我が悔恨と失敗の人生(1)
芦屋市 藤井新造
尼崎図書館は座り心地がいい
「人生はみな失敗者だ、と私は思っていた。私は人生の成功者だと思う人も、むろん世の中には沢山いるにちがいない。しかし自我肥大の弊害をまぬがれて何の曇りもなくそう言い切れる人は意外に少ないのではなかろうかという気がした。かえりみれば私も人生の失敗者だった」(『啄本展をみて、啄木について』藤沢周平)
私は、昨年の11月12月、1週間のうち1~2回尼崎図書館に行っていた。この図書館の3階の学習室の北側の窓際の座席に座り本を読んだり書きものをした。自宅からここへくるまで、電車に要する時間を除いて、往復で1時間半以上歩くので身体の運動に丁度いいので意志的にいく。
本を読むことに疲れると、阪神電車が尼崎駅のホームに出入りするのを眺める。座席から200m位の距離なので、電車の各の特徴がある色によってあれが特急とか急行とかが判別できる。普通車は車体の下がブルーカラーで上半分がクリーム色、準急急行は下が赤、上半分はクリーム色である。姫路~大阪間の直通特急は車体が銀色で真ん中は横に赤い帯をしている。車体のカラフルな色彩を楽しむように見ている。
このような光景は梅田でも経験する。梅田のツウサイドビル4Fの映画館ロビーからである。映画を観終わり、梅田貨物駅に出入りする貨車を眺め、映画の余韻にひたる、私の至福の時間である。このことは多分田舎育ちの私は幼児期、山と海、ミカン畑と水田しか見ないできたからであろうと思える。
ところで、図書館へは調べ物がある時と、月刊、週刊誌を読む時に利用する。後者の場合は近くにある芦屋図書館の分室を利用し、前者は尼崎である。自分の勉強部屋がないことはないが、狭く、車庫の一部を地下室に改造したもので暗くて電灯が必要なので、長時間本を読むと眼が疲れる。そこで尼崎まででかけて行き気分転換をすることにしている。
それにもう一つ、尼崎の図書館は開館時間が8時まであり、長時間利用できる有利さがある。(西宮、芦屋は何故か6時で開館である。そして学習室がない)
又、どうしても自分が引き受けた原稿が書けない時、ここまで時間を費やして(往復2時間)くれば、何がしでも書かねばとの気分が生まれてくるからである。特に依頼され冊子の原稿(俗に言う『社史』)を書くために強制的に自分に書くのだと言い問かせ、朝早く家を出る。途中尼専デパートで弁当とお茶を仕入れ、半日以上は頑張ろうと覚悟をきめて行く。しかし『社史』みたいな類の整理された文章を書くのは最も不得意である。
最近とみに身体最も凋み、記憶力も鈍くなり、持続力も衰え筆はなかなか進まない。仕方なく2階の開覧室に降りてあれこれの本を手にして読むことになる。そして藤沢周平の随筆集を読んで冒頭の文章に接する、藤沢周平にこんな言葉を吐かれると、私など人生の失敗者どころではあるまい。何時も失敗、悔恨のくりかえしの人生である。
辛酸をなめた従弟Kの幼年時代
特に、9月末に自死した従弟のKがその二日前に私に、病苦の数々を訴え自分の死は自分で決めると宣言し、実行したことでは深い悔恨が心中に残り、長らく私に精神的苦痛を強いた。私は彼が自死すると言っていたが、本当に彼が言葉どおり自ら命を絶つとは予想だにしていなかった。
Kは性格は豪放磊落、腕力もあり喧嘩にめっぽう強かった。ここでも書いたように私の母親の家系は商才、体力があり今でもよく言う体育系の方であった。男たちは気質は短気で話し合うより自分の言い分を腕力で通すタイプが多かった。
随分昔もう40年以上前、次のようなことがあった。母親の方の祖母、祖父の法要の時である。母親の姉妹、兄弟8人が健在で、その子供たち(従兄弟)が集まるだけでも30~40人の多数の参加で賑わった。このような法要、二月に必ず男たちは賭博に興じるのだ。俗に言う花札遊びに金をかけてお互いにとりあう。ある時、誰かの(忘れたが)壱万円札が煙草の火で灰になっていることがわかった。誰しも花札に夢中になりお札が燃え尽きるまで気がつかなかったのだ。灰になったお札の原因が誰の煙草によるのかをめぐり口論になった。自然、近くにいた二人のKと母の弟(四男)が原因のなすりあいをはじめた。口論では当然決着はつかず、二人が取っ組みをはじめた。二人とも腕力に自信があり、上になり下になりお互い負けずとばかり続けたが、柔道初段の伯父がおさえこみの格好になり暫く膠着状態になり、周囲の者が仲裁に入りことは終わった。そしてまた賭博は延々と夜更けまで続行する。この状況が今も目に浮かんでくる。
当時Kは、母の弟で伯父の三男が、大阪で鉄鋼会社の下請会社へ、組を作って仕事の請負(孫請)をしていたのを頼って兄に続き上阪していた。この伯父は、Kの兄弟(3人)の他親戚、縁者を次から次へと呼び寄せ組頭として10人程支配していた。本人自身も185cmの身長があり巨躯であり、田舎にいた時に周囲から二人前の仕事をこなすと言われた体力を使い蓄財に励んだ。1950年後半からの高度経済成長時の鉄鋼産業華やかなりし頃である。K兄弟は伯父ほどの身丈はなかったが頑丈な身体で力仕事にむいていた。3人とも各々中学校を卒業してすぐ上阪し働きについた。そして働いた給料の一部を父親が病弱で仕事をしていなかった田舎の実家に送金して家計を助けていた。まだ幼い姉妹が3人もいたからである。Kは母親が早死にし、父親は事情があり、失職し瀬戸内の塩飽諸島の一つである高見島より、私の母の生家へ一家8人ともども舞い戻ってきた。その時、母の生家は祖母の気に入った四男の伯父が当主として家督をついでいた。実家は土地を広く使用していない家屋が3棟も放置されたままであったが、一番小さい空家に移り住んだ。次男であったKの父親について、生前母は私に何時も「兄が若い時、何軒も家が建つ位放蕩の限りをつくし兄弟は苦労した」とくりごとを言っていた。
そのような過去があり、さすが豪気の伯父も広い家屋に住むのは気がひけ遠慮したにちがいない。母の実家は昭和の年代に入るまで約200年廻船問屋(実は限りなく海賊に近い)を営んでいた。それ故不動産はあったが、現金収入になる水田はなく畑だけであり、村の普通の家庭と変わりない経済状態であった。たまたま私が帰省して伯父に会った時、K一家だけでなく、その後4、5年して三女の伯母の旦那が事業に失敗し、一家5人が生家に帰った時であったが、「疫病神が二つもやって来た」と苦りきった顔をして呟いた。
勿論想像だが、Kは伯父の仕事を手伝いかなり酷使されたのではなかろうか。そして幼かった彼は辛酸をなめたことだろう。そんなKとは、親類の冠婚葬祭の時顔を会わせ短い会議で終わっていた。その彼より突然1996年春に甲子園球場での選抜高校野球観戦の誘いがあった。それ以後一昨年(2002年夏)まで、何時も彼からの誘いで、主として選抜野球、時に夏の選手権試合へ毎年1~2回一緒に行き観戦を楽しんだ。その都度彼はワンカップ酒、缶ビールにつまみを用意してくれ、飲みながらの観戦であった。観戦する試合は殆ど四国のチームが出場するものに限られ、何故彼が故郷(香川県)のチームにこだわるのか今もって私には理解できないでいる。
私には自分が生まれた故郷に対する愛着はさほどない。毎年の中学校卒業生の同窓会が開催されても今まで2~3回のみの参加である。彼の境遇とは相当違って、どちらかと言えば豊かな家庭にめぐまれていたにもかかわらずだ。
続く
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