白秋と民衆、総力戦への「道」
「詩歌と戦争」(中野敏男;著)より
神崎敏則
頭の中が釈然としないまま、6月26日に尼崎市議会で「日の丸条例」の修正案が可決されてしまいました。保守系会派「新政会」から議会に提案されたのが2月20日。それから急しのぎで「STOP日の丸条例・尼崎市民緊急行動」が立ち上げられ、僕もできる限りの参加をさせてもらいました。
橋下大阪市長の影響に感化されて勢いづく保守議員。抗議集会や座り込みを妨害しに来た、排外主義を公然と主張するネット右翼グループ。従来の尼崎の運動の局面とは異なる状況が多々ありました。しかし一番驚いたことは、駅頭で宣伝活動をおこなうと「日の丸条例」を批判する訴えに対して反発する市民が少なからずいたことです。ナショナリズムと排外主義は意外に浸透していました。この「STOP日の丸条例」の運動の中で、なるほどと感心させられることも多々ありましたし、こんなすごい人もいるんだと思える人と出会うこともできました。かえすがえすも、修正案が可決されてしまったことはとても残念でなりません。でもその一方で、これから多くの市民と一緒にどんな運動を展開していくのか、この問題意識を自分の中にしっかりと根付かせたいと思っています。
そんな時に中野敏男著『詩歌と戦争』(NHKブックス)という本に出会いました。
一 しずかな しずかな 里の秋
お背戸(せど)に 木の実の 落ちる夜は
ああ かあさんと ただ二人
栗の実 煮てます いろりばた
二 あかるい あかるい 星の空
鳴き鳴き 夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ とうさんの あの笑顔
栗の実 食べては おもいだす
三 さよなら さよなら 椰子の島
お舟に ゆられて 帰られる
ああ とうさんよ 御無事でと
今夜も かあさんと いのります
これは日本人なら誰もが知る『里の秋』の歌詞です。1945年12月24日に「外地引揚同胞激励の午後」というラジオ番組で初めて放送されました。国民学校の教師をしていた斎藤信夫が作詞したそうです。当日から反響が絶大で、『里の秋』は童謡としては珍しい「大ヒット曲」となっていきました。しかしこの『里の秋』には『星月夜』という原作品があることをこの本を読んで初めて知りました。
1941年12月に同じ斎藤信夫によって作詞された『星月夜』は1番と2番は『里の秋』と同じなのですが、3番と4番が次のようになっていたそうです。
三 きれいな きれいな 椰子の島
しっかり 護(まも)って くださいと
ああ 父さんの ご武運を
今夜も ひとりで 祈ります
四 大きく 大きく なったなら
兵隊さんだよ うれしいな
ねえ 母さんよ 僕だって
必ず お国を 護ります
日米開戦という状況下で、戦争遂行に貢献したいと願う軍国少年の心情を表した翼賛詩歌として作られていました。しかしそれは斎藤信夫個人の特異性ではありません。
戦前戦中の翼賛体制の中で、軍部や特高によって切り刻まれるように言論を弾圧されてきた歴史があるのも事実ですが、文学者や作曲家や演奏者、新聞・ラジオなどのマスメディアを含めて、自ら進んで戦争協力に邁進していった大きな流れもあるのだそうです。
1931年の満州事変により、国民総動員の総力戦の「十五年戦争」に突入した流れは、著者によれば1923年の関東大震災を起点にしているのだそうです。当時は大正デモクラシーの真っただ中で、
- 1920年「十五夜お月さん」
- 21年「赤とんぼ」「どんぐりころころ」「青い目の人形」「雀(すずめ)の学校」「夕日」
- 22年「砂山」「赤い靴」「シャボン玉」「黄金虫」
- 23年「春よ来い」「月の砂漠」「おもちゃのマーチ」「肩たたき」
- 24年「からたちの花」「あの町この町」「兎(うさぎ)のダンス」「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」
- 25年「ペチカ」「雨降りお月さん」「アメフリ」
- 26年「この道」
など、私たちが子どものころに覚えた、懐かしい童謡が発表されていました。
1925年8月7日、北原白秋は鉄道省主催の樺太観光団の一員として樺太・北海道の旅に出ます。その2日前の8月5日、後の昭和天皇裕仁(当時は摂政裕仁)が初めての樺太訪問に向けて最新鋭戦艦長門に乗艦し横須賀港を出発していました。時の摂政裕仁は、当時病状が進行していた大正天皇の代行として日本各地に「巡啓」「行啓」を重ね、行く先々で国民は数千、数万の単位で集まり、日の丸の旗を振り、最敬礼をして君が代を斉唱し万歳を叫ぶ、「臣民」としての経験を体感することが繰り替えし実践されていました。
植民地の拡大を目指して進んでいた大日本帝国の歩み=摂政裕仁の樺太巡啓と白秋の旅が実際の旅程において重なり合いました。白秋は樺太からの帰途に立ち寄った北海道での感慨を基礎に「この道」を創作しました。
この道
この道はいつか来た道、
ああ、そうだよ、
あかしやの花が咲いている。
あの丘はいつか見た丘、
ああ、そうだよ。
ほら、白い時計台だよ。
この道はいつか来た道、
ああ、そうだよ、
母さんと馬車で行ったよ。
あの雲はいつか見た雲、
ああ、そうだよ。
山査子(さんざし)の枝も垂れてる。
この道とは、異郷の地である樺太とは違う北海道の道であり、「いつか来た」と感じてしまうほどの郷愁を抱かせる風景でした。そして樺太という植民地の道は、その後の白秋の中では、天皇が「知ろしめす道」へと発展(??)していくのです。
25年10月28日の白秋は『都新聞』に「明治天皇頌歌」を発表します。
一 大空の窮(きわ)みなき道、わが日(ひ)の本(もと)の、
天皇(すめらみこと)の神(かん)ながら知(し)ろしめす道。
故(ゆえ)こそ畏(かしこ)き大御心(おほみごころ)
仰(あふ)げや、国民(くにたみ)。
崇(あが)めや、諸人(もろびと)、
われらが明治の大(おほ)き帝(みかど)を。
四 まつろはぬ、陵威(いづ)のまにまにうち平(ことむ)けて、
四方(よも)を和(やわ)すと高領(たかし)るや恩沢(めぐみ)うるほう。
故こそ正しき大御軍(おほみいくさ)。
仰げや、国民。
崇めや、諸人、
われらが明治の大き帝を。
ここで表現されている道とは、大空にきわみがないのと同じように、日本の天皇が支配する道もまたきわみなくどこまでも続く道だと高らかに宣言しているのでしょう。嫌悪感で寒気がします。
そして26年2月、詩人北原白秋は「建国歌」と題する作品を発表しました。
一 そのかみ天(あめ)つち闢(ひら)けし初め、
げに萌えあがる、葦禾(あしかび)なして、
立たしし神こそ、
国の常立(とこたち)。
いざ、
いざ仰(あふ)げ、起(た)ち復(かえ)り、
かの若々し神の業(わざ)を。
四 爾(ここ)にぞ、明治の大(おほ)き帝(みかど)、
げに晴れわたる、青高空(あをたかぞら)と、
更(さら)にし照らさす、
四方(よも)の八隅(やすみ)に。
いざ、
いざ仰(あふ)げ、起(た)ち復(かえ)り、
わが弥栄(いやさか)の日の出(づ)る国を。
思わず眉をひそめてしまうくらいの、あまりにも露骨な天皇賛美の作品です。
震災後という状況を脱して平時に復帰するのではなく、本格的な総力戦とそれへの総動員の時代が始まろうとしていました。詩人白秋とそれを読む日本の民衆の心情の変化をうかがい知ることができる本です。
現在の私たちが直面する課題にそのまま当時の状況を当てはめることはできません。しかし、ナショナリズムや排外主義の影響を受ける国民が多数となってしまうのか、それとも少数に封じ込めることができるのか、私たちはその局面に今立たされているような気がしてなりません。本誌「みちしるべ」が指し示す道とはどんな道なのでしょうか。
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