『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』道路行政の歴史と問題点 Vol.1**<2003.1. Vol.21>

2006年01月08日 | 基礎知識シリーズ

日本道路史の基礎知識
道路行政の歴史と問題点 Vol.1

世話人 藤井隆幸

1 はじめに

 「道路と都市計画の基礎知識」では、都市計画法と実際の都市計画との矛盾を説明するつもりであった。その為には若干の調査を要するので、尻切れトンボになってしまったが、一応終了ということにしたい。積み残した課題は、次の機会に譲りたい。

 年も改まった事だし、次のシリーズを始めたいと思う。道路問題を大所高所より見直してみる機会も必要である。特に道路行政と対峙している場合、当面の課題に忙殺されて、客観的な視点に欠ける事も多い。そう言った意味で、このシリーズを計画した。

2 日本の道路の歴史を分割する

 今日、幹線道路沿道住民からすれば、日本の道路行政はとんでもない現状にあるのは、論を待つまでも無い。しかしながら、ここに至るまでの道路の歴史を紐解くことが、その解決のカギを握ることになる。古代にまで遡っても仕方が無いので、近代史について概観してみることにする。まず、明治維新の前と後、そして戦後の道路事情を探ってみることにする。

3 江戸時代の交通の特徴

 概観して中世の日本では、歩行による交通が中心となっていたことが特徴といえ、道もそのように形成されてきた。そのことが戦後に爆発的に膨張した自動車交通との矛盾により、西欧とは桁外れの混乱に陥った原因となる。歩行中心の交通体系が遅れの原因となったのではなく、その特徴を生かしきれずに、西欧交通をそのまま導入したところに、問題があったといえるであろう。

 江戸という都市は、当時の地球上では100万人という膨大な人口を抱える、超過密都市であった。江戸の為政者は現代のそれよりも、交通の考え方のうえでは、上位にあったものと思われる。江戸はしばしば大火に見舞われたが、その際、大八車を持ち出して避難した者は、厳罰に処せられたと聞いている。避難路の混乱を招き、そのことが原因の犠牲者を増やしてしまうからである。阪神淡路大震災の際は、長田の街を通過しようとする無益の車の群を、行政は止める事さえしなかった。結果として消火不能状態に陥り、救えた命を大規模に失う事となった。

3-1 政権安定の為に交通は制限

 余談はさておき、江戸時代は政権の安定が最優先され、自由な移動は制限されていた。「入り鉄砲、出女」の言葉に象徴されるように、関所が設けられ、通行の規制が敷かれた。大井川の渡しのように、わざと橋を架けずに通行を制限し監視した。これが日本の道路交通の発展を阻害した一要因となったといえるであろう。反面、地球環境を考えるうえで大切な、地域生産・地域消費の形を形成するのに役立ってはいた。

 現代日本は、何処の駅を降りても同じ風景しか見られないと、欧米人から揶揄されている。どの都市もお決まりの開発をして、全国共通の流通業が支配し、何ら特徴がないことが指摘されている。江戸時代は、その地域の自然環境に適した風土と生活があり、現代社会より環境型社会であったのかもしれない。その事を以って、交通権の侵害を肯定している訳ではないが。

3-2 専ら交通は徒歩が中心

 この時代までの交通は、徒歩が中心であった。馬車交通が中心であった西欧との違いが、後の自動車交通時代に、歩行者と車両を分ける、詰まり歩道を設置するという概念の欠如につながった。行商も荷物を担ぐのが中心で、馬車等の出現は余り見られない。馬車交通が必要でなかったのか、対応する道が無かったのか、本稿では研究課題からそれるので深く研究はしなかった。

 日本古来の大八車や牛車は、必ず1軸車である。祇園祭の山鉾・岸和田の「だんじり」のような山車は、2軸車であるが車軸が旋回するようにはなっていない。西欧の2軸の馬車は、前軸が既に旋回する構造になっていた。その当たりのテクノロジーの差も、日本が馬車交通に依存していなかった現われであろう。

 庶民が旅をするのも、熊野詣・伊勢参り・富士信仰というようなものが多かった。それに対応するように、道は発達したと考えられる。

3-3 参勤交代で街道が発達した

 幕府は軍資金を削る意味と、江戸に人質を置く為に、諸大名に参勤交代を強制した。江戸幕府の長期政権の間、この参勤交代は行われ、その道筋では多くの付き人の行列を迎える事で栄えることになる。宿場街と主要街道がそれである。現代の地方都市の多くと主要国道はその名残と言うべきで、日本の道路交通路の大枠は中世に完成していたとも言える。

 今でも、国道に平行する旧国道筋は、古い家並みが残っていたり、古い石碑などが多く見られる。それらの旧街道のバイパスが繋がり合って、現在の国道が形成されている。その為、街道が中心であり、その両脇に街が形成されたので、国道を囲むように地方都市が形成されているのが、日本の特徴でもある。ヨーロッパのように城を中心として街が形成され、街と街が幹線道路で繋がっているのとは違うのである。

 街の中に幹線道路は通させない欧米人と、街の真中に産業道路を通過させる日本の行政本能との違いが、その辺にあると考えられる。

3-4 物流は水運が担っていた

 日本は周囲が海であった事から、水上交通は発達しており、衰退したとは言え、現代につながる海運大国につながっている。鎖国政策から外洋船の発達は無い(沖縄を省く)ものの、松前舟や紀伊国屋文左衛門のミカン舟(酒廻船)の話は有名である。また、内陸水運も発達しており、近畿では京から大坂を往復する淀川の水運は有名である。江戸も上方も、今は多くが埋め立てられているが、運河が発達していた。木曽川のいかだ流しも、物流手段としては、記録に留めなければならない。

 尼崎に於いても、水路を使っての物流は多くあったと考えられる。戦後しばらくの間まで、岡山方面から尼崎市の西よりを流れる蓬川を遡り、行商の舟が来ていたと聞いている。

3-5 アジア的生産様式の特徴

 江戸幕府は米を租税とした為に、本来、亜熱帯産のコメの水耕栽培が北海道にまで及ぶことになる。コメの水耕栽培は、単位面積当たりの収穫カロリーが極めて高く、高密度人口を支えることを可能とした。今日の農業機械化時代とは違い、水耕栽培は多くの労働力を必要とした。地球人口を考えた場合、水耕栽培を中心とする東アジアの人口密度が高いのと、関連を想起させる。ヨーロッパが牧畜中心であり、極めて単位面積当たりの収穫カロリーが低いのとは対照的である。そして、人口密度も低く、都市における人口限界の概念が発達している事とも、考え合わせると興味深い。

 中世の日本に於いては、多くの労力を必要とし、集団の協力が必要であった。また、その集団の安定度の確保が必要であり、その人々の食料生産も可能であった。牧畜とは反対に、移動を必要としなかったと考えるのに無理は無い。

 こうした人口密度の高い地域に、個人的には融通性が高くても、非常に輸送効率の低い自動車が、その交通手段の中心に座ること事態、日本社会において当初から問題がなかった訳ではないであろう。

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