『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(47)**<2007.9. Vol.48>

2007年09月06日 | 横断車道

ついにインターネットを始めてしまいました。これだけはやりたくなかった。昨年、マイカーも手放し、いよいよ快適生活ができると思っていたのですが。ペーパーレスだとか、いながらにして情報が入手できる。そんなメリットとは反対に、机に向かう時間が増えてしまいます。その内、山ほどの電子手紙がくるでしょう▼わが代表世話人のO氏は、年齢から言うと、インターネット接続者であることが珍しい。しかし、聞いてみると、着信メールは見ずに、総て削除しているとのこと。我が家のアパートの集合ポストに入るチラシと同じで、大半が不要物です。わが代表世話人より、少し年長の一級建築士の知り合いは、パソコンの不具合があると電話してこられます。その都度、無料出張サービスを行っています。ここへも、いわゆる迷惑メールが1日に何10通も届いています▼迷惑メールが届くには、それなりの理由があります。自らのメール・アドレス(宛先名)を、知られてしまう行為をすることに原因があります。用心深い人は、毎月、メール・アドレスの変更手続きをしています。そんな厄介なことには、つくづく係り合いたくなかった▼手持ちのパソコンは10年も前の、Windows98SEです。それに45年も前に建てられたアパートです。インターネット接続には、大家さんの手を煩わさなければなりません。止むを得ず、PHS電波による接続にしました。これがやたらと接続時間のかかる厄介もの。64Kb/sですが、実際はビルの谷間で電波状況が悪く、とてもその速さは無理。また、エラーもやたらと多い▼なぜ厄介に首を突っ込んだかといえば、あるホームページの管理役がまわってきました。まずはブログから始めました。急速にブログが台頭しているのには驚きました。この勢いでは、ホームページは企業サイトくらいで、他はブログと言う時代が来るのではないか▼ホームページはレンタルサーバーの一部を借り、自前のソフトを使ってサイトを作ります。ブログはソフトつきのレンタルサーバーで、簡単に作れるものです。ブログでも、スクリプトという簡易ソフトが使え、その提供も無料です。本格的なブログは、庶民のホームページよりも見応えがあります▼さて、問題はホームページにせよ、ブログにせよ、多くの人に見てもらわなければ意味がありません。現在はアドレスを打ち込むのでなく、検索エンジンで検索します。同じ言葉のホームページやブログでも、検索してもらいやすくしておく必要があります。色々手口があるのですが、これも日常的な競争なのです▼必要に迫られて始めたインターネットですが、不要な競争社会の流れに、又しても時間を無駄にされてしまいそうです。 (コラムX)

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『みちしるべ』埋草草子**<2007.9. Vol.48>

2007年09月04日 | 澤山輝彦

埋草草紙

埋草草子

 彼岸花はお彼岸に咲くから彼岸花の名がついた。今年は9月に残暑が長引き、彼岸花の開花が遅れたと言われた。そういえば10月中旬に彼岸花が咲いている庭や公園を見た。

 9月22日、猪名川町栃原という所の彼岸花はもう盛りをすぎていた。ここには残暑の影響はなかったのだろうか。10月7日、JR加茂駅あたりヘハイキングに行った。あちこちの田は稲刈りの真っ最中で、そんな田の畔にヒガンバナが満開だった。もう終わったと思っていたヒガンバナが満開で、黄色い田、緑の草、背景の山や空の色とあいまって、正調日本の秋を演じていたのである。素晴らしい天然の劇場だった。

 加茂駅は関西本線の駅だ。ここまでは大阪駅から直通電車があるが、ここから先へは、ここでジーゼルカーに乗り換える。10月7日(日)、私が乗って来た電車に接続して、隣のホームに二両編成のジーゼルカー亀山行きが止まっていた。電車より小型だ。電車から乗り換えた人達が乗って満員になり、すぐ発車して行った。この線、ここから亀山まで毎月第二土曜日には午前10時から午後3時まで保線作業のため運休する。この間代替輸送はない。この線を第二土曜日に利用する人は要注意だ。沿線の人々は第二土曜日の5時間は鉄道で移動出来ないのだ。それが不便なのかどうか私は知らない。

 兵庫県三木市にある三木鉄道は来年3月命脈が尽きる。三木鉄道はJR三木線を三木市などが第三セクターになって運営してきたが、赤字が続き来年3月で廃上を決めた。アンケート調査によると、80%近くの人が廃止に賛成しているそうだ。この執着のなさは、路線の立地条件に問題があるのだろう。でも公共交通機関である鉄道がかくも簡単に廃止されるのは問題なしと言い切れないと思うのだが。寂しい気がする。

 NHKテレビ、クローズアップ現代で知った。ここ5年間で361人も餓死した人がいたのだ。5日に1人餓死者が出た勘定である。私は衝撃を受けた。これが豊かな国日本の実情なのだ。福祉を軽んじ弱者を切り捨てて平気な国の姿なのだ。一部の金が集まる人、えぐい政治家そんな者をほうっておくのもしゃくだが、中流なんて言葉に惑わされ貧乏に気が付かない人々、明日は我が身という言葉がある、早く気付かなければならないのだ。

 ワーキングプアー、こんなカタカナ語を平然と使う国にしておいてはならないのだ。

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『みちしるべ』斑猫独語(31)**<2007.9. Vol.48>

2007年09月04日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<月が出た出た月が出た>

 私が住んでいる川西市大和では8月に入るとすぐ「ふるさと大和納涼盆踊り大会」と銘打った盆踊りがある。そこには地域の商店会や活動団体が夜店を出し、子供たちの多くは踊りに加わって楽しむというより、夜店での買い食いや買い物を楽しむのである。

 昔からの風習や伝統が無い所では、こうしたものが続いてそれはそれなりの伝統となって行くのだろう。地方にはテレビで紹介されたりする厳かなお盆本来の意味を持った盆踊りがある。私はそんな物を知らずに育ったから、盆踊りとはこんなものだと思っているし、そんな盆踊りには炭坑節は付き物で、ここの踊りにも炭坑節が入っているので全く文句は無い。日本から炭鉱が無くなって久しいが、盆踊りの炭鉱節が不滅なのは嬉しい。

 炭坑節は炭鉱で歌われていた。そんな歌だから、てっきり坑内で石炭を掘る炭鉱夫の歌だと思っていたが、これは掘り出された石炭を選別する選炭場での選炭婦の歌だったのである。そういえば確かにそうだ。歌詞には石炭を掘る採炭現場は出てこないし、選炭婦の歌ときけば納得のいく歌詞がある。石炭を掘る最前線では歌など歌っている余裕はなかったにちがいない。

 アメリカの歌で、日本でも流行し今では懐かしのメロディーになってしまったが、16トン、Sixteen Tonsがあった。覚えておられるお方もあるだろう。日本人が歌っていた歌詞の一部はこんなものであった。「ああ、おいらの商売炭鉱夫、年がら年中地の底で、石炭掘って泥まみれ、まったくやりきれないぜ、ああシクスティントンズ」これぞアメリカ版炭坑節である。ところがこんな訳の歌詞ではまだまだ気楽なものだった。英語の歌詞はすごいのだ。訳したものを見つけたので下に書く。あの頃覚えたうろ覚えの英語の歌詞の意味がはっきり分かる。

ところで 人間は泥で出来ているという人もある
だけど 貧乏人は筋肉と血で出来てる
筋肉と血 骨と皮
弱い頭と強い背中で
16トンの石炭積んで手にするのは何?
一日たてば借金がかさむ
セント・ピーターさま いけぬから呼ばないでくれ
おいらの魂は会社のものだ

 アメリカ版炭坑節はまさに地底で石炭を掘る炭鉱夫の歌である。セント・ピーターさまとは死ねばめんどうをみてくれる神様なのだから、呼ばれるということは死を意味する。給料の前借りで借金だらけの体は、自分のものではなく会社のものだという、これはきつい。日本の炭坑節では選炭婦が、さのよいよい、と言っていればよかったのだが、アメリカ版ではそれどころではない。16トンは採掘ノルマではなく、一日の運搬ノルマらしい。

 炭坑節が永遠なら炭鉱の歴史、そこでの働いた人々のことなども永遠に語り継がれなければならないと思うのだ。炭鉱で働いた女性からの聞き書き集「炭鉱花嫁」という本が出ている。人の生き方を教えてくれる本だ。三井三池炭鉱の閉山、大闘争なども歴史に埋もれさせてしまっていいのだろうか。語り継がねばならない。かく言う私は長い間、ボタ山のある風景に詩情を感じるなど、呑気なものであったのだ。

ちょっと一言

 今年の暑さはよくねばってくれましたが、10月中旬にもなれば、さすが秋らしくなってきました。そうなったらなったで、人とは勝手なもので、「今朝なんか寒いですな、長袖きてますねん」てな挨拶を交わしたりするのです。盆踊り、炭坑節のことなど、今、話題にするには時季はずれの気がしないでもありません。これは9月号が定時に発行されていればなんでもないことなのです。一寸ずれこみ状態が続いています。止まってしまうよりマシだ、などと居直りはしません。定時の発行をめざして、皆さんがんばりましょう。

写真は北部水源池連絡会に参加する北六甲台自治会の夏祭りです。

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『みちしるべ』熊野より(24)**<2007.9. Vol.48>

2007年09月03日 | 熊野より

三橋雅子

<「私のシベリヤ物語」本宮を駆ける>

 いささか古い話になってしまったが、「本宮9条クラブ」なるものが、数少ない若者を代表者にして発足したのは、この、古い高齢者の町では瞠目に値することだった。生みの苦しみには数ヶ月を要した。ここでなにやら活動らしいものをするといえば、先の市町村合併反対運動と同じく、共産党が核になるしかない。森林組合で働く若い「よそ者」達は組織が嫌だと言う。共産党色プンプンのビラは配る気にならない、あの抵抗感が分からないから、共産党は至極もっともな正論をどんなに展開しても選挙で票を取れないのだ、と。僅か10人足らずの発足準備会は、毎回堂々巡りのぶつかり合いとなった。こうもりの私はそのたび別々で発足しよう、その内一緒になれるかも、と提案するのだが、そうなりかかっては行きつ戻りつで振り子は止まらない。ところであんたはどっちに入るの?と訊かれて、両方です、と答えると、ほう、若いつもりなんだ、と失笑を買った。

 お互い人手も資金も足りないのが目に見えている。遂に老共産党は後方支援の形で、私自身もひどく抵抗を感じる名称で発足に至った。お産の軽い私には「生みの苦しみ」なるものがこんなとはとても想像できない。しかし正に案ずるより生むが易しで、とんとん拍子に会報が出たが、これを配るのが一苦労。出来たからには全町民に読んでもらいたい。大枚はたいて新聞折り込みも試みたが、配達地区はほんの一部、新聞と無縁な家が多い。(我が家などは新聞くらい欲しいと思っても、配達がない。毎日の郵送料を払えば来るが、郵政公社にそんなお金は払いたくない。)そこで、わがら(自分達)の手で各戸配布をすることになった。戸数にして2000余り、西宮で道路と水源池問題のビラ配りや署名で歩いた、当時3500戸の北六甲台を思い出すと、わけもなさそうだが、一つの集落に2~30戸固まっていれば御の字、我が家のように中心部の本宮大社から10キロ、人里離れてから2キロほどで4軒、更に2キロ分け入って離れ離れに我が家を含む3軒、というようなところも決して珍しくない。中には石段を100段登ってやっと一軒というようなところもある。だからといって飛ばす事は出来ない。段々配布員もばてて来たり脱落して、土地勘のない私も、いくらかでも知っている所、などと贅沢はいえなくなり、地図を頼りにどこまでも足を踏み入れた。おかげで本宮地区の大部分の土地勘が養われた。

 しかし大抵は段々に沿って、てんでに点在する同じ格好の家並み、塀もないから次々と隣に登ったり下ったり、ずるずると辿っていくと、入れた所、入れてない所が分からなくなる。表札は大体同じ苗字。目印にニュースの端を郵便受けの口に挟んでおくが、確かここは入れたはずなのにない!へンだなあ、と自信をなくしながら入れようとすると、もう貰ったで、と縁側で読みふけっていたりする。一生懸命、眼鏡をかけて、時には声を出して読んでくれている。張り合いがあった。かつてのように、目の前で右から左ポイされるのとは大違い。書き手は原則町民に絞った。こんどは誰々さんが書いてるから読んでくださいね。というと、俺よリ2級下やった、まだ元気しちょるかとか懐かしがる。極力写真も入れた。あいつもよくよく年取ったもんじゃなあ、と自分のことを棚上げして感心したりしている。

 配布物にシリーズ「憲法への私の想い」の連載を始めたとき、第1回目を持たされた私は「新憲法、は希望の星だった」と題して、幼いながら、敗戦後の大人達のぼろぼろの姿の中に、安堵感と新しい時代への期待が漲る明るさを思い出して書いた。戦後満洲から引き揚げてきた時の無残な想いと大人たちの開放感が、間もなく発布された新憲法への期待や明るい展望に凝縮されていたように思う。あの暗い、陰惨・無情な時代から脱却して、日本再生の展望が託されたのが新憲法だ、世界に誇る理想の憲法だ、と教師達も熱く語った。その一文をちゃんと読んでくれている証拠に、「あんた、引揚者だってねえ」と声をかけてくれる人も多々あることに驚く。年寄りの真面目さに勇気を得て、また石段の上がり下りに精を出した。

 しかし時には「こんなことやって、なにになるねん。」と言われることももちろんある。「そうですねえ、無駄骨かもねえ。」しかしかつての署名集めに、「暇人やなあ」と皮肉られる事しばしばだったのに比べれば腹も立たない。やっと辿り着いた石段で、「何のタシにもならん」のおっちゃんは「大体近ごろの、あんたみたいな若いモンが、我々の年代がどんだけ命からがらの苦労したかわかんねだろ」には、こちらも黙っていられない。戦争を知らない「若いもん」とは…。子供とはいえ11歳で満州から引き揚げてきた時のこと、その前のソ連兵達の横暴無残な略奪その他、あやうく残留孤児になったやも…の命からがらのあれこれをブワーッとまくし立てた。で、おっちやんの命からがらは?南方?と振れば、いや、そのひどいソ連や、シベリヤに4年いて帰ってきた。とおとなしくポツリボツリと話し始めた。よーく生きて帰ってこられたねえ、お互いハラショーハラショーだねえと、恨みのはずのロシヤ語が出て、手を取り合って涙ぐんだ。

 私はすぐに,砂場さんの「私のシベリヤ物語」を届けた。彼が暗い電球の下で、鼻水をすすりながら活字を辿る姿が眼に浮かぶ。

 本宮は高齢者人口が40%を超えた。限界集落はあちこち、我が家の回りは超限界集落か。ということは戦争体験を持つ老人パワーが溢れているということだ。これを利用しない手はない。「戦争体験を語る会」が始まった。戦艦大和の生き残りがいる、ニューギニヤの生還者、満州荒野を一人、本陣を探してぽつぽつと歩いた、かつての少年兵…神戸の大空襲で3日間焼け焦げた死体をひっくり返しながら、親を捜して回った、かつての少女、来る日も来る日も眠らず手当てをした、かつての健気な看護婦……彼ら、彼女らはしゃべりだすと止まらず、語る会は終わらない。総出で出世の見送りしてくれてなあ、ほれ、あそこの〇〇橋で万歳して、誰やんも一緒だった…とかで始まり、移動のたびに途中下車していると、肝腎のニューギニアまで辿り着かず、止む無く閉会になるのであった。それでも16歳で志願していく心情や、当時の村人の気持ちなどがひしひしと伝わってくる。戦争の悲惨は、戦闘員の悲劇だけではない。

 私はかつての兵士に、泣く子も黙る強大無比の関東軍は、中国大陸の在留邦人を棄民して逃げたが、軍隊の中で、兵隊達は救われたのかどうか、と訊いた。8月9日のソ連参戦後いち早く関東軍総司令部はわずかの留守居役を残してもぬけの殻になった。総司令部を安全な場所に移す、という名目ではあったが、仮にそれが賢明な策であったとしても、危険な首都から避難しようと列車に群がる市民達を阻止し、自分達の家族を優先して、家財道具一切、ピアノに至るまで積んで、あるいは軍用機を飛ばして、いち早く内地に逃がした。国も軍隊も決して我々を救ってはくれない、それどころか凶暴残虐な日本軍のお陰で、その犠牲になった身内への、仕返しの鬼となった輩のターゲットになったのは、何の罪も犯していない、けなげな開拓団の人達や、辺境からの、あるいは首都新京からの避難民達だった。我々は、無政府状態で横暴を極めた「戦勝国」ソ連の、荒くれ囚人部隊のなすがままの暴挙にも、素手で、知恵だけで身を守るしかなかった。ひたすら国体護持の名目で、一方的に強制的に協力を強いられただけの軍隊や国を、誰が信ずることが出来よう。

 「わしら一兵卒はやはり捨てられた方だ。ここで解散だ、と身一つで満州荒野に放り出された。しかし、列車が支給され、それに乗って帰る手立てがあっただけましかも知れん。途中民間人にすがりつかれ、子供だけでも乗せて行ってくれ、と泣いてしがみつくのを、軍の命令で乗せるわけにはいかん(解散したのに何で軍の命令に従う?と不思議だが)と列車の枠にしがみつく必死の手の指を、一本ずつ剥がして振りほどいたあの感触が、今でも忘れられん」と辛そうに言った。

 帰りに、「わしも満州に駐留しててな」と懐かしそうに言ってきた人がいた。「そのままシベリヤ行きや、4年後に帰されたが、生きて帰ってこられたのは全く運のいい方じゃ。皆よう次々死んだもんなあ。」私は持っていた「私のシベリヤ物語」を渡した。翌日電話があった。「一気に読みました。自分の体験が書かれているかと思った。(後に砂場さんが配置換えになったところが違うだけで全く一緒だ。)実に良く書けていて、わしの言いたいことも全くそのとおり書いてくれている。後書きも実に同感だ。こんな嬉しいことはない。」電話の向こうの声が潤んでくる。私は懐かしいであろうと、思い出す片言のロシヤ語を並べた。「ヤポンスキー(日本人)、アジン、ドゥバ、トゥリー、チェトゥイーレ…(1、2、3、4…)、ダヴァイ・ラボータ(しっかり働け)、私達はダヴァイ・ジェンギ、タヴァイ・チャスイ(早く金を出せ、時計を出せ)と毎日言われたものですよ。彼らのタワーリシチ(同志)はなんや…」と尽きなかった。

 彼は「ほんとに嬉しかった、この本の著者に、ついでがあったら、お礼を伝えてください」と滾々と頼まれたのに、私はまだ果たしていなかった。この場をお借りして、心からのお礼と、今までサボタージュしていたお詫びを申し上げます。砂場さん本当にご苦労様でした。そして本宮の住民にもこんな感動を与えてくださって、本当にありがとうこざいました。

 秋の雲遠きを語る想い乗せ

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『みちしるべ』住民とともに歩む☆住環境と安全を守るために**<2007.9. Vol.48>

2007年09月02日 | 神崎敏則

住民とともに歩む
住環境と安全を守るために

みちと環境の会 神崎敏則

尼宝線を順次4車線化に拡幅

 県道尼宝線は、阪神地区の南北を結ぶ基幹道路として位置付けられています。南端は、阪神高速5号湾岸線の末広ランプで、ここからほぼ一直線に北上して中国自動車道路・宝塚IC――正確な北端は国道176号線小浜交差点ですが、この交差点の一つ手前の小浜南交差点で宝塚ICのジャンクションに分岐しています――とを結ぶ全長12.4kmの道路です。このうち約半分は従来から4車線でしたが、尼崎の武庫之郷北交差点から宝塚市小浜交差点までを7つの工区に分け、また、国道43号線より南側の部分を3つの工区に分けて、拡幅整備が順次進められてきました。そして今、尼崎市の武庫之郷北交差点から伊丹市との市境までの1.1kmが拡幅整備されようとしています。

住環境は劣悪

 尼宝線で県がおこなっている環境測定の地点は、武庫総合高校に置かれています。ここで騒音や排ガス物質の一つである二酸化窒素濃度を測定しています。この測定ポイントは今回の拡幅整備区間の中にあり、まだ2車線部分なのですが、現状でも2万7千台もの交通量に達しています。騒音は環境基準をすでに超え、二酸化窒素も環境基準の上限近くを推移しています。

 尼宝線の沿道に暮らす住民のみなさんは、住環境の問題を心配しています。

開き直る担当課長

 05年12月にようやく開かれた住民への説明会では、西宮土木の担当課長は「尼宝線のように1日2万7千台も交通量がある道路で、騒音の環境基準を越えるのは当然で、国道の8割は基準を超えている」と開き直りました。私たちは、その発言への抗議の思いを込めて、翌年二月に要望書を122名の連名で提出しました。課長はその年の4月に異動しました。

 新しい課長は06年12月にやっと住民への説明会を開きました。騒音対策として遮音壁の設置を求める住民に「ここに遮音壁を設置したら、県道のあちこちに設置しなくてはならないことになり、そんな予算はとても無理」と検討することさえ拒否しました。納得のいく回答がされていないので再度説明会の開催を執拗に求める住民に対し、しぶしぶ再開を約束しました。しかし、課長はその後住民への説明会を開こうとはしません。

住民の思いをパンフレットに

 騒音や排ガス、歩道の安全性をテーマごとに問題点を整理し、住民の要求を対峙して、住民のみなさんの思いを掲載したパンフレット作成しました。

 住民のみなさんは自身の思いを訴えています。言葉の選び方はみなさん慎重です。怒りが表に出ないように、丁寧な言葉を選んで書いておられます。激しい言葉は避けても言いたいことは確かにあると、淡々とした文章の中に、そこで生活するみなさんの思いが伝わってきます。

 武庫の里1丁目に住むOさんは、「道路側の部屋は普段はなるべく使わないようにしています」と極力感情を抑えて語りました。

 武庫之荘5丁目のPさんは、「時折トレーラのきしむ音で目が覚め、それから眠れない日もあります。騒音対策として窓を防音ガラスにしたのですが、大して効果は無く、窓もずっと閉めたままです。夏の夜などはクーラーではなく窓を開けて風を取り入れたいのですが、騒音が酷すぎて窓を開けるのが怖いくらいです。“窓を開けて生活をしたい"と願うことがそれほど贅沢な望みでしようか?」と切々と訴えました。

あきらめるわけにはいかない

 これから私たちは、住民が納得できる環境対策を求めて県との話し合いを重ねていく予定です。9月末に担当課長に連絡すると、課長は説明会を開く意思のないことを述べましたが、それであきらめることはできません当課長が開きたくなくても、説明会をしっかりと開催させます。住環境がいかに大切かということを、分かるまで言い続けます。そのためには、多くの住民が自分の思いを出し合うことが必要です。パンフレットでは、住民のみなさんのお一人ひとりの思いにこだわってきました。これらの思いを県にぶつけていきます。

パンフレットの購入をお願いします

 このパンフレットは、住民の思いを形にして、環境を守る運動を広げるために作成しました。尼宝線沿道の住民には、すでに600部以上配布しました。しかし、印刷費がまだまだ賄えません。読者のみなさんに購読をお願い申し上げます。

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バンフレット
『住民の声を聴け――窓を開けて生活したい』

一部300円 (3部以上ご注文の場合送料無料)

【注文先】 OOOO 〒OOO-OOOO OOOOOOO
       TEL FAX OO-OOOO-OOOO
                E-mail OOOOOOO@OOOOOOOO

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『みちしるべ』杓子定規もいいもんだ**<2007.9. Vol.48>

2007年09月01日 | 澤山輝彦

杓子定規もいいもんだ

世話人 澤山輝彦

 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
     遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動がるれ

(梁塵秘抄より)

平成の世には子供の遊び声が騒音になることもあるのだ。

 東京都西東京市緑町3丁目の「西東京いこいの森公園」にある噴水で遊ぶ子どもの声やスケートボードの音がうるさいと、近くに住む女性が市に対して噴水の使用とスケートボードで遊ばせることをやめるよう求める仮処分を申請し、東京地裁八王子支部がこれを認める決定を出したのだ。決定は10月1日付で、市は2日から両施設の使用を中止している。噴水は地面に埋め込まれた噴水口から水が断続的に噴き出し、水の間を縫って遊べる構造になっている。女性の家は公園に隣接し、噴水からは数十メートルの距離にある。都条例で同地域の騒音規制基準は日中で50デシベルと決められているが、市が女性宅付近で測定したところ、噴水で遊ぶ子どもの声が60デシベル、スケートボードの音が58デシベルと、ともに基準値を上回っていたという。

 私はこの決定の一番大事なところは、騒音規制基準を作ったのならそれは守らねばならず、そのことをきちんと適用した裁判官がいる、という事だと思う。日本の裁判官が全員、今回の仮処分を認めた東京地裁八王子支部の裁判官と同じ考え方をすれば、騒音公害なんて無くなり日本は静かな国になるのだ。「杓子定規な法解釈」とは融通がきかないことなど、否定的に使う言葉だ。だがそれも時と場合によっては素晴らしい物になるのである。

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