『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』赤い夕陽(2)**混乱のルツボと関東軍**<2010.7.&9. Vol.65>

2010年09月05日 | 赤い夕陽

混乱のルツボと関東軍(赤い夕陽 2)

三橋雅子

 真っ先に攻撃、侵攻されるのはこの新京、とあってか、新京駅は疎開の列車に乗り込む人々でこの日から毎日大混乱、夕方には、積み残された人々がぞろぞろと帰宅する、ということでした。それもそのはず、関東軍が、真っ先に家族と家財道具を積んで脱出するために車両を独占していた。とは半藤一利の『ソ連が満州に侵攻した夏』にあります。親が軍の関係者だった友人は、ピアノまで無事に持ち帰っていますから、相当な車両を独占したに違いない。見かねた下級将校が「惨めな居留民や開拓民を捨てて逃げ去るとは何事か」と詰め寄ると「本官らは身を賭して本土防衛の任に赴くものである。」と参謀達は平然と言い放ったという。無論これはペテンもいいところ、列車内には彼らの妻子がいる。決戦場への急行もないものだ。と半藤は述べています。それとも決戦場へ妻子共々赴くつもりだったのか?

 そんなこととはツユ知らず、それどころか新京には、かの屈強な「泣く子も黙る関東軍」がいる、と皆信じていました。

 この時僅かの空席を得て、列車に乗れたのは大の幸運だ、と羨まれながら南へと疎開していった人々が、後に新京へ、身一つはおろか身も心もぼろぼろの難民となって舞い戻ってくることになるのでした。関東軍幹部の家族はもちろん日本へ無事直行しています。飛行機で脱出したグループもあったようです。

 父は動くことに慎重でしたが、やがて家族に疎開を命じます。それは父の会社の、出征社員の留守家族達が幼子を抱えて疎開するのに付き添え、ということでした。父は一人、使用人たちと残ると言います。もしや戻って来るやも知れぬ社員達が、拠所をなくし家族の消息も不明では・・・ということでした。「銃後を守る」責任なのでしょうか?いよいよ母と兄嫁、姉達、女ばかりの一団も背負えるだけの荷物を背負って、出かけることになりました。玄関から、植え込みに沿った長い石畳を歩いて、父が見送る門から出ようとした時、私が突然「行かない、行かない」と門柱にしがみついて大泣きをし始めたのです。

 「お父様と一緒でなきゃ嫌だ」と叫ぶのは、自分でも予期せぬ行動でした。このドサクサの、少なからずスリリングな、非日常の、先の知れない旅に、私はむしろわくわくさえしていたのですから。でも私の大泣きの抵抗に、もともと気の進まなかった大人達は誰一人怒ろうとも、なだめようともせず、それどころか、皆へたへたと座り込んで、荷物を降ろしてしまいました。厳格だった父も、末っ子の私には甘かったせいか、咎めることなくこの旅は中止になりました。人一倍寂しがり屋の父が一番喜んだのかも、とは後の母の述懐です。後々この事件は、私の殊勲功として、我が家の最大の幸運の基だった事件として語り草になるのでした。不安を抱えながら、じっと踏みとどまった事が、難民の悲惨な辛酸を舐める事なく、誰ひとり欠けることなく無事に内地に引き揚げて来られた基だったのですから。

 西宮在住時、小学校の同窓会名簿を見て連絡をくれた西宮の友人と50年ぶりに再会した際、当然この話が出ました。彼女一家はやはり父君を残して新京を脱出の後、再び家路に向かう時のことです。次々と襲う、チャンスを狙って近づいて来る暴民たちに、札束を見せびらかしながら騙し騙し、機を狙う暴民が次第に膨らんできて、ここぞと思う時、お札をほうり飛ばしてそれを彼らが我勝ちに拾い集めている間に、できる限り走って走って逃げる・・・を繰り返して正に命からがら新京に辿り着いた、と言います。あの時の恐怖は忘れられない、と。でも逃げるための餌を持っていただけ幸運で、何もない人たちは着ているものまで身包み剥がれたり、それは悲惨だったと。この時家族と離れ離れになったり、信頼できそうな中国人に預けられたりして、多くが「残留孤児」になりました。

 情報も何もなく、不安と恐怖に脅えて右往左往する住民たちに、日本の「生命線」とされていた満州を守る、かの屈強な、「泣く子も黙る関東軍」は何もしてくれなかった。それどころか、前述のように、わが身と家族を守るために、疎開列車を独占して逃亡することに汲々としたのです。しかしソ連が日ソ不可侵条約を一方的に廃棄して、いきなり満州に攻め込んできたことは、日本の参謀本部ですら寝耳に水のことだったとしたら、関東軍が慌てふためいて、為すすべを知らなかったのも無理からぬことなのかもしれません。そうとは知らず、この関東軍に、混乱する住民達に何かの指示なり救助のすべを・・・と父が怒鳴り込みに駆けつけてみると、2~3人の留守番兵を残して既にもぬけの殻でした。「関東軍が逃げやがった」と激怒して帰宅した父は、自力で何とかするしか・・・と自衛の策を覚悟したようです。
国が笛や太鼓で満州行きを薦める遥か前、明治の末に単身大陸に渡って各地を遍歴した父(お蔭で我が家の兄弟は皆転々と違った場所での出生)は、中国人の友人達に事欠きませんでした。恐らく彼ら、まもなく逆転して戦勝国民となった友人達からの情報が、我が家の「幸運」に欠かせないものだったのでは?とは後に姉達と語り合ったことです。いつの場合も、自分の身を守るのは自分でしかない。(始末が悪いのは、軍隊は、いざという時に守ってくれるもの、と信じていた・・・私達は何回、「お国のために戦った、兵隊さんよ、ありがとう」と歌わされ、これからもがんばって私達を守ってね、と祈って信じたことか、あるいは「国体護持」の為に、国民たるものすべからく協力せよと、国家は、命と物資の供出と飢餓を強要する。なのにいまだに、いざという時、アメリカさんが守ってくれるから、と「安全保障同盟」を盾にしようとする不思議。自国がしないことを一体よその国がしてくれるの?)

 こうしてもっとも安全な筈だった満州の在留民は、情報のない不安な大海原に、行くべき進路も不明のまま放り出されたようでした。大人達が、「祖国」を、どう思っていたのか祖国の実態を知らない私には分かるすべもありませんでした。

変わりなき満州平野に今日も落つ赤い夕陽のゆくえもしれず

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