赤い夕陽 ⑧ソ連軍わが家を占拠
三橋雅子
敗戦間もない初秋の新京、突然やってきた2~3人の兵隊は、いつもの略奪集団とはちょっと様子が違った。金や時計を出せ、とは言わず、何か早くやれ、という様子。何だかさっぱり分からないが、略奪品らしい腕時計を指して、針がここまでに、フィーフィーと手振りをして、なんでも早く出て行け、ということらしい。出て行けったって、ここは我が家。家の接取はまだ前例がなく、このあたりでうちがショッパナだったから訳が分からなかった。遠くからも、とんがった青い屋根が目立つ「瀟洒(しょうしゃ)」っぽい家だったから標的になったのか。まだ唖然と、ぽかんとしている大人たちに「ダワイ、ダワイ(早く)」を連発して時計を指す。彼らの指す期限時間は20分だった。何回もお出まし願う半藤一利の『ソ連が満州に侵攻した夏』の8月下旬の記述には「日本人の民家を30分以内に明け渡すよう命じて追い出した後、めぼしいものを片っ端から荷造りしてモスクワに送った」と言うくだりがある。しかし我が家は、忘れもしない20分しかなかった。事情を呑み込むまでに手間取って、作業開始までに時間が掛かったのか。それからが戦争。とりあえず、身の回りの物、当面必要な物を手当たり次第庭に放り出す。すでにあらかたの使用人はいなくなっていたから、小4の私などは獅子奮迅の働きだった。
あっという間の時間切れ。ピーッと鳴ると、もう、一歩も中に足を踏み入れてはならぬ、と厳重な追い出し。大将とおぼしき人物が、どやどやと大勢の将校たちを引き連れて入り込む。サーベルがガチャガチャ音を立て、さっきまでわれわれが居た所がおびただしい軍靴で踏み荒らされた。さて、致し方なく、庭に放り出した荷物の運搬。筋向いの、家族は内地に帰って若いお兄ちゃんが一人住まいのところへ転がり込むことになった。荷物を運ぶ間に、早くもエライサンらしき、でかい図体が風呂場でジャージャーやり始めた。開け放しの大きな窓、野獣かと見まごう毛深い巨体に、あっけにとられて思わず見とれていると、ニエット、ニエットと拳銃で突っつかれる。当時わが家は、有り余る「豊満ダム(*注)」の電気を使え使えということで、風呂沸かしにも電気(大きな板にニクロム線がぐるぐる巻いてあった)、という今でいうオール電化だった。このロスケの大将、もしくは湯加減を見る兵卒が、知らずに感電しはしないか?ということが、ちらと頭をよぎった。何しろ腕時計をこの上なく愛でた上、そのままお風呂に入って、針が動かなくなった、と文句を言う御仁たちだったから。
移住先が近くだったのを幸い、毎日我が家の様子を見に行った。出征先の北満からまだ帰ってこない長兄が、ひょろひょろと帰ってきて、懐かしさに不用意に踏み込んだりして銃殺でもされては……と言う見張りでもあった。門はきっちり閉まり、いつも若い兵卒が銃を担いで門衛をしていた。裏の方に回ると、庭でいつも荷造りをしているのは、どうやら我が家のものらしい。そのうち大きな木枠を作って、ピアノが荷造りされ始めた。モスクワに行くんだろう。もともとあれはロシア製、まだヤマハより舶来ものの方が値打ちがあったのか、舶来もの好きの父の趣味か、両脇に蝋燭(ろうそく)を立てる燭台(しょくだい)がついている、という年代ものであった。おそらくロマノフ朝のロシア貴族の持ち物だったのか、革命時に白系露人か亡命者が持ち出したものか? とすると、ロシア革命の1917年以前のもの? 道理で、いいものだけど、なにせ古いから、と調律師泣かせのシロモノだった。調律の日は朝から1日かかりっきり。藤井ピアノ調律師なら、どう取り組んだだろう? と時々思い出しては想像したりする。こちらは練習できない口実ができてホッとするが、ピア・キチの姉などは、学校から帰ってきてまだ弾けないと、まだかまだかとイライラするのだった。日がな一日、ポロンポロンと単調な音が止まない「調律の日」が私は好きだった。そのピアノもお里に帰るか、と見つけてきた当の父が一番感慨深げだった。そのうちオルガンも荷造りの模様。これは確かヤマハ。ピアノが来るまでは、散々おもちゃにして楽しみ、ピアノを習いだしてからは、ピアノとオルガンのタッチは違うから、あまり弾いてはいけないなどと言われて、ふたを開けることも少なくなっていたのが、今可哀想に思えてきた。まして異国にいっちゃうんだ。もっと弾いてやればよかった。
裏庭では毎日荷造りが着々進んでいた。荷づくりをするからには、帰る日も近いのか、間もなく明け渡されるのか、と期待したが、さにあらず、欲しいものが見つかり次第、せっせと本国に送っているらしかった。
ソ連兵も我々も、自分の家には帰れぬまま、どんどん秋も深まっていった。
いずれへもふる里遠き外(と)つ国に
赤い夕陽は変わらず沈み
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(*注)豊満ダム
日本が満州統治下で松花江に作った「東洋一のダム」と言われる。今なお稼働。ダムの寿命は50年というのに、70年経ってもいまだ健在だが、さすがに最近壊される?とかの話題になっているとか。
このダムについては『みちしるべ』Vol.40(`06年3月号)の「熊野より19」に記したが、いささか訂正しなければならない。(この時の記述そのものが前号に関する、くどいくどい訂正文なのであるが、訂正に関連した部分が更に要訂正というわけで、あたかも入れ子のごとし、文字通り年寄りの世迷い言になってしまった。深く陳謝。)
私の同級生の父上が技師としての最高責任者として、この建設に関わり、その友人に妹が生まれたとき、ダム完成に因んで豊子という名前がつけられた。これが前掲号では「私の同級生が豊子さん」という勘違いをしているから、ダムと私が同年代になるのはおかしい。<豊子>は妹さん、ということが最近分かって、やっと辻褄が合う。資料は「1937年4月に、長さ1100メートル・高さ91メートルのダム堤体を有する豊満ダムの建設工事が始まり、6年の歳月をかけ1942年9月に完成し、1943年春に発電を始めた。」とある。(豊満ダム万人坑 解説:青木 茂)すると、有り余る電力消費に協力して、我が家がオール電化になったのは稼働直後だったことが分かる。(`43年に結婚して家を出た姉が、すでに「電気でお風呂を沸かした」ことを経験している。)
戦後日本人の引き揚げに際して、本間氏がダムの継続稼働に必要な技師として、家族の半分と共に残された件は、前掲号に記した。他にも、電気技師を父親に持つ友人は、やはり父親の残留を強制されたが、乳飲み子の弟も居てとても残留はかなわないと、懇意の医師に「結核患者」という偽の診断書を作ってもらって、何とか引き揚げてきた、と最近になって聴かされた。結核患者は少しでも早く、大陸から出て行って欲しかったらしい。
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