東北に寄り添って 今を生きる
前川 協子
序
太平洋戦争中に小学校時代を過ごし、戦後も学制改革による有為転変があったせいか、私は「地理」という教科を習った覚えが無い。
多分、それは戦時下で、地理や地図が軍の機密だったのと、戦後の世界的な動乱下では国や国境が定まらなかったせいもあったのだろう。
ともあれ歳月を経て住民運動に携わるようになった私は、国土研に入会後のある日のこと、何気なく「地図を見る」と言った時に、先輩会員が「地図は見るものじゃなくて読むものだよ」と教えて下さったことがある。
その時、私は新鮮な感動を覚えた。未知な分野への目覚めであった。
しかし、その後も不勉強だった私は、つい近年まで国内でも“東北”とは余りに遠い存在でしかなかった。
ところが5~6年前のこと、何故か私は急に東北へ行きたくなって続けざまに3度の旅をしたことがある。
いずれも夏から秋の終わりにかけてであったが、その時目の当たりにした厳しい気象の変化と同時に季節の移ろいの見事さ、美しさに驚き、そんな大地に根付いて生きる人々の素朴で逞しい生活力や伝承文化に、かけがえの無い日本の底力を感じた。
そこで改めて再認識したのが、宮沢賢治の真髄である。
彼の類稀なる感性と豊かな発想力、そして優れた人間愛と社会奉仕の精神は、あの、神秘的な極限の大自然に育まれ、宇宙の真理に目覚めたものであろう…と。
そんな思いから、私が東北の真価に目覚めたところへ、思いがけない3・11が起きたのである。
テレビでリアルタイムに見つめた被災状況とその悲劇には為す術も無く、悶々と半年を過ごし、漸く昨秋のエキスカーションで現地に赴くことが叶った。
被災半年後の現地はまだ生々しさが残る惨状で、これでもか、これでもかと私たちに追い打ちをかけるように迫ってきた。
まさに「言葉を失う」としか言いようが無かった。
だが、そんな追体験にショックを受ける私達を、陸前高田の会員をはじめとする被災者の方々は、実に健気におおらかに出迎えて下さり、大変な被災状況の中をきめ細かに適切に案内して下さった。
おまけに夜の懇親会では思いがけなくも大鍋の郷土料理でおもてなし頂く等、その行き届いた温かい気配りや胆力には改めて心からの敬意と御礼を申し上げたい。
翌日も広いエリアヘの見聞が増すにつれ、被災者の心労と生活の負担、将来への危惧がひしひしと伝わってきた。
それは差し当たって生業の漁業や防潮堤のことであり、新しい居住地や住宅再建、まちづくりからダムに至る迄、枚挙にいとまが無い。
そんな尽きぬ課題を抱えた被災者達の苦悩と将来への不安を、私達はどれだけ理解し支えて行くことができるのだろうか。
無力感に苛まれ乍らも現地の方々とお別れして早半年が過ぎた。
しかし、まだ復興には程遠く、又、行政の復興計画とは乖離があると伝え聞く。
人々の思いや如何にと心が痛む。
せめてもの私の思いは、被災地の方々に寄り添い、同じ時代に生きる者として、この実態を世に伝え、広めて行くことである。
既に日本は地震活動期に入っているとされ、災害列島を自覚せざるを得ない。
されば東北に学び、今、何を為すべきか、どうあるべきかを共に考え、防災力や地域力を高めるために努力し、励まし合う仲間でありたいと願う。
MY HOME
エキスカーション最初の夕方は、秋のつるべ落としにせかされて、東松島の新興(?)住宅地を訪れた。そこからは遥かに船のマストや煙突が見え、何事も無ければさぞかしの快適な住環境であったのだろう。
しかし、現実の一帯は見る影も無い液状化で地盤沈下の浸水や、言うまでも無い津波の直撃と、近くの川からの遡上波もあったと思われ、川や池と見まがうばかりの浸水地域であった。
見渡す限りの荒廃地には枯れ草が生い茂り、放置された瓦礫が散乱して異臭を放っている。その異臭の元は、津波が海底から攫ってきた汚泥のせいだと聞いた。
そんな異様な風景の中で、一見近代工法の真新しい大きな家がポツンポツンと残っていた。しかし、言うまでも無く家の中はカラッポで家財道具は波に攫われて跡形も無い。
その中に一軒、ひときわ目を引く童話のような家屋があった。
三階建ての壁面総てに色とりどりの花丸が描かれ、大きな丸文字でMY HOMEと書かれていた。それは全く、周囲の状況からかけ離れて意表をつく楽しさと誇りに満ちていた。あとで聞くと、そこは幼稚園だったらしい。きっと無邪気な幼児達と未来を育む保母さん達の楽園だったのだろう。その無念を思うと、心から幼稚園の再起と幼児達の幸を祈らずにはおられない。
ところが、はかなく目を転じた地先には、池かと見まがう程の大きな水溜りがあり、そこでは白い水鳥が一羽、悠然と浮かんでいるではないか。
一体、ここは自然界の天国なのか、それとも自然に背いた人間の地獄なのかと問い直さずにはおられなかった。
片や真摯な同行者達は真理の探究に余念が無く、それぞれの思いに散って中々集合体に戻れない。やおら一人の先生が水際の土壌を削って見せて下さった地層には、くっきりと黒と茶色の縞模様が幾層にも現れ、それはこの度の地震による津波が、行きつ戻りつ、幾度か繰り返された痕跡であると教えて下さった。
やがて辺りは暮れなずみ、無残な被災地の彼方には真っ赤な太陽が沈みかけていた。その、この世のものとは思えない荘厳な夕陽があたりを映し出す様は、かつて阪神・淡路大震災の夜に見た、真っ赤で異様に大きい満月を想起させた。
どうして神と自然は、このような非情極まりない時に、かくも美しい風景を演出するのだろうか…と不思議に思わざるを得ない。
それは死者への鎮魂の故であろうか。
それとも生者への励ましであろうか。
つなみてんでんこと防災対策
東北大震災のお陰で全国的に流布されたのが“つなみてんでんこ”の話であろう。
しかし、最初のうちでこそ「さもあるべき」「かくありたし」と思っていたが、日を経て後日談を色々聞くうちに、そうとばかりは言っておられないことに気がついた。
果たして“てんでんこ”だけで良いのか。その精神は活かすとしても、やはり基本は行政の防災対策と、官民あげてのまちづくりビジョンや参画と協働の実践がないと絵空事になりかねない危うさがある。
此の際、改めて原発問題と同様に、事実の検証と再考の必要があると思った。
即ち、東北震災では、各地で前途ある有能な職員が、職務に忠実な余り命を落とし、又、自主的に避難誘導を助けた地域の人材が多く犠牲になっている。
一方では、日ごろから“てんでんこ”の防災教育が充分にできていた学校や地域の防災会が機能をしていた所は、成功例もあったと聞くが、やはりー般的には少子・高齢化の時代に至難の業であろう。
例えば、私の住む西宮市でも高度経済成長期の時代に海を埋め立てた海岸沿いには、いくつもの学校や事業所、住宅地がある。
しかし、阪神大震災時には縄文時代の海岸線まで液状化による甚大な被害を受けて、架橋も機能不全に陥った実績がある。
ましてや大津波ともなれば…思うだに怖い。
それは一つの学校や地域だけの問題では済まないはずだ。
根底にあるのは自治体のビジョンや市民との合意によるまちづくりであり、その根元を成すのが都市計画だと思うと、今の開発行政は間違っていると思わざるを得ない。
ましてや、行政の便利な下請け的に結成された防災会が自治会とは表裏一体で、しかも避難所や何の装備も持たぬ侭、日ごろの訓練も無しに突然、“てんでんこ”等と放置されては「棄民」に等しい。
公共施設も不充分な町の中で、災害時に私達は何を信じて、いつを目処にどこに避難すれば良いのだろう。
此の際、東北の被害状況を克明に検証して、明日はわが身として学び、安全・安心なコミュニティに築き上げて行かねば、街に未来は無い。
それが、今まで経てきた住民・市民運動の結実となれば、こんな嬉しいことはない。そこで、今思いつく、具体的な今後の課題と目当てを以下に記してみた。
1. 行政の課題
- 都市計画の適正化
- 時代に適した法や条例に改正(町壊しから防災へ)
- 基盤整備の確立(避難所の確保が最優先)
- ハザードマップ表示の危険地帯には標識を掲示
- 土地の特性や文化を尊重し、地歴に不整合な開発は許さない
- 法令順守と情報開示
- 警察・消防署・消防団・防災会等の意思疎通を計る
- 市民・住民の意見をボトムアップ
- 各種審議会には公募委員を加える
- 災害がれきの処理は被災地の意向を尊重する
- 学校における防災教育
2. 市民の役割
- 市民の意見表明や政策提案を積極的に行う
- 行政のパブリックコメントには積極的に応募し、民意を伝える
- 首長や議会へ市民代表を選出し、チェック機能を果たす
- 行政の下請けに甘んじず、住民自治を育て、ネットワークを築く
- 東北の居久根(屋敷林)に匹敵するような、身近な里山や緑を守る
- 耐震補強を心がける(防災の基本は自助)
- 情報難民に陥らぬよう弱者避難への配慮が課題
あとがき
東北震災後には、恥ずべき想定外の原発事故のこともあって、脱日本の外国人も多かったのに、「あくまで日本を信じる」とUターンしてまで日本国籍を取得した「鬼怒鳴門」さんに恥ずかしくないような日本再生を国民として心がけたいと思う。
それが、世界中から寄せられた暖かい支援と、地元東北人の心意気に応える私達のせめてもの志であろう。
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これは前川協子氏が、所属する「国土問題研究所」の刊行物に寄稿したものです。ご本人の承諾を得て、転載させて頂いたものです。
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