ちゅら海②
三橋雅子
この記事は『みちしるべ』第88号に掲載の「ちゅら海(美しい海)の辺野古」の続編です。現在進行形で、沖縄では米軍基地反対の地殻変動が起こっています。その模様を、現地からの報告として、短い文章にしたものを集めています。マスゴミには載らない、とれとれニュースです。どこから読んでも良いので、読みやすいものです。阪神間でも、地殻変動を!……、と感じさせるものです。
<編集部>
<次々と集会の盛り上がり?>
5月25日の新聞に私は不覚にも涙を流してしまった。これは沖縄の絵ではない。前日24日の、紛れもなく、国会を囲む、全国の反基地の声の代表、1万5千人の東京の話だ。現に他の各地でも辺野古基地建設反対のデモや声が……と。ついこの間まで、辺野古に冷たかったマスコミの多くもやっと……これを載せたか……。載せざるを得なくなったか? 少しは、ほんの少しでも、風向き変わってきた? アベはともかく、全国ベースの「国民の」風向きが。
この1週間前の5月17日、沖縄那覇のセルラー球場を埋め尽くした3万5千人の熱気も本土の新聞は伝えたらしい。もっとも現地でも、テレビはチラチラっとだけとか、「ずーっとラジオの実況を聞いていた」という人も。現地に行かなくても、ラジオにしがみつき、だれかれの主張にうなづき、そうだ、そうだ、とこぶしを挙げて「オナガがんばれ、頼むぞ!」と口角泡を飛ばしていた家族も少なからず……に違いない。
このド暑い日、「家で応援」が賢いかも。
<うちなーんちゅーうしぇーてぇないびらんと>
(沖縄人をないがしろにしてはいけませんよ)
この県民集会での、翁長知事の結びの言葉。幸か不幸か梅雨入りが遅れて、ガンガンの日照り、加えてびっしりの席の熱気。
この日の人出は3万5千人との発表だが、外野席はもちろん会場外の道路にも溢れていた人波はそれを遥かに超えていただろうという。本土の集会のように、「主催者発表」との2本立てでないのがいつも不思議に思っていた。なぜかいつも主催者側発表の数字のみで、それを下回る数字が挙がったことがない。
この日の発表は、消防法による「定員」を超えるのはまずいので実際より内輪になっているのだという。また、人口1千万を超える東京での「国会を囲んだ1万5千人」と、ざっと東京の1割の人口の沖縄本土の3万5千人とは比較にならないが。ともかく大東京で、まあこれだけ集まってくれたのはルンルンの出来事。
とにかく暑かった。あれは気候の自然温度よりも、人々の内から発する熱気が上乗せされて?
午後1時の開始なのにどうしてこんなに早くから? と怪訝に思いながら、3台のバスに乗りそびれては、と読谷役場前には9時半過ぎから続々……。積み残しは自家用車を置いて路線バスで。
かなり遠くで降ろされてからも、行列の密度はムンムンとすごい。しかし、この、人の波で驚くのは早い。帰りは同時に溢れ出したからニッチモサッチモとはこのこと、満員電車の如く、遅々として動かず、バスを乗り捨てた所までの遠いこと。国会議事堂からすぐに地下にもぐって……と言うわけには行かないのが身に浸みた。(もっとも1万5千の帰りは、地下鉄への通路もさぞ溢れたことだろうが)沖縄には鉄道がないのだ、辛うじてモノレールはあるけど。そういえば、わが前住地「本宮」も鉄道のない町だったなあ。
壇上の顔ぶれで沸いたのは、もちろん期待の王子、翁長知事。滅多に大会と言えども顔を見せられないこともあるが、やはり今この人に何とかこけずに初志貫徹で乗り越えてもらわねば……との悲願がこもっている。そして必ず話題になるのは、「こけた」前知事もここに顔を出して一言詫びてくれれば許すのにね、と。
壇上の、一人ひとり貴重な人材に群集は絶大な拍手を惜しまなかったが、中でも「本土から超多忙の、貴重な時間のやりくりをして」駆けつけてくれた佐藤優氏と鳥越俊太郎氏には、感謝の拍手が鳴り止まなかった。私は壇上のスターにではなく、この群集の熱気と期待に涙が出る。(この日は出なかったが、「辺野古基金」の共同代表に名乗りを上げた、映画監督の宮崎駿さんにも、バスの中など、折に触れ絶大な感謝と感激の拍手が沸く)本土から如何に見放されていたか、本土で燃える「9条を守る」も、「原発なくせ」も、それぞれないがしろにできない切羽詰った問題には違いないが、それと同列に繋がっているはずの「沖縄の基地問題」がいかに、ないがしろ(言い過ぎなら「軽い扱い」)にされてきたかを、私は身に浸みて思う。
遡って………
<「屈辱の日」4月28日 海に出る>
1952年のサンフランシスコ講和条約が発効されたこの日は、日本にとって目出度い「主権回復の日」でも、日本政府に切り捨てられた沖縄にとっては、歴史的な「屈辱の日」でしかない。
この日、10人乗りの漁船をチャーターして海上保安庁の、ウミザルに迫る。立ち入り制限区域を示すフロートぎりぎり、海保の面々が、まじかに見えるまで接近。「海猿たちよ、恥を知れ!」「海で育でられ、海を愛して海保の仕事をするなら、まず海を守れ!」と声をからして怒鳴ってきた。彼らはひたすら「離れてください、これ以上接近すると、拿捕(ダホ)します!」
この黄色いフロートで囲った、「臨時的制限区域」なるもの、まっとうな法的根拠に拠るものではないという。しかしカヌー隊が勇敢に、カヌーを降りてフロートをくぐり、フロート内から、カヌーを引っ張り込んで……とやるとたちまち海保のウミザルたちが寄ってたかってボカボカにカヌーをひっくり返し、胸ぐらを掴んで……と「暴力」を振るう。先日観た、この「海の戦い」のビデオでは、それはもう怪我人が続出してもおかしくない、というひどさだった。これは1月から3月までのもので、その後正当な法的根拠を問う弁護士らの抗議などで、「暴力」がやや緩和され、このビデオ程ではなくなったという。
この日、別のところで一艘ひっくり返され、そんなこともあろうかと着替え一式は車に積んでいたが。
まあ、無事に終わり、帰り、折角だから、もうチョイがんばって、ヘリパットの高江に足を伸ばして激励しよう、と女5人。こここそ「世界一危険な、故に辺野古への移設が必至」と言われる『圧殺の海』の大本。近頃、皆辺野古、辺野古に結集して手薄のはず。案の定、行ってみれば車輌侵入を阻止している重要なゲートに二人、本部らしきテントに一人、という心細さ。せめて、やれることは?……と皆でなけなしを叩いてのカンパ、船チャーター料に加えて、身軽になり過ぎたスカスカの帰りになった。早朝からの出動で、もうエネルギーまで切れ、ひたすら爆睡、夜の「屈辱の日・那覇集会」はパス。年取ったものだ。長道中の送迎を勤めてくれた女性元社会科教師は、私達を読谷に送ってすぐ、きびすを返しての那覇行きだったが。「やれる人が、やれる時に、やれることを」の読谷スローガンに素直に従おう。
<山城議長一時引退>
平和運動センター議長・山城氏入院(前号の肩書き間違い)。悪性腫瘍が日に日に大きくなっているのに、みんなの懇願にも振り向かず、気持ちは分かるけど……それは無茶すぎない? これが最後……かといわんばかりの、シュプレッヒコールのマイクも人に渡さず、最後まで地を蹴って……。
謎のしこりが、大分前から気掛かりのまま、癌と分かって、第一線からの退場となった。辺野古第二ゲート前で、「必ず戻って来るからな」という彼の挨拶に、「ゲートの向こう側の最前線」の機動隊長も、「必ず戻ってきてください」と見送ったという。
もっと早く退場して治療に専念すればいいのに、と悔やまれるが、最前線で体を張ってきた彼としては、常に今が正念場…………と容易に引けなかった心情も分かって痛ましい。
これに先立ち、読谷の、辺野古行きのバスの中では「山城議長からマイクを奪って少しでも休ませるよう」と読谷勢のへたくそな歌で時間稼ぎをするべく「黄金(くがね)の歌」を練習しながら行ったのに……そんな暇は与えられず、彼はマイクを握ったまま声をからし続けた。(私達がテント前で涙しながらこの歌を披露したのは山城議長入院後。)
「黄金の歌」とは、「黄金でその心を汚さないで 黄金の花はいつか散る……」というものである。
そういえば、読谷村の辺野古行きのバスには、「日当が出る」という噂が立っているという報告に、「純情な」人たちは憤慨し、落ち込んだりもした。毎回バス代に充当する1000円を払い、それではまかないきれない赤字に、カンパ箱が回ってくるのに……。「敵のあせりを物語るのではないか? 言うことに事欠いて……」と私は思う。「そうだ、気にするな」と賛同者。
<ハワイにオスプレイが落ちた日>
やっぱり落ちた。この夜ここ読谷の我が家の頭上をあたかもスレスレといった感じで、4機続けて轟音をとどろかせて通過した。いつにも増して屋根スレスレか? と本気で思うほど。今夜もまた、低く、4機続けて行った。話し中の電話に、「何も聞こえないのよ。どうしてか聞こえる?」「聞こえる、聞こえる、そんな物騒なとこ、早く帰ってきたら?」
この騒音、思わず国道43号線被害の何とかデジベルを「懐かしく」思い出してしまった。その都度、個々に当局に抗議をしてカウントさせよう、と。基地そのものの町、お隣、嘉手納ではこの受付をしている。ここは皆我慢強いのか?
<金髪の女性・オーストラリア人>
シュプレッヒコールの声がひときわ高い金髪の女性。「私が米軍兵のレイプにあった被害者です」と堂々と日本語で言う。直視出来ないような気がして、こっちが目を伏せてしまう。彼女の「元気」が逆に痛ましい。彼女は自費をはたいて、これまでの「米軍による市民の被害事件」の一覧ポスターを作っている。彼女のレイプは東京立川でのことだったという。「米兵による被害」の多い沖縄の方が彼女の活動の場になるのだろう。
<記憶語れぬ残酷さ・・・ある日のバス>
バスに乗るたび、回を重ねるたび、新しい友人ができる。辛い告白を聞く羽目にも。ほとんど全滅したといわれる読谷村の「チビチリガマ」の体験者。その家族が生き残ったのは「6歳だった私が泣き出したので、家族がまわりをはばかって、一家でガマを出た」から。中に残った人たちは全滅(?)。その幸運は、「人には決して言うな」と永く、きつく口止めされ、沈黙を守る辛い数十年だった、という。彼女らの生き残りが、他の家族の死に繋がったわけでは全然ないのに。当時6歳といえば私より4つ若い、とそのいたいけさが身に沁みて、辛かったであろう、その真っ白の髪を、長年の苦渋の沈黙を強いられた年月を刻む深い皺を、せめて撫でて上げたいと思いながら、私は涙で、その皺も白髪も見えなくなった。