『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(65)**<2011.9. Vol.70>

2011年09月06日 | 横断車道

東日本大震災から半年が過ぎたが、阪神淡路大震災からも、17年が過ぎようとしている。いたる所で倒壊した阪神高速の現場で、印象に残ることがあった。おびただしい黒い束になったケーブルが、落橋し残った桁から、切断されて垂れ下がっていることだ。この物体が今回の話題である▼高速道路の本体は、鉄とコンクリートの支柱と桁でできている。車を走らせる構造なのだが、それだけではない。情報通信網を支える、光ファイバーケーブルの通路でもある▼電光掲示板への信号伝達。各所に設置された、非常電話との回線。全線を撮影できる、無数の監視カメラとの通信。一定区間の全車線の上に、お皿を伏せたようなビーコンという機器。路面に電波を照射し、車が通過するのを感知する。高さや長さで、大型・小型の識別もし、速度で渋滞情報も検知する。トンネル内の安全情報放送。拡声器での警告放送。警察が管理する速度取締のオービスⅢや、ナンバー検知のNシステム。高速道路会社の各所との連絡網。高速道路の光ファイバーは、情報通信網でもあるのだ▼1983年に建設省(現;国土交通省)は『情報ハイウエー構想』を打ち出した。日本道路公団(当時)の3500kmにも及ぶ、光ファイバーの利用計画であった。1984年11月16日に『日本高速通信株式会社』を、公益財団法人道路施設協会とトヨタ自動車株式会社により設立した。しかし、急速に発達する電信事業の情勢を読み間違え、全国展開が遅れたことで赤字経営。1998年7月29日に、国際電信電話株式会社(現;KDDI)に吸収合併されることになり、同年12月1日に解散▼経過はともあれ、あなたのauの携帯電話の信号は、高速道路を通過しているのだ。世はインターネット時代で、高速道路を通行する車の量よりも、通過するネットや電話の通信信号の方が、遙かに膨大になってきている。人や車の移動と、電気信号の送信とは、比較できるものではない。が、高速道路の値打ちが後者にシフトしてゆくのは、時代の流れであろう▼阪神淡路大震災の後も、『道路マフィア』は代替道路の必要性を怒鳴り散らした。東日本大震災では、道路が津波を防止したとか、内陸の高速道路の必要性を、そそのかしている。極めて低次元の屁理屈で、『マフィア利益』の世論誘導を狙っている。阪神淡路大震災では、高速道路があった為に長田区の大火災被害が発生した。国道43号線沿道では、最も復旧復興が遅延してしまった。事実からの検証をしない、『マフィア』にも困ったものだ▼しかしながら、福島第一原発でもそうであるが、何が起こったのか、何が必要なのか? 情報の伝達が、災害時にも最も重要になってくる。そういう意味からは、高速道路網も震災に役立たない訳ではない。道路地下の共同溝や、道路わきのキャブシステム、はたまた電柱だけで事足りるのではあるが。(コラムX)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』斑猫独語(47)**<2011.9. Vol.70>

2011年09月05日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<節電の夏>

 今年はクマゼミが庭の木へ来てよく鳴きました。こいつはどう聞いてもやかましい。聞く度にやかましさを再確認しました。こんなクマゼミに負けずおとらず節電節電の声もけっこうやかましく、なかでもクーラーの使用をひかえようという声がよくひびいたようでした。

 クーラーへの依存を少しでも抑えようという魂胆から、窓際にゴーヤーやフウセンカズラなどを植えよう、緑のカーテンを作ろう、なんてことを新聞が書き立て、テレビでも放送したものですから、妻もその気になり、緑のカーテン作りが私にまわってきました。ぐずぐずしていて、やっととりかかれば種も苗も売り切れの店ばかり、マスコミの威力をまざまざと感じると共に、勝手なもんで自分のぐずぐずを棚にあげ少々がっかりもしました。今年のカーテンはあきらめようとしていたところ、七月の末頃だったか花屋の店頭にひょろひょろのゴーヤーの苗が売られている、三本買って帰り植えました。

 今、それらはカーテンの役目を果たす大きさにはなっていませんが、それなりに実をつけました。5cmと7cmほどの二つで、大きくなるのを見て楽しんでいます。そんな時、Fさんが、畑になったものだと大きなものを三つ下さいました。早速ゴーヤーチャンプルでいただきました。ちゃんと時期通りやっていれば我家でも今頃収穫出来ていたかもしれません。

 クーラー、我家にはありません。ずっとノークーラーを貫いています。妻や子供もなんとかついて来てくれました。子供は妻にクーラーがほしいと言っていたそうですが、私には言いませんでした。頑固な親父だと思っていたかもしれません。私はクーラー無しを勉強出来ないといういい訳に使ってもいいと思ったりしていたのですが。

 暑い夏は暑い暑いと言ってすごす。日影を喜び、時に吹く冷たく感じる風を喜ぶ。扇子、団扇、まあ扇風機も入れよう、日がかげれば昔にかえって冷たい柳蔭、そんな小道具が夏を引き立ててくれる、暑い夏もそれはそれでいいものなのです。このことは、どなたにも出来るとは思いません。が、やせ我慢ではなく、実践出来ているから言ったまでで、クーラーの効いた部屋で、無理せんでもええやン、と評されてもいいのです。

 電化生活の利便性が電気の供給量ということで一気に問い直されたのが、今年の夏です。電気会社の言い分を鵜呑みにすることはないと思いますが、利便性に逆にひっかきまわされている生活に反省も必要かと思った夏でした。

 まだまだ残暑きびしく、発達した入道雲を見ることが出来ます。私はそんな雲に人の顔を見つけて楽しんでいます。とくに隈取りを入れた顔を想像するととても楽しいものです。

~平成は炭酸で割る柳蔭~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』熊野より(36)**<2011.9. Vol.70>

2011年09月04日 | 熊野より

三橋雅子

<台風12号南紀を襲う>

 8月末から、かなりの量の雨が間断なく容赦なく降り続き、この前の7月の台風より、これはしぶといぞ、と警戒心を強めていた。我が家は、よそより一足早く2日夜から停電、まる1週間続く。日が短くなったとはいえ、いくらかでも明るい縁側にちゃぶ台を出して早めの夕食をとる習慣がつく。夜は長かった。昔、灯火管制もあったし、戦後は、予期せぬ散発的な停電はしょっちゅうで、明日の試験どうしよう、と諦めて床に入ると点いたりする。ほっても置けないと、渋々起き出して教科書を広げると、また消える。泣きたい思いを繰り返したものだ。思えば当時はまじめで純情だった。もっと昔の人は、ランプで本を読んだはず、と蝋燭や懐中電灯を照らしてみたが、日記を書くのが限度で、本は眼がしょぼしょぼして読む気が失せた。時間をかけて、首回しとかスクワットなど、日頃ハショリ勝ちなことを、ゆっくりやる。たまにはこんなこともありか、と、もろに災害を受けない者の、呑気な「非日常」を享受した。同居人の仙人にいたっては、「瞑想にもってこいじゃないか、修行の足りんものには」とのたまう始末。

 ケーブルもだめで電話もネットもつながらない。おかげで、この地がどんな状況なのかわからないから、テレビを見ている人たちが遠くで心配してくれている状況もわからなかった。ともあれ、予想を超える心配を?と思える所に葉書を書いた。しかし、何日も郵便配達も見ないから着くかどうか分からぬまま「蝋燭を買いに(4~5キロ歩いて)行くから何か?」といってくれる隣人に投函を託したが、これも、いつ集めに来るのやら?ネットを駆使する人は、心配なら何とかして状況を把握してくれるだろうと思うことにした。案の定、息子の一人は、本宮行政局が機能不全になっているので、田辺市の防災なんとか室とやらホームページなどで、重篤な被災地域でないことだけは確認して、周辺に安心情報を送っていた。藤井編集長に至っては、グーグルの航空写真と国土交通省の被災空中写真をつき合わせて災害地域には含まれていない、と確認してくださったようで恐縮の極み。とにかく我が家の安否を気遣ってくれる人たちが、今度はよくよく住所と首っ引きで字名を確認してくれたようで、隠遁の身としては身が縮む想いである。黄泉の国に一歩近づいた所で、ひっそりと山の中で人知れず事切れたりするのも・・・、と一時はどなたにも、ろくに引越し先の通知もせず、年賀状も放置など・・・気付いたら「あら、いつの間にか、もうこの世にはいないのか」と思ってくださる消え方もありか?・・・などと散々勝手なことをしていたのに。皆さんが、世捨て人の安否をこんなに気遣って、繋がらない電話を何回もかけたり、はがきを書いたり、メールがどっさり、と心を砕いてくださっていることに平に恐縮するのみであった。

 電化製品には縁の薄い我が家も、買い物にめったに出かけないだけに、冷蔵、冷凍庫にはお世話になっている。二日くらいは冷蔵庫も開けたてを気をつけて、少しでも保冷の長持ちを心がけていたが、一向に点く気配もなさそう・・・と、いたみそうなものの処理を始める。これは手早くお腹の中へ、これは火を通しながら長期戦の兵糧に備える・・・とか、この際冷蔵、冷凍庫の整理と大掃除のチャンス(我が家は冷凍庫の方が格段に大きい)と作戦変え。すると、隣の猟師から「溶けちゃう」猪肉の大きな塊、反対隣の釣キチ氏からは鮎をこれまたどっさり・・・と毎日火を通したり(猪肉は火を通すほどに柔らかくおいしくなるので絶好)、鮎は何といってもあぶりたて・・・と[おいしさ]の詰め込みに追われる始末。加えて雨が治まれば、水浸しの畑の泥の中から、けなげに実を付けたままがんばっていたピーマン、ししとう、おくら、茄子・・・・とせっかくの実りの処理も忙しく、さらに救援物資まで届く。とても我が家の「非常食」に手をつけるには至らなかった。それどころか、日持ちのする救援物資は「非常食のストック」に加える始末(申し訳ない)。と、我が家の食は先ず万全。食料以上の「綱」である水はそこら中に、きれいな飲める水が溢れている。燃料はプロパンが切れれば、卓上コンロもあり、七厘は真夏でも魚焼きに活躍しているから、手近に炭や備長炭と共に。調理に事欠くことはない。

 下界への道の確保には少し難儀した。もともと山の中の賎が屋に、ひっそりと暮らす仙人と山姥が下界への道を気にするには及ばないのだが、数少ない近隣はそうも行かないらしい。対向車が来ると難儀する、曲がりくねった狭い道。もともと、お風呂に行く時など、行きはどうもなかったのに、大雨の帰りには車が通れず、風呂上りの素手で大石をどけたり、大枝を払ったりすることもあった。今回はちょっと大掛かり、崖崩れ三箇所を男手三人で、倒木をチェーンソーで伐り、土砂を除け、こちらはひたすら折れ枝を掃き落としたり、のいわゆる[ミチブシン]を半日。ようやく軽トラックがそろっと通れるように。行政は到底それどころでは?と早めに判断して正解だった。

 行政は停電のまま機能停止。暴風警報、大雨警報・・・ありとあらゆる警報を発していたのも音沙汰なくなったが、数日してようやくアナウンス復活。おらが道は大きく割れ目が入って、自転車のタイヤがはまり込みそうな、しかも車が大きく傾く亀裂もあるが、ここらの道に手をつけるなど、当分、夢のまた夢?何しろ行政機関も商店も水浸しで壊滅の本宮中心部からは程遠く(10㌔)、「集落ごと崩落」あるいは「集落孤立」などの憂き目にも縁遠かったここは、本宮の中では天国みたいなもの。テレビが1足先に、15日にはネット、電話が繋がった。

 観光地唯一のメインストリートは何日も泥との格闘。商店の屋根に、流木がのっかている風景は一瞬何の事か理解に苦しんだ。軒並みあそこまで水が来たという泥の筋の痕跡が、屋根のすぐ下、あるいは二階にまで、ということでうなづける。本宮はまだしも、もっと下流の熊野川町(新宮市)は、ダムの放流と川の合流地で、氾濫が高い歩道橋にまで及んだ。高みにあり、更に三階建ての熊野川行政局はまさか安全、と避難した住民は、三階にまで水がひたひたしてきて恐怖、救命着を着け、ゴムボートに乗って更なる避難へ、とのこと。当然、熊野川を望む川べりの喫茶店など、もはや何の痕跡もないとか。クロネコやまとの配送センターが気になるが。丁度近々着く筈だった、アマゾンから発送通知が来ていた荷物はどうなったのか、何の音沙汰もないまま。

 郵便局は職員がひたすら泥かきに追われ、開いているからATMは?と、うかつにも近づいた私は「そこは深いで!」の声すでに遅く、膝下近くまで泥に埋まった。車もバイクも水に浸かって、当分機能不全だった郵便業務も、「借り物」のバイクで配達が始まって、2日付けも5日付の消印も一緒くたに、ぽつぽつと一週間遅れで着き始めた。最近、安くつくクロネコメール便に続々切り替えた定期刊行物は、2週分まとめて郵送で来る始末。途中で行方不明のものも?

 少し落ち着いて、公衆浴場の温泉もやっと再開。手前の橋が通行不能になったので4キロくらいの迂回道路を、工事用の大型車とのすれ違いに難儀しながら。じゃんじゃん来る、頼もしげな赤い関西電力車に、わがドライバーは「栗垣内(クリガイト、我が家の小字名)の工事に?」といちいち訊いている。首をかしげるのも無理はない。大阪南だの京都からの助っ人関電車なのだ。

 お風呂の常連たちと、お互い、よかったね、など、だって誰さんは、集落の出口が崩れ落ちちゃって閉じ込められてるんだもの(わが集落の隣はすでに廃村、その隣だから、いまや最も近い集落)。気の毒に、お見舞いにも行けんし、電話も通じないから、声も聞けんしなあ・・・どないしてるんやろな・・・。もっとひどい所は集落ごと流されて皆、帰る家がない。

 どこも食材には困らなくても、本宮全域、簡易水道が停電であがったり。プロパンも切れそうで、道路開通まではどうしようかと心配した、という。アララ?うちより遥かに安泰で、電気の復活も早く、我が家が天国なら、極楽みたいなところなのに?解せない。我が家の水は大雨で潤沢極まりない。まあホースを繋ぎに水源まで足は運んだけれど(よくも、と思うほどいろんなものが吹っ飛んで中継タンクが行方不明やら、ホースの先を探すのに倒木の山を掻き分けたり・・・)。隣は家に据えている水のタンクが二基とも飛んで流されてしまった)、仮にホース継ぎが簡単にはいかなくても、目の前の川はきれいだし、こんなに豊富な雨水だって・・・と不審に思って思い出した。田辺市への合併の際、説明会で異議を申しておいたこと。「よく合併推進には、合併の暁には下水道完備・・・とうたうことが多く、折角山水を飲みたくてここに来たのに、引きたくもない水道敷設を強制され、負担金を強要されては困る」と言ったら、えらいさん達は何だか困惑顔でごそごそ頭をつき合わせて相談した挙句、答えて曰く「お宅は引きたくても、申し訳ないがあそこまでは到底引けないのです。」「未来永劫に?」「まあ、絶対水道はいけません。」と何に恐縮するのか分からないけど、やけに頭を下げての奇妙なやりとりに、それなら結構、安心しました、と了解した経緯がある(それで合併をよし、としたわけではないけれど)。後に親しくなった、その時の返答者曰く、あれはヒヤヒヤもので、町長が、そんなこと言ってもいいものか?と心配した、と。今回その彼が、そうだ、三橋さんのトコに水もらいに行こうか、と思ったと。

 水害の被害はなくても、停電のおかげで水が絶たれ、配水車に並んだり、家中の容器をかき集めたりとの話に、阪神淡路の地震の時と同じく、ライフラインを絶たれる危惧をこんな田舎でも・・・?と奇異にすら思う。また、オール電化の家も少なからず。本宮の中でも超「原始的な暮らし」らしい我が家は、「他よりは」かなり安泰なわけ。

 また、我が裏山に築かれた石積みの崖、これが、あちこちからチョロチョロ水を吐いて、頑丈な、穴の少ないコンクリートの壁が水に耐えかねて、一挙にどさーーっと崩れ落ちることから免れている。先人の知恵と緻密な計算と、労力を惜しまない気の遠くなるような労力に、感謝とともに頭が下がる思い。現にかつて、さほどでもなかった嵐の際、反対側、我が家の下の畑に、コンクリート壁が、あっという間に全面崩れ落ちた。もちろん今回、家の脇を流れる、ふだんは何もない溝は、龍が踊り狂うような滝になって恐ろしい形相だったから、ひょっとして家もろとも流されて、文字通り川の藻屑になるやも?と、覚悟しないわけではなかった。しかし、仙人と山姥、ふだん喧嘩は絶えないが、この際仲良く手をつないで、同時に水葬されるのも悪くないか?と、山姥は安らかに眠っていた。仙人は夜っぴで風と水量を推し量っていたようだが。結果、果たしてあれだけの長い大雨に、石積み崖の許容量は危なげなかった。今後はいざ知らず、少なくとも他所よりは、今の所安泰らしい。

 予期せぬ大規模の自然現象とはいえ、福島原発とは比べ物にならないが、やはり人災の影を感じないわけにはいかない。橋という橋に堆積した流木の白っぽい枯れざまは、雑木に替えて、杉、檜を植えるだけ植えて、儲からぬと見切りをつければ放置した、森の疲弊の残骸でしかない。森の放置のむごたらしさを突きつけられる。里山が健在ならこんなはずでは?と。行政局の被災は、熊野川に流れ込む川が、流木にせき止められて溢れ出し、濁流が渦を巻いて高いはずの建物を直撃、ガラス窓を破って流れ込み、自家発電機までやられてしまったもの。

 もう一つは上流の発電ダム。これまでも、川の合流地から下流の集落は、ダムの放流とあいまって、何回か水害の憂き目に会っている。今回はそれが予想を超える、すさまじい災害となった。大雨に加えてダムからも放流されるのだから、たまったものではない。治水ダムと違って、大雨予報の前の放流水準値の規定や義務はないそうだが、電力確保のために、もし予報と違って大雨にならず、ダムが空っぽになることを恐れて事前放流を渋るとしたら、あまりにも反人道的ではないのか?

 かつて、この地の原発設立計画を果敢に粉砕した、南紀の人たちの気概が再起されなければならない。

熊野川流木逆立つ秋日差し

泥の川泥の家々彼岸花

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』僕の原発問題**<2011.9. Vol.70>

2011年09月03日 | 神崎敏則

僕の原発問題

神崎敏則

 原発問題に関心がなかったわけではない。尋ねられたなら、「原発には反対です」と即答しただろう。でもどう記憶を巻き戻してみても、原発反対の行動をした場面が出てこない。何故なのだろうか?

 3月11日を境にして、僕の中も一変した。東電の言い逃れのひどさに辟易した。事故をことさら小さく見せようとする政府の対応にあきれ返った。保安院や専門家と言われる人たちの胡散臭さも鼻についた。マスコミは一方的にそれらのスピーカーの役割しか果たさなかった。国民の安全を確保することよりも、国民がパニックにならないようにしたいとの思惑が透けて見えていた。テレビを見るたびに、これではいけない、原発問題を国会やマスコミに任せるわけにはいかない、と憤りに近い感情で思うようになった。福島第一原発事故で、自分の原発をめぐる見方が鮮明になり、立ち位置が決まったような気がする。

 では3月11日までの僕はどうだったのか? 後ろめたさが余計に記憶を曇らせるが、あえて振り返る必要を感じている。

 原発問題に踏み込まなかった理由の一つは、原子力と科学との一般的なとらえ方に甘さがあったことだと思う。原子力を制御することは確かに難しいのだろうが、科学が発展する過程においてやがてはその困難を乗り越えるだろうと漠然と思っていた。核兵器に対してはどのように理由をつけようがその存在を否定すべきものであるが、原子力開発は、現在は問題があったとしてもやがて克服してゆくのだろうと、擁護すべき部分もなくはないと思っていた。

 原発が定期点検で停止しているとき、原子炉内に入って大量の放射線を浴びる作業を渡り歩く労働者いわゆる原発ジプシーという言葉を知ってはいたが、リアリティーを実感することはなかった。ウランの採掘現場では日常的に労働者や住民が被ばくさせられていることも知識としては備わっていたはずだが、他人事のようにしか受け止めてこなかった。いま思えば、科学の発展がやがては原子力を制御できるとは、ずいぶん身勝手な論理だった。事故を起こさないように制御できるようになる―とは今は思えないが―だろうが、日常的に被ばくしている労働者や住民のことは切り捨てていたのだから。

 もう一つの理由は、原発建設予定地や、稼働中の地元で反対運動を長年継続している人たちの闘いを知ろうとしなかったことだと思う。祝島で上関原発建設に反対している住民たちを主人公にしているドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を観る機会を得た。ある会の今年の総会が第七芸術劇場のフロアー違いの会議室で開かれ、総会終了後に上映中の映画を参加者全員で観させていただいた。

 小さな島で漁業や農業を工夫しながら将来展望を少しずつ切り開き、島から4㌔しか離れていない対岸に予定されている原発建設に30年近く反対運動を継続している。毎週月曜日に島の住民たちはデモ行進を港で続け、今年で1100回を超えている。町議会で重要な案件が決議される日には総出で町議会に乗り込み、採決を注視する。建設を強行しようとする中国電力には漁船の上から抗議する。対する中国電力は「(漁業や農業などの)一次産業では若い人たちはいなくなるだけで将来の展望がないでしょう」と原発に依存することをいけしゃあしゃあと進める。そんな理不尽な対応に、島民たちは真っ向から対決していた。この島民たちの闘いを孤立させてはいけない、映画を観おわった時の感想だ。

 経済産業省や電力会社は、政治家を取り込み、マスコミ対策を巡らせて、専門家を金で育ててきた。自分では認識していなかったが、3月11日までは自分自身もその影響下にあったのだと思う。事実を認識しようとしない、被ばくしている人がいても他人事のようにしか感じない、現場で長年反対運動を継続している人たちのことを知ろうともしない、傍観者の立場から一歩も出ようとしなかった。結果として例えば祝島の人たちを孤立させる側の一員になっていた。経済産業省や電力会社がつくってきた環境の中にすっぽり収まっていたのだと思う。すごく反省している。

 尼崎では幸いにして「さいなら原発尼崎住民の会」が立ち上がり、昨日時点で賛同人が150名に達した。福島の人たちや世界の被ばく者との交流もこれからは実現できるかもしれない。多くの人たちと交流して連帯することを今から愉しみにしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**もっと怒ろう!!(省力的、効果的に怒る方法)**<2011.9. Vol.70>

2011年09月02日 | 川西自然教室

もっと怒ろう!!(省力的、効果的に怒る方法)

川西自然教室  田中 廉

 9月19日、「さよなら原発5万人集会」が東京明治公園で開かれ、会場に入りきれないほどの人が集まり、主催者発表で6万人の大集会であった。ところが翌日の新聞(朝日、読売朝刊、兵庫県)には一行も載っていない。朝日が天声人語で少し述べているだけである。脱原発では最大の集会であるし、たぶん、沖縄以外ではこの10年か20年で最大の集会ではないかと思う。それが一行も報道されない!! 読売はいまだ原発推進だから政治的に無視したのかもしれないが、朝日は脱原発だと思っていたのにいったいどうしたのだろうか? 電力会社を含む政財界の顔色を窺ったのだろうか? わたしたちは、このような「おかしいこと」に出会ったときにいかにして自分の意志を示し、望む方向に向けるようにしたらいいのだろうか? 集会で大江健三郎氏は「私たちは原発に抵抗する意思を持っていることを、想像力を持たない政党幹部や経団連の実力者に思い知らせる必要があります。そのためにできることは、民主主義の集会、市民のデモしかないのです」と述べている。集会、デモ、署名、カンパ、これらはすべて意味があり大切な行動である。しかし、集会当日に他の用事があったり、また、遠方であったり、体力的に参加したりできないこともある。心の中で応援し、祈るだけでは物足りない人には、家にいてもできる抗議行動がある。おかしい報道(報道しないことも含め)があれば新聞社、放送局にメール、または電話で抗議の声を上げることである。私は今回の集会未報道で朝日に電話した。最初女性が出て、内容を聞くと記事担当の部署に回された。そこではこちらが一方的に文句を言い、相手は聞くだけである。暖簾に腕押しの感が無きにしもあらずだが、それでいいのである。こういう抗議行動がいくつか積み重なると上の方はそれなりに考えるのである。これは対行政でも同じである。新しいところでは、この九月に福島県の花火を愛知県日新町で打ち上げる予定であったが、市民より約20通の問い合わせや苦情の電話やメールがあり、市当局と商工会議所は使用中止を決めた。それが報道されると全国から2日間で中止への抗議のメールが1100通、電話が750通ほどが殺到し、結局市長と商工会議所会長が福島県の某市と花火会社を訪れ謝罪する羽目になった。このことはメールや電話が非常に大きな力を持っていることを示している。また逆に、よい記事や番組があった時は「良かったよ」とメールや電話することも重要である。現場で頑張る人々の大きな励みになり、また、良心的な番組をつぶそうとする者への強力な武器になる。体力が下降気味の我々は、このような省力的、かつ効率的な方法も含め「おかしいこと」に抗議、激励の声を上げようではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』**第37回 道路全国連・全国交流集会の御案内**<2011.9. Vol.70>

2011年09月01日 | 道路全国連

第37回 道路全国連・全国交流集会の御案内

 第37回 道路全国連・全国交流集会は今年、外環反対運動40年を迎えた千葉県市川市で11月5日、6日の両日に開催いたします。

環境破壊、住民無視の道路建設を止め、建設費を東日本大震災の復旧、復興へ

 3月11日に東日本を襲った地震と津波そして原発事故の被害はその規模と深刻さでこれまで例を見ないもので、被災地の復旧、復興に向け、政策の大転換が求められています。それにも拘わらず、住民の望まない環境破壊の道路建設は相変わらず全国各地で進められています。これでいいのでしょうか!

 皆様の体験、運動の現状をお持ちより頂き、交流し、この不当な状況を打ち破る新たな一歩を踏み出す機会としたいと存じます。多数の皆様の参加をお待ちしております。

≪記≫

第37回 道路全国連・全国交流集会

主催 道路住民運動全国連絡会
日時 11月5日(土)、6日(日)
会場 千葉商科大学 1号館101教室 (千葉県市川市国府台1-3-1)
宿泊 セミナーハウス・クロスウェーブ船橋
               <シングル・朝食付き7900円>
               (千葉県船橋市本町2-9-3 * TEL047-436-0111)

日程ならびにプログラム
<未確定部分あり、最終決定はお問い合わせを>

≪11月5日(土)≫

現地見学会

  • 12:30  京葉線「新浦安」駅、南口デッキ(改札出て右側)に集合、受付。
  • 12:45  バス出発、浦安湾岸地域から外環道高谷ジャンクションへ。
               外環道路沿いに市川市内、松戸市矢切り地区を経て
               松戸市「関さんの森」までを予定。
  • 16:00 千葉商科大学着

特別報告

  • 16:30~17:30  「外環反対運動の40年」
                    <外環反対連絡会 高柳俊暢 外>

懇親会

  • 18:00~20:00  千葉商科大学食堂<参加費4000円>

    ※ 宿泊所「セミナーハウス・クロスウェーブ船橋」へは懇親会終了後、バスで移動。

≪11月6日(日)≫

基調報告

  • 9:00~ 9:30    道路全国連 橋本良仁事務局長(30分)

特別報告

  • 9:30~10:20    「行政訴訟の改革をめざして」
                 高尾山天狗裁判弁護団長 鈴木堯博 弁護士(50分)
  • 10:20~11:00   会場参加者による質疑・討論(40分)

報告

  • 11:00~11:20   「広島・国道2号線裁判控訴審の現状」(20分)
  • 11:20~11:40   他に報告1件(20分)を予定

休憩

  • 12:00~13:00   会場前ロビーにて展示、資料販売、情報交換など

特別報告

  • 13:10~13:40  「大気裁判の成果を運動にどういかすか(仮題)」
                      
    環境省調査SORAでも明らかになった
                      大気汚染と健康被害の因果関係
                      ※ 東京大気裁判弁護団 西村隆雄 弁護士(30分)

報告≪各20分を予定≫

  • 「環状8号線における騒音問題」幹線道路沿道における騒音環境基準の特例の不当性
  • 「過剰な計画が見直されない東京の都市計画道路」
  • 「新山梨環状道路反対運動の現状」
  • 他に名古屋、関西地区(大阪、京都)、広島(福山)からの報告を依頼中。

まとめと次回への引き継ぎ 15:40~16:00

活動報告書について

  • 例年通り活動報告書を作成します。
  • 団体ごとに活動報告書をお送り下さい。
  • 今回の集会に参加出来ない団体も活動の状況をお知らせいただけると幸いです。
  • (書式)A4版2ページ。
  • 最初に対象道路・団体名・代表者名・連絡先住所・電話番号・FAX・E-mail・HP-URLを記載して下さい。
  • (送り先) =省略= 第37回道路公害反対運動全国交流集会事務局まで
  • (受付締め切り) 10月22日(土)
  • 地域連絡会等でまとめ、一括してお送り頂ける場合は御連絡頂けると幸いです。

特別講演、特別報告、事例報告要旨(レジュメ)

A4(4ページ以内)で別途作成頂き10月28日(金)までにお送り下さい。

展示、署名、資料配布、書籍販売など

参加申し込みの際、「その他」の欄に附記していただければ幸いです。

※ 参加申込書などお問い合わせは、阪神間道路問題ネットワーク事務局でも受け付けます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする