『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**「みちしるべ」60号発行記念集会&全国交流集会の案内**<2009.9. Vol.60>

2009年09月10日 | 単独記事

第35回 道路公害反対運動全国交流集会 IN 横浜

10月24日(土) 

  • 現地見学 13:00~16:00(12:30集合) 横浜環状南線………¥2000
  • 報告集会 16:30~17:30   レストランいせやま
  • 懇親会  18:30~20:30   レストランいせやま…………………¥6000
  • ※宿泊は《いせやま会館》横浜市職員会館………………………¥5500

10月25日(日)

  • 全体集会 10:00~12:00   横浜市従会館……………参加費 ¥1000
  1. 基調報告 橋本良仁(全国連事務局長)
  2. 基調講演 五十嵐敬喜(法政大教授)「道路はとめられるか」
  3. 特別報告 西村隆雄(弁護士) 「PM2.5環境基準について」
  4. 分科会   13:00~15:30 横浜市従会館
           ①道路政策転換 ②行政審議会の問題点 ③道路裁判事例

参加希望の方は、参加要領をお渡しします。表紙の事務局までご連絡を。

************************************************

※ 団体によっては、期日後の配布になる可能性があります。悪しからず。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**「みちしるべ」賛歌**<2009.9. Vol.60>

2009年09月09日 | 前川協子

「みちしるべ」賛歌

前川協子

 60号の記念発刊、おめでとうございます。

 発足時、タイトルを決めるのに侃々諤々があったと記憶していますが、今では単なる“道標”にとどまらず、地域間の交流や歴史文化の伝播に役立っているところが凄いです。私は近年、播半跡地の開発問題に傾注していますが、年初の二月には解体工事が終わり、折りしもの経済不況もあって、更地の侭で本工事には至っていません。しかし、あれほどの和風建築の粋が、凝った家具調度と共にむざむざと破壊されたことに、経済至上主義社会における非情な喪失感を味わっています。今夏、私は東北の夏祭りと山陰の倉吉街作り、それに災害後の防府市「ライフケア高砂」の現地を見に行きましたが、本気で自主的に地域振興に取り組んでいる所と、無責任な開発による災害を惹起している自治体との落差に驚きました。地歴の尊重と文化の伝承こそヒューマンライフの真骨頂だと思い、「みちしるべ」に強く期待する所以です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**「みちしるべ」 60号発行 おめでとうございます**<2009.9. Vol.60>

2009年09月08日 | 単独記事

「みちしるべ」 60号発行 おめでとうございます 

虫明ひとみ

 「みちしるべ」は私には専門書に近い感覚です。なかなか難しくて、書かれる方の知識のレベルの高さにくらべ、私の知識のなさを痛感しています。でもいつも感じるのは、書かれる方のおごりなど感じることなく、読む側にとってもここちよく読ませて頂いております。私は「みちと環境の会」にて色々と勉強させてもらっています。尼宝線拡幅工事の問題にともなう運動ではなかなか広がりが見えず、少し気持ちの中では小休止状態、生半可な気持ちでは住民の信頼は勝ち得ないと思いました。

 あんなに危険で環境にも劣悪な道路でありながらも、行政の計画通りに進んでいくしかない歯がゆさを感じています。日本は道路や大型開発を優先する時代から、地球を大事にする社会を作るために、小さい時からの平和教育・環境教育の徹底と儲け中心とした物作り、販売する側の企業への規制を強化していかないかぎり、美しい地球に住めなくなるのは、時間の問題です。

 これからも色々な事を教えてください メッセージを伝え続けてください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』熊野より(30)**<2009.9. Vol.60>

2009年09月07日 | 熊野より

三橋雅子

<年を経て>

 最近周囲が年取ったなあ、と思うことしきり。7年前ここ熊野に来た頃は、〇〇爺さんはもっとカクシャクとしていたのにねえ、とか、山道を颯爽と行く××やんの歩きぶりも、まるで違っていた、近頃はもう杖なしでは………或いは〇〇婆さんも腰の曲がり具合が………××婆さんもめっきり外には出なくなったのか、などなど。こちらの老いの鏡なのであろう。当時60台が来てくれるとは………と大歓迎されてやってきた時は、さぞかし我々も若々しく頼もしかったのであろう。あの夫婦も年取ったねえ、と言われているに違いない。もうすぐ後期高齢者の仲間入りなのだもの、当たり前で、老いたとはいえ足腰もいまだによく役立ってくれていることに感謝のみである。髪の白さも、皺の深さも年輪の勲章で、誇らしくこそあれ、嘆く材料ではない。

 昔、10年以上も前のこと、塾の子ども達が少し馴れて、おしゃべりになると、判で押したように「どうして髪染めないの?」と言い始めたものである。「染めたら20くらい若く見えるよ。」「面倒なことないよ、ワタシお母さんが染めるの手伝うけど簡単だよ」などなど毛染めのことになると皆饒舌でお節介ある。きっと白髪がちらついてきて年寄り臭くなった母親が、見違えるように変身する様を間近にみて驚いたり感心するのであろう、とほほえましくなった。しかし私自身は毛を染める気には到底ならない。不精なのが第一、手入れを怠ったら白黒曼荼羅で余計惨めだろう、という思いもさることながら、なぜ若く見えなくちゃいけないの?という疑問がよぎるのである。子ども達にも訊いてみる。「白髪はどうして染めた方がいいの?白髪のままじゃいけないの?」と言うと、大抵は勇んで「だって、若く見える方がいいじゃん」と言う。「そうかしら?だって皆年取るのよ、体もだんだん動かなくなる………そういうの嫌だなあ、と思う?」大抵は黙ってしまう。これは年寄りになるなんて、遥か遥か、ずーと先のこととしか思えない者達には酷な質問か?同世代の人たちが集まると、座れなくなった、座ると立つのが大変、足腰が痛い………と体の老化を訴え、最後は「嫌あねえ、こうして年取って行くのねえ」と言う嘆きをよく聞いたものだ。老いていく当事者がこうなんだもの、老化と言うのはいやなものだ、と相場が決まっているのだろうか?

 「でもねえ」と私はしつこく子ども達に問う。「じゃあ、若ければ若いほどいいの?ふけてるのはだめなの?」「でっかいことは良い事だ?」「成績は良ければ良いほどいいの?」――そうだよ、そうに決まってるジャン、と自信を持って言い切る子もいれば、少しためらう子もいる。しかし、その子らですら、たとえそうばかりとは言えないとか言ったって、現実はそうじゃん、成績が良いのがいいのに決まってる、と、そのためらい顔は明らかに言っている。(でなかったら、塾なんかにくるもんか!)一定方向の価値観。息苦しいなあ。

 「でも私は、髪を綺麗に染め上げて、若作りにお化粧して、でも立てばよぼよぼで足元おぼつかないより、髪真っ白で皺くちゃのお婆さんでも、しゃきっと立てて颯爽と歩ける方が、かっこいいと思ってるの、と言う事にしていた。

 ふふっ、あの頃は若かったなあ。でも今、白髪振り立てて鍬を振るう様は、正に熊野の山姥そのもの、幸せである。

 『みちしるべ』も60号という驚くべき年輪が、輝かしい勲章ではないか。年を重ねることは楽しいことなのだ。

 それにしても編集長始め、『みちしるべ』に携わって来られた関係者の方々の、並々ならぬ、などという月並みな表現では到底表せない力量と情熱とその他もろもろの力の結集の賜物と、ただ頭が下がる思いである。気ままに、勝手なことを書いては紙面を頂く機会を与えてくださった寛大さに、ただただお礼を申し上げるのみである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』*「みち環」を通じ「ネットワーク」につらなっていった**<2009.9. Vol.60>

2009年09月06日 | 藤井新造

「みち環」を通じ「ネットワーク」につらなっていった

藤井新造

 『阪神間道路問題ネットワーク』(以下「ネットワーク」と略す)の会議に出席するようになった動機は、『みちと環境の会』(以下「みち環」と略す)の会員になっていたからである。「みち環」には10年余以上前から会員になっている。と言っても総会に顔をだす位のつきあいである。

 それでも会員につらなっているのは、多分この会員のメンバーの人柄の良さと真面目さにひかれたのと、在職中尼崎で反公害運動に多少ともかかわってきたので、時間のある時顔だし位との義務感にかられたからであろう。そして「みち環」を通じ、ずるずると横すべりの形で何時のまにか「ネットワーク」の会議に出席するようになった。

 これを書くため手帳をみていたら、「ネットワーク」には8年前位から顔を出したり出さなかったりしている。と言う訳で積極的に活動に参加しているとは言えまい。特に芦屋市に住みながら、芦屋の『山幹問題』について関心を持ちながらも殆んど会合に出席せずに終っていた。

 一つだけ言い訳をすると、退職して3年半、主として障害者、老人の病院への通院を送迎するボランティアー(運転手)の依頼があり手伝っていたこともある。一週間のうち半分以上の出勤(?)して、他の行事に参加する時間がとれなかったことと、自分の趣味を徹底的に優先させたからである。

 退職する前の仕事が小さい医療機関という性格上勤務中、休みがあまりとれなかった。とれなかったということの上に休日出勤がよくあった。生来勤勉でない私なのだが、人手が不足していたので止むを得ず嫌々ながらの休日勤務をこなしていた。だから末っ子が就職したので、それを機会に仕事を定年前に自分から退職することにした。それで40年間の間に出来なかった、読書、映画鑑賞、旅行なりをしようと思っていた。

 ところが上述したように当初ボランティアー団体より少しの時間の手伝いでもいいからと言われ、活動に参加していたがやっているうちにその時間が段々と増えていった。そして、私自身の中でボランティアー活動という社会的に有意義なことをやっているとの自意識が過剰になり、家庭内より批判がでてきて、ときには家庭内で諍いが起きる原因になった。ボランティアー活動をしているとの「思いあがり」が、自分のなかに知らず知らずに芽生え、その気持が増長していることに気づき、その支援活動から手を引くことにした。

 ボランティアー活動をやめて、しばらくして「熟年者ユニオン」に加盟した。これも友人に勧められての加入である。この団体は退職した人達のグループである。1ヶ月に1回神戸の三宮の商店街でサンドイッチマンデモをしている。その時々の社会問題、(主として医療・福祉問題が多い)をビラにして配布しながらのデモである。その他、カラオケ、麻雀、ウォーキング、名所見物、ちょっと固いところで社会保障の勉強会と、多種多様な行事を開催している。

 無理をしないで、その人の体力、時間が都合つけば参加する、個人の自主性を尊重した団体なので、この仲間とは気軽につきあえそうなので入った。昨年から今年にかけて『後期高齢者医療制度』の廃止に向けてのビラ配布と、署名活動を阪神間の主要ターミナルで行なった。この時市民の反応はすごかった。ビラを受けとった人から「頑張ってくれ」、「私もビラを家の周辺にまきたいから持って帰える」、「廃止になるまで続けるよう」と、励ましの声をかけてくれた。そこで署名活動をしたが、これにも協力してくれる人が多かった。

 毎月、尼崎市内のターミナルで「市民発/九条を世界へ市民の会」のビラまきに参加しているが、このビラの受けとりはもう一つであるが、ユニオンのビラの反響は大きかった。久し振りにビラまきの楽しみを味わった。近年にない出来事であった。暫くはこのメンバーと一緒に楽しみながら社会運動につらなって行こうと思っている。

 さて、そこで「ネットワーク」との関係はどうなっているのか。私は『道路問題』について知識が不足しているので大いに勉強できる場所になっている。他の会合とダブらない限りサボらないように心がけて出席している。残念なことは、この会議で聞き役になっている場合が多いので困るが、それでも出席している。出席だけでは申し訳ないと思っていたところ、2年前に前会長の大橋さんより会計をやれと言われて引き受けた。

 会計といっても収入、支出とも少額の出入りしかないので簡単な記帳で済む。監査規定がないものかと不思議に感じ、これでは困るので、先般そのことを大橋さんに言ったので、そのうち誰かが監査してくれるであろうと呑気にかまえている。まあー、少し位はこの会に役立っているのかと、自分で慰めている。

 話はそれるが最近困っていることは、小さい(細い)字の本が読みづらくなってきたことである。「臓器移植」に反対の立場であるので他人の「眼球」を貰う訳にはいかない。もう少しすると、拡大鏡で本を読むことになるのを想像すると、ぞっとする。それまでに少しでも多くの本を読もうと心がけているが、果たしてどこまで実行できるか心もとないが仕方ない。

 そして『………だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である』(「マタイによる福音書」)の心境に今は近い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』この道はいつできるか**<2009.9. Vol.60>

2009年09月05日 | 澤山輝彦

この道はいつできるか

世話人 澤山輝彦

 私が住む兵庫県川西市大和は北東部で大阪府豊能郡豊能町光風台と接している。地図を見れば、大和から能勢電鉄妙見線にそった一本の道が光風台と繋がっている。だがよく見れば府県境界で微妙に切れているのがわかるかもしれない。この境界、地形的に2メートル弱の段になっていて、上には金網のフェンスがはってある。道はここへ突き当たり、行き止まり、途切れてしまう。ただし人一人は通れる細道が、穴の開いたフェンスにつながっており、人々はそこを行き来していた。私はここを通る時、“国境”というものをイメージし、特にパレスチナにイスラエルが築いた壁のことをよく考えた。

 この“国境”時々閉鎖されることがあった。光風台側住民の一部にここを通路としてほしくないという反対派があったと聞いたし、地権者の意向も加わりとうせんぼうになったのだろう。有刺鉄線や廃材などで通れなくされてしまうのだ。だが人々はうまく通り抜けていた。

 ここにある日、簡単な木の階段がつけられた。両側の話がついたのかな、と思った。フェンスは大きくはがされ平和な国境が出来たのだった。この階段の横を原動機付き自転車がおおっぴらに通りだし、だんだん勾配を緩めるような形で道を拡げていった。私はこれは良くないと思った。傍若無人の原付自転車通行は反対派のいやがることだ。そして案の定また閉鎖されてしまったのだ。今度は簡単に通れなくなっていた。なれた人はフェンスの穴をめざし境界のコンクリートを横歩きして、くぐり抜けて行くようだが、初めての人や、バランス感覚を欠く高齢者、夜間のくぐりぬけは難しいだろう。私も、犬をつれて光風台へ行く楽しみが無くなってしまった。上った光風台から大和方面を見ると、畦野盆地、中山連山、六甲の一部、北摂の山、それらが一望され、空、雲の様は雄大で、気宇壮大になる、しばらくこの眺めはおあずけになった。

 政治家諸先生、お役人は道造りが好きだ。いらん道まで造ってしまうし、道幅を拡げたりするのも大好きだ。ところが、ここ、大和光風台を結ぶわずか数メートルの必要な道にはなかなか手が出来ないようだ。こんな数メートルでは先生方の舞台には不足なのだろうか。役人はここでは不介入である。説得をも躊躇しているのだ、としか思えない。今にも使える“道”はあるのに。

 私が住む川西、大和自治会はこの道を通すことを長年の懸案事項としており、光風台自治会とも話し合いをしている。自治会ニュースによれば、光風台側の一部周辺住民の反対があるが、両自治会は解決を図ることで意見が一致したそうだ。大和側の空き地が市街化区域に編入されたのもいい材料のようで、開発業者の大和ハウス工業にも協力をよびかけるとある。結局、一番期待されていないのが、行政である。こんな場合行政の積極性は何も問題ないと私は思う。道路公団(昔のまま)や県の手先になって川西市内に出来る第二名神インターチェンジのために動いた川西市ではないか。高速道路課までつくったことがあるのだ。
 
 この道は現状を変え、より大きなものする必要ない。人一人が安心して楽に通れればいいのだ。自転車なら、持ち上げれば通れる。車を通す必要はない。そんな道を造ると、通過車両を呼び込んでしまうことになり、事故や防犯上問題が起きる。

 両町共、昔から人が住みついて出来た、歴史伝説のある町ではない。開発業者が山を削り造った造成地に出来た町で、歴史も伝説もなく、ベッドタウンと呼ばれるのである。お互いにそこは完結した町の機能を売り物にして人をよびこんだはずだから。隣は何をする人ぞ、そんな興味もわかない、隣も瓜二つの町なのだ。だからこんな町どうしが結びつく必然性はない。それなのに、大和から光風台へは人がながれる。(反対はどうか知らないのは私の不勉強であります)医者へ行く、駅が近いなど生活道路のように使われているようだ。それに私は散歩に使うし、妙見方面への自然観察にでかける時に使う。こんな使い方は私以外でもされているようだ。車の通り抜けはいやがられ反対されても仕方ないが、人の通り抜けは認めてほしい。私達は生活道や散歩道まで反対しない。それらの設置、改善には積極的に関わるものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』街を往く(其の三)**“クボタ・ショック”から4年**<2009.9. Vol.60>

2009年09月04日 | 街を往く

街を歩く(其の三) “クボタ・ショック”から4年

藤井新造

アスベスト曝露による健康破壊に抗議する集会より

 芦屋市にとってこの1年間、市民病院をどのような形で存続させるのか。当局の独立行政法人化案について多くの議論があり、各議員から配布された市政報告により多様な意見があることを知った。立地条件、建物の老朽化、医療スタッフの充実、交通手段についての各々の立場よりの提案であった。単年度赤字6億7千万円の数字の解消のみの議論だけでなく、何よりも「市民の健康」をどう守ってゆくのかが議題として討論されたのがよかった。

 結果として公営企業法の適用という内容に落ちついた。残念なことは「赤字」になって何故悪いのかという、開き直った意見が少なかったことである。このことが「公的な場所の会議」で充分討論が深まらなかったことである。

 私は医療というものは、本来営利事業になじまないものとして考えていたが、ここではこれ以上はふれない。ただ私が、検査・手術(家族を含めて)の際、比較的この病院を利用している。感想として、私自身が小さい医療機関で働いていた経験からしても、さして不満はない。と言うよりこの病院の医療にほぼ満足していることだけ、つけ加えておく。

 市民病院が民営化され運営上失敗したとしても、再度自治体病院として再発足することは不可能であろう。その意味で上述の結論に不満をもちながらも、現時点で賛成である。

 同様に山幹道路の開通のための芦屋川の下にトンネルを掘っているが、通過する車両が増えれば周辺住民が騒音・振動の被害を受け、景観は台なしである。もう以前の状態に回復さすことは困難である。そんなこともあり、何時のまにか芦屋市は国際文化都市の呼称を庭園都市に変えている。

 この山幹道路の北側、約100mたらずの船戸町の一角に、セキスイハウスが5階建のマンションを建てる手前の状態にある。周辺の家では大きい横幕で『許すなセキスイ、誠意ある対応を!!』『近隣軽視のセキスイ、誠意ある対応を!!』を塀に着け、ビニール板の小さいステッカーには『積水ハウスは船戸町の景観を壊さないで!!』『問題あり、地下7mの機械式駐車場、騒音の安全』『近隣の太陽をとらないで!!』等を生垣、塀にぶらさげている。

 念のため、私は「アスベスト肺4周年の集い」に参加する途中、歩いてみた。反対するステッカーを貼ったりぶらさげているのは10軒余である。「住環境を守る会」の人に結集する家庭は少ないのかと、残念な気持ちだ。周辺の人はセキスイの建築するマンション(土地は約300坪)に納得せず反対しているのであろう。日照、騒音などの被害が明らかに予想されるからである。

 それを見て何とか少しでも支援できないものかと思って通り過ぎた。と言うのは、この場所から西北にある、竹園旅館別館の前の土地、旧伊藤病院の跡地に葬儀会館が建つ予定の時、反対署名運動が起こり、私も署名している。署名以上のことはしていない。それ故、「セキスイ」の場合も何らかの関与をしたいと一瞬「感情移入」があれど、自分の内で持続できない。

 そしてこの人たちは「山幹」の道路拡幅の時どういう反応を、示したのであろうかと推測してみた。私の勝手な推測であるが、この船戸町の住民は多分「山幹」問題に関心を持ったであろうが、100mの距離があるために、それだけで終わったのであるまいかと………。

 かくいう私も「消極的反応」に終始していたのだから、50歩100歩の違いもないということか。そんなことを考えながら、6月27日「アスベスト被害の救済と根絶をめざす尼崎集会―“クボタ・ショック”から4年」に参加した。

世界では早くから予知されていた工場周辺住民の健康被害

 会場前のロビーでは、アスベスト被害で亡くなった人、遺族の方、闘病中の方の写真が展示されていた。写真のなかには45年前に、尼崎地方評議会の事務所で私と一緒に働いていたTさんの写真もあった。彼は失業中、短期間であるが日雇いで働いていた時、アスベストを運搬し、それにより被災し、一昨年京大病院で片肺を切除し、現在闘病中と添え書きがあった。顔の表情を明るくして見せようとしているが、酸素吸入の管をつけているその顔が何とも痛ましく映っている。

 集会の主催者挨拶は遺族を代表して「クボタ旧神崎工場周辺の石綿被害者は、私たちの確認しているだけでも、すでに200人を超え、またクボタ工場内の被害者も151人を数えています」と述べた。351人が亡くなったことが判明した。集会で、次から次へと4人の被害者と遺族の話を聞きながら、私は車谷典男教授の次の言葉を想い出した。

 氏は「………今回の『慟哭』という二文字が正にピッタリと当てはまるような話を、面接調査で幾度となくお聞きすることになりました。人生観が変わるほどの衝撃を受けました。病名を告知された時の驚き、妻に対する夫の慈しみや、夫を失った妻の悲しみ、母を突然亡くした娘のむなしさ、息子に先立たれた母親の嘆きも、繰り返し聞くことになりました。」(『アスベストショック―クボタショックから2年』アットワークス社)と悲痛な言葉を綴っている。

 同じ本のなかで氏は、クボタで働いている者のなかで中皮腫患者が発生したのは1986年、所謂、職業性曝露による中皮腫である。氏らの調査で工場周辺の住民の中皮腫の多発がわかったのが2005年である、とすれば約20年の時間差の経過をみたことになる。『企業内で発生した職業病の原因物質が周辺環境にもれた場合に、同じ病気を住民に起こす可能性があれば、企業内の発生を迅速に地域行政に通報しなければならないといったような法的規制があれば、状況はずい分変わっていた可能性があります』と、いかにも悔しそうに語っている。

 そして、当日発行・発売された『アスベスト禍はなぜ広がったか―日本石綿産業の歴史と国の関与』(日本評論社)を読むと、よくその言葉も理解できる。

 1970年、朝日新聞がアスベストによる肺がん患者の発症を報じた。瀬良好澄氏(国立療養所近畿中央病院長)による、大阪泉南地方のアスベスト工場で働いたことのある石綿患者を診察した結果「石綿じん肺ガン患者8人発症、6人死亡」との内容のものであった。そして各国で「問題は一般の住民まで広がってきた」と報じたが、日本の社会ではそれを深刻に受けとめず見逃していた。

 1971年2月、国会では野党議員より瀬良研究に触れ、アスベスト肺患者の発生対策を当時の労働大臣に質問し、大臣の答弁として「発がん物質にかかわりのある工場等につきましては特別の対策を講じてまいりたい」とし、これを受けて労働省は各都道府県の基準局長宛に「最近石綿粉じんを多量に吸入するときは、石綿肺をおこすほか肺がんを発生することが判明し、また特殊な石綿によって胸膜などの中皮腫という悪性腫瘍が発生するとの説が生まれてきた」、従って「石綿によるこの種の疾病を予防するため監督指導を行なわれたい」と通達を出している。

 この2年前、1969年の国際労働衛生会議で南アフリカの参加者により、環境曝露による中皮腫が発生する可能性のデーターの発表があった。そのこともあり、日本代表の佐野辰雄氏(労働科学研究所)が「肺がん、なかでも中皮腫によるじん肺の複雑化は大気汚染問題の主要な課題になっており、わずかな量のアスベストでさえ吸入を避けるべき時代になって来た」と認識していたと言う。

 この間、クボタは危険性が高い青石綿(クロンドライト)の使用は1951年~1975年で、合計88,671トンの使用量があり、工場内で石綿肺患者(死亡者)が発生している。それなのに、クボタ・ショップはテレビで「環境にやさしいクリーンな機械」のコマーシャルを流し続けていた。残念ながら、事態は車谷教授の指摘する通り進行した。

この国のあり方と社会の仕組みを変えるとき

 余談になるが私は1971年頃より、尼崎労働者安全衛生対策会議を結成し、≪労働災害・職業病をなくする運動≫に取り組んできた。今の尼崎労働者安全衛生センターへの再編までの15年間である。

 その期間「じん肺」について学習会の講師として佐野先生に何回か来てもらった。先生は「じん肺」で亡くなった労働者の胸部X-Pの写真を持参し、管理区分ごとのフィルムを指で示しながらわかりやすく説明してくれた。大柄な身体で、ユーモアたっぷりの口調での講演は評判がよかった。

 来阪の用件は瀬良先生との打ち合わせであったと思うが、その機会に便乗して尼崎まで足を運んでもらった。講師料、交通費の出費できない貧弱な財政状況の会なので、集会後、先生を囲んで何時もささやかな飲食を共にし、我慢してもらった。

 その時先生は、「じん肺」防止のため精度の高い防塵マスクの着用、ふんじん曝露による作業環境の調査等の重要性を口酸っぱく強調していたのが、今でも強い印象として残っている。

 さて文章が長くなるので、これ以上書けないが、私も編集の一人として発行した『労災職業病闘争小史』(アット・ワークス社)で、車谷教授が書いている次の文章が非常に重く私の胸のなかに突き刺さっている。

 「………それにしても、クボタの中皮腫問題は重い。重すぎる話である。企業、行政、医療機関、専門家に多くの問題を投げかけている。国の不作為と決めつけるのはたやすい。でも、これほどアスベストを社会に氾濫させてきたのは私たち自身でもある。今一度、社会医学に立ち返り、社会の仕組みの不合理さに取り組みたいと思う」。このように氏自身の決意を語っている。

 まさしく問われているのは、この国のあり方であり、その仕組みを変えることであろう。今回も水俣病と同じく、車谷典男、熊谷信二氏らの専門家による献身的な努力と、尼崎労働者安全センターの日頃の活動の積みかさねにより“クボタ・ショック”が表面化し、アスベストによる環境曝露の恐ろしさを知った。

(7月13日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』私の住民運動(最終回)**<2009.9. Vol.60>

2009年09月03日 | 私の住民運動

わたしの住民運動(最終回)

山幹の環境を守る市民の会
山本すまこ

 平成11年に入って市は、工事のための迂回路を造る説明会を開くといってきた。1月9日夜、上甲子園サービスセンターに於いてである。翌10日には同じ場所で、市民の会が最終決断をせまられる住民の会を開いた。この両日、欠席を余儀なくされたある会長は、事前に「ここまで来たら、今後はいかに西宮市当局に約束したことを守らせていくかが大切であり、尚一層結束が大事。」と伝えてきました。

 1月10日、およそ50名の参加のもと、意見が出された。あくまでも「常設の観測所が欲しいが、無理であれば通年の観測でも良い。同じことだから。」「この回答はこれが最終でよい」「中身についてははっきりした言葉で協定書をつくる」などの意見がでた。

 代表から、この回答が良ければ会の名称を変更した方がよいと提案。尼崎の南北線反対の会の砂場さんから挨拶がありました。西宮市におけるかつてない住民運動、ここまで来たのはみんなの頑張りがあったからなど称えてくださった。

 最後に平成10年12月28日、市から出された回答書を受け入れることを決議した。内容の細かい部分を加えた。二車線の締め切り方、今後の対応の責任部署を明確にすること。又、この道路が今後のモデルとなるような道路にして欲しい、との意見もあった。

 平成11年1月14日付けで、西宮市へ正式に、12月28日の回答を受け入れることを伝えた。会の名称も「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」と改めることを併せて伝えた。

 その日まで、本当に一致団結してこの運動に参加して下さった地域住民の皆さんには、山手幹線ニュースでお知らせしました。ここで改めてそのニュースの全文を記載しておきたいと思います

*****************************************

平成11年1月

山手幹線ニュース

 長い間のご支援ありがとうございました。

 平成3年秋以来、山手幹線拡幅・架橋事業に伴う地域の環境悪化に対して、私たち沿道住民は反対する市民の会を結成し、又地元町内会のバックアップを得ながら、西宮市当局にこの事業の中止を訴え続けてきました。平成7年10月30日より強行された測量調査を阻止し、雪降る寒い日も154日に亘るテントを張っての座り込みとパトロール、平成8年5月20日早朝の武庫川河川敷での調査阻止と、その後のパトロール。夏の暑い日も行いました。

 西宮市当局は、このような私たちの抵抗に対して、平成9年3月10日、仮処分申請を行い住民を訴えたのでした。裁判所は妨害すれば、一日30万円の罰金を市民の会と甲子園口北町町内会の2団体、それぞれに課するという決定を下しました。

 私たちはそれでも戦い続けました。同時に市当局との話し合いを続ける中で、私たちは「この事業が実施された後、この沿道の環境基準を守れる道路にする。」ということを約束するならば反対のはたを降ろすことも吝かではないので、文書で約束するよう求めてきました。しかしながら、平成10年2月9日より、市当局は仮処分決定を盾に測量調査を強行して来ました。厳寒の河川敷での座り込みにも、高齢者と婦人だけでは限界があり、事故が起こる事を懸念し、無念の涙を呑んで引きました。

 その後も、市当局とは話し合いを続け、平成10年9月28日、5,000余名の署名を西宮市長に提出しました。その内容は「山手幹線は拡幅・架橋されても、環境基準を守れる道路とすることを文書で約束してもらいたい。」というものでした。

 その結果、10月2日付けにて市当局より、第一回目の回答を得ました。市当局は初めて「環境保全目標を超えた場合は、その目標を達成できるよう速やかに対策を講じていく。」と文書で約束いたしました。

 それを基に、平成10年10月25日の市との協議の場で具体的な数値などをはっきりと盛り込むことを要求しました。平成10年10月28日付けにて、当局は住民の要求の大筋を4ページにわたり回答してきました。更に11月3日、市当局と協議し、細かい表現の訂正を求め、11月26日付けにて回答を得ました。その間、当局は河川敷のなかの橋脚の工事は、どうしても11月から着手するとし、10月31日、11月7日に工事説明会を行い、11月9日より工事着手しました。

 その後も私たちは、(1.二車線で供用する件、2.中津浜線まで低騒音舗装をこの事業と同時に行う件、3.固定の測定所を設置する件)の三点について、平成10年12月13日の当局との話し合いの席上で、再度文面の訂正を申し入れましたが、その場で即答を得ることが出来なかったため、市の最高責任者に直接申し入れることとしました。

 平成10年12月28日、市庁舎にて、市側は助役、局長、部長他、住民側は市民の会代表、各町内会長他十数名が出席し、面談しました。上記1.2.については約束し、3については固定の建物を建設し、測定所を設置することは現状では難しいが、測定の方法を考えることが出来るとし、通年測定という表現としていました。この件に関して当局は常に現況値が分かる状態であれば、ほぼ住民の方々の目的は達成されるのではないかとの見解でした。私たちもこの問題は、今後も協議を重ね、本来の要望に近いものにしていきたいと考えています。

 平成11年1月10日の集会で、平成10年12月28日の回答を受け入れることを決議するとともに、会の名称を「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」いたしました。

 この最終の回答書の内容は、西宮市が発行する「山手幹線ニュース」で沿道住民にお知らせすることを、市当局は約束しています。

 7年以上の長きに亘っての、私たちの戦いを振り返って、悔しい、空しい、残念、様々な思いがあります。又、大勢の人たちの応援をほんとうに感謝します。

 これらを簡単に報告することは誠に難しく、表現にも誤解を生む危険をも危倶しながら報告させていただきました。将来、この多くの人たちの思いがあったからといえる、山手幹線の環境になることを祈ってやみません。

 まだまだ、今後も市当局が約束したことを確実に実行されるように、新しい「山手幹線沿道の環境を守る市民の会」として、尚一層結束していかなければと思います。

 今後ともご支援を、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 山手幹線拡幅・架橋に反対する市民の会よりの、最後のニュースでした。ありがとうございました。

*****************************************

 その後は、具体的な工事の説明会が、定期的に持たれた。工事期間中の近隣の対策など、協定書の話し合いも随時持たれた。11年には武庫川での橋脚の工事、12年3月には山手幹線北側が完成し、13年3月には南側の車線が完成。14年5月31日、いよいよ尼崎市と西宮市が繋がり、開通式を当局は開催した。

 地元会長として、当局は何とか出席して欲しいと、何度も伝えてきましたが、私は今までの経緯から、そのような場所に出席などとんでもないと断った。市も気持は分かりますが、と住民との和解の姿を示したかったようであった。再三、出席を促してきましたが断った。

 平成11年、反対の会としての本来の事業に関しての話し合いがほぼ終了し、市当局とも正式文書も交わし決着をみたので、わたしは兼ねてからこの事業のために買収した土地が道路としては僅かしか使われずに、広い土地が残る所に、出来れば地域の人が気軽に使える建物が欲しいと思っていた。しかしながら、この運動がその事のためと誤解されるようなことであっては決してならない。全てが終わってからの交渉と考えていました。

 それは、地域で高齢者への配食ボランティアグループが、個人の家庭を提供しながら、平成6年より頑張っておられたことです。地震のときも、個人の家庭を転々として、仮説住宅にスープを配ったり、地域のお一人暮らしのところへ配ったりしておられた。

 本来、行政が配慮しなければならないことである。いつまでも個人の台所ですることでないと、強く思っていた。わたしはこの事業の完成後は、直接間接に地域の住民は被害を蒙っていくことは間違いない。ならば市に出来る最小限は、そのような場所を提供することではないか。平成11年3月に入って、初めてこの話を担当部署に伝えた。

 最初の市の答えたこうであった。道路のために買収した土地は、あくまでも道路建設の為のものであり、たとえ残ったとしても、その土地は道路であるとの解釈だというのである。道路の上に建物は建てられないとのこと。たとえ、国と市との解釈が如何であれ、地域に残る土地ではないか。市民のために有効に使うことは当然である。しかし、何回話を持って行っても、色よい返事が返ってこなかった。100か0かという返事で前に進まなかった。

 11年8月、正式に部長に伝えた。返事は上記の通り代わり映えのしないものでした。そして、どうして今頃そんな事を。最終の話し合いの中で、一緒に出されたほうが難しくなかったのに、との事。即答した。「私たちはそんな性格ではない。」と。これが出来れば、運動をやめるというような姑息な考えはない。それとこれは別の話である。行政が進めなければならない福祉のことを、市民がしているのである。この事業で迷惑を掛けるのであるのだから、少しくらいは市もいいことをしたらどうだ。こんなやり取りを繰り返しながら、平成12年12月も押し迫った頃、市当局から呼び出しがあり、町内会長、副会長と三人で行った。そして、市の計画が示されました。

 ほんとうにほっとした瞬間でした。市当局も、あんなに拒んでいた常時測定所を大儀名文にして、この小さな建物を決定したのでした。「山手幹線道路維持管理倉庫」として、一部倉庫として、また調査室として、あとは会議室として仕切ってくれることになりました。本当なら全体を会議室にして欲しいくらいですが、まずは建物が実現することを喜びたいと思いました。と同時に測定所が出来たことが大変大きなことでした。

 一年間通しての測定値が、毎年報告されています。13年11月21日より現在に至るまで、高齢者の為のお弁当を作っています。又、地域の皆さんにも必要に応じて使ってもらっています。前会長も、この建物が出来て、役員会も時間を気にしないで使えることを、本当に喜んで下さいました。小さなプレハブですが、地域の拠点として大きな存在です。

 以上で、「わたしの住民運動」の報告を終わりたいとおもいます。平成14年5月31日、山手大橋が開通してより、早や7年以上も経ってしまいました。この報告も、今までのメモや書類、記憶を辿ってのものであり、前後が入れ替わっていたり、記憶が曖昧であったりで、読んで頂いている皆さんから、「ちょっと違うでしょ?」みたいなところも多々あるかと思いますが、お許しいただきたいと思います。

 最後に、お願いです。平成20年度の環境調査報告書と一緒に、来年度に入れば二見交番所から中津浜線までの二車線の箇所の四車線工事に入りたい旨、当局から話がありましたことをお知らせします。来年の秋には、現在工事中の芦屋川での工事も終了する。そこで唯一残っている、二見~中津浜間の工事に入りたいとの事。

 皆さんも、現在の交通量の増加の現実を見て分かるように、道路が広くなればなるほど、交通量は確実に増えます。今、車が混んでいるから広げれば解消すると考えるのは間違っていることを、みんなで再度確認しておきたいと思います。現実問題として、四車線拡幅を真っ向反対することには、無理があると思いますが、今まで頑張って西宮市の山手幹線は二車線としてきました。中津浜線以西も新しく工事をしたところは、全て二車線供用です。武庫川の中心からも北町まで二車線を勝ち取りました。来年度に入れば市当局は公報にて知らせ、市民の意見を聞くと言っています。まずは事業地元のみなさん、そしてみんなで頑張りましょう!!

*****************************************

あとがき

 わたしがこの地域に住み始めたのは、昭和50年でした。その頃、私の家から山手幹線に出るには、坂の上の道との表現でした。山手幹線ということも知りませんでした。

 そこは広い歩道があり、冬の星座、夏の流れ星を子供たちと眺めることが出来ました。とっても環境のいい所でした。平成3年、昭和50年から17年?が経っていたでしょうか。7月末に回覧が回ってきて、都市計画の変更による拡幅、最大限33m幅の道路になることの説明会でした。

 時を同じく、北町という住宅地の中に、パチンコ店が出店するとのこと。地域住民が反対の声を上げていました。主人はパチンコ店どころではない、この道路の問題は大変なことだ。環境が悪くなる。反対しないといけない。私は意外な思いでした。反対運動など、およそ嫌いな人だと思っていましたから。私は反対と言ってもどうして良いのやら、「誰がするねん?」。簡単に、よくもそんな事言ってくれるわ、と思いました。が、取り敢えず説明会に出席したところ、たった5人。北町からはご夫婦一組ともう一人ご夫人と私でした。何もよくわからないまま、分かったことは私以外の参加者の家の上に、道路の線が引かれていたことでした。

 ずぶの素人が、行政を相手に戦った10年近く。ほんとうにたくさんの経験をさせてもらいました。訴えられて裁判所に行くなど、個人的には絶対に行きたくない所です。

 ところが、行政を相手にしたり、弁護士に相談に行ったり、色々な局面でも、不思議にいつも気持は対等でした。ビビッてはいませんでした。そこにはいつも多くの同志のみなさんが、背中を押してくださっていたからだと思います。

 忘れられないのは、訴えられて一日60万円の罰金を取るといわれた時、お金がないから運動の鉾を収めないといけないことのないようにと、札束を届けて下さった方には驚きと感謝の気持でいっぱいでした。当然、丁重にお返し致しました。当局が積極的に出てくるときには決まって、思いがけない人たちの応援があり、集まってもくれました。

 長く続いた座り込みやパトロールにも、ローテイションを組んで、毎日毎日、当番をしました。その中には、地域の方々方だけでなく、遠く川西、芦屋、尼崎のネットワークの皆さんにも、お力を頂きました。特に武庫川河川敷での早朝の大闘争? 朝の7時に芦屋からプラカードを持って、甲子園口駅に降り立って下さったことは感謝でいっぱいでした。

 私は同じことが出来るだろうかと思えば、なお更のことでした。わたしは代表から最初に、「この運動をしたからといって、うちに何かいいことがあるとは絶対に思うな。」といわれていました。純粋に環境悪化を避けるということを、目標に戦ってきました。しかし、一人ひとりの思いは微妙に違っていたのではないかとも思います。

 山本についていけば、きっといい結果になると信じて、一緒に頑張って下さった皆さんの中には、最終的な結果が不本意だと思う方がおられたのではと思うと、心苦しい気持もあります。しかし、当初はこのような運動の専門家のような人から、手伝ってあげようかとのお話もきましたが、私たちの出来ることを自分たちで精一杯やろうと決めて、みんなで頑張りました。もちろん藤井氏はじめ、ネットワークの人たちの応援があったればこそできたのですが。

 わたしは全く間違った結果でなかったと自負しています。この長い間には、町内会の問題、初代、二代、三代の会長を天国にお見送りしなくてはならないという、とても悲しい、つらい経験もしました。いまでも長老の会長、ご高齢ではありましたが、男気のある方でした。間違いをした時も責任は全部自分にあるとおっしゃって下さいました。

 染原会長のメガホンを片手に走り回ったり、当局に食い下がっていた姿が今でも目に焼きついています。黒住会長は、一度決めたことは絶対に裏切りませんと、黙々と会長の責任を果たしてくださいました。武庫川河川敷での座り込みにも、事務所の若い方を誘って下さっている姿に、申し訳ない気持だったことも覚えています。先生は争い事が嫌いな方でしたから、きっと苦痛な毎日だったのではと、命を縮められたのではと奥様にも申し訳なく思っています。

 二度と見ることの出来ない横内氏が、悠然とタバコを燻らせていた姿や、沖さんの満面の笑顔、また、色々な場面での多くの方々のお顔がなつかしく思い出されます。

 反対運動では、よくある空中分解せずに、最後まで団結し、常に代表がガラス張りでの交渉をうたい、市当局と交渉をした結果、役所の一番嫌う文書を交わすという決着をつけることが出来ました。みんなの力で勝ち取ったのです。

 本当にありがとうございました。心から感謝しています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』道路と権力**<2009.9 Vol.60>

2009年09月02日 | 神崎敏則

道路と権力

神崎敏則

権力の象徴と実用性の二つの側面の道路

 『日本の古代道路を探す』(中村太一著・平凡社新書)に拠れば、早くも7世紀前半には奈良を中心にした古代道路が建設されていたそうだ。その古代道路の特徴は、「まっすぐな」こと。10km以上まっすぐな区間が続いていることもあり、直線的な区間を組み合わせた道路として全国的に造られていたらしい。そして第二の特徴は、道路幅が極めて広く、宮都周辺で24~42m、全国的には12m前後あったそうだ。中国の隋唐代の交通制度や計画道路の影響を受けて、そのような直線的で幅の広い道路が造られていった。

 ところがこの幅12m前後の道路は8世紀後半から9世紀にかけて幅が6m前後と狭くなり、全体としては直線的なものではなくなっていった。前期に造られた道路の内側に側溝を掘削して幅を狭めた事例もあった。著者は、前期古代道路は交通路としての役割だけではなく、「天皇と中央政府の権威・権力を見せつける」ための役割もあったと解説している。

 古代前期道路が交通という道路本来の役割以外の目的でも造られていたのに対して、その100年後には実用性を重視して道路幅を縮小させることになった。権力の象徴としての道路よりも、当時の交通にとって必要な幅員にあわせて計画を見直したのだから、現在の道路行政よりも柔軟で適確であったと言えるだろう。

政治と軍事のための道路

 『クルマと道路の経済学』(柴田徳衛 中西啓之 編・大月書店出版)に拠れば、古代ローマ時代の大幹線として、南イタリアにむけて幅員8m、全長540kmにも達したアッピア街道(紀元前312年建設開始)が有名だ。堅牢で、排水性も良く、立派に舗装された道路が大規模に造られたのは、政治と軍事のためであった。巨大なローマ帝国の隅々から貢納品を大量にローマ市へ集め、そして各地で奴隷の反乱がおこったとき、鎮圧のため即時に大量の軍隊を現地へ派遣するためのものであった。道路は、ローマ帝国の権力――特に軍事力――の絶大さを表現していた。そして軍事と道路との関係は、戦前の日本でも露骨なほど直結していたらしい。

 引用ばかりで恐縮するが、ここからは『道路をどうするか』(五十嵐敬喜 小川明雄著・岩波新書)からの引用に、ほんの僅かばかりの私見を付け加えたにすぎない。

 1919年に帝国議会で制定された「旧道路法」の第10条では、 「第十条 国道の路線は左の路線に就(つ)き主務大臣之(これ)を認定す  一 東京市より神宮、府県庁所在地、師団司令部所在地、鎮守府所在地又は枢要の開港に達する路線  二 主として軍事の目的を有する路線」と定められていた。敗戦後GHQは、軍国主義と中央集権に貫かれていた「旧道路法」を書き換える準備を進めていたが、1952年のサンフランシスコ講和条約までに改正することができずに、「新道路法」の仕上げは道路官僚や道路族の政治家たちにゆだねられた。

中央集権を延命させる補助金制度をつくった田中角栄

 アメリカの占領が終わるのを待っていたかのように、1952年の通常国会に田中角栄ら3人の衆議院議員が「新道路法案」を提出した。もちろん具体的な法案づくりに携わったのは建設省道路局を中心とする官僚たちだった。この法案は同年6月に原案通り成立した。

 この法律には二つの特徴があるという。一つは軍事色が一掃されたこと、もう一つは旧法が道路はすべて国の「造営物」とするのに対して、新法は、国道は国の、都道府県道は都道府県の、市町村道は市町村の「造営物」とされ、建設主体や管理事務が区分されたことである。これにより道路行政は中央集権から地方分権へ移行したかのような印象を与えたが、実態はそうではなかった。

 都道府県や市町村の道路建設を援助するためという理由で、新たに国による補助金制度がつくられた。この補助金制度をテコにして、中央集権は延命し、その後盤石な礎を築いた。

問題の多い道路をつくり続ける根拠となった法律も田中角栄がつくった

 同時期に田中角栄らは「道路整備特別措置法」を議員立法で成立させた。占領が終わったばかりの当時の日本の財政では、新たな道路を建設する余裕はほとんどなかった。その財源捻出のため考え出されたのが、高速道路建設のための「道路整備特別措置法」であった。この法律は内容を大幅に変えながらも今日まで生き続けて、問題の多い道路をつくり続ける根拠となってきた。内容を簡略すると、高速道路を借金でつくり、利用者から利用料を徴収して借金の返済に充て、借金が返済された段階で無料開放する、つまり「償還主義」で高速道路をつくる制度を導入した。

 建設省が工事をして1953年12月に開通した三重県の参宮有料道路(10.6km)が日本最初の有料道路だ。続いて、1954年10月開通の栃木県の日光いろは坂県営有料道路(6.5km)、ほかにも建設省が工事をした戸塚道路、真鶴道路などがあった。しかし、公的資金には大きな制約があり、さらには国や自治体が有料道路を建設するには技術水準が充分でないことが明らかになった。そこで当時の鳩山一郎内閣と道路官僚たちは、日本道路公団の設置を打ち出した。1956年3月に「日本道路公団法」が公布され、特殊法人として発足した。1959年には首都高速道路公団、62年には阪神道路公団、70年本州四国道路公団がそれぞれの根拠法のもとで発足した。さらには70年には「地方道路公社法」も制定され、各地に道路公社が設立された。

道路計画への国会のチェック機能を省き、道路特定財源に道を開いた田中角栄

 田中角栄はまた一般道路の新設・改修のために「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」(以下「臨時措置法」と省略)を議員立法で成立させた。

 この「臨時措置法」も2点の重大な問題を内包していた。第1の問題は、5年の時限立法だったことだ。この法律で「5箇年間における」国道、都道府県道その他の道路の計画を建設大臣が策定し、それを閣議が決定すれば、「遅滞なく道路整備5箇年計画を関係都道府県知事に通知」すると定めてしまった。国権の最高機関であるはずの国会でのチェック機能が省かれ、当該の都道府県知事は、5箇年計画を下げ渡されるだけの関係におとしめられたのであった。民主主義国家にあるまじきチェック機能の欠如は、その後の「道路の暴走」を誘発した。

 第二の問題は、特定財源制度に道を開いたことだ。当時大蔵省は特定財源制度をできるだけ排除する原則論を掲げていた。これに対し田中議員らは、揮発油税は一般財源のままにして、特別措置として、5年間だけ揮発油税の税収に相当する金額を自動的に道路5ヵ年計画に充当するという体裁をとった。包装用紙だけは一般財源にしておいて、中身は特定財源にすり替えてしまったのだ。

 第1次道路整備5箇年計画は1954年にスタートしたが事業規模は2600億円にすぎず、道路需要に追いつけないことがすぐに明らかになった。

 そこで岸信介内閣は1958年に「臨時措置法」を廃止し、それに代わる「道路整備緊急措置法」を成立させた。同法によって第2次道路整備5箇年計画が58年にスタートし事業規模は一気に1兆円に膨らんだ。

 以降、ほぼ5年ごとに「道路整備緊急措置法」が更新され、ついに第12次計画(98年~02年)に至り、その計画規模は78兆円に達した。道路特定財源の税収の方も、当初の揮発油税だけではなく、次々と新しい税をつくり、増税し、果てはこうした税率を2倍にする暫定税率を導入してきた。現在の道路特定財源の税収はおよそ年5兆9千億円に達している。

 表のとおり、日本はすでに世界に冠たる道路王国になった。しかしいまだに道路特定財源を使って道路建設に邁進しようとしている。権力に裏打ちされた道路建設の暴走が止まらないのだ。

 

道路計画の暴走

 第4次全国総合開発計画で登場した高規格幹線道路の計画の総延長14,000kmのうち2006年年度末の供用延長は9,047kmで、進捗率は65%に過ぎない。残り35%もの区間が、建設中かまたは未着工だ。また高規格幹線道路を補完する地域高規格道路は、計画6,950kmに対して供用中は1,707km(24.6%)だ。すでに道路王国であるはずのこの国の道路建設のゴールラインははるかかなたに設定されている。しかもその計画路線には大きな疑問符がつく。

同じ過ちを繰り返す東京湾口道路と紀淡海峡道路

 東京湾アクアラインは、神奈川県川崎市と千葉県木津市を結び総延長15.1kmで、事業費1兆4800億円をかけて1997年に開通した。計画当初1日交通量7万台と予測されていたが、開通直前に25,000台と圧縮され、開通後の実績は19,000台にしかならなかった。1999年の収支は、料金収入144億円に対して、返済の金利分だけで404億円に上り、赤字が雪だるま式に増えることが明らかになった。ところが2000年度から、千葉県に関係する各有料道路を「千葉プール」に一括して、アクアラインの赤字を隠してしまった。

 問題はここからだ。実は、この悪名高きアクアラインのさらに外側に東京湾口道路が計画されている。神奈川県横須賀市と千葉県富津市を結ぶ海峡横断道路だ。東京湾口WEBに寄れば、「東京湾口道路ができると、生活がこんなに便利に楽しくなり、東京湾周辺の魅力がますますアップします。」とその建設目的をソフトタッチで表現しているのだが、説得力のある説明は見当たらない。挙句の果ては「東京湾口道路は、橋にするか海底トンネルとするか、決まっていませんが、橋として完成されれば、世界有数の橋として、国内ばかりでなく世界的な観光資源となり、日本のランドマークにもなります」と観光目的を追加している。総延長17kmの海峡横断道路はアクアラインの事業費1兆4800億円をくだらないのではないかと心配する。莫大な税金を投入しても、赤字を大きくするだけの計画であることは、アクアラインが十分なほどに説明している。アクアラインの失敗を隠して、その責任の所在を明らかにすることもなく、さらにまた新たな無謀な計画に突き進もうとしている。

 ところが、アクアラインと東京湾口道路との関係に酷似した計画がほかにもある。

 道路関係4公団の民営化が問題になったとき、本州四国連絡橋公団の処理が焦点の一つとなった。瀬戸内海に3本の長大橋を架け、管理するために設立された同公団は、3兆8000億円の有利子負債があり、料金収入は3本の橋で年900億円程度なのに、利子の支払いだけで1400億円にも達し、破たんは目に見えていた。

 まったく採算のとれない本四連絡橋を3本もつくった責任の所在を追及するでもなく、時の小泉政権は、民営化のどさくさにまぎれて、03年度から4年間にわたって道路特定財源から計1兆4700億円を注ぎ込み債務の一部を帳消しにした。その後4公団が保有していた高速道路を総額40兆円の債務とともに日本道路保有機構に移管させ、日本道路保有機構は、それらの高速道路を株式会社化された高速道路会社に貸し付けて、返済に充てている。

 ところが、この3本の本四連絡橋に懲りることもなく、和歌山と淡路を結ぶ紀淡海峡道路の計画もいまだに生きている。「実現させよう 紀淡連絡道」のホームページによれば、「明石海峡大橋(中央支間長1,991m)を上回る世界最大級吊り橋となる紀淡海峡大橋(中央支間長2,100m~2,500m)が架けられます」と重厚長大型の架橋を誇らしげにアピールしている。

 国民にとって悪夢のような道路計画の暴走は1度や2度では終わりそうにない。伊勢湾口道路、関門海峡道路、豊予海峡道路、それに島原・天草・長島架橋の各計画が目白押しだ。

 田中角栄と道路官僚が切り開いてきた、補助金行政による中央集権体制、高速道路の償還主義、閣議決定だけで通過できる道路計画、そして道路特定財源。そこにゼネコンがタッグを組んで道路特定財源を死守しようとしている。もはや道路特定財源は、必要性が低い道路と分かっていてもつくり続ける動機付けとなっているのだ。

道路特定財源は全て一般財源に繰り入れるべき

 最後に、著者が道路改革のための提案を行っている内容をそのまま紹介しよう。

第1の提案は、緊急措置だった道路特定財源を欧州の先進国のように一般財源化すること。
第2に、道路事業における中央集権にブレーキをかける。
第3に、地方分権を徹底する。
第4に、霞が関の抜本的な改革を実行する。
第5に、各種の計画を官僚が立案し、閣議決定ですますという長年の非民主的な方法は直ちに中止する。
第6に、官僚の天下りは全面的に禁止する。

 これらの提案が実行できれば、道路建設を暴走させることなく、しっかりとコントロールできるだろう。国も地方も莫大な財政赤字を抱えているのだから、道路特定財源を一般財源化する圧力は高まっている。

 平安時代の権力者がそれまでの幅の広い道路を、実用性に合わせてわざわざ狭めてきたように、国民の必要性に応じた整備を新たな内閣はおこなうべきだ。新内閣がミスリードを繰り返すのであれば、改めて国民が糺すことになるだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**塵も積もれば**<2009.9. Vol.60>

2009年09月01日 | 藤井隆幸

塵も積もれば 『みちしるべ』第60号の歩み

世話人 藤井隆幸

コピー用紙≪ひとしめ≫の重み

 流通業の形態の変化で、商店街の物販店がなくなった。文房具店というのも死語のように。文具を買うのはコンビニかスーパー。これが非効率な物流を生み、道路公害の一因なのですが、世間では理解されていないようです。

 少し非日常的文具はコンビニ・スーパーには置いておらず、ホームセンターや遠い事務用品専門店に行かねばなりません。コピー用紙の1〆(500枚)などは代表的でした。最近は普通紙ファックスが主流。一般家庭でも1〆のコピー用紙を買うことが多くなり、コンビニ・スーパーでも見かけるように。しかし、専門店より5割程度は割高。1日10点以上売れないアイテムは、コンビニ・スーパーの棚からは撤去されるのです。

 余談はさておき、我等が『みちしるべ』も第60号の発行となりました。通算1,134頁に及び、積み重ねるとB5判のコピー用紙1〆に匹敵するボリュームとなります。机に積んでみて、しみじみ、その重みを感じています。

脱「勤務評定」のデータ公表

 以前、何処の団体から何人が原稿を出して、誰が何本の原稿を書いたかという、データをまとめた経験があります。その際、前川さんから「ゲッ、勤務評定!」と酷評されてしまいました。たしかに受け取る側からすれば、尤もな感想です。反省の上で、団体・個人の特定は止めて、統計的データだけをお知らせします。

 第60号を含む原稿本数は、資料なども入れて、総数487本となります。平均して1号あたり8.1本ということになります。最低の号は05年9月の第37号で、3本だけで8頁でした。最高は02年5月の第17号で19本、28頁と最高でした。因みに、この号は故 黒住 格 先生の追悼号でした。最高頁数の28頁の号は4回もありました。平均して1号あたりは18.9頁となります。

 原稿を提出していただいた人も、総勢55人にもなり、常連以外でも多くの人が書いてくれたことに、今更ながらに感謝せずにはおれません。

「みちしるべ」第30号以降のこと

 第30号までの経過については、その号に「みちしるべ第30号記念号の発行によせて」として書いています。紙数の都合もありますので、重複は避けたいと思います。

 その時々に、様々の方が色々の「コト」を書いてくださいました。「みちしるべ」に相応しくと、『道』に関連付けて書く努力をしてくださった方が多いのは、一つの特徴でしょう。また、『環境』に関連した記事も多くありました。その思いは大切にしてゆかなければなりません。しかしながら、加盟団体間・参加者間の『交流誌』という性格上、『道』と『環境』に必ずしも拘ることはありません。関係諸氏の体験や意見なども、身の回りの出来事でも差し支えはありません。以前は、旅行記や歴史物も多かったのは、結構、評判もよかったものです。

 連載記事では、途切れながらも「私の住民運動」(山本著)が、今号で完結しました。もう少し膨らませて単行本に。記録ではなくエッセンスで『物語風』の再連載に。それが、亡くなった砂場さんの意見でした。また、02年9月第19号から始まった、自称『熊野の山姥』こと三橋さんの「熊野より」は、シリーズ第30回となりました。澤山編集長の「斑(はん)猫(みょう)独言」や、それこそ記事不足を埋める「埋草(うめくさ)草子(ぞうし)」は、時々のコラムとして登場しました。創刊号からの「横断車道」は、近頃は途切れがちです。

 私は知識を深めるためのシリーズ、「道路交通工学を考える」などを書いてきましたが、勉強不足で新シリーズが書けないでいました。その穴埋めを「みち環」の神崎さんが、フォローしてくれるようになり、助かっています。その神崎さんの初稿は03年9月第25号と、案外、新しいのは振り返って意外でした。

初代の代表世話人のこと

 砂場徹さんが亡くなったのは、今年の1月7日のこと。第56号(2月)が追悼特集となりましたが、黒住先生の特集に継ぐ17本(24頁)の原稿が集まりました。砂場さんの「みちしるべ」投稿は合計23本で、時々の情勢に対し、辛口の論評を加えるというのが砂場流でした。

 06年1月第39号が「みちしるべ」誌上では絶筆となりました。題して『友情』という記事でした。隣保の市住の生活保護者が、ホームレスの人物を泊めているというのが、近所で問題にされたという記事でした。その最後の文が「そう言う私はどうも尻のすわり具合が悪い。ホームレス排斥の動きを見過ごしたのだから。今年1年、恥多き人生だが、最後にチクリと痛い悔いを残してしまった。」でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする