街を往く(其の十五)
一杯のコーヒーにくつろぐギリシアの下町の人々
藤井新造
格安の海外パック旅行は、金銭上の負担は少ないが、その分長時間飛行となり加齢と共に肉体的に段々ときつくなりつつある。特に遠方の国がそうである。
昨年初めにブラジルのカーニバルの最終日のショー見学に合わせリオへ行ってきた。飛行時間は約35時間を要し、さすがの旅行好きの私も大変疲れた。旅行社は途中休憩個所としてトロントで降りて、ナイヤガラの滝見物の機会を作ってくれていた。その時、夜だったので、全体の風景は充分観察することができなかったが、滝そのものの雄大さもさることながら、カジノあり、キラキラと輝くネオンのホテル群があり、一見してレジャーランドの様相を示していた。滝も又、後にブラジルで見たイグアスの滝と比較すると、その規模は小さいものであったが。それでも一見に値するものだった。
私は、旅行先の国を決める時、映画を観て感動したり本を読んで興味を持ったところから選んで行っている。又、訪れた国では、必ずと言っていいほど、地下鉄に乗ったり、スーパーへ買物に行く。そして街を歩くようにしている。また、パブ(これに近いもの)をみつけてワイン、又はビールを飲むのを楽しみにしている。
今回のギリシア旅行も、今から15年前に映画『旅芸人の記録』(テオ・アンゲロプロス監督)を観てから、機会があれば常々行きたいと思っていた。それと、現在EUの中で経済状況が悪いと新聞・雑誌で書いているので、そういう社会の一端を覗いておきたかった。また、ギリシア文明に一度は接しておきたかったことなどを理由にして、この国へ足を運んだ。
前述した映画『旅芸人の記録』は、4時間近くの上映であり、しかも上映後、新藤兼人監督のトークがあった。新藤監督は当時、映画『午後の遺言状』を制作中であったが、主演の一人、杉村春子の手があかないので撮影を中断していると語っていた。
この映画はモノクロの画面で、全体として暗い感じが長時間続くので、観る方として随分疲れを覚えた。記憶として残っていたのは、旅芸人の一座が次から次へと芝居を演じながら、ギリシア国内を彷徨するもの悲しい姿であった。一座が追われるように場所を変え、流民の如く移動する姿は、ただ哀れではない、何かを感じさせるものがあったが、当時、それが何によるものか理解できなかった。
今回ギリシアへ行く前に、『物語、近現代史ギリシャの歴史』(村田奈々子;著)を読み、近年のギリシア国家の悲劇的とも言える複雑な歴史を知り、あの映画を理解できる手助けをしてくれた。
前書きが少し長くなったが、以下は旅行記というより感想文に近いものである。
今回は初めての3泊4日のエーゲ海クルーズを含めての遺跡めぐりであった。廻った島は、ミコノス島・クサダシ・パトモス島・クレタ島・サントリーニ島の5島で、一般的によく催行されるコースであった。島の中では、400余の教会があるところがあり、半分は遺跡と教会めぐりみたいであった。
クルーズも初体験であり、何といってもアクロポリスの丘の神殿・ゼウス神殿ほか、ギリシア文明の有名な遺跡群をゆっくり見学したいとの希望が旅立つ前にあった。
先ずアテネの市内見学である。アクロポリスの丘に登り、パルテノン神殿の観光。この丘に登ると眼下にアテネ市内が一望のもとに見渡せるようになっている。
アテネ近郊には約300万人が住んでいるというが、それほど大きい都市とは見えないが、カラフルな褐色の屋根とスパニッシュ風の壁の建物でぎっしりと詰まっている。アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿は、絵葉書でよく見るように、柱頭のみ残していて他は何もない。遺跡にあった文化財の多くは英国の博物館に収容されているからである。残ったものは、ギリシア全土の文化財が集められた考古学博物館内にある。もう一つ将来、英国より返却されることを予定し、アクロポリスの文化財を収容する国立博物館を見学した。
エーゲ海に浮かぶサントリーニ島(写真提供=藤井新造氏)
ギリシア文化財を簒奪(さんだつ)したい大英帝国博物館
英国は今のところ、それらの文化財をギリシアに返す姿勢は示していない。エジプトの文化財を大英帝国博物館に展示し、自国の文化財の如く誇示しているのと同じ構造である。
ギリシア文明、文化財は有名な遺跡の周辺のみならず、いたる所にある。例えば、ホテルのロビーの床が部厚いガラスで敷かれていて、脚下に遺跡が見えるように工夫している。又、地下鉄の通路の壁も、文化財(レリーフ)を埋め込み、通行人が見えるようにしている。まるで美術館の通路のようである。
どこを歩いていても、古代文化のギリシアの文化財を見ることができる。今から50年前になるが、三島由紀夫は次のように書いている。「アテネの町は、行人の数も商品も数多いのに、日本の縁日のような物寂しさがどこかにひそんでいる。夜の街衢(がいく)のありさまはブラジルの都会に似て、路上で立話をしている人が沢山おり、それを縫って歩くことが容易でない。……、夕刻の交通の劇しい車道を両手にグラスや壜(びん)をいっぱい積んだ銀の盆を捧げた給仕が、自動車やバスの間を縫って物馴れた様子で横切ってゆくのは、奇妙な面白い眺めである」(『物語、近現代ギリシャ歴史』村田奈々子;著)。彼が訪れた時代は、「約10年にわたる戦争で荒廃した国土」(上記の書より)のアテネの町の描写である。
このようなブラジルもアテネ市内ともども、社会は激しく変化し、50年後の今日、当然といえ、政治・経済の変容は著しい。例えば、ブラジルのリオも三島が観た光景とは一変している。貧富の差が大きいことは叫ばれているが、世界でも美しいと評判のコパカバーナの海岸では、若者がサッカーに興じていたり、泳ぎのあと浜辺で日光浴を楽しんでいる大勢の男女の群れが見られた。時間がゆったりと流れているのを感じたものである。それは昨年の2月のことであった。ブラジルと同じくギリシアも失業者が多く、特に若者は2人に1人が職についていないと聞いていたが、アテネはそのような暗い雰囲気はなく、明るい顔をして誰しもにこやかに歩いている。
ホテルから一歩外へ出ると、空気は乾燥し、古代の文化財がどこにもあり眩しく映ってくる。
アテネ市内で大きい公設市場に入ったが、そこでは果物・漁貝類・穀物・香辛料、その他の食用品が豊富で多くの人で賑わっていた。
アテネ市内で現地のガイドの婦人(ギリシア在住30年)より、経済がおちこみ失業者が多いと説明された。しかし、ギリシア国民は誰しも、一日一杯のコーヒーを飲む習慣は、今も続いている。但し、その一杯のコーヒーは、今まで3.5ユーロから5ユーロまでの値段のものを飲んでいたが、今では1.5ユーロから3ユーロのものと値段の安いものを飲んでいるという。
ギリシア人はギリシア人として、当然の如く自分達の生活習慣を守っているのを感じた。
次にアテネの街で、アテネ大学の前を通ったか、入口に向かって左側にソクラテス、右側にプラトンの石像があった。ここは2000年前、偉大な哲学者の生誕地であり、二人とも、この大学で教鞭をとっていた。そのことを何故か失念していたことを恥ずかしく思った。
二人のことを忘れる程、三島由紀夫も「古代の遺跡やさまざまな美術品に対し称賛の言葉」を惜しまなかったと同様に、私も文化財に圧倒されて、二人のことを忘れていたのかもしれない。
さて、エーゲ海クルーズである。前述した島々には主としてギリシア正教会であったが、何と教会の数が多いのにびっくりした。
私は、何時も教会に入る時に思うことがある。
西洋人は別にして、日本人の場合どんな気持ちを抱き入っているのであろうか。私の場合も信仰心の薄い者の一人であるが、それでも教会に入ると何となく「祈り」たくなる。若い時、大学のチャペルに入る時、それだけでも異和感を持ったが、年をとると、それなりに一端の信仰心に近いものが身体の内より湧いてきているのだろうか。
今回も、パトモス島へ行き、偶然にも聖ヨハネが黙示録を記述した洞窟を見ることになった。聖ヨハネ修道院は、当時イスラムの海賊から身を守るため、堅固な城壁に囲まれていたので、彼もじっくり思考を重ね、福音書を書きあげることができたのかもしれない。
修道院と言えば、山上の岩盤に建った尼僧院「大メテオラ修道院」「ルサノウ修道院」を見学した印象が強く残っているが、また機会があればふれてみたい。
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パルテノン神殿(写真提供=藤井新造氏)