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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(37)**<2011.11.&2012.1. Vol.71>

2012年01月07日 | 熊野より

三橋雅子

<ブルータスならぬ、熊野よ、おまえもか?>

~台風被害は原発と同じ構図?

 

以上は2011年9月の台風12号など、集中豪雨による、南紀(新宮)の水害被害写真。写真の提供は、北部水源池問題連絡会のN氏。

 前号の私の<台風被害報告>を読んで愕然。断続的な停電など何かと後遺症が残る中での文章とはいえ、そのずさんさもさることながら、あわせて掲載された、那智勝浦現地で撮影されたN氏の、すさまじい映像とのちぐはぐさに、穴に入りたい気分になった。普段余りに情報が氾濫する日常に辟易して、たまには電話を始め、あらゆる姦しい情報手段から隔離されるのも悪くない、などと我が身の安全にルンルンと過ごしていた結果が、あの、映像との乖離おびただしい、ノーテンキで且つ杜撰な文章になったことをお詫びしたい。

 加えて我が家は半孤立集落。数箇所の遮断箇所は何とか自力で倒木を伐り土砂を除けて通れるようにしたが、重篤な亀裂箇所は人力ではままならず、重いゴミ収集車は台風以来入れないまま、ぎりぎりのカーブ道のガードレールが次第に、少しづつずり落ちていくようになった。コワ!ようやく今、本格的な道路復旧工事に入って、いよいよ通行は難しくなってしまった。迂回道路などあるはずもない。工事現場の下に車を置いておき、そこまで2キロ弱を歩き、現場付近は運よく通れることもあるが、めいっぱいに重機に占領されていると、脇の半崩れの山道をずっこけながら上り下り、自転車は到底無理、と言うほぼ缶詰状態の暮らし。暮れも押し詰まり、余すところ5日になって、やっと通行可能になる。

 その間、この災害は果たしてどこまでが「未曾有の天災」によるものなのか、ほんとに人智で軽減されることはなかったのか?を考えざるを得なかった。

1.利水ダムの罪

 熊野川にはいくつも発電ダムがある。昭和40年代(1960年安保以降の)日本の経済成長期に電力の需要増大に備えて、まさに「お国のために」産業発展の礎として水力発電がどんどん作られた。原発のさきがけか。熊野川流域は、地質、地形の条件も適所であったらしい。この時、補償金などのお金の動きが、ご他聞に漏れず、ダム建設を推進させた。

 本宮町唯二の国道2本をはじめ、驚いたことに、わが庵に通じる狭い山道の舗装もすべてこの時の恩恵の遺産だという。おかげで我が家の近辺は、荷物が運べるようになったとあって、車でどんどん下に降りてしまった。道路通じて村さびれる、のみならず置土産に至る所、杉・檜を植えて。かくてダムは森を疲弊させた遠因になった。この「繁栄」のお蔭でダムに文句は言えない、と言う構図が根深く熊野川の底流にある。「ダムのお蔭」さまさまで、かつて雄姿を誇った川の、満々とした流れは見る影もなくなったが、水運を生業としていた船頭さんも廃業の保証はたっぷり手にしたし、マチは潤い人並みの道にも恵まれた。

 私は熊野川の疲弊だけでも十分ダムの罪は声を大にすべきと思っていたが、加えて、あの尊大極まる放流予告。ものものしいサイレンに続く「これから毎秒〇〇トンの放流をしますから水流付近には近づかないよう・・・」と「通告する」居丈高なアナウンスは、まるで戦時中の空襲警報か、だれだれ閣下のお通りをを予告する、猛々しい軍靴の響きを連想してしまう。「そこのけそこのけ、ダム放流の御通りだ・・・」とでも言わんばかり。

 水に浸かった天井までの張替えに肩を落としている店主に、たいへんでしたね、とそっと声をかける序に、あんな雨に加えてダムからまでどんどん放流されてはねえ・・・と思わず恨み言を漏らしても、一様にいや、あの雨ではしょうがない、どうしようもない天災ですよ、ときっぱり諦めている。確かに今回の雨量は桁外れであった。明治42年の大洪水、大斎原(おおゆのはら)にあった本宮大社が流された時以来のものだという。1953(昭和28)年の大雨も大きな災害をもたらしたが、これを知る人たちは今回は比較にならないものだという。だから今生きている人にとっては「開闢以来」なのだ。あの大雨ではどんな洪水も仕方あるまい、との諦めである。全く「人災」の余地はなかった、と。

 確かに、日本一雨量の多い大台ケ原の年間雨量が4800ミリだというのに、9月4日の大台ケ原は2400ミリ以上、1日で半年分降ってしまったのだ。本宮でも1000ミリを越えた。大台ケ原の年間の5分の1を越える。確かにすさまじかった。

 発電ダムはあくまでも利水ダムで、治水ダムではないから、安全性を優先した事前放流は義務付けられていない。大雨に備えて事前放流した後、予報が外れて台風がそれ、雨が降らなかったらダムは空っぽになり電力供給に支障をきたす。これでは利水ダムの意味がない、ということで、いつも、ぎりぎり満杯近くになって放流するから、雨とあいまって下流はたまったものではない。仮に事前放流が見込み違いで空っぽになり電力供給が不足したとしても、人命の安全を優先した結果の停電なら、納得づくで不便に耐えられる筈、と思うのが我々市民の発想だが、電力会社にとっては停電の不便を強いるより、自らの商品不足の損失の方が重大なのであろう。治水のために利水に支障きたすような事前の措置をするのは規定にないこと、法律違反だと、あくまで規定を盾にしている。ならば人命、住民の財産を守ることを優先するよう法律を変えるべきである。

 これまでにも、本宮より下流の川の合流地点では、幾度となく「ダムの放流とあいまって」と明言された熾烈な水害を蒙ってきた。その都度、事前放流に関する規定の見直しなど、行政が真剣に取り組んでこなかった責任は十分にあるはず。とりわけ1995(平成7年)の河川法改正で「第1条目的」に「環境保全」が入れられたことは画期的なことだった筈だが、その好機に、「産業への通水」などだけでなく周辺住民の安全に関する配慮(事前放流に関する義務)をきっちり入れるべきではなかったのか?従来の災害と同じく今回に関しても、電力会社は規定に違反していることはないから責任は一切ない、と強気である。今回死者も出した新宮市では、議会は関電からの見舞金500万円とかを突き返す議決をした。今度こそ県ともども「利水ダムの横暴」に対する何らかの協議と対策をすることになるのだろうか。

2.森の荒廃

 熊野川の氾濫もさることながら、いたるところ川の橋や道路に、流れてきた木の堆積、その白々とした枯れ木の無残な残骸が水路を阻んだ跡は無残だった。皆白々と、最近倒れたとは思えぬ枯れた廃木の態、もしくは最近まで立っていたと思しき木々も、その根の貧弱さから、もともと根の張らない杉・檜のひ弱さ、もろさに加えて、日照を求めて上へ上へといたずらに伸びようとした細い木々の惨めな姿は、手の入らない森の姿の映し絵に見える。

 40年前、国の政策で杉・檜の植栽が奨励されたうえ、1本数万円から数十万円で売れるとあって、我先に植林に励み、儲けにあいまって、道路が付いたので、田畑や家の敷地にまで植えて山を降りていった。やがて外材が入ってくると、値段は暴落、伐って運び出す手間代が割に合わないとなって、山は放置された。結果、間伐されないままひょろひょろの木々がひたすら上に伸び、少しの風にも倒れて、それもまた放置されたまま、惨めな木々の墓場の態をなしている。荒れた山はところどころ禿ちょろけて、風化した砂山のように、一足踏み込めば、ザザーッと崩れ落ちたりする。

 我が家の一番奥の水源も然り。一番良質の水だったが放棄せざるを得なかった。森の荒れようは、今始まったことではないことは以前から体感していたが、それもこの地へ住み着いてから、という僅か10年の歳月の間にも刻々と、恐らく加速されて、というのが実感できる。杉・檜の成長が止まるどころか、まだまだ先がとんがっていて、年々眼に見えて伸び、日照時間が年毎に短くなっていく心細さも、半百姓としては切実である。しかしこちらも先の知れている山姥ゆえ、森と命運を共にするもよしか、という気にもなりかけていた。そして老いたりといえども、この壮大な奥深い森、和歌山に入ったとたん、山の様相が一変して、その深さ大きさに圧倒されるといわれる、独特の山の魅力は、一朝一夕に衰えを見せるものではない。しかし内部は深く病巣に侵蝕されていて、いつ病んだ部分が表面化されてもおかしくないのが現実だとしたら・・・?往年の美貌を、一見辛うじて維持している美女が、内部は癌があちこち転移してぼろぼろの、もはや手の施しようが無い命運!にも似た現象かしら?などと悲しい連想が走る。

 この、森の荒廃を早めたのも、ダム―道路―森の放棄・・・という経路によるところが大きいとしたら・・・つまりはダムも根っこでは、所詮お金に操られた原発と同じ構図に過ぎなかった、と今更ながら思い知る。ただ負の遺産が原発とは桁違いに小さいこと、そして何より反原発への力の片棒になり得る、と言うことがせめてもの慰めだろうか。

もろもろを沈めて浅き冬の川

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『みちしるべ』熊野より(36)**<2011.9. Vol.70>

2011年09月04日 | 熊野より

三橋雅子

<台風12号南紀を襲う>

 8月末から、かなりの量の雨が間断なく容赦なく降り続き、この前の7月の台風より、これはしぶといぞ、と警戒心を強めていた。我が家は、よそより一足早く2日夜から停電、まる1週間続く。日が短くなったとはいえ、いくらかでも明るい縁側にちゃぶ台を出して早めの夕食をとる習慣がつく。夜は長かった。昔、灯火管制もあったし、戦後は、予期せぬ散発的な停電はしょっちゅうで、明日の試験どうしよう、と諦めて床に入ると点いたりする。ほっても置けないと、渋々起き出して教科書を広げると、また消える。泣きたい思いを繰り返したものだ。思えば当時はまじめで純情だった。もっと昔の人は、ランプで本を読んだはず、と蝋燭や懐中電灯を照らしてみたが、日記を書くのが限度で、本は眼がしょぼしょぼして読む気が失せた。時間をかけて、首回しとかスクワットなど、日頃ハショリ勝ちなことを、ゆっくりやる。たまにはこんなこともありか、と、もろに災害を受けない者の、呑気な「非日常」を享受した。同居人の仙人にいたっては、「瞑想にもってこいじゃないか、修行の足りんものには」とのたまう始末。

 ケーブルもだめで電話もネットもつながらない。おかげで、この地がどんな状況なのかわからないから、テレビを見ている人たちが遠くで心配してくれている状況もわからなかった。ともあれ、予想を超える心配を?と思える所に葉書を書いた。しかし、何日も郵便配達も見ないから着くかどうか分からぬまま「蝋燭を買いに(4~5キロ歩いて)行くから何か?」といってくれる隣人に投函を託したが、これも、いつ集めに来るのやら?ネットを駆使する人は、心配なら何とかして状況を把握してくれるだろうと思うことにした。案の定、息子の一人は、本宮行政局が機能不全になっているので、田辺市の防災なんとか室とやらホームページなどで、重篤な被災地域でないことだけは確認して、周辺に安心情報を送っていた。藤井編集長に至っては、グーグルの航空写真と国土交通省の被災空中写真をつき合わせて災害地域には含まれていない、と確認してくださったようで恐縮の極み。とにかく我が家の安否を気遣ってくれる人たちが、今度はよくよく住所と首っ引きで字名を確認してくれたようで、隠遁の身としては身が縮む想いである。黄泉の国に一歩近づいた所で、ひっそりと山の中で人知れず事切れたりするのも・・・、と一時はどなたにも、ろくに引越し先の通知もせず、年賀状も放置など・・・気付いたら「あら、いつの間にか、もうこの世にはいないのか」と思ってくださる消え方もありか?・・・などと散々勝手なことをしていたのに。皆さんが、世捨て人の安否をこんなに気遣って、繋がらない電話を何回もかけたり、はがきを書いたり、メールがどっさり、と心を砕いてくださっていることに平に恐縮するのみであった。

 電化製品には縁の薄い我が家も、買い物にめったに出かけないだけに、冷蔵、冷凍庫にはお世話になっている。二日くらいは冷蔵庫も開けたてを気をつけて、少しでも保冷の長持ちを心がけていたが、一向に点く気配もなさそう・・・と、いたみそうなものの処理を始める。これは手早くお腹の中へ、これは火を通しながら長期戦の兵糧に備える・・・とか、この際冷蔵、冷凍庫の整理と大掃除のチャンス(我が家は冷凍庫の方が格段に大きい)と作戦変え。すると、隣の猟師から「溶けちゃう」猪肉の大きな塊、反対隣の釣キチ氏からは鮎をこれまたどっさり・・・と毎日火を通したり(猪肉は火を通すほどに柔らかくおいしくなるので絶好)、鮎は何といってもあぶりたて・・・と[おいしさ]の詰め込みに追われる始末。加えて雨が治まれば、水浸しの畑の泥の中から、けなげに実を付けたままがんばっていたピーマン、ししとう、おくら、茄子・・・・とせっかくの実りの処理も忙しく、さらに救援物資まで届く。とても我が家の「非常食」に手をつけるには至らなかった。それどころか、日持ちのする救援物資は「非常食のストック」に加える始末(申し訳ない)。と、我が家の食は先ず万全。食料以上の「綱」である水はそこら中に、きれいな飲める水が溢れている。燃料はプロパンが切れれば、卓上コンロもあり、七厘は真夏でも魚焼きに活躍しているから、手近に炭や備長炭と共に。調理に事欠くことはない。

 下界への道の確保には少し難儀した。もともと山の中の賎が屋に、ひっそりと暮らす仙人と山姥が下界への道を気にするには及ばないのだが、数少ない近隣はそうも行かないらしい。対向車が来ると難儀する、曲がりくねった狭い道。もともと、お風呂に行く時など、行きはどうもなかったのに、大雨の帰りには車が通れず、風呂上りの素手で大石をどけたり、大枝を払ったりすることもあった。今回はちょっと大掛かり、崖崩れ三箇所を男手三人で、倒木をチェーンソーで伐り、土砂を除け、こちらはひたすら折れ枝を掃き落としたり、のいわゆる[ミチブシン]を半日。ようやく軽トラックがそろっと通れるように。行政は到底それどころでは?と早めに判断して正解だった。

 行政は停電のまま機能停止。暴風警報、大雨警報・・・ありとあらゆる警報を発していたのも音沙汰なくなったが、数日してようやくアナウンス復活。おらが道は大きく割れ目が入って、自転車のタイヤがはまり込みそうな、しかも車が大きく傾く亀裂もあるが、ここらの道に手をつけるなど、当分、夢のまた夢?何しろ行政機関も商店も水浸しで壊滅の本宮中心部からは程遠く(10㌔)、「集落ごと崩落」あるいは「集落孤立」などの憂き目にも縁遠かったここは、本宮の中では天国みたいなもの。テレビが1足先に、15日にはネット、電話が繋がった。

 観光地唯一のメインストリートは何日も泥との格闘。商店の屋根に、流木がのっかている風景は一瞬何の事か理解に苦しんだ。軒並みあそこまで水が来たという泥の筋の痕跡が、屋根のすぐ下、あるいは二階にまで、ということでうなづける。本宮はまだしも、もっと下流の熊野川町(新宮市)は、ダムの放流と川の合流地で、氾濫が高い歩道橋にまで及んだ。高みにあり、更に三階建ての熊野川行政局はまさか安全、と避難した住民は、三階にまで水がひたひたしてきて恐怖、救命着を着け、ゴムボートに乗って更なる避難へ、とのこと。当然、熊野川を望む川べりの喫茶店など、もはや何の痕跡もないとか。クロネコやまとの配送センターが気になるが。丁度近々着く筈だった、アマゾンから発送通知が来ていた荷物はどうなったのか、何の音沙汰もないまま。

 郵便局は職員がひたすら泥かきに追われ、開いているからATMは?と、うかつにも近づいた私は「そこは深いで!」の声すでに遅く、膝下近くまで泥に埋まった。車もバイクも水に浸かって、当分機能不全だった郵便業務も、「借り物」のバイクで配達が始まって、2日付けも5日付の消印も一緒くたに、ぽつぽつと一週間遅れで着き始めた。最近、安くつくクロネコメール便に続々切り替えた定期刊行物は、2週分まとめて郵送で来る始末。途中で行方不明のものも?

 少し落ち着いて、公衆浴場の温泉もやっと再開。手前の橋が通行不能になったので4キロくらいの迂回道路を、工事用の大型車とのすれ違いに難儀しながら。じゃんじゃん来る、頼もしげな赤い関西電力車に、わがドライバーは「栗垣内(クリガイト、我が家の小字名)の工事に?」といちいち訊いている。首をかしげるのも無理はない。大阪南だの京都からの助っ人関電車なのだ。

 お風呂の常連たちと、お互い、よかったね、など、だって誰さんは、集落の出口が崩れ落ちちゃって閉じ込められてるんだもの(わが集落の隣はすでに廃村、その隣だから、いまや最も近い集落)。気の毒に、お見舞いにも行けんし、電話も通じないから、声も聞けんしなあ・・・どないしてるんやろな・・・。もっとひどい所は集落ごと流されて皆、帰る家がない。

 どこも食材には困らなくても、本宮全域、簡易水道が停電であがったり。プロパンも切れそうで、道路開通まではどうしようかと心配した、という。アララ?うちより遥かに安泰で、電気の復活も早く、我が家が天国なら、極楽みたいなところなのに?解せない。我が家の水は大雨で潤沢極まりない。まあホースを繋ぎに水源まで足は運んだけれど(よくも、と思うほどいろんなものが吹っ飛んで中継タンクが行方不明やら、ホースの先を探すのに倒木の山を掻き分けたり・・・)。隣は家に据えている水のタンクが二基とも飛んで流されてしまった)、仮にホース継ぎが簡単にはいかなくても、目の前の川はきれいだし、こんなに豊富な雨水だって・・・と不審に思って思い出した。田辺市への合併の際、説明会で異議を申しておいたこと。「よく合併推進には、合併の暁には下水道完備・・・とうたうことが多く、折角山水を飲みたくてここに来たのに、引きたくもない水道敷設を強制され、負担金を強要されては困る」と言ったら、えらいさん達は何だか困惑顔でごそごそ頭をつき合わせて相談した挙句、答えて曰く「お宅は引きたくても、申し訳ないがあそこまでは到底引けないのです。」「未来永劫に?」「まあ、絶対水道はいけません。」と何に恐縮するのか分からないけど、やけに頭を下げての奇妙なやりとりに、それなら結構、安心しました、と了解した経緯がある(それで合併をよし、としたわけではないけれど)。後に親しくなった、その時の返答者曰く、あれはヒヤヒヤもので、町長が、そんなこと言ってもいいものか?と心配した、と。今回その彼が、そうだ、三橋さんのトコに水もらいに行こうか、と思ったと。

 水害の被害はなくても、停電のおかげで水が絶たれ、配水車に並んだり、家中の容器をかき集めたりとの話に、阪神淡路の地震の時と同じく、ライフラインを絶たれる危惧をこんな田舎でも・・・?と奇異にすら思う。また、オール電化の家も少なからず。本宮の中でも超「原始的な暮らし」らしい我が家は、「他よりは」かなり安泰なわけ。

 また、我が裏山に築かれた石積みの崖、これが、あちこちからチョロチョロ水を吐いて、頑丈な、穴の少ないコンクリートの壁が水に耐えかねて、一挙にどさーーっと崩れ落ちることから免れている。先人の知恵と緻密な計算と、労力を惜しまない気の遠くなるような労力に、感謝とともに頭が下がる思い。現にかつて、さほどでもなかった嵐の際、反対側、我が家の下の畑に、コンクリート壁が、あっという間に全面崩れ落ちた。もちろん今回、家の脇を流れる、ふだんは何もない溝は、龍が踊り狂うような滝になって恐ろしい形相だったから、ひょっとして家もろとも流されて、文字通り川の藻屑になるやも?と、覚悟しないわけではなかった。しかし、仙人と山姥、ふだん喧嘩は絶えないが、この際仲良く手をつないで、同時に水葬されるのも悪くないか?と、山姥は安らかに眠っていた。仙人は夜っぴで風と水量を推し量っていたようだが。結果、果たしてあれだけの長い大雨に、石積み崖の許容量は危なげなかった。今後はいざ知らず、少なくとも他所よりは、今の所安泰らしい。

 予期せぬ大規模の自然現象とはいえ、福島原発とは比べ物にならないが、やはり人災の影を感じないわけにはいかない。橋という橋に堆積した流木の白っぽい枯れざまは、雑木に替えて、杉、檜を植えるだけ植えて、儲からぬと見切りをつければ放置した、森の疲弊の残骸でしかない。森の放置のむごたらしさを突きつけられる。里山が健在ならこんなはずでは?と。行政局の被災は、熊野川に流れ込む川が、流木にせき止められて溢れ出し、濁流が渦を巻いて高いはずの建物を直撃、ガラス窓を破って流れ込み、自家発電機までやられてしまったもの。

 もう一つは上流の発電ダム。これまでも、川の合流地から下流の集落は、ダムの放流とあいまって、何回か水害の憂き目に会っている。今回はそれが予想を超える、すさまじい災害となった。大雨に加えてダムからも放流されるのだから、たまったものではない。治水ダムと違って、大雨予報の前の放流水準値の規定や義務はないそうだが、電力確保のために、もし予報と違って大雨にならず、ダムが空っぽになることを恐れて事前放流を渋るとしたら、あまりにも反人道的ではないのか?

 かつて、この地の原発設立計画を果敢に粉砕した、南紀の人たちの気概が再起されなければならない。

熊野川流木逆立つ秋日差し

泥の川泥の家々彼岸花

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『みちしるべ』熊野より(35)**<2011.7. Vol.69>

2011年07月05日 | 熊野より

三橋雅子

<本宮の大逆事件③>

私の「大逆事件の周辺Ⅱ」――西村伊作と小野寺玄と、その弟子

 東京在住中に、いささかなりとも文化学院の創設者、西村伊作の名前に触れたことがあるのは、わが陶芸の師、小野寺玄氏が文化学院の出身ということを、うすうす知っていたからだろうか。もともと寡黙な彼から出自・履歴の類を訊く事も関心もなかったが、奥さんの画家・理矢さんから断片的に語られる昔の話を繋ぐと、二人とも文化学院の出身であることが想像された。むしろ彼の口からは、もう一人の師、北大路魯山人の名前の方が多く出たような気がする。

 市ヶ谷にある文化学院は、西村伊作があくまで自由主義を標榜するユニークな教育機関を目指して、分野を問わず多様な指導者を配していた。その存在は気になりながらも、芸術、演劇などに関心の薄かった私は、すぐ近くのアテネ・フランセに時々通いながらも、一度も訪れてみたことはなかった。確かに多岐にわたる「著名人」を輩出している。文化学院に足を運んだ著名人名簿には、著名人名に疎い私が知っているだけでも小説家の杉本苑子、辻原登、上笙一郎や評論家・吉沢久子、舞踊家・谷桃子、折原美樹、画家・久里洋二、デザイナー・鳥居ユキ、染色家・志村ふくみ、俳優では長岡輝子、丹阿弥谷津子、犬塚弘、十朱幸代、前田美波里、秋川リサ、平野レミ、・・・などなど他にも建築家、脚本家、写真家・・・と、幅広い、いわゆる有名人は数え切れない。そしてこの中に、健在なるかな、わが師、陶芸家・小野寺玄の名前もある。彼も著名人入りをしたのだ!

 私が彼の仕事場に出入りしていた頃(’77年日本陶芸展で文部大臣賞、’83年日本陶芸展で最優秀作・秩父宮賜杯などを受賞するかなり前のこと)まだ「著名人」ではなかった彼の作品を、奥さんはよく冗談めかしに、でも確信を持って、「今のうちに、彼の作品を買っておきなさいよ、絶対値が出るから!」と、のたまっていた。私もそれには信憑性がある、という確信はあったが、それはどうでも、彼の作品は好きだったから買っておきたい気持ちは山々だったが、何しろお金がなかった。一番小さい、確か700円だった可愛い杯を2~3個買ったのみである。今、たとえそれにどんな値が付こうと手離す気はない。

 大磯の駅からテクテクと、あそこが吉田茂邸(この間焼けてしまったらしいが)、と指差しながら、けっこうな道のりをピクニック気分で歩く。少しずつ登り坂になって人家も少なくなり、まだかな?と思う頃、その家はあった。私と同年代の、まだ30台半ばの若き陶芸家と絵描きの夫婦がひっそりと、創作三昧に暮らすアトリエでもあった。

 師は柔和で、決して気難しいわけではないが、ひたすら寡黙、そこにいつも寄り添って、朗らかで話術巧みに笑わせてくれるのが理矢さんだった。例えば 

――――いつか新聞記者だか雑誌の記者だかが見えた時ね、ごめんください、って声に玄さんが出て行ったの。そしたら、その記者さんが「先生いらっしゃいますか?」と訊くもんだから、玄さん、しばらくモジモジしてたみたいだけど、中に引っ込んできてしまったのよ。それで私に、「どうしよう、どうしよう」って、そこらをうろうろして、私に出てくれって言うの。でも私が行ったってしょうがないでしょ、で結局、おんなじ顔して、もう一度出て行って、「ぼくが小野寺玄です」って言ったの。――――

 私達はあんまりあけすけに笑うのも悪いような気がして、でもその記者が、よもや先生とは思わなかったことにも同情できるし、その時の師匠の、恐らく間が悪そうにモジモジしたであろう姿を想像してクックッと笑いをこらえた。

 このアトリエ訪問のもう一つの楽しみは、そこらじゅうに玄さん自作の道具、小道具が転がっていることだった。ちりとりや、小箱類はもとより、トイレットペイパーのホールダーも、時々ちょっと引っかかったりするのも、紙の無駄遣い防止かな?と思えるような、いずれも可愛く独創的で、ほのぼのとした道具類だった。「お金がないから、何が欲しい、と言うと、みんな玄さんが作ってくれるのよ。」と屈託なく言う理矢さんは幸せそうだった。「お金がないから楽しいのね」と口には出さなかったが、心からそう思えた。

 そのうち私は年老いた両親を連れて行くようになった。粘土いじりというより、都会から外れたピクニック気分と、私の造る皿に、父に、得意の毛筆で文字を書かせておこう、という魂胆だった。40年以上経った今でも、「梅」とか私の名前の「雅」などの筆書きがされた小皿が残っている。母もまた、前の晩からお弁当を仕込んで、ピクニック気分で出かける「大磯行き」が楽しみだった。小野寺夫妻はそのお弁当を殊の外喜んでくれて、お稲荷さんと季節の煮物が定番になった。まだ素焼きが出来てなく、文字書き(絵付け)の出番がなくて両親を伴わない時も、お稲荷の差し入れは欠かさなかった。

 当時は、私が住むことになるなどとは夢にも思わなかった熊野と、小野寺玄との関わりなど到底想像もつかなかった。

 熊野に移り住んでから、ちんまりした個人商店しか何もない本宮から、買い物といえば45キロ離れた新宮まで足を伸ばす。当時(9年前)は新宮にもコンビニがなかった。商店のおばあさんに訊くと「コンビニ? なんや聞いたことあるけどコンビニってなんだっけ?」に仕方なく勝浦方面に車を走らせると、やっと暗がりの中で灯りが見つかった。「ケイタイの払い込みをしないと切れてしまう」と焦る息子が胸をなでおろしたものだ。その後新宮にもローソンが出来て、予約した乗り物の切符を買うことが出来るようにはなったが「それでは近くのコンビニで払い込んで切符を受け取ってください」といとも簡単に言われても……。40キロ以上離れた「近く」には行かず仕舞いになることが多い。新宮とは私にとって、本宮よりは便利さでちょっとましな、でもそこそこ辺鄙な「文化都市」なのである。

 やや経って、西村伊作の生地である、その新宮に西村記念館があることを知ったが、大逆事件の南紀での首謀者とされる大石誠之助が、西村伊作の、苗字の違う父方の叔父であることも気付かなかった。大石誠之助と伊作のこと、こじんまりながら、しっとりとした静寂を味わえる西村記念館の魅力は既に「みちしるべ」に書いたが(「新宮の文人達②」)、古い『熊野誌』の「西村伊作特集号」に、小野寺玄が西村伊作のことを書いている。なんと、彼は伊作のゆかりの地を訪ねて新宮を訪れている。無論私がこの地に来る遥か以前ではあるが。大石誠之助は伊作の単なる叔父としてでなく、早くに両親を亡くした(名古屋で大震災の折)伊作の父親代わりに教育、薫陶を授け、思想的にも多大な影響を与えた。

 玄さんは彼に関わりのある新宮の地を丹念に辿りながら、大逆事件にも思いを馳せなかった筈はない。さらに、伊作が西村姓を名乗る由来の、母方の祖母と幼時を過ごした地、西村家のある北山村にまでも足を伸ばしている。北山村は、和歌山県下とはいえ奈良県と三重県に囲まれた全国唯一の飛び地、最近ジャバラで有名になって、筏下りとともに地場・観光産業で強気の、どことも合併しない人口600人足らずの村である。かつて豊潤な材木を新宮まで筏で流す、さらには大台ケ原からの中継点でもあったという豪胆な筏流しの子孫達の気骨か?伊作は大山持ちの気丈な祖母の跡取りとして育てられ、この財産によって、彼の理想の実現が可能であった。

 玄さんの、この南紀の紀行文を含む西村伊作の思い出を読んで、伊作のユニークな感性や懐の深さ、それを慕い、幅広い人格の影響を受けた経緯が今にして分かるような、懐かしくも納得のいく想いに浸った。

 彼は文化学院での修行の後、一時、北大路魯山人に弟子入りをした経験を持つ。しかし「つねに傲岸・不遜・狷介・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。」(Wikipedia)といわれ「この傲慢な態度と物言い」が有名で、お手伝いさんも一人として長続きしなかったといわれる師の下では、想像を絶する苦労がつきまとったと思われる。やがて伊作の下に戻る際も、そのおおらかさと柔和さと深い愛情が、どんなに彼の苦労を癒したか、問わず語りに想像に余りある。彼の口からは、むしろ魯山人の名の方が多く語られたのは、短くとも強烈な体験であったこともあろうが、伊作には身近な、肉親に近い近親感を持っていたからではないだろうか?ちなみに同窓の玄さんと理矢さんは、伊作の仲人で文化学院で結婚式を挙げた。

 思いがけず、私の若かりし三十台の一ぺージが、ここ熊野で、百年記念を迎えた大逆事件と結びつくことになった。「首謀者」の直近に居た伊作の愛弟子、小野寺玄にいっときでも教えを受けた私は、いかに不肖の弟子とはいえ、何と、おこがましくも伊作の孫弟子と言えるのだろうか?玄さんは何とおっしゃるだろうか?

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『みちしるべ』熊野より(33)**<2011.1. Vol.67>

2011年01月04日 | 熊野より

三橋雅子

<本宮の大逆事件②>「マグマ、熊野川を遡る?」

 私はあれほど全国を震撼させた事件で、なぜ本宮から成石兄弟二人の検挙者を出すほどに、この地が「進歩的」であったのか腑に落ちなかった。(大逆事件で検挙され、死刑宣告を受けたのは24人、そのうち紀州組が6人、翌日半数が無期に減刑され、刑死者は12人となるが、うち紀州組が2人、新宮の大石誠之助と本宮の成石兵四郎である。)本宮は紀州組の中心である新宮とは、熊野川町(最近新宮市と合併)を隔てて隣接していなかったし、交通も今の国道もなく、水路、熊野川を下るのに、行きしなはともかく帰りは大変な難儀だったという。

 佐藤春夫は父の代から新宮の住人になったが、それまでは那智勝浦で代々医業を営む祖父椿山が懸泉堂という私塾も主宰していた。その佐藤家の家訓が「政治のことには決して口を挟んではならない。本はひたすら読書に沈潜せよ。」であったと言う。「実行動に移してはならない」のである。その由来は1837年の大塩平八郎の乱にある、という。大坂町奉行の元与力、平八郎は、豪商達の米買占めによる暴利や奉行所の汚職、不正に対し片や困窮する民衆の悲惨な生活を見かねて再三の民衆救援を提言したが拒否される。陽明学者として主宰する塾の塾生達と遂に武装蜂起を企てたが内通され、幕府軍によって徹底的に壊滅させられる。とはいえこの決起には、近隣農民、町民も合わせて300人程の勢力になったというから幕府を震え上がらせるに足る事件だった。黒船来航(1853年)の16年前、維新まで30年、激動の明治末期の「輝かしい」蜂起であったはず。この塾に学ぶものの中に、紀伊勝浦地方出身の若者達もいた。しかし彼らはこの決起には反対で、事件の勃発時には熊野勢は不参加組として郷里に帰っていたという。にもかかわらず、この事件への懲罰はことのほか厳しく、塾生の縁者の隅々、末端に至るまで、「白い眼」のまなざしはおろか、公職を解かれ(学校教師が多かったという)生活苦に追い込まれるなど、深く、広範囲に亘る悲惨の波紋はすさまじかった。これを目の当たりにした佐藤春夫の祖父の、自ら塾で教えを説く者の責任(?)として、例の家訓を厳命せざるを得なかったのか。

 私にとって、大塩平八郎の乱といえば遥か江戸時代の昔々の話、直接「今」に結びつくもの、とは思えなかった。しかし1837年といえば、大逆事件を遡ること73年、今、かの太平洋戦争終結から66年しか経っていないことを思えば、事件の痛み、教訓が生々しく伝えられ、「教訓」として戒められていても不思議はないことに気づく。

 エネルギーと言うのはマグマのようにどこかに通り道を求めるものなのだろうか?新宮で起こった新しい時代への胎動、おかしい世の中への批判や変えようとする欲求とそのエネルギーは、その土壌があるはずの勝浦方面へは固い「教訓」の地盤に阻まれていた。結果マグマは、反対方向に向かって熊野川を遡り本宮に到ったのか?本宮に飛び火した系図を、「熊野川を遡る新思想」と辻本は説く。(南紀州新聞連載)

 ようやく、この保守色の濃い本宮という地域から、偶然性もある不運な冤罪とはいえ、なぜ大逆事件の中枢に関わりを持つ二者を出すに到ったのか、いくらか納得のいく境地に到った。それは黒船が沖合いを通過する「異様な」時代の風が、波乱を予告して通り過ぎていく風景を目の当たりにする、南紀と言う地域の「歴史への関わり方」の一面だったのだろうか。

 新宮には、昔から東京の流行が京都、大阪を跳び越して直接入ってくる、と言われたそうだが、それはファッションの世界ばかりではない、思想の流れにも同じことが言えるのかと改めて感じる。しかし「首謀者」大石がモデルの『許されざるもの』(辻原登著、毎日新聞連載)は、彼ドクトル(毒取る)がアメリカから帰国する場面から始まるが、その土産には、アメリカの新しい文明の利器と共に、自由、平等の新しい思想も詰まっていたことが記され、すでに官憲は鋭く目をつけて警戒の標的にしていたらしい。東京から、どころか当時はまだまだ若々しい自由の国を謳歌していたアメリカからの直輸入だったのかもしれない。

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『みちしるべ』熊野より(32)**<2010.11. Vol.66>

2010年11月04日 | 熊野より

三橋雅子

<本宮の大逆事件①>

 今年は1910(明治48)年に起きた大逆事件から100年が経つ。ここ本宮の地に来るまで、ここが、かの大逆事件に関わりのある地とはぜんぜん知らなかった。我が家から5~6㌔の国道沿いに請川(ウケガワ)という地があり、かつてそこをバスが通過する時は、窓際の乗客は袖で面を隠して通り過ぎる、という話を聞いた。その近くに掛かる成石橋界隈が、事件の謀議の一味と見なされた成石兄弟の在所である。

 本宮大社といえば神々賑々しいだけでなく、ここへ「蟻の行列」をなしてお参りに足を運んだ朝廷一族の末裔、天皇家との縁はいまだに深く、我が家のお風呂、湯の峰温泉は天皇家お忍びの温泉とか。その天皇家に謀議を企てた、などという由々しき事件には、永く緘口令が敷かれていたとしても・・・と納得がいった。

 成石兄弟とは成石勘三郎、平四郎のことで、天皇暗殺の謀議に加わった廉で二人とも検挙された。平四郎は「主謀者」幸徳秋水と共に死刑に処せられた12人の内の一人である。二人とも社会主義思想に関心を持ち、新宮の講演会や、勉強会などに足を運んでいたことは確かだが、とりわけその中で先鋭な活動家であったと見られる節はない。また、謀議を図るに足るグループらしきものも存在していなかったといわれる。

 捏造と言われる大逆事件は、これより7年前1903(明治41)年の赤旗事件に端を発する。社会主義者の堺利彦、大杉栄らが、同志山口孤剣の出獄祝いに「無政府共産」と大書した赤旗を押し立てて行進しようとしたかどで、女性4人を含む13人が検挙された。これを機に取締りの甘さを批判されて西園寺内閣が辞職、代わる桂太郎内閣が厳しい取締りを強めていく中で1907(明治40)年に新刑法の大逆罪が制定された。天皇家へ危害を加えようとした者の極刑の規定である。

 この赤旗事件の時、結核に冒されていた幸徳秋水は郷里の高知で静養中であったが、公判の開始に際して上京、その途中、新宮の医師、大石誠之助宅に立ち寄る。診察を受け、しばらく静養もするが、主な目的は財政援助の依頼であったといわれる。近くの寺で講演会を開いたり、熊野川に船を浮かべて「海老掻き」を楽しんだといわれる中に成石兄弟もいた。秋水は東京にたどり着くが、この新宮周りの道程と地元での接触が、秋水の足取りに沿って、「謀議」なるものの筋書きが形成されたもののようである。熊野川での川遊びは「月夜の革命談義」として検察による意味づけがなされ、調書に脚色されていった。折悪しく平四郎は、当時鉱夫などが自由に持ち歩き、漁法としても使われていたダイナマイトと導火線が自宅から押収され、爆発物取締り違反で起訴された。一旦は釈放されるが、やがて刑法73条(大逆罪の規定)違反に切り替えられて東京へ護送。兄、勘三郎は単なる平四郎の証人として召喚、取り調べられているうち、同様に刑法73条の被告人として、これまた東京へ護送されてしまう。本人も家族達も何のことやらわけが分からないまま、爆発物取締り違反事件が、大掛かりな「大逆事件」へと転換していく。秋水の講演会を開いた浄泉寺の僧、高木顕明も同様に検挙されていった。(死刑は免れて無期懲役となったものの、獄中で自害。)

 彼は被差別の檀家からはお布施が取れず、自らあんまの修行をして生計と寺の維持をまかなったと言われる。秋水が逗留し、資金的な拠り所としても頼りにしていた医師、大石誠之助もまた、毒を取ってくれるドクトル大石、と住民たちに慕われ信頼されていた。貧しい者からは治療代を取らず、窓口で3回ノックしたら免除(1回ノックは普通扱い)、というような約束事があったという。当時、紀州木材による「金の成る山」を持つ富豪の自由主義者や思想的な影響力の大きい僧侶が、虐げられた下層の人たちの信頼と尊敬を得ている図は官憲にとって誠に危険な、いち早く潰さなければならないターゲットであったのもうなづける。

 この医師、大石誠之助の甥が、西村伊作、『みちしるべ52号(2008年5月)』「新宮の文人たち」に登場した、東京市谷の文化学院の創設者である。伊作記念館の中で見つけた瀟洒な家具も作ったりする豊かな趣味の医師、大石誠之助にもその時触れたが、彼は傍目には資産家の優雅な文化人として、医療の合間に木工に費やす時間を楽しんでいたかに見えるが、実は心中、来るべき、否すでに身辺に迫っている暗黒の時代の苦渋をかみしめていたのだろうか?

 誠之助と伊作は単なる伯父、甥の関係でなく、伊作は両親を幼くして亡くした(地震災害)ため、誠之助に親代わりとして教育されて育った。思想的な影響も大きく、伯父と同様アメリカ留学を糧にして、個人尊重の「新しい家」を作り、絵画や陶芸の芸術教育を尊重する、自由な学び舎・文化学院を東京に創った。直接的な社会運動にこそ身を投じなかったが、その反権力行動は二度の投獄経験を招いている。

 誠之助が連行され東京に護送されたので、伊作は弟と二人でアメリカ留学から持ち帰ったオートバイ、ハーレイを連ねて東京に向かう。尾行の地元の警官は慌てて自転車で追うが到底追いつかず、隣の駐在に連絡、応援を頼むがこれも風を切るようなハーレイには歯が立たず、次々と沿道の、連絡を受けたおまわり達の自転車ををまいていった、と小気味良い東海道珍道中が淡々と描かれている。(伊作の自伝的著書『我に益あり』)

 時に伊作26歳、二児の父が虎革のジャンパーをひるがえしてハーレイをぶっ飛ばす光景は、おまわりだけでなく沿道の人々にも瞠目の図であったに違いない。しかし敬愛する伯父を案ずる彼らの心中は如何ばかりだったか。しかも伊作の、いささか古かったハーレイが途中で故障し、あえなくお縄になった。

 もう一回の投獄は文化学院の校長として、紀元節(現、建国記念日)や明治節(現、文化の日)といった祝祭日の儀式を行わなかったため、不敬罪のかどで、検挙される。のみならず、文化学院は遂に閉校命令を受けることになる(戦後再開)。戦前、祝祭日は今のように丸々の休日ではなく、登校して君が代はじめ「雲にそびゆる高千穂の・・・」などそれぞれの祝祭日の歌を歌い、教育勅語など賜り・・・、と退屈で「厳かな」儀式で半日近くが潰れるのであった。これを免れる点だけでも私は文化学院が羨ましい。

 いささか傍系に話が流れたが「大逆」の陰謀物語はこうして着々と作り上げられていった。戦後永く、本宮町になってからも、その前身本宮村というちっぽけな在所に、「本宮警察署」という和歌山警察署と肩を並べるような「格の高い」警察組織が歴然とあったのも、この事件の名残ともいわれる。(現、本宮幹部交番)

 今、請川には兄弟の<名誉回復を顕彰する碑>が墓の近くに建っている。勘三郎の孫に嫁いだ飯田久代さんは健在で、兄たちの無罪を信ずる妹とみの苦労や、義母(勘三郎の娘)の心痛を身をもって知る人である。

  生き別れ弟死刑にわれ終身長崎さして涙を呑みぬ  

と恩赦で無期懲役になった兄は長崎監獄に送られて行くときに詠んだ。家を出て20年後仮出獄したが、死刑の弟への無念さと長期の監獄生活で痛めた体は回復叶わず1年後に病没。

  行く先を海とさだめししずくかな   

成石平四郎 辞世の句

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『みちしるべ』熊野より(34)**<2011.3.&5. Vol.68>

2010年05月05日 | 熊野より

三橋雅子

<本宮の大逆事件③>

私の「大逆事件の周辺Ⅰ」――社交ダンスの草分け玉置真吉

 大逆事件の直接の犠牲者になった6人のうち5人(大石誠之助、崎久保誓一、高木顕明、新村忠雄、蜂尾節堂)と共に玉置真吉が右端に写っている写真がある。(前出・辻本雄一・佐藤春夫記念館館長の「熊野川を遡る『新思想』」<南紀州新聞>に紹介。)玉置の代わりに本宮の成石平四郎でも入っていれば、全員が紀州組の犠牲者というわけだ。玉置真吉だけが、おや?と思わせる異端児のように見える。この中ではただ一人、逮捕を免れた人物である。そのせいか、玉置の顔だけが切り取られた同じ写真もあるという。仲間ではない、という隠蔽の配慮か、一人だけ「犠牲」にならなかった恨みか、と著者も判断を避けている。

 玉置真吉という名前を見たとき、ふっと半世紀ほど前の場違いな(と感じた)ダンスの情景が浮かんで、奇異な感じがした。夜陰にジョギングなどする情景がまだ市民権を得ていなかった頃、運動不足をかこって、私は社交ダンスにウツツを抜かしていた。ダンス教室などは当時、世間からも「良家の子女」の踏み入れる場所とは認知されていなかった。私が誘った「お嬢様」も家には内緒で出てくる始末で長続きはしなかった。お花、料理、手芸や裁縫となれば、ブツが残らなければならない、茶道もたまには和服でなければ・・・と外出の花嫁修業口実には事欠かなくてもダンスのうそはつき通せなかった。私が正々堂々「ダンスに行ってきまーす、今夜は大分遅くなるかも、送り狼が送ってくるかもよ」などと豪語して出かけられたのも、母が私の世代の母親としては年をとっていた明治半ば(鹿鳴館時代の終末期)の生まれだったこともあってか、社交ダンスの流行を経験していたからかも知れない。

 私は小さい時、物置の片隅に奇妙な履物の片方を見つけて、何だろうと不審に思っていたが、それはダンス草履というものだと、大きい姉が説明してくれた。母が昔使っていたのだという。それは中ほどが、いくらか外側に湾曲していて、ダンスには左右の別がある、特別の履物がいるのだということが印象に残った。後に、シンデレラの物語は日本の文化の中ではありえなかった、とある時気付いた。落として来た金の履物が下駄や草履だったら、特定の個人の「小さな足」でなくても、よほどの規格外でない限りは、たいていの足に適合できるものだから、といたく感じた時、この時の記憶「かなり小さくて、左右の別のある草履」の印象が強く残っていたと思われる。

 日本に社交ダンスを紹介、定着させた玉置真吉がダンス草履も開発したのだろうか?それは和服で踊るための必需品だったのか。と今になって思うが、それはさておき、私には懐かしい玉置真吉の名前が、大逆事件の「逆賊」達のすぐ近辺にあった事に、少なからず驚いた。その名前は、私にとって当時ほとんど唯一のダンスの指南書の著者であって、社交ダンスの神様のように思っていたから。私の記憶違いか同姓同名か?と。

 真吉は1885(明治18)年、新宮に近い紀和町(三重県)に生まれる。(なんと父と同じ年、父はダンスは嗜まなかったらしいが、母のダンス通いを黙認した。私が結婚してダンスに行こう、と誘っても、何だあんなもん、と不潔気に厭う昭和の男より余程太っ腹の明治男、と思う。)小学校の教員をしていたが、大逆事件の捜査で新宮での家宅捜査が始まると、真吉の手紙類や書物を焼却するよう父親が手配したというから、「危険分子」の臭いは充分あったものと思われる。真吉は校長の助言に従い依願退職をしている。上京して明治学院に学ぶが、帝劇のオペラ公演に魅せられ音楽、演劇に関心を持ち、新宮出身の西村伊作が作った文化学院に勤め、山田耕筰に学び(舞踏詩)、小谷寛猛に社交ダンスを習う、とあるから、私が思っていたような、日本に社交ダンスを導入した最初の人ではなかった。しかし大正末期からのダンスの流行(警察がうるさくなる)で、ダンスホールの黄金時代を迎え、真吉はダンス紹介の本を出したり玉置舞踏学院を開設したり、ますますはげしくなる官憲の取り締まりのみならず、まだまだ強かった社会の偏見に対して、果敢に「新しいもの」の普及に努めたと思われる。不当な権力介入による冤罪の犠牲になった、仲間たちへの鎮魂を込めた、彼の精一杯の生き方だったのだろうか?冒頭の辻本氏は「あの時絞首台に上っていたら」という思いを胸に、開き直って「覚悟胸にダンスにかける」生涯だったのか、と説く。

 そうとも知らず、私はただ、音楽に合わせて体を動かす快適さに酔い、「タンゴは良いねえ、ゆるりゆるりと気持ちよくてタンゴが一番だ」という母に「あら、タンゴはテンポが速くてビートが利いてて、一番動きが速いわ」と言い争っていたのが懐かしい。母のダンスの方が草分け玉置真吉の教えに近い正統派だったのか。

 真吉の没年は1970年だから、私は東京にいて、まだ存命の両親と同世代の彼に会おうと思えば叶ったかも知れないのである。真吉が南紀の出身とも知らず、自分がここ南紀に住むようになるとも露思わず、大逆事件についても教科書以上のことは知らず・・・つくづく出会いとは決して偶然ではなく、自分で作るものだと痛感する。少なくとも母の生存中に玉置真吉のことを調べて語り合いたかった。

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『みちしるべ』熊野より(31)**<2010.5. Vol.64>

2010年04月03日 | 熊野より

三橋雅子

<日本地理いろはカルタ>

 私がこの地に移転先をきめた、と言うと、姉達は即座に「ああ、『熊野権現那智の滝』ね」と言ったものです。植民地育ちの私に、両親は日本のことを教えておく必要を感じたのか、内地からのお土産に「日本地理いろはカルタ」がありました。皆学校に行ってしまって私ひとりが残っている家で、私は退屈しのぎに毎日このカルタで遊んでいました。カルタは取るものとも知らず、意味も分からぬままに歌を覚えるのと同じように、振ってあるルビのままに丸暗記していたものです。ずっと経ってから、なるほど………と思うこと多く、記憶を辿って再現してみました。しかし同世代の人達にこのカルタのことを訊いてみても、一人としてこの存在を知る人に出会ったことがありません。

 稀にカステラやボーロとか、りんごの青森とか、よく分かって馴染みもある、嬉しいものもありましたが、大方はわけの分からないままロッコンショウジョウとかラカンジヤバケイなどというのは、ランチパート(散らかしっぱなし)とかチガランチガラン(ガチャガチャうるさい)などという中国人の使用人たちが使っていた言葉とごっちゃになるし、見たこともない風景ばかりなのですから、チンプンカンプンなのでした。オンだけで覚えていたものですから、再現違いもあろうかと。

 この際、同世代の方々も多い「みちしるべ」の読者の方々にご記憶の有無や、おかしいのでは?のご指摘などいただければ、とご意見を仰ぐことにしました。 

イセノフタミノハツヒノデ

伊勢の二見の初日の出

ロッコンショウジョウフジトザン

六根清浄富士登山 

バンシュウヒメジノハクロジョウ

播州姫路の白鷺城 

ニイガタジンクニサドオケサ

新潟甚句に佐渡おけさ

ホッケノタイコワミノブサン

法華の太鼓は身延山

ベンテンサマワチクブシマ

弁天様は竹生島

トサハヨサコイカツオブシ

土佐はよさこい鰹節 

チクゼンシボリニハカタオビ

筑前絞りに博多帯 

リンゴアオモリアキタブキ

りんご青森秋田蕗 

ヌマヅウシブセモモノサト

沼津うしぶせ桃の里 

ルモイミナトノニシンブネ

留萌港の鰊舟 

オカヤマメイブツキビダンゴ

岡山名物吉備団子 

ワジマヌリモノクタニヤキ

輪島塗物九谷焼

カステラナガサキサガボーロ

カステラ長崎佐賀ボーロ 

ヨリイナガトロチチブオリ

寄居長瀞秩父織 

ダイブツサンワナラジマン

大仏さんは奈良自慢

レンゲシロウマヤリガタケ

蓮華白馬槍ヶ岳 

ソテツワサカイノミョウコクジ

蘇鉄は堺の妙国寺 

ツツジワハルナアカギサン

躑躅は榛名赤城山 

ネザメノトコワキソメイショ

寝覚めの床は木曾名所 

ナツハナガラノウカイブネ

夏は長良の鵜飼舟

ラカンジヤバケイベップノユ

羅漢寺耶馬溪別府の湯 

ムラサキニオウツクバサン

紫匂う筑波山 

ウジワチャドコロチャツミウタ

宇治は茶所茶摘唄

イナワシロコニバンダイサン

猪苗代湖に磐梯山 

ノダトチョウシワショウユマチ

野田と銚子は醤油町 

オバコショウナイコメドコロ

おばこ庄内米どころ 

クマノゴンゲンナチノタキ

熊野権現那智の滝 

ヤシマノウラノヘイケガニ

屋島の浦の平家蟹 

マツエシンジコシラオブネ

松江宍道湖白魚舟

ケゴンノオオタキニッコウザン     

華厳の大滝日光山

ブッポウサイショノテンノウジ

仏法最初の天王寺 

ゴシンカケブルツバキジマ

御神火けぶる椿島 

エッチュウトヤマノマンキンタン

越中富山の万金丹 

テツビンモリオカクルミモチ

鉄瓶盛岡胡桃餅 

アワノナルトノワカメトリ

阿波の鳴門の若布採り 

サツマカゴシマサクラジマ

薩摩鹿児島櫻島 

キンノシャチホコナゴヤジョウ

金の鯱名古屋城 

ユイガハマデワカイスイヨク

由比ヶ浜では海水浴 

メイジジングウリーグセン

明治神宮リーグ戦

ミヤジマシャモジニオオトリイ

宮島しゃもじに大鳥居 

シミズトンネルトウヨウイチ

清水トンネル東洋一 

エサシマツマエオイワケブシ

江差松前追分節

ヒトメセンボンヨシノヤマ

一目千本吉野山 

モンジュハシダテマタノゾキ

文殊橋立股覗き 

センダイマツシマズイガンジ

仙台松島瑞巌寺 

スホウイワクニキンタイキョウ

周防岩国錦帯橋

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『みちしるべ』熊野より(30)**<2009.9. Vol.60>

2009年09月07日 | 熊野より

三橋雅子

<年を経て>

 最近周囲が年取ったなあ、と思うことしきり。7年前ここ熊野に来た頃は、〇〇爺さんはもっとカクシャクとしていたのにねえ、とか、山道を颯爽と行く××やんの歩きぶりも、まるで違っていた、近頃はもう杖なしでは………或いは〇〇婆さんも腰の曲がり具合が………××婆さんもめっきり外には出なくなったのか、などなど。こちらの老いの鏡なのであろう。当時60台が来てくれるとは………と大歓迎されてやってきた時は、さぞかし我々も若々しく頼もしかったのであろう。あの夫婦も年取ったねえ、と言われているに違いない。もうすぐ後期高齢者の仲間入りなのだもの、当たり前で、老いたとはいえ足腰もいまだによく役立ってくれていることに感謝のみである。髪の白さも、皺の深さも年輪の勲章で、誇らしくこそあれ、嘆く材料ではない。

 昔、10年以上も前のこと、塾の子ども達が少し馴れて、おしゃべりになると、判で押したように「どうして髪染めないの?」と言い始めたものである。「染めたら20くらい若く見えるよ。」「面倒なことないよ、ワタシお母さんが染めるの手伝うけど簡単だよ」などなど毛染めのことになると皆饒舌でお節介ある。きっと白髪がちらついてきて年寄り臭くなった母親が、見違えるように変身する様を間近にみて驚いたり感心するのであろう、とほほえましくなった。しかし私自身は毛を染める気には到底ならない。不精なのが第一、手入れを怠ったら白黒曼荼羅で余計惨めだろう、という思いもさることながら、なぜ若く見えなくちゃいけないの?という疑問がよぎるのである。子ども達にも訊いてみる。「白髪はどうして染めた方がいいの?白髪のままじゃいけないの?」と言うと、大抵は勇んで「だって、若く見える方がいいじゃん」と言う。「そうかしら?だって皆年取るのよ、体もだんだん動かなくなる………そういうの嫌だなあ、と思う?」大抵は黙ってしまう。これは年寄りになるなんて、遥か遥か、ずーと先のこととしか思えない者達には酷な質問か?同世代の人たちが集まると、座れなくなった、座ると立つのが大変、足腰が痛い………と体の老化を訴え、最後は「嫌あねえ、こうして年取って行くのねえ」と言う嘆きをよく聞いたものだ。老いていく当事者がこうなんだもの、老化と言うのはいやなものだ、と相場が決まっているのだろうか?

 「でもねえ」と私はしつこく子ども達に問う。「じゃあ、若ければ若いほどいいの?ふけてるのはだめなの?」「でっかいことは良い事だ?」「成績は良ければ良いほどいいの?」――そうだよ、そうに決まってるジャン、と自信を持って言い切る子もいれば、少しためらう子もいる。しかし、その子らですら、たとえそうばかりとは言えないとか言ったって、現実はそうじゃん、成績が良いのがいいのに決まってる、と、そのためらい顔は明らかに言っている。(でなかったら、塾なんかにくるもんか!)一定方向の価値観。息苦しいなあ。

 「でも私は、髪を綺麗に染め上げて、若作りにお化粧して、でも立てばよぼよぼで足元おぼつかないより、髪真っ白で皺くちゃのお婆さんでも、しゃきっと立てて颯爽と歩ける方が、かっこいいと思ってるの、と言う事にしていた。

 ふふっ、あの頃は若かったなあ。でも今、白髪振り立てて鍬を振るう様は、正に熊野の山姥そのもの、幸せである。

 『みちしるべ』も60号という驚くべき年輪が、輝かしい勲章ではないか。年を重ねることは楽しいことなのだ。

 それにしても編集長始め、『みちしるべ』に携わって来られた関係者の方々の、並々ならぬ、などという月並みな表現では到底表せない力量と情熱とその他もろもろの力の結集の賜物と、ただ頭が下がる思いである。気ままに、勝手なことを書いては紙面を頂く機会を与えてくださった寛大さに、ただただお礼を申し上げるのみである。

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『みちしるべ』熊野より(29)**<2009.5. Vol.58>

2009年05月06日 | 熊野より

三橋雅子

《ジビエ》

 お風呂で、鹿肉食べる?と訊かれる。毎晩襲来する鹿が罠に掛かったのだという。男湯にいる連れ合いに訊く訳にもいかないから、取り合えず「いる、いる、食べたい」と言って、もらいに行く打ち合わせの電話番号を聞く。が、裸でメモするわけにも行かず、しっかり頭に叩き込んで帰った。早速明日にでも、とまだボケてないかと記憶の数字をダイヤルするが、肝心の相手の名前が分からない。これはボケではなく、訊いたことがなかったのだ。あんなにいろいろおしゃべりしているのに。先方も、こちらが名乗っても分からないだろうと、「さっきお風呂で………」ともらいに行く打ち合わせをする。

 大阪から、武住という所に移り住んでいる、その夫婦のことを我が家で話すときは「武住さん」で事は済む。かつて平家の落人を追って熊野の奥深くまで踏み込み、そのまま住み着いた「武士の住みか」という地名と言われる。同じ武士でも、我が家から一つ谷を隔てた、今や廃村跡の平治川は、これぞ平氏の落人が辿り着いて住み着いた所だという。確かに煮炊きの煙も見えないか、と思われる高い木々に覆われ、物見櫓(ヤグラ)が残っているのは、ここから武住のあたりの動向を見張っていたのだろうか。鬱蒼と山に囲まれた神秘的な「平治の滝」が有名で、写真家が時々迷い込んで我が家に辿り着き、慰めに出すお茶を飲んで諦めたり、おしゃべりに興じて、折角道を教えても「もうええわ」と引き返すことが多い。

 あちらが源氏、こっちが平治の末裔というわけ?と訊くと、大抵土地の人たちは、いやあ、もう平氏も源氏もなく仲よう住んでたんとちゃうやろか、と言う。追う方も追われる方も、こんな所まで踏み入り、何とか居を定めカツカツの食べ物を得て命をつないでいたとすれば、鹿でも猪でも猿でもない人間は懐かしく、人恋しさが先立ったかもしれない。いつか3日も雨に降り込められていた時、息子が、あ、猿でなくて人間が歩いてる!と、数日振りのよその人間を、懐かしそうに叫んだものだ。熊野も広く、ここは奥熊野なのだ。

 さて、武住夫妻を訪なうには、案内されたように、いつもの車が止めてあるところで、警笛を鳴らす。すると遥か上の方で声あって、やがてトロッコがコトコトと降りてきた。指示通りしっかり腰を下ろして掴まり、ガタンゴトンと揺られて、鼻先の植物に触れながら登っていく。降りた所はさすがに高く、魚がぴちぴち泳いでいた川はもはや見えず、車も心なしか小さく見える。

 ようやく表題のジビエにありつく次第。刺身用のヒレの部位も含めて、たっぷり冷凍保存するだけの肉をぶら下げ、帰りはトロッコの送りを辞退して、ぶらぶら正規の道を降りてくる。車までは、さすがになかなかの道のり、これでは毎日のお風呂も、まして買い物の荷物をぶら下げては………と、トロッコが酔狂の産物ではないことが飲み込めた。

 ジビエとは鹿や猪、兎など野生の動物、かつてフランスなどの王侯貴族が狩をして得た狩猟鳥獣である。第三階級など庶民の口には到底入らない贅沢な食卓を飾るものだった。食に贅沢三昧の今の日本でも、ジビエ料理を出すのは高級レストランなのだろう。<ジビエとなる野生動物は、自由に野山を駆け回り好きな餌を食べて育つため、養殖の家畜と比べ、素材それぞれに力強い個性があり、焼いた時や食べた時に感じる強い香りと味が魅力だ>などとさるレストランは宣伝している。また他のレストランでは、<近年出回っている飼育や半飼育された鹿や猪とは違い………>と本物の猟師がしとめた獲物であることを、最大の売り物にしている。おやおや?我らが口にする、隣の猟師と猟犬が山を駆け回って獲ってきた猪の分け前や、武住さんちの罠に掛かった鹿のおこぼれは、贅沢な、正に本物の奥熊野ジビエなのだ。

 しかしそのジビエの味も最近格段に落ちた。山が荒れている証拠であろう。来たばかりの頃、目の前で切りながら、何の変哲もない、醤油と砂糖だけのすき焼き鍋に放り込んでくれた、猪肉の素朴で深い味は、丹波篠山の高級料亭の、おそらくは猪豚であろうが、凝った味噌だれの猪鍋を遥かに凌駕するものだった。猟師は、自然のものは個体差が大きくてね、と気温と餌の状況次第で、味はうんと違う、と言っていたのが、今や年内など、こう冷え込まなくてボカボカしてちゃ、脂が乗らなくてとても食べられやしない、と全部猟犬の餌にしてしまう。年々ボヤキはひどくなる。冷えが本格的になっても、かつての味にはありつけない。

 確かに森の荒れは深刻になりつつある。水源に行くたび、周囲の山の崩れなど、荒廃のさまが目に入る。水の味も落ちているのではないか。簡単に枯渇することはなくても、水質の劣化は我々にとって死活問題である。彼ら、ジビエの提供者の餌も相当な不況に違いない。百年に一度やらの経済不況など怖くはないが、森の荒廃は恐ろしい。ジビエに舌鼓を打つことがなくなるより、文字通り、子孫達が生き延びる手立てが失われつつあるのだ。

 杉の伸び止まず春日の薄くなり

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『みちしるべ』熊野より(28-2)**<2009.3. Vol.57>

2009年03月05日 | 熊野より

三橋雅子

<新しい住人>

(前頁より)

 この土地の人が、先ず暮らしにはお金が必要だ、と言うのは一応理解できる。私より若い世代でも、幼いとき、戦後だというのに、現金収入の欠乏の苦労はいやと言うほど身に沁みているらしい。熊野川べりの石を袋に詰めて、よろよろしながら背負って運んだ、その現金収入で、お習字の道具とか、学用品など買ったのだとか、雨の日は、冷たくてもわらじを脱いで、走って学校に着いてからやっと履いた、長持ちさせるために、など。惨めな話ではなく、あっけらかんとして、よう文句も言わずに働いたもんだ、と懐かしんでいる。郵便局長とか、校長先生などちゃんとした現金収入がある家の子しか、上の学校には行けなかった、中学を出ると、田んぼや畑に出たり牛の世話などをするが、手が余ったり仕事もなければ、口減らしに即都会に出て働く、と中学出てから大阪でずっと、というU ターンも多い。わたしら勉強好きじゃなかったからよかったわ、今の子は可哀想だ、勉強なんか嫌いでも、いやでも高校に、下手すると大学まで行くんやから。全くだ、とそれには同感だが、永年親元でパラサイトシングルめいた暮らしをしていた身には、彼ら、彼女らのたくましさには、肩身狭く感心するばかりである。

 中学出たとき、あいつは折角スミキン(住友金属)の試験受かったのに、就職に和歌山まで行く路銀のメドがつかなくて、とうとうフイにしよった。ほうてでも行っといたら今頃ヨカ暮らししよったろうに、なんてことも聞く。

 しかし意外だったのは、Iターン族まで現金収入の必要性には殆ど同じ反応をすることである。街中での、羽が生えたようなお金を飛ばす暮らしに見切りをつけて、“こんなところ”の、お金はないけど心休まる暮らしを求めてきたのでは?お金がお金を生む異常な貨幣制度の中の、必要最小限度のお金というのは何なんだろう?と改めて考える。

 若いIターン族の大半は森林組合などの山仕事に入る。ある程度の収入は保証されるが、雨が降れば休み、雨季などは収入の激減、しかも気の抜けない、殆ど命がけの油断ならない仕事の割には決して高給とは言えない。晴れれば休日でもお構いなく仕事、となると、休みといえば大抵は雨で、従って畑をすることは先ず出来ない。

 我が新住人は、これでは何のためにこういうところに来るのか意味がないという。自分のため、家族のために自分の口に入るものを出来るだけ自給したいし、家族一緒の暮らしを楽しみたいという。荒れ放題の森林の回復に何らかの力を投入するのは確かに、浮き草のような第3次産業の、あるいはどこに繋がっているか分からないような、また、いつでも交換可能な歯車の一環でしかない居場所に比べれば「やりがいのある」ことかもしれないが。しかし、何とか米を作り、好きな釣りで動物蛋白をまかない・・・と彼が言う、限りなく自給自足に近づく術はまだまだあると私も思う。我が家は、米作りもしないで自給自足などとは到底言えないのだが。  

  春の野は蒔かぬものらの美味の原

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