一面があったればこそ、今その出会いが、あたかも昨日の事であったかのように思いださせてくれるのだ。あれが近所の居酒屋か喫茶店であればどうだっただろう。うーんと私はうなるだけだ。

 今、私達阪神間では身近に闘争中の道路問題はない。全て負け戦の結果の平穏である。そんな時を予想された砂場さんは、それからの運動のあり方をどうすればいいかなぁ、とよく言われた。こうありたい、ああすべきではないか、と言われても決してこうすべきだとは言われなかった。ただ、お互いに戦列からは離れないでいこう、と言われたことは確かである。

 戦列、今は忘れられかけているが、案外過激な言葉なのではないか。私はこの戦列を様々な方面に繋がなくてはならないのではないかと思っている。ここに阪神間道路問題の今後のあり方が見つかるのである。

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『みちしるべ』**『みちしるべ』100号を記念して**<2018.5. Vol.100>

2018年06月25日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

『みちしるべ』100号を記念して

山手幹線沿道の環境を守る市民の会
                山本寿満子

 昭和生まれの者にとっては、いつまで経っても、今年は昭和何年と数えてしまいます。今や、昭和で言えば93年、平成30年になってしまいました。来年には、又新たな年号に変わっていきます。益々計算が難しくなりそうですね。“笑”

 平成3年、非常に環境の良い私たちの住む北町にパチンコ店が出店するという、実に寝耳に水という問題が持ち上がりました。おとなしかった住民もこれには黙ってはいませんでした。反対運動が始まりました。そこに、翌平成4年道路拡幅問題が一方的に行政から通達され、住民が怒ったのでした。『みちしるべ』には“私の住民運動”として連載して頂きました。

 今から考えれば、よくも154日もテントを張って座り込みをしたものだと、また武庫川河川敷で一晩すごしたことも。又、こんなこともありました。運動を始めて間もなく住民の集会がある夜、小学2年になる息子が腹痛で隣の病院に入院。盲腸といわれ、翌日手術すると言われましたが、集会を欠席するわけにいかないので、息子を一人病院に残して集会に出ました。親としては無茶なことでした。ところが、息子は看護婦さんに浣腸してくれといい、それで直ったと、翌朝退院しました。本当に笑い話です。

 このように色々なことがありましたが、長きにわたって運動を続けられたのは、決して私たち地域住民だけではできたことではありません。ネットワークの皆さんが遠いところから応援にはせ参じて下さったおかげだと思い、感謝の気持ちは誰もが持っています。全くの素人がここまで行政を相手に8年近く戦い続けることは無理なことだったと思っています。

 その間に阪神大震災がありました。北町で21名の方が亡くなられたのです。地域住民も避難されたりして、随分少なくなりました。その上、会長までマンションで水が出ないといって海外の息子さんのところに避難されて行きました。副会長であったので、役員さん達と奔走したことも、今となればいい思い出です。震災から23年、その時の会長もいません。次の会長もいません。第一線で戦ってくれた人達も今はもういなくなりました。寂しい限りです。

 応援団長だった砂場さんもいなくなりました。2人で一人のように走り廻っていた彼女も、去年お盆に亡くなりました。ご主人が先に亡くなられ、気の毒でした。

 最後の市との終結については、多くの関わって頂いた方々全てのお思いを満足させることができたかどうかはわかりませんが、当時の判断としてはやむを得なかったのではと思っています。

 市との話がすべて終わってみると、近くの買収地は大きなお屋敷だったから、広い空き地になってました。市はその空き地をポケットパークに予定していました。私はかねてから小さくても住民が集まれる場所が欲しかったので、市と交渉を始めました。

 しかし、答えはいつまで経っても0か100です。との返事しか帰ってきませんでした。私は友人たちのグループで、ひとり暮らしのお年寄りのへのお昼のお弁当作りをし、配達する活動を平成6年6月から始めていました。最初は代表者の家で料理をしていました。地震でその方の家が壊れてマンションに越された時も小さな台所で、先ずは公園の仮説住宅に避難されているお年寄りに、スープやおつゆを届けました。

 私はこの素晴らしい活動を続けるためにはどうしても、小さくても皆が集まって料理ができる場所が欲しかったのです。個人の家では長く続けるには眼界があります。ねばり強く交渉を続けました。しまいには、部長が言いました。運動の最終の文章に、この建物の件も一文入れておいてくれればやりやすかったのに、って。

 これを建ててくれれば運動を辞める、みたいなことは絶対にできないと、部長に言いました。私はそんな性格ではありませんと。全てが解決してからでないと出来ない話だと思っていましたから。

 同じやりとりが続いて最終的に市が出した答えは、建物の中に環境調査の機械をおいて年間を通じて調査をすると言うことでした。何回も説明会の場で環境調査所を設置するよう要望してきましたが、こんな市道には作れないと言ってきたのに、それを大義名分に建物が建つことになりました。

 一年かかりました。中の設備も調理が出来るように、無理を言っていわゆる集会所の湯沸かしだけのレンジでなく、大きいのを入れて頂きました。出来れば電子レンジが欲しい。欲張りだと思いましたが、市には頼めないだろうから、工事をした建設会社に寄付を頼んで欲しいと市職員に相談しましたら、いくらって言われたので、お金は貰えません。現物を寄付して貰いたいと伝えました。希望通り電子レンジが届き、今も活躍しています。感謝です。

 この建物が出来た暮れに、町内会の役員会で年末の食事会をみんな持ち寄りでしました。その時に今は亡き黒住先生が“山本さん、ここが出来て良かったですねえ。何時になっても帰れって言われませんね”としみじみ言われました。この言葉が忘れられません。

 平成13年11月20日から現在に至って、マザースポットの活動は25年目に入りました。本当に皆様に感謝の気持ち大です。心からありがとうございます。

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2018年6月例会のご案内

2018年06月19日 | 月例会案内

写真は『みちしるべ』90号記念レセプションです。プライバシー保護の為に、加工しています。

 


阪神間道路問題ネットワーク
6月例会のご案内


2018年6月30日(土)13:30~15:30
西宮市立勤労会館 第4会議室(3F)

7月例会のご案内
『みちしるべ』100号記念レセプションとなります

2018年7月16日(月・祝)13:30~16:30
西宮市立勤労会館 第4会議室(3F)
※ 会費はありません。呑み物・おつまみは各自持ち寄りです。

6/18の地震では、みなさん被害は無かったでしょうか? 梅雨の候、6月例会の天気は不安ですが…▼5月例会はS画伯、「川西自然」のT会長、「中の住環境」のN住職、「みち環」HさんとYさん、「西宮山幹」のYさん、それに私の7名の参加でした。『みちしるべ』100号記念レセプションは、上記の通り決まりました。日頃、ご参加頂けていない方にも、お声をかけて頂ければ幸いです▼肝心の100号ですが、みなさんのご協力で、何とか原稿も集まり、6月例会までには何とか配布できそうです。過去の記録等、資料の整理が良くなくて、多少ドタバタしています▼さて、為替相場では未だ米国がGDP世界一ですが、購買力平価では既に中国が抜いています。軍事でも、技術面での露国優位傾向。戦後、唯一戦場にならなかった列強の米国も、「驕れる平家、久しからずや。」というところか。米朝首脳会談が成立し、朝鮮有事は避けられる方向に見えます。日本列島の戦場化が避けられるのかも▼モリ・カケ蕎麦ではありません。もう状況証拠は真っ黒。本当は止めて逃げたいのは、当のご本人かも? 何が頑張らせているのか?▼阪神間では目立たない道路建設ですが、オリンピック目指して、首都圏での建設ラッシュ。道路全国連レベルでは、現在も丁々発止と、当局・住民が渡り合っています▼今後の情勢から目が離せないのですが……(F)

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