『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

2016年11月例会のご案内

2016年11月18日 | 月例会案内

阪神間道路問題ネットワーク
11月例会のご案内

2016年11月21日(月)13:30~15:30
西宮勤労青少年ホーム(ぷらっとアイ)会議室A

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12月例会のご案内

2016年12月25日(日) さくらやまなみバスに乗る会

日程は決まったのですが、まだ具体的に計画はされていません。午前11時頃の阪急西宮北口発【さくらやまなみバス】に乗る予定です。1時間程度で西宮北部に到着します。出来れば、北部水源池問題連絡会の方に、会場を用意してもらって、持参したお弁当を食べながら、歓談しようかとの提案です。その後、またバスで西宮北口に午後3~4時に帰着の予定です。バスの運賃が往復で1400円くらいかかります。また、お弁当として、コンビニおにぎりなど、ご持参して頂くことになりそうです。詳細が決まりましたら、後日ご連絡します。
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早いもので今年も残すところ一月半。『みちしるべ』11月号は、何とか全国集会に間に合いました。集会には「中の住環境」N住職と私の二人が参加。来年は千葉開催と決まりました。参加報告など、『みちしるべ』1月号に掲載したいと思います▼その1月号の原稿を、そろそろ心づもりをして頂きたい。年末の慌しさで、お忘れにならないようにお願いします。次期アメリカ大統領はトランプ氏です。日米のマスコミが誘導した候補にはなりませんでした。戦後の世界を支配してきたアメリカも、混乱の芽が出てきました。みなさんのお考えを、是非、原稿にして頂きたいと考えます▼10月例会は、S画伯・「みち環」Hさん・「きのこクラブ」Sさん・N住職と私の5人の参加でした。Sさんがムカゴを揚げたものを持参され、みんなで美味しく食べ過ぎました。(F)

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第42回 道路全国連 全国交流集会 集会アピール

2016年11月18日 | 道路全国連

 先日行われた、道路全国連の全国交流集会での「集会アピール」を紹介します。毎年、全国のどこかで、住民・国民無視の道路行政を変革させるべく、集会が行われてきました。そして、集会の最後に「集会アピール」が採択されてきました。

集会アピール

 第42回道路全国連交流集会は、2016年11月12日~13日、名古屋・労働会館で開催され、38団体、実質74人が参加した。

 今年7月に行なわれた参議院選挙で自民党をはじめとする改憲政党が過半数を占めた。しかし、32の定員1人区すべてで野党統一候補が実現し、11の選挙区で勝利を収めた。このことは今後の日本の政治にとって画期的な前進であった。ところが安倍政権はこれまでまともな議論を行わなかった憲法改悪を企図し、破綻したアベノミクスによる国民生活破壊の暴走路線を更に進めようとしている。そして相変わらずの大型公共事業の推進、リニア中央新幹線への公的資金の投入、辺野古や高江での米軍基地建設強行、東日本大震災の復興対策や原発汚染対策の遅れ、原発再稼働推進など国民生活を一顧だにしない悪政を続けている。

 名古屋での現地見学は国道23号線の大型車対策、都市計画道路の一部廃止、国道302号線の工事被害補償の見直しなど貴重な前進を勝ち取っているのを見てきたが、不要な都市計画道路がいまだに推し進められようとしている。愛知県内で見ると中部国際空港の第二滑走路建設、同空港へのアクセス道として「西知多道路」の建設が計画されている。

 リニア中央新幹線建設は愛知県内は勿論計画予定の各自治体でも多くの県民が反対を表明し、訴訟も行なわれている。多大な環境破壊が予想され、必要性、採算性、安全性と共に大深度工法による大量の土砂運搬による交通公害・渋滞の問題にも注目すべきである。にも関わらず、国がJRという一企業に3兆円もの財政投融資を行うことは許しがたい。問題の山積するリニア中央新幹線は建設中止以外に選択肢はあり得ない。

 全国各地で、決定されればたとえ状況が変化しても、また住民の反対が強くても道路の計画・建設は止まることが無い。「渋滞」を理由に次々と道路を新設、拡大しても渋滞は解決していない。ここ数十年にわたり巨額な予算をつぎ込んで高速道路、港湾、空港など大型開発事業が進められてきたが国土の破壊、国民生活の窮乏、環境破壊、健康被害を促進してきただけであると断言せざるを得ない。

 私たち道路全国連は国や地方自治体がこうした政策を転換し、むしろ高度成長期に建設された高速道路の劣化によるひび割れ・路面陥没の発生、老朽化し危険な橋脚・トンネルなどの対策・更新・補強にこそ予算を回すべきであると考える。

 また、CO₂やPM2.5の削減のためには自動車の総量を減らすことが最も有効な解決策である。

 私たちは個別の不要な道路建設に反対するとともに、「車優先の道路建設」から本来あるべき「人に優しい交通政策・まちづくり」を行うよう国や地方自治体に求めるとともに、そのために全力を挙げて闘いを強化することを決意する。

2016年11月13日

第42回道路全国連全国交流集会参加者一同

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『みちしるべ』**横断車道(84)**<2016.11. Vol.95>

2016年11月03日 | 横断車道

横断車道―84―

アメリカという国をどう見る?阪神タイガースが好きとかの観点ではない。戦後70年のアメリカの総体を問うのだ。若人には肌感覚がない戦前。団塊の世代も戦争を知らない。超高齢者も忘れたい時代。だが、経済活動のグローバル化は、戦前と現代で、天と地の差。その中でのアメリカは、如何なるものか?▼キラリー(殺人鬼ヒラリー)・クリントンが、アメリカの大統領になろう。オバマ政権の国務長官として、何をしてきたのか?リビアは政治的にも相対的に民主的制度が確立。その指導的存在のカダフィーは、圧倒的国民の支持を得ていた。彼が抹殺された原因は、アフリカ圏をアメリカ経済支配圏とは別の、ローカル経済圏にしようと提唱していたことだ。「民主化勢力」とCIAが偽称するスパイを送り込み、失敗するとISISを潜入させ、それも失敗すると、リビアの制空権をNATOが侵略した。結果、アフリカでもっとも豊かな国が、ISIS支配の最も混乱国に。そもそもISISはCIAの別動隊。オサマ・ビン・ラディンは、元CIAのスパイ。かつてソ連侵攻時期のアフガニスタンで、反ソ武装勢力を作るために派遣された。彼は寝返ったと言われているが、死ぬまで逆スパイであったとみる。また、中東では相対的政治近代化しているシリアでは、アメリカの調査機関でさえ、アサド大統領は国民の7割の支持がある。キラリーは民主化勢力と言いながら、実態はISISそのものを擁護し、アサドを追い落とそうとしている。北朝鮮と大差のない、過激派イスラム王・サウードのサウジアラビア等をけしかけ、イラクやシリアに混乱をもたらす。シリアはロシア、それにイスラエルの天的イランと親交が深いのが、攻撃される原因である▼リビアやシリアは遠い世界の事と思っている日本。が、日本もアメリカの餌食になっているのに、ある程度はお気付きの方もおられるであろう。「安倍政権の暴走」と言うが、安倍はアメリカの傀儡ではなかったか?ならば彼の暴走は、即ちアメリカの圧力。今国会でTPPの国会承認する手はず。自由貿易で発展するなどと思っている知識人は皆無。TPPの根幹は、ISDS条項。投資家(Investor)が国家(State)を訴える裁判制度。必ず投資家が勝つ仕組み。アメリカ巨大銀行の手先が、日本国を訴えて桁外れの賠償金を盗り、国家制度を変えさせる。こんなバカげたことが実現するのがTPP。多くの知識人は、なぜ黙っている?▼さて、キラリーが大統領になるだろう。彼女は悪魔ではない、ただの人。だが、行いは悪魔でも驚く。何故なのか?人類社会が膨大化し、人の心の交わりよりも、制度が人を操っているように見える。人類も発生したからには、必ず消滅する時は来る。が、それが近未来であることは、現存する人類が阻止しなければ!巨大隕石の地球衝突でなく、自滅であってはならない。  (コラムX)

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『みちしるべ』**始まりも終わりも地震(斑猫独語 70)**<2016.11. Vol.95>

2016年11月03日 | 斑猫独語

始まりも終わりも地震(斑猫独語 70)

澤山輝彦

 10月20日、テレビニュースを見ていると関東地方に地震とテロップが流れた。震度幾らと地方都市の名が出ている。その中に「行方市」というのがあり目をひいた。何故かといえば、どう読むのかわからなかったからだ。「ゆくえ」とは読めるが、まさか「ゆくえ市」ではあるまい。そんな所へ行くと皆、行方不明になってしまう。手っ取り早くインターネットで調べると、茨城県の「なめがた市」とあった。「行」を「なめ」と読むことは多くないだろう。このことも興味のあることだが、まあ今は置いておく。行方市は、東京都心から約70km、県庁所在地水戸市から約40km、霞ヶ浦に一面を接する所にある。一応、市の概況などに目をとおしたが、交通という項目に、「公共交通機関が乏しく、基本的には自家用車での移動が主である」とあった。この基本的とはまさに地方都市の現状そのままではないか、そんな気がしたのである。

 この7月と10月、『ムックきのこクラブ』の仲間と、きのこ観察と歴史探訪をかね、紀の川沿いの根来寺と粉河寺を訪ねた。JR和歌山線の岩出、粉河が最寄駅になる。10月が粉河寺であった。帰途に近い頃、とある神社にさしかかり境内に入ると、秋祭りの神事が終わり、土地の方々が一杯やっておられた。神主さんが現れ、これは直会(なおらい)と言って、神事の後の神酒をいただく酒宴である。皆様が今おいでになったのも何かの縁だ、どうぞあがって一緒にやってくれと言われる。一旦は辞退したものの、酒の魅力には勝てず、よばれることにした。まあ、話しは色々はずみ楽しく酒をくみかわしたのであった。そんな会話の中で、私たちが南海電車、JR和歌山線を利用してやってきたことが、おもしろがられたのである。彼らの日常の交通機関は自家用車だったのだ。まさに先の行方市の概要に書かれているのと同じなのであった。

 地方交通機関である鉄道の衰退は周知の事実である。利用者が少ない、経営がなりたたない、いや便数も少なく不便なのだ、だから乗らない。この双方が地方交通機関である鉄道を追いやり、今や鉄道ばかりかバス路線までも消滅させて行っているのである。そこに生まれる交通弱者の存在など意に介さないのである。

 私たち都会人が利用する日常の交通機関の利便性だけをもって、この問題に口を挟むのは100%正しいとは言いがたいが、なんとかならないのかと言うことぐらいは許されると思う。お国が大事といって莫大な予算があれこれにつぎこまれるが、人々の生活に直結すること、交通弱者の存在など、有効な手段が講じられているとは思えない。地方は衰退して当然、それが生態でもあるかのようなふるまいの国つくりが進むのである。やはり怒りが必要であろう。皆、賢くなって怒らなくなってしまったのかね。

 半世紀ぶりにイヴ・モンタンが出演している映画「恐怖の報酬」を観た。イヴ・モンタンって誰? という世代もいるだろうな。以前観て相当強い印象を受け覚えていた場面も、今一度観て、ああだったのか、の連続で新たな衝撃を受けた。生きるため、快適に生きるために、たとえ恐怖の報酬であってもそれを求めた男たち。生きていくことに快楽を求めるのは当然である。

 映画「恐怖の報酬」から次のようにもって行くのは牽強付会(※注)気味であるが、どんな所に住もうとも利便性の良い生活を営み、快適な日常をすごす権利はあるはずだ。その保障もなく、ましてそれらが消えてゆく、そんな事あってもいいのだろうか。日本国憲法を読もう。

 おや、地震だ。やや強いぞ、我が家の時計は2時10分(10/21)か。地震情報でも見るか。これで終わります。

 携帯電話にエリアメール、緊急地震速報 鳥取県で地震発生。強い揺れに備えて下さい(気象庁)が入っていました。これって本当に要る?

(※注)
 牽強付会(けんきょうふかい)=都合の良いように無理に理屈をこじつけること。
 牽強附会とも書く。牽強は道理に合わないことを無理に合わせること。
 牽は玄(ひも)に牛で、牛にひもをつけて引っ張るの意がある。本来は牛をひもで引っ張って動かすのは道理に合わないが、これを無理矢理強く引っ張って動かしてしまうことから牽強の意味となる。
 付会はばらばらなものを一つにまとめること、または、関係ないものを無理にまとめるの意。

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『みちしるべ』**赤い夕陽⑰**<2016.11. Vol.95>

2016年11月03日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑰

三橋雅子

<市街戦>

 ニーナと牛乳の楽しい暮らしも、まもなくあわただしく打ち切られた。突然、(情報がないから、すべてが前触れなく突然やってくる。)ダダダダッとこじ開けられた玄聞から機関銃が持ち込まれ、そのまま2階に運び上げられた気配。中国兵というだけで、国府軍か共産軍か?は分からない。やがて猛烈な銃弾が窓々から打ち込まれる。畳をはがして立てかける。それまでガチャンというガラスの割れる音と同時に、足元に転げ落ちてきた銃弾(飛び上がれ!という掛け声でジャンプしてよける)が、畳の威力はすごく、プスッと弾を吸収してやがてポロリと弾は力なく転がる。しかしだんだん砲弾の飛来は激しく、「地下室に避難だ」と元一兵卒の命令で、台所の床を蹴る。「開けゴマ」よろしく、ガラガラガラと床が動いて次々と階段を降りる。比処に入るのは8月9日、ソ連宣戦布告の日の「最初で最後の防空壕入り」以来。もはや焚き手の居ないガラーンとしたボイラー室兼中国人使用人たちの寝所だった空間。

 震えていたニーナも物珍しげにきょろきょろしながら、いくらか遠のいた銃声に安心したようだった。我々にしたって、何事初めての経験、しかし子供にとっては怖さよりスリル感ワクワクの連続。もっとも、これは大人達があまり慌てず、少なくとも恐怖で顔を引きつらせることから程遠く、弾が激しくなると、そろそろ地下にでも潜るかなどと、のんびり次の行動を指示していたからもしれない。しかし慌てふためいた大人も多かったらしい。いきなりの立て続けの銃声で「腰を抜かし」たり(こうなると本当になかなか立てないらしい)、何事ぞ?と小窓からのぞいたとたん、首が吹っ飛んだ、とかの被害も聞いた。

 しかし市街戦という戦ののどかさか、昼時になると銃声はポロンポロンと間遠くなって、やがで止んだ。「さすが食い意地の張ったやつらで助かった、それ!今のうち」という兄の掛け声で、階段を駆け上り、ガラガラガラ……と台所の床を開けて、手早く食事の支度、銃声が再開すれば、それを地下室に持って下ろして、ゆっくり宴会もどき。

 こうして夜も暮れ、当然銃声は止んで、食事を済ませた時に事件は起こった。止んだはずの銃声が突然激しく再開、バラバラガチャンという音で、隣の岸信介邸の一部に当たって撥ね返った複数の統弾が、ガラスを破って床に転がり込んできた。私はジャンプして弾を避けながら、壁際に身を寄せた覚えがある。その時ねえやが何を慌てたか、壁際どころか中央で、くるくると「逃げ回って」いる。「あぶない、端へ寄れ!」と誰かが言った時は既に遅く、ギャッと言ってねえやは倒れた。しかし彼女がぎゃあぎゃあ、と泣き叫ぶのを聞いて、子供の私でも大丈夫、と思った。少なくとも、死んじゃいない。そのふくらはぎを母が応急の手当てをして、父が知り合いの外科医のところに負ぶっていくことになったが。痩せたり、といえども30前の元陸軍2等兵に、その任が行かなかったのを後で不思議に思った。誰もが暗黙の裡にムリムリ……という了解だったのだろう。コロコロに太ったねえやを、こともなげに、がっしりした背に負ぶった父の姿が真っ暗けの闇に消えた。

<戦のあと>

 ねえやの「負傷」は、弾がすっぽりふくらはぎに納まっているとかで、「何もいじらず、そのまま」で終わった、と父は彼女を近くの知人宅に預けて手ぶらで掃ってきた。「伊達に大根ではなかったんだ」と皆は彼女のまるまるしたおみ足に感謝し、安堵した。

 さて翌朝は弾こそ行き交わないが、大きなトラックが慌ただしく「作業」をするので騒がしかった。通りまではかなりの距離があるので、トラックにぼんぼん放り込んでいるのが怪我人なのか戦死者なのかは分からなかった。担架も行き交っていた。

 そのうち、我が家の門から玄関までのレンガを敷き詰めた、かなり長い湾曲した道をこちらに向かって連なってうごめいているのが見える。玄関に近づいている兵士たちが「スイスイ……」つぶやいているのが分かった時、私はコップに水を汲んできて差し出そうとした。その時である。いきなり背後からびしやり!と手をはじかれて扉が閉じられた。後ろに肩で息をしている蒼白のニーナがいた。その、大人の姿を見て、私は咄嗟に自分が軽率で危険なことをしようとしていたのだ、と思った。しかし、演技でなければ、あの瀕死の兵士が敵でも味方でもない、我々に何の危害を加えることがあり得たのだろうか?と疑問に思った。多分あそこで息絶えたかもしれない兵士たちの姿がいつまでも目に焼き付いていた。「末期の水」になったかもしれない。あるいはコップー杯の水で、命を取り留めたかも知れない。いずれにせよ、私は一杯の水を差し伸べることが出来なかったことに胸を痛めた。そしてニーナの第三の顔を見た気がした。

<別れ>

 ニーナの夫君スチパンソフが、慌ただしく電話室を出たり入ったりして、ニーナには遠くに行っていろ、と言っているらしかった。当時、他の家は知らないが、我が家の電話はちょうど公衆電話のように、扉付きの個室にあった。私たちはどうせヒソヒソ早口の話など分かるわけもないが、ニーナが漏れ聞いたことをすぐに私たちに話すだろうとの危惧かららしかった。彼はスターリンと大事なことを話しているから、とニーナは肩をすくめて電話室から遠ざかった。

 その電話の後、夫妻の帰国を知らされた。ニーナは泣きはらして、いやいやをしているらしく、スチパンソフ氏も、ほとほと困っている様子。スターリンの命令には逆らえない、と言っているらしかった。私たちはすぐに別れの宴の支度にとりかかった。慌ただしい中、中国人のコックもボーイもいない中、残っているたった一人の日本人ボーイとねえやと母と兄嫁と大きい姉の手で、よくも、と思うほどの宴のご馳走が整えられた。

 しかしニーナは泣きじゃくるばかりで、ご馳走どころではない。スチパンソフ氏が背中をさすりながら、せっかくみんなが用意してくれたのだから、一口でも食べなさい、と言っているらしいが、ニーナには何も通用しない。私は子供心にも、よくもこんなだだっ子で、えらいさんらしい人の奥さんが務まるものだ、と不思議に思った。

 別れのシーンは記憶にない。スチパンソフ氏が難儀を予想して、人知れず早朝に発ったのではないかと思う。短かったが、かの将校たちと同じ、「濃密な経験を共有した同居の日々」だった。

 彼らのいなくなった元々我々の応接間は、無論かつての2組の応接セットもピアノも オルガンもないまま、代わりにレコードをかけて、夫婦が静かにお休み前のステップを踏んでいた余韻を残していた。そして毎晩「スパコイノイノーチ(おやすみなさい)」と言って去ったように、私は静かに応接間のノブを回した。

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『みちしるべ』**佐渡金山に働く人 ―川路聖謨(としあきら)の日記より―**<2016.11. Vol.95>

2016年11月03日 | 川西自然教室

佐渡金山に働く人
――川路聖謨(としあきら)の日記より――

川西自然教室 井上道博

 春の四天王寺での古本市で、1992年刊「佐渡金山」磯部欣三を求めてきた。著者は佐渡博物館館長で、内容は「地底の水替のこと」「大工と掘り子」「心中と盆踊り」「金銀山の遊女」「流人巡礼」など興味深いことが書かれている。その一部を取り上げる。

 天保の頃の佐渡奉行川路聖謨の日記「島根のすさみ」が残っている。彼は天保11年(1840)6月に相川に来て、翌年5月に江戸へ戻ったが、その約1年間にわたる道中及び佐渡での見聞を留守宅に送った。これがその日記である。

 彼は奉行として初めて坑内へ入った人といわれ、鉱山で働く人の風俗が綴られている。

 「坑内を見学するつもりである。たとえ奉行の見回りであってもコヨリで作った笠をかぶって、裂織という木の皮で織った半纏のようなものを着て丸腰で入らねばならないという。」コヨリで作った笠をテヘンといい、これは役人がかぶる。坑夫は素顔で、みんな坑内に入ると短い着物で草履ばきという。また「用心に縄の帯をしたる由、是は右の通り切所故、おりおり崩ることあれば道なしに也。其時人のよりて石を除き道を作るに3日も4日もかかる。其内の食は、藁の縄を咬みいるという。心細きことなり。」と書かれ、坑内に入るとき藁帯を締めて入坑したことを書き残している。

 大工については、「佐渡は日雇い銭が安いところだ。銀山への弁当持ちで通って28文くらい。その中でも坑内で金銀を掘る大工は、1日に4百文も5百文もとる。いたって苦しい仕事であるという。大工になって7年の寿命を保つものはない。みな病に倒れ、咳を出し、煤のようなものを吐いてついには死んでしまう。これは石州やその他の金銀山も同じというが、油煙が自然に鼻や口の中に入り腹の中・脳髄も腐ってしまうというが本当だろうか。」「大工になるほどのものは、朝夕を酒と色で身を沈めて身体を弱らせ、それがために山の毒気を多く受けて死にやすい。だからどちらかといえば金抗へ入って死ぬより、酒色に溺れたがために病をえて死ぬものが多いと。そうもあろうかと思う。」

 他にも坑内で口笛を吹くこと・歌を口ずさむことは「山の神が踊り出す」と嫌った。また坑内で頬かむりをするのは、「耳をふさぐと崩れを予知できない」と禁じた。またけが人や死者があると顔をかくして運び出すなどの風習があったという。

 ふりかえって多田銀銅山ではどのような状況だったのだろうか。

 川路聖謨は嘉永7年(1854)、プチャーチンひきいるロシア軍艦が大坂湾に来航した時、海防掛・勘定奉行として砲台築造を上申し、日露和親条約締結時には幕府の全権として活躍した。ロシアの特使プチャーチンを相手に堂々と渡り合い条約を締結、「ヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても一流の人物」と言わしめた。

 「島根のすさみ」佐渡奉行在勤日記では、天保9年(1838)佐渡に島内一円を渦中に巻き込む百姓一揆がおこった。長年打ち続く不作・凶作で疲弊した農民が租税免税などの嘆願を佐渡奉行に嘆願したが顧みられず、幕府の巡見使に直訴したのが発端で、佐渡奉行はこれを弾圧した。百姓たちはこれに対し問屋や豪農への打ちこわしで対抗した。幕府はこの一揆が「大塩平八郎の乱」に続いて起こったため神経をとがらせ、またこの頃の奉行所内の腐敗も目に余ったため、川路聖謨を派遣した。

 川路聖謨はこの時40歳、天保11年(1840)7月11日、江戸板橋をたち熊谷から三国峠を越え小千谷・寺泊から佐渡へ渡り、7月24日相川の奉行屋敷に到着した。そして帰任は翌天保12年(1841)5月9日にたち小木から出雲崎へ船で渡り、信州上田から碓氷峠を越え5月26日に江戸へ帰着した。

 川路聖謨は豊後日田の生まれで、江戸へ出て養子にはいり、わずか九十俵三人扶持の小普請組から身を起こし、老中水野忠邦・脇坂安(やす)菫(ただ)・大久保忠真に認められ勘定吟味役に抜擢された。

 のちの安政の大獄に逢い隠居を命じられたが、大政奉還・江戸城明け渡しの際に腹を掻っ捌き、ピストルで自殺した人物で、先祖は川西市小童寺に廟がある嵯峨源氏・渡辺綱といい、まさに波乱万丈の人生だった。

 他に「長崎日記・下田日記」を残しており、剣は柳生新陰流免許皆伝、宝蔵院槍術の名手だったそうです。

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『みちしるべ』**表現の自由と恫喝訴訟の顛末について**<2016.11. Vol.95>

2016年11月01日 | 単独記事

表現の自由と恫喝訴訟の顛末について

佐田俊美

 2009年の秋11月、姉から、姉の息子である甥が生死の境をさまよっているので、山口県上関に行ってくると電話があった。さて?なに?どこ? 下関は知っているが、上関ってどこ? さいわい甥の命は無事だったようだが、そもそも何で、そんな危ないめにあったのか? 姉の話によると上関の原発の建設現場で、中国電力の職員に羽交い絞めにあったようだとか……、えっ原発って瀬戸内海につくるのか?! その時は原発が日本の各地で50基以上も稼働していることなど知らなかった。瀬戸内海では四国に伊方原発がもう稼働していたと後から知った。

 甥はその上関の原発建設予定現場にて、豊かな海の生き物を守るため反対の立場で、祝島の人たちや、原発建設に異議をとなえる方たちと共に、身体をはって建設反対の意思表示をしていたのである。その退院後2009年12月に、中国電力に訴えられたようだ。提訴内容は工事妨害で、甥を含めてピックアップされた4人に対し、損害賠償責任を問う4,800万円! そもそもこの裁判が勝訴になろうと敗訴になろうと、中国電力の社員が泣き笑いする〝顔″が見えない! 社員が裁判に出向するにも、会社からお手当が出るわけだし、裁判は5分くらいで済む時もあったらしいから、社員にとっては逆にうれしい担当なのかもしれない。かたや被告にされた方は手弁当で出頭し、もしもこの裁判で負けたら、高額な賠償金をどこでどう工面したらいいのか? それはさしせまる心配なことで、眠れない夜もあったであろう。人を訴える場合は、やはり訴える理由に付して、その力関係も考慮に入れる仕組みを作った方がいいのではないか? この訴えは暴力と同じだ。企業や国が簡単に、個人の弱みをついて訴えることができること自体、庶民にはおそろしい言論統制ではないだろうか? 「もしか被告?!保険」でもあったら掛けておきたい。

 幸いにも6年以上にわたるこの訴訟は、この8月30日に「和解」という結果になり、中国電力は賠償金請求を放棄した。(しかし、3.11の福島原発事故の収拾もつかないまま、上関の原発建設が白紙に戻ったわけでもなく、山口県知事は埋め立て許可を… 今後ますますの注目事項となってきている。)

 この裁判では傍聴バスツアーの企画があり、三回ほど広島県三原から山口地方裁判所行きのバスに乗せていただいた。そのバスや裁判所の待合で出会った方々との意見交流の機会は、わたしにとって素晴らしい体験であった。

 いろいろな、気づきや出会いを与えてくれた甥っ子の行動に感謝している。

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『みちしるべ』**東日本大震災支援バスによる 名取市閖上地区 愛島東部団地訪問記**<2016.11. Vol.95>

2016年11月01日 | 山川泰宏

東日本大震災支援バスによる名取市閖上(ゆりあげ)地区愛島(めでしま)東部団地訪問記

2016(平成28)年8月20日

神戸・心絆(ここな) 会長 山川泰宏

 東日本大震災から5年5ヶ月の歳月が過ぎ、愛島東部団地 全理事会長 遠藤一雄さんとの約束でした、3月・8月の心の支援の時が再び訪れました。本来ならば、震災から5年5ヶ月が過ぎ、仮設住宅解消のニュースが聞こえるはずでした。名取市閖上地区の多くの被災者が暮らす、東部仮設団地や箱崎団地などでは、いまだ解消の目途さえ立ち行かない状況でした。

 神戸・市民交流会の事務局長として、初めて閖上地区の閖上中学校に「神戸の1.17の竹灯籠」を持ち込んで、追悼行事に参加させていただいたのは、2012年3月11日でした。春、未だ遠い季節、雪、霙(みぞれ)交じりの悪天候の中、閖上中学校のグランドは津波の持ち込んだヘドロ状況のまま。そして津波に流された漁船が2隻横たわり、周辺はまだ瓦礫の山が彼方此方に山となす。人々の暮らしていた住居は土台のみ、残る家々も廃墟のまま。多くの他県応援市民ボランティアの皆様とともに、開催できた第1回目の追悼行事でした。

 震災から3年目、2013年3月11日の命日はすさまじい強風。多くのボランティアが並べた絵灯篭や竹灯籠で作る【絆】は、予定したグランドから撤退を余儀なくされ、風よけした校舎入り口の時計台のある場所で小さな灯りが灯されました。

 折からこの場所に見えた遠藤自治会長と、初対面の山川が神戸の竹灯籠とローソクを遠藤氏に手渡したのが、愛島東部住宅との竹灯籠の交流の始まりでした。2013年8月のお盆追悼行事に初めて竹灯籠を持参するにあたり、愛島東部住宅関係での犠牲者のご尊名を書いた竹灯籠を持参させてくださいと申し入れました。その際、遠藤自治会長や橋渡ししてくださった、故喜多山了さんとの交わり。それが、明日への希望と勇気につながる追悼行事の産声の始まりだと私は信じています。

 毎年、ボランティア活動に参加しながら、齢78歳の老人になりました。仮設の皆様も年老いてゆく中で、兵庫の地から参加させていただく私たちと、心からの強い絆がまかれているように感じます。ボランティアとは、多くの市民に力を貸す作業をするのが生業です。愛島東部住宅で開催する交流会も、忘れてはならないひと時の時間の流れが、そこに存在しています。

 今回の訪問で、取材したテレビ放映が交流会の中に流れた時、この人たちと共に分ち合ってできた体験が、主催者や参加者に、多くの素晴らしい希望の灯りと、心の繫がりが芽生えたと信じています。

 今回、5年5ヶ月の名取市閖上地区復興状況の説明を受けました。東日本大震災で岩手県、宮城県、福島県(原発事故の地域を除く)の、被災地の復興状況には温度差を著しく感じます。閖上地区においては前名取市長と住民間の話し合いがこじれ、復興住宅への完全移行はあと数年かかるようです。

 一部、愛島東部住宅の住民の復興住宅への転居が済んだ方もいるが、遅々として進まない復興住宅問題。目に見えないところで、東京オリンピックの誘致に伴う、建設資材の高騰、建設労務者の人手不足、そしてオリンピック誘致の建設業者の東京中心等々。政権の「復興を加速します」との甘言が、絵に描いた餅のように感じるのは自分だけでしょうか?

 テレビや新聞報道は、被災地のすべてを網羅して、国民に知らせているとは信じないほうが良いです。今、報道に必要なのは被災地の5年5ヶ月の遅々として進まぬ現実です。

 津波被害から国民を守りますと、多くの震災防災関係の先生方が決め、東日本に巨大な堤防を構築し、挙句の果て、人間生活を断念させたような巨大堤防。大手建設業者は一人勝ちで被災地を離れます。残された多くの被災者や市民はどうなるのでしょう?広大な太平洋の恩恵を、人は受け入れ海の幸を生活の糧としています。津波が怖いのは事実です。しかし、自然に逆らわずに生活するすべを、もっと大切にした国づくりこそ、今求められているのではないでしょうか?

 今、東日本被災地の美しい海岸線が、人の命を守るといわれる定義で自然破壊をしつつある現状を見ると何故か悲しく、あの砂浜の一つ一つが鳴き声を上げているように感じます。

 津波は恐ろしい自然災害です。しかし、人間の勝手で自然の恐ろしさを受け入れなかった人々や、もっと思慮深く考える学者と呼ばれる人たちに、思案してもらいたかったと思います。

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 宮城県名取市閖上地区 愛島東部住宅への訪問への活動は、「ひょうごボランタリープラザ」(主催)、「神戸(こうべ)・心(ここ)絆(な)(旧 神戸市民交流会を山川泰宏が引き継いで開催)」(協賛)で行っています。

 参加者は、「ひょうごボランタリープラザ」から鬼本所長・市橋副部長・遠藤・川上・高橋の各氏。「神戸・心絆」から山川他8名。一般募集ボランティアは40名(17歳~78歳)。

 東日本大震災支援バス(観光バス2台)2016年8月14~17日の予定を以下に示します。

第1日 2016年8月14日(日)

17:30 神戸クリスタルタワー出発
18:00 摩耶埠頭公園<竹灯籠・ローソクの積み込み> 一路宮城県名取市へ

第2日 2016年8月15日(月)

07:00 宮城県菅生PA到着 各自朝食 対応
08:30 名取市閖上地区 日和山公園 語り部
10:00 名取市「愛島東部住宅」到着 宮城県名取市愛島笠島西小泉68

【追悼行事支援活動等】

一部 14:00~15:00(14:46 黙祷 竹灯籠の謂れと発声 山川泰宏)
二部 17:00~18:30(18:00 祈り 東日本大震災津波犠牲者 山川・鬼本・高橋
今回持参した竹灯籠311本 兵庫県佐用町南光竹づくりグループの協力です。

【交 流 会】

18:30~20:00
20:30 宿舎ユニサイト仙台到着 宮城県仙台市青葉区中央4-2-3

第3日目  2016年8月16日(火)

08:45 宿舎出発(仙台市内の観光バスに乗り換え)
09:30 ヨークベニマル若林店 各自 昼食を購入
10:00 仙台市若林区荒浜 東日本大震災若林観音像 黙祷
     若林小学校の廃校校舎見学
10:30 若林区井土地区 講和・復興支援活動・昼食
13:00 若林班 井土地区の農地の瓦礫拾い支援
     愛島班 追悼行事竹灯籠 片付け・持ち帰り 
15:30 3.11せんだいメモリアル交流館 到着 講和・視察
     (場所:宮城県仙台市若林区新井字沓形85-4)
16:30 現地出発
17:00 天然温泉極楽湯 仙台南店 到着 入浴・夕食(各自対応)

神戸行きバス二台に乗り換え (住所:仙台市太白区西多賀5-24-1)
愛島東部住宅関係者、多数の見送り。
懇談をしつつ名残を惜しんで再会を願った。

19:30 現地出発 一路神戸へ

第4日目  2016年8月17日(水)

08:30 摩耶埠頭公園 神戸・心絆 事務所に竹灯籠の残材下し
     (今回、竹炭焼きの焼却のため)
09:00 神戸クリスタルタワーにて 解散 お疲れ様でした。

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