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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』戦後60年の暑い夏のなか「ヤマザキ!天皇を撃て!」を読む**<2005.11. Vol.38>

2006年01月13日 | 藤井新造

戦後60年の暑い夏のなか「ヤマザキ!天皇を撃て!」を読む

芦屋市 藤井新造

戦争を知らんなんて言わないで戦争だらけの世界じゃないの

成田勉

 この夏は暑さのせいか外出するのが億劫になり、7月末から9月初めにかけて図書館へ行き本を借りて自宅で読むことにした。勿論図書館で読んでみて面白い本を借りてくる場合もあり、最初から読みたい本を借りに行く場合もある。大きい図書館(分館でなく)に行く場合は車で行く場合が多い。(大抵は健康のため歩くが)その時に沢山本を借りすぎて困る。と言うのはこの町の図書館は、いつのまにか貸し出す本の冊数を制限しなくなった。返却期限については他市と同じであるが、どうしても多くの本を借りたくなる。それでついつい借りる本の冊数が増える。それと今まで借りたい本を自分で探していたが、この頃はどこでも職員がパソコンで検索してくれ便利になった。そうすると乱読の私の読書癖を一層増長させる。

 そこでこの夏は、例年のように原爆関係の太田洋子の『屍の町』『夕凪の街と人』原民喜の『夏の花』他短編集、話題になった『国家の罠』(佐藤優著)『真珠湾の日』(半藤一利著)、それからこの6月、奥崎謙三の訃報を新聞で知り、彼の本を読み返した。読書して面白かったのは文句なく『国家の罠』であった。既にこの本については詳細な書評もでて話題を呼び、図書館での利用に2ヵ月近く要したのをみても多くの人が読んでもる筈である。この本については外交官としての佐藤優がロシア外交を鈴木宗男議員と共に展開していたその過程と目的がよく解るように書かれている。政治家と官僚がどのように外交を進めているのか一つの見本であろう。この本とは別に、奥崎の『ヤマザキ!天皇を撃て!』を読み返し時宣にかなった一番の作品でないかと思った。彼を有名にしたのは、1967年1月2日、天皇が新年の宮中行事で皇居のバルコニーに現れた時、パチンコ玉を群衆の頭越しに20数メートル離れた天皇に向けて撃ち逮捕されたことである。当時の私は新聞の短い記事を読み、たいした関心を示していなかった。しかし、彼の本を読み、映画『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督/1987年作)を観て、何故彼が天皇に向けてバチンコ玉を撃ったかを知ることができた。

ニューギニアでの死の行軍を経験する

 彼は小学校卒業以後、手に技術をつけ家計を助けるため工員として働くが、どうせ徴兵制のため一度は兵隊に招集さねるなら早めにと思い、1941年に初年兵として中支工兵隊に入る。その後1943年、独立36連隊の要員として上海近郊へ出発、そしてフィリッピンのマニラに着き、ニューギニア島にて戦線に参加する。彼の本では、彼が戦地に着いた時、既に米軍の圧倒的軍事力により、毎日が「爆撃、銃撃、雨、泥、飢餓、疲労」の死の行軍であり、敗走する日本兵士の痛ましい日々を詳細に綴ってしる。(「文芸春秋」10月号で、俳優池辺良も同様のことを書いている。)

 彼自身、銃弾による右大腿部貫通と右手小指切断を受けながらも「飢餓」と「銃撃」から己を守るための行動力にもすさまじいものがある。そのあたりを彼は記憶を呼び戻し詳細をきわめ書き記している。多くの戦友の死に接し、戦線で孤立した彼は体力の限界に達し、敗残兵として死に場所を求め日本に近い海へ出ようとする。しかしそれもならず餓死するより銃殺による「死」を選び、米軍のいるへ舞い戻り捕虜の身になる。(多くの人は『野火』大岡昇平著を想像するだろう)

 ここで米軍の思いにも及ばない待遇(傷の治療、タバコ、チョコレート、キャンディの支給)を受け、彼は「日本に生まねて24年間に両親以外の日本人から、この敵の衛生兵から受けたような親切を受けた記憶がなかったので、大きな感銘を受けました」と、率直な喜ぴを表している。

 それから一年半、オーストラリアで日本兵の捕虜収容所での生活を送る。1946年3月、五年ぶりの日本への帰還が適い、帰国後自分の父の死を見守り「ニューギニアで行動した若い戦友たちは、深い密林のあちこちで、父母や兄弟や愛する人を恋いつつ、人知れず無惨な餓死をとげ、例外なく醜くふくれあがり、山豚や気味悪い虫の餌食となった」戦死者を思いだし、彼の心の中に天皇制批判」の思想が構築されていく。そのような彼の戦争体験を知ることなく、俗に言う「皇居バチンコ事件」を理解することは困難であろう。

天皇の戦争責任を問いつづけた奥綺

 「おい、山崎!山崎!天皇をピストルで撃て!」と亡くなった戦友の名を大声で叫び、バチンコ玉を、天皇に向けて撃った。

 勿論、天皇に傷害があった訳でない。被害は「ベランダ外面ブロンズ製鼻かくし部と、ブロンズ製出桁の部に各1個の打撃痕(凹損)を生ぜしめた」だけで、検察庁は被害者を特定できず、証拠として彼が作ったゴム製投射器具とバチンコ玉を没収したのみである。検察庁は、この事件を「加害者はパラノイア(偏執病)で自己主張を強く貫こうとする傾向があるものであるところから、かねて《天皇制は人間性に反した存在である》と独自の見解を固執し」その延長線で上記の行為に至ったと断定した。

 そして東京地裁も、彼を精神鑑定にかけ1年10月の長期拘留する行為に出た。続いて裁判所では、被害者(天皇一族)から一人の証人も出廷せず、一方的に1年6月の懲役を彼に言い渡し、彼もその刑に服することになった。かくして曾て柔順な「皇軍」として戦地におもむき、九死に一生を得て帰った彼の行為を精神異常者として、世にアッピールすることに司法権力は成功した。しかし、彼はそれに屈する事なく 1977年に参議院選挙に《天皇の戦争責任》を問うスローガンを掲げ立候補し落選するが、13万票余を獲得している。

 その後も彼は、暴力行為を伴った過激とも思える言動により、ニューギニア戦地で上官たちの卑劣で残酷な《部下の人肉喰い事件》の真相を追い詰め白状させるドキュメント映画『ゆきゆきて神軍』により、天皇の戦争責任を再度訴える行動に出る。

 愚直、それとも破天荒、いや直情的であった彼が一貫して天皇制批判」の行動力を持続させたエネルギー源をこの本から窺える。

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