『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(17)**<2005.11. Vol.38>

2006年01月14日 | 熊野より

三橋雅子

<こうして友人が増える> 

その一 裸で始まる付き合い

 雨に閉じ込められていると、全く人に会うこともない。帰省していた息子が「あっ、三日ぶりに人間見た!」と叫んだ。と言っても川向こうに、小止みになった雨のけぶる中、朧に人影が見えるだけ。あれはきっと隣のアンちゃん。

 お風呂は唯一、人間に会い、しゃべり、お湯に漬かっているだけでも情報が耳に入る場所である。しかし、夏は、暑くて畑に出る気がしない日中、冬も日が落ちかかると急に冷えてくるその前に、となると終始たった一人で広い湯船を満喫することになって、おしゃべりとは無縁、番台のおっちゃんに顔パスの挨拶をするくらいである。それでもどうしてこんなに知り合いが増えるのだろう。ここへ来てからの住所録は滅多に追加はあるまいと、従来のまま片隅に和歌山版を作っておいたら、たちまち溢れてしまった。

 まだ合併前、この小さな町の小さな講演会に行った。かの大逆事件に関わる冤罪の犠牲になった、地元出身、成石兄弟の汚名を晴らす会という。寺の和尚が石川啄木の興味深い手紙などを細々と引用して熱っぽく語った。会ったような気のする人が遠目に見えた。先方も気になったらしく、会釈をしてくる。「どこかで会ったよねえ」「ええそんな気が…」「どこだったかねえ」「うーん、どこだったかしら」我ながら気の利かない、頼りない応答だとは思うが、相手はこちらより若い。どうやらこちらの認知力が怪しくなってきたわけでもないらしい、と少し安心しながら記憶を辿る。「そうそう、お風呂、お風呂だ!」

 殆ど同時に両方から叫んで、思わず笑ってしまった。お互い相手の裸を思い返すことになる、少し照れくさい笑い。思えば、赤が似合う人だったとか、素敵なスラックス、とかいう、服を着た姿が思い浮かばないというのは、かなりの情報不足なのだということに気付く。ほんとに、生身の裸身しか頼るものがないのだ。

 お餅つきに声が掛かり、文字通り昔取った杵柄に腕を鳴らそうと張り切る連れ合い。「わあー、お久しぶり!」と抱きついてきた若い女性、そのプリンプリンの弾む肉体に圧倒され「はて?どなただったか?」と、怪訝な顔をする私に「お風呂、お風呂、私の身の上話を聞いてくれたじゃない!」にたちまち目の前の長ーい髪をざんぶざんぶと洗っていた姿と、見事なグラマー振りを思い出した。しかしその姿は大分楚々として、かのグラマーぶりはうかがえない。「少し痩せたのかしら?」「いいえ、ちっとも変らずよ」「そうかなあ、じゃあ着痩せするんだ、ずい分と。」

 私があまり納得の行かぬ顔でじろじろ見つめるので、やり取りを聞いていた男性群がニヤニヤし始める。どうも裸の付き合いから始まると、文明の衣服を纏われると戸惑ってしまう。そして顔の印象というのは、意外と薄いことに気付く。

 初対面の時彼女は、いきなり「Iターン組?」と訊いて来た。「そうだけど、どうして?」「臭いで分かる」に、お風呂でにおいとは老臭?とどきっとしたものだ。彼女は離婚して一人ふらりとやって来て住み着いたという。熊野は、過去を振り切って、山を見つめながら己の生き先を問うのに適しているのだろうか。ここは夫婦で住みつくより、こういう手合いの方が多い。夫婦ものは、先ずは奥さんが猛反対で付いてこないそうで、男性も大抵一人身である。己が「理想」を貫くのに伴侶の希望や願いを振り捨ててきたという、これもまた傷を待つ身であるのかもしれない。私が「奥さんは偉いねえ」とよく言われるのも道理なのか、でも私には別に我慢も妥協もないから面映い。私を知る知人からは「よくご主人が納得したわね」と言われ、夫の実家では「あまり我慢しないで、彼の我儘に付き合うのもええ加減にしいよ」と諭されるので苦笑してしまう。当地への移住に関して、夫婦の間には何の異論も議論もなかったから、我々二人が一致するのは、この終の棲家に寄せる想いの一点だけかもしれない、とまた苦笑の上塗り。それよりも、かすがいを全部なくして丸腰になってしまった今、三十数年ぶりに向きあう正味「二人きり」の関係を見直したり、修復(?)したりの作業を迫られる方がしんどいことかも知れない。それも、街の喧騒の中で雑音にかき消されたり薄められたりする機会もなく、神の国とか黄泉の国ともいわれる熊野権現のただなか、ただ杉と檜に囲まれて否応なし二人きりで向き合うすべしかないのは…かなりしんどいことかも。

 もう一人の中年の女友達は、まだ離婚には至っていない別居中に、ここで温泉宿の仲居さんをしながら身の振り方を考えている、と言い、まもなく決着をつける決心が付いた、としばらく留守をしていたが、やがて晴れて一人身になりました、と晴れ晴れとした顔で戻ってきた。自分の思いの決着だけで身の振り方を決められるのは、つくづくいい時代になったものだと思う、と思わず言うと、彼女は怪訝な顔をした。私と同世代の友達はかつて離婚の際、何事にも屈託がない「新しい女性」だったのに、「私、とんだ事しちゃったの」と、声をひそめてそっと打ち明けたものである。自分自身の傷以上に、世間の非難がましい目はまだまだ厳しかった。私は「離婚は女の勲章みたいなもの、と思って、胸張って歩けば?」と慰めたものだ。「私を見てご覧なさいよ、三十路半ばも過ぎて、まだ一度も結婚してない方がよっぽどしょぼくれてるわよ」なんて、今で言う「負け犬」は言ったものだ。「ハイミス」に向けられる世間の風当たりもまた強かった。子供を生まない嫁へのまなざしも厳しいものだったに違いない。当世の「負け犬」は多分に自嘲的な、屈折した心理も垣間見えるものの、そこには自立している女の、なまじの分の悪い結婚でキャリアウーマンの栄光をみすみす反故にするわけにはいかないという矜持が見え障れするように思える。己との対決だけで人生を選択できる、いい世の中になったものである。

 杉青きままに熊野の秋深む

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