『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**編集後記**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月05日 | 単独記事

編集後記

編集長代理

 7月例会で、昨今最も注目の「コロナ禍」について、『みちしるべ』でも取り上げてはどうだろうと、提案がありました。確かに、何も書かないわけにはゆかないでしょう。

 人々にとって、自らが感染しないことが最大の関心事ではあるのだと思います。また、何とか早期に収束して、経済生活上、安定を取り戻したい。でも、団塊世代の年金安定世帯は、支出が減って何とかなるとの思いもあるでしょう。そもそも、将来に希望のない若手は、この際、どうにでもなれということかもしれません。

 経済界は、このままで行くと、ガラガラポンもあり得ると危機感一杯なのだと感じます。その先頭に立つのが、戦後世界を牛耳ってきたアメリカでしょう。ビル・ゲイツなどは、コロナ禍は18ヶ月継続すると予測していました。WHOも2年続く可能性を指摘しています。

 ここにきて、余裕を見せているのが中国をはじめ、東アジア諸国です。このパンデミックが長期化すれば、戦後世界の常識が覆されるのでしょうか。そうした場合、考えられる軋轢は如何なるものでしょうか。少し考えておく必要があるのだろうと。

 ところが日本の国民意識はと言えば、程遠いところにあるような気がします。マスクにも色々とありますが、基本的には他人に感染させないためのものです。世間の風潮では、自らの防衛手段のように扱われています。全員が他者にうつさなければ、コロナ禍は収まります。しかし、マスクでは十分に防御できないので、収まらないでしょう。

 フェイスガードは自らの眼の粘膜を守るものです。ゴーグルも同じです。フェイスガードをして「三密」をしたりすると、感染は確実に拡大します。8割の人が感染しても発症、又は重症化しないと言われています。自らが他者にうつさないという意識が重要なのですが、自己防衛意識先行が現実なのです。

 マスクのポイ捨てにもがっかりします。圧倒的に使い捨てマスクですし、路上よりも植え込みやフェンスの中が多数というのが現実で、落としたというのはごく一部でしょう。捨てる人は1%でしょうが、掃除する人は0.1%なのですから。困ったものです。

 このレベルの民度、社会性で、はたしてこの先の極超激変に、どこまで耐えられるのでしょうかね。電車のつり広告に、こんなものがありました。「大人って子供なんだね」と幼い子供が言っている漫画でした。

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『みちしるべ』**横断車道 (100)**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月04日 | 横断車道

横断車道(100)

スマホを持つ80代のご婦人が、「これって便利よ。賢いよ。何でも教えてくれる。」と。かつて大阪駅には2~30台の公衆電話が並び、コンビニにも必ずあった。持たなければ、不便もある。バスが来ないので、タクシーを呼ぶ時も。▼若者の過半数は四六時中、スマホを覗き込む。信号待ちでポケットから取出す、これはもう病気なのだろう。7~80年代はマイカーがステイタスで、郊外に自宅を購入し、高齢で免許を返納し、市街地の駅近マンションに住み替える。スマホ流行も、負の面が理解されるのだろうか▼ネット検索「ググる」。Googleを使って検索する、これに疑問が出てきた。GoogleやFacebook、Twitterに対して、アメリカ支配層が圧力をかけているという。彼らに不都合なのは、検索に出ないようにしているらしい▼試しに、わがブログに彼らの嫌がる記事を書いた。Googleで検索しても出ない。YahooはGoogleのシステムなので、やはり出ない。Microsoftの検索エンジンBingを使うと、トップページに出てくる。この妨害システムには、AI駆使が必要で、Bingの利用者は僅かで、しんどいことはやらないのか▼トランプ大統領は、中国やロシアがハッキングをしていると喧しい。確かにそんなことはあるのだろう。が、最もそれを駆使しているのはアメリカだろう。俺がやっているのだから、奴もやっているだろう、そんな具合だろう。世界の電話や電波を盗聴する組織、エシュロンをやっているのは、ほかならぬアメリカを中心とした英語圏の5か国である。ドイツのメルケル首相の携帯電話を盗聴していたことは有名な事実である。そのAIシステムが、Googleによって発達して使われているのは確実だ▼日本のウェブサイトのバナー広告に、やたらと嫌韓・嫌中関係の広告が目立つ。これもGoogleのシステムを使わされているためだ。日本人の意識をコントロールするなど、スマホ時代には朝飯前ということなのか。なにも韓国・中国を擁護するわけではない。自衛隊でさえ、次期主力戦闘機を純粋国産にしなければ(対米独立)、自国を守れないと考えている。韓国海軍も、自前の航空母艦を持つという。これは海上自衛隊が護衛艦という航空母艦を持った為か▼トランプ大統領やポンペイオ国務長官が、中国バッシングを強めるのは、ジャイアンからノビタに逆転しそうな情勢に、焦りを感じているためか▼スマホやTV情報がすべての庶民にとって、貴方の考えはコントロールされているというしかない。こんなことを書くので、ブログにアップされると『みちしるべ』の閲覧数が減るのだろうか。新しい記事がアップされると、普通は閲覧数が増えるのだが、最近はかえって減っているように感じている▼さて、最近、前出の80代のご婦人が、特殊詐欺に引っかかったそうだ。皆さんもご用心!

(コラムX)
 

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『みちしるべ』**息抜き納涼川柳**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月03日 | 単独記事

息抜き納涼川柳

シンゾウ氏 元気で早く 辞めてれば    アンチ消費税
テレビ出る 忙しい知事 こけもする     暇な恥爺
コロナ後の 変化を計る 金の尺      拝金主義者
他国では 何が起ころう 島政治      置いてけ堀
暑い夏 のど元過ぎて コロナ乱      冬のソナタ
迫りくる 地震の恐怖 富士も入り      関東ナマズ
猛暑日も 新たに激暑 名を変える     アラフォー
特殊詐欺 だます奴等は プロなんで    お巡りさん
コロナ禍に 違いの分かる 夫婦仲     在宅勤務族
太鼓ばか 雨も欲しいぜ 雷よ       街路樹

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『みちしるべ』**コロナ禍と猛暑と道路騒音(斑猫独語 78)**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月03日 | 斑猫独語

コロナ禍と猛暑と道路騒音(斑猫独語 78)

澤山輝彦

 コロナ第二波と猛暑にはまいった、まいったの毎日です。何の因果でこんな目にあわねばならないのかと、神様や仏様を怨んだりして罰あたりの日々を送っています。感染を防ぐための消極的保障無しのマスク手洗いの励行はしていますが、加齢難聴の私には「三密」回避では会話が難しいので、これは守りにくいものです。素敵なお方に「密豆」を食べようと誘われたら「三密」無視でつきあいますわ、こんなあほなこと言いながらも、もしもの時のために体力を温存しておこうと、食事や睡眠には十分注意をはらっています。

 さて私事ですが、転居先で道路騒音に悩まされている、と前号に書きました。でもこの悩み四六時中ではない、寝付いてしまえばそれまでだし、平日でも案外静かな時間帯があったり、(午後6時ごろからの1時間ほど)土曜、日曜は比較的静かです。まあ普通に走行している大部分の車は私が気になるような音は出していないのです。ということなどから、まあこの程度の音ならば都会の音であるとして受容しなければならないのか、など一寸弱気でもありますが、そう考えるようにもなったのです。

 だが先にも書いたように大形トラックや内外のスポーツカータイプの車の発進音には必要以上の音を出すものがかなりあります。百歩譲って業務用のトラックの音には少しは理解を示すことができるのではないか、これも甘い考えですが、ここまで流通の手段をトラックに頼らねばならなくなった時代に私も生きているのですから。でもエンジン音というのか排気音というのか、あれの静粛化対策は常に考慮すべきことであるのはあきらかで、このままで良いとは決し言いません。

 もう一つのスポーツカーなど遊びタイプの車のウォーンという音を自慢たらしくまきちらして走るやつ、あれは許せない。もはや車がステイタスシンボルである時代ではありません。町の中くらい静かに走れないのは運転者が馬鹿である証拠です。馬鹿につける薬はないと言いますから、悩ましいのです。やはり車に問題を帰さねばならないでしょう。

 自動車のエンジン音について私の少年時代の思い出話を二つ。一つはフォードのトラックに積まれていたV8エンジンの音です。一才年長の友達が運送会社のガレージにある社宅に住んでいました。自動車が好きで友達になったのです。遊びに行くといつもトラックの運転台に乗ったり、車体の下にもぐりこんだりして遊びました。戦後日本の自動車産業はまだよちよち歩きの時代、町を走る車は乗用車もトラックも外国製、主にアメリカ車の一寸古いのばかりでした。運送会社のトラックにも古いフォードかシボレーが健在でした。そんなフォードトラックが積んでいたⅤ8エンジンはやさしい軟らかい感じのする独特の響きがあり覚えてしまいました。街中で近づいて来るトラックがフォードだ、と言い当てることができたのです。

 もう一つは「くろがね」というオート三輪トラックで、「くろがね」のエンジンはV型2気筒で非常に静かな響きをしていたのです。子供心なりにこんな機械が作れるんだなあと思ったものです。というのも他のオート三輪はバタバタと大きな音をたてていましたから、町では皆オート三輪は「バタバタ」とか「バタコ」と呼んでいたはずです。

 自動車の騒音に悩まされていると言って数ヶ月の後に、全ての車がやかましいわけではない、これを街の音としてとらえては、なんて甘い考えをしてしまいました。私の感覚が騒音として捕らえ脳はそれを悩みとして植え付けた。その同じ脳がこれを許す方向の感情を産みだした、むむむ、同じ脳がこんな反応をする、悩みとは一体なんなんだろう。脳はどのような型で記憶処理をしているのだろう。私自身の脳がやったことですが、非常に妙な気がします。でもこれが人間の感情というもののあり方かもしれません。というところで、こんな考え方は、まったく私個人の感覚、感想、でありまして、決して他の各地の道路騒音問題にたいしてこんな考え方もあるのでは、なんてことは言えるものではないことを書き添えておきます。

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『みちしるべ』**映画「三島由紀夫VS東大全共闘」に感じること**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月03日 | 単独記事

映画「三島由紀夫VS東大全共闘」に感じること

広畑貞昭

 土曜日の朝、Nさんより電話があった。「君は全共闘世代か?」「中心の世代ではないですが、少し噛んでいます」「それだったら三島由紀夫と東大全共闘の映画をサンサン劇場でやっているから是非見るべきだ」

 私もこの映画のことは知っていた。見たいとは思っていたが、コロナ禍で当分上映はないだろうと思っていた。そこに、少しマイナーと思っていたサンサン劇場でやっているとのこと、見れば「パラサイト」もやっているではないか、見ることにした。

 ほかの用事で塚口を通ったとき、映画館の人に混み具合を聞いて、日曜日より、月曜日を選んだ。観客は二人だった。

 映画は、東大全共闘が三島由紀夫を招く背景から始まる。1969年1月19日安田講堂陥落後、新たな道を模索する。その起爆剤として、この5月13日の討論会を企画したみたいだ。

 私は、69年4月入学だから、この討論会を知らなかった。それと作家としての三島は知っていたが、国粋主義者としての三島にあまり意識はなかった。

 三島に関する私のエピソードは、1970年11月25日、自衛隊の市谷駐屯地を占拠し、割腹自害した事件の方に関連する。自害の報道は私たち全共闘系学生にも衝撃をもって受け止められた。私たちの取った行動は「右翼の反革命」に備えることであった。旗竿を「武器」に学内に待機した。

 映画の方は、三島の10分間の演説と全共闘側の反論、それに対する三島の感想と熱く進められる。Nさんがどうしてこの映画を進められたか知らないが、私も、さすがに声は出さなかったが、ヤジをしたり、拍手をしたり、笑ったりしていた。1000人を超える敵陣に乗り込み、決して議論を投げ出そうとはしない三島。映画の題名が「三島由紀夫VS東大全共闘」となったのはうなずける。哲学的論争も後の時代から見れば、双方かなり粗い議論だが1000人を酔わす力があった。教条的な人ならば、天皇主義の論理的破綻が見える三島の言論を封じそうな場面もあったが議論は進む。何がそうさせたのだろうか?

 私自身、この映画を見て三島が何を考えていたか、少しわかったような気になった。根本は、天皇の名のもとに一億総玉砕と言われながら、天皇を含め多くの軍人、政治家は生き残り、且つまた、自分も生き残った。それへの贖罪意識が根底にあるようだ。それにあらがうためには、暴力というものに依拠し、実体を創るため肉体の鍛錬、自衛隊での訓練、ナチ張りの美意識に基づいた楯の会の創設。常人ならばそこに安住することができただろう。しかし三島は違った。この討論会は、全共闘側も自己探しだったが、三島にとってもそうだった。三島は終始「形として残す」ことにこだわっているが、全共闘側もわずかしか答えられていない。それは当然である。お互いそれを求めている途上であり、結局こういう討論会でそれが得られるものではない。

 三島の心情をさらに推測すると、気持ちは行動とは裏腹に、楯の会にはなかったのではないだろうか。組織活動をしたものなら、なんとなく感じる。

 戦後高度経済成長を迎えた60年代後半の日本。かたや戦後民主主義では語りつくせない矛盾を「ゲバルト」という形で追求しようとした全共闘運動。かたや戦争責任を対米従属、経済的充足に逃げ道を見出す権力者に「暴力」であらがう三島。「圧倒的熱量を持つ」討論といえる基盤はあった。

 それでもなおかつ、少し冷めた自分がある。一つは69年入学という遅れた全共闘という存在もあるだろう。映画の中で「革命」という言葉が飛び交うが、当時の私はその言葉にすんなりつかることができなかった。映画の中で楯の会のメンバーが「本当に革命がおこるのではないかと、どうしても阻止したかった」といい、左翼の活動家の中でも、冒頭、反革命に備えたというエピソードにあるように「革命」を目の前のものとして意識していた人たちもいた。

 全共闘運動を評価する資格は私にはないが、この討論を評論する人で、内田樹は「全共闘運動は何を残したか」と基本的に立場の違いを示し、平野啓一郎は「言葉が大切である。言葉でシステムを構築したかどうか」とやはり「実体」を要求する。三島は少なくとも一緒に考えようとした。私流に答えれば「異議申し立て」「永遠の異議申し立て」だったと思っている。個人に引き寄せれば、科学主義に基づいた近代主義への異議申し立てだった。

 近代世界システム論を展開したエマニエル・ウォーラーステインは、全世界を揺るがした1968年の運動を「世界システムの内容と本質にかかわる革命」と高く評価し、68年革命が世界システムに与えた文化的衝撃を重視する。世界システムを成立させている規範と言説に根本的な異議申し立てを行ったというわけだ。私も同意する。直接的に運動がめざし、切り開いたという直線的なものではないが、それまで左派も見逃してきていた、ジェンダーの問題を浮き彫りにし、西欧中心主義を暴き出し、抑圧差別の問題を見えるものとした。

 この映画が、人々にどういう影響を与えるかよくわからない。少なくとも全共闘世代としては、平野啓一郎が言う「言葉としてシステムを構築したか?」に少しでも答える必要があるようだ。


2020年6月9日

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『みちしるべ』**1920年代(大正・昭和初期)における日本の内政・外政についての雑感**≪2020.夏季号 Vol.107≫

2020年09月02日 | 北部水源池問題連絡会

1920年代(大正・昭和初期)における日本の内政・外政についての雑感

林 素行(執筆時;京都大学理学部3年)

 いきなりですが、1920年代と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。大多数の人はおそらく何も思い浮かばないというでしょうが、それは置いておくとしてこれまでの「進歩史観」的見方では明治期の政界を支配していた藩閥勢力の力が衰退し、代わって第一次世界大戦中・後から盛り上がる民主主義的・社会主義的・民族主義的運動を受けて、日本でもデモクラシーの機運が高まり、普選運動・女性運動・社会運動等が活発になり、労働争議・小作争議が頻発するようになった。

 これに対して、都市の新興商工業者といったブルジョワジーは普選法を通したり、労働条件の改善等を行う一方、治安維持法により社会主義者等を弾圧し、英流の立憲君主的方向を目指しました。一方で陸海軍の急進派や民間右翼はこうした風潮に反発し、ファシズムにひかれ不景気や政財界の腐敗等を理由に国民の支持を広げクーデター・暗殺により支配していきます。更に左翼によると大正デモクテシーは不完全でありしょせん徒花でしかないとみる人もいます。

 一方、中韓等の靖国・教科書等の「圧力」に反発し、戦前は暗黒であったという見方を見直そうという勢力も明治あるいは1930年代の歴史に注目し、賛美することはあっても20年代に関してあまり興味を持っていないようです。更に英米から押しつけられたワシントン体制の中、国民全体が堕落したと極端にみる人もいますし、あるいは日露戦争で勝利し「坂の上」にのぼりつめた後、ひたすら30年代の軍部独裁へ少しずつ転げ落ちていったとみる人もいます。

 しかし私はそうは思いません。確かにそういった面もあったでしょうが、第一次世界大戦後の国際情勢の激変の中で、明治期から苦労してやっと自分達の手で民主主義的な政治を勝ち取り、短い期間だったとはいえ運用してみせ、また東アジアのわき上がるナショナリズムや米国との関係に苦悶しつつも何とか道を見出そうとした事実は簡単に捨てるべきものでありません。よく左右を問わず出される意見として、満州事変から日中戦争、対米開戦へのルートは不可避だった。なぜなら20年代の外交政策が国際協調であったとしても所詮帝国主義的意思の一形態であり、また排日移民法等、米の日本「敵視」があった以上、結局こうなる他なかったということを唱える人が多いですが、あまりにひどい戦争における日本、東アジアの惨禍をみるにつけ、いかにこれを回避しえたかを歴史の可能性の中から見出そうとするのは、現在北朝鮮・イラクで揺れる日米関係を再考し、将米の日本外交の助けとする点でも有益なことと考えます。

 さて1920年代の内政・外政を語る上でまず外せないのが原敬でしょう。以前は最初の本格的政党内閣の首班となるも、普選運動・社会運動には冷淡でまた積極政策により政界の腐敗を招いたとして従来あまり高い評価はされてこなかったのですが、最近は彼が山県有朋の率いる保守的な陸軍・官僚・貴族院と妥協しなから漸進的に日本に民主政治を根付かせていったとして評価されてきています。

 まず山県系勢力が衰えてきた理由を考えてみると、(1)日露戦争に勝つことにより、明治維新からの目標である列強との対等な関係・独立が達成されて理念を失ったこと (2)デモクラシーの潮流 (3)帝大出の官僚 (特に内務省)が政友会・同志会に取りこまれたことがあげられます。更に彼らは日露戦争に勝った後、弱体化した日英同盟に代わり獲得した満蒙権益を守り中国本土に進出するため、四次にわたる日露協約を結び露と連携することで( 独とも考えられていた) 門戸解放をかかげる米と対抗しようとしました。しかしロシア革命でこの構想は瓦解し、中国の政権の一つ(段政権)を援助し直接乗り出そうといった政策も失敗し、英米の警戒心の中、東アジアで孤立するという完全な手づまり状態の中、原に国をゆだねる他ありませんでした。

 原はアメリカの存在を重要視し対米英協調を軸とする一方、これまでの軍事的政治的圧力により大陸に進出していこうという政策を修正し、内政不干渉の原則のもと経済的に進出していこうという政策に切り替えました。そして欧米とのこの経済「戦争」を勝ち抜くために国民経済の国際競争力をつけるべく、積極政策と称される四大政綱が設定されましたそれは (1)第一次大戦の近代総力戦に備えた軍備の近代化 (2)産業の育成、それを支える (3)交通機関等インフラの 全国的な整備と (4)人材育成としての高等教育の拡充という内政に重点を置いたものでした。そして原は山県の機嫌を取りつつも選挙権の拡充や積極政策により国民的支持基盤を広げて政党(政友会)、議会の権威を高め、それらを背景に山県系官僚の基盤である郡制の廃止、植民地総督の文武官併用制の採用、貴族院の最大会派である研究会を自らの支持基盤にとりこむ両院縦断政策、司法官僚の力をそぎ国民の司法の意識を高める陪審法等により山県系宮僚閥を突き崩していきます。

 更に田中義一陸相の協力のもと山県の力の源泉でもあった陸軍も自らのコントロール下に置き始め、皇太子(後の昭和天皇)の渡欧や摂政就任等を通して宮中をもコントロール下に置きだしました。このように首相を中心とする立憲君主制の確立にほぼ成功した原敬でしたが、1921年11月東京駅で暗殺されました。そして翌年2月には原の最大の敵であった山県も病死しました。山県の死を評して石橋湛山いわく「 死ぬことが彼の国家になした唯一最大の貢献であった」といわれた通り彼の死は当時歓迎され、山県系官僚閥は崩壊することになります。

 だがこれまで彼の厳格なコントロールの下に置かれてきた陸軍は彼の死でたががはずれ、昭和初期の若手将校の暴走につながることになります。さてその後政党は権力を握ることになりますが、政権の座をつかむために、軍部と連携したり、「国体」を利用したり腐敗が高じたりして自らの支持基盤をほり崩すとともに一度自らのコントロール下 においた物を自由にしてしまい後に自らを滅ぼすことになります。ある先生がおっしゃっていたことですが、もし原が長生きしていたら日中を通じて陸軍をコントロール下におき続けていたとともに西園寺に次ぐ準元老的な立場から日本の民主化を進め、過剰な政党間抗争を抑え30年代の軍部の台頭を阻止できたかもしれないという意見に私も同感です。

 さて20年代の外交を語る上でもう一人欠かせないのが幣原喜重郎です。戦前は軍部・右翼・政友会から「軟弱外交」と非難され、戦後は一変して「平和協調外交」とかなり高い評価を得ることになりますが実際の所はどうだったのでしょう。彼は第一次大戦後の新しい潮流に乗り、通商の促進を主眼とする経済主義的な外交を推進にあたるに、中国の統一と安定の環境の整備を前提とし、そのことが国際秩序の安定を阻害しないようにという信条のもと、新しい東アジア秩序の形成を積極的に模索しました。そしてそのためにワシントン体制の熱心な守護者となりました。彼は中国各地に割拠する軍閥間の抗争に不干渉主義を貫く一方、列国( 英米)と協調し中国の不平等条約問題、特に関税自主権と治外法権を斬新的に解決するために1925年10月に北京で関税会議を開きました。しかしこれは軍閥間の抗争等により失敗に終わりました。一方南方では国民党とソ連・共産党の連合勢力が急速に力を伸ばしはじめワシントン体制を動揺させ始めました。これに対してワシントン会議のプログラムを列国と協調してあくまで史実に着実にすすめようとしましたが、これがある種の非妥協性を生むことになり、まず英続いて米がこの枠組から次第に離れていくことになります。

 幣原は最後までワシントン体制を守ろうとしましたが、彼が政策実行のため憲政会・民政党と結びつきを強めたことで政党間の争いに巻きこまれ、金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れると共に第一次幣原外交も終わりを告げました。代わった政友会の田中義一首相は自ら外相を兼ね、満蒙特殊権益の維持・拡大を図りました。 幣原は外相時代、満州を支配する張作霧が国民の信頼を失っていたことをみて彼の失脚と満州新政権の樹立、更にこれを国民政府に妥協・統合させることまで考えていました。だが田中外相はこのような大局的な見通しに立たず、中国ナショナリズムの高揚と列国との協調を無視した近視眼的なものとなり、結果として東アジアの国際的変動への対応に失敗し、英米等との中国における外交的孤立を招くことになりました。

 1929年7月民政党の浜口内閣のもとで再び外相に就いた幣原はもはや列国の協調との復活は難しいとみるようになります。英米に続いて1930年中国の関税自主権を承認した後、治外法権撤廃で共同歩調を求める英米両国とは距離を置き、蒋介石等の国民党穏健派と結んで過去の借款(西原借款等)の債務整理を進め治外法権の問題を解決していこうとしました。しかし債務整理はうまくいかないままで国民党穏健派はやがて国際連盟に資金援助を求めるようになり幣原から離れていきます。治外法権の問題も英米が本格的に交渉に入ったのをみて日本も交渉に入りますが中国はやがて関東州租借地の返還等不平等関係の清算を求めて交渉は暗礁に乗り上げます。こうして幣原外交が行き詰っていく中、国内では深刻な不景気等を背景に急進派が陸軍の主要部を占め満蒙問題の武力解決を目指し動きを強めていきました。そして1931年9月18日柳条湖事件が発生し、満州事変か勃発、幣原外交は終わりを告げます。この後日本は国際社会から孤立し、武力をもって独自の東アジア秩序を打ち立てようという方向に向かい、やがて破局への道をたどることになります。

 幣原外交が失敗した要因としては (ⅰ)国内の陸軍・右翼及びこれと結びついた政友会の反発 (ⅱ)日本が東アジアにおいて特別な立場であることを強く意識する余りややもすれば独善的になり柔軟性を欠いたこと (ⅲ)日中間の文化の違い、日本は不当な条約であっても守り、話し合いによって改正すべきという立場をとるのに対し、中国は正邪論の立場から不当な条件は破棄できる等が挙げられます。しかし彼が中国ナショナリズムの高揚を理解し、中国の不平等条約問題解決のため東アジアの新たな国際秩序の形成のため、日本が主導して積極的に列国に働きかけたこと自体はもっと評価されてよいのではないかと思います。

 自分がそもそもこの時代に興味を持った理由は二つあります。一つはもともと大平洋戦争に興味があり、なぜこういう悲劇か起こってしまったのかを考えるうちにこの時代に行きついたからです。もう一つはこの時代の建築様式、アールデコ様式に理由はうまく説明できないのですが強く魅かれるからです。1929年にできた阪急百貨店を幼い頃からみてきたからかもしれません。この時代に建てられた大阪の建築物について知りたい方は、海野弘著『モダンシティふたたび』をどうぞ。(但し今は絶版)だが中山報恩会の入っている中山製鋼所ビルもそうだが、こういった建物は今急速に老朽化し姿を消していっています。建物に限らず20年代に生まれた方ももう後10年もすればほとんど世を去り、直接知っている人はまれとなるでしょう。だから今こそ20年代をもう一度政治・外交・経済・文化あらゆる面で見直してほしいと願います。

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この原稿は、中山報恩会誌「星友」第46号(2003年)に掲載されたものです。著者は北部水源池問題連絡会の林 和好さんのご子息です。

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