『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(64)**<2011.7. Vol.69>

2011年07月06日 | 横断車道

道路族議員・建設省(現 国土交通省)官僚・大手ゼネコン、この3者が日本の道路行政を混乱・破綻させてきた。政・官・財の癒着構造、これを世間では『悪魔のトライアングル』と呼ぶ。また、ある学者が住民運動に協力する中で『道路マフィア』と言って、住民運動の中では定着している▼福島第一原発事故は、完璧に予想された通りに、震災に脆くも大事故を起こした。いまだに収束の目途さえつかず、放射能は継続的に漏れ続け、汚染は確実に拡大し続けている。当然の成り行きではあるが、国内世論は完全に『脱原発』へシフト。世界でも同様の傾向が進歩している▼にもかかわらず、経産相の海江田君は、事ある毎に原発推進を擁護する。経団連の米倉会長などに至っては、「日本の原発の安全性に胸を張るべきだ……。」と意味不明、正体疑問の発言をしている。「脱原発で企業が海外流出する……。」と、国民を恫喝することも忘れずに言ってのける▼原発1機を造るのに、如何程のお値段だろうか。1兆円近いお金が動くことになる。ランニングコストも半端ではない。早々と玄海原発の再稼働を、一旦、認めた玄海町の町長や議長は、親族が原発関連企業に絡んでいた。まさに『原発マフィア』の存在が、見え隠れする。経産省を中心とする族議員と官僚たち。三菱・日立・東芝などの重電機産業。石川島播磨の重機メーカー、大手鉄鋼メーカー、それにゼネコン。その裾野は、『道路マフィア』を遙かに凌駕する▼世界の原発メーカーは、①フランスのアレバ社(三菱重工業と提携)、②GEゼネラルエレクトリック社(日立製作所と原発経営統合)、③東芝(ウエスチングハウスEを買収)の三大グループに集約される。原発稼働大国は、米(104機)・仏(59機)・日(54機)・露(27機)である(‘08/1現在)▼フランス・アメリカ・日本が、世界で突出した原発主要国であることがわかる。東日本大震災直後に、アメリカの高官が、首相官邸に乗り込んでいたと疑われている。原発の素人である菅首相が、テキパキと指令が出せたという不思議も、納得するのだ。福島原発を造ったGEからの情報で、アメリカの高官を通して、指示が出ていたのだろう。フランス大統領は、アレバ社の社長を伴って、国家元首として震災後、最初に訪日を果たした。これらのことは、支援というより、福島第一原発の収束事業の受注という側面が強い。数十兆円に及ぶとみられる収束事業は、地球上にそうあるものではない▼震災復興や放射能被害除去など、二の次、三の次で押し退けてでも、『原発マフィア』の利益追求は苛烈なものがある。海江田君、米倉君、君たちの足元は見えているのだよ。パンツくらい、はいたらどうかね。みっともない▼こんなことを書いたら、本家本元のマフィアから苦言を頂きそうだ。「我々は極道だが、『原発マフィア』ほどの悪党ではない、一緒にしないでくれ。」と (コラムX)

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『みちしるべ』熊野より(35)**<2011.7. Vol.69>

2011年07月05日 | 熊野より

三橋雅子

<本宮の大逆事件③>

私の「大逆事件の周辺Ⅱ」――西村伊作と小野寺玄と、その弟子

 東京在住中に、いささかなりとも文化学院の創設者、西村伊作の名前に触れたことがあるのは、わが陶芸の師、小野寺玄氏が文化学院の出身ということを、うすうす知っていたからだろうか。もともと寡黙な彼から出自・履歴の類を訊く事も関心もなかったが、奥さんの画家・理矢さんから断片的に語られる昔の話を繋ぐと、二人とも文化学院の出身であることが想像された。むしろ彼の口からは、もう一人の師、北大路魯山人の名前の方が多く出たような気がする。

 市ヶ谷にある文化学院は、西村伊作があくまで自由主義を標榜するユニークな教育機関を目指して、分野を問わず多様な指導者を配していた。その存在は気になりながらも、芸術、演劇などに関心の薄かった私は、すぐ近くのアテネ・フランセに時々通いながらも、一度も訪れてみたことはなかった。確かに多岐にわたる「著名人」を輩出している。文化学院に足を運んだ著名人名簿には、著名人名に疎い私が知っているだけでも小説家の杉本苑子、辻原登、上笙一郎や評論家・吉沢久子、舞踊家・谷桃子、折原美樹、画家・久里洋二、デザイナー・鳥居ユキ、染色家・志村ふくみ、俳優では長岡輝子、丹阿弥谷津子、犬塚弘、十朱幸代、前田美波里、秋川リサ、平野レミ、・・・などなど他にも建築家、脚本家、写真家・・・と、幅広い、いわゆる有名人は数え切れない。そしてこの中に、健在なるかな、わが師、陶芸家・小野寺玄の名前もある。彼も著名人入りをしたのだ!

 私が彼の仕事場に出入りしていた頃(’77年日本陶芸展で文部大臣賞、’83年日本陶芸展で最優秀作・秩父宮賜杯などを受賞するかなり前のこと)まだ「著名人」ではなかった彼の作品を、奥さんはよく冗談めかしに、でも確信を持って、「今のうちに、彼の作品を買っておきなさいよ、絶対値が出るから!」と、のたまっていた。私もそれには信憑性がある、という確信はあったが、それはどうでも、彼の作品は好きだったから買っておきたい気持ちは山々だったが、何しろお金がなかった。一番小さい、確か700円だった可愛い杯を2~3個買ったのみである。今、たとえそれにどんな値が付こうと手離す気はない。

 大磯の駅からテクテクと、あそこが吉田茂邸(この間焼けてしまったらしいが)、と指差しながら、けっこうな道のりをピクニック気分で歩く。少しずつ登り坂になって人家も少なくなり、まだかな?と思う頃、その家はあった。私と同年代の、まだ30台半ばの若き陶芸家と絵描きの夫婦がひっそりと、創作三昧に暮らすアトリエでもあった。

 師は柔和で、決して気難しいわけではないが、ひたすら寡黙、そこにいつも寄り添って、朗らかで話術巧みに笑わせてくれるのが理矢さんだった。例えば 

――――いつか新聞記者だか雑誌の記者だかが見えた時ね、ごめんください、って声に玄さんが出て行ったの。そしたら、その記者さんが「先生いらっしゃいますか?」と訊くもんだから、玄さん、しばらくモジモジしてたみたいだけど、中に引っ込んできてしまったのよ。それで私に、「どうしよう、どうしよう」って、そこらをうろうろして、私に出てくれって言うの。でも私が行ったってしょうがないでしょ、で結局、おんなじ顔して、もう一度出て行って、「ぼくが小野寺玄です」って言ったの。――――

 私達はあんまりあけすけに笑うのも悪いような気がして、でもその記者が、よもや先生とは思わなかったことにも同情できるし、その時の師匠の、恐らく間が悪そうにモジモジしたであろう姿を想像してクックッと笑いをこらえた。

 このアトリエ訪問のもう一つの楽しみは、そこらじゅうに玄さん自作の道具、小道具が転がっていることだった。ちりとりや、小箱類はもとより、トイレットペイパーのホールダーも、時々ちょっと引っかかったりするのも、紙の無駄遣い防止かな?と思えるような、いずれも可愛く独創的で、ほのぼのとした道具類だった。「お金がないから、何が欲しい、と言うと、みんな玄さんが作ってくれるのよ。」と屈託なく言う理矢さんは幸せそうだった。「お金がないから楽しいのね」と口には出さなかったが、心からそう思えた。

 そのうち私は年老いた両親を連れて行くようになった。粘土いじりというより、都会から外れたピクニック気分と、私の造る皿に、父に、得意の毛筆で文字を書かせておこう、という魂胆だった。40年以上経った今でも、「梅」とか私の名前の「雅」などの筆書きがされた小皿が残っている。母もまた、前の晩からお弁当を仕込んで、ピクニック気分で出かける「大磯行き」が楽しみだった。小野寺夫妻はそのお弁当を殊の外喜んでくれて、お稲荷さんと季節の煮物が定番になった。まだ素焼きが出来てなく、文字書き(絵付け)の出番がなくて両親を伴わない時も、お稲荷の差し入れは欠かさなかった。

 当時は、私が住むことになるなどとは夢にも思わなかった熊野と、小野寺玄との関わりなど到底想像もつかなかった。

 熊野に移り住んでから、ちんまりした個人商店しか何もない本宮から、買い物といえば45キロ離れた新宮まで足を伸ばす。当時(9年前)は新宮にもコンビニがなかった。商店のおばあさんに訊くと「コンビニ? なんや聞いたことあるけどコンビニってなんだっけ?」に仕方なく勝浦方面に車を走らせると、やっと暗がりの中で灯りが見つかった。「ケイタイの払い込みをしないと切れてしまう」と焦る息子が胸をなでおろしたものだ。その後新宮にもローソンが出来て、予約した乗り物の切符を買うことが出来るようにはなったが「それでは近くのコンビニで払い込んで切符を受け取ってください」といとも簡単に言われても……。40キロ以上離れた「近く」には行かず仕舞いになることが多い。新宮とは私にとって、本宮よりは便利さでちょっとましな、でもそこそこ辺鄙な「文化都市」なのである。

 やや経って、西村伊作の生地である、その新宮に西村記念館があることを知ったが、大逆事件の南紀での首謀者とされる大石誠之助が、西村伊作の、苗字の違う父方の叔父であることも気付かなかった。大石誠之助と伊作のこと、こじんまりながら、しっとりとした静寂を味わえる西村記念館の魅力は既に「みちしるべ」に書いたが(「新宮の文人達②」)、古い『熊野誌』の「西村伊作特集号」に、小野寺玄が西村伊作のことを書いている。なんと、彼は伊作のゆかりの地を訪ねて新宮を訪れている。無論私がこの地に来る遥か以前ではあるが。大石誠之助は伊作の単なる叔父としてでなく、早くに両親を亡くした(名古屋で大震災の折)伊作の父親代わりに教育、薫陶を授け、思想的にも多大な影響を与えた。

 玄さんは彼に関わりのある新宮の地を丹念に辿りながら、大逆事件にも思いを馳せなかった筈はない。さらに、伊作が西村姓を名乗る由来の、母方の祖母と幼時を過ごした地、西村家のある北山村にまでも足を伸ばしている。北山村は、和歌山県下とはいえ奈良県と三重県に囲まれた全国唯一の飛び地、最近ジャバラで有名になって、筏下りとともに地場・観光産業で強気の、どことも合併しない人口600人足らずの村である。かつて豊潤な材木を新宮まで筏で流す、さらには大台ケ原からの中継点でもあったという豪胆な筏流しの子孫達の気骨か?伊作は大山持ちの気丈な祖母の跡取りとして育てられ、この財産によって、彼の理想の実現が可能であった。

 玄さんの、この南紀の紀行文を含む西村伊作の思い出を読んで、伊作のユニークな感性や懐の深さ、それを慕い、幅広い人格の影響を受けた経緯が今にして分かるような、懐かしくも納得のいく想いに浸った。

 彼は文化学院での修行の後、一時、北大路魯山人に弟子入りをした経験を持つ。しかし「つねに傲岸・不遜・狷介・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。」(Wikipedia)といわれ「この傲慢な態度と物言い」が有名で、お手伝いさんも一人として長続きしなかったといわれる師の下では、想像を絶する苦労がつきまとったと思われる。やがて伊作の下に戻る際も、そのおおらかさと柔和さと深い愛情が、どんなに彼の苦労を癒したか、問わず語りに想像に余りある。彼の口からは、むしろ魯山人の名の方が多く語られたのは、短くとも強烈な体験であったこともあろうが、伊作には身近な、肉親に近い近親感を持っていたからではないだろうか?ちなみに同窓の玄さんと理矢さんは、伊作の仲人で文化学院で結婚式を挙げた。

 思いがけず、私の若かりし三十台の一ぺージが、ここ熊野で、百年記念を迎えた大逆事件と結びつくことになった。「首謀者」の直近に居た伊作の愛弟子、小野寺玄にいっときでも教えを受けた私は、いかに不肖の弟子とはいえ、何と、おこがましくも伊作の孫弟子と言えるのだろうか?玄さんは何とおっしゃるだろうか?

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『みちしるべ』斑猫独語(46)**<2011.7. Vol.69>

2011年07月04日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<ええこと言いよんで>

 石原慎太郎、橋下徹、両方とも私の好みでない人物だ。しかし、彼等は時に真面目にいいことを言うのである。私がこんなことを言ったところで「いつも真面目じゃわい、おまえに言われる筋はない、ぼけ」といわれたらおしまいだが。

 福島原発事故や菅総理の退陣などメデイアは連日これらの報道にいそがしく、ここにまたお粗末な大臣が出たりして、ついにあきれかえるもひっくりかえって立ち上がり不可能になってしまったそうだ。そんな影にかくれたかのように、排ガス規制違反のいすゞ自動車に関する報道は、はかなく消えてしまったようだ。

 2011年6月4日 東京新聞朝刊、東京都は三日、いすゞ自動車が低公害・低燃費車として昨年5月に売り出した中型トラック「フォワード」(四トン)の車載コンピュータに国の排ガス規制を逃れるようなエンジン制御プログラムが見つかったと発表した。国の適合試験と違う走り方をさせると、規制値の三倍超の窒素酸化物(NOx)が排出されるという。石原慎太郎知事は「規制逃れのいんちき。企業の犯罪だ」と批判している。

 「規制逃れのいんちき。企業の犯罪だ」まるで“みちしるべ”に投稿する人の言葉ではないか。この発言まったく正しい。どこの知事がこんな発言をようするか、佐賀県知事なんて、貝枝(わかってんねんで)とかいう大臣に出向かれて「原発動かしたれや」と言われれば「そうやなあ」なんてすぐのってしまうのだからなあ。

 知事に企業の犯罪だと言われたいすゞ自動車は、6月3日付けで国土交通省に改善対策届出をしているが、発見の動機という欄に、東京都の指摘及び社内情報によると書いてあるのだ。いったい社内情報というものがいつ、どこで出たのか、そいつがわかれは面白いのだが。そこは書いてない。

 さて、近場の橋下知事だが、彼の脱原発についての発言、これはなかなかのものである。同じ時期、関西電力筆頭株主の代表である大阪市長の発言にくらべると、これは雲泥の差と言う言葉を使ってもいいものである。いつも橋下に言い負けているような大阪市長で、橋下きらいだから応援してやりたいと思っていたのに、これではどうにもならない。

 ただ、橋下については、知事選にたしか100%以上の確率でもって立候補しない、と言いきっておきながら立候補した経緯がある。私が橋下を嫌うのはここだ。こんなところから、いつか原発容認に鞍替えするのではないか、という不信感は除くことが出来ない。でもまあ今の所はその言を信じておこう。脱原発の橋下はいいのである。

 電力事情が悪くなれば、それはそれでそこそこの仕事をしようではないか、という考え方は自動車産業(他の各種産業にもあるが今は自動車産業に代表してもらう)には無い。土日に仕事をし、木金休む、そんな手を考え付くのである。労働者の事情なんておかまいなしだ。まったく労働者はなめられているのだ。それとも労働者も「それでいいのだ」とバカボンパパのようになってしまったのか。

 福島原発事故を機会に脱原発に向かう、これが正常な人間の考え方である。考えなくても正しい感覚が働けばそうなるはずだ。第二次世界大戦のかつての同盟国であったドイツとイタリアが早々と脱原発に向かったのである。なぜか、ヨーロッパ戦線ではパルチザンが生まれた。ムッソリーニ、ヒトラーがそれを生んだのである。皮肉にも、正しいことをやり通すためには武器を持って命がけで反抗するという根性を植え付けたのだ。この根性が遺伝子として体内にあるからである。日本にはこれがなかった。(これは私が勝手に考えたことだから、よそで言わん方がよろしい。誰がそんなこと言うもんか、それであなたは正常である)そして何事にも甘く“和”という語でもって良しとする精神が必要以上に育ってしまい、のど元を過ぎてもいない原発問題をかかえながら、早々と運転再開を認めようという動きが湧いてくるのだから言葉を失う。もっともここには金がからんでいるようだ。なさけない次第である。電気会社のおこぼれでどんな良いことがあったのだ。それも事故発生でぱーではないか。戦時のように銃を手に命がけで反抗をするのではない、脱原発を言うのに、何を躊躇するのだ。それに加担するのにどれだけの覚悟がいるのだ。本当に電力不足が起きれば少々生活環境は今より劣り不便になる面だってあるだろう。就業の不安定から所得が減ることが生じるかもしれない。でもただそれだけのことではないか。

 原発が動きだすと、廃棄物が出る。それは未来永劫放射能の消えることのない、放射性廃棄物なのだ。その影響に恐れおののきながら生きねばならない未来の人々のことを考えてもみよ。

 日本人が世界で大手を振って歩くためには、いすゞの責任はもちろん、福島原発事故を徹底的に検証し、それを脱原発につなぐことが絶対条件となるのである。

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『みちしるべ』街を往く(其の八)**とりとめもないこといろいろ**<2011.7. Vol.69>

2011年07月03日 | 街を往く

街を往く(其の八) とりとめもないこといろいろ

怠惰に過す日々を嘆くことしきり

藤井新造

 この文章は今年の3月3日に書いたのである。半年遅れのもので申し訳ないの一言である。

 今日は3月3日ひな祭りである。凍てつくように寒かった2月の日々を想い出すと、季節は確実に冬から春へと移る気配である。関西では、奈良のお水取りが終わってから本格的な春が訪れるというから、まだ寒い日々もあろうが、とりあえず今日は暖かい。気温は最高14℃である。

 老体にとって、これほど嬉しいことはない。2月に寒かった日々があったといっても、北陸、東北、北海道地方の冬の気候ではない。短期間であるが、冬のそれらの地方への旅行の経験とか、冬の富山市での1ヶ月近い生活をしたことがあり、関西のそれとは比較にならない冷たさが、そこにあった。

 富山市は、母の妹・3番目の叔母が嫁いだ土地で、もう既に20年近く住んでいた。叔母の1人息子に高校3年生がおり、彼の大学受験の勉強の面倒をみてくれと、叔母に言われ、1人のこのこと出かけて行った。55年前のことである。

 私は大学を1年留年し、父親より授業料は負担するので、生活費は自分で稼げと言われていたので、3食さえまかなえれば、どこへでも行ってもよかった。

 そして一応人並みの「卆論」を書くため、多忙な実家では落着かず富山市に行った訳である。当時の富山市では市電が走っており、地方都市として落着きのある街であった。城跡の一画に図書館があり、従弟の勉強の手伝いを午前中に行い、午後からは図書館でもっぱら卆論に関係のない小説ばかりを読んでいた。この当時から、本の雑読する習慣がはじまっていた。

 富山市へ行った(その夏も行ったが)のは、実家のみかん畑と家は弟が継ぎ、私が家を出ることで、父親と暗黙の了解が成り立っていたからである。その理由の主要因は、私が多少とも学生運動に参加し、「左」の人間と我家一族からみなされ、不必要な存在として扱われていたからである。

 そして、私は私で古い人間関係を強いていた、田舎の古いしきたりに辟易していたからである。ある意味で両者の思惑が、結果として一致していた。まあ、そういう富山市行きであった。

 この若い時からすると、ずい分、寒さに弱くなった私であるが、昨年11月末より12月にかけて南ドイツ方面とパリにいった。私のあい方(妻)が、ドイツとフランスのクリスマスマーケットを見学したいとの強い希望があり、私は私で冬のパリ、特にシャンゼリゼ通りを歩いてみたいとの、ちょっと贅沢な望みを実現させたかったからである。と言っても、パックツアーの安物の旅行であった。

 この年の春にはフランス旅行の目的が、ゴーギャン、ピカソなど若き画家たちが寄宿していたモンマルトルの丘を散策すること、そしてマロニエの咲くシャンゼリゼ通りを、フランスがエジプトから略奪してきたオベリスクから凱旋門まで歩き、そこから西にあたるノートルダム寺院、セーヌ河を歩くコースであった。(このことは次回にまわします)

 私たち二人は、海外旅行するには、これから金銭的にも肉体的にもあまり期待できないので、この年はじめて3回の短い海外旅行をした。

 特にそれが可能な時間は、あまり残されていないと思う年頃になったと、つくづく思うからである。昨年4月末に上行結腸癌の手術をして、入院期間こそ2週間余りと短く、早く回復したが余命を強く意識せざるをえなかった。入院だけでも、大腸ポリープ切除で2回、前後3回の内視鏡挿入等の肉体的苦痛だけでなく、精神的ダメージを受けたことはまちがいない。

 これがもう少し重症の患者になったら、気の小さい私など生きる気力を喪失するのでないかと危惧される。「病気」に対し弱すぎると、痛切に感じた。

 それ故、昨年の後半から殆んど無為に過ごした。但し、この間「大逆事件」に関する本は次のものを読んだ。『大逆事件』(佐々隆三 著)、『古河力作の生涯』(水上勉 著)、『遠い声』(瀬戸内晴美 著)と、各々本棚に積んでいたものである。そして『大逆事件100年の道ゆき』(‘09年1月号~‘10年3月号 田中伸尚 著)までである。

今から35年前 偶然にも幸徳秋水の墓参り

 丁度、今から35年前に幸徳秋水の墓参りしたことが、上記の本を読みながら、その記憶がよみがえってきた。

 秋水の墓を訪れた直接の契機は、職員旅行で高知へ行った時、誰が言いだしたか忘れたが、ここまで(足摺岬)きたのだから中村市まで足をのばして行こうと、有志で意見が一致した。私は多分、雑誌類を読んだのみで、彼について深い知識があった訳ではなかった。

 秋水の墓は、さして広くない墓地だったので、探すのに時間はかからなかった。墓石は他のものと同じくらいの大きさであったが、墓石の裾(四方とも)は欠けており、終戦まで何回ともなく誰かによって倒されたと聞いていたが、何程、そのような扱いを受けていたのかと内心驚いた。

 秋水には、たしか親類縁者が一人もいないと知っていたので、この墓は地域の人か、それとも中村地区労働組合協議会の人が建立したのであろう。墓地内に建立についての説明書きがあったが、その文言についての記憶はない。

 大逆事件については、最近、その概要をうまくまとめた文章があるので(『パンとペン』―社会主義者・堺利彦と「賣文社」の闘い―黒岩比佐子 著)、少し長くなるが引用する。

 「『大逆事件』とは大逆罪による事件一般を示す言葉で、ある特定の事件をさしているわけではない。だが、一般に『大逆事件』と呼ばれているのは、1910年(明治43年)に社会主義者たちが一斉に検挙され、翌年24人の死刑判決を受け、12人が処刑されて12人が特赦で無期懲役になった事件のことである。……12人が極刑に処せられたこの事件の内幕は戦前は闇に包まれていたが、戦後になってようやく研究が進められるようになった。絲屋寿雄、神崎清、塩田庄兵衛、森長英三郎、山泉進、その他の人々の努力で新資料が発掘され、この事件の多くの部分が政府によるフレームアップ(でっちあげ)だったことが明らかにされている。」

 それ故か、今では秋水の顕彰碑が建てられていると言う。「幸徳秋水はこの九十余年の間、いわゆる大逆事件の首謀者として暗い影を負い続けてきたが、幸徳秋水を始めとする関係者に対し、この世紀最後の年に当たり、我々の義務として正しい理解によってこれを評価し、名誉の回復を図るべきである。よって中村市議会は、郷土の先覚者である幸徳秋水の偉業を讃え顕彰することを決議する。」(2000年12月にあげられた中村市議会決議文)

 それにもかかわらず大逆事件の時代背景「明治国家が帝国主義化して行く過程で、外には植民地支配へと向かい、内には思想弾圧へと向かっていき、それに抗した無政府主義者や社会主義者、またそれらにシンパシーを抱いた、いわば抵抗者たちの肉体と思想が虐殺されたという事件の本質が、社会的にあまり知られてないのです。これはショックでした。」(田中仲尚氏の発言。「世界」‘11年3月号)

 私は、100年前に起った大逆事件が冤罪事件として、世に知られていると思っていたが、人々の脳裡にある記憶がうすれつつあるのを聞き、心底背筋が寒くなるのを感じた。

 それ故、私が読んだ前記の本の紹介をしようと思っていた時に、三橋雅子さんの文に接した。

(‘11年3月3日記 以下次号へ続く)

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『みちしるべ』**水問題のシンポジウムに参加して**<2011.7. Vol.69>

2011年07月02日 | 北部水源池問題連絡会

水問題のシンポジウムに参加して

北部水源池問題連絡会

 いささか旧聞に属して恐縮ですが、昨年11月27日、関西大学で「21世紀水が危ない!?知られざる水の真実 ~その時日本は生き残れるか~」というシンポジウムが開かれました。これは、読売テレビの朝の番組「ウェークアップ! ぷらす ライブ」として開催されたものです。我々の連絡会ではこれに参加すべく委員全員を二人一組で申し込みましたが、おそらく関西大学に入学するより難しい競争率をかいくぐり、1組だけ参加することができました。

 基調講演は地盤工学の権威でもある関西大学学長の楠見晴重氏。続いて建築家の安藤忠雄氏、前横浜市長の中田宏氏が登壇。司会はこの番組のキャスターであり、ベストセラーになった「日本のおそろしい真実」などの著者でもある辛坊治郎氏。読売テレビ特別解説委員の岩田公雄氏も交え、途上国における清潔な飲料水の確保や水ビジネスの将来、暮らしと水との共生など、水資源をめぐり様々な角度からの討論が行われました。

 日本では4人家族で1日約1トンの水を消費し世界1,2を争う水消費国。「湯水のごとく」という言葉が生まれるほどこれまで上質で豊富な水にめぐまれてきました。たとえば京都は平安京以来、井戸の町といわれ、井戸の遺跡が現在でも1万基以上存在し、地下水量は琵琶湖に匹敵すると言われています。また京都だけでなく日本各地に名水といわれる水を有しています。しかし、一見豊富な水を有する日本であっても、食料の自給率はカロリーベースでわずか40%弱。そのため、農作物輸入による間接水量は1年に438.6億㎥超に及びます。一方地球上の水は97.5%が海水、淡水はわずか2.5%。そして増え続ける人口。例をとると中国の人口は世界の4分の1を占めるけれども水は世界の淡水の6%しかありません。また、世界の多くは作物に地下水を使用していますが、地下水のくみ上げすぎで地盤沈下は深刻な問題になっています。では、海水を淡水化すればということになりますが、これについて日本は非常に高い技術を持っています。しかし、淡水化には莫大なエネルギーを必要とし、したがって高コストということになります。如何にコストをさげるか、そして、この高い技術と、水を飲料としてだけではなく地域保全としての水利用のノウハウをトータルマネージングし「日本の水文化」のパッケージとして輸出するのが日本の生きる道であるということなのです。

 現在、どの自治体も水道事業について経営の積極的な工夫はなされておらず、赤字になれば料金の値上げということが繰り返され、水道料金が庶民感覚からかけはなれたものになってきています。そこを打開する一つの考え方として水道事業を「公の独占企業」とし、発展途上国にインフラ整備の一環として輸出するということがいわれています。しかし、日本はこれまでの経過から公務員が水道事業のノウハウを持っているけれども現在の法のもとでは公務員は輸出ビジネスに関わることができません。その点、ヨーロッパでは早くからそのような思考回路を持ち、アジアでも韓国では積極的なインフラの輸出に努めているということです。

 先の東日本大震災の例を待つまでもなく、私たちは水の大切さを体験しています。このシンポジウムに参加し、深刻な水不足に陥ることが予想されている現状を直視し、限られた水をどのように保全し清潔な水を多くの国で享受できるようにするか、大きな関心をもっていきたいと考えた次第です。最後に「人間にとっての水は命そのもの。単純に水に対する畏敬の念を持つべきである」という言葉は印象的でした。

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『みちしるべ』**あまがさき九条の会集会《参加報告》**<2011.7. Vol.69>

2011年07月01日 | 単独記事

あまがさき九条の会集会《参加報告》

みちと環境の会 高岡和男

 7月5日尼崎労働会館で「九条の会、尼崎集会」が開催され、尼崎「みちと環境の会」からも多くの人たちが参加しました。大災害や大事故を契機に憲法や高速道路など環境、人権に対して制約を加えようとする攻撃が出てきます。

 講師羽柴弁護士の報告書を要約して参考にしていただきたいと思います。

講演;東日本大震災のもとで起きている憲法「改変」の動き
九条の会 全国で7,500のよこばい

講師 弁護士 羽柴 修

  1. 今回の事態ではっきりしたのは、経済優先(にせものの豊かさ優先・・・市民にも一部責任あり?)で命や健康、生活が無視されてきた。
     
     原発が「安全神話」(司法の場でも学者が危険を証言しても無視)のもとで生き延びてこられたのか。

      関電の株主総会では、「脱原発」発言にたいして、右翼と動員された株主のヤジと怒号はすさまじいものでした。

      今回の事故の前に、浜岡原発で敗訴した時の石橋克彦教授の談話・・・警鐘・警告された事実は起きてからでは遅い、「判決の間違いは自然が証明するだろうが、その時は私たちが大変な目に遭っている恐れが強い」

    *明日につなぐためにどうするのか、真剣に考える必要がある。

    *九条の会運動はファッションではない。何年もてばいいということではないし、「三丁目の夕日」(思い出にひたる)でもいけない。

  2.  震災の陰で起きていること

     

    (1)自衛隊・米軍の災害出動と「ともだち作戦」

     在日米軍は「統合支援部隊」を立ち上げ、最大時で2万人、艦船約20隻、航空機約160機を投入、しかし原発の80km圏内の活動は制限した。

     自衛隊も10万人を超す人員を投入し、これぞ「災害救助隊」と思われたが、残念ながら戦争のための組織であり、災害向けの設備や訓練はされていず、隊員の努力はあったが、本当の災害救助にはならなかった。

    (2)「ともだち作戦」の裏がえし

    *3月31日、思いやり作戦(予算)を衆議院で採択(社民・共産は反対)5年間、毎年1,900億円つぎ込む。復興費用に充てられないか。

    *新防衛計画大綱の今後5年間の防衛予算は、2000年価格で23兆4,900億円です。復興費用が20~25兆円、政治選択の問題であり、戦争に備えるより復興予算に充てるのが「明日に繋げる」ことになるのは明らか。

    (3)憲法に「非常事態宣言規定」をおくべきとの提案・・・国民の人権制限も明記すべき。5月3日、改憲派議連集会での提案。

    (4)「96条改正議連」の発足。(96条は改正の手続きを定めたもの)

     6月7日、憲政記念館で設立総会・・・共産・社民以外から100名参加。賛同者は衆院・参院で200名を超えたと報道。参議院でも「憲法審査会」の発足。憲法改正案提案には衆議院100名、参議院50名必要。

    (5)新防衛計画大綱と秘密保護法

    *昨年12月9日、「政府における情報保全に関する検討委員会」を立ち上げ、「法制検討部会」と「情報保全システム検討部会」を設置した。

    *秘密保護法制の策定

    *2006年2月、自衛隊のパソコンから「実動演習・尖閣諸島の攻防」が流出、今回の漁船事故が中国への作戦として出されていた。

  3. 原発問題について

     

    (1)6月4日の大江健三郎氏の問題提起

    (2)原発と司法

    砂川事件最高裁判決と原発差し止め訴訟の共通性

    ① もんじゅ訴訟名古屋高裁判決(03,1,27日)と最高裁判決(05,5,30日)の類似性
    二審の名古屋高裁金沢支部が「許可処分は無効」の判断に、最高裁は上告理由にあたらないのに上告を受理して破棄自判(普通は差し戻すのに自分で判断)して高裁判決をひっくり返した。

    ② 志賀原発2号機運転差し止め訴訟(金沢地裁06,3,24日)耐震設計に問題があり、運転差し止め。しかし名古屋高裁金沢支部判決(09,3,18日)で逆転敗訴。(当時の地震想定はM6.6)

    {憲法九条の解釈}

    ① 憲法の理念を十分考慮したうえでなされるべき。

    ② 米軍の駐留についての憲法判断、自衛上やむを得ないとする政策論に左右されてはならない。

    {米軍の駐留}

    ① 駐留は我が国政府の要請と施設・区域の提供、費用分担等の協力があって初めて可能になる。

    ② 指揮権の有無、米軍の出動義務の有無にかかわらず、憲法9条2項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものと言わざるを得ない。

    {当時の政府の対応}

    飛躍上告(当時の刑事訴訟法406条・・・法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる事件)で最高裁が受理。米国の公文書公開で田中最高裁長官とマッカーサー駐日大使の密談による。

    {最高裁判決の概要}

    ① 憲法9条は、「我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、我が国の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」

    ② 憲法9条は、「我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではない」

    ③ 憲法9条が禁止する戦力は、「我が国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することができる戦力」・・・外国の軍隊は、たとえそれが我が国に駐留するとしても、それは戦力には該当しない。

    ④ 統治行為論について・・・日米安保の合憲性に関する判断は、「高度の政治性を有する」から、「一見極めて明白に違憲無効」でない限り、「裁判所の司法審査権の範囲外」としたもの、ところが憲法9条については、上記のとおり積極的に憲法判断を加えて、安保だけは司法審査の対象外とする。など、「高度の政治性を発揮した」最高裁判決と言われている。

    (3)浜岡原発1~4号機の差し止め訴訟一審判決 (07,10,26日)

     石橋克彦神戸大名誉教授は地裁・高裁で二度証言した。判決時の記者会見「判決の間違いは自然が証明するだろうが、その時は私たちが大変な目に遭っている恐れが強い」と述べた。

    (4)国策訴訟での司法の責任

     もんじゅ訴訟では、名古屋高裁金沢支部判決をひっくり返した最高裁は、柏崎狩羽原発訴訟では、高裁判決について、法律審であることを理由に、「国の安全審査が違法かどうか踏み込まないまま住民の請求を棄却した」

  4. 命・健康の問題(私たちの選択)

     人間の安全保障、命の安全保障が今、とわれています。未来につなげるために。
    九条の会」とは

     「九条の会」は、井上ひさし、梅原武、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子の9氏が立ち上げた会で、思想・信条・立場などの違いを超え、九条改憲を許さないという一点で共同することをよびかけたアピールを発表し、2004年6月に発足しました。

     「九条の会」のアピールに賛同し、現在7500余の地域・分野にさまざまな名称を持つ組織が生まれ、草の根の活動をしています。
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