『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

講演「国は見方だ と思っていた」

2015年01月28日 | イベント案内

講演国は味方だ と思っていた」
~福島県民健康調査、被災者支援政策の裏側~
子どもたちの未来は守られるのか
安心して暮らせる社会をめざして!

講師:日野行介 毎日新聞記者
著書:「福島原発事故県民健康管理調査の闇」(岩波新書)
    「福島原発事故被災者支援政策の欺瞞」(岩波新書)

3.11から3年半。いまだ多くの避難者と、母子避難を中心とする自主避難者が、さまざまな不安を抱えながら不自由さと先の見えなさのなかで暮らす。それらの人びと一人ひとりの選択を――帰還か、移住かを問わず――重んじようと議員立法で作られたのが「子ども被災者生活支援法」であった。しかし、それぞれの選択を尊重しようとした立法意思は、大きく旋回していく。なぜ、支援法は骨抜きになってしまったのか。誰が、どのようにして骨抜きにしたのか。

(岩波新書編集部:新刊の紹介より)

と き 2015年2月22日(日)14時~16時
ところ 女性センター・トレピエ 3階ホール
       尼崎市南武庫之荘3丁目36-1 ℡06-6436-6331

参加費 1200円(当日券) 1000円(前売券)
      震災避難者・しょうがい者・中高生は
      
600円(当日)、500円(前売)

アピール:森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)

一時保育:受講中、1歳から就学前までのお子さんを無料でお預かりします。
       
1月末日までにお申し出ください。

手話通訳をご希望の方は、1月末日までにご連絡ください。

主催:日野行介講演会実行委員会(連絡先)090-1146-0693(神崎)


高浜原発再稼働はダメダメ!
1500万人の飲料水を守ろう!


重大事故がおこると避難前に被曝

 関西電力の重大事故の想定によれば、事故から19分後に炉心溶融が始まり、原子炉容器破損(メルトスルー開始)が90分後にはじまるそうです。

 このような事故が起これば、原発近隣住民をはじめ、関西でも避難は到底間に含いません。また、原子炉容器に注水せず、燃料を溶けるに任せるという「対策」も大きな問題だと各方面から指摘されています。

琵琶湖が汚染された場合、安全な水の供給が困難

 琵琶湖は高浜原発から60km圏内にあり、事故時の放射能汚染が予測されます。尼崎市のみならず、関西の1300万人が琵琶湖の水を飲料水としています。これだけ大規模の人数に対し、長期間、代替の給水はできません。

尼崎市でも50mSv超の被ばく

 兵庫県防災計画課が発表した「放射性物質拡散シミュレーション」によれば、高浜原発が福島第一原発並みの事故を発生させた場合、尼崎市でも、大気中の放射性物質(放射性ヨウ素)を吸入することによる甲状腺に対する内部被ばくの影響が、50mSv超の日数が9日にも及び、安定ヨウ素剤の予防服用を行う判断基準を超えてしまいます。ぜひとも高浜原発3・4号の再稼働をやめさせましょう。

さいなら原発尼崎住民の会
尼崎市東難波町3-19-23 ソーシャルスペース内
090-1146-0693(神崎)

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2015年2月例会のご案内

2015年01月27日 | 月例会案内

阪神間道路問題ネットワーク
2月例会のご案内

2015年2月28日(土) 1:30~3:30p.m.
西宮勤労会館 第5会議室 3F

 1月も月末が近づき、「いぬ」「逃げる」「去る」といわれる年度末の早さを感じます。高齢化による早さか?進展する時代によるものか?ともあれ、インフルエンザの流行が言われています。健康に気をつけられて、乗り切りたいと思います。

 先の月例会は、新年会という訳でもなかったのですが、イカ天・御座候・チョコ・柿ピーetc.庶民のビール(?)も1ケース分の持寄りがありました。車の方には、お持ち帰り頂くことに。年末総選挙結果・大阪都構想の推移・イスラム国人質・西宮市県議補選・西宮市長の「偏向報道」発言etc.の情勢議論がありました。また、『みちしるべ』90号(7月号の予定)レセプションを、8~9月に行う提案が、S画伯からありました。

 会計担当のKさんから、報告がありました。ここでは詳細をお示ししませんが、ご要望の方には現金出納帳コピーをお渡しします。近年の平均財政は、次のようなものになります。

年平均出費 『みちしるべ』印刷代   5700× 6=34200
         『みちしるべ』郵送費   1800× 6=10800
         例会案内の郵送費    328×12=  3936
         例会会場費         1000×10=10000
                            合計   58936 

年平均収入 会費(団体3~4・個人1~2)      30000
         カンパ等                    2000
                           合計    32000 

 昨年分の『みちしるべ』印刷代を支払っていませんので、支払うと残高は10000円ほどしか残りません。ご覧のように、年間平均で27000円ほどの赤字になります。随分以前に、Mさんの南北高速に反対する会からと、芦屋道路ネットから多額のカンパがありましたので、その分を食いつぶしていたことになります。

 今後、経費節減も必要ですが、限度はあります。財政事業やカンパも積極的に考えなければなりません。みなさんの知恵と、ご協力をお願いします。

 当ネットワークの会計年度は、1月1日となっております。今年度の会費を、遅くならないうちに頂ければ幸いです。金額に関しましては、会則を引用しますので、参考にしてください。この規定を設定したのは、1999年6月20日のことです。昨今の長引く不況のもと、定年退職の方も多く、規定にかかわらず無理のないようにしていただければ結構かと思います。

内 規〔会費〕
  (1)会費を構成する費目  交流紙費、事務通信費、資料費
  (2)会費額算定基準
     会員数 01人~19人=3,000円
     会員数 20人~39人=5,000円
     会員数 40人~59人=7,000円
     会員数 60人~79人=9,000円
     会員数 80人~   =10,000円
  (3)申し合わせ
     各組織の申告によって会費収入が決まる。
     人数は厳密なものではない。
     少数組織(者)の過重負担を避ける。

 数字の上からは、財政再建団体とか債務整理状況ということになりますが、休眠状態で会費が払えていなかった団体もあります。また、定期的にカンパを頂いている方もおられます。シッカリと交流をして行けば、それほど問題となることはありませんので、余りご心配をされないように願います。

 それから、90号記念レセプションは、事業活動ということで行えば、それはそれで財政活動になるかと思います。ご提案を募集したいと思います。

 このご案内をFAXでお届けしていたみなさんへ。当方のFAX電話機が故障しまして、現在はシンプルな電話機をつないでおります。FAXも留守電もお受けできない状態にあります。よって、今回は郵送とさせて頂きました。しばらく先には、新しいFAX電話機を接続しますので、それまでの間は、何かとご不便をおかけしますが、よろしくお願いします。この際、E-mailに変更して頂ける方は、ご連絡お願いします。

事務局 藤井隆幸

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過去記事のアップも残すところ1割弱に

2015年01月23日 | 日記

『みちしるべ』の過去記事のアップ作業
残すところ1割弱になりました

『みちしるべ』創刊(1999年9月)から

 創刊から第87号(2014年11月・2015年1月合併号)まで、15年余が経過しました。「10年ひと昔」と言いますが、時代の変化が急速になった昨今、かなりの長期間と言えるでしょうね。阪神間道路問題ネットワーク・メンバーのなかでお亡くなりになった方も少なからずおられます。中心メンバーも高齢化は否定できず、入替りの変化もあります。

 この間、投稿された記事は、総数667記事に及びます。1号あたりの平均投稿は、7.67記事ということになります。2ヶ月に一度の発行ですが、やむなく合併号になったことも、何度もありました。一貫して投稿を続けられる方、著者の変遷も歴史を感じさせられます。

ブログ版『みちしるべ』の設置

 ペーパーによる交流誌も、まだまだその意義はあります。しかしながら、時代の要請もあり、第76号(2013年1月号)から、このブログ版を開始しました。当初は、過去の記事をアップする予定はありませんでした。

 実際にブログ版を実行する中で、過去の記事もアップして欲しいという意見も出てきました。確かに、過去記事アップをする中で、その意味も感じられました。創刊号からバックナンバーを総て綴じていますが、結構膨大で、パソコンで確認する方が楽ですね。

結構膨大な作業量の過去記事アップ

 創刊から5号までは、初代・代表世話人の故 砂場氏によるものであることは、何度か書いたところです。ワープロという、今では忘れられた機器で作成されていました。写真やカットは、切り貼りというもので、印刷しても綺麗ではありませんでした。

 勿論、デジタルデータが残っているわけではありません。どこかに、フロッピーディスクというものの中に、残っているかもしれません。でも、データ変換という厄介なことをしなければなりません。また、フロッピードライバーなんて、古(いにしえ)の機器を持っている人に借りなければ……。

 6号~55号までは、確かにS画伯がパソコンで編集していたのですが、何度もパソコンを更新する中で、データは何処へ行ったやら。

 そんな中で55号までは、活字をスキャナーで読み取り、デジタル文字情報に変換しています。デジタル変換も、90年代と比べれば、飛躍的に発達しています。とはいっても、点検しなければパソコンのOCRは完璧ではありません。特に、印刷が鮮明でない場合は、かなり技術を要しますね。

残り1割弱のアップと記事の整理

 デジタル情報の残っている56号以降は、総てアップを終えています。56号以前のモノでも、カテゴリー毎にアップしたものなどは、すでに終えています。今日の時点で、残り65記事となります。残り1割を切りました。

 S画伯から、「まっ、慌てずにユックリやりなはれ!」とは言われましたが……。残り65記事をアップし終わった段階で、記事の時系列の並べ替えをしたいと思っています。より多くの方に読んでもらうために、アップした段階でトップ記事になるようにしています。その為に、記事の順番はアップした順にランダムとなってしまっています。

 このブログを読んで頂く際に、カテゴリー<目次>から記事の選択をして頂くことを念頭に置いています。それにしても、記事毎に時系列になっていることも必要だと思います。

 最終的に、私も還暦と古稀の中間地点を越えることになりました。ブログ版が完成した時点で、誰か編集長をして頂ける方を探そうと思っています。現在の阪神道路ネットのメンバーの若手も、ソコソコの年になっています。社会の中堅を担うメンバーばかりです。もっとピチピチの若手を探そうと……。

 時代はドンドン進歩してきます。ネット上の作業ですので、地球上のどこでも出来る訳ですから。いや、宇宙からすることになるかもね。

編集長代理 藤井隆幸

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『みちしるべ』**「もういいでしょう」(斑猫独語63)**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月11日 | 斑猫独語

「もういいでしょう」(斑猫独語63)

澤山輝彦

 「芸術とはかしこまったもんやない」と言う信念でオブジェの数々を発表し続けるグループがあり、私もそこに紹介してもらい参加して一年になります。その発表の場の一つが「スペース御蔵跡」という画廊で大阪市中央区日本橋2にあります。この「御蔵跡」という名が気になりました。昔米蔵があった所だったそうです。その考証はまたいつかするとして、このあたりを歩いていると電柱にも御蔵跡という標識が巻いてあるのを見つけました。そこで手元にあった古い地図昭和53年版大阪府区分帳をみると、このあたりは南区御蔵跡町という町名だったことがわかりました。大阪の場合、区も改変され、町名変更も加わり御蔵跡町は中央区日本橋になってしまったのです。歴史性の抹消です。余分なことは考えなくてもよろしい効率優先であればそれでよし、国民は白痴化するほうが治めやすいのである、というとんでもない政策の現れであるとは考えすぎでしょうか。

 地名を変えることは行政にとって効率よく事務処理が出来るという一面はたしかにあるでしょう。この変更はわからないことはないという場合があります。また、住民がいやがるような地名がついてしまっている所、たとえば、字さらし首なんて所があるとすれば、これは変更してもいい、と思います。でもこのような事例については別問題として考える必要があります。

 地名変更は各地でどんどん進められました。都市や町村だけではなく国家規模でも進められてきたのです。最近では平成の大合併だとかで、あっちこっちひっつきまわったあげく、漢字表記を捨て軽いかるいひらがなの市名をつけた所がたくさん出来ています。皆さんもいくつかはご存知でしょう。まったく住民を馬鹿にした名づけだと思います。これぞ総白痴化が狙いですね。

 さて、私が今、住んでいる川西市大和(だいわ)は元兵庫県川辺郡東谷村でした。東谷村は明治22年町村制施行によって江戸時代の11の村が集まって出来たものだそうです。もうこの頃から合併による地名変更はあったんですね。その東谷村は多田村、川西町と昭和29年合併して川西市になった。川西というのは猪名川の西側に位置するところからきたものらしい。ある意味これも軽い名づけですが漢字は使っていますね。私がここに引っ越してきた頃新聞屋さんがサービスにくれた大和地区案内図という図には小字名が載っていました。大根畑や墓の北、墓の東などがあったのを憶えています。これらの字名は今ありません。無くなりました。これは住居表示に関する法律第3条1項及び2項というものに基づいて、平成7年1月25日に住居表示が変更された、ということです。うーん、住居表示の変更、ですか、まさに行政側の発想ですね。歴史を抹消する意図ありなどという考え方がまちがっているみたいです。まあ、そんな歴史が何度も繰り返され現代になっているのです。

 私がすんでいる大和ですが、大和は畦野の地名があった山を切り開いて住宅地にした所で、株式会社大和ハウスの開発によって出来た都市郊外新興住宅地です。故に大和という名前がついた、かんたんめいりょうの地名です。能勢電車の畦野が最寄駅になります。古代の牧場のあった所だとかで、小学校は牧の台を名乗っています。川西市牧の台一丁目この方が大和よりましかなあと思いますが。トヨタ自動車は挙母(こもろ)市を豊田市に地名を変えさせたのですから、新しく土地をひらいた企業がつけた大和、行政も良しといったのでしょう大和はまだ許されるところがあると言えば甘いでしょうか。

 まあ、そんな出来具合の土地になんのことなく生きているのだから、これからも必要ならば地名の変更ぐらい認めればいいのでは、と言ってしまいそうですが、そうは言いません。今はないテレビドラマ「水戸黄門」では黄門さんが「もういいでしょう」の一声を発して事はおさまるのです。私も知名変更は「もういいでしょう」と言いたいのです。何事であれ、お上のやることにはそれなりに理由がつけられますが、裏があることが多い。これを鵜呑みにして理解を示せば、えーそうだったの、負けちゃった、ということになる。歴史上様々な例を見ることが出来ますからね。

 閣議決定による憲法解釈、民主主義の原則を無視し国会を無視したとんでもないことが、堂々と行われています。反対は反対、守るべきは守る、このことを曲げてはならないのです。一寸でも理解を示すと地名が消えた、そんなものではすまない命が消える消される戦争で殺される、そんなことが今着々と準備されているのです。地名からもっと大変なことに目がむいてしまいました。

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『みちしるべ』 **赤い夕陽⑭**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月11日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑭

三橋雅子

別れと恐怖

 1945年 敗戦の年の満州・新京市の秋。

 ある日突然、同居人の三人の陽気な将校たちは、慌ただしく立ち去っていった。突然の命令らしく、荷物をまとめるのもそこそこに、ジープに飛び乗って「ダ・スビダーニャ(さようなら)」を連発しながら、あっけなく秋の風と共に去っていった。手を千切れんばかりに振りながら。その別れの形はむしろ幸いだった。彼らにとってもわれわれにとっても。あの、短期間で、しかも部屋に閉じこもったまま、ほとんど交渉のなかった、陰気なナギバイロとニキチンとの別れでさえ、涙と共に家族一人ひとりとの濃密なハグとキスには誰もが閉口を極めたものだったから、この、親しく、楽しい濃密な日々を共有した将校たちとの別れは、双方にとって、しんどいものとなったに違いない。時間があれば、彼らはおそらく、なりふり構わぬ滂沱の涙で、われわれを大いに困らせた筈だ。戦勝国の兵とか敗戦国の民とか、国を挟むがために、一体何なんだろう?とまたしても思うのだった。

 入れ替わり、早くもその夜の戦慄。

 その夜、父は万が一を予想して、大きい姉たちとねえやを安全な知人宅に預に送っていった。正解であった、間髪をいれず、その夜、強盗に踏み込まれたのである。このことは、前に(「赤い夕陽⑥」で)触れたが、私は中学生の姉の悲鳴で目を覚まし、父の首元に短刀が光っているのを見て凍りついた。母は私たちに見るな、と言って布団をかぶせたが、私は必死に布団の隙間からのぞいて、父の首元から目を離さなかった。短刀はピストルに代わった。兵士らしい薄汚い酔っぱらいは、ゆっくりとその引き金を引いてみせる。こっちを放せばお前の首は吹っ飛ぶ、と言っているらしかった。だからダワイ、ジェンギ(早く金を)と。父は既に出すものは出してしまっていたようだ。もうない、それで全部だ、という仕草をしきりにしていた。始末の悪いことに彼はへべれけに酔っぱらっていて、足元がよたついている。意図しなくても引き金は引かれてしまうかもしれない、ということは私も想像できた。情けないことに私は歯がカチカチいうだけで、喉が引きつって声が出ない。ふだんなら、得意の挨拶“ズドラースチェ(こんにちは)”とか“シトーエータ(これなーに)?”と問いかけることで、事態は少しは好転するはずだった。「スパコイノイ ノーチ ダワイ ダワイ(おやすみなさい 早く・・・)の皮肉も言えたかも知らないのに今は何もなすすべもない。我ながら情けなかった、これきしのことで、と。恐怖の悲鳴も泣き声も出なかった。果てしなく長い時間に思えた脅迫は外が白み始めるまで続いた。彼らの粘り強さにはかなわない。

 結果、何事もなく終わったが、知人たちの「思い出したくもない、怖かった思い」や「語るも辛い肉親の無残な死」に出会うたび、この夜を思い出して、わが身の幸運を幾度でも思う。そして「怖さ」とは痛みでも恐怖でもない、表現の出来ない、逃れられない、やりきれなさ・・・ということもぬぐいきれない。

風の如く去りし将校らよ 聴かまほし 恐怖の夜の闇の深きを 

餅とたんこぶ

 接取されていた我が家がようやく空いて戻ったが、ピアノやオルガンだけではなく、みごとに何もかもなくて、がらんどうになっていた。あれもこれも皆モスコウへ?道理で、来る日も来る日も我が家の庭は朝から晩まで荷造りに明け暮れていたはず。おかしいやら、溜息をつく間もなく、またどやどやと、今度は下士官あたりの、大分ガラの悪いのが大勢住むことに。一階は全部彼らに占拠され、われわれは応接間はもちろん、懐かしい居間や子供部屋に住むことも叶わず、二階に押し込められた。

 もう、この年も暮れようとしていて、父が餅つきをしようと言い出した。皆、ええ?このご時世に?という感じだったが、父はこのご時世だから景気づけにやるんだ、という。戦争に負けたくらいで餅つきまで止める手はなかろう、と。苦労して何とか材料の準備が整ったようだが、例年のように、もろもろの支度にかかる使用人たちは、下男とねえやの二人の日本人を残して、もう誰もいない。母や、兄嫁は大変だった。しかし搗き手には事欠かない。今日はあなたたちの手を借りる、というので、初めての、何をするのか?わくわくの、やりたくてしようがない軍曹たちが、手ぐすね引いて順番待ちである。おまけに、彼ら特有の「長続き」の習性で、杵を持ったら最後、疲れを知らぬどころが飽きないで、いつまでも杵を放さない。トロトロに搗き過ぎ、を母が止めさせるのに苦労した。更に後には、早くやらせろ、とうるさくせっつく行列・・・さすがに父も、えらいことになった・・・と頭をかく始末。

 さて食べる段で大事が起こった。皆おいしい、おいしいと、初めての餅に目を輝かしてがっつく。そのうちケッケッケッと異様な音がして「たんこぶ」とわれわれがあだ名している軍曹が、目を白黒させているのだ。あだ名の通り、額に大きなたんこぶがついているのだが、そのたんこぶがまっ赤になっている。慌てた。たいへん!みんなで背中を叩くやら、さするやら、最後は口に手を突っ込んで引っ張り出したのは、それはもう、でかいでかい餅のかたまり。丸ごと一口に食べたのだった。いやふたつ、みつ一度にか?

 ひと騒ぎが収まってホッとすると、父が切出すには、ひときわ真っ赤になった、たんこぶをみて、あれを取る気はないかと聞いてみろ、と言う。知人の腕のいい外科医なら、跡も残らないように、きれいに取るに違いない。ぜひ、あの邪魔者を取って、本国に凱旋させようじゃないか、ととんでもない事を言い出した。さあ、みんな首をひねった。母はそっとしておいた方がいいという。侮辱されたと取るかも知れない。同意したとしても、万一うまくいかなかったら?まさに、さわらぬ神に祟りなし、に違いない。この期に何を好んでお節介することがあろう。しかし父はお節介の性分がもう収まらない。どうしても、きいてみろ、きくだけでも。本人が不承知なら仕方ないが、と後に引かない。私たちは意思の疎通もままならないのに、と気が重かったが、仕方なく頭を寄せ合って作戦会議をした。先ず私が膝に乗って、たんこぶを撫で撫でしながら、あなたはこれを愛していますかと聞きなさい、多少気分を害しても、子供に甘いロシヤ人なら、・・・という作戦だ。私は気が重かったが、一生懸命やった。たんこぶを指して、これ触ってもいい?と言うと彼は喜んで私を抱き上げ、大いにやってくれ、かわいいだろう?みたいな事を言う。「パパがこれを取ったらあなたはもっともっとハンサムになるって言ってる・・・・」と結論に持っていくのは、なかなかの難事だったが彼は、大きななりをして結構シャイで、私たちの作戦に素直に乗ってきた。こぶを撫でながら、取れるものなら取りたい、という風な心情を吐露するまでに漕ぎつけた。父は「ほーら、みろ」といわんばかりに得意になって、早速知人の外科医のもとへ連れ立って出かけた。

 コブ取りの手術は成功し、しばらく経って包帯を取って帰って来た時には、見事にあとかたも薄く、すっきりしていた。オウっと皆がどよめく中、彼は鏡を見て、恥ずかしそうに鏡を伏せるが、またのぞきこんだり・・・と、いつまでもそわそわしていた。その様子は子供心にも純情に映って、大きななりをして・・・とおかしかった。父が「どうだ、さっぱりしただろう」とか「これでいい嫁さん候補がわんさと来るぞ」とか言えと言ってうるさい。それらしいことを何とか伝えると、彼は恥ずかしがって、ますます赤くなったコブの跡を撫でながら下を向いた。同僚からも口々に口笛を吹きながら、からかわれ、彼は、はにかむことしきり。帰国した彼に、いい相棒は出来ただろうか?

 毎晩ゥオッカをがぶ飲みしてはクダをまいていた、ガラ悪すぎの他の軍曹たちも、異国の餅の味を反芻しているだろうか?と時に思う。

たんこぶの跡に触れみて懐かしむか 異国に搗きし餅と共に

~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~

 週刊金曜日11月7日号の「東京の商店街から旅立った満蒙開拓団」(社会福祉救済運動さえも国策に飲み込まれた時代)が目に触れて、またしても私は私の投稿に(気が咎めて)身がすくむ思い。前にも書いたように、私の責任ではないけれど、同じ満州の戦後を経験した者が毎回のうのうと、楽しげな思い出を書いていることへの罪悪感(?)のようなものに気が滅入ります。この著者が「夢にも思わなかった」のは、開拓団は「農村部のみの話」と思っていたのが、まさか地元東京からも?に驚いているのです。

 この記事は地元大田区商店街からの開拓団が、敗戦時の逃避行で約千人中六百人余が集団自決、銃撃などで死亡したことを伝えています(『東京満蒙開拓団』ゆまに書房)。一般の開拓団全体の資料で半数以下しか生きて帰れなかった、と言うのとも、およそ合致する割合。被害の大きさではなくて、この著者が愕然とするのは、「『開拓団』の実態が『貧しい農村部』のみと思っていたのが、都市部の生活困窮者なども呑み込む『棄民』政策だったこと」です。東京からも?には私も初耳で、やや驚きましたが、出身者が全国的にまたがっていたのは分かっていて、父が難民収容所に物資を届けては何人かを連れて帰ってくるのは、少しでも縁のある人・・と思うのか、自分の出身の関東にゆかりのある人達の中の、特に疲弊はなはだしい親子達でした。この人たちは、新京まで何とか辿り着いただけ、まだ幸運中の幸運な人たちだったのでしょう。

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『みちしるべ』**東京銀座・歌舞伎座そして巣鴨**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月10日 | 山川泰宏

東京銀座・歌舞伎座そして巣鴨

山川泰宏

 朝から雨模様の憂鬱な天気です、東横イン池袋Ⅱの宿舎をでて、妻の今回の目的の同窓会は銀座の三笠会館本店で開催する。開催時間11:30まで雨の銀ブラを楽しんでみました。

 池袋に宿泊するのは初めてで、街の中は東南アジアからの人たちが多いのと、街全体がケバケバしいのが印象に残る街です。西宮住民としては田舎者の感覚になるのは否めない、そして街中が活気に満ちているのも正直、ある面で羨ましいとの思いもあります。

 さて、銀座に出るのに利用したのは東京メトロ丸の内線で池袋から新宿、荻窪・中野方面への電車です。四谷、後楽園、お茶の水を経由して銀座で下車するのですが、浦島太郎の如くまるで見知らぬ街にたどり着いた老夫妻です。

 集合時間まで銀座4丁目から新装なった歌舞伎座まで小雨煙る散歩です。銀座三越の旧店舗と新店舗、開店前の行列、そして歌舞伎座の前は観劇の長い観客の列が歌舞伎座前に溢れ、観光バスが止まり着飾った観劇の人の群れです。

 地方創生が叫ばれているが、やはり活気のある街が何処か羨ましくも妬ましくも思います。

 瞬間に頭の中を巡るのは、東京帰還の想いが急激に湧きあがります。関西脱出して、老後の日々を送りたいと思わず願いました。

 11:20泰子は同窓会で三笠会館へ、一人旅はフランク永井の「有楽町で逢いましょう」心の中で口ずさみ、数寄屋橋(橋は過去の思い出)有名な銀座教会をみて、東映会館の時代劇の看板を懐かしみながら交通会館をへて、山手線の有楽町駅から巣鴨に向かいます。交通費200円(有楽町~巣鴨)お身洗い菩薩観音様です。

 巣鴨は有名な刺抜き地蔵さんのある、とげ抜き地蔵商店街(延長800メートル)は巣鴨駅から庚申塚までの中を散策、高齢者の団体さんがちらほらとし、多くの商店街は開いています。

 昼食時間になり商店街の中に『ときわ食堂』の看板、昼食を待つ大勢の列に並び昼食をとります。カキフライ定食1040円。大きな牡蠣フライ5個・味噌汁・新香、そしてご飯お代わり無料です。赤魚の煮つけ1匹丸ごと、そしてアジフライ4枚460円+定食270円。

 巣鴨のとげぬき商店街は庶民の街でもありました。

 また庚申塚から早稲田まで、昔懐かしい都電電車が走り早稲田まで街中を走る都電電車の旅を楽しんできました。

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『みちしるべ』**街を往く(其の十五)**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月10日 | 街を往く

街を往く(其の十五)

一杯のコーヒーにくつろぐギリシアの下町の人々

藤井新造

 格安の海外パック旅行は、金銭上の負担は少ないが、その分長時間飛行となり加齢と共に肉体的に段々ときつくなりつつある。特に遠方の国がそうである。

 昨年初めにブラジルのカーニバルの最終日のショー見学に合わせリオへ行ってきた。飛行時間は約35時間を要し、さすがの旅行好きの私も大変疲れた。旅行社は途中休憩個所としてトロントで降りて、ナイヤガラの滝見物の機会を作ってくれていた。その時、夜だったので、全体の風景は充分観察することができなかったが、滝そのものの雄大さもさることながら、カジノあり、キラキラと輝くネオンのホテル群があり、一見してレジャーランドの様相を示していた。滝も又、後にブラジルで見たイグアスの滝と比較すると、その規模は小さいものであったが。それでも一見に値するものだった。

 私は、旅行先の国を決める時、映画を観て感動したり本を読んで興味を持ったところから選んで行っている。又、訪れた国では、必ずと言っていいほど、地下鉄に乗ったり、スーパーへ買物に行く。そして街を歩くようにしている。また、パブ(これに近いもの)をみつけてワイン、又はビールを飲むのを楽しみにしている。

 今回のギリシア旅行も、今から15年前に映画『旅芸人の記録』(テオ・アンゲロプロス監督)を観てから、機会があれば常々行きたいと思っていた。それと、現在EUの中で経済状況が悪いと新聞・雑誌で書いているので、そういう社会の一端を覗いておきたかった。また、ギリシア文明に一度は接しておきたかったことなどを理由にして、この国へ足を運んだ。

 前述した映画『旅芸人の記録』は、4時間近くの上映であり、しかも上映後、新藤兼人監督のトークがあった。新藤監督は当時、映画『午後の遺言状』を制作中であったが、主演の一人、杉村春子の手があかないので撮影を中断していると語っていた。

 この映画はモノクロの画面で、全体として暗い感じが長時間続くので、観る方として随分疲れを覚えた。記憶として残っていたのは、旅芸人の一座が次から次へと芝居を演じながら、ギリシア国内を彷徨するもの悲しい姿であった。一座が追われるように場所を変え、流民の如く移動する姿は、ただ哀れではない、何かを感じさせるものがあったが、当時、それが何によるものか理解できなかった。

 今回ギリシアへ行く前に、『物語、近現代史ギリシャの歴史』(村田奈々子;著)を読み、近年のギリシア国家の悲劇的とも言える複雑な歴史を知り、あの映画を理解できる手助けをしてくれた。

 前書きが少し長くなったが、以下は旅行記というより感想文に近いものである。

 今回は初めての3泊4日のエーゲ海クルーズを含めての遺跡めぐりであった。廻った島は、ミコノス島・クサダシ・パトモス島・クレタ島・サントリーニ島の5島で、一般的によく催行されるコースであった。島の中では、400余の教会があるところがあり、半分は遺跡と教会めぐりみたいであった。

 クルーズも初体験であり、何といってもアクロポリスの丘の神殿・ゼウス神殿ほか、ギリシア文明の有名な遺跡群をゆっくり見学したいとの希望が旅立つ前にあった。

 先ずアテネの市内見学である。アクロポリスの丘に登り、パルテノン神殿の観光。この丘に登ると眼下にアテネ市内が一望のもとに見渡せるようになっている。

 アテネ近郊には約300万人が住んでいるというが、それほど大きい都市とは見えないが、カラフルな褐色の屋根とスパニッシュ風の壁の建物でぎっしりと詰まっている。アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿は、絵葉書でよく見るように、柱頭のみ残していて他は何もない。遺跡にあった文化財の多くは英国の博物館に収容されているからである。残ったものは、ギリシア全土の文化財が集められた考古学博物館内にある。もう一つ将来、英国より返却されることを予定し、アクロポリスの文化財を収容する国立博物館を見学した。

 
エーゲ海に浮かぶサントリーニ島(写真提供=藤井新造氏)

 

ギリシア文化財を簒奪(さんだつ)したい大英帝国博物館

 英国は今のところ、それらの文化財をギリシアに返す姿勢は示していない。エジプトの文化財を大英帝国博物館に展示し、自国の文化財の如く誇示しているのと同じ構造である。

 ギリシア文明、文化財は有名な遺跡の周辺のみならず、いたる所にある。例えば、ホテルのロビーの床が部厚いガラスで敷かれていて、脚下に遺跡が見えるように工夫している。又、地下鉄の通路の壁も、文化財(レリーフ)を埋め込み、通行人が見えるようにしている。まるで美術館の通路のようである。

 どこを歩いていても、古代文化のギリシアの文化財を見ることができる。今から50年前になるが、三島由紀夫は次のように書いている。「アテネの町は、行人の数も商品も数多いのに、日本の縁日のような物寂しさがどこかにひそんでいる。夜の街衢(がいく)のありさまはブラジルの都会に似て、路上で立話をしている人が沢山おり、それを縫って歩くことが容易でない。……、夕刻の交通の劇しい車道を両手にグラスや壜(びん)をいっぱい積んだ銀の盆を捧げた給仕が、自動車やバスの間を縫って物馴れた様子で横切ってゆくのは、奇妙な面白い眺めである」(『物語、近現代ギリシャ歴史』村田奈々子;著)。彼が訪れた時代は、「約10年にわたる戦争で荒廃した国土」(上記の書より)のアテネの町の描写である。

 このようなブラジルもアテネ市内ともども、社会は激しく変化し、50年後の今日、当然といえ、政治・経済の変容は著しい。例えば、ブラジルのリオも三島が観た光景とは一変している。貧富の差が大きいことは叫ばれているが、世界でも美しいと評判のコパカバーナの海岸では、若者がサッカーに興じていたり、泳ぎのあと浜辺で日光浴を楽しんでいる大勢の男女の群れが見られた。時間がゆったりと流れているのを感じたものである。それは昨年の2月のことであった。ブラジルと同じくギリシアも失業者が多く、特に若者は2人に1人が職についていないと聞いていたが、アテネはそのような暗い雰囲気はなく、明るい顔をして誰しもにこやかに歩いている。

 ホテルから一歩外へ出ると、空気は乾燥し、古代の文化財がどこにもあり眩しく映ってくる。

 アテネ市内で大きい公設市場に入ったが、そこでは果物・漁貝類・穀物・香辛料、その他の食用品が豊富で多くの人で賑わっていた。

 アテネ市内で現地のガイドの婦人(ギリシア在住30年)より、経済がおちこみ失業者が多いと説明された。しかし、ギリシア国民は誰しも、一日一杯のコーヒーを飲む習慣は、今も続いている。但し、その一杯のコーヒーは、今まで3.5ユーロから5ユーロまでの値段のものを飲んでいたが、今では1.5ユーロから3ユーロのものと値段の安いものを飲んでいるという。

 ギリシア人はギリシア人として、当然の如く自分達の生活習慣を守っているのを感じた。
 次にアテネの街で、アテネ大学の前を通ったか、入口に向かって左側にソクラテス、右側にプラトンの石像があった。ここは2000年前、偉大な哲学者の生誕地であり、二人とも、この大学で教鞭をとっていた。そのことを何故か失念していたことを恥ずかしく思った。

 二人のことを忘れる程、三島由紀夫も「古代の遺跡やさまざまな美術品に対し称賛の言葉」を惜しまなかったと同様に、私も文化財に圧倒されて、二人のことを忘れていたのかもしれない。

 さて、エーゲ海クルーズである。前述した島々には主としてギリシア正教会であったが、何と教会の数が多いのにびっくりした。

 私は、何時も教会に入る時に思うことがある。

 西洋人は別にして、日本人の場合どんな気持ちを抱き入っているのであろうか。私の場合も信仰心の薄い者の一人であるが、それでも教会に入ると何となく「祈り」たくなる。若い時、大学のチャペルに入る時、それだけでも異和感を持ったが、年をとると、それなりに一端の信仰心に近いものが身体の内より湧いてきているのだろうか。

 今回も、パトモス島へ行き、偶然にも聖ヨハネが黙示録を記述した洞窟を見ることになった。聖ヨハネ修道院は、当時イスラムの海賊から身を守るため、堅固な城壁に囲まれていたので、彼もじっくり思考を重ね、福音書を書きあげることができたのかもしれない。

 修道院と言えば、山上の岩盤に建った尼僧院「大メテオラ修道院」「ルサノウ修道院」を見学した印象が強く残っているが、また機会があればふれてみたい。


パルテノン神殿(写真提供=藤井新造氏)

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『みちしるべ』**ボランティアの阪神20年 明かりで心温めたい**<2014.11&2015.1. Vol.87>

2015年01月10日 | 山川泰宏

【毎日新聞 記事より】

ボランティアの阪神20年 明かりで心温めたい

神戸・市民交流会」事務局長 山川泰宏さん(76)

 毎年1月17日に神戸市中央区の東遊園地で開かれる追悼行事「阪神淡路大震災1・17のつどい」を仲間と企画し、ボランティアとして運営に関わってきました。ろうそくを入れた竹灯籠約1万本を並べ、地震が起きた午前5時46分に「1・17」の文字を浮かび上がらせます。

 つどいの始まりは1998年。実行委員長を務めた中島正義さん(2011年死去)らと神戸市中央区の小学校跡地で竹灯籠を「1・17」の形に並べたところ評判を呼び、99年から東遊園地に場所を移しました。

 その日は、犠牲になった6434人に祈りをささげるだけでなく、震災後の日々を懸命に生き抜いてきた人たちが一つになる日だと感じています。街は復興しても、心の痛みは消えないまま。そんな人たちの心を温め、明日へ向かってそっと背中を押すような明かりを神戸の街にともしたいと思っています。

 来年で発生から20年。震災を知らない世代が増え、記憶の風化が進んでいるのも事実です。数年前から、竹灯籠やろうそく作り、当日の運営を大学生が手伝ってくれるようになりました。震災を忘れず、若い世代に語り継いでいくためにも活動を続けることが大事だと思っています。

【宮嶋梓帆、写真も】

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『みちしるべ』**敗戦前後満州国建設から滅亡迄**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月10日 | 単独記事

この記事は『らくがき』13号に掲載されたもので、山川泰宏さんが著者の承諾を得て、新たに打ち直した原稿を転載するものです。

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敗戦前後満州国建設から滅亡迄

駒場松桜会関西支部
樽井弥栄(104歳)

 清朝廃帝溥儀氏を皇帝に満州帝国は日満協力の上、新満州国を建設した。新国家の建設に日本国民は、建設、経済、交通、満鉄その他の機関と共に活躍し政府と協力、近代国家となった。

 政府、関東軍,溥儀皇帝を信じ、理想に燃えて命をかけて渡満した日本の若者たちの夢の新国家です。満州中央銀行は国の中核として創立され、その威容に引かれ主人も重役と共に渡満した。若かった、夢と希望、平和の歓喜、国を信じ生き甲斐と命をかけて働いた中央銀行員の一人である。

 しかし、突然勃発した大東亜戦争に、満州国は平和の歓喜に酔った十数年のドラマの様に消えてしまった。国造りに協力、滅び行く国とも知らず敗戦までの間「召集」の一声に命を失った人々に心が痛む。

 当時、主人は鉄の都、鞍山支店長。昭和製鋼所を目標に爆撃と空襲は日毎に激しくなる。連日市街戦は続く。B29の爆撃に死んでいく人、食料の確保も出来ない飢えを案じる日々が続く。主人「銀行は軍と運命を共にする」と最後と思う言葉を残して,B29の飛ぶ空の下、責任者として活躍、遂に健康を害し新京本店に戻った。

 突然、日ソ不可侵条約を破って不法侵入してきたソ連軍に新京の事態は急変、占領下は、焼き討ち、略奪、火の海となる流言に混乱し、市民に直ちに疎開の命が出る。行き先は吉林街道から朝鮮部略まで。二〇分の間に家も財も捨て、体一つ工員一同の大部隊の列が吉林街道を目的地へと続いて歩く。

 高梁畑の続く北満の八月は暑い。喉の渇きを訴える子供たち、水は無い。そのとき目に入った満人のトマト畑、無断で十銭玉を置き手を合わせ祈りながら頂いた忘れられない悲しい事実。変わりやすい天気は夕方から豪雨、道は川となり一同の行く手は塞がれた。早く目的地へと騒ぐ一同を静めて、指揮者は途中日本人の軍官学校に交渉し二日間宿し雨の晴れるのを待つことになった。食料は残り少なく乳飲み子に与える水も無い。雨水でもと雨の中、外に迷い出る。鬼が住むか仏が御座しますか考える事も無く一軒の農家の戸を叩いた。地獄に仏、軍官学校の日本校長社宅、事情は万事承知されて愛情のこもった待遇、農家からの作物を調理して家族全員迎えられ、牛乳を搾って乳飲み子の命も助けられ、腹ごしらえが出来た家族は生気を取り戻し生きられる限り頑張る約束をし感謝の涙で別れた。その後、この地も匪賊の焼打ちに追われ新京に難民として来ることになり銀行社宅にこの家族を引き受けて、引揚げの日まで家族の援助を続けた。恩返しのできた実話。「情けは人の為ならず」とは。

 雨もやみ再出発の正午、昭和二〇年八月一五日停戦を告げる天皇詔勅が一同を驚かした。

 この瞬間から我々は敗戦国民として敵地に取り残される運命となる。情勢は変わって周辺の日本人家屋から火の手、焼打である。匪賊に変わった満人たちの襲撃が始まる。一刻の時も許されない立ち退く方々、このまま前進して朝鮮に南下か、後退して新京に戻るか、選択は指揮者の双肩にかかる。結局死を決して新京へ引き返す夜の強行軍となった。帰途も又雷雨、豪雨、沖天に立つ日柱。耳下の雷鳴銃声も一旦死を決した不思議な生命力は恐れる物も無くずぶ濡れの膝迄つかる泥道を歩く。一人一人と命を失っていく。背中の乳児は冷たくなったまま涙も無い。丈なす高梁畑に隠れて匪賊から逃れて漸く着いた南陵の朝日の美しかった事か。煮干しと高梁のお握りも忘られない。塩もない。

 朝鮮に南下した銀行以外の部隊は皆惨殺された由。行く折も雨に止まって命拾い、帰途も又雨、明るい月夜であれば匪賊に追われて修羅場の展開となったであろう。また、軍官学校の人の愛情が無かったら、帰途の恐ろしい行軍に我家族も生きる気力は無かったと思う。匪賊に追われ何度も高梁畑に助けられながら、天運、幸運、人情の有難さに感謝、泥沼に眠りかける子供の手を引っ張り、何時終わる命かと見つめながらよくも7人家族が無事生きられた事かと、今、思えば不思議な運命だった。

引揚げ

 敗戦後日本人としての運命は日々一瞬一瞬死と向かい生活苦との戦いとなった。幸いに我家は銀行の庇護の下に、危険も苦労も一般の人より少なく、何としても故郷に帰りたい願いで生きられた。無事引揚げの日を迎え感謝。引揚げの日までの一年、酷寒の冬を過ごしての一年間の生活は筆紙に書き尽くせない。ソ連軍、共産軍、八路軍、政変は続き、紙幣は変わり生活の安定なし。苦難の一年を過ごし、国府軍となって漸く引揚げが始まった。初秋の北満九月の風は冷たい。限られたリュックサックの中に最低の心細さも故国に帰れば何とかなる希望があった。

 行員一同との最後の別れ、見送る西山総裁の姿も淋しく悲しい別れであった。我家も五人の子供を連れ死境を越えて、故国の土を踏むまでの苦労の数々、自分の心のドラマとして死ぬまで残る事と思う。

 人生を振り返って見ると、人力では動かす事の出来ない不思議な力に左右される天運の二字である。生きるも死ぬもこの二字に片づけられて幸不幸の別れ道となる。しかしこの天運を生かす力は、人間の優れた「英知」と「決断力」のある事も知らされた引揚者の実例。

 人間生活の第一条件、健康、人脈、愛情、希望を以って前進する事。色々体験して今日のある幸に感謝です。

短歌  敗戦の思い出・満州より引揚げ

     耳下に銃声聞けり高梁の 
        畑の穂波に身を守られて

     引揚車走る広野の闇の中
        卑俗は襲う夜毎夜毎に

     引揚げて帰る祖国は爆撃の
        焼野となりて茫然と立つ

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『みちしるべ』**2015年 乙未の年を迎えて**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月09日 | 藤井隆幸

2015年 乙未の年を迎えて

世話人 藤井隆幸

『みちしるべ』の歩みを振り返って

 この『みちしるべ』も1999年9月の創刊で、15年の歴史を歩んできました。何故か5年を経過した第30号(2004年7月)発行の際に、記念のレセプションを行いました。さらに、10年を経過した第60号(2009年9月)の時も、祝賀会を開催しました。順調に行くと2015年7月号が90号目に当たります。15年過ぎの節目に、また何か催しましょうか? それとも、2年後に第100号のきりの良い時まで待ちましょうか? いずれにしても、人が集まらなくては……、ですね。まっ、今後の例会などでのご議論を、よろしくお願いします。

 創刊から第5号までは、初代 代表世話人の故 砂場徹さんが編集をされていました。すっかりパソコンが定着する今日には、若い人の中には知らない人も出てきたかもしれませんが、富士通製ワープロのオアシスというので編集していました。見かねた澤山輝彦 世話人が、6~55号まで編集長を引き受けられました。澤山編集長のご夫人が事故で怪我をされ、当面の編集長代理ということで、私が引き継いだのですが……、代理のまま今日まで引きずっています。

 さて、時代は進化し、インターネット時代になりました。好むと好まないにかかわらず……です。とりあえず、ブログ版『みちしるべ』を立ち上げました。第76号(2013年1月)から掲載を開始しました。2年を経過して、日閲覧者の合計は56,000を越えました。日閲覧ページ数合計も134,000に達しました。表紙の下に記載しているように、「みちしるべ」「阪神道路ネット」の二文字で検索すれば、見ることができます。過去の記事も掲載して欲しいという要望もあり、現在は80%以上のアップを終えております。月例会や関係団体のイベントなども、気の向くままに掲載しています。100%の掲載が終了し、記事の整理が終われば、誰か管理者を探さねばと思っています。世界中どこに居ても出来るのですからね。

2015年の情勢を占う

 ところで、砂場徹さんや大橋昭さんが代表世話人を務められていた頃は、正月号に必ずと言って、世情を分析する年頭の辞が掲載されたものです。現在、代表世話人は空席になっております。私ごときが、年初の巻頭の辞を掲載するのは、多少、おこがましいきらいがあります。まっ、誰もが固辞する中で、少しばかり紙面を汚すとします。

 2015年の年頭に当たって、誰もが提起するであろう二つのことがあります。阪神淡路大震災から、1月17日で20年を迎えます。1970年にフォーク・クルーセダーズと言うグループが、戦後25年にして「戦争を知らない子供たち」と言う歌を作りました。もう、「震災を知らない子供たち」が増えてきているのですね。

 また、昨年末の総選挙で、「戦争を知らない」三世議員の安倍晋三首相率いる内閣が圧勝(?)しました。国内外から、過去の戦争に反省しない政権として、注目を浴びています。秘密保護法・憲法解釈改憲・集団的自衛権など、過去の自民党では為し得なかった突出した政権が出来上がりました。

 ユーラシアプレートと北米プレート、その下に潜り込もうとするフィリピン海プレートと太平洋プレート、まさに日本列島はプレート境界上に存在する、地震列島と言えるでしょう。糸魚川・静岡構造線という最大級の活断層の一部が年末に動きました。全長800kmと言われる、関東から九州につながる中央構造線も、何時動くか? これらの上にいくつかの原発が存在します。

 地震の活動期に入ったと言われますが、超ハリケーンや超台風が発生して問題になっています。温暖化と関係があるとも言われますが、200年続いた気候の安定期も終焉という説もあります。土砂災害や食料危機に備えなければならないですね。

 政治に関しては戦後70年にして、米ドルを基軸通貨にして世界貿易を活発化しようという、ブレトンウッズ体制が崩壊しつつあります。ブレトンウッズと言うのはアメリカの田舎町。終戦直前に西側戦勝国が集まって、戦後経済を話し合ったわけです。戦後唯一の経済大国のアメリカ中心主義だったのですが、……。

 極端な富の偏在と集中は、世界経済を低迷させだしています。そんな中で、莫大な人口を抱えるアジアの台頭があります。そんな新興勢力と、「腐旧」勢力が、国と言う枠組みのみならず、資本の枠組みでのせめぎ合いを拡大しています。

 そんな混乱期に、日本の政治は大局が見えずに、目先の事象に振り回されているというのが実態と見ています。

人類は進歩するのか破滅を選ぶのか?

 ここで指摘したいのは、地球上に70億人もの人類が、生息してしまったということです。人類の歴史なんてのは、高々300万年ほどのもの。地球が誕生したのは46億年前のこと。バクテリアなどの生命が誕生したのは38億年前ごろと考えられているようです。そして、ホモサピエンスと言われる大きさの生物が、70億個体も存在したのは、地球史上かつてないことなのです。

 そして、宇宙はさておき、地球史上で初めての文明を構築しました。その文明は急速に進展し、尚且つ、加速度的に膨大化しています。単に進歩とは言わないところに注意してもらいたいのですが。

 人類が原始生活や、せめて封建社会程度の活動量だと、地球が破滅しない限り、安泰だったのかもしれません。が、核兵器一つとっても、巨大核弾頭が10数発炸裂するだけで、人類はおろか殆どの生物が死滅すると言われています。その核弾頭が、17,300発も保有されています。その戦略はコンピュータ化されており、世界の首脳の誰もが否定しても、誤作動で核戦争は容易に発生します。

 象徴的な自滅のストーリーだけではなく、世界経済も恐ろしい動きをしています。日本の若者は長時間過密労働をしています。世界のこのような過密労働は、人類の生命活動に必要な量の、幾何級数的倍率で蓄積しているのです。それは化石燃料の不必要な燃焼になっているのだろうし、地球上の0.0001%の人たちによって、殺人兵器を駆使することによって、多くの人々を殺傷していてます。その反発を彼らは阻止する術を持ち合わせていません。

 地域コミュニティーであれば、お互いの顔も見え、自制の何かがあるでしょう。が、マクロ社会では、賢い人が最もバカなことをやらかします。単にお金の魔力なんて言っていられるのは、庶民レベルの事でしょう。聖職者ぶると、何処からでも凶弾が飛んでくるのです。

 さて、困ったものですが、破滅を選ぶのも人。危機を脱出する術を考えるのも人です。地域コミュニティーなら、話し合いで解決できます。それが、先の総選挙でも、多くの賢人たちが努力したにもかかわらず、あまり芳しいものはありませんでした。それを批判するつもりはありません。忘年会で毒づいて、毒舌家のS画伯から粉砕されたからかもしれませんが。

 マスコミュニティーには、インターネットが対応するのだと思っています。我々の世代には、否定的な感性もないではないのですが。ここで注意したいのは、ネット上では相手の見えない応酬があります。現代社会の都会でも同じことがあります。相手も同じ人であること、同じ感性を持ち合わせていること、それを理解したうえで、ネット活用をしなければならないように思っています。

 ノストラダムスではないのですが、人類の加速度的進展は、2015年に何らかの調整を必要とすると考えています。ノストラダムスのように、知ったかぶりはしませんが……。

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