『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**歌集十点**<2015.3. Vol.88>

2015年04月13日 | 前川協子

歌集十点

前川協子

京伏見「雪香具礼(ゆきがくれ)」とうカフェにて
          酒粕パスタの美味(うま)きに酔いぬ

灼熱の恋も知らずに年古りて
          脳科学者は慾持てと説く

裸木がXYと絡みいて
          梢が風に揺らぐ元日

今一度逢いたしとう賀状見て
          逢うが叶わぬ亡き人想う

老残の身を情無やとこぼしてた
     亡母(はは)懐かしき八十路(やそじ)の初春(はる)に

スケジュール真白な侭の如月(きさらぎ)を
          迎えて侘びし手術を前に

初々しお下げ髪の看護士が
          頬染め交替告げくる朝(あした)

娘(こ)の発(た)ちしあとの部屋には仄かなる
          匂い残れりカーテンを引く

手術後の点眼にも慣れ久々に
          春陽(はるひ)を浴びて外出(そとで)楽しむ

唐突にケキョケキョケキョと鶯の
          初音聞こえて閑(しず)まれり

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『みちしるべ』東北に寄り添って 今を生きる**<2012.9. Vol.74>

2012年09月02日 | 前川協子

東北に寄り添って 今を生きる

前川 協子

 太平洋戦争中に小学校時代を過ごし、戦後も学制改革による有為転変があったせいか、私は「地理」という教科を習った覚えが無い。

 多分、それは戦時下で、地理や地図が軍の機密だったのと、戦後の世界的な動乱下では国や国境が定まらなかったせいもあったのだろう。

 ともあれ歳月を経て住民運動に携わるようになった私は、国土研に入会後のある日のこと、何気なく「地図を見る」と言った時に、先輩会員が「地図は見るものじゃなくて読むものだよ」と教えて下さったことがある。

 その時、私は新鮮な感動を覚えた。未知な分野への目覚めであった。

 しかし、その後も不勉強だった私は、つい近年まで国内でも“東北”とは余りに遠い存在でしかなかった。

 ところが5~6年前のこと、何故か私は急に東北へ行きたくなって続けざまに3度の旅をしたことがある。

 いずれも夏から秋の終わりにかけてであったが、その時目の当たりにした厳しい気象の変化と同時に季節の移ろいの見事さ、美しさに驚き、そんな大地に根付いて生きる人々の素朴で逞しい生活力や伝承文化に、かけがえの無い日本の底力を感じた。

 そこで改めて再認識したのが、宮沢賢治の真髄である。

 彼の類稀なる感性と豊かな発想力、そして優れた人間愛と社会奉仕の精神は、あの、神秘的な極限の大自然に育まれ、宇宙の真理に目覚めたものであろう…と。

 そんな思いから、私が東北の真価に目覚めたところへ、思いがけない3・11が起きたのである。

 テレビでリアルタイムに見つめた被災状況とその悲劇には為す術も無く、悶々と半年を過ごし、漸く昨秋のエキスカーションで現地に赴くことが叶った。

 被災半年後の現地はまだ生々しさが残る惨状で、これでもか、これでもかと私たちに追い打ちをかけるように迫ってきた。

 まさに「言葉を失う」としか言いようが無かった。

 だが、そんな追体験にショックを受ける私達を、陸前高田の会員をはじめとする被災者の方々は、実に健気におおらかに出迎えて下さり、大変な被災状況の中をきめ細かに適切に案内して下さった。

 おまけに夜の懇親会では思いがけなくも大鍋の郷土料理でおもてなし頂く等、その行き届いた温かい気配りや胆力には改めて心からの敬意と御礼を申し上げたい。

 翌日も広いエリアヘの見聞が増すにつれ、被災者の心労と生活の負担、将来への危惧がひしひしと伝わってきた。

 それは差し当たって生業の漁業や防潮堤のことであり、新しい居住地や住宅再建、まちづくりからダムに至る迄、枚挙にいとまが無い。

 そんな尽きぬ課題を抱えた被災者達の苦悩と将来への不安を、私達はどれだけ理解し支えて行くことができるのだろうか。

 無力感に苛まれ乍らも現地の方々とお別れして早半年が過ぎた。

 しかし、まだ復興には程遠く、又、行政の復興計画とは乖離があると伝え聞く。

 人々の思いや如何にと心が痛む。

 せめてもの私の思いは、被災地の方々に寄り添い、同じ時代に生きる者として、この実態を世に伝え、広めて行くことである。

 既に日本は地震活動期に入っているとされ、災害列島を自覚せざるを得ない。

 されば東北に学び、今、何を為すべきか、どうあるべきかを共に考え、防災力や地域力を高めるために努力し、励まし合う仲間でありたいと願う。

MY HOME

 エキスカーション最初の夕方は、秋のつるべ落としにせかされて、東松島の新興(?)住宅地を訪れた。そこからは遥かに船のマストや煙突が見え、何事も無ければさぞかしの快適な住環境であったのだろう。

 しかし、現実の一帯は見る影も無い液状化で地盤沈下の浸水や、言うまでも無い津波の直撃と、近くの川からの遡上波もあったと思われ、川や池と見まがうばかりの浸水地域であった。

 見渡す限りの荒廃地には枯れ草が生い茂り、放置された瓦礫が散乱して異臭を放っている。その異臭の元は、津波が海底から攫ってきた汚泥のせいだと聞いた。

 そんな異様な風景の中で、一見近代工法の真新しい大きな家がポツンポツンと残っていた。しかし、言うまでも無く家の中はカラッポで家財道具は波に攫われて跡形も無い。

 その中に一軒、ひときわ目を引く童話のような家屋があった。

 三階建ての壁面総てに色とりどりの花丸が描かれ、大きな丸文字でMY HOMEと書かれていた。それは全く、周囲の状況からかけ離れて意表をつく楽しさと誇りに満ちていた。あとで聞くと、そこは幼稚園だったらしい。きっと無邪気な幼児達と未来を育む保母さん達の楽園だったのだろう。その無念を思うと、心から幼稚園の再起と幼児達の幸を祈らずにはおられない。

 ところが、はかなく目を転じた地先には、池かと見まがう程の大きな水溜りがあり、そこでは白い水鳥が一羽、悠然と浮かんでいるではないか。

 一体、ここは自然界の天国なのか、それとも自然に背いた人間の地獄なのかと問い直さずにはおられなかった。

 片や真摯な同行者達は真理の探究に余念が無く、それぞれの思いに散って中々集合体に戻れない。やおら一人の先生が水際の土壌を削って見せて下さった地層には、くっきりと黒と茶色の縞模様が幾層にも現れ、それはこの度の地震による津波が、行きつ戻りつ、幾度か繰り返された痕跡であると教えて下さった。

 やがて辺りは暮れなずみ、無残な被災地の彼方には真っ赤な太陽が沈みかけていた。その、この世のものとは思えない荘厳な夕陽があたりを映し出す様は、かつて阪神・淡路大震災の夜に見た、真っ赤で異様に大きい満月を想起させた。

 どうして神と自然は、このような非情極まりない時に、かくも美しい風景を演出するのだろうか…と不思議に思わざるを得ない。

 それは死者への鎮魂の故であろうか。
 それとも生者への励ましであろうか。

つなみてんでんこと防災対策

 東北大震災のお陰で全国的に流布されたのが“つなみてんでんこ”の話であろう。

 しかし、最初のうちでこそ「さもあるべき」「かくありたし」と思っていたが、日を経て後日談を色々聞くうちに、そうとばかりは言っておられないことに気がついた。

 果たして“てんでんこ”だけで良いのか。その精神は活かすとしても、やはり基本は行政の防災対策と、官民あげてのまちづくりビジョンや参画と協働の実践がないと絵空事になりかねない危うさがある。

 此の際、改めて原発問題と同様に、事実の検証と再考の必要があると思った。

 即ち、東北震災では、各地で前途ある有能な職員が、職務に忠実な余り命を落とし、又、自主的に避難誘導を助けた地域の人材が多く犠牲になっている。

 一方では、日ごろから“てんでんこ”の防災教育が充分にできていた学校や地域の防災会が機能をしていた所は、成功例もあったと聞くが、やはりー般的には少子・高齢化の時代に至難の業であろう。

 例えば、私の住む西宮市でも高度経済成長期の時代に海を埋め立てた海岸沿いには、いくつもの学校や事業所、住宅地がある。

 しかし、阪神大震災時には縄文時代の海岸線まで液状化による甚大な被害を受けて、架橋も機能不全に陥った実績がある。

 ましてや大津波ともなれば…思うだに怖い。

 それは一つの学校や地域だけの問題では済まないはずだ。

 根底にあるのは自治体のビジョンや市民との合意によるまちづくりであり、その根元を成すのが都市計画だと思うと、今の開発行政は間違っていると思わざるを得ない。

 ましてや、行政の便利な下請け的に結成された防災会が自治会とは表裏一体で、しかも避難所や何の装備も持たぬ侭、日ごろの訓練も無しに突然、“てんでんこ”等と放置されては「棄民」に等しい。

 公共施設も不充分な町の中で、災害時に私達は何を信じて、いつを目処にどこに避難すれば良いのだろう。

 此の際、東北の被害状況を克明に検証して、明日はわが身として学び、安全・安心なコミュニティに築き上げて行かねば、街に未来は無い。

 それが、今まで経てきた住民・市民運動の結実となれば、こんな嬉しいことはない。そこで、今思いつく、具体的な今後の課題と目当てを以下に記してみた。

1. 行政の課題

  • 都市計画の適正化
  • 時代に適した法や条例に改正(町壊しから防災へ)
  • 基盤整備の確立(避難所の確保が最優先)
  • ハザードマップ表示の危険地帯には標識を掲示
  • 土地の特性や文化を尊重し、地歴に不整合な開発は許さない
  • 法令順守と情報開示
  • 警察・消防署・消防団・防災会等の意思疎通を計る
  • 市民・住民の意見をボトムアップ
  • 各種審議会には公募委員を加える
  • 災害がれきの処理は被災地の意向を尊重する
  • 学校における防災教育

2. 市民の役割

  • 市民の意見表明や政策提案を積極的に行う
  • 行政のパブリックコメントには積極的に応募し、民意を伝える
  • 首長や議会へ市民代表を選出し、チェック機能を果たす
  • 行政の下請けに甘んじず、住民自治を育て、ネットワークを築く
  • 東北の居久根(屋敷林)に匹敵するような、身近な里山や緑を守る
  • 耐震補強を心がける(防災の基本は自助)
  • 情報難民に陥らぬよう弱者避難への配慮が課題

あとがき

 東北震災後には、恥ずべき想定外の原発事故のこともあって、脱日本の外国人も多かったのに、「あくまで日本を信じる」とUターンしてまで日本国籍を取得した「鬼怒鳴門」さんに恥ずかしくないような日本再生を国民として心がけたいと思う。

 それが、世界中から寄せられた暖かい支援と、地元東北人の心意気に応える私達のせめてもの志であろう。

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 これは前川協子氏が、所属する「国土問題研究所」の刊行物に寄稿したものです。ご本人の承諾を得て、転載させて頂いたものです。

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『みちしるべ』**「はり半跡地開発問題」開発許可取消訴訟**<2010.3. Vol.63>

2010年03月02日 | 前川協子

「はり半跡地開発問題」開発許可取消訴訟
第1回公判(神戸地裁 2010/2/9)に於ける意見陳述

原告団代表 前川協子

1. 私は甲陽園に移り住んで30年余りになります。

 その頃同居していた主人の母が「まるで故郷に帰ったようだ」と緑に囲まれた静かな環境を喜び、穏やかな晩年を過ごすことができました。

 その後、昭和の高度成長期から平成のバブル期にかけて、当地は開発ラッシュとなり平和だった甲陽園も発破の音や工事騒音に悩まされるようになりました。

 新たなマンション建設のたびに豪雨時は土砂崩れや道路の陥没、鉄砲水が起き、近隣住民が「これではおちおち寝ていられない、何とか対策を」ということで、東山町自治会としては平成2年に「快適環境・安全推進宣言」を行い、風致地区にふさわしい「まちづくり」を心がけ、行政と業者に対しても「開発事業の場合は、住民との合意形成を諮り、紳士協定を結んでからの円満な着工を!」と呼びかけました。

 幸いに当時の背景として、西宮市が全国に先駆けての「文教・住宅都市宣言」を行ったことや、事業者側にもそれなりの社会貢献意識のあったことが、住民協議に役立ちました。

2. しかし、残念なことに、阪神・淡路大震災後は、規制緩和や特例措置に乗じた、ファンド系企業が土地転がしに走り、その結果、地元の基盤整備や公共設備をないがしろにしたままで、投機的なマンション建設ラッシュになりました。

 その最たるものが、本件の開発計画です。

 西宮市が作成した断層図や業者の行った複数回にわたる地盤調査を分析した専門家の意見によれば、本件開発区域の南側と北側には甲陽断層と甲陽園断層が走っています。また、兵庫県が指定した「土砂災害警戒区域」に含まれ、開発区域を縦断する水路の上流は「土石流予想危険渓流」に含まれています。しかし、開発業者は、事前の水位調査など十分な調査も行わず、行政もこれを黙認しているのが現状です。

 また、本件開発区域の南斜面下辺りには、旧海軍の地下壕跡が存在しており、兵庫県は当初、事前調査の実施を指示していましたが、結局開発許可前の調査は実施されませんでした。

 更には、本件開発区域を縦断する渓流の埋め立てによる水路の付け替えや、マンションの居住棟地階最下部に大規模な調整池を設ける等、これまでの開発行為でも例を見ないような異様な計画です。

 本件開発区域のような谷地形の所に、切土・盛土による宅地造成を行うことは、阪神・淡路大震災時に造成地における土砂災害で34名の人命を奪った仁川百合野地区に匹敵する惨禍を招きかねません。

 また、近年の異常気象による豪雨災害(一昨年夏の兵庫県都賀川事故、昨年夏の山口県防府災害、兵庫県佐用被害等)を目の辺りにし、それら被災地と本件開発区域との類似性を考えると、私たち住民は.いつ自分たちの住んでいる場所で同様の災害が起こるかと不安で一杯です。

 このように自らの経験から本件開発行為の危険性を予測している周辺住民は、無謀な乱開発に反対する署名約14,000筆を西宮市に提出しました。

 そして、私達は、その危険性を指摘し、周辺地域に住む住民の命と財産を守るために、当初から事業主に対して、真摯な住民協議を求めてきました。しかし、事業主とその代理人の不誠実な対応、高圧姿勢は変わることがなく、説明や資料も不充分なままで今日に至っています。

 このような経過にもかかわらず、西宮市は、住民からの危険性の指摘を無視して、この開発計画を容認し許可しました。

3. 止むなく私達は、市民を守り切れなかった市の開発行政をただすために開発審査会に対して審査請求を行ったのですが、結局は、市の許可を追認するだけの結果となりました。

 公正な審埋を期待していた私達は、裁決書を見て初めて、審査会が公費で鑑定を依頼した先が、本件開発工事を受注している業者が賛助費を納付し賛助員に名を連ねている団体であり、その鑑定結果によって私達の請求が退けられたことを知りました。

 このような開発審査会の姿勢は、本件に先行して提訴した「水路使用料の未徴収」住民訴訟の勝訴判決から証明された西宮市の監査委員の不実さとも相通じるものです。

4. あくまで私達のコンセプトは「住居は人権」であり、「安全安心なまちづくり」に資する長期的なパートナーシップを行政や業者に期待しているのです。

 従って私達は、真の意味での行政の役割と責任を問い、私達が暮らす地域の災害を防止し、今、甲陽園に住む子ども達がやがて未来にむかって羽ばたくときに、「終生の故郷」として甲陽園の素晴らしい自然環境や風土文化を生きるよすがにしてくれたら・・・という思いで提訴に踏み切りました。

 裁判長におかれましては、本件に係る数多くの問題点にご理解を戴き、英明、公正な御判断によって、本件許可処分と裁決を取り消して頂きますよう、切にお顔い申し上げます。

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『みちしるべ』**「みちしるべ」賛歌**<2009.9. Vol.60>

2009年09月09日 | 前川協子

「みちしるべ」賛歌

前川協子

 60号の記念発刊、おめでとうございます。

 発足時、タイトルを決めるのに侃々諤々があったと記憶していますが、今では単なる“道標”にとどまらず、地域間の交流や歴史文化の伝播に役立っているところが凄いです。私は近年、播半跡地の開発問題に傾注していますが、年初の二月には解体工事が終わり、折りしもの経済不況もあって、更地の侭で本工事には至っていません。しかし、あれほどの和風建築の粋が、凝った家具調度と共にむざむざと破壊されたことに、経済至上主義社会における非情な喪失感を味わっています。今夏、私は東北の夏祭りと山陰の倉吉街作り、それに災害後の防府市「ライフケア高砂」の現地を見に行きましたが、本気で自主的に地域振興に取り組んでいる所と、無責任な開発による災害を惹起している自治体との落差に驚きました。地歴の尊重と文化の伝承こそヒューマンライフの真骨頂だと思い、「みちしるべ」に強く期待する所以です。

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『みちしるべ』砂場さん、さようなら**<2009.2. Vol.56>

2009年02月09日 | 前川協子

砂場さん、さようなら

前川協子

 砂場さんのお葬式は、質実で清楚な会場に偉大な先人を追慕する人達の深い悲しみが満ちていた。おみあしの悪い夫人が美しく凛として喪主を務められたのも御立派だった。各界代表の三人が切々と述べられた弔辞も心に迫り、砂場さんの御人徳に感謝し、足跡を賛え、惜しむ気持ちで溢れていた。ソ連の抑留生活を含めて御苦労の多かった人生とは思うが、これほど人々に生きる指針を与え、勇気を振るわせ、しかも愛され親しまれて一生を終えられたのは、やはり稀な幸な方だったと思う。

 砂場さんには、阪急甲陽線の地下化運動を巡って行き悩んでいた時、「阪神間道路問題ネットワーク」の代表者として色々の御高配を頂いた。時にはわざわざ甲陽園迄出向いて下さったこともあり、喫茶店でじっくり話し合ったことも懐かしい思い出となってしまった。いつも励ましやお導きを頂きながら、つい地元の運動にかまけて、何のお役にも立てなかったことが今更のように悔やまれる。

 砂場さんで意外だったことは、仲間とのカラオケに心(しん)から愉しそうに興じられていたこと。酒豪で乱れることのなかった人だったけど、ホントに喜々として参加される洒脱さには到底私等足もとにも及ばない人間性だった。

 最も忘れ難いのは、芦屋川へ花見に行った時のこと。それぞれに別れ難くてそぞろ歩きで阪急芦屋川駅に辿り着き、ガード下の路傍に腰かけて、尚、尚、缶ビールを飲んでは語りあったことがある。みんな若かったね。楽しかったね。あんなに人を素にして和ませる人は少ないよね。

 何といっても彼の真骨頂は、山幹決戦の場であった武庫川河畔の総大将振りであろう。彼は身じろぎもせず、瞳を据えて、沈黙のまま、辺りを睥睨していた。戦国の武将もかくやと思われ、やはり稀代の士(さむらい)であった。

 砂場さん、身を以って示された“生き方”のお手本を有難う。御立派な人生を完うされて敬服します。いつかまたお会いするまで、安らかにお眠りください。

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『みちしるべ』負の遺産は残すまい**<2006.5. Vol.41>

2006年05月01日 | 前川協子

負の遺産は残すまい

前川協子

 「阪神間道路問題ネットワーク」の有力な構成団体の一つ、尼崎の「みちと環境の会」が奈良の平城宮跡を見学されるというのでお伴した。平城宮跡は1998年に埋蔵文化財包蔵地として、日本で初の世界遺産(「古都奈良の文化財」の一つ)に登録されたものである。ところが国交省が、京奈和自動車道大和北道路のルートとして地下トンネルの通過を狙っているのだ。既にボーリング調査も終わり、着々と準備を進めているのだが、もし実現すれば地下の貴重な遺物(木簡群等)や遺構が破壊、損壊されると、「高速道路から世界遺産・平城京を守る会」が発足して、活発な運動をされているのだ。以前にネットワークが、その事務局長Kさんをお招きして、学習会を行った経緯があったので、一同は現地での見学や交流に大いに期待して参加した。

 当日には、思いがけなく高齢化(?)のリーダー格が体調不良で欠席というハプニングもあったけれど、無事に若手の引率で出発ができた。

 さて、近鉄大和西大寺駅に着いてみると、バス乗り場で小旗を振り、我々グループに必死の大声で早く乗るようにせかしている男性がいらして度肝を抜かれた。この方が代表世話人のお一人であるHさんで、学校の先生だったとのこと。その余りの勢いに他の乗客から色々と質問が出たが、闊達に運動の趣旨や今日の状況を説明していらしたので、その一徹な熱心さには感服してしまった。ご当人の弁によると、ボランティアだけどボランティアでは無いそうで、得難い人材だ。下車して見渡せば、農村に囲まれた広大な平城宮跡(125ha)で、所々に遺構や復元された建物が望見される。実にのどかな早春風景の中で、前述のKさんと落ちあう。共に歩きながら、ガイド役のHさんの博識と迫力、行動力に幻惑されてしまい、まるでそこらから古代人が現れるような不思議な感覚に陥った。やはり奈良の都は日本民族の故郷なのだろうか。

 地下トンネル化で懸念されるのは、今まで奈良盆地の豊富な地下水で守られてきた木簡類が、建設による地下水の低下で腐食してしまい、全滅の危険性があるらしい。しかもまだ過半数の文化遺産が未発掘で、地下1m位の所に眠っているそうだから惜しい話だ。既に出土した木簡からは、八世紀頃の政治、経済、社会、文化等に関する史実が色々解明されて、考古学に寄与したことは記憶に新しい。

 のびやかな平野の中の発掘調査で、太政官、兵部省、式部省、大膳食等々の役所跡や天皇の居所である内裏等が特定された。今は壮大な大極殿が復元中だった。感心したのは、現代にも優る都市計画が古代国家に存在したこと。平城京は朱雀大路を中心に碁盤目状の街路で構成され、宮内は朱雀門(古代工法で見事に再現されていた)で堅固に守られていたのだ。これほどの世界遣産や歴史的な環境を、一時的な渋滞緩和策としての高速道路地下化案で危機に曝すのは愚かな行為だ。人も車も少なくなる次代に負の遣産は残すまい。

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 2006年5月21日(日)毎日新聞朝刊6面は、この京奈和自動車道の一部区間(大和・御所道路。大和区間)開通記念対談と題した国土交通大臣と奈良県知事の対談、もちろん早全金区間開通をもくろむための財源確保も含めた宣伝広告であるが、を載せた。奈良の観光振興。まちづくりに貢献するとある。歴史遺産を生かし、海外からの観光客も呼び込むという “奈良”道路網が完備しなくても“今のまま”の奈良を生かさなければ“奈良”はないのだ。ちなみに今回開通した部分と、平行する国道24号線の利用時間の差は約4分である。JR宝塚線事故が私たちにつきつけたのは、安全確保は言うまでもないが、ゆっくり生きよう(スローライフ)ということではなかったか。あの事故から我々が得る教訓は、このことにつきるのだ。(編者S記)

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『みちしるべ』余りにも私的な「道」考**<2004.7. Vol.30>

2006年01月11日 | 前川協子

余りにも私的な「道」考

前川協子

 梅雨の最中に高速バスで鳥取へ行って来た。中国縦貫道をおりて地道を走る車窓から外を眺めていると、豊かな緑が雨に濡れて息を呑むほど美しく、心がみるみる癒されて行く。田植えが終わったばかりの水田は瑞穂の国を実感させ、中国山脈の様々な緑の濃淡は幾ら続いても見飽きることがない。いつとはなしに併行して流れる千代川の清流も、下流に近づくにつれて大河の様相をなし、見守るだけで至福の感がある。集落には名残の鯉のぼりが時に見えて、寄り添うように男児の名前を染め抜いた大幟が立っているのも壮観だ。街道筋や農家の広い庭先には、今を盛りのあじさいが千変万化の彩りで咲き誇り、もう都会では見られなくなった立ち葵(タチアオイ)が華麗に咲いているのも懐かしかった。

 メイン道路は通る度に広がり立派になって道端の崖はコンクリで塗り固められていくのだが、交通安全の為とは言え、この度見かけた擬岩の割れ目に咲く1本の蛍袋(ホタルブクロ)の花には感動とショックを覚えた。そのえも言われぬ優しげな風情の薄紫の花は、きっとそこに群生していたのだろう。それが人間の都合で押し潰され、それでも健気に1本が再生したのだ。私は思わず振り向いて、人間の仕業を詫び、蛍袋の延命を願った。

 改めて気づけば道沿いには道路の拡幅による立ち退きで高額の補償を得たであろう人達の真新しい豪邸が目立つ。公共工事の為に先祖伝来の土地を離れて移転せざるを得なかった住民の苦衷も分かるが、果たして公平な対価だったのだろうか。都会でホームレスの人達が増え資源ごみの日には自転車に山盛りの空き缶を積んで、尚も拾い漁る老人達を多くみかける。元来、土地はどうあるべきで富の分配や人の平等は此世で所詮かなわぬ夢なのだろうか。

 冬になれば雪に埋もれる比の辺りには、第三セクターの智頭鉄道が単線で通り、玩具のようにカラフルで小さな電車が走っているが、駅名は「恋山形」等とロマンに溢れている。林業の盛んな土地柄だけに木の葉書発祥の地としても知られ、はやりの市町村合併にも応じないという話だ。しかし今、この智頭辺りから鳥取にかけては天を突くような巨大橋脚が何本か立ちつつある。これはいわゆる「姫路鳥取線早期開通」の願いを実現する高速道路の建設現場で「緑縫う道・鳥取自動車道」の大看板が見えるが、はっきり言えば「緑壊す道」である。約十年前の鳥取郊外、河原町辺りは一面のれんげ畑に包まれ、まるで天国のように長閑だつたのに、もはや返す術も無い。幼い頃、父や祖母に連れられ、夏の真っ白に乾いた田舎道をポクポクと歩き、時に木陰で憩い、汗を拭いながら昔語りを聞いたのは、夢か幻のように遠くなってしまった。

 私は便利な山陰より昔の山陰を恋しく思いながらも、現実には故郷へ帰る手段を高速道利用で自己矛盾に陥っている。そんな私でも包みこんで、理想の道づくりや世相諸々の話を聞かせて下さる仲間と共に在ることは無上の幸せだ。

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『みちしるべ』インドヘ仏跡を辿る旅**<2004.3. Vol.28>

2006年01月10日 | 前川協子

インドヘ仏跡を辿る旅

前川協子

“正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし”

 という、確か一休さんの作といわれる歌があったが、私も馬齢を重ねて諸事思いあぐねていたところへ、菩提寺のお住っさんが「仏跡を辿る旅」に誘って下さったので、夫婦でお判することにした。他には総代さんのご夫妻と若手のお坊様二人。恙無く帰国してみれば、何やら田辺聖子女子のヒット作“姥ざかり花の旅笠”――小田宅子(高倉健のご先祖)の「東路日記」――にも似て、好奇心、探求心、遊び心溢れる現代版「突撃旅笠道中」であった。

 先ず、打ち合わせの席から「ヒマラヤの遊覧飛行をどうする?」に即、乗ったのが、弁慶もかくあるやの逞しいお坊様で、「一蓮托生で行きましようや」に忽ち合意。このツキが、遊覧飛行の早朝は現地ガイドも驚くほどの稀なる晴天で、機長の配慮による操縦席から見たエベレストの山々は、鮮やかな青空に純白の雪が輝く、まさに神々の国!としか言いようのない荘厳な美しさだった。

 だが遊覧だけではない。インドとネパールに跨がる仏跡巡りで得た学習は、民族と宗教を含むあらゆる文化の多様性、改めて考えた死生観、国家の体制、自然と人間の共生関係等だった。乾季のはずのインドが、着いてから暫くは雨ばかり。この異常気象のせいで、インフラ未整備の国土は忽ち道が、畑が、村が水浸しになり、川の溢れる様子もよくわかった。でも人々は動じない。殆どの人が裸足でビニールを被り悠々たるものだ。切れた川の堤を、四~五人の村人が自力で手当している。幹線道路の泥濘にタイヤをめりこませて立ち往生したトラックのために交通が麻痺して、延々と車列が連なり、何十キロと及んでも、誰一人文句も言わず怒らず、自分流に待ちの姿勢だ。旅程の都合で専用車を降りた私たちは、急遽交渉したジープでギュウ詰めになりながら、反対車線を突っ走り、漸く鉄道の駅までたどり着くハプニングもあった。駅長の好意で、鈍行の貨車さながらの客車を貸し切りにしてもらったのだが、五、六時間の乗車中に恐持ての警官達が銃剣の武装で乗り込んできた時は怖かった。

 ネパールは一層の軍事国家で、土嚢の陰から、常に兵士が銃口の狙いをつけている異様さには、つくづく日常的な平和の大切さを思い知った。

 理不尽だったのはインドのカースト制度。あまりの物乞いの多さ、悲惨さは職に就けない下層民と知り衝撃を受けた。ベナレスのガンジス川沐浴や、ネパールでも見た死を待つ人の館、衆人環視の青空火葬場でメラメラ燃える炎は、むしろ生ではあがなえなかった魂の解放を讃える歓喜の行事であろうか。裕福な王族に生まれたシッダルタが真の幸と英知を求めて出家し、苦行の果てに悟りを開き、仏陀として布教行脚を続けた精神は、現代のNGOにも通じる苦悩の道程である。クシナガラの涅槃堂で穏やかな釈尊像を前に、一行の坊様方があげられた唱名は堂々と清らかで、今も胸に余韻が残る。

“さよならを言うためにある出会いかな”

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『みちしるべ』ベトナムに学ぶ**<2003.9. Vol.25>

2006年01月09日 | 前川協子

ベトナムに学ぶ
――人は人として生きる――

前川協子

 ベトナムの空は蒼かった。入道雲に見惚れ、ハノイとクチでは強烈なスコールを浴びた。豊かな緑と恵まれた水辺に色鮮やかな原色の花々。溢れる果物と香草に満ちた食卓・・・・思い出すだに魅力的な風土なのだ。人々の顔は野性的に引き締まり、強い目の輝きにはアメリカ帝国主義を阻んで祖国の統一を成し遂げた誇りが現れている。それ故に一層目立つのが女性の優美なアオザイ姿で、三角の編み笠に伏せた憂愁の面差しは、永年に亙る列強への忍従を偲ばせて印象が深い。私は八日間の旅で受けたカルチャーショックが大きくて、帰国後の暫くは街並みに馴染めなかった。高層建築物が林立し、街路樹は刈られ、整然とした区画を人々はよそよそしく行き交う。夏休みなのに子供たちの遊ぶ姿も見かけられない。これが日本の都市計画だというなら悲しい現実だ。

 ベトナムの街の喧操と活気の中で見た、子供たちが裸で群れ遊ぶ光景が懐かしい。又、今回のベトナム訪問は、ベトナム平和委員会の招待を受けて、小田実氏を団長とする元べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の第二次代表団として行われたので、ベトナム側との正式会談を初めとして、友好協会との交流講演会や各地の戦跡見学、平和村の慰問、戦争証跡博物館への記念寄贈等、意義深いものだった。それら一連の行事に参加して感じたのは、少なくともベトナムには、過去の戦争を検証した幾多の資料館や記念碑があり、戦跡のクチ地下壕等を保存することで若人達の歴史認識を高めたり、組織としてのエリート教育も行われているようだった。そうした国策の中で理解し難かったのが、ソンミ村の荒屋に今も住む虐殺生き残り女性の不遇な老後である。彼女はあるまじき戦争の狂気の被害者として、アメリカの謝罪と補償は言わずもがな、人道的に救済されて当然なのに、いずれも叶わず、心痛む生活状況であった。ベトナム国家として烈士の日(7月27日)が制定され、戦没者は各地の国旗翻る墓地で手厚く祀られている様子なのに、奇跡的に助かった非戦闘員彼女が、貴重な生き証人として厚遇されていないのは不可解だった。更に枯葉剤による影響が二年前の政府調査では百万人に及ぶというし、その内百人の障害児達が暮らす平和村を訪れて、真摯な医療と教育現場に安堵はしたものの、子供たちの障害にもめげない健気さと英明さ故に、一層、戦争犯罪の苛酷さを際立たせていた。今も尚、イラクや世界の後進国で、子供達が生々しい戦争被害者として生き難い生を生きていることを思う時、私達はべ平連の原点に還り、ベトナムの真実を伝えて、破滅的な覇権主義を告発し、抵抗し、平和への働きかけを強める必要があるのではないだろうか。そして魅力的で豊かな国土と人材を擁するベトナムに、友好と連帯の絆を深めて行きたいと思う。

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『みちしるべ』「春の芦屋で・・・・・」**<2003.5. Vol.23>

2006年01月09日 | 前川協子

「春の芦屋で・・・・・」

前川協子

 4月27日に芦屋で開かれた道路ネットの定例会に久しぶりに出席することができた。集まったのは、阪神間各市からのいつもの熱心なメンバー10人余り。先ず藤井さんから「環境影響評価の実際と問題点」と題するお話を聞く。これは芦屋の山幹問題に直面しているグループが、市の呼びかける「学習会」に先行しての予習会という意味があったらしい。西宮市における阪急甲陽線の一部地下化問題についても、かねて道路建設課は「環境アセスに該当しないので調査しない」と言っているので(困ったことだ。・・・)と思っていたから、丁度良い学習の機会になった。環境影響評価法が制定されても、大規模開発に適用されるだけで、むしろ行政側の免罪符になっていることが分かり、これは最近の行政が唱える「参画と協働」や「男女共同参画社会づくり」等の条例、それに「パブリックコメント」等の要項と同じで、むしろ巧妙な隠れ蓑になっている危険性を感じた。でも幸いなことに、西宮市の山幹問題で果敢に戦われた甲子園口北町周辺では、環境アセスが実施されたばかりか、開通を機に大気測定装置等が設置されたのだから。これは勿論、住民運動の賜であるが、先例となって生きているのだから、後に続く者としては、当然行政に働きかけ、又、行政側も実行しなくては「公害の実態隠し」として非難を浴びても仕方ないだろう。行政側の逃げ口上としては「環境基準がクリアされていれば良い」ということらしいが、既にバックグラウンドが悪いと対象にならない落し穴を、住民側としては「既に住んでいる今よりも悪化しないのが条件」として主張し続けねばならない。国側が43号線道路裁判で負けてから、一挙に基準を緩めたことを、私たちは忘れまい。ただ山幹の場合は、計画決定時の旧環境基準が適用されるそうだから、せめてもの救いであろうか。だが未だに、道路アセスの対象にならない現象(光学オキシダント)や物質(浮遊粒子等)があり、殊に振動は、阪神淡路大震災の揺れでも要請限度(知事が道路管理者に交通規制を要請する事が出来る基準)内だというから驚きだ。その他の問題点にしても、交通量の予測値の良い加減さがある。例えば磐滝トンネルが出来る前は、7千台といわれていたのに、現実は1万2千台、震災時には1万5千台も通っていたそうだ。それに自動車と一口に言っても多種多様な車種があり、通行時間帯も色々で、大気拡散も気象条件で変わるとなると、如何に人知の限りを尽くしても予測には限界がある。

 現にあれ程すぐれた手塚治虫でさえも、アトムの誕生日を今年の4月8日と定めていたのだが、到達するだけのハイテクを人類は持ち得なかったのだ。それらを謙虚に受け止めて私たちは道路問題を考えるに当たり、来し方、行く末を慎重に見極めて対処して行きたい。反対運動だけでは抗し切れない複雑巧妙な時代になっていることを自覚しよう。博学篤実な藤井さんから多くを学んだ春の午後だった。

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