『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』**敗戦前後満州国建設から滅亡迄**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月10日 | 単独記事

この記事は『らくがき』13号に掲載されたもので、山川泰宏さんが著者の承諾を得て、新たに打ち直した原稿を転載するものです。

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敗戦前後満州国建設から滅亡迄

駒場松桜会関西支部
樽井弥栄(104歳)

 清朝廃帝溥儀氏を皇帝に満州帝国は日満協力の上、新満州国を建設した。新国家の建設に日本国民は、建設、経済、交通、満鉄その他の機関と共に活躍し政府と協力、近代国家となった。

 政府、関東軍,溥儀皇帝を信じ、理想に燃えて命をかけて渡満した日本の若者たちの夢の新国家です。満州中央銀行は国の中核として創立され、その威容に引かれ主人も重役と共に渡満した。若かった、夢と希望、平和の歓喜、国を信じ生き甲斐と命をかけて働いた中央銀行員の一人である。

 しかし、突然勃発した大東亜戦争に、満州国は平和の歓喜に酔った十数年のドラマの様に消えてしまった。国造りに協力、滅び行く国とも知らず敗戦までの間「召集」の一声に命を失った人々に心が痛む。

 当時、主人は鉄の都、鞍山支店長。昭和製鋼所を目標に爆撃と空襲は日毎に激しくなる。連日市街戦は続く。B29の爆撃に死んでいく人、食料の確保も出来ない飢えを案じる日々が続く。主人「銀行は軍と運命を共にする」と最後と思う言葉を残して,B29の飛ぶ空の下、責任者として活躍、遂に健康を害し新京本店に戻った。

 突然、日ソ不可侵条約を破って不法侵入してきたソ連軍に新京の事態は急変、占領下は、焼き討ち、略奪、火の海となる流言に混乱し、市民に直ちに疎開の命が出る。行き先は吉林街道から朝鮮部略まで。二〇分の間に家も財も捨て、体一つ工員一同の大部隊の列が吉林街道を目的地へと続いて歩く。

 高梁畑の続く北満の八月は暑い。喉の渇きを訴える子供たち、水は無い。そのとき目に入った満人のトマト畑、無断で十銭玉を置き手を合わせ祈りながら頂いた忘れられない悲しい事実。変わりやすい天気は夕方から豪雨、道は川となり一同の行く手は塞がれた。早く目的地へと騒ぐ一同を静めて、指揮者は途中日本人の軍官学校に交渉し二日間宿し雨の晴れるのを待つことになった。食料は残り少なく乳飲み子に与える水も無い。雨水でもと雨の中、外に迷い出る。鬼が住むか仏が御座しますか考える事も無く一軒の農家の戸を叩いた。地獄に仏、軍官学校の日本校長社宅、事情は万事承知されて愛情のこもった待遇、農家からの作物を調理して家族全員迎えられ、牛乳を搾って乳飲み子の命も助けられ、腹ごしらえが出来た家族は生気を取り戻し生きられる限り頑張る約束をし感謝の涙で別れた。その後、この地も匪賊の焼打ちに追われ新京に難民として来ることになり銀行社宅にこの家族を引き受けて、引揚げの日まで家族の援助を続けた。恩返しのできた実話。「情けは人の為ならず」とは。

 雨もやみ再出発の正午、昭和二〇年八月一五日停戦を告げる天皇詔勅が一同を驚かした。

 この瞬間から我々は敗戦国民として敵地に取り残される運命となる。情勢は変わって周辺の日本人家屋から火の手、焼打である。匪賊に変わった満人たちの襲撃が始まる。一刻の時も許されない立ち退く方々、このまま前進して朝鮮に南下か、後退して新京に戻るか、選択は指揮者の双肩にかかる。結局死を決して新京へ引き返す夜の強行軍となった。帰途も又雷雨、豪雨、沖天に立つ日柱。耳下の雷鳴銃声も一旦死を決した不思議な生命力は恐れる物も無くずぶ濡れの膝迄つかる泥道を歩く。一人一人と命を失っていく。背中の乳児は冷たくなったまま涙も無い。丈なす高梁畑に隠れて匪賊から逃れて漸く着いた南陵の朝日の美しかった事か。煮干しと高梁のお握りも忘られない。塩もない。

 朝鮮に南下した銀行以外の部隊は皆惨殺された由。行く折も雨に止まって命拾い、帰途も又雨、明るい月夜であれば匪賊に追われて修羅場の展開となったであろう。また、軍官学校の人の愛情が無かったら、帰途の恐ろしい行軍に我家族も生きる気力は無かったと思う。匪賊に追われ何度も高梁畑に助けられながら、天運、幸運、人情の有難さに感謝、泥沼に眠りかける子供の手を引っ張り、何時終わる命かと見つめながらよくも7人家族が無事生きられた事かと、今、思えば不思議な運命だった。

引揚げ

 敗戦後日本人としての運命は日々一瞬一瞬死と向かい生活苦との戦いとなった。幸いに我家は銀行の庇護の下に、危険も苦労も一般の人より少なく、何としても故郷に帰りたい願いで生きられた。無事引揚げの日を迎え感謝。引揚げの日までの一年、酷寒の冬を過ごしての一年間の生活は筆紙に書き尽くせない。ソ連軍、共産軍、八路軍、政変は続き、紙幣は変わり生活の安定なし。苦難の一年を過ごし、国府軍となって漸く引揚げが始まった。初秋の北満九月の風は冷たい。限られたリュックサックの中に最低の心細さも故国に帰れば何とかなる希望があった。

 行員一同との最後の別れ、見送る西山総裁の姿も淋しく悲しい別れであった。我家も五人の子供を連れ死境を越えて、故国の土を踏むまでの苦労の数々、自分の心のドラマとして死ぬまで残る事と思う。

 人生を振り返って見ると、人力では動かす事の出来ない不思議な力に左右される天運の二字である。生きるも死ぬもこの二字に片づけられて幸不幸の別れ道となる。しかしこの天運を生かす力は、人間の優れた「英知」と「決断力」のある事も知らされた引揚者の実例。

 人間生活の第一条件、健康、人脈、愛情、希望を以って前進する事。色々体験して今日のある幸に感謝です。

短歌  敗戦の思い出・満州より引揚げ

     耳下に銃声聞けり高梁の 
        畑の穂波に身を守られて

     引揚車走る広野の闇の中
        卑俗は襲う夜毎夜毎に

     引揚げて帰る祖国は爆撃の
        焼野となりて茫然と立つ

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