三橋雅子
<本宮の大逆事件②>「マグマ、熊野川を遡る?」
私はあれほど全国を震撼させた事件で、なぜ本宮から成石兄弟二人の検挙者を出すほどに、この地が「進歩的」であったのか腑に落ちなかった。(大逆事件で検挙され、死刑宣告を受けたのは24人、そのうち紀州組が6人、翌日半数が無期に減刑され、刑死者は12人となるが、うち紀州組が2人、新宮の大石誠之助と本宮の成石兵四郎である。)本宮は紀州組の中心である新宮とは、熊野川町(最近新宮市と合併)を隔てて隣接していなかったし、交通も今の国道もなく、水路、熊野川を下るのに、行きしなはともかく帰りは大変な難儀だったという。
佐藤春夫は父の代から新宮の住人になったが、それまでは那智勝浦で代々医業を営む祖父椿山が懸泉堂という私塾も主宰していた。その佐藤家の家訓が「政治のことには決して口を挟んではならない。本はひたすら読書に沈潜せよ。」であったと言う。「実行動に移してはならない」のである。その由来は1837年の大塩平八郎の乱にある、という。大坂町奉行の元与力、平八郎は、豪商達の米買占めによる暴利や奉行所の汚職、不正に対し片や困窮する民衆の悲惨な生活を見かねて再三の民衆救援を提言したが拒否される。陽明学者として主宰する塾の塾生達と遂に武装蜂起を企てたが内通され、幕府軍によって徹底的に壊滅させられる。とはいえこの決起には、近隣農民、町民も合わせて300人程の勢力になったというから幕府を震え上がらせるに足る事件だった。黒船来航(1853年)の16年前、維新まで30年、激動の明治末期の「輝かしい」蜂起であったはず。この塾に学ぶものの中に、紀伊勝浦地方出身の若者達もいた。しかし彼らはこの決起には反対で、事件の勃発時には熊野勢は不参加組として郷里に帰っていたという。にもかかわらず、この事件への懲罰はことのほか厳しく、塾生の縁者の隅々、末端に至るまで、「白い眼」のまなざしはおろか、公職を解かれ(学校教師が多かったという)生活苦に追い込まれるなど、深く、広範囲に亘る悲惨の波紋はすさまじかった。これを目の当たりにした佐藤春夫の祖父の、自ら塾で教えを説く者の責任(?)として、例の家訓を厳命せざるを得なかったのか。
私にとって、大塩平八郎の乱といえば遥か江戸時代の昔々の話、直接「今」に結びつくもの、とは思えなかった。しかし1837年といえば、大逆事件を遡ること73年、今、かの太平洋戦争終結から66年しか経っていないことを思えば、事件の痛み、教訓が生々しく伝えられ、「教訓」として戒められていても不思議はないことに気づく。
エネルギーと言うのはマグマのようにどこかに通り道を求めるものなのだろうか?新宮で起こった新しい時代への胎動、おかしい世の中への批判や変えようとする欲求とそのエネルギーは、その土壌があるはずの勝浦方面へは固い「教訓」の地盤に阻まれていた。結果マグマは、反対方向に向かって熊野川を遡り本宮に到ったのか?本宮に飛び火した系図を、「熊野川を遡る新思想」と辻本は説く。(南紀州新聞連載)
ようやく、この保守色の濃い本宮という地域から、偶然性もある不運な冤罪とはいえ、なぜ大逆事件の中枢に関わりを持つ二者を出すに到ったのか、いくらか納得のいく境地に到った。それは黒船が沖合いを通過する「異様な」時代の風が、波乱を予告して通り過ぎていく風景を目の当たりにする、南紀と言う地域の「歴史への関わり方」の一面だったのだろうか。
新宮には、昔から東京の流行が京都、大阪を跳び越して直接入ってくる、と言われたそうだが、それはファッションの世界ばかりではない、思想の流れにも同じことが言えるのかと改めて感じる。しかし「首謀者」大石がモデルの『許されざるもの』(辻原登著、毎日新聞連載)は、彼ドクトル(毒取る)がアメリカから帰国する場面から始まるが、その土産には、アメリカの新しい文明の利器と共に、自由、平等の新しい思想も詰まっていたことが記され、すでに官憲は鋭く目をつけて警戒の標的にしていたらしい。東京から、どころか当時はまだまだ若々しい自由の国を謳歌していたアメリカからの直輸入だったのかもしれない。
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