『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』ゲットウの花咲く慰霊の日**<2014.7. Vol.85>

2014年07月26日 | パリ&東京&沖縄より

ゲットウの花咲く慰霊の日

三橋雅子

 6月末の『琉球新報』を、どさりと手にして(まとめて、もらってきたのを見る。)愕然。一瞬、最近大事故が起こったのかと……。6月24日の紙面は全頁「23日、太平洋戦争末期の沖縄戦が終結してから、68年目の『慰霊の日』を迎えた」の記事一色。どのページも、各地での『慰霊の日』の映像。慰霊碑の前にぬかずき、当時を思い出して泣き崩れ、その悲しさ、悔しさを語っている。それは二度とこんな思いを子孫にさせてはならない、いう悲願に繋がっている。

 どう見ても一瞬、ごく最近の大事故の悲しみ冷めやらぬ光景と思うではないか。半世紀を優に越し、いまだに号泣が聞こえてきそうな、悔しさ悲しさがほとばしる映像の中で、安倍総理以下、神妙そうな仮面の、中央のえらいさんたち。「慰霊」の意味がチラッとでもよぎりましたか? 靖国に意地張って足を運びたいのは、こういう「慰霊」とはあまりにも遠く、そらぞらしいと実感しました? この悲しみと怒りを前に、「どう見たって戦争への道」を突っ走りたいあなた達、正直、よくもイケシャアシャアと……。この神妙を装う面持ちはどうにも場違い。沖縄の「慰霊」のどこに、軍人の霊をまつろうなどという気持などあろうか。この地の人々が辛い経験で学んだのは、「軍は決して国民を守ってくれはしない、絶対に!」という教訓の筈。

 どうにもならない、68年前の悲しさ、悔しさ、辛かった、辛かったろうとの思いが迫ってくるような、時が痛みを和らげるのでなく、逆に時が経つほどに、その思いは凝縮されて募ってくるような迫力。直接の体験者は減っていきつつあるのに、はっきりと、おじいやおばあから、また、それをじかに聞いた父母、兄弟からのナマの辛い声が……。「一歳の妹を目の前でみすみす死なしてしまった」、「動けなくなった老婆の差し出す『もう要らないからこの金もって行け』を『金など役立たねえ』と振り切って逃げた」。詫びや後悔……、子供たちに臨場感を追体験させているのが、そうやって号泣し涙をぬぐいつつ悔やんで悲しむ、身近な人々の姿、墓前の様子だということが伺える。物心のつかないうちから、墓前で泣き崩れる大人たちを見て育った環境。きっと、先祖の慰霊をことのほか大切にする、この地の賜物なのかもしれない。歴史を伝えるとはどういうことなのか? 先祖の墓参もサボりがちな、自分の墓など不要などと軽々しく口にしているわが身を振り返ってしまう。

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 ある詩人は「ゲットウの花がきれいね」と言う友人の言葉に驚いたという。「今まで一度もきれいだなんて思わなかったから」「小学生のころ、六月になると必ず、沖縄戦の悲しみや切なさを強く感じさせる『ゲットウの花』を歌ったから」だという。「きれい……と言われて見れば、素敵な、きれいな花なのだ」という文章に胸が詰まる。

 家賃を持っていくと、大家さんが「この本、東京の友達に送るんだけど、その前に見る?」と何気なく絵本を貸してくれた。『ゲットウの花咲く時』。彼女に「何も知らない内地人を啓発しよう」なんて気分はみじんもない。が、ページを繰りながら、沖縄戦時の残酷さ、おぞましさ、悲しさ、痛み……それが『ゲットウの花の咲く時』なのだ。私は滂沱(ぼうだ=涙がとめどなく流れる意)の涙で、借り物を汚さない気遣いに追われた。

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 中央に寄り添い、おたおたの仲井真弘多知事の「平和宣言」に、今年の当初、この3年間盛り込まれている「普天間の県外移設要求」の文言が削除されていた、と言う。驚くことに。与党からの「再考要求」に応じて復活させ、何とか「3年連続で」の体裁になったが、「県外移設」の文言が「普天間飛行場の機能を削減し」の部分にだけかかって、偽装、詐術の恐れも……とは『琉球新報』の「社説」の指摘である。確かに危うい。

 今年の沖縄全戦没者追悼式(糸満市摩文仁の平和祈念公園・県主催)の出席者には、安倍首相のほか防衛相と外相(この役職の出席は式典開催以来初めて)、米駐日大使の出席も18年ぶり2度目だそう(「日経新聞」)。へーっ? 時期が時期だから? 何とわざとらしい……。でも、彼らに対する反感のデモや、「帰れ帰れ……」などのコールもないらしい。そこが「沖縄」。そういえば、ケネディ大使の初来沖のときも、「ジュゴンの住むきれいな海をよごささないで!」という訴えだけで、激しいデモも「帰れ!」のコールもなかったようだ。

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 1945年、第32軍牛島満大将司令官をはじめとする司令部が自決した日をもって、組織的戦闘が終結したとして、その6月23日を慰霊の日と定めた(日付の設定については異論多々)。1962年から、この日には沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行なわれ、沖縄戦犠牲者の遺族・子孫らが集まり、正午には黙祷が捧げられる。

 ところが10年後、1972年の本土復帰後は日本の法律が適用となり、慰霊の日は休日としての法的根拠を失った。おかしいのでは? 本土こそ、本土上陸を阻む盾となって、集中的な犠牲を払わされた沖縄を忘れないために、この日を国の祭日にすべきだったのでは? 起源あやふやな「紀元節」に基づく「建国の日」など退けて。

 更に20年後1991年に沖縄県が自治体として、休日条例で慰霊の日を休日と定めた。よって再び正式な休日となり、「国の機関以外」の役所・学校等は休みになる。地方限定の公休日だから国の機関は休みでない。これだけでも「国は知らんよ・関係ないよ」の意思表示にみえて情けない。せめて沖縄だけでも、国家公務員こそ、この日には襟を正して日本国家の、本土決戦、上陸を食い止めてくれた犠牲の重みに深く思いを致すべきではないのか? 今、曲がりなりにも、安泰のお蔭大きい日本全土の国民が、心に留めなければならないはず。しかしどれだけの国民が、この沖縄の『悔しさの日』に犠牲者の冥福を深く祈っているだろうか? 私を含めて。

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 県外での生活体験者が「慰霊の日」の本土の冷たさを書いている。昼休み、「糸満市での『戦没者追悼式典』の中継」を真剣に見ていると、「知ってる人でも出ているの?」と怪訝な顔、子どもが平和の詩を読むと、「言わされてるんじゃないの?」との声があちこちから……と。この冷たい温度差……。一人、黙って真剣に見入る先輩がいて、聞くと、高校卒業後に戦争のことを学んだからだと。われわれを取り巻く、あまりにも貧相、と言うより意図的な歴史教育の現状。

 今年の糸満市では、小3生が「空はつながっている」という自作の詩を読んだ。「空はつながっているのにどうしてかな」と世界各地の戦争を疑問に思い、「きっとせかいは手をつなぎあえる、青い空が広がってるように」と世界平和の希望を詠んだそうだ。大人は、この心に応えなければならない。必死で。

 「ひめゆりの塔」に号泣した中学生の私。60年安保に、組合結成の日に、メーデーに、「沖縄を返せ!」を叫んでいた私。70代最後の誕生日を目前にし、今、沖縄とは!「沖縄の豊かさ」と「日本で一番放射線の少ない」を「享受」しつつ複雑な思いで。

 すでに24時間を過ぎて尚ますます、すさまじい沖縄の台風8号の猛威を初体験しつつ、私はゲットウの葉をお茶に煎じている(整腸、健胃の効とか、私には無用だが、やや甘い香りがいい)。ここでは、この葉でくるんだ餅、ムーチーを食べるそう。ちまきのように。

幾年も慰霊の涙見守りしか楚々とうつむく月桃の花

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