『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』道路行政の歴史と問題点 Vol.2**<2003.3. Vol.22>

2006年01月08日 | 基礎知識シリーズ

日本道路史の基礎知識
道路行政の歴史と問題点 Vol.2

世話人 藤井隆幸

4 明治以降の交通の特徴

 欧米列強に開国を迫られ、明治維新を果たすのであるが、国力の圧倒的な劣勢を挽回するのに必死であったというのが事実であろう。江戸時代は武家社会であり、言い換えれば軍事大国であった。兵員数においては欧米列強に勝っているものの、そのテクノロジーにおいて圧倒されていた。富国強兵を旗印に、邁進したのはテクノロジーの吸収であったものと思われる。

 国営の八幡製鉄所(現在の新日鉄)を創業させ、炭鉱を起こし、基礎的国力を近代機械の輸入により実現する。その反面、アパレル産業で外貨を稼ぐ。常に西欧の模倣をし、国力をつける。その背景は富国強兵があり、日清日露戦争に勝利し、植民地争奪戦に向かうようになる。国民の豊かさなど、考える余地の無いところで、交通政策も決まっていったと考えられる。

4-1 鉄道中心の交通

 我国の鉄道は明治5年、新橋~横浜間に初めて開通することになる。それ以来、鉄道建設は進み、明治末には7000kmを越える事となる。しかしながら、道路と言えば特記するほどの進展はなかった。こうして戦後しばらくの時期までの日本の交通は、鉄道が中心となって支えてきた。

 それは現在にも続く鉄道王国である。全国を網羅する鉄道網の、その定時制は世界に誇るものがある。旧国鉄の列車の総走行距離は、1日に月との間を往復するとも言われていた。

4-2 都市部の路面電車

 現在でも19路線に於いて、路面電車は市民の足として活躍している。西欧に於いては、自動車交通の限界から路面電車が見直され、復活を果たしている。その影響もあって、日本に於いても路面電車の復活が提言される時代になってきた。一旦は自動車交通の邪魔者として撤去されてきたものが、ここへ来て自動車交通の限界なり弱点を克服する形で、再浮上している。

 我国においては戦後しばらくの間まで、路面電車はバスと共に都市部の交通の中心であった。そして幹線鉄道の補完交通として、日本の都市交通の中心的位置にあり、最盛期(昭和7年)には65路線に及んだ。戦後の一時期までは、関西圏に於いても大阪市・神戸市・京都市を中心に路面電車が発達しており、その路線系統を覚えれば、市内の何処へでも容易に移動できたものである。かつては、阪神電車の本線も路面電車のようなものであった。

4-3 現在に至る海運王国

 明治以前の物流も海運が担ってきたが、明治維新以降の重工業化を支えてきたのも海運であった。戦後の一時期は、造船業で世界一を誇っていた。島国と言うことで、海上輸送量は今もって世界有数の量を保っている。但し、税制上(タックスへブン)の都合で、商船の船籍がパナマ・リベリアに移されているので、保有船量は決して多くはない。

 外国貿易はともかくも、内航海運においても重厚長大の物資を中心に、海運はその中心を担ってきた。戦後、青函トンネル・関門トンネル・本四架橋により、内航海運の衰退を見る事になるのであるが、必ずしも歴史の必然であったとはいえない。本州四国間のトラック業者がフェリーを望んでも、乗用車がフェリーを離れてはフェリーの経営が成り立たない。フェリーがなくなれば、トラックは必然的に本四架橋を通らざるをえないのである。

5 戦後の交通の特徴

 20世紀に於ける人類の最大の発明は、自動車であるという人がいる。戦後の交通の特徴は、何と言っても自動車の台頭であろう。戦後14万台しかなかった自動車の保有台数は、現在8000万台に及び、不況といわれる今日に於いても、毎年100万台づつ増加している計算である。人々が便利に思い、求めた結果であろうか。世に言う「消費者のニーズ」は、企業側が創り出すモノであるとの考え方が、流通業界では一般的である。戦後日本に自動車を求める「消費者のニーズ」を創り出した者は誰であったのか。

5-1 GHQ指令の道路偏重政策

 戦後の道路行政の方向を導いたのは、何と言ってもGHQであった。連合国最高司令官マッカーサーは日本国政府に対し、道路及び街路網の維持修繕5ヶ年計画を速やかに樹立し、総司令部に提出することを求めた覚書(昭23/11/27)を発した。サンフランシスコ講和条約(昭26/9/8)によって、独立国として道路行政を施行する雛型が、既に占領下に出来上がっていた。

 戦後、廃墟と化した日本にあっても、公共交通網は健在であった。にもかかわらず、自動車交通中心の交通政策(道路網の整備)が必要であったのか。占領軍が先ず求めたものは、厚木~横浜・厚木~横須賀・横浜~横須賀の道路整備であった。そして各地に進駐した部隊間の道路に広がった。彼らはジープで移動するのに不便を感じる程、日本の道路は整備されていなかったのは確かであろう。昭和31年に建設省が招いた、ラルフ・J・ワトキンスを団長とする高速道路調査団(アメリカ)は、「日本の道路は信じ難いほど悪い。道路は無い、あるのは予定地だけ。工業国にして、これほど完全に道路網を無視した国は無い。」と言い残したそうである。

 これを額面どおりに受け取るのは、余りにもお人好しと言わねばならない。アメリカの世界戦略上、日本のエネルギーを石炭から石油にシフトしておく必要があったのは確実である。戦後の長期にわたって、世界中の石油の利権を掌握していたのは、アメリカのメジャーである。また、GM・フォードの輸出市場の確保という側面もあったに違いない。

 その延長線上での話であるが、日米経済構造協議において、1991年から2000年までの10年間で430兆円もの日本における公共事業基本計画の投資額が、アメリカとの間で約束された。村山内閣では更に、1995年から10年間で、その額が640兆円に跳ね上がり、借金財政の花形である道路整備はますます前進するのである。これはもう「消費者のニーズ」でも何でもないであろう。

5-2 戦後の道路建設の飛躍と背景

 中世から明治維新、戦前までの交通は、現代とは全く違う。今日の日本における道路投資額年額は地球上で最も多額で、道路密度も山間離島を省く可住面積に於ては、群を抜いて世界一である。その契機はGHQの思惑であった事は、既に紹介したところである。が、それだけで今日の日本の道路建設が、斯くも進展するとは考えられない。

 日本の道路行政を見る上で、戦後の飛躍を支えたのは何であったかを知ることは重要である。その制度と歴史には注目すべき事が多くある。それを深く分析する事で、今日の行政の閉塞感を打開する道が見えてくるかもしれない。

 道路四公団民営化推進委員会の推移の中で、道路建設行政においても、当初から田中角栄の影響が浮かび上がってきた。列島改造にかけた彼の所業は賛否両論で、土建国家として栄えたのであるが、行き着く果てが不良債権の山でもあった。

 道路建設を促したのがアメリカであって、それを忠実に実行したのが田中角栄であった。歴代総理がアメリカの言いなりなのに、彼がそうはならない唯一の総理で、ロッキード事件でアメリカに失脚させられるのも、興味のある事柄である。

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