『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

第40回 道路全国連交流集会 に参加しました

2014年10月13日 | 日記

 道路全国連が毎年開催している全国集会に参加してきました。阪神間道路問題ネットワークからは、「八多中(神戸市北区)の自然と住環境を守る会」のNさんと、私の二人が参加しました。

 内容につきましては、11月号の『みちしるべ』に掲載したいと思っています。とりあえずは、集会の最後に採択されたアピールをご紹介しておきます。

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集会アピール

 第40回道路全国連交流集会は、横浜市の神奈川県立「あーすぷらざ」で開催され、46団体、211人が参加した。

 本交流集会は今回で40回目を迎えた。この間、全国で繰り広げられてきた多くの道路住民運動団体の成果は必ずしも納得のいくものばかりではなく、むしろ厳しい闘いの連続であった。しかし、全国各地の団体は、それぞれの運動を通して発信された多くの声に鼓舞され、勇気づけられて、運動を継続することができたのも事実である。

 40周年の節目に相応しい、中央大学の米田貢教授による「これからの日本」と題した記念講演は、経済学の専門家の目からみた日本経済の現状と今後の展望を分析して提示し、参加者に確信を与えた。

 また、「道路運動40年、これから」と題したパネルディスカッションは、研究者、弁護士、ジャーナリスト、運動団体など各分野で活躍している方々がパネリストとなり、道路住民運動の現状の問題点を明らかにするとともに将来の方向性と展望を切り拓くものとなった。今後の私たちの活動に役立つことを願うものである。

 安倍自公政権は10%へのさらなる消費税増税を強行しようとする一方で、「国土強靭化」の名のもとに、不要不急の大型公共事業を10年間200兆円規模で進めている。これは古い自民党政治のもとで失敗した愚かな政策を繰り返すことにほかならない。大都市圏の環状道路をはじめとした高規格幹線道路、リニア中央新幹線、スーパー堤防、ダムなど、国民から厳しい批判のある大型公共事業の復活と新規事業のゴリ押しは、自然と地域社会を破壊するのみならず既存インフラの点検・修復・整備を遅らせることとなり、国民に生命の危険を負わせ、膨大な財政負担を次世代に残すことになる。

 日本の人口は急速に減少し、少子高齢化社会が進んでいる。現在の愚策を続けるならば、国内産業はさらに空洞化し日本経済は一層低迷することは疑う余地がない。国土強靭化による大型公共事業の推進ではなく、国民の安全・安心のために、貴重な税金は、少子化対策や年金福祉、医療・介護等に振り向けることが肝要である。

 多くの矛盾を抱える社会に対し、市民の側から反転攻勢のチャンスを見出し、今後いっそうの市民運動の広がりと連携を進めていくことを決意する。

2014年10月12日

第40回道路全国連交流集会

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【あまがさき人権まつり 2014 】のご紹介

2014年10月02日 | イベント案内

「平出正人の迷惑通信」より

【あまがさき人権まつり2014】のポスターを紹介します。

日時;11月2日(日)11:00~16:00
場所;尼崎中央公園(阪神尼崎駅北側)

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『みちしるべ』横断車道(76)**<2014.9. Vol.86>

2014年10月02日 | 横断車道

「ジキル博士とハイド氏」「車に乗ると人格が変わる」など、二重人格というらしいが。最近あった事件だが、小学生の死体遺棄事件など。容疑者が捕まってみて、「おとなしい性格で、信じられない。」などのコメントがあることが多い。元来、人は良い方の性格だと信じたい▼「窮鼠猫を噛む」。追い詰められると、ネズミもネコにかみつくという諺。追い詰めらけていない人は、信じられない訳だが。一千万円では殺人を請け負わないかもしれないが、一億円だったら心が揺れるのでは……。ターゲットが、次第に悪人に見えてくる。例えが非常に適切ではないが▼だったら、オバマや安倍はどうなのか?シリアのアサド政権を倒すために、右翼暴力集団に、諜報機関を通して支援した。そいつが「イスラム国」に変身して、足元に火がついた。秘密保護法(治安維持法)を強行採決したり、集団的自衛権などという、憲法違反の戦争容認国にしようとしたり。国家の中枢にいると、自分の良心よりも、周辺の巨大な圧力の方が勝る実態があるのだろう▼人類は国家という暴力装置を維持しているが、賭博経済という化物は、その枠組みを乗り越えて、地球規模で膨張している。人は生きるために生産をする。その必要性を突破して、投機資本は自己増殖を成し遂げた。実態経済の何万倍もの架空経済(マネーゲーム)が存在する。とは言っても、コンピュータの中の信号しか存在しないのだが。現実には、軍事力や警察権力によって、マネーゲームの権益は保証されている▼中国の中心世代は、文化大革命中(66~77年)に学齢期を持っていた。これは中国の中心部が学業を積んでいない、アキレス腱であろう。本来なら、地球規模の経済破壊から、良識で立ち向かわなければならない大国であったはずだ。一部の良識のある指導層が、国の暴走に歯止めをかけられるか、非常に疑問がある▼日本はというと、脱原発運動など、市民層の良識が大きくなりつつある。スペインに発し、ニューヨークでのOccupy Wallstreetから、世界でのOccupy運動の盛り上がりに象徴される、ネットを通しての成果を上げつつある。しかし、経済化物側からの、金に物を言わせたネット荒しに、多くの若者などが影響下にあるのも事実▼その中で、政治革新側はどうなのか?戦後、自民党と対抗していた社会党は、見事に分裂攻撃に後退。それでも、その支持層は頑張ってはいる。結集の核を持ち得ていないのだ。なら、共産党はというと、団結の体裁は維持しているが、末端では腐った実態を一部とはいえ、見せられている。不破君の文化大革命(古典の連続教室)など、陳腐な教条だろう▼人類の活動が巨大化し、地球という枠組みが危うい今、ハイド氏側に任せておく訳には行くまい。良心で世界を運営するために、日本が貢献する気概が大切。勇躍するところに、人々は集うのである (コラムX)

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『みちしるべ』この流れとめるのは主権者である我々だ (斑猫独語62)**<2014.9. Vol.86>

2014年10月01日 | 斑猫独語

この流れとめるのは主権者である我々だ
(斑猫独語62)

澤山輝彦

 毎日、朝食時にその日の朝刊を見る。食べながら新聞を読むのは行儀の良いことではないから、さっと見出しを目にするという程度にはしているが、たったそれだけの事でも消化によくないことがたびたびある。8月3日の朝刊(毎日新聞)の第一面のトップ見出しも消化不良を誘発するものであった。四段で「有事に民間船員『徴用』防衛省検討 戦地輸送で予備自衛官に」とある。もう、これはほとんど戦争中だといって通用することではないか。政治家や官僚にここまで頭を働かしてくれと頼んだ覚えは絶対にない。記事にはすでに2社から高速のフェリー2隻を借りる契約を結んだとあるから検討ではない、すでに実施していたのだ。この国はどこまで戦争にむけて突っ走るのだろう。太平洋戦争では軍に徴用された民間船約2500隻が沈められ、6万人以上の船員が犠牲となった。記事はこういう導入部で続いていく。

 私の母が神戸から《あるぜんちな丸》で渡米した時と、友人がが《ぶらじる丸》で移民する時の二度、神戸港の桟橋から船出の人を見送るという経験をした。銅鑼が鳴り別れのテープがいっぱいの船出は特別の情緒を感じさせてくれた。涙の別れというものではなかったから、二隻の船を間近に見ることができる、あわよくば見送り人として乗船できないかなあ、そんな考えを伴った見送りであった。その時は知らなかったがこの二隻いずれも二代目だったのである。初代《あるぜんちな丸》は昭和14年7月に就航、昭和18年11月長崎で大改造され、航空母艦「海鷹」になる。海戦を潜り抜けてきたが、昭和20年呉軍港で米軍機攻撃により被弾、7月豊後水道で機雷に触雷、別府湾へ曳航中空爆をうけ大破、実働わずか三年半であった。《ぶらじる丸》は開戦後、海軍の特設運送船となり軍需物資の運搬にあたっていた。ミッドウェー作戦にも参加している。昭和17年8月4日「空母へ改装、至急横須賀へ回航せよ」の命を受け、トラック島から単独回航中5日潜水艦の魚雷攻撃を受け被雷7分後、乗組員便乗将兵389人のうち188人とともに沈没する。戦後両船は再建されたが過去の栄光ある活躍はなかったようだ。私が目にした時はまだ活躍していた頃なのであろう。末路は中国へ売られた、台湾で解体されたなどさびしいが、船の最後は解体、鉄にもどるのである。

 海運がすたれ、鉄道輸送もすたれていった。両者の接点である港周辺の臨港鉄道の跡などたどろうにも痕跡すらないというほど消されてしまったものが多い。この両者に復活の兆しがあるという情報を得たのだが、それがどこからだったかたどれないのだ。情報源はとにかく、このことはスピード、利便性一辺倒でやってきた様々な現代機械技術とそれと共に変化していった人間性について考え直す大事な時点の一つになるのではないだろうか。道路問題の原点はまさにここにあったのだ。私達が生きる時間は限られるが、急いで時間だけを送っても得ることは少ない。時間をかけるということは人間であることをそこにかけるということだ。そこには発見があるかもしれないし、思索は深まりはすれ薄れることはない。物を考える時間が無いなどと言うことはなくなる。スローに生きる、自然とともに生きる、海運、鉄道輸送の復権を自分達のこれからの生き方にあてはめて考えてみたのだ。

 「徴用」という言葉から始めたこの独語、徴用なんて言葉は使ってほしくない、二度と見たくない。兵隊を運ぶなら自前の軍艦、輸送船で運べばいい。いやこう言ってはいけない、日本は戦争を放棄した国だ、軍艦なんて要らないのだから。歯軋りしながらでも戦争をしてはならないと言い続けなければならない。どんなことがあっても次回の国政選挙にはこんな戦争好き好き勢力を絶対に勝たせてはならない。有権者一人ひとりにこのことが問われている。賢くならなければならないのだ。

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※ あるぜんちな丸、ぶらじる丸については「客船がゆく 海・人・船のものがたり」土井金二郎著 情報センター出版局 1991 を主に参考引用した。

※ 日本の商船隊の潰滅の歴史は「日本商船隊戦時遭難史」財団法人海上労働協会、昭和37年というのに詳しいという文献も見つけた。

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『みちしるべ』赤い夕陽⑬ 敗戦の秋のピクニック**<2014.9. Vol.86>

2014年10月01日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑬ 敗戦の秋のピクニック

三橋雅子

 ある日、同居人のソ連将校たちはピクニックに出かけようという。将校三人と、こちらは三姉妹と兄嫁の四人で。磊落な両親もこれには大分迷ったようで、すぐにはウンとは言わなかった。彼らは持ち前の粘り強さで、根気強く説得していた。我々はお宅のお嬢さんたちには決して失礼なことはしない、むしろ町の危険から守って、ピクニックを楽しませたいのだ、というようなことを代わる代わる熱心に説いていた。事実私たちは安心できる外出に飢えていた。後日『アンネの日記』の外出できない辛さのくだりで、そうだ、これほどではないけど、あの時はほんとに外の陽気をふんだんに浴びたかった、と思い出したくらいだ。両親もそれを察していたから、無下に禁じられなかったのだと思う。ようやく、行って来いとは言ったが、珍しくくどくどと、詳細な注意事項を言い渡した。ふだん和気あいあいで仲良くしているから、と言って決して油断してはいけない、隙を見せるな、決して一人にはならないこと。手洗いにも必ず連れ立っていくこと。自分の身はどんなことになっても最後まで諦めずトコトン守るのだ、と厳しい表情で言った。特に私への任務は厳しかった。姉の一人が将校の誰かと連れ立って離れることを許してはいけない。その時は憚らず大声を出して騒ぎ、くっ付いて行くんだ、とまるで姉たちの安全は、私の肩にかかっているかのように。その任務は重かった。私はつくづく「人を甘く見てはいけないのか?」と複雑な思いだった。叱られた覚えのない私は、尋常でない注意を重く受け止めた。

 厳しい長い冬の到来の前の、小春日和とでもいう上天気のピクニックは、さんさんと降る太陽の下で、涙が出そうに嬉しかった。安心して、護衛付きで、ピクニックが楽しめるなんて、と誰もがルンルンとウキウキした。しかしすぐ、油断してはいけないのだ、と気を引き締めつつ、それでも頬が緩んで、すぐ歌が口をついて出てきた。たちまち混声合唱に。道行く人たちは、どういう集団だろう?と怪訝そうに眺めていたようだ。やがて広げるお弁当。将校たちも子供の遠足のように、おにぎりに目を輝かせて、オーチェンハラショー(すごくうまい!)と嬉しそうに頬張る。皆幸せだった。ともすると、重大な任務を忘れそうだった。時々、いけない、浮かれて気を緩めてはならないんだった、と両親の注意を反芻した。ゲームに飽きると散策したり・・・この時私は、両親の注意はここだな?と非常に緊張して、ばらばらになるかも知れない時を警戒した。その時はナイン、ナイン(だめだめ)!と大声を上げるんだな、と唾を飲み込んで緊張した。

 赤い夕陽が沈みかけるころ、名残を惜しみながら何事もなく無事に帰り、待ちかねた両親のホッとした顔を見て、心配のほどを知った。しかし、若い下男が、終始我々を尾行して見張りをしていた、と知った時は、思わずとハッとした。何も知らなかった。両親はねんごろにねぎらってはいたが、私は申し訳ない想いで、顔を見られなかった。彼はレインコートをかぶって、よく引っ張られた父を尾行して大働きをした時のように、気付かれないように周到に後を付け、一人木陰でじっと私たちを見守り、一人でおにぎりを頬ばっていたのだろうか。私は胸が詰まった。

 秋惜しむ一日(ヒトヒ)の宴少年は木陰に菰を被りて護る

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