『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』友情**<2006.1. Vol.39>

2006年01月14日 | 砂場 徹

友情

みちと環境の会 砂場 徹

 本格的な冬がやってきて、赤、黄色と鮮やかだった公園の紅葉もいつのまにか元の立木にかえってしまった。

 そんなある朝、市営住宅のおばさんたちが「Aさんの家にゆうベホームレスが泊まったらしい」と騒ぎだした。空き缶を集めた大袋を積んだ自転車が住宅の入り口に置かれているのだから証拠は歴然だ。そのとおリホームレスがAさんの家に泊まったのは確かだ。次の日も空き缶を積んだ自転車が置いてあった。騒ぎはもっと大きくなった。「棟長は話にならんからSさん(連合自治会長)に言いに行こう」とか。この人たちはなぜか直接会って話そうとはしないのだ。それにしても大半のひとは無関心か、無関心をよそおっているのが気になる。

 私は腹をたてていた。「友達のホームレスが泊まったらなぜいかんのや。ホームレスを友達にしてはいけない法律でもあるのか。あんた達は高級車に乗ってパリッとしたスーツを着た紳士がAさんのところに泊まっても同じように騒ぐのか」と。それをどこで、いつぶつけてやろうかと躊躇しているまに2、3日つづいたこの事件は消えてしまった。Aさんとホームレスは、黙って合宿をやめたのだ。

 ホームレスのおっちゃんの長いあいだの「住みか」は、近くの新幹線の線路下にある公園のベンチを借用したひと隅だ。この公園は私の家から見える紅葉が映える大きい公園とは別の、ブランコが二つと滑り台が一つと、形だけの砂場しかない公園である。ここで遊ぶ子供を見かけることは殆どない。これまでにもホームレスを排除するために市役所に苦情を持ち込んだ人は居るようだが、市の係は「見物」には来るが何も変わらないそうだ。今の行政の力ではどうにもしようがないのだ。ホームレスの存在をこの広い地域の人達がどのように思っているかは定かではないが、善くも悪しくも長年の実績である。

 この「住みか」、夏は快適だがテントを張っているわけでもなし、何かで囲いをしているわけでもないので冬はとても人の住めるところではない。防寒の敷物を敷いてボロくずのような毛布と布団を何枚も纏っている、その小さいかたまりの側を通るたびに私は目を伏せてしまう。今、この宿は雑品を残したまま夜は無人だ。おっちゃんは、どこか、よりましな所に居るのだろう。

 生活保護のAさんは60歳前後だろうが、足に重度の障害がある。この人は、元は理髪師で自分の店を持っていた。だが、母親が亡くなって人が変わったようになった。とうとう奥さんが家を出てしまった。そのうちに難病にかかって理髪の仕事も出来なくなり、いまは生活保護を受ける身だ。

 高架下の公園は、杖をついてヨタヨタと歩くAさんの運動コースの一つの目標で、ベンチがゴール地点だ。そのうちにホームレスのおっちゃんと二人でそのベンチでコップ酒を呑むのを見かけるようになった。Aさんは健康な頃は大の酒好きで仕事を終わると必ず寄る店があった。元気だった頃のAさんを思い出して私はその姿を微笑ましく思っていた。だがそれを決く思わない人がいた。彼、彼女らは「あの二人昼間から酒を呑んどる」「生活保護のくせに酒のんどる」と怒っているのだ。Aさんの家にホームレスが泊まったといって騒ぎをつくりだしたのはこの人たちだ。

 小泉内閣は徹底した金持ち優遇である。取りやすいところから税金を引き上げ、そのうえ生活保護費は削減した。この露骨な庶民いじめはなんだろう。この国の大臣たちにとっては低所得者の生活状態などに関心を持つこと自体、政治ではないのだ。彼らにとってゴミのような存在であるこの人たちの生活再建にカネをかけるはずはない。

 地方自治体にそれを埋める力はない。尼崎市にはホームレスを収容する施設とかその他の対策のための規則などもない。市内のテントの数は増える一方だ。

 小泉は所得差拡大を防ぐことに力を入れるどころか、所得差拡大を強引に進めている。このときに、低所得者の集合住宅で、生活保護者が差別視されホームレスが排斥されている。最も団結しなくてはならない、最も団結できる条件下にあるところでの出来事である。

 地方自治体の多くが、予算がないからと着工を見合わせていた道路、ダムなどの公共事業が動きはじめている。第二東名道路の建設も現実のものになろうとしている。自治体の陳情に、細かい地域的改良が必ずある。各種の委員会がこれに対処するのだが、ほとんどが地域ボスと議員と行政の合意で処理される。ゴタゴタは大から小まで、質もさまざまだが、市民には分からない。また知ろうとしない。「〇〇先生がやって下さった」だけが残る。ホームレスのことなど問題にもならないのも、このような風潮のなかで流されてしまっているのだ。つまり主人公は議員先生なのだ。

 国政次元の問題で、正義と公平を失いつつある現実にメスをいれねばならないという声が上がりはじめている。それに比べると、街の片隅で不正義、不公平を正そうとする市民の声は小さい。戦争を防ぐ闘いもホームレスや生活保護者が「人として」生きるための万策を尽くすのも一つの問題ではないだろうか。団結。足元をもっと見つめねばと思う。

 そう言う私はどうも尻のすわり具合が悪い。ホームレス排斥の動きを見過ごしたのだから。今年1年、恥多き人生だが、最後にチクりと痛い悔いを残してしまった。

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『みちしるべ』気になる「愛国心」**<2005.11. Vol.38>

2006年01月13日 | 砂場 徹

気になる「愛国心」

みちと環境の会 砂場 徹

 最近、「愛国心」という活字を新聞紙上で見かけるようになった。なんということだ、なぜだ。「愛国心」といえば私がすぐ思い浮かべるのは「忠君愛国」の四文字である。60年前の敗戦までこの四つの文字は国民の最高の規範であった。「愛国行進曲」「愛国婦人会」「国防婦人会」「大政翼賛会」などはその精神でつくられ、戦争遂行のための国民総動員のための組織であった。これらはまた完全に軍が掌握した宣伝機構と一体となって「敵に勝つ」ための文化を推進する組織の代表的なものであった。

 軍隊では「忠君愛国」がすべてであり、この精神の欠如を理由にどれほど殴られたことか。「忠君愛国」の君は天皇のことである。「愛国」と「君に忠」とを一つにして、そのためには一命(いのち)をも惜しまない。すなわち国のために死ぬのは当然で最も名誉な行為だというのだ。60年前の戦中にはこの思想が強制されたのである。それが「愛国心」の正体だったのだ。これは単なる標語ではなかった。日本国民に本当にそう決意することを強要されたのだった。いま考えると、そんなことホント?と言う人が多いと思うがそれが事実だったのだ。では当時の日本国民はみな思考能力を失った愚者ばかりだったのか。そうではない。それなのになぜあの残虐な侵略戦争遂行の主体になってしまったのか考えさせられる。

 私は目下のところ国を愛する心などない。国というものは愛するとか愛さないとかの対象になるのか。シベリア捕虜当時懐かしかったのは故郷であって、それには生活と人や風景という具体的対象があった。自分の国は好きだ、だがそれは愛国というものとは違うことはいうまでもない。仮に国を愛するという思考が有り得るとしても、私は何一つ愛された覚えのない国を愛することはない。忠君愛国の時代は天皇を愛することは絶対で、愛さないなどあり得なかったのだ。

 最近、自民党新憲法起草委員会が作成している党憲法改正草案の前文の素案に「国を愛する国民の努力によって国の独立を守る」と明記されることが明らかになった。60年前に国際的な制裁を受け、誤りを認め再ぴ同じことを繰り返さないことを約束した国が、間違いを犯した時代の侵略戦争遂行のための国民統合の中心思想であったものをそのまま再び持ち出して、世界に誇りうる日本国憲法の前文に入れようとするのだからなんという破廉恥なことをするのだ。実におそろしいことだ。

 国を愛する国民の努力と、独立を守るとはなにでつながるのか。簡単明瞭「戦争」だ。戦争中の日本では「戦争反対」というだけで監獄にほうり込まれ非国民といって非難された。再びそのようなことが有り得るのか。ないとはいえないのではないか。

 日の丸、君が代の強制が思想信条の自由を侵すものであることは論をまたないが、自民党がめざす憲法改正が実現すればいまにまさる強制が行われることは明らかである。元来、人間は集団生活を維持するための「公共の仕事」にたずさわる労働力が必要であり、そのための組織は様々な変遷を経て今日にいたっている。一番身近にあるのが、地方自治体であろう。国の性格もまた地方自治を基礎とした人間の協働のための公共の機関であり、統治の機関ではない。国は主人である国民を愛する義務があって、その逆ではないのである。

 愛国の名において中国、韓国、その他アジアの国々でなにをしてきたのか。わたしたちは忘れてはならない。中国、韓国などアジアの国々が首相の靖国神社参拝に強く反対するのは日本という国がいま指向するような事態をおそれるからだ。これらの国々の強い反対の意志表明にもかかわらず、靖国参拝を強行する小泉の態度に強い危機を感じ取るのは当然である。これは被害者の嗅覚であり、正しい。近隣の国々がこのように心配しているわりに、日本人は鈍感ではないのか。「愛国心」とかそれで独立を守るとか、過去にその名によって犯した国家犯罪について政治家たちはどのような認識をもっているのだろうか。憲法にこのような文言を入れることを主張する人達は反省などかなぐり捨てたのか、もとから反省などしていないのに違いない。

 近年、国際競技などで気になることがある。ある特定の種目に顕著なのだが、選手が負けては泣き、勝っては泣き見ている方がしらけてしまうことがある。ガッツポーズもよいが、ほどほどにしろよと言いたいような人もいる。私はそれが選手個人の勝ちたいという気持の現れであることと理解するが、勝ちたい勝たねばならないという一心でこの固まったその選手の気持は不幸なことではないか。本来の趣旨である平和・友好の関係の強化が忘れさられているのではないかと危惧するのだ。

 競争で選手同士の関係が対立的になるとは思わない。むしろ一体感ができるのではないだろうか。だが、これが国家間のこととなると過度の競争意識はナショナリズムの昂揚とあわせて憂慮すべき内容を含んでいると思うのだ。スポーツを競うということは国と国とが競うことなのだろうか。競争そのものは自然な行為であるが、かつてナチスがベルリンオリンピックを国威昂揚に最大限利用したような不純な要素を感じるのである。

 選手たちは自分の技を磨き、一歩でも前進するために厳しい訓練を自分に課し、奮闘しているのである。この真摯な努力を国の利益に収斂させることは許せない。世界の平和・諸民族の融和というオリンピック精神の原点に立ち返りたいものである。

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『みちしるべ』憂鬱な夏**<2004.9. Vol.31>

2006年01月12日 | 砂場 徹

憂鬱な夏

尼崎市 砂場 徹

 今年のような天候を異常気象というのだろうか。ここ阪神地方では梅雨らしい日は少なかったし、例年台風が近畿を直撃するのは夏の終わりから秋にかけてであって、今年のように夏の初めというのは珍しい。新潟など東北地方が大雨で水害の大被害を受けたばかりなのに、今度は四国で記録破りの集中豪雨の被害が大きく報じられている。犠牲者も多く出ている。

 この天候不順を地球温暖化の進行による異常気象だと断定はできないが、アメリカ、ヨーロッパなど、世界中が大荒れなのを見ると無関係とは言い切れないのではないか。

 今年が京都議定書の第一約束期間の最後の年で、政府の「地球温暖化対策推進大綱」の見直しの年にあたる。これまでの地球温暖化ガスの削減状態を見ると、日本の「京都議定書」での公約は08年から12年までの間に90年レベルから6%削減するのだが、(温室効果ガスの九割以上は二酸化炭素C0である)環境省の試算によると、2010年の日本のC0の排出量は1990年時点と比べて4%も増加するという。減らないどころか増えてしまうというのだ。このままでは公約は守れない。京都議定書を締結したCOP3のホスト国として恥ずかしいことだ。

 地球温暖化防止のために温室効果ガスを減らすことは、一国の利害を越えた最重要課題であるはずだ。ロシアの批准が遅れて「京都議定書」はまだ発効していないが、公約を果たさなくてもよいというわけではない。しかし、アメリカは「京都議定書」から離脱をほのめかしており、日本でも「削減義務をもつ国は世界の排出量の三分の一しかない」「途上国に削減義務がない」「排出量の義務化は政府のコントロールの範囲を越える」などの「議定書否定論」が出ている。

 地球を壊してはならないという主張に反論する人はいない。しかし具体的な行動となると「自分だけが我慢するのは損だ」ということになる。途上国が「京都議定書」に浚巡するのは無理からぬ点もあるが、主要排出国の否定論は「産業の発展を阻害する」という実質的に温暖化放置論である。とくにC0炭素排出量一位アメリカ24.4% 二位中国12.1% 三位ロシア6.2% 四位日本5.2%など、主要排出国が削減に消極的であっては前途は暗い。

 日本では温暖化ガスが家庭部門で10年までに21%も増えるという。対策は国民がエネルギー浪費型の暮らしを改めることが基本であることはいうまでもないが、「競争に負けるから」ということを理由に、いとも簡単に労働者のクビを切り、削減の実行に不熱心な経営者陣の主導権のもとで自己犠牲だけを押し付けられるのでは、国民は到底納得できないであろう。経済は上向きになったと小泉は言う。巨大銀行の合併交渉で3000億円の融資を認めるとか認めないとかが裁判まで含んで新聞紙面をにぎわしている。この巨大資本の競争の激化は庶民や中小経営者にとってなんの関係もない。百とか千単位の金で自殺者が出ているのだ。庶民の生活は不安が増しこそすれ何一つ良くなってはいない。

 最近、原油価格が1バレル49ドルと暴騰している。国民生活を圧迫することは間違いない。反面、笑いの上まらない面々が存在するのもまた事実である。この暴勝はイラクの不安定な国情を反映していることはもちろんだ。政権委譲が行われたがイラクは今もアメリカ占領軍の力による支配下にあり原油の生産、輸出はアメリカ資本が握っている。アメリカのイラク攻撃の真の目的が中東石油の支配であるという認識は戦争開始以来常識である。罪のないイラク民衆が殺戮され続けることを代償に莫大な利益がもたらされているといっても過言ではあるまい。

 ブッシュがイラクが大量破壊兵器を所有するという虚偽の情報を流して世界の人々を偽り侵略戦争をはじめたことは今や明らかになった。「戦争の大義」などもともと無いのだ。最近、アメリカの大新聞ワシントン・ポストとニューヨーク・タイムスの二社が、イラクの大量破壊兵器所有をめぐる報道で、ブッシュのイラク戦争突入を後押しするがごとき報道をしたことを自己批判したが、ブッシュは誤りと認めない。イラク人民の数知れぬ殺戮とともに巨大な利益が保証される既成事実が成立しているのだ。

 異常気象は困る。戦争も止めるべきだ。どちらも有ってはならない出来事であるが、一方は人間に責任のない自然現象で、片方は人間の行為であるかのように見える。だが、果たしてそうだろうか。根っこのところでは繋がっているよう私には思えるのだが。

 あたかも「善」を追求するかのごとき、資本のあくなき欲望にどのように立ち向かうのか。なにかの専門家と政治屋にまかせてはおけないことだけは明らかである。

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『みちしるべ』雑感「この道をゆこう」**<2004.7. Vol.30>

2006年01月11日 | 砂場 徹

雑感「この道をゆこう」

尼崎市 砂場徹

 「みちしるべ」の30号を記念する集会を催すことになりました。たいへん嬉しい。阪神間道路問題ネットワークはいつのまにか9年も経ったのですね。「みちしるべ」はこのネットワークを見えない糸で支えてくれました。それらのことは誰か他の方がふれて下さるでしょうから、私はその母体のことに触れようと思います。書きたいことがいっぱいあるようで、いざとなるとなにか象徴的な出来事があったわけでもないし、戸惑っています。そこで会が発足して8年半もの長い間、毎月例会を続けてきたその原動力は何だろうか、私自身不思議だったこのことから振り返って見ることにします。

 各地の組織のあり方や活動の内容は様々です。西宮の「山手幹線」のような激しい闘いをやりぬいたところ。尼崎の阪神間南北線の建設に反対して計画を中断に追い込んだのち、地域に密着した環境を守る運動を続けている組織。「山幹」の最後に残った区域で環境を破壊する道路は許さないための活動を続けておられる芦屋の方々。第二名神の工事の停滞でその闘いは中断しているが、本来の活動であった自然に親しむ分厚い活動をますます元気に続けている川西の方々。美しい水源池を汚す恐れのある高速道路の建設に手直しを求めて長期にわたった交渉の末、一定の成果をあげ、今は小康状態といった西宮北部の組織。その他個人の参加もたくさんおられます。この人達は「環境を破壊することは許さない」「行政はもっと誠意をもって話し合いに応じよ」ということでは一致していますが、他はそれぞれ特色ある活動をして来ました。その間、交渉の相手がそれぞれ阪神間の各市と兵庫県であることが一致していました。これらの事情からそれぞれの状況を報告しあい、意見の交換をすることは大変役立ちました。道路関連の闘いの傾向として地域住民が道路建設の計画に反対、あるいは部分的手直しを要求する行政との交渉は、労苦のわりに成果は少なく、部分的成果を得て交渉は決着します。道路はほぼ計画どおりに出来上がり熱心に闘った人々は居らなくなってしまって闘いの跡形は無くなりむなしい思いをするのは珍しくないようです。その中で、地域の人々の福祉活動の拠点になるものを獲得したり、行政から環境に関するデーターを継続して入手できる関係を維持している方々があります。特筆すべき成果です。

 なぜこのネットワークが続いているのか。私には楽しかったことばかり思い出されるのです。川西の春の野草を食べる会、初冬の芋煮会、ホタル鑑賞、夕暮れの水辺の飲み会など。「山幹」の武庫川の決戦跡でのバーベキュー。北六甲台の〇〇湖の月見会。芦屋、夙川の桜。などなど楽しい思い出です。こうしてみると酒にまつわることばかりのように見えますが、決してそれだけで団結が続いたわけではありません。ちゃんと勉強会もしました。(数多くではありませんが)「みちじるべ」に連載された藤井さんの道路に関する理論はまちがいなく皆よく読み?勉強になりました。例会が続いてきた理由の一つに、私たちは思想、信条にかかわりなく要求で団結することを心掛けて来たことがあると思います。そして、すべての決定は例会で行うことを実行しました。そして、考え方としては「主人公は私たちだ」「決めるのは自分たちだ」という考えで一致してきました。例会は欠かすことなく開かれましたが運動には意見の違いは当然です。でも、誰に遠慮する必要もなく、皆自由に語り合い、激論あり爆笑あり、直接関係のないことでも提起があればなんでも話し合いました。つまり例会は何でも在りなのです。

 私たちはどこででも、行政に民主主義的なあり方を要求し、ないがしろにすれば断固闘ってきました。同時に私たち自身も不十分ですがそれを心掛けてきました。結果的に意図せずに、端っこであれ民主主義の大道を歩んでこれました。地域に民主主義を定着させるうえで、いくらかの貢献をしてきたのではないでしょうか。もう一つ大事なことを落とすところでしたが、私たちの団結を助けてくれたのは行政と県ではないだろうか。あのずる賢く、横柄で、ひとかけらの情けもない強力なケンカ相手がいなかったらこれだけ団結が続いただろうか。思い出される顔、顔。あの人たちに感謝しよう?。

 さて、私は思うのですが本来、住民と地方自治体の間で「闘い」とか「勝った、負けた」という言葉を使うのは変なことです。そしてそれは不毛の対立です。なのに私たちの経験ではそういう言葉が、状況を最も適切に表現しており、交渉を重ねるにつれそれらが次第に支配的ムードになっていくという経験をしています、なぜなのか、行政は一旦決めた計画を住民の要求で変更することなど、権威にかかわる恥ずかしいことと考えているようです。これは本末転倒、時代遅れの支配者意識の現れといえましょう。

 また、地域住民の具体的な要求について交渉に入るまでがいかに困難なことか。入口でつかえて本題に入れないのです。要望書を持って面会を求めると「反対の団体とは会わない」と拒否されたり、「住民は知らないのだからもっと説明会を開いて欲しい」という要求に「すでに説明は済んだ」と言い張る。社会福祉協議会の幹部や地域ボスを集めての説明で済まそうというのです。また「事業計画の説明ではなく、なぜそれが必要なのか説明してほしい」という要求に対して応じない。このような自治体の対応は誰もが経験しました。このあたりから住民の「声」には怒りがこもってきて対立ムードになるのです。

 やっと本題に入っても行政の不誠実な態度が住民の願いを逆撫でします。「なんとしても作ってしまえ」という方針はカネを握る国を筆頭に下まで徹底し、例外なく国会議員が利益誘導で「えさ」をとってきて活躍する。それに群がるカネの亡者どもが結束して地元に金が落ちるほうを選ぶ。住民団体とまともに議論をせず、時間切れを理由に工事に強行着手し衝突する。こうして事態が物理的対立になるのではないでしょうか。

 このような不毛の「闘い」を私たちは喜ばない。この段階で行政の姿勢が重要に問われるのですが、乱暴な自治体が多いのが実際です。阪神淡路大震災でまちには未だ粉塵が収まっていない時に、突然測量隊が入ってくる。これは一例であるが事実です。問答無用で強行する行政に対し、抵抗を余儀なくされて住民は必死の思いで座り込みなどで抵抗する。それに対して行政は警備会社から多数の警備員を雇い、加えて役所の他の部署の職員を仕事から外して市民の弾圧に動員する。警察と共謀して参加者の写真を撮りまくる。果ては一団体一回の座り込みに30万円の罰金をかけることを裁判所に申し立てる。こうして運動に圧力をかける。これが行政の住民団体への対応の一例です。これはもう住民の要求は弾圧し、運動も出来ないようにすることが目的と言わねばなりません。この権力を剥き出しにした建設強行勢力の姿は民主主義の破壊者が誰であるのかを描きだしています。

 今国会で、私たちが大きい関心をもって注視してきた道路4公団の民営化法案が目立った攻防もなく成立しました。なんだかんだといって整備計画に盛り込まれた高速道路はみんな作れる仕組みです。高速道路の建設に歯止めを掛けるどころか推進する体勢を整えたのです。国の指揮権が公団時代と同様に温存されることになり、不採算道路の建設に歯止めはかからない。民営化することによって無駄な道路を作らないとした当初の目的はどこかえ吹っ飛び、「約束した道路は採算性など論外の道路でも国の道路財源(税金)をつぎこんででもみな完成する」という道路族の執念が勝ちました。総額44兆円の債務を4、5年で返済し、高速道路は全部無料開放するという計画は夢のまた夢です。

 整備新幹線3区間を新規着工することも決定した。将来の予算をあてにとにかく着工してしまえ、というわけです。建設費あわせて1兆2千億円近い、国も地方も財政は大赤字なのに。あまりにも国民をバカにしています。

 もっと気掛かりなことは、小泉首相が憲法を改悪して9条の平和精神を、戦争をする憲法に変えることを公言していることです。それを先取りして自衛隊の多国籍軍への参加を勝手に決めてしまいました。あの悲惨な戦争に参加するために。

 年金問題も私たちののど首をしめています。これだけ国民の不安が高まっているのに、議論を尽くさないで、弱小野党の権利を奪ってまで強行採決してしまう無謀ぶり、これがファシズムでなくて何でしょう。小泉には国民生活の破綻などなんの関心もないことが明らかです。ただアメリカの尻にくっついて日本を軍事大国化の道に無理やり引きずり込むことに必死です。こう見てくると、今の世の中はなんと憂鬱なことか。ほんとにイヤになります。折しも、でたらめ運営の国会が終わり参議院選挙の最中です。日本の国の行方がどうなるか、大きな変わり目に差しかかっているように思えます。

 私たちはこれまで通り、結束して楽しく、ときに勉強して活動してゆこうではありませんか。私は皆さんと共にこの道を歩めることを切に念願します。

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『みちしるべ』自己責任**<2004.5. Vol.29>

2006年01月11日 | 砂場 徹

自己責任

みちと環境の会 砂場 徹

 この頃、なんとも不愉快な言葉は「自己責任」「自業自得」論である。

 「それでもイラクの人が嫌いになれないのです」。高遠奈穂子さんたち3人が解放されたとき、高遠さんが涙につまりながら語った言葉だ。ストリートチルドレンと共に暮らし子供たちに慕われていた彼女の心情を吐露するこの珠玉のような言葉に対し、小泉首相は記者会見で「これだけ多くの人が救出に寝食を忘れているのに、なおかつそういうこと(イラクに残りたい)を言うんですからね。自覚を持ってもらいたい」。こう語った。一人の人間としても、まして在外自国民の保護を国家の基本的責務とする一国の首相としても許すことの出来ない暴言である。当初、3人の家族たちが「自衛隊の撤退も視野に入れてほしい」と発言したことに与党や読売、産経などが「自己責任」をもちだし劣情に満ちた人々を扇動した。このときから被拉致者と家族に対するバッシングが始まった。自民党参議院議員のひとりは「自衛隊のイラク派遣に公然と反対しているらしい、もしそうならそんな反政府、反日的分子のために血税を使うのは……」と公言した。反体制的な被害者は救うに値しない悪い被害者であるというのだ。それにしても「反日的」とは、この人物の頭はただ古いというだけなのか、そら恐ろしい。

 ここで一言ふれておきたい。すでに明らかになっていることだが、小泉の言う「これだけ多くの人が……寝食を忘れて……」とは、誰が寝食を忘れたか、忘れて何をしたのかと言いたい。今度の人質事件の特徴は、被拉致者がイラクの人のために働いていたことを知ったレジスタンス勢力がこの人たちを解放したことだ。そしてこれを先方に分からしたのは日本国内のNGOの仲間と現地の人々の連携によるものである。小泉のやったことは素早く自衛隊の撤退拒否を声明するとともにアメリカ軍に「お願い」しただけだ。解放には全く係わっていない。元来、自衛隊がアメリカ軍支援のためにイラクに行かなければ親日的で友好的だといわれるイラク人民が日本人に危害を加えようとするはずがない。人道支援と何も関係のない自衛隊の存在が人道支援を継続してきた人々を危険にさらすことになったのだ。

 イラク人民のアメリカ占領軍に対する抵抗闘争はいっそう強まるであろう。ブッシュはベトナム化を避けようとするならば、アメリカ軍の全面撤退以外に道はない。アメリカの尻馬に乗ってきた小泉はそのときどうするのだろう。

 自業自得論は、自衛隊が攻撃されたときに、また小泉が返答につまるときにあてはまる概念である。

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『みちしるべ』重みを増す私たちの理念**<2004.1. Vol.27>

2006年01月10日 | 砂場 徹

重みを増す私たちの理念

代表世話人 砂場 徹

 過ぎた一年は、よく語りよく議諭しました。仲間も増えました。それはそれぞれの組織・個人の個性と独自性を尊重する自由な結集であり、開かれた組織でありたいという皆の思いを実践する土壌でもありました。

 この間の活動は、これまでの主として高速道路建設のもたらす諸問題を課題としたものから、諸組織が担う課題の多様性に対応するものへと変化しました。しかし活動の基本はこれまでの10年間と同様、道路公害阻止を柱として生活と環境を守る地域の住民が主体であることに変わりはありません。

 道路建設が完了した地域では、その後の環境調査や新しく起きる問題について住民の声を結集して行政と話合ったり、福祉活動などを続けています。その中で行政から環境情報の提供を受けています。またおろそかにされがちであった地方幹線道路や生活道路を「車優先から人間優先」に改修するよう行政と交渉したり、「まちつくり」について地域住民の声を聞く活動も始まりました。新たな地域からのネットワークヘの参加を得て、県道の拡幅工事では全線の共闘が可能になりました。NOのカプセル調査も複数の地域で継続して行われ、次第にデーターとしての評価を高めています。

 建設事業が継続している地域では、従来と変わらぬ苦労がつづいていますが、広範な人々の理解を得るうえで、見解の異なる人々と連携する課題で私たちのいっそうの習熟の必要を自覚しました。

 「参画と協働」路線は、その後の実際から、建設推進勢力が戦術を変えただけではないのかという疑念が払拭される状態には至っていません。

 私たちの活動を支える理念は憲法を拠りどころにしていることはいうまでもありません。とりわけ「不戦非武装」「主権在民」「基本的人権」の二原則です。私たちが貫いてきた「主人公は住民だ」「決めるのはわれわれだ」の実践もここに根拠を置き、地域に民主主義を蓄積するうえでいささかの貢献をしつつ、同時に私たちの自己研鑽の場でした。ところが、このような努力を無にするような、或いはこのような活動が困難になるおそれのある事態がこの一年間に、急速に進行しました。小泉内閣による自衛隊のイラク派兵です。戦争が民主主義も人権も抹殺することを私たちは、自身が歩んだ歴史で知っています。

 小泉首相は昨年の末に航空自衛隊の先遣隊をクエートに派遣しました。本隊は一月下旬に、陸自、海自は二月に派遣されます。首相は「戦争にいくのではない」「復興支援にいくのだ」というがそれは詭弁です。殺されるかもしれない、イラクの人々を殺すかもしれない事態を想定して、武装した軍隊を他国に送り込むこと自体明らかな憲法違反ですし、イラクの人々のアメリカ占領軍に対するゲリラ戦に拍車をかけることにもなりかねません。小泉内閣は平和主義を通してきた日本の戦後史を塗り替える危険な道に私たちを引きずり込みました。

 他方内政では、「自民党をぶっ壊し」てでも遂行するはずの「小泉改革」は反対勢力に食い荒らされ、ことごとくしぼんでしまいました。「サラリーマンの厚生年金保険料引き上げ」「高齢者への課税を強化」「生活保護費の引き下げ」など、この内閣の弱者に負担を増大し大企業に優しい体質を露呈しました。老後の不安はますます強まりました。それにもかかわらず赤字国債の発行は過去最大で、国民一人当たりの借金は563万円にのぼっています。

 しぼんでしまった「小泉改革」の典型が道路公国民営化です。優先させる筈だった公団が抱える40兆円の借金返済はうやむやにされ、新規の道路建設に歯止めをかけるはずだった整備計画は、族議員の抵抗で「国民に約束した9342キロをスピードを落とすことなく、国の責任で実現していく(古賀氏)」ことになりました。これでは民営化の意味は全くありません。これから造る路線は採算性のいちじるしく悪い地域ばかりで、借金は確実に増えます。

 世界を見るとき、地球規模の環境破壊はとどまることなく進行しています。アメリカは「国益に反する」として京都議定書から脱退しました。先進国に二酸化炭素(CO)など温室効果ガスの削減を義務つけた京都議定書が発効すると日本は2008年~12年の間に1990年比で同ガスを6%削減しなくてはなりません。いまは、国益と日米の信頼関係とかのために無理な理由をつけてまで他国を武力攻撃しているときではありません。しかし、小泉内閣は越えてしまった一線をさらに突き進もうとするでしょう。「自衛隊を堂々と軍隊にする」ための憲法改悪の動きも強まっています。曲がりなりにも戦後守ってきた戦争をしない国是から、戦争する国に変えようとする政治環境が荒れ狂うことも空論ではありません。このような状況に私たちは置かれています。これは私たちの「平和・みどり」の理念とはおよそ相いれません。私たちはこれまでも、あきらめず、ねばり強く、団結を瞳のように大切にして活動してきました。これからの一年も同じように地域住民との連携を強め、活動していきましょう。それが平和のため、民主主義を強めるための闘いでもあることを私は確信します。

 今年も夢をふくらまし、大いに語りましょう。

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『みちしるべ』道路問題はどうなったのか**<2003.11. Vol.26>

2006年01月09日 | 砂場 徹

道路問題はどうなったのか

代表世話人 砂場 徹

 総選挙の投票日が近づいて、各政党がマニフェストを発表している。なぜ今マニフェストなのか、「絵に描いたモチ」という意味では従来の「公約」とどこが違うのかと思うのだが、それはさておき、小泉改革の重要な柱とされる道路公団改革はどうなっているのだろうか、振り返って見よう。

 選挙まぎわに日本道路公団の藤井総裁が解任された。石原国交相の辞任要求を、総裁が拒否し解任とならた。このドタバタ劇は小泉首相の選挙向けのパフォーマンスが石原国交相の不手際でこじれたものと大方は受け止めているが、結末が先に決まっている劇は見る者をしらけさせた。しかし、そこに高速道路が政治や利権の温床になってきた政官と公団の癒着ぶりを見るとき、笑ってすますことの出来ない深刻な問題を覗かせた劇でもあった。

 総裁解任の理由は、「債務超過の財政諸表の隠蔽疑惑」「公団改革に不適格」である。この処分に藤井総裁が不当として辞任を拒否した理由は、国交省や自民党と二人三脚で高速道路建設を進めてきたのに、どうして自分だけがこの時期にその責めを負って辞めなければならないか、という点にあるだろう。藤井総裁は石原国交相との話し合いの中で政治家のそれとわかるイニシァルをあげ、自分が泥をかぶったと語ったというが、この事実には重みがある。小泉首相は、藤井総裁をかばい続けた扇前国交相の責任を問わなかったばかりか、官僚と道蕗族の抵抗に手を焼く道路関係4公団民営化推進委員会をバックアップしなかった。これを見れば総裁の首をすげ替えたところで本当の道路公団改革ができないことは明らかだ。

 藤井総裁がちらつかせた政官と公団をめぐる構造こそ、メスを入れねばならない問題なのだ。道路公団改革の本質は官僚・族議員・土建業者の構造的な癒着を壊すことにある。この3者の強固な複合体によって無駄な公共事業が繰り返され国民の知らないところで税金が食い荒らされてきたのだ。道路が政治や利権の道具に使われてきたことは多くの国民が知っているが、具体的にどういう形でという話は残念ながら闇の中である。藤井総裁はその実態を明らかにすれば男があがると思うのだが、「墓場までもっていく」と、別の価値観で男をあげようとしているようだ。石原国交相はこれを調査し全貌を明らかにするのが責務ではないのか。当然、与野党道路族の責任を不問にしてはならない。

 昨年12月、道路関係4公団民営化推進委員会は、直前に辞任した今井敬委員長ら二人を除く5人の合意で、「建設は民営化会社が採算性から自主的に判断する」と高速道路のこれ以上の新規建設に歯止めをかける意見書を提出した。さらに、意見書は4公団が抱える40兆円の借金返済を最優先することや、道路資産の「民営化」、株式上場など、無駄な道路を造らせない仕掛けを盛り込んだが、石原国交相(当時は行革担当相)は「あんな異常事態で出された意見書は相手にできない」と早速疑問を表明し、その後の委員会には1度しか出席しなかった。その石原国交相は第二次小泉改造内閣の就任会見で「(高速道路整備計画の)9342キロは決まっている」と明言した。自民党道路族と国交省は整備計画の完成を譲る気はないのだ。その姿勢は03年度予算案でも貫かれ、高速道路関係は国土交通省と自民党道路族が描く「建設中の高速自動車道国道はすべて造る」というシナリオに沿って決まった。小泉首相は民営化推進委員会の意見を「基本的に尊重する」と繰り返しながら見て見ないふりをし、「意見書」の実行は危うい。小泉首相の肝入りで造られた道路関係4公団民営化推進委員会に早くも翳りがさした。

 03年8月、今後建設する高速道路の優先順位づけをめぐって推進委員会が、委員会の路線選定基準を採用するよう政府に求めていた問題で、国土交通省は委員会の要求を拒否した。道路公団改革で民営化が錦の御旗のようにいわれるのは、こうした政官の癒着や圧力を排除するのに民営化が一番合理的なシステムだからだ。だが、解任で民営化がすすんだわけではないし民営化がすべてではない。建設続行の民営化も建設しない民営化もあることが見えてきている。

 年明けの通常国会に国土交通省が提出する民営化の法案は、今後の道路公団を決定づける重要な位置を占めるが、03年9月明らかになったこの法案は道路4公団の民営化を「骨抜き」にし、高速道路の建設をこれまで通り続ける「宣言」といえるものである。推進委が最終報告をまとめる際、今井委員長の辞任につながる混乱を引き起こしたのは、「高速道路は国のものか」をめぐる対立だった。国交省や自民党道路族は民間会社に高速道路の保有を認めない考えだ。高速道路の所有が国にある限り建設の原資となる料金収入がコントロールできるから。国交省が提出を予定している法案のみでは、国土開発幹線自動車道建設会議(国幹会議)で高速道路の整備計画を決める仕組みは変わらず、民営化会社が建設を拒否する権限も与えられない。民営化会社が建設を判断するという推進委の理念とはほど遠い内容だ。また推進委は、道路資産を保有機構から10年後をめどに会社が買い取る「民有化」も打ち出した。しかし、国交省は高速道路を国のものと定めた「道路法」などについても改正する考えはなく、民間会社による買い取りは不可能になる。現在の公団方式は高速道路の建設終了後に通行料金で長期間にわたって借金を返済したうえで無料にする「償還主義」をとっている。推進委はこれが無駄な道路建設につながったとして借金返済を優先するよう求めたが、国交省案は償還主義を維持。これまで通り料金収入を建設に回す考えだ。

 これまで一般道路の建設に充てられてきた道路特定財源が、高速道路の償還費用などに回されるおそれはないのか。

 小泉首相の肝入りで設立された民営化推進委員会が提出した意見書は無視されている。石原国交相自身も意見書には拘束されないと公言しているし、首相も知らぬ顔。加えて、道路族と首相は自民党総裁選で手を結んだ。

 昨年12月に道路関係4公団民営化推進委員会が意見書を提出して以降の動きを大づかみに振り返った。このような経過のうえで、総選挙に臨む各党のマニフェストは要約次のようなものだ。

  • 自民党は、道路関係4公団を05年度から民営化、04年の通常国会に法案提出するとしている。だが、本四公団の道路の通行料金を半額程度にすることなど盛り込んだ道路関係4公団民営化推進委員会の意見については「基本的に尊重する」としているだけだ。日程を示しただけで、改革の具体的な姿は見えない。
  • 民主党は、3年以内に一部をのぞき団と日本道路公団の廃上。「高速道路の原則無料化」。
  • 公明党は「区間別の料金割引や夜間割引を4年間に200路線で展開」。
  • 共産党は新たな高速道路建設は凍結、料金を段階的に引き下げ将来無料化」など。
  • 社民党は新規路線の建設基準の見直しなどを主張。
  • 保守新党も道路公団民営化を掲げている。

 小泉首相は、民営化推進委員会の意見は基本的に尊重するというが、昨年12月の閣議決定では、「推進委の意見を基本的に尊重する」とされ「意見書」をとは特定していない。国交省幹部は「『意見』としたのは『意見書』に縛られないため。通行料金収入を新線建設に回す仕組はどんなことがあっても残る」と解説する。委員会が答申した「新会社は債務返済を優先し、採算のとれないものは造らない」という基本方針が守られるか、あやしい。自民党や国土交通省内では、民営化後も料金収入を建設費に充てる仕組を残し国の整備計画(総延長9342キロ)を完成させる方向で作業が進められているのは周知の事実だ。問題は道路建設への政治家や官僚の関与を排除し、不採算な高速道路津設を不可能にすることが出来るかどうかである。

 民営化の理由や民営化会社の目指すべき姿を示さず担当相に丸投げしてきた小泉首相の政治手法は問題ありだ。もう、メディア受けを狙った「改革ごっこ」に終止符を打たねばならない。首相の指導力が問われている。

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『みちしるべ』原爆の日に思う**<2003.9. Vol.25>

2006年01月09日 | 砂場 徹

原爆の日に思う

代表世話人 砂場 徹

 8月の初め、久しぶりに原爆展を見た。一面の火の海の中、焼けただれた皮膚をぶら下げてさまよう人々の群れ。水を求めて川原に折り重なる死者。天を睨み手を突き上げた黒こげの死体。コンクリートの壁に今も残る光線を浴びた人影。放射能が次代の肉体を破壊した姿などなど。思わず顔をそむけたくなるヒロシマ・ナガサキの被爆の惨状に、昔はじめてこれを見たときと変わらぬ強い衝撃だった。

 原爆展の会場に人かげはまばらだった。入り口と会場内に一人づつ座っている関係者らしき男性の顔色をそっとうかがってしまった。端然と座っておられた。頭が下がった「申しわけない」と。

 いま、ヒロシマ・ナガサキの「空洞化」がいわれている。「被爆国日本」「世界で唯一最初の被爆国」といわれ、原水爆反対の声はいまや世界中に広がっている。なのになぜ日本でこうなるのか。このおそろしい絵と写真を見れば一人残らず「原水爆に反対」するにちがいないのにと思いつつ、私のこころのつかえは下りなかった。

 私が最初に被爆の実情を絵と写真で見たのはそれより前のことで、講和条約締結前後、労働組合が展示会を取り組んだときだ。当時は小学校や公会堂が会場を提供してくれた。それから半世紀を経たいま、人のまばらな寂しい会場で、青年時代の身のふるえるような衝撃と、しかし広い会場に人があふれて嬉しかったことなどを思いだし、しばし思い出にひたった。私が軍隊・捕虜から解放されて帰国した1950年頃は、「朝鮮戦争を支持するかしないか」「単独講和か全面講和か」をめぐって、新生日本は二つの見解に分かれて大論争を展開していた。論争は、日本政府の「朝鮮戦争支持」「アメリカとの単独講」という決定で決着した。労働組合の二つの潮流は当初は朝鮮戦争支持と反対に割れたが、途中から統一して朝鮮戦争に反対した。講和問題では二つに割れた。この選択は日本の今日の対外政治姿勢の基礎を形作った。論争の重要な舞台となった労働組合運動はこのときの分岐のまま組織的にも分裂の歴史を歩んだ。労働組合が運動の中核を担っていた原水爆禁止運動も「原水禁」と「原水協」の二つの組織に分裂し、今日に至っている。これは不幸なことだ。だが、双方とも「原水爆反対」の闘いの旗を掲げつづけていることの意義は大きい。たしかに人々の関心が薄らいでいるのかもしれない。年に一度のイベント化してしまったという批判もあたっているだろう。とりわけ日常の苦しみとつながらない、という声は厳しい指摘だと思う。そのうえでだが、私は原水爆禁上の声が上がらない理由の一つに現在は世界のどこかで戦争が起こっているということがあると思う。私の青年時代、原爆展をやった頃は日本中で世界で「戦争反対」の声が満ち満ちていた。大戦が終わって世界の人々は新しい平和と友好の社会をめざして希望に燃えていた。人々は原爆の惨禍が愚かな戦争の結末であることをよく知っていた。今日はどうだろう。アメリカ国民の大半はいまも「原爆投下は日本に戦争継続をあきらめさせた。日本国民を救った正義の行為であった」という政府見解を支持している。「悪魔の殺人兵器」が戦争の抑止力になるというのだ。日本にもこの勢力が存在する。それに最近アメリカは核兵器という言葉を大量破壊兵器と言い換えて、核兵器の特性をあいまいにしている。また冷戦体制が終焉した今日、かえって世界のどこかで戦争が勃発し、無辜の人々が殺されている。この状態は常に大国の核の脅しに支えられている。戦争がなければ原爆(核兵器)が使われることもないのだ。ヒロシマ・ナガサキが空洞化しているとするなら、それは核兵器の存在になれっこになってしまっている状態が蔓延しつつあることではないか。あらゆる戦争を平和の声で抑止できなければ、核兵器の危機は常に存在する。

 いま、朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」と略す)が核開発をすすめる可能性について表明し、波紋を広げている。核兵器の所有にはもちろん反対だ、だが通常兵器で圧倒的な強さを誇る大国が核兵器所有を許されて、その大国が核拡散防止ということで小国の核保有を許さないというのは理屈が通らないのではないか。まして「ならずもの国家」と名指されたイラクの国家体制が、国際的反対を無視したアメリカの武力で蹂躙された現実を目にして、同じく「ならずもの国家」と名指された「北朝鮮」が核開発でこれに対抗しようとするのを非難する権利はどこにもない。アメリカの一国主義、力の政策の抑止こそ必要なのだ。根本的には地球上から核兵器を無くしてしまえばよいのだ。大国が率先して核兵器廃絶を実行すべきである。

 この日、原爆展の会場へ向かう直前、連れあいが頭からビチャぬれのまま飛び込んできた。笑っているような、怒っているような奇妙な顔付をしている。そして「フッフッフッ、、、、蝉のオシッコ、ゲラゲラ、、、、、」よくよく聞いてみると近所のおしゃべり仲間と木陰で涼んでいると、顔にピチャピチャとなにかが降りかかり、涼しくてとても気持がよい。

 「気持ちええなあー、なにやろこれ」「あんた、なにゆうてんのん、それ蝉のオシッコやないの」「ゲー、あわわわ」家へ逃げて帰り、シャワーを浴びて私のところに来たというわけだ。街の子だった私たちは二人とも蝉のオシッコを知らなかった。この歳になっても知らないことがたくさんあることだろう。ところでヒロシマ・ナガサキのあの日の蝉は子孫を残せたのだろうか。蝉のオシッコと原爆はどうしても同居できない。この平和がうわべだけでないように願いつつ。

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『みちしるべ』私のまちづくり**<2003.7. Vol.24>

2006年01月09日 | 砂場 徹

私のまちづくり

代表世話人 砂場 徹

「希望と活力のみなぎるまち」
「ゆとりと豊かさが実感できるまち」
「環境との調和のとれたまち」
「個性ある地域づくり」
「より魅力的なまちづくり」
「安全・安心のまちづくり」
「こころ豊かな〇〇のみちつくり」

 最近、各地の地方自治体で、都市形成、再開発、環境にかかわる事業への住民参加の呼びかけが活発に行われている。上記のキャッチフレーズは、兵庫県と県下阪神間各市で発行している『まちづくり』『みちづくり』のパンフレットに掲載されたものの一例である。これに「あなたのご意見をお寄せ下さい」といわれるのだが、綺麗な写真が付いていて、誰も反対するはずがない。そして誰もあまり関心をもたないのだ。否、もてないのだ。私もそのうちのひとりだが主体的に参加する気で考えるとき、先にあげたキャッチフレーズは美辞麗句の羅列で実感がともなわない。この言葉からイメーシする内容は十人十色、ばらばらだろう。

 まちづくりとは何だろう考えてみよう。具体的な例をあげる。数年前に尼崎市が委員を公募して、10人程度のチームを数個つくり「まちづくり委員会」と称した。専従のコーディネーターをつけて研究会を行い、1年の後、大々的に発表会を行った。これを市政に反映させるという、なかなか意欲的な試みだった。『私たちののぞむまちつくり』たしかこんな表題だった。そのうちの一つは『コミュニティー道路』だ。これは道路を一方通行にし、道路の直線部分に左右に凹凸をつけてスピードを出せないようにし、歩道は2メーター以上あり、綺麗なレンガで舗装されて絵になる景観を形作っている。こんなよい環境をもっと、ということだろうが、この地域は大邸宅ばかり建ち並ぶ尼崎でも有数の閑静なまちで、道路に接している水路には鯉が住み、岸の柳の枝が垂れ、水路にかかる橋には一の橋、二の橋と十数本の橋がかかり、人通りは少ない。この道路に少し手を加え『コミュニティー道路』と名付けたのだ。このチームは「私たちののぞむまち」として紹介しているのだが、なぜコミュニティなのか分からないし、このような道路をつくれるところが尼崎のどこにもあるわけではない。次にもう一つ。『まちを花で飾ろう』という趣旨で、行政が種子を提供し、住民が通りを飾るというのである。これも結構なことだ。だが、これらを“まちづくりとはこれだ”と言われると大いに疑間がある。

 まちづくりとは人それぞれの立場、環境、考え方によって望むことは異なり、具体的には万人が一致するまちつくりなどはあり得ないのではないか。例えば行政は活力のあるまちを指向する。人が集まり、商店街がにぎわい、人口が増え市財政が豊かになることを期待する。そのためにはJR、私鉄の主要駅前を再開発地域に指定して公園をつくり、ホテルを建てる。競艇のナイターも実施したい。その地域がパチンコ店と風俗営業のメッカになっても集客力の大きいまちを歓迎する。もちろん行政がこの状況だけを目的としているのではないとは思うが。この時期のまちづくリキャッチフレーズは「にぎわい創生」であった。高齢者や身体障害者は「安心・安全のまちづくり」のスローガンのもとに、歩道のバリアフリーや駅のエレベーター設置などが強い関心であり、幼児をもつ母親は都市に小公園をたくさん作って欲しい。通勤者は自転車置き場の設置・拡大が切実な希望かもしれない。大邸宅が建ち並ぶ地域があれば、長屋が連なるまちもある。マンションや集合住宅の密集地帯や町工場の点在地点もある。お互いに他者の希望を尊重し、互譲の結果進行するまちづくりとは、最初に各市のパンフレットのキャッチフレーズを紹介した「まちづくりイメージ」とは相当違ったまちが現出するに違いない。

 “まちづくり”という言葉が耳慣れたものになったのは、阪神・淡路大震災の復興期に盛んに使われてからのように思う。大震災のなかを生き残り、破壊から立ち上がる被災者は住居の確保、道路の復旧、営業の再開などの過程で幾つもの困難をくぐりぬけなければならなかった。このとき多くの被災地で罹災者自身の手による「まちづくり協議会」「〇〇委員会」などが作られた。行政の復興の力点の置き所や、「火事場ドロボー的」な都市計画の押しつけに怒った住民が、「自分たちのことは自分で決める」「決めるのはわれわれだ」と対立し、組織をつくって自主性を発揮したのだった。だが、この道もけっして穏やかではなかったことを私たちは知っている。なかでも最も苦労したことは同じ環境で同じ苦しみを味わっていながら、隣近所で対立、そして亀裂することであったと聞く。自己の生活の確立とまちの再建にともなう利害対立はそれほど複雑で、矛盾が大きかったのだ。地方自治体による都市計画の稚拙な押しつけと闘うにも、まず地域住民の一致団結が第一義的な課題であった。地域住民の意思が仮に一致したとして、なお多くの関門をくぐり抜けなければならなかった。行政の計画の変更、土地の所有関係、事業にかかわる企業者、政治的関係など。このような対立物を乗り越える力、多数の形成のための地域住民の協議の成果が、困難をひとつひとつ克服されたのだと思う。その時、美辞麗句は少々陰っても、立派にまちつくりの花が開いたのではないだろうか。

 私たちは文字通り血で購ったこの経験を大切にし生かさねばならないと思う。まちつくりの最初の、そして最後の課題は、地域住民の合意形成である。日常的な隣近所の仲良い暮らしこそ、その基礎ではないだろうか。まさに値千金である。

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『みちしるべ』もう戦争はゴメンだ**<2003.3. Vol.22>

2006年01月08日 | 砂場 徹

もう戦争はゴメンだ

砂場 徹

《60年前の一兵士の声》

 最近の報道でアメリカは、気にいらないイラクの政権を転覆させるためには、国連決議なしで自分一国だけでも武力を行使すると広言しています。科学、文化が最高度に発達した国。民主主義の国、金持の国と豪語する国がしようとすることが、いかに理不尽なことか、誰が考えても明らかです。それはまた、親を選ぶことの出来ない子どもたちを最大の犠牲にすることです。

 戦争体験は、先の第二次大戦を経験した普通の兵隊とその家族がみな持っているものです。だがそれを語れる年代の人が少なくなってきた今頃になって、誰かが語り継ぐことが戦争を止めるために役立つとは、悲しいことです。だが語らねばならない。

《悲惨! 大阪大空襲》

 その日はめずらしく、終業時間まぎわに鳴った警戒警報がすぐ空襲警報に変わった。警戒警報はいつも出ていましたが、昼間の空襲警報は初めてでした。戦争も末期の昭和20年(1945年)3月13日のことです。

 その頃、私の勤務先は大阪市内の現在の「中津」から近い、大仁西町でした。急いで帰途につき、すでに暗くなった道をまず大阪駅へ、それから淀川を渡って都島、関目ヘと歩く。これが交通手段が途絶したときの大阪市の東の端、関目町の自宅へ帰るコースでした。

 淀川大橋までたどりついたとき、サーチライト(空を照らす投光機)の帯が数えきれないほどのアメリカ爆撃機(B29)の大編隊をとらえました。敵機の大編隊は淀川大橋の上で海の方を向いている私の、左の方の上空から、右の方向、神戸の方へゆうゆうと横切っていく。キラッキラッと光るのが「わが軍」の戦闘機なのですが、「敵機」は悠然としてコースを変えない。そのときこの大編隊のすべての機から黄色い点々のすじが吐き出されました。その点々の長い帯が斜めの線となってゆっくりと降っていく。爆弾だ。そのうち点々の帯が地表に近づいたところで、点の一つ一つがバラバラと爆ぜる。その数は文字通り無数です。不遜な表現ですが綺麗でした。まるで花火です。それが雨のように地面に吸い込まれていく。左の方向(大阪市内)で火の手があがり次第に大きくなっている。私には、火の玉が落ちたところで必至にバケツリレーと火叩きで、走り回っている防空頭巾の人たちの姿が目に浮かびました。火の玉が吸い込まれたところから火の手があがらないように、祈るような思いで見ています。だが、そこからメラメラと火の手があがってくるのです。それは次から次へと広がり、あたリー面火の海になっていきました。淀川の橋の上から下流(大阪市内方面)を眺めると、海に向かって視野がひらけ絶好の見物席でした。いつの間にか近いところで炎があがりはじめ、私はあわててそこを撤退して必死に走り、やっとの思いで家の前に掘った防空壕に転がり込んだのでした。心配した家は焼けずにあり、家族も全員無事でした。この日の大阪の第一回の空襲では市内だけがやられたのでした。ちなみにこのあたリ一帯は6月15日の再度の空襲で焼かれ、そのとき私の家も全焼しました。

 次の日、私は昨日の空襲より怖い、まさに地獄を実感しました。

 一夜明けて、“市内は丸焼けになったらしい”という噂が飛び交い、市内、大阪港の近くの親戚の安否が気づかわれ、私は歩いて市内をめざしました。昨夜、橋の上から見た光景から相当の被害を予想はしていたのですが、市内に近づくにつれ、あまりのひどさに茫然としました。見渡すかざり、一面の焼け野が原。あちこちからまだ煙が立ちのぼっていました。京阪電車「天満橋」駅の前を走る市電(路面電車)の道路は焼け落ちた両側の建物と電柱や電話線で完全に埋ずまり、その上を歩くしかありません。

 鼻をつく焼け焦げの臭い、薄暗い空から真っ黒い雨がしとしとと降ってきました。空に立ちのぼった煙が雲を呼び雨を降らすのです。顔を真っ黒にして電車道を西へと歩く私を襲うなんとも言えない異臭が気掛かりでのぞいて見た防空壕の中のありさまは、いまも語る言葉がありません。焼けこげた人が折り重なり、なかには身体から煙が立ちのぼっている遺体もあります。無念そうに空をにらんでこぶしを突き上げている人。みな半焼けなのです。火葬にした遺骸しか知らない私には、ほんとうに地獄とはこうだろうと思わせる、たたずまいでした。市岡5丁目までの間でその光景をいくつ見たでしょうか。私のめざした親戚の家は、焼け野が原の中に焼け残った防火水槽の名前で焼け跡を見つけました。親戚一同は私と入れ替わりに私の家へ避難していました。

 空襲警報が鳴れば逃げ込むことを強いられた、いちばん安全なはずの場所。自分たちが苦労して作った防空壕で殺されるとは、なんという悲惨。無念。バケツの水と「火叩き」で焼夷弾を消せと訓練した軍部だから、悪魔の焼夷弾がどんなものか、知らなかったのかも知れない。兵隊なら仕方がないとは言わないが、目の前に見る無残な姿を見せているのは市民なのです。

 3月10日未明のB29による東京下町中心の無差別爆撃で、100万余人の都民が羅災者となり、死者は約10万。それを皮切りに、日本全国でいくつの都市が焼き払われ幾人の命がうばわれたのでしょう。当時アメリカは、日本人の戦意を砕くため、とうそぶいていましたが、戦争で殺されるのは兵隊だけではないということの見事な証明です。それは今も同じです。だからといって兵隊と市民を絶対に同列に扱うことはできません。空襲で殺された人々は、人を殺すことを職業とする軍人とは違います。この人たちは、一家の柱である父を、夫を戦場に送り出し、乏しい食糧を分かち合って「銃後の社会」を支えてきた高齢の男性と女性たちです。

《子どもを背に、満州の荒野を彷徨う若い母親》

 できれば忘れたい、だが消えることのない思い出をもう一つ。

 私は大阪の大空襲を見て、その直後4月1日に徴兵で入隊し中国東北(旧満州)の西佳木斯の飛行場部隊(第十野戦航空修理廠)に配置されました。佳木斯という街は日本の満州支配の拠点で、日本人がたくさん居り、松花江の岸辺にある美しい街でした。敗戦のとき旧ソ満国境を突破して雪崩込んだソ連軍に追われ旧満州の関東軍は、日本人を置き去りにして一斉に逃げ出しました。私の所属した軍隊も同様、ソ連軍が国境を越える直前に一個大隊1000人まるごと列車を仕立てて、食料、被服、その他ありとあらゆる物資を満載し、逃げ出したのです。だが、強制的に運転させられている中国人の機関士がすきをみて逃げ出したのをとうとう捕まえることができず、汽車を放棄して、それから約20日間、満州の荒野を徒歩で彷徨いました。(ハルピンをめざしていたらしい)

 この地は水が全くありません。ある夜、へとへとになって野営地で倒れこんだ私の目がチラ、チラと光るものをとらえました。池の水に月の光が反射しているのです。生き返った心地で腹這いになって手ですくった水を、私は思わず投げ出していました。強烈な臭いなのです。そのときは腰の手拭を水に浮かし、漉して飲んだのですが、なんともイヤな味でした。そして翌朝。明るくなった池の面を見てゲーと吐きそうになりました。池と思っていたのは湿地で、壊れた戦車が何台か横たわっており、その傍らに数えきれない日本兵の死骸が浮かんでいたのです。

 そんな行軍のなかで私は弱り果て、前の兵隊の何かを掴んでついていくのが精一杯でした。その半死半生だった私が、その日のその一コマだけは鮮明に目の奥にやきつけている悲しい思い出があります。ボロボロになったとはいえ武装した私たちの部隊が行進する方向とは逆に、前方から後ろに向かって若い母親と小さい三人の子どもが歩いてくるのです。母親は一番小さな子を背負い、両手に泣き叫ぶ子の手をひいています。私は子どもの泣き声でそれに気づきました。子どもの足から血が出ていました。私はたった一つ残していた「乾バン」の袋を泣く子の手ににぎらせました。それしかできなかったのです。あの母子はどうなっただろうか。軍隊が疲労こんぱいする環境ですからおよその推測がつきます。

 この人たちはだまされて「満蒙開拓団」などに連れてこられ、あの段階では男は軍隊や義勇軍にとられ、残された家族なのです。なぜあの母子だけ孤立してしまったのか。哀れとも言いようがありません。私もその後捕虜になりシベリアで4年、人並みの苦労をしましたが、それはこの母子がその後遭遇したであろう境遇を思うと、ものの数ではありません。こちらは軍隊です。申し訳のないような思いは今も消えません。

《もう戦争はイヤだ》

 あの頃、天皇制軍国主義の日本に民主主義はありませんでした。国のために死ぬのが最高の名誉だとされ、「鬼畜米英」に勝つのが正義でした。敗戦から58年、この国は物質的には豊かになり、新憲法のもと民主主義は成長しました。だが小泉政権のアメリカ追随の政治姿勢は、国民の大多数の戦争反対の声も無視した、かつての民主主義の無かった頃と変わらないと言わねばなりません。これでは、満州の荒野に置き去りにした、あの母子にまだ謝ることができません。防空壕で焼け死んだ人たちにも「安らかに眠って下さい」とは言えません。

 平和憲法を踏みにじって小泉がブッシュの戦争を支持する危険が大きい今、誰がこの道を止めるのでしょうか。それは私たち、いちばん被害を受ける者ではないでしょうか。普通の人たちの「戦争反対」の大きな声こそ戦争を止められるにちがいありません。

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