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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(32)**<2010.11. Vol.66>

2010年11月04日 | 熊野より

三橋雅子

<本宮の大逆事件①>

 今年は1910(明治48)年に起きた大逆事件から100年が経つ。ここ本宮の地に来るまで、ここが、かの大逆事件に関わりのある地とはぜんぜん知らなかった。我が家から5~6㌔の国道沿いに請川(ウケガワ)という地があり、かつてそこをバスが通過する時は、窓際の乗客は袖で面を隠して通り過ぎる、という話を聞いた。その近くに掛かる成石橋界隈が、事件の謀議の一味と見なされた成石兄弟の在所である。

 本宮大社といえば神々賑々しいだけでなく、ここへ「蟻の行列」をなしてお参りに足を運んだ朝廷一族の末裔、天皇家との縁はいまだに深く、我が家のお風呂、湯の峰温泉は天皇家お忍びの温泉とか。その天皇家に謀議を企てた、などという由々しき事件には、永く緘口令が敷かれていたとしても・・・と納得がいった。

 成石兄弟とは成石勘三郎、平四郎のことで、天皇暗殺の謀議に加わった廉で二人とも検挙された。平四郎は「主謀者」幸徳秋水と共に死刑に処せられた12人の内の一人である。二人とも社会主義思想に関心を持ち、新宮の講演会や、勉強会などに足を運んでいたことは確かだが、とりわけその中で先鋭な活動家であったと見られる節はない。また、謀議を図るに足るグループらしきものも存在していなかったといわれる。

 捏造と言われる大逆事件は、これより7年前1903(明治41)年の赤旗事件に端を発する。社会主義者の堺利彦、大杉栄らが、同志山口孤剣の出獄祝いに「無政府共産」と大書した赤旗を押し立てて行進しようとしたかどで、女性4人を含む13人が検挙された。これを機に取締りの甘さを批判されて西園寺内閣が辞職、代わる桂太郎内閣が厳しい取締りを強めていく中で1907(明治40)年に新刑法の大逆罪が制定された。天皇家へ危害を加えようとした者の極刑の規定である。

 この赤旗事件の時、結核に冒されていた幸徳秋水は郷里の高知で静養中であったが、公判の開始に際して上京、その途中、新宮の医師、大石誠之助宅に立ち寄る。診察を受け、しばらく静養もするが、主な目的は財政援助の依頼であったといわれる。近くの寺で講演会を開いたり、熊野川に船を浮かべて「海老掻き」を楽しんだといわれる中に成石兄弟もいた。秋水は東京にたどり着くが、この新宮周りの道程と地元での接触が、秋水の足取りに沿って、「謀議」なるものの筋書きが形成されたもののようである。熊野川での川遊びは「月夜の革命談義」として検察による意味づけがなされ、調書に脚色されていった。折悪しく平四郎は、当時鉱夫などが自由に持ち歩き、漁法としても使われていたダイナマイトと導火線が自宅から押収され、爆発物取締り違反で起訴された。一旦は釈放されるが、やがて刑法73条(大逆罪の規定)違反に切り替えられて東京へ護送。兄、勘三郎は単なる平四郎の証人として召喚、取り調べられているうち、同様に刑法73条の被告人として、これまた東京へ護送されてしまう。本人も家族達も何のことやらわけが分からないまま、爆発物取締り違反事件が、大掛かりな「大逆事件」へと転換していく。秋水の講演会を開いた浄泉寺の僧、高木顕明も同様に検挙されていった。(死刑は免れて無期懲役となったものの、獄中で自害。)

 彼は被差別の檀家からはお布施が取れず、自らあんまの修行をして生計と寺の維持をまかなったと言われる。秋水が逗留し、資金的な拠り所としても頼りにしていた医師、大石誠之助もまた、毒を取ってくれるドクトル大石、と住民たちに慕われ信頼されていた。貧しい者からは治療代を取らず、窓口で3回ノックしたら免除(1回ノックは普通扱い)、というような約束事があったという。当時、紀州木材による「金の成る山」を持つ富豪の自由主義者や思想的な影響力の大きい僧侶が、虐げられた下層の人たちの信頼と尊敬を得ている図は官憲にとって誠に危険な、いち早く潰さなければならないターゲットであったのもうなづける。

 この医師、大石誠之助の甥が、西村伊作、『みちしるべ52号(2008年5月)』「新宮の文人たち」に登場した、東京市谷の文化学院の創設者である。伊作記念館の中で見つけた瀟洒な家具も作ったりする豊かな趣味の医師、大石誠之助にもその時触れたが、彼は傍目には資産家の優雅な文化人として、医療の合間に木工に費やす時間を楽しんでいたかに見えるが、実は心中、来るべき、否すでに身辺に迫っている暗黒の時代の苦渋をかみしめていたのだろうか?

 誠之助と伊作は単なる伯父、甥の関係でなく、伊作は両親を幼くして亡くした(地震災害)ため、誠之助に親代わりとして教育されて育った。思想的な影響も大きく、伯父と同様アメリカ留学を糧にして、個人尊重の「新しい家」を作り、絵画や陶芸の芸術教育を尊重する、自由な学び舎・文化学院を東京に創った。直接的な社会運動にこそ身を投じなかったが、その反権力行動は二度の投獄経験を招いている。

 誠之助が連行され東京に護送されたので、伊作は弟と二人でアメリカ留学から持ち帰ったオートバイ、ハーレイを連ねて東京に向かう。尾行の地元の警官は慌てて自転車で追うが到底追いつかず、隣の駐在に連絡、応援を頼むがこれも風を切るようなハーレイには歯が立たず、次々と沿道の、連絡を受けたおまわり達の自転車ををまいていった、と小気味良い東海道珍道中が淡々と描かれている。(伊作の自伝的著書『我に益あり』)

 時に伊作26歳、二児の父が虎革のジャンパーをひるがえしてハーレイをぶっ飛ばす光景は、おまわりだけでなく沿道の人々にも瞠目の図であったに違いない。しかし敬愛する伯父を案ずる彼らの心中は如何ばかりだったか。しかも伊作の、いささか古かったハーレイが途中で故障し、あえなくお縄になった。

 もう一回の投獄は文化学院の校長として、紀元節(現、建国記念日)や明治節(現、文化の日)といった祝祭日の儀式を行わなかったため、不敬罪のかどで、検挙される。のみならず、文化学院は遂に閉校命令を受けることになる(戦後再開)。戦前、祝祭日は今のように丸々の休日ではなく、登校して君が代はじめ「雲にそびゆる高千穂の・・・」などそれぞれの祝祭日の歌を歌い、教育勅語など賜り・・・、と退屈で「厳かな」儀式で半日近くが潰れるのであった。これを免れる点だけでも私は文化学院が羨ましい。

 いささか傍系に話が流れたが「大逆」の陰謀物語はこうして着々と作り上げられていった。戦後永く、本宮町になってからも、その前身本宮村というちっぽけな在所に、「本宮警察署」という和歌山警察署と肩を並べるような「格の高い」警察組織が歴然とあったのも、この事件の名残ともいわれる。(現、本宮幹部交番)

 今、請川には兄弟の<名誉回復を顕彰する碑>が墓の近くに建っている。勘三郎の孫に嫁いだ飯田久代さんは健在で、兄たちの無罪を信ずる妹とみの苦労や、義母(勘三郎の娘)の心痛を身をもって知る人である。

  生き別れ弟死刑にわれ終身長崎さして涙を呑みぬ  

と恩赦で無期懲役になった兄は長崎監獄に送られて行くときに詠んだ。家を出て20年後仮出獄したが、死刑の弟への無念さと長期の監獄生活で痛めた体は回復叶わず1年後に病没。

  行く先を海とさだめししずくかな   

成石平四郎 辞世の句

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