『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(58)**<2010.1. Vol.62>

2010年01月06日 | 横断車道

猿がヒトに発達と認識されてから300万年。地球の歴史は46億年。歴史を1mの年表にすると、人類の記録は0.7mmにも満たない。万物の霊長なんてバカらしい▼地球温暖化と騒ぐが、人類史200年の出来事。化石燃料、石油・石炭等を焼却したことが原因。2億年前に植物(未発達のシダ類)が、大気中の二酸化炭素を吸収し、酸素を放出した。その植物体(炭素)が、地中に埋もれ炭化されたのが化石燃料。折角、二酸化炭素を地中に閉じ込めたのに、掘り出して燃やし、また大気中に放出した。それは産業革命後の、たった200年のことだ▼では何故、二酸化炭素が増えると温暖化が起こるのか? 地球は直径10000kmの球体であるが、大気圏といわれるのはせいぜい10km程度。8kmのヒマラヤでは、酸素ボンベが要るほど、空気が希薄だ。この僅か、地球の直径の1000分の1の層での出来事であることを認識して欲しい▼空気の特質として、一定の体積には如何なる分子であれ、同じ数の分子しか存在しない。酸素が5で二酸化炭素が5のスペースに、二酸化炭素が6になると、酸素は4に減る。大気中の7割は窒素であるが、この数は変化しない。化石燃料を燃やすと、酸素が炭素と結びつき二酸化炭素に変化する。酸素が減って、二酸化炭素が増加する▼では二酸化炭素が相対的に増えると、何故、温暖化なのか? 分子には質量がある。要するに重さだ。重い方が熱量を多く抱えることが可能。大気中の酸素と二酸化炭素の合計数は変化が無いのである。二酸化炭素は酸素と炭素の化合物であるから酸素より重い。酸素より炭素の方が遥かに重いから、酸素が二酸化炭素に替ると相当の質量差が生じる。当然、抱えられる熱量は何倍にもなる▼現在、地球は氷河時代。1万年単位で氷河期と間氷期を繰り返している。その間氷期にある。地球の温度はそのように、大変な変化をするものである。温暖化など、その一部ではないのかという論も。氷河期の原因は太陽の活動によるもの。そうであれば、人類の生息が危ぶまれる温度差もある。が、今問題の温暖化は、地球平均気温の数度差を問題にしている▼その数度の変化でも、南極や北欧・シベリアなどの氷河が解け、海水が膨張することで海面上昇がある。また、熱帯低気圧が強力になり水面を持ち上げる高潮が大きくなる。(甲子園で7m水没*西宮市)日本の太平洋岸都市部は水没する。地下街は復旧不能で水面下に没する可能性が高い。土木技術で対抗できる範囲では無い▼地球規模で見れば直径の1000分の1の大気圏の数度の変化だが、人類にとって、特に日本にとって、財産の殆どを集積している首都圏・阪神圏・中部圏の壊滅的被害。地球には変化という変化ではない。地球に優しいというのは間違いで、ヒトに優しくなければならないのだ。(コラムX)

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『みちしるべ』**第35回 道路全国連 全国交流集会 に参加して**<2010.1. Vol.62>

2010年01月05日 | 藤井隆幸

第35回 道路全国連 全国交流集会 に参加して

藤井隆幸

  全国交流集会に参加するに当たり、阪神間道路問題ネットワークの貴重な財源の中から、補助を頂きましたことに感謝申し上げます。遅くなりましたが、参加報告を掲載させていただきます。

 まず、これまでは『道路公害反対運動全国交流集会』という名称を使っていました。歴史的な名称は保存すべきとの意見もありますが、何といっても長ったらしいのは事実です。そして『反対』という庶民受けしない文字も気になります。そこで、これまでの名称は存続しつつも、『道路全国連』を通称とすることになりました。それに『全国交流集会』をつけることとします。今後は、この名称で宜しくお願いします。

 さて、昨年10月24日~25日にかけて、横浜で行なわれました。初日は昼から現地見学で、貸切バス1台と伴走車で横浜環状南線の現地を視察しました。生憎の小雨で、現地で待っていてくれた住民の方々も、「充分に見てもらえなくて残念」ともらしていました。しかしながら、住宅街のど真ん中を抜く計画や、とてつもない巨大構造物にする無駄と、公害を気にしない計画が、よく理解できて良い視察会と感じました。千葉の市川市で行なわれた全国集会では、ちょうど台風が来てしまい、現地見学が中止になったという前例もあり、小雨は許容範囲内であったと思います。

 かつて、兵庫で全国集会が2回ありました。全体集会が行なえる数百人規模の会場、50人規模の分科会の会場が複数、そして懇親会ができる飲食を伴うパーティー会場も必要です。何と言っても、全国からの参加者に安価な宿泊所も用意しなければなりません。それらの施設が一体となっていることが理想です。前回の兵庫で行なった時は、それぞれの施設がまとまって取れず、殆どの施設が直近にしか申し込めずに大変でした。初日と2日目の全体会の会場が別で、分科会も殆どが2日間で別会場となりました。懇親会も別のホテルを用意し、宿泊施設も何箇所かに分散したてしまいました。称して『ジプシー集会』と銘々されてしまいました。

 その点、今回は横浜市職の労働組合が所有する、「横浜市従会館」と隣接する同所有の「いせやま会館」で総てが行なわれました。ですから、現地見学から会場につくと、2日間、総て移動なしで行なわれました。日頃から、労働運動と市民運動が連携しているみたいで、非常にスムースな運営がされました。“呑んべ”の方たちだけは、初日の夜に紅い灯、青い灯に誘われて脱走したようですが。

 初日、現地視察と懇親会の間に、短い全体会が行なわれました。計画では、現地の団体から特別報告が、10分程度で3本だけのはずでした。ところが、事務局が当日資料を持ってきた方は提出してくださいとアナウンスしました。我等が阪神ネットの神崎さんは、事前に資料原稿を送ることができず、当日の持込でしたので提出しました。司会者の方は勘違いして、資料を提出した神崎さんにも発言を求めました。

 急に発言を求められた神崎さんですが、そこは持ち前の冷静さで、いつもの調子で報告を始めました。NO2のカプセル調査により、県道尼宝線の自排局データとの関係から、尼宝線と山手幹線の実際の汚染程度を推計する報告でした。多分、実行委員以外は予定の報告だと思っていたことでしょう。ハプニング報告であったのですが、参加者の多くが感心していました。データが少ないので、断定的にいえない側面もありましたが、カプセル調査で何ができるのかの提案として、高く評価されました。

 初日の夜は宿泊部屋で、思い思いに飲み会がありました。これも各団体の交流に貢献しているものと思います。日頃は、そんなに早く寝ないものですから、結構、長く呑み語り合ったように思います。

 2日目の基調報告は全国連事務局長の橋本さんが行ないました。内容は前号に掲載の集会アピールの内容というところでしょうか。基調講演は五十嵐敬喜(弁護士・法政大学教授)さんの「これからの道路行政は?」でした。政権が民主党を中心とする連立内閣に代わりました。期待すべきところと注意すべきところを話されたようですが、私が水で薄めてお湯で溶いては、誤解が生じるので止めます。折から、広島県福山市の鞆の浦(崖の上のポニョの舞台)の景観訴訟で、広島地裁が画期的な判決を出しました。その特別報告が弁護団の方からありました。最後の特別報告は西村隆雄弁護士から、新たに設定されたPM2.5の環境基準について説明がありました。この問題は、今後、道路公害で注目されることになるでしょう。

 その後、三つの分科会が行なわれました。私は「行政・事業者による審議会・委員会等の問題点とあり方」に参加しました。一番参加者が少なかったのですが、それなりに活発な意見交換がありました。これまで完全な密室であった、これらの会議が、住民運動により公開の方向で動いることが感じられる分科会でした。まだまだ充分ではなく、インターネットの活用など、色々の提案がありました。

 最後に、この横浜大会に阪神ネットから、「みちと環境の会」の神崎さん、「中の自然と住環境を守る会」の西田さん、それに私の三人が参加したことを報告しておきます。道路全国連の全国集会も、今回で35 回目を迎えました。15回目と25回目に記念出版していますので、今回も首都圏チームで出版の準備をしています。原稿は締め切りが過ぎていますが、我が運動をという方は3000字程度で書いてください。1月中に送れば、何とかなると思います。また、ホームページも出来ました。まだ、コンテンツが整わないのですが、提案があればお知らせください。道路全国連のメーリングリストもありますので、参加希望の方はご連絡ください。

 以上、参加報告とさせていただきます。

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『みちしるべ』100年単位で歴史をふりかえろう**<2010.1. Vol.62>

2010年01月04日 | 神崎敏則

100年単位で歴史をふりかえろう

神崎 敏則

 2008年のノーベル物理学賞受賞者の益川敏英さんが平和への思いを新聞やテレビで語っているのを何度か見聞きした。その中に印象に残る言葉がある。人間の歴史を10年や20年単位でみると平和や民主主義が逆行していると思えるような時がある、でも100年単位でみると着実に前進していることはまちがいない、との主旨だった。なるほど、確かにそのとおりだと思った。

義勇軍と義捐金の申し入れが相次いだ日清戦争

 今から116年前の1894年に日清戦争が起こった。当時の日本人にとって、国家間の戦争の悲惨さや愚かしさはほとんど知られていなかった。佐谷眞木人著『日清戦争 国民の誕生』(講談社現代新書)によれば、「日清戦争当時の日本は異様な熱狂に覆われていた。その熱狂をもっともよく示しているのが、義勇軍運動と義捐金献納運動だ」そうだ。

 義勇軍とは、民間人が私設の「軍隊」を結成し、戦争に加わろうとした人々をさす。新聞記事に見えるだけでも52の事例があると言う。旧士族の再結集が最も多く、国権派・民権派、侠客がそれに次ぐ。

 また、義捐金献納運動は、より広い社会層を巻き込んでいく。1日に2千件を超える献金があったと新聞は伝えたそうだ。華族や豪農のみならず、一般庶民まで個人団体を問わず献金が集められた。

 多くの著名人や言論人もまた戦争を肯定した。

福沢諭吉と勝海舟

 キリスト教思想家内村鑑三は日清戦争が「義戦」であることを強く主張した。

 福沢諭吉は『時事新報』を率い、開戦前に日清戦争をさして「文明開化の進歩をはかるものとその進歩を妨げんとするものとの戦い」だと主張して開戦への論陣を張った。

 日清戦争が勃発すると、66社の新聞社が129名の特派員を戦地に送ったらしい。当時は、テレビはおろかラジオ放送もなく、新聞ジャーナリズムの黎明期にあり、日清戦争で新聞の発行部数を飛躍的に拡大した。

 難攻不落といわれた旅順を陥落させた際に、新聞各社はこぞって華々しい勝利を記事にした。がその翌日からは、旅順でおきた一般市民への虐殺事件も複数掲載した。

 しかし、当時はすでに日本軍による検閲が行われ、規模や経過などがわからない点が多いそうだ。旅順を攻撃した第二軍には、5人の外国人記者も従軍し、ニューヨークの日刊紙『ワールド』には、日本軍が占領後3日間にわたりほぼ全市民を惨殺したと報じ、世界に大きな衝撃を与えた。

 福沢諭吉率いる『時事新報』は、この旅順市民への虐殺事件を伝える外国新聞に対して、「流言」であり「誤報」に過ぎず、果ては日本の急速な近代化を喜ばない外国が、「根性悪き姑が日夜新婦の過誤失策を詮索している」ようなものだと、姑の嫁いびりに喩えてまで反論を展開している。

 著者は、「このとき、きちんとした事実解明と関係者の処分がなされていれば、事件はこの後の日本にとって有益な教訓になったことと思う」と解説している。

 日本中が日清戦争でお祭り騒ぎのようにはしゃぎまわり、喧騒に巻き込まれているころ、日清戦争に正面切って反対の論陣を張り続けた著名人は勝海舟だ。

 松浦玲著『明治の海舟とアジア』(岩波書店)によれば、「福沢諭吉の『脱亜入欧』論と対比させていえば、海舟は、アジアに踏み止まるという意見」であり、開戦後にも「この戦争は無名の師であるうえに、ロシアとイギリスを利するものだと断じ」、公言してはばからなかった。「海舟は、朝鮮出兵に反対であり、出兵の日本軍隊が清国の軍隊と衝突することに反対であり、武力を背景とした朝鮮への内政干渉に反対であり、仮に平和的でも、先輩ぶった忠告には反対であった。ただ必要なのは、アジアの国同士としての協力関係を説くことだけだと指摘」した草稿が残されている。

 明治を代表する言論人として福沢諭吉の名声は高いかもしれない。しかし、今日からみれば、福沢諭吉は明治政府の庇護者であり、有能な広告塔にすぎなかったのではないか。

 日清戦争が終わった翌年、風水害により渡良瀬川が氾濫し、川底に堆積していた足尾の鉱毒が広範囲に溢れ、植物はすべて枯れつくし、惨状がだれの目にも明らかとなった。現地農民は1897年に弾圧をくぐりぬけて東京へ集団陳情に押し寄せ、改めて世論を喚起した。鉱毒問題を糾弾してきた田中正造の長年の運動の山場でもあった。鉱毒問題について海舟は、銅山の「直ちに停止の外はない」と、明快この上ない。

 世論に押される形で時の内務大臣が現地を視察した際、福沢諭吉は視察に反対する論説を掲げた。毒の有無など素人に分かるはずはないので、専門家の調査を待つべきだとの理由だ。被害農民の運動に横やりを入れる手法も、中身についてわざと見解を表明せずに、方法論でいちゃもんをつけた。明治の言論界の巨人は、陰湿な小技も得意なようだ。

アジアの危機は日清戦争によってもたらされた

 原田敬一著『日清・日露戦争』(岩波新書)によれば、日清戦争により、清の軍事力は脆弱であることを世界に暴露して、以後、欧米列強はアジアへの侵略を再始動した。植民地台湾を確保し「大日本帝国」としてアジアに登場した日本も、アジア侵略を拡大していった。19世紀末以降のアジアの危機は、日清戦争によってもたらされたと著者は言う。

 1895年10月8日、朝鮮の漢城で大事件が起きた。日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃(ミンビ)と内務大臣、女性3人を殺害した。これ以降、朝鮮では反日感情がいっそう高まった。

 1895年11月に日本は台湾平定を宣言したが、その後の抵抗運動は激しく、翌12月には台湾北部の宜蘭が包囲され、翌年元旦には台北城が襲撃された。これに対し台湾総督府はあからさまな殺戮と民衆の相互監視制度という強圧的政治をしいて封殺した。

開戦後も非戦論・反戦論を主張し続けた『平民新聞』

 1903年日露に緊張が高まっていく中で、強硬派の活動が目立つ一方で、日清戦争には賛成した内村鑑三は非戦論に転じ、幸徳秋水や堺利彦などが『萬朝報』に戦争反対論を積極的に執筆した。しかし、『萬朝報』としては、反戦非戦を貫くことができず、最終的には、開戦に向かって政府に協力すべきだとする宣言を発した。その夜、幸徳と堺は退社を明らかにし、内村もそれに続いた。

 堺と幸徳は「平民社」を興し、11月5日週刊『平民新聞』創刊号を発行し、翌04年2月の開戦後にも非戦論・反戦論を主張し続けたが、11月の52号で発行・編集人と印刷人が軽禁固となり、新聞自体の発行も禁止処分となった。開戦後実に9ヵ月もの間、反戦・非戦の主張を続けることができた。

 日清戦争時の勝海舟の孤軍奮闘に比べて、戦争反対は大きく前進した。

逮捕監禁されたのは十数万人

 第二次世界大戦時には、軍からの指示で戦地に派遣させられて戦意高揚を目的にした文章を書かされた文筆家も多くいたが、弾圧のなかでも、戦争反対を貫いた作家は少なくない。その代表的な作家小林多喜二は特高に逮捕されて、畳針で体中を刺されるなどして拷問死した。

 柳川瀬精著『告発 戦後の特高官僚』(日本機関紙出版センター)によれば、獄中で拷問、虐待が原因で獄死した者114人、病気で獄死した者1,503人、十数万人が捕らえられたと推定され、裁判で実刑を受けた者は5,162人にのぼると言う。弾圧の数の多さは、軍部とその軍部に引きずられた政府が、なりふり構わず戦争へ突進したことの現れであり、その動きに対して反対あるいは違和感を感じとっていた人が数知れずいたことの現れである。

 戦後、曲がりなりにも憲法9条が維持されてきたことは、多くの国民が改憲反対の意思を表示していることにほかならない。

*******************

 過去の100年を振り返ると、21世紀の末には、アジアの平和を実現して、世界から核兵器を無くすことも不可能ではない、と素朴に思う。思うだけではなく、しっかりとその方向に歩みを進めていきたいものだ。その道は、勝海舟や田中正造がたどった道の延長線上にあるのではないだろうか。彼らの歩んだ道は苦難艱難難渋の連続で、修験道の険しさに近かったかかもしれない。しかし今ではその道を歩く人は比べものにならないくらいに多くて普通の人の道になっているはずだ。

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『みちしるべ』斑猫独語(38)**<2010.1. Vol.62>

2010年01月03日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<心の貧しさからの回復を願う>

 チェンジチェンジと響きこそよく暮れ、明けましたが、世の中そう簡単にチェンジチェンジと行くことはないと思っていたら全くその通りでございまして、今年も色々問題はまだまだ続くのでしょう。寅年でございまして、私の雑文に付けております斑猫独語のハンミョウでございますが、英語でタイガー・ビートルと言う、トラコガネなのです。クローズアップの顔つき確かに猫より虎です。寅年にちなんだ頭をふった所で、新年おめでとうございます。

 新聞には投書欄というのがある。毎日新聞では「みんなの広場」がそれだ。全国からたくさんの投書があるのだろう。ふむふむその通りよく言うぞというような物から、これがそんなに投書までする問題かなあと思うようなもの、なんだただの自慢じゃないか、というような物まで中身は様々のようだ。この欄、私は題だけは毎日見る。そして、ふむふむ俺も言いたいことだなあ、と言うような題の付いているものは読む。

 毎日新聞2009年12月22日付朝刊「みんなの広場」に次のような投稿が載った。岩手県の無職70才男性、私と同年輩の人の投稿で、「名物の並木道を守れないものか」という題で、東京葛飾柴又の街路樹イチョウが落葉の処理に困った住民からの苦情で伐採されたというのを報道で知って投書されたもので、投稿者の町でも見通しが悪いとメタセコイヤが切り倒されたとあり、街路樹は温暖化を防止し、私達に安らぎを与えてくれる、行政や住民の協力で守れないものかと言い、街路樹を悪者扱いする日本人の心の貧しさを見る思いがすると書いている。川西の私の周辺でも同じようなことが何度も起こり、私は阪神間道路問題ネットワークの例会で度々不満を吐露したが、この人のように新聞に投書は出来ず、まだまだ口だけなのだと思う。甘いのである。

 街路樹などを伐採から守るには、守る声がないとどうにもならない。それがあれば行政も一応その声を聞かねばならず、その上での対策を立てるかもしれない。そこに投書者の言う行政と住民の協力が生まれるのだ。ただそんな事例が数あれば、だれもが「あそこのやり方がここに適用出来ないか」などと思いあたるのだが、文献を探せばあるかもしれない程度では、圧倒的に強い伐れ切れの声に負けてしまうのが現実だ。行政もその声に乗って点をかせぐ方が楽なのである。街路樹の管理や緑を守る心がけを行政が日頃しっかりやっておれば、行政だって苦労しているんだよ、と弁護の一つもしよう。そんな声が出せるはずはない、行政の日常がどんなものか、出ない声が如実に語っているのである。

 日本人の心の貧しさを見る思いがする、という投書者の言葉、考えさせられる言葉だ。我々の周囲には、日本人は花鳥風月を愛し、四季の移り変わりを満喫し、数々の自然と共にある風俗習慣を大事にする、というような言葉があふれており、我々自身日本人とはこんなものだと思っているのである。でも案外そうではないのではないか。さもなければ、街路樹の伐採問題が新聞の投書欄に出ることなどないはずだ。なぜだ、私は思う。自動車が異常な増え方をしてしまった時代が日本人の感性まで変えてしまったのだと。

 落葉がスリップの原因になるから街路樹は邪魔、垣根の植物が見通しを悪くするから伐ってしまえ、は身近に聞いたことだ。同じ理屈で極言すれば歩行者は車にとって邪魔な存在である。歩道がない道路では人が車に遠慮し冷や冷やしながら歩いているのだ。車が遠慮しなければならないのが本当なのに。

 下町の路地には鉢植えの植物を大事に育てて、小さな緑を楽しんでいる光景を多々目にする。そこには日本人の感性が生きているのだ。郊外の新興住宅地、いわゆるベッドタウンこういうものの乱立、それは乱開発の結果生まれたものであるが、そんな所では案外緑を、という感覚が少ないのである。一寸車で走ればそれなりの緑の雰囲気があるから、なにも無理矢理居住地に木々を植え車にとって不便をこうむることはないのである、こんな考え方が盲点のように存在しているのである。盲点というものは互いに隠蔽しあって表面的には全く異常に気づかないのだが、同じように死滅した神経があっても気づかないでいることがある。今、日本人のこまやかな感覚を察知する神経が死滅しはじめたのが露呈してきたのである。いや露呈はすでに過去に見られたのであり、現在はすでに壊疽状態に陥っているおそれがある。怖いことだ。

 私達の運動は省みれば特効薬になった時もありましたが、むしろゆっくり体質を改善して行く漢方薬のような働きをしているのではないでしょうか。今更ながら思うのであります。色んな処方で今年も体力の増強につとめながら、こまやかな神経の増殖をはかり、豊かな自然を味わう繊細な心を涵養しようではありませんか。

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『みちしるべ』**「水俣病」の原因を究明した原田正純氏の講演を再び聞いて**<2010.1. Vol.62>

2010年01月02日 | 藤井新造

「水俣病」の原因を究明した原田正純氏の講演を再び聞いて

藤井新造

 昨年11月29日に「水俣病とむきあった労働者――新日本窒素労組60年の軌跡」の大阪展があり、この展示に合わせて原田正純氏は水俣病発生の原因をつきとめるまでの苦心の講演が、大阪人権博物館であった。

 医学からみた水俣病について、原田氏の講演は丁度10年前1999年9月に「水俣おおさか展」があり、その時聞いていた。この時に彼の書いた『裁かれるものは誰か』を購入し読み、彼の水俣病究明にかけた並々ならぬ努力に感銘を受けた。

 勿論、彼の『水俣病』(岩波新書・1972年)、石牟礼道子さんの水俣病に関する一連の本、土本典昭監督による水俣病についてのドキュメンタリー映画により、私なりの水俣病についての知識を持っているつもりであった。しかし、今回の講演は、1時間余りであったが『裁かれるのは誰か』の要旨をわかりやすく説明してくれ、忘れっぽい私に色んなことを再認識させてくれた。

 彼は水俣病の特徴を次のように書いている。「臨床症状として四肢の感覚障害、運動失調、視野狭窄、言語障害、聴力障害などが特徴であること………それは1940年イギリスの有機水銀農薬工場でおこった有機水銀中毒例の報告があった。これがのちにその発表者の名前をとってハンダー・ラッセル症候群と呼ばれ水俣病原因の究明の糸口となったのである」。

 そして原田氏らの熊本大医学部の研究班により水俣病が「………その原因として発生率、発生地区、発生時期、家族内水俣病発生、母親の症状、他の原因が考えられないことからメチル水銀が考えられる」と結論づけた。

 時の政府は、昭和49年9月になり正式見解として「水俣病」の原因を「チッソのアセトアルデヒド酸設備内で生成されたメチル水銀化合物である」と発表した。

 水俣病が奇病として地域住民から呼ばれてから実に12年、原因がわかってから9年経過した後である。それまで熊大医学部の研究班の報告(チッソ原因説)に反論し、原因(チッソ企業)の特定を遅らせたのが東大医学部の教授など高名な学者の論文であった。

 そのためか、この本の帯には「専門家は体制の隠れミノか?」(最首悟)と書かれている。

 次に、原田氏は水俣病のなかでも特に胎児性水俣病の発生の解明について、困難を極めたと語った。何故なら「その当時の常識では母親の胎盤はたとえ母体内に毒物がはいっても胎児はまもっていると考えられた。したがって母親より子どもの方が症状がはるかに重いということは考えられないことだった。ゆえに胎盤を通じ毒物が胎児にはいることは大発見であった」と言う。

 このことにより、昭和37年11月、水俣病認定審査会では16人全員胎児性水俣病と正式に認定した。

「隣の塀が燃ゆるときは汝の物にもゆかりあり(ホラティウス・ギリシャの詩人)」のことわざとは逆に、遠い土地の出来事として水俣病患者の痛みを知ることはできなかった

 原田さんの講演の内容から離れるが、私は1960年(昭和35年)水俣病が発生していた水俣市に近い大牟田市に、約1ヶ月間居た。有名な三井三池労組の長期ストライキの支援に行っていたのだ。

 その時点では水俣病が発生していたことを知らず、そのことについて無関心であった。そのことを講演が終わり会場をあとにし、JR芦原橋駅へと歩く途中想い出し何とも忸怩たるものを感じた。「水俣病」の患者さんの痛みを知ることはなかった。後悔しきりであった。

 後年、水俣病患者に対し謝罪と慰謝料をチッソに要求し、時に過激とまで言われた行動に走り、患者の先頭にたち闘った故川本輝夫氏の講演を持つ機会を尼崎で開催したのは、私の自責のせいかも知れない。

 この本のなかでも、故川本輝夫氏による水俣病と疑いのある潜在患者の掘り起こしに奔走した行動と情念について敬意を払い記述している個所がある。

 今なお、水俣病認定患者の申請者は44人近くいて、病気に呻吟していることをみかねて環境省は水俣病患者に対し、やっと「汚染された魚介類を多食した」と認められれば救済対象とすることが報じられたという(’09年12月26日、毎日新聞)。

 このことは一歩前進した姿勢であろうが、「救済」なる文言は、この場合不適切な表現と言わねばならない。何故なら、加害者の企業チッソは、メチル水銀化合物を排出し続け会社が利益を得、被災者の患者は、水俣地方に住んでいて魚介類を食べていただけで、身体も生活も破壊された。

 私は法律に無知であるが、この場合は「救済」ではなく損害賠償(医療費を含め)支給という言葉を使うのが普通ではなかろうか。

 ともあれ、何十年にわたり放置され続けてきた水俣病患者の申請が、1歩でも2歩でも前に向いたことを心より喜びたい。

 それにしても、このような「状況」を生んだ責任は、今の「病んだ社会」を象徴しているように思えるがどうであろう。

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『みちしるべ』**初春に西宮戎と道について**<2010.1. Vol.62>

2010年01月01日 | 藤井隆幸

初春に西宮戎と道について

世話人 藤井隆幸

 「みちしるべ」正月号の巻頭文は誰が?

 「みちしるべ」の正月号の巻頭は、代表世話人が時々の道路行政や世界情勢について、所論を掲載するシキタリになっています。初代の砂場徹氏は昨年正月に他界されました。胃癌から大腸癌、更に肝臓癌と転移して行き、壮絶な闘病生活の後のことでした。氏は必ず、正月号の巻頭に情勢について思うことを書かれました。

 また、後を継いだ大橋昭代表世話人も、正月巻頭の論評を必ず書かれました。その大橋氏も、体調の後退には抗しきれず、代表の座を退かれました。今は代表世話人が空席のままの状態です。連絡先としての事務局は預かったものの、はてさて正月巻頭の辞を書くのは、さすがに気が引けます。

 とはいえ、誰も引き受けてはくれませんし、原稿そのものの集まりが、余り芳しくはありません。仕方が無くと言えば申し訳ないのですが、大所高所からの論評は遠慮させていただき、今風情勢の下での道の話を書きたいと思います。昨年の総選挙では政権が交代し、今年は7月には注目の参院選があります。政治談議は山ほどできるというものですが、そこは控え目に道の話などを………。

引越し先は西宮戎に近い国道43号線沿い

 私事ですが、年末の慌しい中、引越しをしてしまいました。「再婚か?」なんて質問は皆無であったのは、先に引っ越された神崎さんと、偉い違いやなぁ! また、このご時世「家を買ったのか?」なんて言葉もありませんでした。まっ、少しでも家賃が安い方が、当世、有難いのは事実。世話をしてくれた人の話に乗っかりました。

 新しい住所は同じ電話局管内で、番号が変わらないのを良いことに、転居通知の手配はしていません。その転居先というのが、西宮戎の近くなのです。国道43号線と高架で走る阪神電鉄の直近で、それはもう賑やかなことです。国道43号線道路公害裁判を闘った原告で、まだ沿道に残っている人はいます。が、大半の原告は既に沿道を退去しています。これは被告(国・阪神高速)の思惑で、沿道に原告が居なくなれば、最高裁で違法状態とされた国道43号線(及び阪神高速神戸線)が、違法状態でなくなるというものです。これには兵庫県が提案した、防災道路計画というものがありました。国道43号線の幅員を50mから75mに拡幅し、グリーンベルト化しておいて、災害時に復興帯とするというものです。阪神淡路大震災で全壊・半壊の木造家屋は、国が買い取るというものです。民々売買よりもかなり条件が良く、(片側12.5mにかかる)多くの沿道住民が転居してゆきました。原告も同じことが言えています。

 そんな中で、わざわざ沿道に戻ってくる原告も珍しいといえるでしょう。調べてみなければ分りませんが、私ぐらいのものではないでしょうか? 沿道生活は30年近くになりますので、騒音や振動には慣れています。防音工事も施されていますので、以前の沿道よりは、静かなのかもしれません。それに、長年住んでいる人のいうことには、この不況のせいで、交通量が随分減ったとのことです。それは計測の結果からも、当たっているのです。

神様も人の作った不況にはマイッタ

 さて、お正月に初詣という私の習慣はありません。それでも、お袋や叔母さんが生きていた頃は、元旦の人ごみを避けて、3日くらいに人の多くない神社やお寺に参詣しました。駐車場から本殿の近い、広田神社(マイナーですが嘗ては官幣大社)や鷲林寺。宝塚の山奥の塩尾寺(えんぺいじ)や、遠くは南紀の淡島神社などです。

 西宮戎は十日戎だけではなく、正月も結構人込みになります。今回の家が近いこともあって、今年の正月は三賀日とも、西宮戎を通過することになりました。例年なら、人込みで周辺を自転車で走るなど、考えられなかったものです。ところが、三賀日ともスイスイ。2日は歩きだったので、境内にも入ってみました。例年、一方通行のはずが、双方向でも込み合うほどでもないのです。時間が遅かったこともありますが、本殿の前でも人は少しでした。裏の方に稲荷神社の社などがあり、電気が灯ってはいるのですが、誰も居ませんでした。

 境内は露店が切れ目なく続きますが、少ないのは否めません。地図を載せていますが、赤門筋もギッシリとはいえない状態でした。最盛期は国道43号線沿いも、切れ目無く露天商がひしめき合っていたのとは、隔世の感があります。商売の神さんですから、不況は尚更、込み合うといわれてきました。十日戎は正月の倍は混雑するのですが、この不況は「えべっさん」も泣かせているようです。

西宮戎参道の衰退について

 ここで御当地の道路について、若干説明しておきます。そもそも西宮戎の赤門(正面玄関)は、山陽道と西国街道の結節点であったのです。宿場町で赤門前には遊郭があったりして、大変賑わったもののようです。遊郭の名残が、戸田町界隈にスナックビルが多いことで、今に引き継がれています。

 地図で見ていただければ分るのですが、「えべっさん」への参道は「旧国道」といわれる、今は西宮市道となっている道路です。山陽道が赤門に突き当たっているのです。私が幼少の頃は、この「旧国道」を遥か尼崎の方から、正月には晴着を着た多くの参拝者がぞろぞろと歩いて通っていました。阪神電車と国道43号線の間には、地図には書きませんでしたが、北から鳴尾御影線・さくら通り・もみじ通り・旧国道があります。当然、50年代頃までは、旧国道が一番賑やかでした。国道43号線の公害もあり、車社会で人が歩かなくなり、電車で参拝する人が多くなって、西宮中央商店街のさくら通り・もみじ通りに、賑やかさは移ってゆきました。

 震災復興で中央商店街のアーケードが撤去されました。高層マンションを建設し、メンテナンスをするのに邪魔になったのが本音です。が、あろうことか行政は「震災で傷んだアーケードが崩れて、被害者が出たら商店街で責任を持つのか!」と、恫喝したのだそうです。アーケードを撤去する代わりに、石の舗装を行ないました。が、ビル風と雨が吹き込むために、総ての商店は開口部に戸を設置しました。今まで通りから店内まで、遮るものが無かったのに、戸を開けなければ商店に入れず、客足は激減してしまいました。折から不況と巨大商業施設による流通の形態変化もあって、中央商店街も衰退してゆきました。旧国道の衰退は更なるものになりました。

 注目して欲しいのは、旧国道と交差する札場筋です。札場筋は南北4車線道路です。何と、旧国道は札場筋を越えられないのです。信号もなく横断禁止になり、一旦、国道43号線の横断歩道に南下して横断しなければなりません。旧国道は西行き一方通行ですが、車も左折オンリーになっています。嘗ては山陽道を担っていた道が、西国街道(国道171号線)の延長の県道に分断されているのです。これも道の歴史なのでしょう。

「にこく」ってどれのこと

 「人間」とは「人の間をいい社会のこと」でした。嘗て広辞苑でも「間違って人をいう」としていたものです。でも、大多数が「人」のことを言うので、今は広辞苑でもその意を掲載しています。「にこく」つまり「二国」は、国道43号線のことを言うのです。国道2号線と勘違いしている向きが多く、次第にそうなってしまってゆくのでしょうか。

 国道2号線が整備されたのは西宮市では、70年ほど前の話になります。武庫川と支流の枝川の間は氾濫地帯でした。武庫川と枝川を整備し、その間の土地を売却し、そのお金で武庫川整備と国道2号線の整備をしたとしています。旧の枝川は浜甲子園線(阪神電鉄の路面電車が走っていた道路)で、広大な土地が売却されたことになります。その時できたのが甲子園で、十干(甲・乙・丙……)と十二支(子・丑・寅……)の組み合わせが甲子(きのえねね)であったので、甲子園と銘々されました。

 そんな昔にできたのが国道2号線です。国道2号線の近くには省線(院線を経て省線、後に国鉄を経て今はJR)が走っていました。当時は蒸気機関車で、火の粉を撒き散らしていた関係で、沿線には家はありませんでした。ところが国道2号線が開通すると、沿道には街並みが栄えてきました。道路ができれば地価が上がるという、現在では神話みたいな話が、こんな時代感覚から出てきました。

 そして戦後の戦災復興区画整理事業で、国道43号線が建設されました。国道2号線と区別するため、第二阪神国道と呼びました。第二阪神国道は長ったらしいので、「二国」と呼ぶようになりました。従って、国道2号線は「一国」と言っていたのです。それが国道2号線の2号と勘違いして、「にこく」と言う余所者が多くなってきたのです。

2010年の道路を占うと

 「構造改革」とは? 効率よく企業利益が上がれば、庶民にもオコボレが。生活水準は上がる筈? しかし、社員を派遣に置き換えて、低賃金で儲け。勤労者の大半の給与は減り続け、企業減税の穴埋めに、庶民増税をしたものだから、市場経済は冷え切りました。軸足をアメリカ経済(輸出)にシフトしましたが、アメリカもリーマンショック。

 今、企業の溜め込みは国民総生産に匹敵する規模。派遣切りを止めて正社員にし、法人税をもっと払っても、痛くも痒くもないのです。しかし、私の企業からと手を上げる会社はありません。そこは政治のやることですが………。給与水準の引上げと企業法人税を元に戻すと、景気は直ぐに良くなります。そうすれば企業も喜ぶのですが。

 道路行政も同じことで、不況の中で車社会がムダを創出していることが分ったはず。ここで「止める」といえない道路行政。彼らは死ぬまで変わることはできないのでしょう。ならば、住民サイドが主導権を握ることが必要なのでしょう。

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