『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**『みちしるべ』100号を記念して**<2018.5. Vol.100>

2018年06月25日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

『みちしるべ』100号を記念して

山手幹線沿道の環境を守る市民の会
                山本寿満子

 昭和生まれの者にとっては、いつまで経っても、今年は昭和何年と数えてしまいます。今や、昭和で言えば93年、平成30年になってしまいました。来年には、又新たな年号に変わっていきます。益々計算が難しくなりそうですね。“笑”

 平成3年、非常に環境の良い私たちの住む北町にパチンコ店が出店するという、実に寝耳に水という問題が持ち上がりました。おとなしかった住民もこれには黙ってはいませんでした。反対運動が始まりました。そこに、翌平成4年道路拡幅問題が一方的に行政から通達され、住民が怒ったのでした。『みちしるべ』には“私の住民運動”として連載して頂きました。

 今から考えれば、よくも154日もテントを張って座り込みをしたものだと、また武庫川河川敷で一晩すごしたことも。又、こんなこともありました。運動を始めて間もなく住民の集会がある夜、小学2年になる息子が腹痛で隣の病院に入院。盲腸といわれ、翌日手術すると言われましたが、集会を欠席するわけにいかないので、息子を一人病院に残して集会に出ました。親としては無茶なことでした。ところが、息子は看護婦さんに浣腸してくれといい、それで直ったと、翌朝退院しました。本当に笑い話です。

 このように色々なことがありましたが、長きにわたって運動を続けられたのは、決して私たち地域住民だけではできたことではありません。ネットワークの皆さんが遠いところから応援にはせ参じて下さったおかげだと思い、感謝の気持ちは誰もが持っています。全くの素人がここまで行政を相手に8年近く戦い続けることは無理なことだったと思っています。

 その間に阪神大震災がありました。北町で21名の方が亡くなられたのです。地域住民も避難されたりして、随分少なくなりました。その上、会長までマンションで水が出ないといって海外の息子さんのところに避難されて行きました。副会長であったので、役員さん達と奔走したことも、今となればいい思い出です。震災から23年、その時の会長もいません。次の会長もいません。第一線で戦ってくれた人達も今はもういなくなりました。寂しい限りです。

 応援団長だった砂場さんもいなくなりました。2人で一人のように走り廻っていた彼女も、去年お盆に亡くなりました。ご主人が先に亡くなられ、気の毒でした。

 最後の市との終結については、多くの関わって頂いた方々全てのお思いを満足させることができたかどうかはわかりませんが、当時の判断としてはやむを得なかったのではと思っています。

 市との話がすべて終わってみると、近くの買収地は大きなお屋敷だったから、広い空き地になってました。市はその空き地をポケットパークに予定していました。私はかねてから小さくても住民が集まれる場所が欲しかったので、市と交渉を始めました。

 しかし、答えはいつまで経っても0か100です。との返事しか帰ってきませんでした。私は友人たちのグループで、ひとり暮らしのお年寄りのへのお昼のお弁当作りをし、配達する活動を平成6年6月から始めていました。最初は代表者の家で料理をしていました。地震でその方の家が壊れてマンションに越された時も小さな台所で、先ずは公園の仮説住宅に避難されているお年寄りに、スープやおつゆを届けました。

 私はこの素晴らしい活動を続けるためにはどうしても、小さくても皆が集まって料理ができる場所が欲しかったのです。個人の家では長く続けるには眼界があります。ねばり強く交渉を続けました。しまいには、部長が言いました。運動の最終の文章に、この建物の件も一文入れておいてくれればやりやすかったのに、って。

 これを建ててくれれば運動を辞める、みたいなことは絶対にできないと、部長に言いました。私はそんな性格ではありませんと。全てが解決してからでないと出来ない話だと思っていましたから。

 同じやりとりが続いて最終的に市が出した答えは、建物の中に環境調査の機械をおいて年間を通じて調査をすると言うことでした。何回も説明会の場で環境調査所を設置するよう要望してきましたが、こんな市道には作れないと言ってきたのに、それを大義名分に建物が建つことになりました。

 一年かかりました。中の設備も調理が出来るように、無理を言っていわゆる集会所の湯沸かしだけのレンジでなく、大きいのを入れて頂きました。出来れば電子レンジが欲しい。欲張りだと思いましたが、市には頼めないだろうから、工事をした建設会社に寄付を頼んで欲しいと市職員に相談しましたら、いくらって言われたので、お金は貰えません。現物を寄付して貰いたいと伝えました。希望通り電子レンジが届き、今も活躍しています。感謝です。

 この建物が出来た暮れに、町内会の役員会で年末の食事会をみんな持ち寄りでしました。その時に今は亡き黒住先生が“山本さん、ここが出来て良かったですねえ。何時になっても帰れって言われませんね”としみじみ言われました。この言葉が忘れられません。

 平成13年11月20日から現在に至って、マザースポットの活動は25年目に入りました。本当に皆様に感謝の気持ち大です。心からありがとうございます。

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『みちしるべ』**山手幹線街路事業 熊野工区に関するコメント**<2009.11. Vol.61>

2009年11月03日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

山手幹線街路事業 熊野工区に関するコメント

山手幹線沿道の環境を守る市民の会
代表 山本 甫

 

 まずは基本的には四車線拡幅は必要なしであり反対である。

  最近の社会情勢を見ても車社会から環境優先に基軸が置かれていることは周知の通りである。車社会と謳われ道路重点に公共事業をなされてきた時代は今や考え直すべき時にきています。それを西宮市は旧態依然と同じことを住民の意志を無視して強引に押し進めようとしていることに怒りを覚えます。若者は職もなく、未来に夢を持てず、苦しい生活を強いられ車を乗り回して休日を楽しむことが出来るのはかぎられています。

 かつて日本の自動車5000万台、6000万台、7000万台と増加してきました。しかし今後10年、20年後の所有台数の予測を西宮市はどのようになされているのか。人口においても飛躍的に減少するだろうことを予測されています。

 又、高齢者が早4人に1人となりつつある今日、免許の更新はおろか返却を強いられています。このような現状は嘆かわしい社会ではありますが、事実として受け止めなければなりません。今後の道路事情に多いに影響があることは必至であります。

 この事業に22億円もの費用が必要であるそうですが、西宮市の負担金はいかがでしょうか。

 今年3月31日地域の住民の永年の念願であった甲子園口駅のバリアフリー化が達成されました。これは永年の住民の戦いの末、最後は住民が大臣のところまで陳情に行き着手されることとなった経緯は当局が一番良く承知されているはず。10年越しでやっとできたわけです。ではなぜそこまで時間がかかったのか、それは当局がいつまで経っても5000万円以上は出せないと頑なに住民を無視してきたからです。

 ではこのたびの熊野工区についてはどうでしょうか、22億円のうち1/2が市の負担と伺っていますが事実であれば10億円以上のわれらの税金を使うことになる。その上、コメントを出させてあたかも住民との相談の結果のような市のやり方はポーズとしか考えられません。一方的に事業ありきの文書を説明会で配布し、募集期間をすでに半分過ぎた時点での日程で行われたことは、いかに住民を蔑視した傲慢な姿勢といわざるを得ません。

 現政権においても、無駄な事業を極力廃止し、ソフトの面でのより充実した国民への支援を目指しております。私たち西宮市に於いても市民人口の増加に伴い、また、少子化や高齢化のためになさなければならない保育所の問題、学童問題のため、また介護問題の施策が優先されるべきではないのか。現在の熊野工区は地域住民のための生活道路として住民は満足しております。一部時間帯の渋滞についても受忍の限度を超えているとは考えられません。将来の子供たちに先輩として胸を張れる地域づくりのために市当局と相対してまいりたいと願うものであります。

 また、コメントを提出させるための第一段階の説明会で、この工区の事業決定もなされていない時点で、神戸までを現在二車線であるところも全て四車線に突っ走ることを言明するような説明会を開いた愚かな担当者というか、担当局長の行政マンとしての人間性を疑いたくなるような西宮市に落胆すら覚えます。過去の苦い経験が何も生かされていないと言わざるを得ません。まさしく住民の気持を逆撫でし、反発を招いているに他ならない行為であり、何のための、誰のためのコメント提出であるのか誠に遺憾であります。

 平成14年5月31日、山手大橋完成に伴い尼崎市とつながり、当然のごとく交通量は以前の3倍にもなっている。平成7、8年頃の市の説明会にて、平成22年に28,000台の交通量を予測してきたことはご存知の通りですね。現在20年度の調査で二車線供用で20,000台を超えている事実をどのように説明されますか。地域の住民との「環境基準を守れる道路にする」との約束もあってないが如しの状況であることは当局が一番承知している筈ではないか。その当時より熊野工区以西のフラットの地域については十分な対策が出来ないことを市も認めてきたことをまさか忘れたとは言えまい。

 現実に二見町以西。特に甲子園段上線以西については基準オーバーは常時である。平成8年の振動及び交通量のデータ、それ以後の市が毎年行ったデータの一覧表の提示を求める。上武庫橋工事期間また北口の大型商業施設の工事期間及び開業後のデータこれら全てを公開するよう要求する。

 大型商業施設の建設時には説明会にて大いに交通量の増加が懸念され、阪急側も調査を行い、予測も出したが住民としてはなかなか納得出来なかった。が、しかし、架橋後の交通量は土、日曜日の午後に集中している。

 昨年秋商業施設開業後についてもほぼ変わらない状態である。 当局は車が増えるから車線を増やせば解決するという将来の見通しのなさを嘆かざるを得ません。その考えは改めるべきであり、間違っていることを自覚すべきであります。

 過去の当局との話し合いの席上にてわれわれが散々指摘してきことです。現に、架橋されて増えた車が住宅街の抜け道を探し生活道路が脅かされていることをこの7年間実感している事実を当局はどのように解決の手を差し伸べてきたか。市民と一緒に協働し、より良いまちづくり、より住みやすい西宮を目指すならば、平成3年以来西宮市始まって以来の大住民連動において、市政始まって以来の、税金を納めている市民を裁判にかけ、罰金まで取るぞと脅してまで強行した行政の汚点を反省すべきではないか。

 真に市民のための行政を目指すのであれば、まずは市民の信頼を得るべく話し合いの持ち方の努力をすべきではないか。そして市民のための街づくり、道路づくりを共にめざすべきではないか。市の職員が一度でもこの山手幹線の通学時に歩道を歩いたことがありますか。自転車は車道を走れと言っても危なくて走れない状況であり、幼稚園から小、中、高校生までの通学時開帯はほぼ同じです。危険と隣りあわせでお互いに通行している状況であります。市民に優しい市攻とはこのような問題にこそ取り組むべきことであり、改善をなすべきではないのか。

 この山手幹線の都市計画をなされたのは昭和21年とか、戦後の野原に線引きした都市計画であります。今63年後の地域の形態は変わり、単に線を引いた計画を何が何でもその通り実行しなくてはならないという発想はナンセンセスです。時代は変わっています。以前、架橋をやめて貰いたいとある政治家に話しました。橋を作る話ならいくらでも国から金は取ってきてやるが、辞めろという話は乗れないといった故老がいました。今は違います。辞める勇気が求められています。それが出来る西宮市の市政を切に望みます。何がなんでも四車線ありきの話からはじめる当局に対して不信感を抱くとともに、その手法を改めることを要求します。

 今の二車線道路は生活道路としてわれわれには十分であると考えます。

 税金は市民が納めたものです。その税金は市民のために有意義に使われるべきであり、子供からお年寄りまで安心して、安全に暮らせる街、いつまでも住んでいたい街に、そんな街づくり、道づくりを市民とともに作る。そんな行政を目指していると信じている市民への裏切り行為であります。

 行政マンは市民と同じ目線で話し合いをすべきです。上から、オカミ、にお願いの時代ではありません。ひざを突き合わせての話し合いが出来て初めて信頼関係が生まれるものです。あなた方の仕事は市民のためによりよく働く公僕であることを自覚し、忘れてもらっては困る。

 過去の山手幹線街路事業、松並工区事業の際、市が市民に誇れるようないい道を作ると約束して出来たものです。熊野工区についてもそれと同じく地域住民にとって喜ばれるような道作りを期待するものであります。西宮市の中でも熊野町、二見町といえば最高の住宅地であります。又高齢者の割合も高い地域でもあります。そんな住宅地の中に通過道路としか言えない四車線道路は環境悪化を招くのみであります。

 又、交通事故が多発することを懸念し、地域の住民に害をあたえるだけの道路であってはならない。それを市の面子のために住民が犠牲にされることは断じて許すことはできません。

 最後に、今後の話し合いについては沿道住民を分断するような姑息なことをせず、全ての人が納得できる会の開催を要求しておきます。

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『みちしるべ』**砂場さん ありがとうございました**<2009.2. Vol.56>

2009年02月03日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

砂場さん ありがとうございました

 

山手幹線沿道の環境を守る市民の会
山本寿満子(世話人)

 私が砂場さんとはじめて出会ったのは平成4年の夏だったと思います。

 西宮市での市民の会が前年の3年の秋に結成し、時を同じくして尼崎にも南北線の反対の会が立ち上がったことを新聞で知り、お力を借りることが出来ればとお願いにいきました。尼崎市では社会福祉協議会の方が行政に対して力を持っておられるとのことで、社協の方を呼んで頂いていたと、私の記憶が正しければ、思います。

 私たちもまだ運動のことは何も分からない頃でしたので状況をお伝えするくらいでした。結局はその場は、消極的なお話で終わりました。こんなに暑い日に何をしに来たんだろうと思いつつ帰って来たように記憶しています。

 その後、藤井さんを通して砂場さんたちの会と交流が出来るようになってからは、何かとアドバイスをいただき、また、運動が活発になると市当局との話し合いには必ず一緒に参加して下さいました。心強い限りでした。また尼崎市当局への陳情にも掛け合ってくれました。長い戦いの間には、特に武庫川での大闘争では、初日に尼崎市の土木課長以下が来ていました。砂場さんは「西宮市のことに尼崎市が来るな!」と一喝してくれ尼崎市は帰りました。そんな闘争中には私たちも疑心暗鬼になり、このまま突走ってもいいのか悩むことや、心細くなることもしばしばありました。

 そんな時、砂場さんに相談したり、意見を聞いたりしてきました。するとせっぱつまっている気特に安心感を与えてくださいました。いつも激励してくださりとっても有難く思ったと同時に砂場さんにはどうしてこう余裕があるんだろう、何を根拠に落ち着いて大丈夫と言えるんだろう、と思ったこともありました。

 先日とっても残念ですが、逝ってしまわれました。お通夜の席に参列させていただき、何年か前に「私のシベリア物語」出版のパーティでも伺いましたが、改めて砂場さんの生き様をうかがい知ることが出来ました。そしてその長年の経験から何者にもどんな権力にも動じない確信を身につけておられたんだと思いました。

 ネットワークの集まりでもいつも熱く語っておられたお顔、ニコニコされていたお顔、忘年会での本当にお酒を楽しんでおられていた砂場さんのお顔が焼きついています。

 まだまだやることいっぱいあるときっと思っておられた事と思いますが、どうぞごゆっくりおやすみください。尼崎の会には砂場さんが育てられた方々がきっと引き継いでいかれることでしょう。うらやましい限りです。

 本当にお世話になりました。ありがとうございました。心からご冥福をお祈り申し上げます。

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『みちしるべ』**沖喜美恵さん ありがとう!!**<2009.1. Vol.55>

2009年01月03日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

沖喜美恵さん ありがとう!!

山本すまこ

 沖喜美恵さんは山手幹線道路反対運動に常にご近所3人で参加下さっていました。会合のときはご主人もいつも参加していただいておりました。 ダンプが通ると家が揺れる。とお住いは二見交番所の少し西側で、二見町からの運動への参加はあまり多くない中、チラシ配りなど本当に一生懸命になってやってくれました。いつも笑顔で、やります。やっときます。といっていた顔が浮かんできます。

 中でも皆さんも忘れることの出来ないあの武庫川河川敷での攻防です。

 あれは平成8年5月20日早朝5時半ごろ、私宅のインターホンが鳴りました。こんなに早く誰だろう?「沖です。市が武庫川に来てます!!!」

 後のことはすでに“私の住民運動”に書かせいただいた通りです。が、このときの沖さんの様子を想像すると、どんな気持ちであの信号を引き返し私のところまで走って来たのだろうかと。私も最初に信号を渡り階段の上に立って120人ものガードマンがスクラムを組んで立ち並んでいる姿を目の当たりにしたとき、「コレはなんだ?」「コレをどうして打ち破れるかと?」と自問したくらいでした。それを沖さんが一人で見たときの衝撃はいかばりだったでしょう。

 沖さんはいつも早朝く起きていて、その日は9時集合がかかっていたが川まで行ってみようと思ったそうです。沖さんが見つけないで予定の9時に集合していればまんまと市の思い通りにことが進んでいたはずです。そして私たちの運動の第二の山場を迎えました。市当局も住民の結束に頭を痛める思わぬ結果となったのです。

 その後の戦いにも被り物を作ると言えば、ご主人が白い布をたくさん届けて下さいました。みんなで縫ってくれました。数えればきりがないほど 色々な場面でも沖さんの笑顔が浮かんできます。ネットワークの集まりにも声をかければいつも手伝ってくれました。

 そんな沖さんが2年半の闘病の末、去る平成20年12月21日にお亡くなりになりました。二週間ほどの入院でした。一時は驚くほどお元気な姿を見せておられましたのに、残念でなりません。最後は安らかな綺麗なお顔で寝ているようでした。

 心からご冥福をお祈り申し上げます。沖さんありがとう!!ありがとう!!

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『みちしるべ』**ちょっと聞いてる!!**<2002.11. Vol.20>

2006年01月07日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

ちょっと聞いてる!!
ある日の座談より

山幹の環境を守る市民の会

やまちゃん 橋が開通して半年たったけど

みきちゃん 車の数が増えていややね、友達のマンションなんか出られへんって嘆いているよ。

やまちゃん そりゃえらいことやね、車が増えたら空気が悪なるんちがうの。

みきちゃん ちがうのなんてのんきなこと言うてたらアカンよ!うちの網戸なんかもうネチャネチャ。まっ黒やし道路側のPタイルまでネチャネチャやで、足が気持悪いわ。

やまちゃん ウアー ほんま?そんなにひどいの?そう言えばよく藤井さんが教えてくれていたわね一。今、実感だネ、それから住宅地の中に車が溢れると言い続けてきたんだけど、それも全く実感しているわ。今、山幹走りたくないもん。信号から信号数珠つなぎ、1回の信号で走れないんだからついつい住宅地の中を走ってしまうもんね、私たちの言ってきた通りになっているってこの前ある議員に現状をぶつけたら「あんたたちの言う通り、あんたたちは正しい」だって。どう思う?その上、今に自動車も改善されるし心配しなくてもよい日も近い、だなんて!!そんな先のことその時まで生きていないわ!そう思わへん?

みっちゃん 私のところは道路から二列目なのにカーテンの汚れ方がひどいんですよ。

みきちゃん 振動はどう?

みっちゃん 舗装(低騒音)をやり直してから以前のようなドンードンってことはないけど、音はやっばり窓を開けられないわ、防音壁がないもんね。

やまちゃん あの防音壁があるのとないのんとえらいちがいやネ、けど今困っているのは車より自転車ヨ。早朝から深夜まで橋を渡って来るブレーキ音をたてて、たまらんわ、あの金属音は!!なんかいも“やかましい!”と言うてやりたい衝動にかられるけど、あとで家に火つけられてもしたら・・・と思うとそれも言えなくて。病人なんかいたら絶対に許せんわ!!
 市に何回も訴えているけど、手がないのヨ。このスローブ、運動で皆に公平にということで車椅子でも通行出来るようにと作ったんだけど、それがちがった公害を生み出しているわけ∃。自転車が直行で走れないように車止めもつけてもらったけど車椅子が通れる間隔なので自転車の抑制にはなってないのが現実。むつかしいね!!考えさせられるわ。

みきちゃん そうか、同じ沿道でも皆悩まされる問題がちょっとづつちがうんだね、でも私達があれだけ闘ったからせめてこれだけでも対策出来たんでしょう。

やまちゃん そうやね、無対策だったらどれ程ひどいことになっていたやら。それからこんなこと言うと、市は怒るだろうけど、うちの前の防音壁3階より高いので、パトカーや消防車が走っていても、どっち向いて走っているんだろう、私としては、北町が火事なんでは一、と心配して見るんだけど、見えなくて、ちょっと野次馬的もあるかもネ。

みきちゃん 11月に環境調査するんでしょう。

やまちゃん そう、大気は昨年11月1日より常時調査しているので、それも一緒に報告される予定。(浮遊粒子物質、二酸化窒素、一酸化炭素)それに今回騒音と交通量。

みっちゃん これからもしっかり見張っていかないとね。

みきちゃん そうだわ、声を大きく出さないと何もしない行政なんだから、ガンバロウ!!

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『みちしるべ』桜に寄せて**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

桜に寄せて

西宮市松並町 保田好秀

夜桜に 霞める月の 影寒し

それぞれの 思いを胸に 散る桜

去年(こぞ)今年 花相似たり 風に散る
         梢を眺める 人の影無し

はらはらと 風に散りぬる
         ひらひらと 踊るその瞬間(とき)の姿美し

花を求む 白髪の夫婦を 先生と
         見誤りし吾 今遺影に接す

春の花と 悲しみの涙と 美酒(うまざけ)と  
         渾然となり 逝きし人を思う 

散り果てて 若葉となりし 桜木に 
         今新しき 風のそよぎぬ

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『みちしるべ』黒住先生と「八の会」**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

黒住先生と「八の会」

八の会 岩城妙子

 黒住先生とは公私共にいろいろな会でお付き合いさせていただきましたが、こんなに早く突然にお別れの日が来るとは夢にも思いませんでした。この悲しみと無念さを何と表現してよいのかわかりません。私達の「八の会」は子供達が幼稚園や学校で同期の母親の集まりで、八人の小グループです。何か少しでも先生のお役に立てばと、AOCAのチャリティバザーなどのお手伝いをさせていただきました。

 昨年は諸事情によりバザーの開催も難しくなり、代わってネパールのティの袋詰めを致しました。千個近い紅茶の小袋が出来上がりましたが、その間かしましい私達の中でいやな顔もされず、先生も一生懸命お手伝いして下さいました。

 作業も無事終了後、私達の希望で十一月初め曽爾高原へ案内していただきました。この事が先生と「八の会」の最後の楽しい思い出となりました。夕日に映えるすすきを見ることはできませんでしたが、銀色の穂波の中に立たれた先生のやさしい笑顔は私達の心の中にいつまでも生き続けられることでしょう。思い出は尽きませんがこの悲しみを乗り越えて少しでも先生のご意志に添えますようこれからもお役に立つことがあればさせていただきたいと思って居ります。

 どうぞ安らかにお眠りください。

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『みちしるべ』黒住先生を偲んで**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

黒住先生を偲んで

マザースポット 三木育子

 ボランティア老人給食の活動の中、縁があり黒住先生にお話をお聞きする機会を持ちました。私たちは自分のあいた時間、自分のできる範囲で無理しないでゆっくりやっていこうという思いを合言葉のようにしてきました。

 でも黒住先生の姿勢はそんな生易しいものでなく厳しく、気が遠くなるような長い道のりです。

 多くを語られないそんな姿勢にこそ、私たちは“行く道”を教わりました。もっとお話が聞きたかった。私たちのことも話したかった。

 活動場所が先生のご自宅近くに移って間もないころワインの栓抜きがなくて丁度お家の前にいらした先生にお願いしたら気安く貸してくださいました。でも壊してしまって・・・ごめんなさい。

 どうぞ安らかにとお祈りいたします。

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『みちしるべ』ネパールの道(再掲)**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

ネパールの道(再掲)

甲子園口北町町内会会長 黒住 格

(黒住先生を偲び『みちじるべ』第2号にお書きくださったものを再掲する)

 発展途上国というと、文明の便利さからは見放されているが、その分だけ澄み切った空気と水に恵まれている、と思われがちである。私の知る限り、カトマンズの空気は昔から埃ぽかった。この国の土が細かい粒子の黄土であることと、街自体が空気の淀み易い盆地であることに原因があっただろう。

 最近、その空気が車の排ガスによって耐えられないほど汚染された。街を走る車の殆どが、先進国で使い古したディーゼル車だからである。街を行く人々は先のとがったマスクをしている。私たちはふと狐の街に迷い込んだような錯覚を覚える。先進国並の便利さを求めて取り入れた利器も、この結果では発展の一方で激しい環境破壊を起こしたことになる。

 ネパールの車の弊害はこればかりではない。昨今、立派に作られた舗装道路では、たいていの車が百キロを越えるスピードでぶっ飛ばしている。私は昨年のネパール訪問の際、カトマンズから六百キロの南の町までジープで往復した。随分便利になったものだと思った。しかし、その途中で見たものは、川に転落した小型トラック、シャフトが折れて路上にうずくまったバス、家に飛び込んだ大型トラック、山に衝突したもう一台の大型トラックの計4台であった。いづれも、数日の間に起こった新しい事故であった。犬などの小動物の交通事故死体を見るのはこれまでも日常のことであったが、その日は車にはねられた牛を見た。その向こうの道の端に、ビニールシートの掛かった動物らしきものの死体を見た。私はとうとう最後のものを見たという気がした。これらはいずれも、車が新しく獲得した超スピードという能力に、運転手も動物も、対応能力が出来ていないことから起こった惨劇である。

 ネパールの車問題は、効率と便利さを第一とする先進国の合理主義を無批判に取り入れた結果である。新しい文明が取り入れられる一方では、その国古来の大切な文化や習慣が失われる。世界の文明はこうして進んで来たのであろう。だが、NGOが、発展途上国に関わるようになってからは、事情は
違ってきた。それは、文物や習慣の取捨に自国民の選択が許されなくなったことである。古いものは滅びるにしても、自分が選んだことか他人に強いられたことかでは根本的な違いがある。国際NGOとして途上国に関わる者はたえずこのことを自問しなければならない。

 さて、よくない要素を含んでいるとしても、やらなければならないことがある。

 「やがて、国連とかアメリカとか日本とかいう国のおおきな力が有無を言わさず入ってくる。NGOのやることは、そのような理不尽な強圧に対して抵抗力をつけるワクチン注射である」私はそう思っている。

 “みちじるべ”には「ネパールの道」の他に「カトマンズの電気テンプー」 7号 2001 「座るのは誰か」15号 2002 が寄せられている。

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『みちしるべ』我が人生に悔いなしと**<2002.5. Vol.17>

2006年01月06日 | 山手幹線の環境を守る市民の会

我が人生に悔いなしと

甲子園口北町 染原圀子

 私達は1970年、西宮市にまいりました。

 去る平成6年、それまで一介のサラリーマンで町内居住者というだけであった夫が事の成り行きで町内会長を仰せつかりました

 その何年か前から山手幹線問題が浮上しており、町内会長として当然この問題に係わっていく事になりました。そして、いろいろ勉強して行くにつれ、これは大変なことだと認識を新たにし、本腰を入れてこの問題に取り組むことになりました。明らかに重大な健康被害や交通事故の激増に繋がるこの拡幅事業を許してはならない。これは山幹に近接する人だけではない。北町全体の問題であるとして。

 夫はもともと保守的な考えの人で、息子が大学に入る時も「学生運動には絶対首をつっこむな」ときつく申し渡しておりました。「公害問題研究会」なるものに入って水俣や熊取の原発反対に行くと言ったときは大もめにもめたものです。それが住民運動の先頭に立って活動を始めたのですから息子も驚きました。そして「双手をあげて応援する、頑張って」と。

 市との話合いの交渉がなかなか思うように進まず運動に全力を尽くしていた最中、平成9年2月夫は肺癌で亡くなりました。煙草は一本も吸わなかった夫がです。大気汚染、公害の所為ではなかったのでしようか。山幹の事が片時も頭から離れなかった夫は入院中も「退院したら又全力を投入して運動に取り組む」といつも申しておりました。

 夫の没後、市との攻防は益々激しくなりました。それまでは道で会っても知らない方が多かった町内の方々とも親しくなりました。鉢巻やたすき、アフガニスタンの女性のブブカのような被り物など皆で協力して作りました。冬のさなか明け方4時から見張りに立ったこともあります。私は全くの専業主婦でしたが夫とともに、夫が亡くなってからは夫の遺志を継いでと体を張っての抵抗運動に何も怖いものは無いと気持ちが高揚していきました。

 それは又、夫の死後の淋しさや落ち込みから私を救ってくれました。今ではあの運動があったからこそ乗り越えられたのだと有り難く又懐かしく思っております。

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