『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』斑猫独語(55)**「変わる梅北、いろいろ考えた」**<2013.5. Vol.78>

2013年04月28日 | 斑猫独語

変わる梅北、いろいろ考えた

澤山輝彦

 梅北なんとか言う所が今日(2013/04/26)オープンしました。正式な名称は新聞で何度か見ましたが私には覚える気がないので正確に言えません。所詮、物欲にまみれた幻想とも言える世界へ99%を構成するひとびとを無理矢理みちびくだけの大きな器にすぎない所だと私は思っていますし、拝金主義者のもみ手と薄ら笑いが見えてしまうのです。えらくひがみっぽい見方ですが、そんな物でしょう。でも、年寄りが行って見もせずに年寄りの感覚で勝手な事を言うて、そんなんじゃ衰えが加速するだけじゃ、と言われればそれもそうかなぁであります。一遍ぐらい見といてもええなあ、といつかは一度のぞくことになるのですが、いつのことやらわかりません。それにしても大阪駅周辺の変わりようはすごいもんです。それだけ田舎的だったのでしょうが。さらに最近廃止になった梅田貨物駅の跡地利用が控えていますが、利権やなんやかが、さぞうごめいているのでしょう。

 梅田貨物駅は大阪駅をはさんで南側にもありました。ごく最近取り壊された大阪中央郵便局の西側にあたります。この南の貨物駅には堂島川につながる水路、掘り割りがあり、艀(はしけ)による機材等の運搬がおこなわれていました。私は見た記憶があります。国道2号線に出入橋という所がありますが、これはこの水路に架かっていた橋の名残です。こんな所の水運なんて時代おくれだと駅の廃止よりそうとう早く埋め立てられましたが、今、これが残っていれば、再開発の目玉になるのではないかと思っています。梅田から掘り割り経由、堂島川へ、中之島へ観光遊覧船を出すことが出来るからです。大阪は水の都と呼ばれ、浪速八百八橋など歌の文句にまでなりましたが、遠い遠い昔の話になってしまいました。「涼しさに四つ橋四つを渡りけり」こんな句も残っていますのに。ダルビッシュ投手が活躍する球団の本拠地はテキサスです。テキサスにあるサン・アントニオという街には運河があり、そこには観光船がにぎやかに行き交っています。見てきたように書いていますが、世界ふれあい街歩き、というNHKの番組でみたのです。なんでも洪水のあと排水をよくするために掘った川を綺麗にして舟を浮かべ観光に使っているそうです。大阪は地盤沈下などの問題があったのでしょうが、川をたくさん埋めてしまいました。それで、もしあそこの掘り割りが今でもあったらと考えたわけです。この掘り割りの埋め立てたあとには阪神高速が通っています。中之島にあるのと繋がっているのかな。自動車に乗らない私はどうか知りません。

 それにしても自動車道路が景観を台無しにしてしまうのは何とも言えず残念です。川西市北部を走る第二名神のための工事が目に見えてくると、人々はこんなことになるのか、と今更のように驚いているのです。国民共有の財産である景観(だけではない自然や文化財をも破壊します)をいとも簡単に道路が隠してしまいます。もう少しこのことを道路問題として大きくとりあげないと、後世に憂いを残します。広島県鞆の浦の判決はよかったですね。まあ、もう高速道路を要求することはやめなくてはならないのです。 

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『みちしるべ』赤い夕陽(8)**「ソ連軍わが家を占拠」**<2013.5. Vol.78>

2013年04月27日 | 赤い夕陽

赤い夕陽 ⑧ソ連軍わが家を占拠

三橋雅子

 

 敗戦間もない初秋の新京、突然やってきた2~3人の兵隊は、いつもの略奪集団とはちょっと様子が違った。金や時計を出せ、とは言わず、何か早くやれ、という様子。何だかさっぱり分からないが、略奪品らしい腕時計を指して、針がここまでに、フィーフィーと手振りをして、なんでも早く出て行け、ということらしい。出て行けったって、ここは我が家。家の接取はまだ前例がなく、このあたりでうちがショッパナだったから訳が分からなかった。遠くからも、とんがった青い屋根が目立つ「瀟洒(しょうしゃ)」っぽい家だったから標的になったのか。まだ唖然と、ぽかんとしている大人たちに「ダワイ、ダワイ(早く)」を連発して時計を指す。彼らの指す期限時間は20分だった。何回もお出まし願う半藤一利の『ソ連が満州に侵攻した夏』の8月下旬の記述には「日本人の民家を30分以内に明け渡すよう命じて追い出した後、めぼしいものを片っ端から荷造りしてモスクワに送った」と言うくだりがある。しかし我が家は、忘れもしない20分しかなかった。事情を呑み込むまでに手間取って、作業開始までに時間が掛かったのか。それからが戦争。とりあえず、身の回りの物、当面必要な物を手当たり次第庭に放り出す。すでにあらかたの使用人はいなくなっていたから、小4の私などは獅子奮迅の働きだった。

 あっという間の時間切れ。ピーッと鳴ると、もう、一歩も中に足を踏み入れてはならぬ、と厳重な追い出し。大将とおぼしき人物が、どやどやと大勢の将校たちを引き連れて入り込む。サーベルがガチャガチャ音を立て、さっきまでわれわれが居た所がおびただしい軍靴で踏み荒らされた。さて、致し方なく、庭に放り出した荷物の運搬。筋向いの、家族は内地に帰って若いお兄ちゃんが一人住まいのところへ転がり込むことになった。荷物を運ぶ間に、早くもエライサンらしき、でかい図体が風呂場でジャージャーやり始めた。開け放しの大きな窓、野獣かと見まごう毛深い巨体に、あっけにとられて思わず見とれていると、ニエット、ニエットと拳銃で突っつかれる。当時わが家は、有り余る「豊満ダム(*注)」の電気を使え使えということで、風呂沸かしにも電気(大きな板にニクロム線がぐるぐる巻いてあった)、という今でいうオール電化だった。このロスケの大将、もしくは湯加減を見る兵卒が、知らずに感電しはしないか?ということが、ちらと頭をよぎった。何しろ腕時計をこの上なく愛でた上、そのままお風呂に入って、針が動かなくなった、と文句を言う御仁たちだったから。

 移住先が近くだったのを幸い、毎日我が家の様子を見に行った。出征先の北満からまだ帰ってこない長兄が、ひょろひょろと帰ってきて、懐かしさに不用意に踏み込んだりして銃殺でもされては……と言う見張りでもあった。門はきっちり閉まり、いつも若い兵卒が銃を担いで門衛をしていた。裏の方に回ると、庭でいつも荷造りをしているのは、どうやら我が家のものらしい。そのうち大きな木枠を作って、ピアノが荷造りされ始めた。モスクワに行くんだろう。もともとあれはロシア製、まだヤマハより舶来ものの方が値打ちがあったのか、舶来もの好きの父の趣味か、両脇に蝋燭(ろうそく)を立てる燭(しょくだい)がついている、という年代ものであった。おそらくロマノフ朝のロシア貴族の持ち物だったのか、革命時に白系露人か亡命者が持ち出したものか? とすると、ロシア革命の1917年以前のもの? 道理で、いいものだけど、なにせ古いから、と調律師泣かせのシロモノだった。調律の日は朝から1日かかりっきり。藤井ピアノ調律師なら、どう取り組んだだろう? と時々思い出しては想像したりする。こちらは練習できない口実ができてホッとするが、ピア・キチの姉などは、学校から帰ってきてまだ弾けないと、まだかまだかとイライラするのだった。日がな一日、ポロンポロンと単調な音が止まない「調律の日」が私は好きだった。そのピアノもお里に帰るか、と見つけてきた当の父が一番感慨深げだった。そのうちオルガンも荷造りの模様。これは確かヤマハ。ピアノが来るまでは、散々おもちゃにして楽しみ、ピアノを習いだしてからは、ピアノとオルガンのタッチは違うから、あまり弾いてはいけないなどと言われて、ふたを開けることも少なくなっていたのが、今可哀想に思えてきた。まして異国にいっちゃうんだ。もっと弾いてやればよかった。

 裏庭では毎日荷造りが着々進んでいた。荷づくりをするからには、帰る日も近いのか、間もなく明け渡されるのか、と期待したが、さにあらず、欲しいものが見つかり次第、せっせと本国に送っているらしかった。

 ソ連兵も我々も、自分の家には帰れぬまま、どんどん秋も深まっていった。

 

いずれへもふる里遠き外(と)つ国に
               赤い夕陽は変わらず沈み

*********************************

(*注)豊満ダム

 日本が満州統治下で松花江に作った「東洋一のダム」と言われる。今なお稼働。ダムの寿命は50年というのに、70年経ってもいまだ健在だが、さすがに最近壊される?とかの話題になっているとか。

 このダムについては『みちしるべ』Vol.40(`06年3月号)の「熊野より19」に記したが、いささか訂正しなければならない。(この時の記述そのものが前号に関する、くどいくどい訂正文なのであるが、訂正に関連した部分が更に要訂正というわけで、あたかも入れ子のごとし、文字通り年寄りの世迷い言になってしまった。深く陳謝。)

 私の同級生の父上が技師としての最高責任者として、この建設に関わり、その友人に妹が生まれたとき、ダム完成に因んで豊子という名前がつけられた。これが前掲号では「私の同級生が豊子さん」という勘違いをしているから、ダムと私が同年代になるのはおかしい。<豊子>は妹さん、ということが最近分かって、やっと辻褄が合う。資料は「1937年4月に、長さ1100メートル・高さ91メートルのダム堤体を有する豊満ダムの建設工事が始まり、6年の歳月をかけ1942年9月に完成し、1943年春に発電を始めた。」とある。(豊満ダム万人坑 解説:青木 茂)すると、有り余る電力消費に協力して、我が家がオール電化になったのは稼働直後だったことが分かる。(`43年に結婚して家を出た姉が、すでに「電気でお風呂を沸かした」ことを経験している。)

 戦後日本人の引き揚げに際して、本間氏がダムの継続稼働に必要な技師として、家族の半分と共に残された件は、前掲号に記した。他にも、電気技師を父親に持つ友人は、やはり父親の残留を強制されたが、乳飲み子の弟も居てとても残留はかなわないと、懇意の医師に「結核患者」という偽の診断書を作ってもらって、何とか引き揚げてきた、と最近になって聴かされた。結核患者は少しでも早く、大陸から出て行って欲しかったらしい。

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『みちしるべ』横断車道(69)**<2013.5. Vol.78>

2013年04月26日 | 横断車道

小・中学校では「人をダマシてはいけない」「社会のために働け」と教えられる。ところが、社会に出て、小・中学校で教わったことが、事実でないことを思い知らされる▼アメリカでは、7割は第三次産業。モノを作らない社会だ。成熟社会という人もある。が、アメリカ国民の必要とするものを、誰かが作っている。して、アメリカ国民はサービス業や金融業で働くこととなっている▼サービス・金融というと、それなりの産業かとは思ってしまう。しかし、現実は甘いものではない。サラ金も、先物取引を唆すのも金融業。マルチ商法まがいは、サービス業である▼さて、日本もアメリカ追随は、いい加減にしなければならないが、人をだますことを社是とする企業が多くなった。若者が就職難で、やっと就職できたところが、そんな企業であることは多い。「今の若いモンは、気に入らなければすぐに辞める」とか言われるが、実態はそうでもない▼若者に難癖をつけている、社会のトップはどうなのか?大企業経営者も変わったものだ。「従業員は家族。首を切る時は、腹を切れ。」といった、過去の経営者が懐かしい。今の大企業のトップは、総じて渡り鳥。銀行や系列からの天下りが殆どだ。団塊の世代は、社会に出てからの数も多かった。今もって、企業トップに残存しているということは、勝ち組の企業戦士。派閥をつくり、謀略を巡らせ、仲間を陥れた類である。また、数年の腰掛で、今さえ良ければだ。会社や、まして社会のことなど……▼そんな社会のトップに、まして、そんな連中のメカケ政治屋に、見向きもしない若者に、何を言えたものではない。が、昼のバライティー番組で、間抜け評論屋の解説に、ウンウンとウナヅイテいる若者を見ると、恐ろしさを感じるのだ▼いずれにしても、今の社会で、どの位置に居ようが、この現実に責任を負わねばならないのは団塊の世代だ。残り少ない人生で、何かをしなければ……。主人公は若者だ。彼らの成長の芽を、そっと育てたい▼市場経済原理など、一定の枠内の、一定の部分にしか妥当でないのは、最早、地球規模で証明済みである。大戦後、唯一の戦場にならなかった列強のアメリカ。有り余る余裕と貪欲で、世界を征してきた。が、労働は神が与えた罰と解釈する、偏向キリスト教思想。人を陥れて顧みない一部のユダヤ人経営の巨大銀行群。彼らが既に、自滅した現実に、正面から向き合おう。OECDは2016年に、中国がGDP(国内総生産)で、アメリカを追い越すとする。軍事力で他を制する時代は終わった▼地球規模の政治・経済バランスの、変化の時代だ。まして、日本の支配層(1%)のチンケな思惑など、問題の数ではない。革新を標榜する者たちの一部にも、サラリーマン思想が蔓延していることにも、警告を発したい。地球規模で、また日本の変革の時代に生きた事に感慨である(コラムX)

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2013年4月例会のご案内

2013年04月13日 | 月例会案内

阪神間道路問題ネットワーク
     
4月例会のご案内

2013年4月28日(日)1:30~3:30p.m.
Pocket park house(西宮市甲子園口北町26番)

※  公園の中のプレハブです。駐車は可能です
※  地図は下図または下記URLにて

http://www.its-mo.com/map/addr/125059960_487359840_18/2820412000000026/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E5%B8%82%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92%E5%8F%A3%E5%8C%97%E7%94%BA%EF%BC%92%EF%BC%96/#addrDetail,%2Fmap%2Faddr%2F125059960_487359840_18%2F2820412000000026%2F%25E5%2585%25B5%25E5%25BA%25AB%25E7%259C%258C%25E8%25A5%25BF%25E5%25AE%25AE%25E5%25B8%2582%25E7%2594%25B2%25E5%25AD%2590%25E5%259C%2592%25E5%258F%25A3%25E5%258C%2597%25E7%2594%25BA%25EF%25BC%2592%25EF%25BC%2596%2F,

爆弾低気圧で阪神南部の桜(染井吉野)は散ってしまいましたが、八重や北部では見頃でしょう。ともかくいい季節に。しかし、今朝の地震はチョット刺激的。東海・東南海と連動した南海地震の予兆? はたまた、首都圏・大阪(上町断層)直下型地震? 日本最大の中央構造線の大地震? まっ、地震の活動期に入ったのでしょうか▼さて、前回は尼崎・川西・西宮北部・神戸北部・西宮と芦屋の山手幹線から、ご参加がありました▼東京出張中に「ナノ粒子問題」の講演に参加された報告。中国由来のPM2.5だけが報道されますが、肝心の日本での発生源について、今後、注目する必要性が話題になりました。第二名神とアクセス道の構造物に、今更ながら考えさせられる。高速高架橋下の自治会館が、地震で大丈夫なのか? 尼崎公害訴訟後の連絡会解散についての話題も。高速供用後の連絡会から一部自治会が不参加になっていた。山手幹線の熊野工区と芦屋での2車線維持など。多くが話されました▼丹波に移り住まれたMさんと、宝塚のSさんが、それぞれ、引っ越されました。時代の変遷ですね▼最後に『みちしるべ』5月号の原稿をよろしくお願いします。(F) 

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年度末のバタバタで『みちしるべ』過去ログのアップが遅れています

2013年04月02日 | 日記

桜の季節真っ盛り
  ウィークデーでも子供は春休み

 孫が出来ると可愛いモノらしい。でも、この世のどの子も可愛いというべきでしょうね。あらゆる可能性を秘めた子供たち、後の無い私にとって、希望でもあるのだから。

 桜の季節を迎えて、一斉に何もかもが咲き始めた感じ。いい季節になった。週明けとは言っても、小学校は春休み中。校庭では子供たちが遊んでいる。

 見ていて飽きない。子育てとなると大変だけれども、顔の筋肉が緩むのを感じる。この子たちの将来に何かしたいという気が起こってくる。

 ささやかではあるのだけれども、『みちしるべ』への投稿諸氏の有意義な文章を、少しでも多くの人の目に伝えたい。それが、曲がり角にきた世界と日本の変化と進歩に役立つことを願って。

編集長代理 藤井隆幸

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