わたしの住民運動(最終回)
山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ
平成11年に入って市は、工事のための迂回路を造る説明会を開くといってきた。1月9日夜、上甲子園サービスセンターに於いてである。翌10日には同じ場所で、市民の会が最終決断をせまられる住民の会を開いた。この両日、欠席を余儀なくされたある会長は、事前に「ここまで来たら、今後はいかに西宮市当局に約束したことを守らせていくかが大切であり、尚一層結束が大事。」と伝えてきました。
1月10日、およそ50名の参加のもと、意見が出された。あくまでも「常設の観測所が欲しいが、無理であれば通年の観測でも良い。同じことだから。」「この回答はこれが最終でよい」「中身についてははっきりした言葉で協定書をつくる」などの意見がでた。
代表から、この回答が良ければ会の名称を変更した方がよいと提案。尼崎の南北線反対の会の砂場さんから挨拶がありました。西宮市におけるかつてない住民運動、ここまで来たのはみんなの頑張りがあったからなど称えてくださった。
最後に平成10年12月28日、市から出された回答書を受け入れることを決議した。内容の細かい部分を加えた。二車線の締め切り方、今後の対応の責任部署を明確にすること。又、この道路が今後のモデルとなるような道路にして欲しい、との意見もあった。
平成11年1月14日付けで、西宮市へ正式に、12月28日の回答を受け入れることを伝えた。会の名称も「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」と改めることを併せて伝えた。
その日まで、本当に一致団結してこの運動に参加して下さった地域住民の皆さんには、山手幹線ニュースでお知らせしました。ここで改めてそのニュースの全文を記載しておきたいと思います。
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平成11年1月
山手幹線ニュース
長い間のご支援ありがとうございました。
平成3年秋以来、山手幹線拡幅・架橋事業に伴う地域の環境悪化に対して、私たち沿道住民は反対する市民の会を結成し、又地元町内会のバックアップを得ながら、西宮市当局にこの事業の中止を訴え続けてきました。平成7年10月30日より強行された測量調査を阻止し、雪降る寒い日も154日に亘るテントを張っての座り込みとパトロール、平成8年5月20日早朝の武庫川河川敷での調査阻止と、その後のパトロール。夏の暑い日も行いました。
西宮市当局は、このような私たちの抵抗に対して、平成9年3月10日、仮処分申請を行い住民を訴えたのでした。裁判所は妨害すれば、一日30万円の罰金を市民の会と甲子園口北町町内会の2団体、それぞれに課するという決定を下しました。
私たちはそれでも戦い続けました。同時に市当局との話し合いを続ける中で、私たちは「この事業が実施された後、この沿道の環境基準を守れる道路にする。」ということを約束するならば反対のはたを降ろすことも吝かではないので、文書で約束するよう求めてきました。しかしながら、平成10年2月9日より、市当局は仮処分決定を盾に測量調査を強行して来ました。厳寒の河川敷での座り込みにも、高齢者と婦人だけでは限界があり、事故が起こる事を懸念し、無念の涙を呑んで引きました。
その後も、市当局とは話し合いを続け、平成10年9月28日、5,000余名の署名を西宮市長に提出しました。その内容は「山手幹線は拡幅・架橋されても、環境基準を守れる道路とすることを文書で約束してもらいたい。」というものでした。
その結果、10月2日付けにて市当局より、第一回目の回答を得ました。市当局は初めて「環境保全目標を超えた場合は、その目標を達成できるよう速やかに対策を講じていく。」と文書で約束いたしました。
それを基に、平成10年10月25日の市との協議の場で具体的な数値などをはっきりと盛り込むことを要求しました。平成10年10月28日付けにて、当局は住民の要求の大筋を4ページにわたり回答してきました。更に11月3日、市当局と協議し、細かい表現の訂正を求め、11月26日付けにて回答を得ました。その間、当局は河川敷のなかの橋脚の工事は、どうしても11月から着手するとし、10月31日、11月7日に工事説明会を行い、11月9日より工事着手しました。
その後も私たちは、(1.二車線で供用する件、2.中津浜線まで低騒音舗装をこの事業と同時に行う件、3.固定の測定所を設置する件)の三点について、平成10年12月13日の当局との話し合いの席上で、再度文面の訂正を申し入れましたが、その場で即答を得ることが出来なかったため、市の最高責任者に直接申し入れることとしました。
平成10年12月28日、市庁舎にて、市側は助役、局長、部長他、住民側は市民の会代表、各町内会長他十数名が出席し、面談しました。上記1.2.については約束し、3については固定の建物を建設し、測定所を設置することは現状では難しいが、測定の方法を考えることが出来るとし、通年測定という表現としていました。この件に関して当局は常に現況値が分かる状態であれば、ほぼ住民の方々の目的は達成されるのではないかとの見解でした。私たちもこの問題は、今後も協議を重ね、本来の要望に近いものにしていきたいと考えています。
平成11年1月10日の集会で、平成10年12月28日の回答を受け入れることを決議するとともに、会の名称を「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」いたしました。
この最終の回答書の内容は、西宮市が発行する「山手幹線ニュース」で沿道住民にお知らせすることを、市当局は約束しています。
7年以上の長きに亘っての、私たちの戦いを振り返って、悔しい、空しい、残念、様々な思いがあります。又、大勢の人たちの応援をほんとうに感謝します。
これらを簡単に報告することは誠に難しく、表現にも誤解を生む危険をも危倶しながら報告させていただきました。将来、この多くの人たちの思いがあったからといえる、山手幹線の環境になることを祈ってやみません。
まだまだ、今後も市当局が約束したことを確実に実行されるように、新しい「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」として、尚一層結束していかなければと思います。
今後ともご支援を、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
山手幹線拡幅・架橋に反対する市民の会よりの、最後のニュースでした。ありがとうございました。
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その後は、具体的な工事の説明会が、定期的に持たれた。工事期間中の近隣の対策など、協定書の話し合いも随時持たれた。11年には武庫川での橋脚の工事、12年3月には山手幹線北側が完成し、13年3月には南側の車線が完成。14年5月31日、いよいよ尼崎市と西宮市が繋がり、開通式を当局は開催した。
地元会長として、当局は何とか出席して欲しいと、何度も伝えてきましたが、私は今までの経緯から、そのような場所に出席などとんでもないと断った。市も気持は分かりますが、と住民との和解の姿を示したかったようであった。再三、出席を促してきましたが断った。
平成11年、反対の会としての本来の事業に関しての話し合いがほぼ終了し、市当局とも正式文書も交わし決着をみたので、わたしは兼ねてからこの事業のために買収した土地が道路としては僅かしか使われずに、広い土地が残る所に、出来れば地域の人が気軽に使える建物が欲しいと思っていた。しかしながら、この運動がその事のためと誤解されるようなことであっては決してならない。全てが終わってからの交渉と考えていました。
それは、地域で高齢者への配食ボランティアグループが、個人の家庭を提供しながら、平成6年より頑張っておられたことです。地震のときも、個人の家庭を転々として、仮説住宅にスープを配ったり、地域のお一人暮らしのところへ配ったりしておられた。
本来、行政が配慮しなければならないことである。いつまでも個人の台所ですることでないと、強く思っていた。わたしはこの事業の完成後は、直接間接に地域の住民は被害を蒙っていくことは間違いない。ならば市に出来る最小限は、そのような場所を提供することではないか。平成11年3月に入って、初めてこの話を担当部署に伝えた。
最初の市の答えたこうであった。道路のために買収した土地は、あくまでも道路建設の為のものであり、たとえ残ったとしても、その土地は道路であるとの解釈だというのである。道路の上に建物は建てられないとのこと。たとえ、国と市との解釈が如何であれ、地域に残る土地ではないか。市民のために有効に使うことは当然である。しかし、何回話を持って行っても、色よい返事が返ってこなかった。100か0かという返事で前に進まなかった。
11年8月、正式に部長に伝えた。返事は上記の通り代わり映えのしないものでした。そして、どうして今頃そんな事を。最終の話し合いの中で、一緒に出されたほうが難しくなかったのに、との事。即答した。「私たちはそんな性格ではない。」と。これが出来れば、運動をやめるというような姑息な考えはない。それとこれは別の話である。行政が進めなければならない福祉のことを、市民がしているのである。この事業で迷惑を掛けるのであるのだから、少しくらいは市もいいことをしたらどうだ。こんなやり取りを繰り返しながら、平成12年12月も押し迫った頃、市当局から呼び出しがあり、町内会長、副会長と三人で行った。そして、市の計画が示されました。
ほんとうにほっとした瞬間でした。市当局も、あんなに拒んでいた常時測定所を大儀名文にして、この小さな建物を決定したのでした。「山手幹線道路維持管理倉庫」として、一部倉庫として、また調査室として、あとは会議室として仕切ってくれることになりました。本当なら全体を会議室にして欲しいくらいですが、まずは建物が実現することを喜びたいと思いました。と同時に測定所が出来たことが大変大きなことでした。
一年間通しての測定値が、毎年報告されています。13年11月21日より現在に至るまで、高齢者の為のお弁当を作っています。又、地域の皆さんにも必要に応じて使ってもらっています。前会長も、この建物が出来て、役員会も時間を気にしないで使えることを、本当に喜んで下さいました。小さなプレハブですが、地域の拠点として大きな存在です。
以上で、「わたしの住民運動」の報告を終わりたいとおもいます。平成14年5月31日、山手大橋が開通してより、早や7年以上も経ってしまいました。この報告も、今までのメモや書類、記憶を辿ってのものであり、前後が入れ替わっていたり、記憶が曖昧であったりで、読んで頂いている皆さんから、「ちょっと違うでしょ?」みたいなところも多々あるかと思いますが、お許しいただきたいと思います。
最後に、お願いです。平成20年度の環境調査報告書と一緒に、来年度に入れば二見交番所から中津浜線までの二車線の箇所の四車線工事に入りたい旨、当局から話がありましたことをお知らせします。来年の秋には、現在工事中の芦屋川での工事も終了する。そこで唯一残っている、二見~中津浜間の工事に入りたいとの事。
皆さんも、現在の交通量の増加の現実を見て分かるように、道路が広くなればなるほど、交通量は確実に増えます。今、車が混んでいるから広げれば解消すると考えるのは間違っていることを、みんなで再度確認しておきたいと思います。現実問題として、四車線拡幅を真っ向反対することには、無理があると思いますが、今まで頑張って西宮市の山手幹線は二車線としてきました。中津浜線以西も新しく工事をしたところは、全て二車線供用です。武庫川の中心からも北町まで二車線を勝ち取りました。来年度に入れば市当局は公報にて知らせ、市民の意見を聞くと言っています。まずは事業地元のみなさん、そしてみんなで頑張りましょう!!
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あとがき
わたしがこの地域に住み始めたのは、昭和50年でした。その頃、私の家から山手幹線に出るには、坂の上の道との表現でした。山手幹線ということも知りませんでした。
そこは広い歩道があり、冬の星座、夏の流れ星を子供たちと眺めることが出来ました。とっても環境のいい所でした。平成3年、昭和50年から17年?が経っていたでしょうか。7月末に回覧が回ってきて、都市計画の変更による拡幅、最大限33m幅の道路になることの説明会でした。
時を同じく、北町という住宅地の中に、パチンコ店が出店するとのこと。地域住民が反対の声を上げていました。主人はパチンコ店どころではない、この道路の問題は大変なことだ。環境が悪くなる。反対しないといけない。私は意外な思いでした。反対運動など、およそ嫌いな人だと思っていましたから。私は反対と言ってもどうして良いのやら、「誰がするねん?」。簡単に、よくもそんな事言ってくれるわ、と思いました。が、取り敢えず説明会に出席したところ、たった5人。北町からはご夫婦一組ともう一人ご夫人と私でした。何もよくわからないまま、分かったことは私以外の参加者の家の上に、道路の線が引かれていたことでした。
ずぶの素人が、行政を相手に戦った10年近く。ほんとうにたくさんの経験をさせてもらいました。訴えられて裁判所に行くなど、個人的には絶対に行きたくない所です。
ところが、行政を相手にしたり、弁護士に相談に行ったり、色々な局面でも、不思議にいつも気持は対等でした。ビビッてはいませんでした。そこにはいつも多くの同志のみなさんが、背中を押してくださっていたからだと思います。
忘れられないのは、訴えられて一日60万円の罰金を取るといわれた時、お金がないから運動の鉾を収めないといけないことのないようにと、札束を届けて下さった方には驚きと感謝の気持でいっぱいでした。当然、丁重にお返し致しました。当局が積極的に出てくるときには決まって、思いがけない人たちの応援があり、集まってもくれました。
長く続いた座り込みやパトロールにも、ローテイションを組んで、毎日毎日、当番をしました。その中には、地域の方々方だけでなく、遠く川西、芦屋、尼崎のネットワークの皆さんにも、お力を頂きました。特に武庫川河川敷での早朝の大闘争? 朝の7時に芦屋からプラカードを持って、甲子園口駅に降り立って下さったことは感謝でいっぱいでした。
私は同じことが出来るだろうかと思えば、なお更のことでした。わたしは代表から最初に、「この運動をしたからといって、うちに何かいいことがあるとは絶対に思うな。」といわれていました。純粋に環境悪化を避けるということを、目標に戦ってきました。しかし、一人ひとりの思いは微妙に違っていたのではないかとも思います。
山本についていけば、きっといい結果になると信じて、一緒に頑張って下さった皆さんの中には、最終的な結果が不本意だと思う方がおられたのではと思うと、心苦しい気持もあります。しかし、当初はこのような運動の専門家のような人から、手伝ってあげようかとのお話もきましたが、私たちの出来ることを自分たちで精一杯やろうと決めて、みんなで頑張りました。もちろん藤井氏はじめ、ネットワークの人たちの応援があったればこそできたのですが。
わたしは全く間違った結果でなかったと自負しています。この長い間には、町内会の問題、初代、二代、三代の会長を天国にお見送りしなくてはならないという、とても悲しい、つらい経験もしました。いまでも長老の会長、ご高齢ではありましたが、男気のある方でした。間違いをした時も責任は全部自分にあるとおっしゃって下さいました。
染原会長のメガホンを片手に走り回ったり、当局に食い下がっていた姿が今でも目に焼きついています。黒住会長は、一度決めたことは絶対に裏切りませんと、黙々と会長の責任を果たしてくださいました。武庫川河川敷での座り込みにも、事務所の若い方を誘って下さっている姿に、申し訳ない気持だったことも覚えています。先生は争い事が嫌いな方でしたから、きっと苦痛な毎日だったのではと、命を縮められたのではと奥様にも申し訳なく思っています。
二度と見ることの出来ない横内氏が、悠然とタバコを燻らせていた姿や、沖さんの満面の笑顔、また、色々な場面での多くの方々のお顔がなつかしく思い出されます。
反対運動では、よくある空中分解せずに、最後まで団結し、常に代表がガラス張りでの交渉をうたい、市当局と交渉をした結果、役所の一番嫌う文書を交わすという決着をつけることが出来ました。みんなの力で勝ち取ったのです。
本当にありがとうございました。心から感謝しています。