『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(46)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月06日 | 横断車道

団塊の世代には懐かしい「省線」(現在のJR)と言う言葉がある。中学生の頃まで、結構聞いたものだ。戦後もしばらくは、戦前を過ごした大人に親しまれた言葉として残っていたのだ。「省線」と言われる前には、「何とかと言われていた」と聞いたことがあった。その「何とか」が判らなかったので、調べてみた。それは「院線」であった▼鉄道院は1908年(明治41)逓信省鉄道局と帝国鉄道庁とを合併して内閣に設置。鉄道院時代には院線と言った。その後、鉄道院を昇格して1920年(大正9)に鉄道省を設置。1943年(昭和18)には運輸通信省に統合。この時代は省線と言った。戦後GHQ支配下の1949(昭和24)年、独立採算で国の特別会計をもって経営する、日本国有鉄道(JNR)が誕生した。いわゆる国鉄で、都心の電車区では国電と親しまれた。1987年(昭和62)4月に中曽根内閣により民営化され、その事業は7株式会社(JR)に分割された▼JR宝塚線(福知山線)には、60年代までSLが走っており、阪神間の奥座敷「武田尾」に、遊びにいったものだ。トンネルでは暑くても窓を閉めなくては煙が入ってくる。石炭の煙の匂いを覚えている▼神戸線(山陽本線)では早くから電化されており、SLが走っていた記憶はない。が、昭和一桁の人たちは、火の粉を散していた記憶を持っていた。列車のトイレは垂れ流しで、沿線で水しぶきを受けたら臭かった。そんなわけで、その昔は「省線」の沿線には住宅は建たず、田圃が広がっていたのだという。笹山の街に福知山線が通る計画が出たとき、迷惑だと篠山口駅まで遠ざけたという。3.5kmもの距離を設けたわけだ。駅前一等地と言う考え方は、近年までなかったらしい▼江戸時代、日本の集落は街道結節点の宿場を中心に形成された。地方の集落も街道筋に面して形成されていた。現代の地価評価にも路線価といって、道路により価格が形成されている。ところが、現代の幹線道路は公害が、その特徴となっている。かつて「省線」沿線がそうであったように、公害を避けて店も住宅も衰退している。幹線道路に出店するのがステータスの時代は過去のものとなった▼フランスやドイツでは、トランジットモールというのが流行の兆しという。街のメインストリートから車を締め出し、路面電車を走らせるのだそうだ。自動車の交通量が多くなると、人は歩かなくなり、商店にはお客がこなくなってしまう。しかし、車の通らない街には、歩行者が圧倒的に多くなる。そのために商店にくる人が多くなるというのである▼かつての「国鉄」が電化で、沿線に住宅が増えた経緯がある。幹線道路も公害を克服し、沿道に住宅や商店が復活する日が、早く来ることを望むものである。 (コラムX)

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『みちしるべ』斑猫独語(30)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月05日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<トロリーバスいまむかし>

 日本でトロリーバス(無軌道電車)が初めて走ったのは、昭和3年(1928)川西でだった、と川西に住んで知った。このことを知らずに一生を終えても何の不都合もないのだが、これを知った私の一生はうれしいものになった。このトロリーバスは開業4年で経営不振のため廃業する。これに限らず日本のトロリーバスは芳しく育たなかったようだ。

 大阪市では昭和28年、大阪駅〜神崎川間に初めてトロリーバスが走った。中学生だった私は喜び勇んで乗りに行き、大阪駅〜神崎川を往復した。車内は空いていて、静かなモーター音で走るこの乗り物を、力強いとは思わなかったのを覚えている。市電が撤去された後トロリーバスになった所は何ヵ所かあったが、玉船橋〜今里間もその一つで、この路線には四ツ橋の電気科学館へ行くのに何度か乗った。

 車社会に突入して市電は厄介者扱いされ撤去が勢いづき、先のようにトロリーバスに変わった路線が幾つか出来た。トロリーバスは車と共存出来ると宣伝されていたようだ。しかし車は増え続ける。現在のように環境問題を総合的に考えなかった時代だ。やがてトロリーバスも厄介者扱いされだし、玉船橋〜今里間は昭和44年9月1日、大坂駅〜神崎川間は昭和44年10月1日廃止、昭和45年6月15日トロリーバスは全廃、不運にも短命に終わってしまうのだ。

 日本では薄幸だったトロリーバスだが、世界に目を向けると今もトロリーバスが走っている街はある。近くでは北京だ。4年前北京へ行ってトロリーバスが走っているのを見た。中心街には電源をとる架線の無い所があり、そこはバッテリーで走っているのだろう、集電ポールをたたんで走る姿に、これぞ無軌道電車だと思ったものだった。北京をはじめ旧社会主義諸国には今もトロリーバスが走っている街が多いのではないか。社会主義国家のとった交通行政の一面なのだろう。またそれが市民の足として確固たる地位を築いたのだ。日本では、現在、立山黒部周辺観光の足としてトロリーバスが走っている。このトロリーバスには一度乗ったことがある。環境問題など考えていなかった頃のことだ。国立公園の山をくりぬいたトンネルを走る路線には排気ガスを出さないトロリーバスが最適なのだ。そんなトロリーバスは都市にもいいはずだ。今一度乗ってみて、トロリーバス復権の可能性などを考えてみたいと思っている。

 トロリーバスは法的には無軌道電車と言ったが、無軌条電車と書くように変わった。無軌道は考え方や行動が常軌を逸する状態を指すので、これを避けたのである。

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『みちしるべ』熊野より(24a)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月04日 | 熊野より

三橋雅子

<熊野の道>

 牛が草鞋を覆いて馬喰うと歩いた道は、当時は熊野古道とは当然言わなかった。これしかない、一番新しい道だったに違いない。いつから古道になったのか?新しく国道が出来、ほとんど省みられなくなって、あらかたが荒れ放題の、道なき道のようになってから、かつて都から「蟻の行列」をなして熊野詣に通った道を「古道」と称して整備したものであろう。それも「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、古道までが世界遺産に登録されてしまうと、ハイカー・観光客が足繁く訪れるようになる。折角隠遁の地をはるばる探し求めて来た者としては、これはちょっとした脅威ではあったが、何のことはない、観光客が増えたのは遺産登録認定(‘05年7月)後から1年余り、その後は減少に向かっている、と観光課は嘆いている。

 最盛時の賑わいとて、仙人とやまんばのわが住処には、何一つ聞こえてくる騒音も変化もないのだが。

 確かに800を超える世界遺産の中でも、道そのものの遺産は珍しく、他にはフランスからスペインのサンディアゴ大聖殿に至る巡礼道のみであるが、これはキリスト教徒だけが一直線に大聖堂へ向かう道。紀伊山地の参詣道は修験道の「吉野・大峯」、神仏習合の「熊野三山」、真言密教の「高野山」という異なる山岳宗教の三大霊場にそれぞれ向かう道であり、それには「紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し」(梁塵秘抄)の選択があり、紀伊路にも小辺路、大辺路、中辺路という多様なルートがある。宗教上の多様さだけでなく、特に熊野へは貴賎、身分の上下を問わず、女人も禁じられず「聖地」に向かって老若男女が苦難の道を一心に辿った。熊野が何も拒まず受け入れ、何でもあり、と言われる所以か。

 しかし「古道」として復活させる為の手の入れようは、ここまでしなくても、と思うくらい「懇切」である。往時、遥か彼方までの参詣への願いを込めて一足一足踏みしめた難行苦行の追体裁とは程遠い。本宮を訪れる人々は、あらかた発心門王子に向かう。五大王子の一つとしてバスも通り、桜と紅葉の名所でもあり、何より熊野本宮大社の霊域の始まりとあればもっともなことではある。さらに、本宮大社が初めて視界に入り、伏し拝んだという伏拝王子、最後の禊ぎをしていよいよ大社に至るという祓殿(はらいど)王子。(この、随所にある王子、熊野九十九王子といわれるものは、本社に祀られている神の末社で、参詣の便を図るための遥拝所であり、休憩所でもある道標的なもの。)しかしこのルートは、残念なことに大半がアスファルト道である。周辺の景観を除いて、道そのものは当然、世界遺産の対象ではない。見るべきものは多いが、古道を歩くという感触とは程遠い。「古道」を楽しむには、やはり田辺?本宮への中辺路や、石畳が見事な伊勢路であろうか。

 我が家の付近の、つい三十数年前まで子供たちが賑やかに分校に通ったという通学路は、文字通りの古道になって、鎌を片手に草木を掻き分けなければ進めない。また、我が家から二十分ほど薮を掻き分けながら登れば、赤城越えという古道に至る。世界遺産には入っていないが、本宮大社にも湯の蜂温泉へも通じる道でもあり、反対側は中辺路へ到る。古道通が一番いいという穴場の道。

 たまに道を外れた歩き手が、この辺から赤城越えに出られないだろうか、と我が家に迷い込んできたときには、鉈、鎌を手に案内役をかってでる。「古道」に着けばほどほどの整備済みで、たまに猪がミミズを堀りながら横切ったと思しき穴ぼこがある程度、人に会うことは滅多にない。私は時たま、ザックにお風呂グッズと、飲み物を入れて、我が家の風呂場、湯の峰温泉に、この道経由で行く。1時間20分。車なら15分ほど、その車道を歩けば50分だが、アスファルト道は気が進まない。赤城越えの、ふかふかの足元や、岩や木の根がごつごつの、スリルに満ちた行程は、温泉での足腰ストレッチを楽しみにさせる。遮る林が途切れれば、片手に発心門を俯瞰し、片や果無山脈、さらには奥駆道へと繋がる山また山が、熊野燃ゆ、とばかりにどこまでも深く緑を凝縮させている。

 初夏の熊野木々のみ賑わいて

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『みちしるべ』私のモロッコ紀行(2)**<2007.7. Vol.47>

2007年07月03日 | 藤井新造

私のモロッコ紀行(2)

芦屋市 藤井新造

アフリカ大陸への入口の港町タンジェから、メグネス、フェズヘ

 カサブランカからモロッコを時計廻りで移動する次の都市がタンジェである。

 ここはスペインの南アルヘシラス港よりジブラルタル海峡をフェリーに乗り、モロッコヘ着く有名な港町である。フェリーでの乗船時間が約2時間半と言う。もっと時間を短縮したい人は高速艇を利用すれば1時間20分で渡れる近さにある。それ故、ヨーロッパ、アラブの国から多数の人々がこのルー卜でやって来ると言う。

 それと、昔から貿易の要所として栄えた都市である。確かに地図を広げてみれば、地中海上の西の港町として好個の位置にあることがわかる。メディナ(旧市街)のプチ・ソッコの丘から下方の港を見渡すと、フェリーの発着場が見え、土曜日のせいか若者たちの群がりがあっちこっちに見られる。この光景は大阪の天保山の波上場でたむろしている若者の姿と何ら変わらない。

 但し遠方へ眼を移すと、左側が大西洋、右側が地中海とくっきりと区別される雄大な場所なのだ。

 そしてここからスベイン半島が幽かに見えてくる。かすみがかった雲にさえぎられながら見え隠れしながら見ることができた。

 タンジェからフェズに入る途中の街メグネスでは有名なマンスール門、ムーレイ・イスマイル廟を見学した。前者は北アフリカで美しい門として有名で、後者はモロッコで非ムスリム人、即ち私みたいな異教徒でも入場できる数少ない霊廟である。

 つい数ヵ月前のトルコ旅行でも、数多くのモスクを見たが入場できた所は少なかった。

 勿論、地元の人と私たちとは一様ではなかろうが、一般にイスラム社会では宗教施設を厳粛な場としていて、観光客にあまり開放していない感じである。

 ムーレイ・イスマイル廟は、建築物にさほど興味の無い私であるが、内部は壁から天丼にかけてのモザイクや漆喰彫刻の見事さに「なるほど」と感嘆させるものがあった。

 一方、ムーレイ・イスマイルのこの時代(17世紀)キリスト教徒弾圧のために作られた地下牢、ここは4万人もの囚人が足を鎖につながれ収容された場所という。宗教対立が激しく、異教徒にたいして仮借なき弾圧の手段をとった時代とは言え、この牢は囚人にとってあまりにも苛酷な場所である。

 タンジェからモロッコの中央部に位置するメグネスヘの道、そしてメグネスからフェズの街に通じる地帯は、果物、野菜畑が延々と続く緑に覆われ、この国が農業国であることがわかる。

 ここはアフリカでも肥沃な大地なのだ。列国、特にフランス、スペインが植民地として長く統治した理由がわかった。今でもタンジェの街の一角はスペインが宗主国として君臨していると聞いたが、さもありなんと思った。

 丁度、ドイツがチェコスロバキア、ポーランドをユダヤ人虐殺の目的と同時に、その国の豊かな大地を欲しがったために侵入、占拠したのを、両国を誘れた時感じたが、今回も同じ思いを抱いた。

 このモロッコの大地では、今も農婦がロバにまたがり畑の中の道をゆっくりと通り、小型の中古らしきトラクターを運転している農夫、放牧のなかで働いている少年などが見られる。何とのどかな農村風景ではないかと、私はみあきることなく眺め、私が少年時代育ったなつかしい村を思いだし感傷にひたっていた。

 フェズはタンジェの港町から南東へ約200kmの位置にある古い都市である。フェズの街に夕方に着き、既にあたりは暗くなっていた。夕食まで1時間余りあり、ホテルに荷物を置いて早速散歩にでかける。散歩と言ってもホテル周辺を歩いただけであるが、小さい公園では若い男女があっちこっちのベンチに腰掛け、二人だけの会話を楽しんでいる。この小さい公園にふさわしく、小型のメリーゴーランドが廻っていて、孫の祖父らしき人が幼児を乗せて遊ばせている。公園の一角に、よく見ないとわからない位の小さい文房具店があり、つれあいが子供に投函するはがき用の切手を買う。

 この国では切手を売っている店と、タバコを売っている店を注意深くみていたが、両方共に見かけることはなかった。

 タンジェの中心街から少し離れているせいかホテル周辺は閑静で、背の高い街路樹が程よい間隔で植えられている。

 翌朝よリフェズ市内の名所、旧跡めぐりである。ここはモロッコ最大のメディナ(旧市街)があり、午前いっぱいツアー一行は歩くことになる。

 このメディナの迷路こそ、カサブランカのそれを一廻りも二廻りも大きくしたものである。

 狭い石畳を下ったり上ったり、又曲がりくねったりして歩く方向さえわからない。昼間でも薄暗いトンネルのような路もあり、この狭い路を荷を積んだロバと、手押し車(リアカーに似ている)がひっきりなく往き交う。

 私達日本人を見て、例のカサブランカと同じように若者が「サイフ5個1,000円、ハガキ10枚500円」と手にかざして呼び売り込みがある。

 しかし前述したようにトルコほど執拗に追ってこない。この旧市街地は、周囲26krnの城壁に囲まれているなかにあり、外に出て小高い丘から眺めると整然とした街の風景に見えるから不思議である。どこも赤黄色のレンガで家が建てられ、一見スパニッシュ風の屋根を見渡していると、西欧風の光景を想像させる。

 旧市街の路が狭く暗くしているのは大陸の直射日光を避けるため、この土地の人々が故意にそのような家の建て方をしていると言っていた。そうであろう。この季節(12月初め)日中と朝との温度差が25度以上あり、昼間は暑い位で半袖で歩いている人も多い。

 ここでもユダヤ人街を歩くが、家々の2階には小さいベランダを出しているのが特徴であり、今でも生活をしている人がいるという。

 そして珍しくイスラム教の神学校を見せてくれたが、建物はこじんまりしていて小規模の教室が一つしかなく、今は使われていないと言っていた。

 その他、観光バンフレットで必ず載っている有名な皮「染色桶が並ぶ作業場」が皮製品を売っている店から下方に見えた。

 上述した長い城壁に囲まれた旧市街を出て小高い場所から周理を誂めると、太陽が丘の上の稜線をくっきりと際立たせ、変化する丘の壁と空に浮かぶ雲の絵模様が何とも言えぬすばらしい風景をかもしだし、ここがアフリカの大地であることを忘れさす程西欧風の整った市街地に思えてくる。

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『みちしるべ』尼宝線における二酸化窒素濃度と交通量の関係**<2007.7. Vol.47>

2007年07月02日 | 神崎敏則

尼宝線における二酸化窒素濃度と交通量の関係

みちと環境の会 神崎敏則

 本誌45号に『夜間の二酸化窒素濃度は昼間の9割』と題して、夜間の濃度が予想以上に高いこと、その原因として、①夜間でもトラック等の通行量が多いこと、②逆転層の発生という気象条件によること、の二点が推測されると報告しました。その後尼崎市公害対策課から、時間単位の交通量データをご提供いただきました。公害対策課に篤く御礼申し上げます。そのデータをもとに夜間の二酸化窒素が高濃度であることを今回改めて検討しました。

52日のうち15日が夜間の方が高濃度

 今回時間単位の交通量のデータをご提供いただいたのは、表一①に示す52日分です。このうち15日は夜間の時間帯(1時~6時、19時~24時)の方が昼間の時間帯(7時~18時)よりも二酸化窒素は高濃度でした(太字で表示)。夜間が高濃度の理は28.8%にのばります。

 また夜間の二酸化窒素濃度の総平均は0.0329ppm、昼間は0.0371ppmで、昼間と比較して夜間の濃度は88.7%になります。夜間がこれほど高濃度になる原因を突きとめるために、まず時間帯別の交通量をグラフ化しました。

夜間の交通量は昼間の約5割

 グラフ①によれば、一日のうち午前4時がもっとも交通量が減少しています。そこから一気に上昇し、午前9時に交通量のピークを迎え、20時までの連続12時間1200台/hを維持しています。

 このデータで特徴的なことは、日曜日の午前中を除き、平日と土曜日曜の昼間の交通量にほとんど差がないことです。土日の休みの日でも平日と同じくらいに交通量が多いのです。尼宝線沿道の住民にとって、土日でも排ガスが軽減しないのは過酷ではないでしょうか。

 もう二点の特徴は、総平均すると、昼間の交通量15,624台に対して、夜間は7,713台と約5割にとどまっていることです。裏付けとなるデータは入手していませんが、夜間の交通量が昼間の約5割という数字は、他の県道と比較して多いと推測しています。

夜間の二酸化窒素が高濃度の日でも交通量に変化はない

 グラフ②では、昼間の方が二酸化窒素が高濃度の日と夜間の方が高濃度の日とを比較しました。昼間が高濃度の日は37日ありましたので、それらを平均し、同じく夜間が高濃度の日15日分を平均して、グラフに示しました。そしてグラフ③では、同じ37日と15日に振り分けて交通量の違いが顕れるかどうかを確認しました。

 結果は一目瞭然です。昼間が高濃度の日と夜間が高濃度の日とでは、交通量に違いは認められませんでした。このことから、夜間の方が昼間よりも二酸化窒素濃度が高い日が約3割も発生すること、交通量とは無関係であると推測されます。ただし、この交通量データでは、トラックなどの大型車と普通車との割合が無視されていますので、完璧に無関係であると断言できません。

夜間の二酸化窒素が高いのは逆転層の発生が原因

 交通量は昼間の5割なのに、二酸化窒素濃度は夜間の方が高い日が3割もあるのは、やはり、逆転層が形成されたことによると推測されます。

 一般には、大気は地表面付近が最も温度が高く、上昇気流で100m上昇するごとに0.65℃温度が下がります。ところが、夜間の放射冷却により地表面付近の空気が最も冷たくなり、その上層部に比較的温かい空気の層ができると、地表面付近の空気層の中だけで対流が繰り返される現象がうまれます。極端なたとえですが、火にかけている鍋にフタをかぶせると、蒸気が鍋の中で充満してしまう状態のようなものです。逆転層がフタの役割を果たして、排ガスの濃度が高くなるのです。

 尼宝線では、夜間の二酸化窒素濃度が高いという深刻な問題も解決しなければなりません。

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『みちしるべ』G8サミット雑感**<2007.7.Vol.47>

2007年07月01日 | 大橋 昭

G8サミット雑感

代表世話人 大橋 昭

 今年6月ドイツ・ハイリゲンダムで開催されたG8サミット(先進主要8ヵ国首脳会議)はこれまでのサミットから大きな様変わりを見せた。

 その背景にはこれまでサミットでの主要課題であった「9.11テロ」対策中心から、深刻化して行く地球環境問題(温暖化対策)が、もはや避けて通ることが出来ないという認識が支配したことが大きい。

 一昨年アメリカ南部を襲ったハリケーンの猛威やゴア元副大統領製作の記録映画「不都合な真実」が与えた様々な影響は、先進国もここに来て「経済と環境の両立」という難問に真正面から取り組まざるをえない状況に追い込まれた。

 G8サミット直前に米国ブッシュ大統領は昨秋の中間選挙敗北後の支持率低下を挽回せんものと、全米向けラジオ演説を行った。その中身はイラク戦争で傷ついた人達への謝罪や、長年にわたる温室ガス排出に反対してきた姿勢への反省もなく、代わりに米国は社会の貧困を救い世界中の「混乱と苦痛を緩和する」努力を強調するに至ってはその傲慢さは絶品だ。皮肉なことにG8サミットの会場周辺では反グローバル運動、エイズや貧困撲滅運動活動家の大規模なデモが展開された。また、米国のイラク戦争への抗議デモ、ガソリンに代わるバイオ燃料ブームヘの転換で、原料の穀物の高騰はこれらの穀物を主食とする人々の苦しみへの反発には全くの沈黙だ。

 安倍首相も国内の支持率低下を意識しつつ、この会議に向け温暖化をもたらす温室効果ガスの排出を世界全体で2050年までに現在の半分に減らす長期目標を掲げはしたものの、肝心の日本の現実を見たとき、既に決められた京都議定書の削減目標すら未達の現状への対策は棚上げで、国内の排出ガスは増加の一方である。産業界は目先だけの掛け声で、本音では環境問題よりも、国際経済競争の覇者たらんと史上最高の利潤拡大路線に余念がない。

 G8サミットでは何とか地球温暖化ガスの削減が緊急かつ焦眉のテーマとして一致をみたが、参加各国の世界景気の先行き不安や産業界の思惑の絡みの中で、とりわけ中国、インドなど自国経済発展の停滞を懸念したことなどが重なり、多くの期待をよそに画期的な温暖化ガスの削減の合意には至らなかった。

 G8サミットの首脳が本気で21世紀の地球温暖化問題に取り組むのであれば、各国の膨大な軍事費を地球環境保全に振り替え、脱原発、脱石油社会を目指し各国は太陽光、風力、地熱など天然エネルギー開発への転換と、「環境税」の創設政策の具体化にむけなければならない。我々の生き方も問われていることを強く求めたG8サミットであった。

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