『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』和泉山脈の高野豆腐つくり**<2005.11. Vol.38>

2006年01月14日 | 川西自然教室

宮本常一を読む(1)
和泉山脈の高野豆腐つくり

川西自然教室 畚野 剛

若き日の清遊  私は昭和29(1954)年4月、大阪の某薬品会社に就職し、一週間の新入社員教育の後、山口県の工場へ配属を申し渡されました。現地で抗生物質生産のための最新鋭工場の稼動が始まる6月上旬までの間は、大阪のペニシリンエ場にいました。この時期の5月28日、家の近くで仲良くしていたT君と和泉山脈の岩湧山に登りました。2人だけの送別会みたいな気分で行きました。

岩湧頂上にて  幸いに、この日は快晴で、岩湧山頂上の草原は5月の風が気持ちよく吹き抜けていました。私は、岩湧山の南側にはすぐ紀ノ川の流れる和歌山平野があって、頂上から見下ろせるものとばかり思い込んでいました。しかし実際に行って見ると、南側の目の前に大きな山が横たわっていたので驚きました。地図をよく見るとその方向の山は、和泉山脈主脈の主峰、南葛城山とわかりました。

向うの山に小屋が?  当時、双眼鏡など高値の花で、代わりに海賊式?の三段伸縮の単限望遠鏡をもてあそんで、喜んでいました。それで南の山をスキャンしていますと、尾根筋よりすこし下がったあたりに、点々と小さな建物のようなものが見えます! 「紀見峠から尾根を辿って来て、もし、あちらの尾根に迷い込んでも、あの小屋に避難できるね。しかし多分無人だろうね。」と、T君と語り合いました。いったい誰が何のために、こんな山の中に小屋を建てたのでしょうか? その謎が解けたのは、ずっと後のことでした。

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宮本さんの本と出合う  この後少々話が飛びます。私は、故郷を離れ、山口県で暮らし、大阪へは昭和36(1961)年6月に帰ってきました。大阪近辺の山の情報を貪欲に集めた時期です。その年の9月、本屋で宮本常一「村里を行く」(注1)を立ち読みしていました。「いそしむ人々」という章の、第一節は「高野豆腐小屋」と題されており、書き出しは「和泉山脈はまた葛城山とよばれた。……」で始まっていました。これで、この本を買うことを決めました。

(注1)宮本常一「村里を行く」の初版は三国書房、1943年です。私が入手したのは再刊の未来社、1961年ですが、もう私の手元にはありません。この文を書くにあたり、宮本常一全集第25巻「村里を行く」未来社(1977)を大阪市立中央図書館で探し出して、再読しました。これは今でも入手できますが、ちょっと高価(3,800円)ですので、興味を持たれた方は図書館で読まれる方がよいでしょう。

山口県から大阪へ  さてこの本を読むことで、7年間暖めていた疑問をはらすことが出来たのですが、そのまえに宮本さんがこの本を書かれるまでのことをお話ししましょう。宮本さんの出身地は山口県周防大島です。15才、大正12(1923)年に大阪へ出てこられて、はじめは電報配達のしごと(注2)をされていましたが、そこでは多くの同僚が激務の末、結核になり吐血して倒れて行ったそうです。氏は転進をはかって、天王寺師範の2部に入学、昭和2(1927)年卒業。それから12年に及ぶ教職員時代が始まりました。

(注2)電報配達時代の経験から、宮本さんは「路地裏にはどんな人が住んでいるのだろう」と思いを持たれました。それが後に日本各地の実地を歩き廻って、民俗学的データを収集されるときに役立ったのかもしれません。佐渡や対馬での現地調査で、まず行き先の郵便局を訪ねて地域住民の情報を聞き込まれたそうです。 インターネットのない時代の情報収集の生きた知恵といいましょうか……。『みちしるべ』第24号での井上道博さんの紹介と重なりますが、宮本さんは後年、民俗調査などのため、日本の村という村、島という島を歩き続けた方です。その行程は16万キロ(地球4周分)、旅に暮らした日は4000日、泊まった民家は千軒を越えたといわれています。自動車のはびこる現在、こんな学者はもう出ることはないのでは……。

泉南時代の宮本常一  昭和4(1929)年、当時、宮本さんは泉南郡の田尻小学校に勤務していました。フィールドワークとして、学校ちかくにたくさんあった溜池を見て歩きました。「池の中には寺や神社が水の権利を持っているものがある。農民は渇水期には寺社から水を買って自分の田ヘひくことがある。池一つにもいろんな権利(注3)が絡み合っている。その絡み方を見ていくことによって池の築造年代もほぼわかってくるようである。」と、鋭い観察・考察をされています。また、日曜日には、子供たちといっしょに、村を中心に10kmくらいの範囲を歩き回り、「小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが生きる力になる。」と説かれていました。子どもたちに慕われる良い先生だっただろうと思います。

(注3)最近、私が泉州のほうの博物館のかたから聞いた話ですが、「この辺の池は定期的に干し上げて、手入れをする。村中の人が集まり、魚たちを分け合う。その分け前の仕方にはちゃんとルールがあった。それを知らずに、ルール破りした者は厳しく責められたことが、文書に残っているとのことです。」

宮本の冬の岩湧山  さて先を急ぎましょう。宮本さんは昭和7(1932)年、岸和田市北池田小学校に赴任、放課後を利用して、3年あまりで泉南郡の集落をほとんど踏破しました。この間の一つの成果が、「高野豆腐小屋」と題する冬の岩湧についてのレポートでした。

 彼の宿所から望むと岩湧山が良く見えます。冬になるとその山頂ちかくにかすかな灯火が二つ三つともることに気づき、はじめは岩湧寺の僧が山に捧げる灯であるまいかと思われたそうです。しかし近隣の少年団の報告「雪中の岩湧登挙」で、高野豆腐を製造する小屋の灯火であることを知りました。

 そこで、彼は昭和9(1934)年2月に実地の探索にでかけたのでした。コースは次頁の地図の→のあたりから東へ入ってゆく谷に沿って登り、葛城山系とその支脈の岩湧山との分岐点である中ノ谷の峠に達したようです。ここには、点々と小屋がありました。その多くは無人でしたが、ようやく1軒の小屋で作業者たちを見つけることが出来たのです。ここへは山脈の南側の急斜面から和歌山県橋本市山田の人々が高野豆腐製造のために来るのです。宮本さんが来た時期は冬の作業期間が終わってから10日ほど経っており、後始末の人たちが残っていたのです。こうして、幸いにも、宮本さんはこの地の高野豆腐製造について詳しい聞き取りが出来たのでした。


岩湧山周辺図(1/5万地形図旧版による)
尾根近くの北斜面に不規則に点在する中塗り小矩形が高野豆腐製造の小屋と思われます。

雪の但馬から出稼ぎ  その話のなかで、わたしが驚いたのは、ここへ出稼ぎに来ていた人たちのことです。冬の灘の酒倉に働きに来る丹波杜氏たちは有名です。しかし、この小屋には但馬(浜坂、湯村)の人たちが2人来ていたのでした。その一人は70歳の老人でした。理屈としては、但馬でも寒いから高野豆腐は作れます。しかし、当時、大都市までの出荷が大変なため産業としては成り立たなかったのです。それゆえ、和歌山県まで出稼ぎにこなければならなかった。また和歌山の人よりも寒さに強いから頼りにされたようです。彼らが稼ぎを終えて国許へ帰る、はやる心情を宮本さんは描いています。

終わりに  この文は昭和初期の厳冬期に働く人々の貴重な記録と思います。私は、宮本さんの文脈中に、働く庶民たちへの暖かい思いやりの心を読み取ることができ、真冬のレポートであるにもかかわらず、心温められる気持ちになりました。

 宮本さんが行かれた時、ここの高野豆腐製造はすでに衰退の徴が見られました。それから20年後、私が岩湧山頂から遠望した小屋は多分、使われていなかったのでしょう。今訪れれば、何が残っているのでしょうか……。

おことわり;文中の地名や校名は現在のものといたしました。

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