『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(60)**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月06日 | 横断車道

自動車損害賠償保険。自動車を運転していて、万が一の事故の際、損害賠償を問われた額を補填してもらうものだ。近年、TVでは派手に「わが社が一番安くてお得!」と宣伝している▼最近、万が一を不幸にも経験してしまった。当方、自転車で相手方は125ccのオートバイ。このところの夏のきつい日差しは、日没直前まで、強い光線を放っている。この逆光に、相手方は幻惑され、当方の認識が遅れてしまった。まことに気の毒ではある。当方も、相手方から見られていないなどとは、夢にも思わなかった▼交差点の事故では、よほどのことがない限り、過失責任割合というのが双方についてくる。一見、公平そうで極めて不合理な制度だ。保険会社は支払いを極限まで切り詰めたい。双方、被害者であり、加害者であるとして、双方に賠償責任を問うことで、保険金を支払わなくて済ませる制度である▼理屈は明快。自転車など、1万円もしないわけである。当方の過失責任が1割として、最大、9000円しか相手方保険が下りない仕組みだ。一方、オートバイの修理費が10万円として、1万円を相手方に支払わなくてはならない。「双方、自前で処理したほうが得ですよ。」とは、保険会社の慇懃無礼。病院に通院しなければならなくても、事故外の健康保険のほうが得だということもあるらしい▼何だかんだと屁理屈をつけ、保険金を支払わないのが保険会社の最大の仕事か。保険金の給付率は、何と数10%というではないか。TVコマーシャルとの隔たりを、結果でインチキだと知る。過去に所有した3台の軽4輪と2台のオートバイだけで、1000万円の保険料を支払ったが、1円の支払いも受けなかったのは幸いだったのか?▼「保険は、いざと言う時」庶民はそう思うが、大勢からお金を集めるマネー・ゲーマーというのが実態だ。90年代頃から、アメリカの保険会社が、急速に日本に侵食し始めた。現在、日本の保険市場を凌駕している▼保険会社も必要だし、投機は社会弊害だが、投資は必要だ。ところが小泉構造改革で、投機バクチが進展した。ここで、とんでもない保険業法の改悪がなされた。登山をすると、遭難はつきものである。救出に民間ヘリを飛ばせば、数100万円が必要だ。そのために山岳会は、共済制度をつくった。障害者団体もPTAもしかり。これらの共済の給付率は80~90%である。これをアメリカの保険会社の投機費用に分捕ろうというのが、改悪保険業法である▼資格を取得しなければ、保険料を扱えなくするなど、団体の会費と一緒に集める、ボランティアの排除など、共済つぶしの法律といえる。悪徳共済を取り締まらなかった、政治屋の怠慢をたてに取り、庶民の助け合いをアメリカバクチに売り渡す、まったくの屁理屈である▼保険業の悪徳な裏側を見た思いである。末端で働く保険業者への冒涜でもある。 (コラムX)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』赤い夕陽(2)**混乱のルツボと関東軍**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月05日 | 赤い夕陽

混乱のルツボと関東軍(赤い夕陽 2)

三橋雅子

 真っ先に攻撃、侵攻されるのはこの新京、とあってか、新京駅は疎開の列車に乗り込む人々でこの日から毎日大混乱、夕方には、積み残された人々がぞろぞろと帰宅する、ということでした。それもそのはず、関東軍が、真っ先に家族と家財道具を積んで脱出するために車両を独占していた。とは半藤一利の『ソ連が満州に侵攻した夏』にあります。親が軍の関係者だった友人は、ピアノまで無事に持ち帰っていますから、相当な車両を独占したに違いない。見かねた下級将校が「惨めな居留民や開拓民を捨てて逃げ去るとは何事か」と詰め寄ると「本官らは身を賭して本土防衛の任に赴くものである。」と参謀達は平然と言い放ったという。無論これはペテンもいいところ、列車内には彼らの妻子がいる。決戦場への急行もないものだ。と半藤は述べています。それとも決戦場へ妻子共々赴くつもりだったのか?

 そんなこととはツユ知らず、それどころか新京には、かの屈強な「泣く子も黙る関東軍」がいる、と皆信じていました。

 この時僅かの空席を得て、列車に乗れたのは大の幸運だ、と羨まれながら南へと疎開していった人々が、後に新京へ、身一つはおろか身も心もぼろぼろの難民となって舞い戻ってくることになるのでした。関東軍幹部の家族はもちろん日本へ無事直行しています。飛行機で脱出したグループもあったようです。

 父は動くことに慎重でしたが、やがて家族に疎開を命じます。それは父の会社の、出征社員の留守家族達が幼子を抱えて疎開するのに付き添え、ということでした。父は一人、使用人たちと残ると言います。もしや戻って来るやも知れぬ社員達が、拠所をなくし家族の消息も不明では・・・ということでした。「銃後を守る」責任なのでしょうか?いよいよ母と兄嫁、姉達、女ばかりの一団も背負えるだけの荷物を背負って、出かけることになりました。玄関から、植え込みに沿った長い石畳を歩いて、父が見送る門から出ようとした時、私が突然「行かない、行かない」と門柱にしがみついて大泣きをし始めたのです。

 「お父様と一緒でなきゃ嫌だ」と叫ぶのは、自分でも予期せぬ行動でした。このドサクサの、少なからずスリリングな、非日常の、先の知れない旅に、私はむしろわくわくさえしていたのですから。でも私の大泣きの抵抗に、もともと気の進まなかった大人達は誰一人怒ろうとも、なだめようともせず、それどころか、皆へたへたと座り込んで、荷物を降ろしてしまいました。厳格だった父も、末っ子の私には甘かったせいか、咎めることなくこの旅は中止になりました。人一倍寂しがり屋の父が一番喜んだのかも、とは後の母の述懐です。後々この事件は、私の殊勲功として、我が家の最大の幸運の基だった事件として語り草になるのでした。不安を抱えながら、じっと踏みとどまった事が、難民の悲惨な辛酸を舐める事なく、誰ひとり欠けることなく無事に内地に引き揚げて来られた基だったのですから。

 西宮在住時、小学校の同窓会名簿を見て連絡をくれた西宮の友人と50年ぶりに再会した際、当然この話が出ました。彼女一家はやはり父君を残して新京を脱出の後、再び家路に向かう時のことです。次々と襲う、チャンスを狙って近づいて来る暴民たちに、札束を見せびらかしながら騙し騙し、機を狙う暴民が次第に膨らんできて、ここぞと思う時、お札をほうり飛ばしてそれを彼らが我勝ちに拾い集めている間に、できる限り走って走って逃げる・・・を繰り返して正に命からがら新京に辿り着いた、と言います。あの時の恐怖は忘れられない、と。でも逃げるための餌を持っていただけ幸運で、何もない人たちは着ているものまで身包み剥がれたり、それは悲惨だったと。この時家族と離れ離れになったり、信頼できそうな中国人に預けられたりして、多くが「残留孤児」になりました。

 情報も何もなく、不安と恐怖に脅えて右往左往する住民たちに、日本の「生命線」とされていた満州を守る、かの屈強な、「泣く子も黙る関東軍」は何もしてくれなかった。それどころか、前述のように、わが身と家族を守るために、疎開列車を独占して逃亡することに汲々としたのです。しかしソ連が日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、いきなり満州に攻め込んできたことは、日本の参謀本部ですら寝耳に水のことだったとしたら、関東軍が慌てふためいて、為すすべを知らなかったのも無理からぬことなのかもしれません。そうとは知らず、この関東軍に、混乱する住民達に何かの指示なり救助のすべを・・・と父が怒鳴り込みに駆けつけてみると、2~3人の留守番兵を残して既にもぬけの殻でした。「関東軍が逃げやがった」と激怒して帰宅した父は、自力で何とかするしか・・・と自衛の策を覚悟したようです。
国が笛や太鼓で満州行きを薦める遥か前、明治の末に単身大陸に渡って各地を遍歴した父(お蔭で我が家の兄弟は皆転々と違った場所での出生)は、中国人の友人達に事欠きませんでした。恐らく彼ら、まもなく逆転して戦勝国民となった友人達からの情報が、我が家の「幸運」に欠かせないものだったのでは?とは後に姉達と語り合ったことです。いつの場合も、自分の身を守るのは自分でしかない。(始末が悪いのは、軍隊は、いざという時に守ってくれるもの、と信じていた・・・私達は何回、「お国のために戦った、兵隊さんよ、ありがとう」と歌わされ、これからもがんばって私達を守ってね、と祈って信じたことか、あるいは「国体護持」の為に、国民たるものすべからく協力せよと、国家は、命と物資の供出と飢餓を強要する。なのにいまだに、いざという時、アメリカさんが守ってくれるから、と「安全保障同盟」を盾にしようとする不思議。自国がしないことを一体よその国がしてくれるの?)

 こうしてもっとも安全な筈だった満州の在留民は、情報のない不安な大海原に、行くべき進路も不明のまま放り出されたようでした。大人達が、「祖国」を、どう思っていたのか祖国の実態を知らない私には分かるすべもありませんでした。

変わりなき満州平野に今日も落つ赤い夕陽のゆくえもしれず

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』赤い夕陽(1)**「初めての防空壕」**<2010.7.&9.Vol.65>

2010年09月05日 | 赤い夕陽

初めての防空壕(赤い夕陽 1)

三橋雅子

 65年前の1945年8月9日は、私にとって敗戦日8月15日よりも重い日付。長崎なのではありません。ソ連の対日宣戦布告の日、満州在住者にとってそれは青天の霹靂でした。その事実を知るより先に、初めての空襲警報に方向違いの北の方からの敵機来襲、大人たちが、おかしい、これは何じゃ?という中、とりあえず初めての防空壕入りをしたのでした。内地を知らない、新京(現、長春)生まれの10歳、国民小学校4年生の夏のこと。

 この防空壕は父自慢の、方々から見学に来たデラックスな、馬鹿でかいシロモノ、地下のボイラー室からドアを開ければ壕に通じる道に出、庭をぐるっと築山をめぐって門まで通じている、つまり外に出ないで、家の中から壕に入れて、必要ならそのまま通りにまで抜けられるという大袈裟なものでした。中には腰掛や棚がしつらえられ、当座の食料その他が揃っていました。私はこの中でご飯を食べるのはままごとみたいで面白いだろうな、などと、内地の惨澹たる空襲に逃げ惑う人々には誠に不謹慎ながら、非日常に憧れていました。が、内地と違って空襲は一向に来ない、宝の持ち腐れとは正にこのこと、と言っている矢先の空襲です。いよいよ出番、といささかワクワクしながら、ふだんは使用人しか入らない地下室へ。台所の床をガラガラと開けて階段を降り、ボイラー室を抜けて・・・・と、クダンの壕は水浸しでした。井戸ではないまでも水脈に当っていたのでしょう、ジャブジャブと川の中を進むようで、一番小さい私は屈強なボーイの肩車に乗って行きました。それだけ天井が高い、つまりそれだけ深く掘った、ということでしょう。(父がアホだったのか?)食料などは濡れていなかったけれど、座るに座れない・・・と間もなく敵機はきびすを返して北の空に消えて行った、とか、爆弾1つ落とすことなく、何ともあっけなくも形だけの「空襲」でした。(この後、ソ連がいわゆる日ソ一週間戦争で「ポツダム宣言」受諾後もガンガン攻め立て、日本の戦死者8万人を出し、砂場さんを含む捕虜57万人強がシベリヤに送られ、そこでの強制労働と飢餓で10万人以上が凍土に眠ることになった惨事、はたまた、<別転地、満州>へと駆り立てられて渡った「満蒙開拓団」の人々の悲劇〈推定18万人強〉は、まだ北部辺境でのことでした。〈半藤一利著『昭和史』〉)

 豪華な防空壕の初使用(後にも先にもこれ一回きりでしたが)は、こんな具合でしたが、そんなことより大人達はやがて知る、この日未明の、まさかのソ連の宣戦布告に狼狽、てんやわんやの中で、長崎にまた馬鹿でかい爆弾、広島と同じ手のが落とされたんだって、と<遠いことのニュース>を知るのでした。

 しかし、これを境に満州最大、最新の機能を備えた日本人町、新京特別市が混乱のルツボに化していきます。それまでの、空襲も食糧難もまるでよそ事の「別天地」が、たちまちにして恐怖と混乱の街に急変するのでした。

ながとせを経てもなお我がふるさとに今日も落つるか赤い夕陽

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』斑猫独語(41)**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月04日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<「世界街あるき」を見て>

 ご存じの方もおられるだろう、「世界街あるき」というNHKテレビ番組がある。名所旧跡の多い由緒ある街々が紹介される番組なのだが、単純な名所旧跡めぐりをするのではなく、そんな街の大通りから一歩入り込んだ裏道を通ったり、そこから続く路地へ入りこんだりして、そこに生活している人々と出会い、彼等の日常の一端を映し出してくれるのだ。出会った人と、挨拶を交わし、分からない事を尋ねたり、時には出会った人の家に案内されたりもする。人間っていいなあと思う。私はこの番組が大好きだ。でも重大な事件が発生した時には特別番組が入り今週は休みとなったりする。いい番組なのに残念である。この番組約1時間を削ったからといって、重大事件と世間の動向に何ら影響はないと私は確信しているが。

 この番組を見ていると、私はつい自分の住んでいる街と比較してしまう。その国の歴史・文化の異なりはもちろんあるから、全てをこの番組を見ただけで比較してしまうのは誤りを生むだろう。そもそも、世界街あるきの街と私の住む川西市などとは格が違うのだが、それでも人間の住む環境というものに視点をおけば、町並みのあり方や街路樹の樹形などは格と関係なく、比べ、優劣を判断したってかまわない。日本柔道は世界選手権試合において無差別級を設定したし、大相撲はどうだ。日本人が編み出した格(体格か)の違いで逃げないという考え方が実施されているではないか。

 世界街あるきを見ていて気がつくのは、ほとんどの街の緑が豊かであることだ。街路樹がきれいだし、公園の木々は大きく枝をはり木陰で人々はくつろいでいる。それに比べて私の身近にある公園や街路樹の貧相なこと。公園の木々はむやみやたらに剪定され、木陰のほしい季節になっても影をつくる枝葉がないのだからどうしょうもない。街路樹は落葉が迷惑だとこれも伐られたり、およそ街路樹には不向きな樹が植えられていたりする。町づくりと言う言葉は盛んに使われ、いろんな調査もされているようだが、緑豊かな木陰のある街、ゆっくり歩くことが出来る町、という発想は出ていないようだ。どうも車が全てのような考え方に導かれているのではないかと思えてしかたがない。落葉は車の走行には無いほうがいいし、車に乗って移動し用事を済ましている分には街路に木陰が有ろうと無かろうと、どうでもいいのである。車にとっては緑の垣根の一寸した道路へのはみ出しも気にいらないのだ。自治会が世話をやいて伐ることをすすめたりする。どうもこの辺の人間は環境だとかエコだとかCO2削減などと言いながら、だまってそれをしていてくれる樹や緑に、その気でもって対応していないのである。どこもかしこも日本中がそうだ、とは決して言わない。見事な街路樹の並木を持つ町はたくさんある。東京は大都会だが、大阪に比べ緑が多い。新幹線で東京に入って行く車窓の風景をも見ていればそれはわかる。石原慎太郎東京都知事はその言動に問題の多い人であるが、街路樹を増やそうという取り組みをしているのはいいところである。年に一度か二度だけ東京へ行く私がこれを知る事が出来るのに、私がほとんど全ての時を過ごしている兵庫県、川西市で兵庫県知事や川西市長が緑の街作りをしよう、街路樹を増やそうなんて言っているのを聞いたことがない。もし私だけが聞いていないのなら、「年とって耳遠なりましてな」と逃げますが。

 川西市での話だが、役所の事なかれ主義が木を伐ることもあるのだ。相当風の強い日があった。そんな嵐のような日の置きみやげで公園のヒマラヤスギが一本倒れていたのだ。そこで川西市は、ヒマラヤスギは根の張りが浅いから倒れる、人が下敷きになったら市の責任だ、そんなことが起きないようにヒマラヤスギを短くしてしまえと、あちこちの公園のヒマラヤスギを伐り縮めたのである。その樹の横にあるはるかに背の高いポプラはそまま放ってある。ポプラは倒れなかったからだ。

 樹を倒すほどの風が吹きまくる時に公園をうろうろする人はいるだろうか、私はそんな人はいないと思うのだが。こういう役所の事なかれ主義は様々な面でとられている。アメリカ型なんでも訴訟主義に感染した日本では、訴訟に対応するより、こうして逃げで防御しておく方が楽なのだろう。情けない話である。

 今、ギリシャが破産する危ないと言われている。私の日常生活にも何か何処か知らない所で影響があるのかもしれないが、今のところ何も気になることはない。そんなギリシャはオリンピック発祥の地だ。アテネオリンピックは何年前だっただろうか。私はテレビでマラソン競技を見た。レースを見る楽しみはもちろんだが、コースの町並みが見たかったのだ。出発地とゴールのある街の中心部はまあ大都会の風景だったが、一寸町はずれになると、大阪市大正区や港区、此花区のどこか場末風の風景が現れ、私は既視感を持った。こんな既視感を持つ私の遺伝子は緑豊かな街路にあこがれるのである。私の遺伝子は突然変異でも起こらない限り、延々とそんな既視感を内在させ続け、緑を希求するのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』街を往く(其の六)**せますぎる病室の大部屋**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月03日 | 街を往く

街を歩く(其の六)せますぎる病室の大部屋

藤井新造

 今年の4月下旬より5月中旬まで、上向結腸癌の手術のため西宮の県立病院に入院するはめになった。

 7年前に右肩複雑骨折修復のため、2週間余り芦屋市民病院に入院したが、その時以来のうれしくない体験である。その時入院していて、看護師をはじめ職員の言葉使いの丁寧さに感心したものだ。そこまで丁寧に言わないでよいと感じたことがある。

 例えば「今から血圧をはからせていただきます」の場合、「今から血圧をはかりますから」でいいのでないかである。そこまで敬語に近い言葉使いをされると、何となくこちらの気持ちの落ちつき具合が悪い。

 それにしても、ずい分この間医療従事者の言葉の使い方がよくなったとつくづく思う。

 私自身、30年余小さい医療機関に勤務していて、患者に対し、自分では無自覚で、不用意な言葉を発したあと、反省することが多にあった。私だけでなく、患者に対する職員の言葉使いの「悪さ」について、仕事上問題があると疑問を感じることがあった。

 普通はそのことを職員にストレートに注意すればいいのだが、注意するのが難しかった。又、難しい場合もある。

 職員に対し、私の注意の仕方が悪かったせいか、言葉使いを注意すると大抵の看護師は辞めてゆく。彼女ら(彼らも)は、次の職場を探すのにさして苦労しない。私が辞めた10年前、まだ売手市場であった。固い言葉で言えば、横断的労働市場があり、さして労働条件が変らないで再就職ができた。

 だから、言葉使いを注意して辞められると新聞広告をだし、職員を募集しなければならない。これに字数にもよるが1回(3日間連載)につき40~50万円の経費がいる。そのことを考えると小さい医療機関では、なかなかふんぎりがつかず、ぎりぎりの選択のすえ注意するかどうかの決断をする。

 話をもとに戻すと今回の入院は16日間要した。入院していて1番困ったことは、夜なかなか寝つかれないことである。4人部屋なので誰かが鼾をかく人がいれば困る。それも隣りのベッドにいる人の頭と私の頭の距離は、カーテンごしにわずか30~40cmである。お互いの鼾のみならず、呼吸する音がまじかに聞こえるわけである。

 特に、私は数年前から小さい地下室の1隅にベッドを置き寝起きしている静かな環境にいるので一層困る。

 理由は、私のあい方が私の鼾で眠られず睡眠不足により体調を悪くしたので、地下室に引っ越した。幸いガレージが広かったので、そのことが可能になった訳であるが……。

 鼾をかく人がいれば他の人は我慢するしかない。そういうことで、誰しも入院生活で経験する睡眠不足を味わう。もう一つ困ることはプライバシーの保護がないことである。

 個室に入りたいが、金銭のことを考えると4人部屋でこれも我慢するより仕方ない。次に困るのは、7年前も同じであったが、急患が夜間に入室してくることがある。例えば4人部屋で1人空室になっている場合、必ずと言ってよく入室する。他の部屋がガラガラで空室である場合にもある。色んな事情があり入室することは、それなりに理解できるが、こちらはやっと寝ついた所でまた起こされるのはちょっとつらい。

 こちらも病人であることを考えて欲しい。一方的な私の言い分であるが、何とかならないものか(改善の余地が)と、今回も感じた。

 その次に、私だけかもしれないが、私の場合血管が細く点滴の注射針が入りにくい。5日間点滴を持続して打っている時、夜間に漏れる時がある。看護師が交互にきて針を入れてくれるが、なかなかうまく入らない。あとで考えてみると、こちらも緊張していて、相手(看護師)も緊張し、一つの悪循環におちいり、ことはうまく運ばないことに、結果としてなった。

《かばんのなかにいつも1冊の本を》

 さて、退院してわが街芦屋に帰ってくると、駅前(JR芦屋駅・阪急芦屋川駅)に《かばんのなかにいつも1冊の本を》(芦屋市・芦屋市教育委員会)と書いた大きい横断幕がかかっている。

 読書週間の標語らしいことが、その場では理解できず、後になってわかる。

 43年前、この市に転居した時、市のスローガンは《国際文化都市》なる輝かしい文字が見受けられた。それがいつのまにか《庭園都市》に変わり、この頃、市の広報には《景観都市》なる文言がチラホラみられる。

 それでつまり私は今度は《かばんのなかにいつも1冊の本を》が、市のスローガンになったのかとはやとちりしたのだった。《国際文化都市》なる呼称とは裏腹に、この街は、海を埋めて造成した土地が売却できず、いつのまにか財政事情が悪い都市として全国の中でワースト(4)に入ったことがあった。

 そのツケが市民への福祉後退となり、老人パス券の無料もなくなり(3年まえより、半額支給として復活する)、《国際文化都市》なる呼称を使うのはさすがに気がひけ恥ずかしくなり、《庭園都市》(Garden City Ashiya)と呼ぶようになったと推察できる。

 そうであれば、「公園」をもっと整地し、ベンチを増やし、市民が利用しやすい《庭園》を目指して頑張って欲しいものである。

 退院し、静養(?)しながら、そのようなことをつらつらと考え、日頃より市政にもっと関心を持つべきは、私にも言えることだと思った。

《街を歩く》の今回は室内版です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**第36回 道路全国連・全国交流集会(愛知)実施要領<素案>**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月02日 | 道路全国連

第36回 道路全国連・全国交流集会(愛知)
実施要領<素案>

2010年8月20日

テーマ「50年来の交通政策の根本的転換を!!」

1.日時  2010年11月13日(土)13:00~20:00
              11月14日(日) 9:30~16:00

2.会場  労働会館東館2階ホ-ル(名古屋市熱田区沢下町9-7)

3.宿泊  名古屋金山ワシントンホテルプラザ(名古屋市中区金山4-6-25)

4.日程

第1日目(11月13日・土曜)

  • 集合     JR名古屋駅太閤通口を外へ出て噴水近辺集合  12:30
                                         大型バス1台に乗車
  • 現地見学  13:00~15:30   全体司会・・篠原
             ①相生山緑地・道路建設現場(下車見学)
             ②国道23号線(名四国道)と
               名古屋高速4号線建設現場(車上見学)

            ※昼食・トイレは済ませてバスに乗車ください。
  • 全体会    (労働会館)15:30~17:40  司会・・篠原
  • 受付開始    15:30
  • 開会        16:00
  • 現地実行委員長挨拶  大川浩正氏   16:00~16:10
  • 基調報告  全国連事務局長  橋本良仁氏  16:10~16:50
  • 特別報告    16:50~17:30
            テ-マ:名古屋市における微小粒子状物質(PM2.5)
                 研究と汚染状況

            講師:山神真紀子(名古屋市環境科学研究所
                            大気騒音部 研究員)
  • 事務連絡・会場設営準備    17:30~18:00
  • 懇親会・交流集会  司会・・奥村、安達  18:00~20:00
              立食形式、各団体地域からの発言・報告を行う

第2日目(11月14日・日曜)  愛知労働会館

  • 受付開始       9:00
  • 全体会   司会・・篠原   9:30~12:00
  • 各団体地域報告(1団体地域 報告15分以内・質疑5分以内)
               
    途中・・休憩あり    ―8団体を予定―
  • 昼食・休憩     12:00~13:00
              受付で弁当券と引き替えに弁当とお茶を渡します。
  • 全体会   司会・・篠原
  • 各団体地域報告(1団体地域 報告15分以内・質疑5分以内)
               13:00~14:20  ―4団体を予定―
  • 質疑討論 司会・・橋本事務局長、篠原 14:30~15:30
  • 休憩           15:30~15:40
  • まとめの集会     司会・・奥村、古田  15:40~16:00
  • まとめの報告 道路全国連事務局長 橋本良仁氏
  • 次回への引き継ぎ
  • 閉会挨拶     現地実行委員長 大川浩正氏

5.各団体地域報告について

  • 各圏報告数 首都圏・・4  東海圏・・3  近畿圏・・3  中国圏・・2団体
  • 報告時間 1団体地域 20分以内(報告15分以内、質疑5分以内)
  • 報告内容 ①運動の課題、②成果、③これからの運動に生かす教訓
            
    (団体の歴史、運動の経過は報告書で済ます)
  • 報告について、パワ-ポイント、スライドなどの使用可
  • 報告する団体はレジュメと資料の原稿(印刷可能な状態)を提出してください。1団体地域A4判2頁まで横書きとします。1頁目の最初に団体名、対象路線、連絡先(氏名、住所、電話、FAX)を記載してください。
  • 原稿は10月29日(金)必着

6.参加費用

  1. 参加費          1人 2,000円(地元参加者は 1,000円)
  2. 現地見学参加費        2,000円
  3. 懇親会費(夕食を兼ねる)  5,000円
  4. 宿泊費              7,900円
  5. 昼食費(14日)          1,000円

  合計2日間通し17,900円(地元参加者16,900円、但し宿泊なしで9,000円)
   (参考)労働会館会場使用料  38,000×2日-1,000=75,000円

7.集会の位置づけ

1)民主党政権下の道路行政をつかむ
2)道路公害反対運動の経験と交流
3)全国の運動の方向性を議論し確認する
4)公共交通の現状とあるべき交通システム、街づくり政策を提言する
5)愛知の道路公害反対運動の拡大と強化のステップ

8. 当日資料、書籍などの取り扱い

 1)当日配布する各団体地域の運動報告など資料

  • 1団体地域A4版2頁までの横書きとします。
  • 1頁目の最初に団体名、対象路線、連絡先(氏名、住所、電話、FAX)を記載。
  • 印刷可能な状態で事務局に送ってください。
  • 10月29日(金)必着です。
  • 当日受付まで持参も可ですが、なるべく避けてください。

 2)当日販売する書籍など

  • 事前に事務局に連絡。当日の販売、管理はそれぞれの団体でお願いします。

申し込み・問い合わせ先
道路全国連・全国交流集会(現地実行委員会)事務局(担当:今井)まで

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』日本高速道路保有機構の借金に税金をつぎ込むな!**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月01日 | 神崎敏則

日本高速道路保有機構の借金に税金をつぎ込むな!

みちと環境の会 神崎敏則

45年かけて40兆の債務を返済する計画だった

 2005年10月に4つの道路公団は民営化され、東日本、首都、中日本、阪神、西日本、本四連絡、の高速道路株式会社に再編されました。そして、4つの道路公団が保有していた資産(高速道路そのものと総額40兆円の借金)を日本高速道路保有機構が引き継ぎ、45年かけて借金を返済することになりました。

 図①は、借金の返済方法を簡略化したものです。日本高速道路保有機構は、各高速道路をそれぞれ高速道路株式会社に貸し付け、各高速道路株式会社は通行料の一部から借用料として道路保有機構に支払い、道路保有機構はその貸付料収入により、債務を返済することになっていました。

 しかし、この返済方法は計画倒れに終わり、返済に税金が投入されてしまうのではないかと当初から危惧されていました。

道路保有機構の債務に一般会計から約2兆9千億円も注入される

 2007年に道路特定財源を見直し、「道路整備事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律に改めました。この法律により、

  1. 道路整備費の財源の特例措置の適用期間をH20年度以降10ヶ年間とする
  2. 予算編成の段階で、揮発油税等の収入額が道路整備費を超える場合は、その年度は道路整備以外にも当てることができる
  3. 国は、地方公共団体に対し、道路整備事業の一部を無利子で貸し付ける
  4. 高速道路㈱が通行料金の減額などをおこない、高速道路㈱への貸付料の減額をおこなった場合には、道路保有機構のもつ債務を継承する

ことが決められました。

 さらに2008年は、税金3兆円を投入した『利便増進事業』の使途を、「休日1000円」など道路会社による料金割引と、高速道路の出入り口に簡単な料金所を設置する事業に限定していました。

 これらの法律により、H20年度には、道路保有機構の持つ負債のうち2兆8,791 億円分を国の一般会計が肩代わりする形で債務を承継してしまいました。

 H20年度の財務実績を日本道路保有機構はホームページで以下のように解説しています。

**************************************

負債の総額は、34 兆5,630 億円となりました

  • 大半は、①『機構債』(『1年以内償還予定機構債』を含む。)の21兆6,921億円と、②『長期借入金』(『1年以内返済予定長期借入金』を含む。)の9兆1,979億円の、計30兆8,900億円であります(全体の約89%)。
  • 負債の総額は、前年度末と比べて、1兆495億円減少しております。これは、①高速道路利便増進事業を行うにあたり、国の一般会計へ債務承継したことによる2兆8,791億円の減少、②機構債及び長期借入金の償還又は返済による4兆3,030億円の減少がある一方で、③高速道路利便増進事業引当金の新規計上による2兆6,211億円の増加、④機構債の新規調達による2兆9,830億円の増加、⑤高速道路会社からの債務引受による4,418億円の増加等があったことが、主な要因です。⑥純資産の総額は、7兆1,075億円となりました。
  • 純資産は、『資本金』の4兆8,552億円、『資本剰余金』の8,469億円、及び『利益剰余金』の1兆4,052億円の、計7兆1,075億円となりました。
  • 純資産の総額は、前年度末と比べて、6,957億円増加しております。
    これは、①『資本金』が、政府及び地方公共団体からの出資金受入れにより1,272億円増加し、②『利益剰余金』が、当期純利益の積み立てにより5,690億円増加したことが、主な要因です。

**************************************

 ついに一般会計から堂々と税金を投入して、日本高速道路保有機構の借金を返済することがはじまりました。その額なんと2兆8791億円です。それをなしえたのは、高速道路通行料の「休日上限1000円」や「無料化の社会実験」なのです。世間では「上限1000円」や「無料化」が歓迎されています。繰り返しますが、その裏では税金2兆9千億円もの税金が、かつての道路公団がつくった借金の穴埋めに使われているのです。

新たな高速道路の建設にも税金が注入されるのか

 いま永田町や霞が関で争点となっているのは、道路整備事業財政特別措置法を改正し、車線の増設や既存の高速道路間を連絡する高速道路の新設、改修などにも適用させることです。つまり実質的に新たな高速道路建設にも税金を投入させるというものです。

 無駄な高速道路を造るよりは、ひっ迫している社会保障を厚くすることが求められているはずです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする