三橋雅子
<シカトする山の住人>
猿達にはどうやら無視されてしまったが、シカトは猿だけではない。
ばさばさと羽音がして、すぐ傍に烏が降り立った。こちらを見ても逃げようとしない。ほんとに烏?街中では烏をまじかにしげしげと見ることはなかった。人をみれば素早く逃げるのが烏。我家の前がごみステーションだったからひきも切らさず烏は群がるが、こちらの挙動に敏感に反応しながらの細心の餌漁りだ。その間猫も来る。おいしい物を先取りされちゃうなあ、とはらはらしての待機なのだろう。私が見ても、うちの犬達に与えたいと、よだれが出そうなご馳走がごろごろ、パックのまま手つかずのものまであって、肥料にされることもなく、こんなものを燃やすために貴重な燃料を浪費し、焼却炉を痛めるくらいなら、烏や猫達に処分してもらった方がましなのに、と胸が痛んだものだ。
ここの烏は、無論ありもせぬ「燃えるごみ」漁りに来るわけではない。彼らなりの目的はあるのだろうが、その眼光の先には、人間の存在など全く関係ないらしい。ここまで無視されるとは。
夜道、車の前方に小さな兎が頼りなげに小走りしている。轢かれちゃうよ、早くおうちにお帰り、といっても一向に逃げる様子もなく、茂みに入ったと思うとまたすぐ出てきて反対側に行ったり、どうやら帰るべき巣穴が分からなくなって探しているらしい。追っている車など全く無頓着で無視の構えだ。こちらは最徐行で出ては止まり、まるでひどい渋滞時さながら。ようやくおうちが見つかったのか、戻ってこないのを見届けて発進させると、急に前方直近にまた飛び出してくる。急ブレーキでこっちがフロントグラスにぶつかりそうになる。全くもう!相棒は舌打ちもせず、渋滞時のイライラはどこへやらハンドルにあごを乗っけてもう長期戦の構え、こちらもー眠りでもするか…。しかし出たり入ったりの小兎の仕草は可憐で眠る気にもなれない。やれやれ何時になったらこちらも家に辿り着けるのやら。
外出しようと最初のカーブを曲がると隣の優秀な猟犬が道路いっぱいに寝そべって通行止めをしている。そろそろと車を寄せてもしらんぷり、相棒はオイどいてくれよ頼むから、と懇願するが完全無視。動物にはもうめろめろの舐められっぱなしである。仕方なく降りて、抱きかかえるようにして脇へどいてもらい、謝るようにしてやっと車のお通り。
然しこの犬とて、いつも意地悪なのではない。熊野古道への上り道を訊かれて、連れ合いが我家の裏山から案内して行った。私はちょうどパンを捏ねていたところだったので、これを寝かせつけて、一足遅れて駆け上っていったが、殆ど人の通らない道のこと、伸び放題の草や枝葉で道なき道に等しく、獣道の方が開けていたりする。方向音痴の私は自信を無くして、たちまちおぼつかない足取りになった。するとがさっと音がして、まさか猪?とひるむや、真っ白い、「千と千尋」の狼かと見まごうものが目の前にぬっと現れて、腰を抜かすほどに驚いた。なんだ、となりの猟犬じゃないか、まったくもう、とぼやいている間に彼はきびすを返してサーッと駆け上っていく。八八ーン、道案内してくれるのか、と後を追えば、確かにいつもの道。逃げる猪に追いついて、がぶりと急所にかぶりつくという俊足は、あっという間に見えなくなるが、心細くなる頃またがさっと現れて足元にまつわりついては、先を駆け上る。尾根まで辿り着いて、先発隊と合流した時には、もうどこにも姿をみせなかった。賢い犬はとても優しく、つつましい。車に対してだけ意地悪で横柄になる。ここは歩いて通るものだよ、とさとしているかのようだ。ますます賢い。
蛇も日向ぼっこか、べったりとお腹を地べたにつけてよく道をふさいでいる。足音などに機敏に反応して、こちらが気付く前にさっと身を翻して草むらに滑り込むのだから、車に気付かぬ訳はない。それが悠々と寝そべっていて、徐行する車すれすれに、やおら身を起こしてのっそり横切っていくのは、どうみても嫌がらせとしか思えない。一歩間違えぱ轢死してしまうのに。古来西洋では賢さの象徴として崇められた蛇の事、これこそ車社会に対する警告か?
冬日落ち家路尋ぬる兎あリ
<猿その後>
今年の猿害、猪害はことの他ひどいと言う。冷害で山の住民達にも辛い食糧難なのだろうか。彼らの好物サツマイモに至っては、早くも作付けの段階で苗を皆食べられてしまったとか、小指くらいで掘られてしまった、ガードを完壁にしていたから育つまでもったが、終にどこかから忍び込まれて泣く泣く全部掘ってしまった、後1週間置けばもちっと太るのに、などなどお風呂で聞く嘆きである。「畑作ってんの?」と訊かれて「ええ、今日はとうもうこしが2本採れて、おいしかった。」といえば「んまあ、もろこしなんぞ、ことしゃ一粒だって口に入らんだよ」と羨ましがられる。連れ合いが手ぐすね引いていた石投げもカンカン鳴らしも、とうとう出番はない。お隣さんの猟犬のお蔭だろうか。サツマイモは初めてなので、こわごわ我畑と、これはとても見込み薄かと、畑をしない隣の猟犬の真下に植えさせてもらった。財産の分割管理である。いずれも10月末に丸々太ったのを掘り起こすまで完全無傷。ありがたいことである。獣害よけに犬を飼う家は多い。しかし、わさわさ、ごーっと山を轟かせてやって来る猿の軍団には、犬の方が恐れをなして納屋に逃げ込んで震えているとも聞く。隣の犬達はいずれも筋金入りの優秀な猟犬である。2歳になるかならずで親について果敢に猪に立ち向かい、牙でやられて片目失明になっても猟を怖がる気配もないという。別の犬は、ある日通りがかると飼い主が片膝で押さえつけて、長ーく裂けた太ももを縫い合わせているところだった。犬は肩で息をしながら、悲鳴をあげるでも暴れるでもない。あっぱれだと思った。こんな、つわものどもが目を光らせていれば、猿はおろか、猪も鹿も手を出せないであろう。お犬さまさまである。
しかし「どうれ畑の具合は?」と見に来た古老が言うには「ははー、こんじゃあ、猿もこんわなあ」と。??群れをなしてやってくる猿軍団をまかなうには、獲物が少なすぎるというのである。二人きりの口をすすぐだけの、ちょぼちょぼの作物である。そしておらが畑以外、辺り見渡す範囲に作物はない。猿も様子を見にきては手をかざして、群れの頭領はこれじゃあ喧嘩になるか、と諦めて素通りするのか。町からの配布物にも、猿害を防ぐには先ず餌場を作らない事、とある。我家はそれを実践していたのか。つくづく少なき事はよき事かな、と想うのである。しかし、ほんとにそうかなあ、という疑問も残らぬわけではない。真実は、神ならぬ猿のみぞ知る。
くれないをチラとのぞかせ地の宝
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