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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**街を往く(其の二十一)<室内編>**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月09日 | 街を往く

街を往く(其の二十一)<室内編>

藤井新造

「老いては子に従え」とは昔の諺にあるが、今は「病」に従えというべきか。

 ――死にそうと嘆いた僕に母言った ほんまにやすい命やな――(2004年 東洋大学友人の一首「中学生達」より)

 昔の言葉にある「生老病死」とは、うまく言ったものである。「死」の前に「病」があり、そこを通過して死に至ることになる。今回、個人的にそこらあたりを、少し経験したので書いておきたい。

 2月15日夕方、2階の階段から降りる時、足を踏み外した。そろそろ2階の本を整理して、捨てる本と残す本とを選別してと思い、運んでいる最中であった。両手一杯に本を抱えていて、身体が一回転して、下から3段目の所で落ちたらしい。落ちて暫くすると、偶然にも連れ合いが帰ってきて、救急車を呼んでくれた。

 救急隊員から、どこの病院を希望するのかと問われたので、即座に市民病院と答えたが、時間外で医師がいないとのことであった。仕方なく近くの外科病院に搬送してもらうことになった。そこは義母が20年も前に、終末期に入院していた病院だった。

 医師の診断では、腰椎圧迫骨折(3R)で、コルセットで固定が必要といわれた。とりあえず至急注文して取り寄せるので、当面は病院にある予備のものを借用することになった。この日から1ヶ月間、コルセット着用の窮屈な生活に入ることになった。食事のとき以外には起き上がることはダメ、安静にしておくように言われた。

 それでも入院中、私の記憶にはないが、院内を徘徊するようになり、廊下で転倒して頭部裂傷5針縫うことになる。それと同じくして、私は他の入院患者の私物を物色し、迷惑をかけ始めたらしい。それで何時の間にか、個室に入れられ拘禁されていた。体が不自由になり、しんどいので、何度ともなく拘禁状態から解放されるよう、看護師に訴え、文句を言っていた。

 夢のまた夢の中で彷徨したような状態にいたのであろうか。この間の正確な記憶は、今も思い出せない。その記憶はあいまいではあるが、確かなものもある。夢の中で、友人と会うため待ち合わせをしたり、レクレーション(山歩きか?)の行事に参加するため、集合場所に行ったりしている。なかなかメンバーが来ないので、イライラして待たされ、しびれを切らしたことがある。

 この時、私を見舞いに来てくれた友人たちは、「頭がおかしいような様子は何処にも見えなかったが」と、慰めてくれたが。友人との会話の内容は殆ど記憶にないので、私からは確かなことは何一つ言えない。恥ずかしい限りではあるが仕方ない。

 約1ヶ月間入院していると、医師より「身体の歩行困難は徐々にリハビリの訓練で治しなさい。」と、やんわり退院勧告をされた。私も毎日の食事が同じものが多く、まずかったので退院に同意することにした。以降、通院2回で、この病院との縁は切れた。幸いにも、思ったより早く退院できたが、腰痛のため歩行困難で外出が出来ず、自宅で寝たきりの生活を、ほぼ2ヶ月も要した。この間、一番困ったことは入浴であった。勿論、自力では困難なため、息子どもによる交代での介助を受け、何とか切り抜けることが出来た。

 6月より、やっと少しづつ歩けるようになり、半日のリハビリ訓練に行けるようになった。身体が少し動けるようになると、外部世界との接触が体力的にも可能になった。例えば、近くの歯科医へ通院できるように。

腰痛骨折に続き大腸憩室より出血

 腰痛骨折により、歩行困難な日常生活から少しづつ解放されようとした矢先、7月24日早朝、急に大腸より出血(入院して憩室よりとわかる)。又も救急車で県立西宮病院へ直行。救急隊員から何処がいいかと聞かれたので、毎年、同病院で大腸へカメラを入れていると言うと、消化器内科へ入院できた。

 以降3日間、夜中に出血があり、途中、輸血をしてもらうことになった。主治医は、最後の手段として開腹手術にて、大腸の一部を切除するかもしれないと言った。但し、非常に困難な手術なので、危険度は高いのを覚悟しておいてくれと宣告された。仕方ない。素人の私は、専門の医師団にお任せする以外にない。輸血されている最中、想い出したのは、60年前JR大阪駅の梅田南交差点の小さい広場で、献血車にて献血したことだ。小心者の私は、注射針が痛かったのを未だに覚えている。そして献血した後、何か飲み物を貰った記憶がある。(牛乳か?)

 その当時の梅田界隈は、今と同じく人が激しく行き交う、がさつで落ち着きのない雰囲気を醸し出していた。金もなく、少し時間があればバイトとバイトの合間に、ここ(梅田)にきて、ぼんやりと為すべき事もなく、一人で梅田から桜橋間、その次は阪急東通りをよく歩いていた。そして、歩き疲れると古本屋を覗いては、心を落ち着かせていた。

 話をもとに戻すと、入院5日後に奇跡的に出血は止まり、1週間の絶食状態が続き、快方に向かう。そして約20日間の入院は終わった。退院間際にDr.の1人は、「これからも大量出血があれば、何時でも救急車で来てください。」と、ご丁寧な事後対策を教えてくれた。

 病床で輸血を受けている時、ちらほらと頭に浮かんできたことがある。「記憶を編みなおす」(鶴見俊輔のエッセイにあった言葉)作業と言えば大袈裟であるが、あれは何であったのかとの一瞬の出来事であった。「死」が近づいてきて怖くなり、そこから逃げ出そうとして、ベットから降りはじめようとした。実際は色んな装具が体内に挿入されているので不可能なのだが。

 深夜一人でベットから降りようとしたので譫妄と思われ、詰所の数名の看護師により、強制的にベットに押し付けられ寝かされた。私が大きな呼び声をあげたのは覚えているが(異常な状況にあることがわかっていたが)、それ以上の具体的な出来事が思い出せない。「死」が怖かったのか、それとも無意識下での条件反射的な行為(?)であったのだろうか。今でもわからない。

 「記憶を編み直す」作業力は、私にはなくなっているらしい。

 さようなら2018年、次年度は私の亥年である。

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『みちしるべ』**街を行く(其の二十)**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月10日 | 街を往く

街を行く(其の二十)

藤井新造

古本屋で本を読む楽しみ

 昔は、大阪・神戸に出て古本屋巡りをするとか、又、街で古本屋を見つけるとその店を少しでも覗いてみたものである。特に買う本を探している訳ではなく、店の中に入り眺める癖がある。すると買いたくなる本が何冊かある場合が多い。

 そして、私の本棚の半分は古本屋で買ったもので埋まってしまった。何時か、と言っても職場を辞めた時に読む予定であったが、予想した以上に買ってしまった本がなかなか読めない。仕方なくその本の中味をパラパラとめくり楽しむことにしている。

 神戸の古本屋で買って気になる本が1冊ある。詩集「室内」(竹内勝太郎著)である。学生時代に作家の野間宏、富士正晴が詩の師匠として仰ぎ、大きな影響を与えた人のものである。しかも、竹内勝太郎直筆による署名と写真つきのものである。私は詩については無知に近いので、私が持っているより富士正晴の文学記念館に寄贈した方がいいだろうと思ったままで、怠け者の私はそれもせず今日まできている。

 話をもとに戻すと、私の住む街・芦屋市に1軒古本屋があり、私はよく顔を出しては本を買っていた。大江健三郎の本など10冊以上ここで揃えたことがある。古本屋も売れる本とそうでない本はよく知って店に並べているのであろう。もしかしたら売主は1人の同じ人でなかろうかと思えたものである。

 この古本屋が廃業してもう10余年になるだろうか。それから暫くして淳久堂が開業し、永年営業していた博盛堂の支店もそのあおりをくって店を閉じた。私にとっては永年愛読(立ち読み)していたので淋しかったことを想い出す。

 しかしながら、開業した本屋が大規模なので、本も買うが立ち読みの機会が増えた。本を買うお金も多分節約できているのではなかろうか。そうすると2、3年前に淳久堂に対抗する如く、駅構向に喫茶店つきの本屋「未来屋」が開業した。喫茶室を店のコーナーに設置した構造の店は時に見かけるが、ここは店の中央にソファーを置き、ゆったりとした椅子も沢山ある。珍しい店の中の配置に感心し、時々ここへも行くことにした。但し、コーヒーを飲まないでソファーに長らく腰かけているのは気がひける時もあるので、そのあたりの呼吸は微妙である。

 私の古本屋での本の収集も多くなり、それらの本も前述したように今や読みきれなくなった。特に細字の文庫本は読みづらく、何時か評論家の吉本隆明が拡大鏡をかけて本を読んでいるのを雑誌の写真で見て、「彼もとうとうそんな年齢になったのか」とひとごとの如く嘆いたものだが、 何を隠そう私もその年齢に近づいているのだ。

 古本の蔵書のなかで、今回、丸岡秀子の「田村俊子とわたし」を偶然読むことになった。と言うのは、2回目であるが瀬戸内晴美の「美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄――」、「諧調は偽りなり」、「田村俊子」を読んで、丸岡秀子の本に興味を持ったからである。

 瀬戸内はご存じのように、大逆事件の中心人物の1人管野須賀子をモデルにし「遠い声」なるノンフィクション作品を出版し、それは事件の概要と管野の熱情的な生き方を巧みに描写した秀作として知られ版も重ねている。大逆事件とは時の明治政府による、天皇暗殺のデッチあげで、今でいう共謀罪により幸徳秋水、管野須賀子等26名が無実の罪をきせられ12名が処刑された事件のことである。

 瀬戸内は、大逆事件、甘粕事件などで時代の先駆的な女性を対象にし、上記の作品を世の中に出した。別に前記のように「田村俊子」なるノフィクションを書いた。

 この作品は第1回田村俊子賞を受賞する栄誉に浴した。そうすると、今後は田村俊子に関する本として私の本棚にある古い本、丸岡の「田村俊子とわたし」の題名の本を読むはめになった。というのは瀬戸内の「田村俊子」がそれほどおもしろい本で田村に興味を持ったからである。

 丸岡の「田村俊子とわたし」は、田村と丸岡の短い期間の(昭和11年から13年まで)交際であるが、その友人としての交際は濃密であり、しかも被女から大きい影響を受けたと書いている。田村俊子は余程魅力的な女性であったのであろうと想像される。

戦前の保育行政を少し知ることになる。

 その丸岡の本の中に、戦前の託児所(現在は保育所という)について貴重な資料、統計があるのを発見した。少し長くなるが以下に引用をする。

 「現在、農村にどのくらいの農繁期託児所があるのか、こんなことをあなた(田村俊子;筆者注)のお仕事に何の役にも立たないことを承知しながらお知らせだけしておきましょうか。昭和5年には964ヶ所だったのが、昭和9年には7500ヶ所になっています。全国で1番多いのは兵庫県なのです。ここは735ヶ所です。次は山口、三重、岐阜、佐賀という順序なんです。東北、北陸はやはり少ないですね。」

 又農村に於ける託児所についても色々と問題点を示し書いている。

 「……せんだって福島のある村へ行ったのです。そこは常設託児所がありましたが、これは東京に出ている在京有志団によって運営されているということでした。おやつ代を集めているところもあります。毎日1銭か2銭といっても、これでは結局賛乏人の子どもはおやつ代がないために“行けない”ということになってしまいます。農繁期にはかえって託児が減るということがあるのです。それは白い前かけをさせなければならないと……」との実態も報告されている。

 「……岡山県のある村へ行きましたらl人の母親が言っていました。『4、5歳からの託児所なんていわれても、4、5歳の子どもたちは下の子どものお守りをさせなければならないのです。わたしたちの望む託児所は乳呑児からあずかる所がほしいのです。』……和歌山県社会課が出している“季節託児所の開き方”という案内書のことです。開設目的のなかに“母親の労働能力を高めることができる、消費の合理化ができる有閑者の奉仕によって階級への反感が調和され、1村または1家の精神差異が生じる”とあることです。」

 このように戦前から保育所(託児所)は乳幼児を含めた施設が必要であったことがわかる。戦後、“0才児からの保育所施設を”と、特に60年代より“ポストの数ほど保育所を”のスローガンのもと、全国的に保育所運動は燎原の火の如く広がっていった。考えてみると戦前は、戦争維持のために 、農村での婦人労働力の活用が必要であった。

 戦後は、働く者、特に婦人労働者が増加し保育所が必要になった。又、女性が出産しても働ける環境づくりにとっては必要不可欠になってきた。

 昔は“持機児童”という言葉はなかったが、当時でも次から次へと託児所(保育所)が出来たのは、多分戦時体制遂行のため農村婦人の労働力を確保するため、必然的に作られていったのであろう。

2018年1月5日

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『みちしるべ』**街を往く(其の十九)**<2017.3.&5. Vol.97>

2017年06月06日 | 街を往く

街を往く(其の十九)

藤井新造

海に浮かぶ礼文・利尻島から奄美へ

 昨年(2016年)の1月、離島として本土からあまり遠くない奄美大島・加計呂麻島へ行った。と言っても何時もパック旅行に便乗してである。20年前位から、そうしている。それまで自分でプランを組み、レンタカーから汽車を組合わせて国内旅行をしてきたが、時間的余裕ができたのに安い旅行プランに切りかえ行くようになった。

 自分で言うのは少し気が引けるが、離島と北海道へは比較的よく行っている。北海道へは一度行くと海外旅行と同じくやみつきになり、7~8回におよんでいる。あの広い大地を車(レンタカー)で走りたいが、先ずパック旅行にはじまり、今まで全部パック旅行で終わっている。それでも、あの広々とした大地を観光バスで走るだけでも、日常からの解放感に浸り、再度行きたくなる。

 そこで、さて離島であるが、私は奄美大島へは一回も行ったことがないのに気づいた。この島から南にある徳之島、宮古島、石垣島、西表島、(後に波照間島)へは、友人と一緒にツアー旅行(と言ってもホテルの予約)を楽しんだことがある。その前に少しだけ北の国に触れておきたい。

 稚内市の沖、約40km先に浮かぶ礼文、利尻島である。稚内を訪れる人は、多分この両島に行っていることが多いと思う。特に利尻富士は、どの季節に行っても、その威容さに感嘆せずにはいられない。最近の新聞では連日、ツアーの広告で賑わっている。私の場合は、他の人も同じであろうが、珍しい花が咲く初夏に行った。

 大型フェリーに乗船して稚内港を出航し、まもなく大きく揺れだした。添乗員の女性が、「この季節、これほど揺れるのは珍しいですよ。」と言い、座っていると気分が悪くなるので、身体を横にしていた。私は海の近くに育っているので、少しは慣れていたが、やはり横になり寝ていた。所要時間は2時間くらいであった。

 礼文島は別名「花の浮き島」と呼ばれるだけのことはあり、レブンウスユキソウ、レブンサクラソウ、レブンアツモリソウなどなど。そして礼文林道では、この他、礼文特有の花々が多く見られた筈であるが、私は残念ながら花の知識に乏しいので、ここに描写することができず残念である。

 私は花より、むしろ北端スコトン岬の岩場に生息するトドの一群が珍しく、眺めていた。行った季節は初夏だったので、花を愛でる多くの観光客がいて、歩道が狭く気分的に忙しかった。花の名前がわからずとも、もっとゆっくり鑑賞しながら歩きたかったが、それが叶わず少し残念であった。

 この礼文島より南を向くと利尻富士が目に入る。利尻富士は稚内の平野から見ると、誰しもその地に足を踏み込みたくなるほど端正で、「小富士」と感じさせる島である。標高1,721mであるが、まさに浮島の言葉にピッタリである。稚内を宗谷岬から左廻りの時は右に、留萌から右廻りの時は左に、何回か見たものである。また、観光バスが右に左に迂回する時、尚一層美しく見える。

 稚内の港は、北防波堤ドームがあることで有名である。樺太航路が出入りするための港、昭和6年から5年かけて建造されたもので、長さ427m、70本の柱で支える世界唯一のアーチ型の防波堤である。私が行った時(2010年)は、ロシアの貨物船が停泊し、日本の中古自動車を購入しに来ていたロシア人を多く見かけた。稚内の公園に登ると、ここは石垣島からの距離が丁度2000kmという地図板があり、日本も長細い列島群なのだと、あらためて実感した。

イモーレ(※注)奄美大島・加計呂麻島

 今では、奄美大島は飛行機で往きは約2時間、帰りは1時間30分である。私は、うかつにも奄美が、こんなに短時間で往復できるとは知らなかった。そう言えば、徳之島在住の知人の年賀状に何時も、鹿児島県とあり、あらためてここが沖縄県でないのを再確認したことであった。

(※注)「イモーレ」とは島言葉で、「いらっしゃいませ」の意味。

 奄美へ行った目的は二つあった。一つは、尼崎へ奄美出身の人が仕事と住居を求めて多数来ているので、その人達の故郷を見ておきたかったのである。働く職場は、鉄鋼産業の下請け、二次下請けで、きつい危険な作業現場が多かった。高度経済成長の1970年代末から若者だけでなく、年配者も仕事を求めて尼崎に多くの人(出稼ぎ労働者を含め)がやってきていた。特に、尼崎市長が求人募集の一役をかい沖縄へ出かけて行ったと、尼崎市史に書かれている程である。

 私は仕事上、多くの奄美大島、徳之島、宮古島、石垣島出身の人と接触があった。これらの島(八重山諸島を中心に)出身者は、尼崎での生活が安定すると、島の知人、友人を呼び寄せ、各職場で共同作業をするグループが多くあることも知った。そのことによってか、奄美出身の人たちが県人会をつくり、一年に一回の盛大な集まりで、親睦と連帯を強めていると聞いたことがある。

 恥ずかしい話であるが、長い間、奄美は沖縄県とばかり思い込んでいた。そこは鹿児島県であり、日本の離島で一番面積も大きく、人口も6.3万人も住んでいるとガイドの説明があり、そのことを知った。

 先ず、奄美で有名な北部のあやまる岬を訪れ、奄美パークへ入った。ここは奄美の民俗資料展もあり、歴史がわかりやすく理解できるようになっていた。まあ、しかし何よりの楽しみは田中一村記念美術館に入館できることであった。私は彼の原画を見てなく名前を聞くのみであったが、美術館の建物も立派で、それにふさわしい絵画が展示されていた。栞(しおり)をみると、年4回、絵の入替を行い展示しているという。

 この展示室は、モネの睡蓮の絵を展示しているオランジュリー美術館を思い出させた。展示室の壁の中に、絵がすっぽりはめ込まれているように見えた。栞には、一村は「昭和33年、50才で奄美大島に移住し、昭和52年に69才でひっそりと誰にも看取られずに生涯を閉じた。」と書かれていた。この常設館は、もっと世に広まってもいいと感じたが、惜しいかな、ここまで来て観る人は少ないのであろう。

 次に訪れたのは、黒潮の森マングローブパークである。マングローブの森といっても、西表島ほどの規模もなく、小さい樹木なので少々がっかりしたが、それは仕方ない。しかし、ここではカヌー漕ぎをさせてもらった。私にとっては、初めての体験である。穏やかな川の流れの中なので、さして難しくなかったが、それでもカヌーの横揺れを防ぐ漕ぎ方を皆必死になっている。私にとっても、子供の頃を思い出し、面白かった。

 一日目はそれで終わり、二日目はデイゴの並木の見学、油井岳展望台より大島海峡を見渡す景勝の地を案内してくれた。当然、南に位置する加計呂麻島へ半潜水船で渡った。加計呂麻島といえば、映画『神々の深き欲望』のロケーションの地であったと、記憶にあるが、正確には思い出せなかった。(編集者【注】;今村昌平監督のこの映画のロケ地は、沖縄県の南大東島・波照間島などであると解説されている。)

 それより、作家の島尾敏雄が海軍で上級将校として派遣されていた筈である。その名残りとして旧海軍特攻隊跡のコンクリート建物が残っていた。小さい窓が海峡に向かってあり、この窓よりアメリカの軍艦の通過するのを見張る要塞になっていたという。なにより、島尾敏雄の文学碑を見たかったのを忘れ残念であった。帰宅してから、彼の『死の棘』を読みかけたが、難解(?)なのでやめてしまった。

 3日目は、大島紬の作業工程と奄美焼酎の製造工場の見学である。焼酎の工程については、宮古島で一度見学したことがあるが、ここは製造タンクもいくつかあり、大きい工場である。土産物を見学し、何回も試飲しているうちに、私の頭脳はもうろうとなり、細部の事は忘れてしまった。

 それにしても、奄美が本土のすぐ近くにあるにもかかわらず、自然が乱開発されていないのが、何より嬉しかった。

 奄美大島「ありがっさまりょーた」(ありがとうございました)

 奄美大島行きの感想が、何時のまにか離島断片記につながり、おそまつになってしまった。

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『みちしるべ』**街を往く(其の十八)**<2016.1.&3. Vol.92>

2016年03月21日 | 街を往く

街を往く(其の十八)

藤井新造

平和な世の中でこそ映画を楽しむことができる

第16回宝塚映画祭について

 昨年11月21日より27日まで、シネピピアで第16回宝塚映画祭が開催された。今回の特徴は、かっての宝塚映画製作所で撮影した映画と、文豪 谷崎潤一郎 原作のものとして名作『細雪』『猫と庄造と二人のをんな』など4本が上映された。

 なかでも『細雪』は、4人の各々違った監督により映画化されたので有名である。この映画(阿部豊 監督)の主とした舞台は、周知のように阪神間(芦屋、夙川など)が中心として登場する。但し、その時代背景として映した場所は、スクリーンでは意外と少ない。

 小説は大正から昭和にかけて、かっての船場の問屋街と老舗であった中産階級の蒔岡家が、没落するなかでの4姉妹の生き方を描いて、映画の筋書きも同様である。とりわけ家柄をとやかく何時も考えて行動する姉妹のなかで、それにとらわれずに生きようとする末っ娘の妙子を主役として描いている。

 同じ原作による映画化でも、戦後まもなくなのでカラーのフィルムでなく白黒なので、当然惜しいかな色彩感覚が殆ど表現化できていない。例えば、4姉妹での毎年恒例の京都での桜見物も、他の監督のものでは、優雅な着物をまとい散策する姿がきらびやかで冴えわたるのであるが、この映画は、それらを見ることができない。私みたいな美的感性が乏しいものでも、そう感じるのであるので、あとはおして知るべしである。

 次にこの映画は、前述したように末っ娘の妙子の新しい生き方、自活しようとする強い意志力と気持ちがよく伝わってくる。しかし、その動きが目立ちすぎ他の3人の姉妹の存在がいかにも軽く浮ついている。それには、女優としての高峰秀子(妙子の役)の演技が他の女優に比し抜きんでているといったら悪いが、他の女優の演技と役割がいかにも弱いことによるものか。

 同じ原作の映画化として、市川昆 監督の作品では、4姉妹の2人(次女の幸子 三女の雪子)を軸に物語が回転し、それなりに調和がとれていた。阿部監督の意図としてあえて末っ娘の妙子を中心において描こうとしたものであろうか。その目論見が成功したとは思えない。高名な女優たちを集めた映画化であるが、平凡な作品になってしまった。

 話は別になるが、谷崎は美女が好きで、彼の小説を映画化した時の女優たちと、よく会食したり懇談したりしている。(『みちしるべ』【街を歩く(其の一) 谷崎潤一郎記念館に入る】2009年3月第57号)羨ましい限りである。

阪神間各市での“名画”上映について

 前述したように谷崎没後50年、それを記念して上映された作品であるが、このような特別上映祭もいいものだ。是非、続行して欲しい。

 大阪ヨーロッパ映画祭は、昨年中止になった。神戸NPO100年映画祭は、昨年で20回目を迎えたが、今後は今までのような規模では続行できないという。どちらも行政による財政補助の削減と会員の減少によるものである。

 特に大阪市は文化事業に対し、費用対効果を考えて削減している。大阪市の市民の文化事業に対する理解の無さと、支出削減を嘆いていてもどうしようもない。しかし、大阪市の「文楽」支援の資金援助打切りに対し、市民より批判が続出し、ある程度の原状回復がなされたことを考えれば、市民による厳しい敏速な反応も大きい効果があることを実証した。

 それ故、私たち市民がもっと身近なものとして、そのことを受止め、行政の文化事業に関与すべきであろう。ちなみに阪神間の名画上映について、簡単につけ加えたい。

 尼崎市では「良い映画を観る会」が、小田公民館、トレピエを会場に利用して上映している。西宮市は外郭団体の西宮文化振興財団により、年一回の「あじあ映画祭」をはじめ定期的に名画をフレンテホールで上映している。芦屋市は、主として上宮川文化センターを使用して、名画を上映している。観客が多く入りそうな映画は、ルナホールで上映される。

 尼崎、芦屋(ルナホールは別であるが)の会場はパイプ椅子なので、映画館に劣るが、我慢できる範囲のものである。又、各々の市で「ワンコインデー」を年に何回か実施しているので、見逃されないように、新聞の「お知らせ」を見て欲しい。

 この原稿を書いている時、女優の原節子が死去しているのを新聞の朝刊一面トップ(2015年11月26日毎日新聞)で報じていた。そして、二日後に早速、映画『東京物語』をNHKがTVで放映した。当分、彼女の出演の映画と、小津安二郎 監督の作品を見ることができそうで楽しみだ。

 私は、比較的初期の作品として、黒沢明 監督による『わが青春に悔いなし』(‘46年)『白痴』(‘51年)を見て、女優 原節子から強烈な印象を受けたのを覚えている。

 良い映画と言われるものは、何時でも、何回見ても飽きないし楽しい。これからは、この紙上で短い独断的な映画批評を、時に載せさせてもらう。

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『みちしるべ』**街を往く(其の十七)**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月03日 | 街を往く

街を往く(其の十七)

藤井新造

八十八ヶ所廻りで有名になった我が村

 尼崎市の旧『みちと環境の会』を通じて、阪神間道路問題ネットワークの機関誌『みちしるべ』を受けとり読ましてもらってきた。何時頃からであったであろうか。多分、2000年頃(実際は2001年9月号 Vol.13から;編集子注)だと思うが自信はない。読むだけではなく、同姓の編集者の藤井さん(当時の編集長はS画伯;編集子注)より何か書けと言われ、時に投稿するハメになった。

 その前に旧『みちと環境の会』の集まりに加入していた。但し、会費納入会員であった。その時は、後に会長を務めた大橋さんによる強力な誘いと、熱心な勧誘によるもので、私からの主体的なかかわりの姿勢は薄かった。それ故、恥かしながら、その姿勢は終始消極的であった。勤務していた職場は休日出勤も多く、会の行事に参加するゆとりが心身ともになかった。それでも退職して若干の時間ができたが、少し経つと元の勤務先に、主として病気で通院する人達の送迎ボランティア団体があり、そこの活動を手伝うことになった。

 そして3年ばかり手伝い、その後に熟年者ユニオンに加入し僅かばかりの活動に参加している。もう10年以上にもなる。以上のように、不良会員であり続けた言い訳の材料はあるが、一貫して不良「会員」であることに間違いはない。それに、もう一つの言い訳もある。

共同住宅・保育所作りを目指して芦屋市へ

 居住が尼崎市でなく芦屋市であることも影響しているかも知れない。そもそも芦屋市に移住したのは、友人たちと共同住宅を建て保育所を作ることだった。共同住宅の立地条件として、大阪と神戸の中間地点で、各々の職場への通勤距離が便利な土地を探し、結果として芦屋市に決まった。その間、阪急の武庫之荘駅近辺の格好の土地もあったが、事情があり実現できなかった。

 個人的なことをいえば今の土地にこんなに長く住むとは思いも及ばなかった。子供たちの育児・通学が終れば、尼崎市かその近くに引っ越すつもりであったが、今日まで約48年間ずるずると住み続けている。

 この土地を選択したのは、各家庭に各々子供が誕生し、0才児を預ける保育所が必要になった。しかし、当時0才児を預かる施設は公私ともなく、わずかに宗教団体系の救貧政策(慈善)としての施設があるのみであった。それでは、自分達で共同住宅を建て保育所を作ろうと、共通する目標を持つ者が集まることになった。要約すると、保育所つきの共同住宅を目指したものだった。この土地に定住したのは、そのような必然性と偶然性(土地)によるものであった。

詳しくは樋口恵子さんの著作集にあり

 当時、芦屋市の人口は5万人弱。私の故郷の坂出市の人口とほぼ同じだったので、覚えやすく記憶にとどめやすかった。その人口が今や倍増し、10万人弱になった。人口倍増に貢献したのが、阪急神戸線以北の朝日ヶ丘町を中心にして、霊園一帯に拡張開発されたマンション。次から次へと無秩序に林立した結果によるものであった。

 乱開発の最たるものは開森橋(阪急芦屋川駅より六甲山の方へ100m)より北、六甲山登山口の渓谷沿いの高層住宅一群である。開森橋付近は、谷崎潤一郎の小説『細雪』の舞台として、又桜の名所としても有名である。それもあり、山手町を中心に地域住民による環境保全の運動が起り、行政の方でも「芦屋市都市景観条例」(平成21年3月)を制定せざるを得なかった。

 しかし、芦屋川下流からこれらの高層住宅を眺めれば、自然破壊の実態というか、その変容ぶりは明らかである。それのみならず海岸地帯も、神戸市の都市政策をまねて埋め立て、住宅地を造成した。遠からず起きるであろう大震災の時、押し寄せる津波被害対策は大丈夫だろうかと、他人事ならず心配する。

瀬戸大橋架橋、何時まで続くのか赤字道路

 さて、話を私の故郷の村の顛末に移そう。

 私が生まれた時の地名は、綾部郡大字松山村字大薮という地名である。薮林が多くあったのだろうか。この村は、南から神谷、高屋、青海、大薮と山沿いに北へのびて、4つのがあった。「青海」の地名は以前、ここでも書いたように、崇徳上皇の御陵がある。上皇を偲んで西行法師が参拝し、彼の有名な歌碑もあり、歌には「松山」との地名もみられる。しかし、この御陵より近くにある、四国88ヶ所巡りの札所の寺、白峰寺(81番)、根来寺(82番)の方が有名である。御陵に参拝する人は殆どいないが、札所巡りの人は後を絶たない程いると言う。

 それ故、「青梅」という名は古くから開けた村落として形成されていたのであろう。村落の東南には小高い山があり、少し厚かましいと思える通称五色連峰と言う山々がある。海岸沿いには、これも又珍しく塩田があり、何十㎞も西へ延びていた。幼少より小高い山の中腹で働いて、みかん畑の農作業を手伝っていた私にとって、塩田で働く人は蟻の如く動き廻っているようにみえた。その塩田産業も、海水より直接塩を製造できる機械の技術が開発され、塩田は不要になり、土地は田・畑に再成された。

 この時と共に、昭和の大合併により松山村は坂出市に吸収合併され、村名は消えた。この市は、周辺の町村の人口を吸収したのみならず、塩飽(しわく)諸島の瀬居島・沙弥(しゃみ)島海岸を埋め立て、陸続きにして準工業地帯を作った。そして当然の如く、二島の住民の反対運動を弾圧して、漁業権を放棄させた。二つの島の名前も、また消えてしまった。

 1988年には、児島(岡山県)と坂出市の間に瀬戸大橋架橋が完成したが、この一帯の自然風景は激変もいいところである。開通したこの大橋は赤字路線としても有名になった。海水浴が出来た塩田の外側の海岸線、僅かの砂浜も今はなく、コンクリートばかりが目立って味気ない風景になった。

 昨年の春、四国山脈の近くに住む従弟に会った時、「農業をする人の高齢化がはげしく、都会では定年退職者の65才の人が青年部ですよ。」と苦笑しながら語っていた。そして、畑の近辺は猪と猿ばかり増えて困っていると言う。最近の新聞の短歌壇に次の一句が載っていた。

犬も猿も雉もゐる村鬼退治する若者の一人もをらぬ  木村桂子

亥年の私は苦笑せずにはおられなかったが、

亥の子餅亥歳の母に参らしぬ 鈴木しげを

の俳句もあり安心した。(亥の子は陰暦10月の最初の亥の日の行事。明日【11月18日】が其の亥の子だが、収穫を祝い、子孫繁栄を願う。坪内稔典 著)

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『みちしるべ』**街を往く(其の十六)**<2015.5. Vol.89>

2015年06月08日 | 街を往く

街を往く(其の十六)

藤井新造

短歌好きの短歌知らず(短歌断片記)

手をのべてあなたとあなたに触れたきに
                息が足りないこの世の息

河野裕子

 前回「俳句好きの俳句知らず」を書いた。俳句を作らず、短歌もそうであるが読むのは好きである。TVでの俳句、短歌の放送も時間があれば積極的に見ている。それでいて全然作れないし、作ろうともしないのが悔しい。そんな嘆きに近いものがあっても、こればかりは才能というか、資質があるかどうかによって決まる。だから、これらを作る人に対して羨望と嫉妬心を抱くのみである。

 それ故、短歌について素人として何人かの短歌、その人の生き方について興味をもっている。特に、彼らの昭和の初めから20年までである。何故なら、その後は戦争讃美の歌をつくり、日本の軍国主義突入への一層の拡大に大きな役割を果たからである。

 その一人が斎藤茂吉である。彼について知りたくて、随分昔に中野重治の『茂吉ノート』を丁寧に読んだ。私としては、これ程何回も読んだ本も珍しい。多分、中野の文章は難しい書き方なので、何回も読んだ。それとも茂吉について多くの教示されたものがあり、そうしたのであろうか。

 茂吉については御存知のように、佐藤佐太郎の『茂吉秀歌』(上下2巻 岩波新書)があり、茂吉の短歌の理解に格好の教科書である。しかし、解釈は理解できるが何か物足りないものがある。中野は『ノート』では、こう書いている。

 「茂吉はわかりにくい詩人ではない。わかりやすい詩人といえるであろう。それにしても茂吉にはわかりにくいというところが、どこかにある。わかりそうでわかりにくいものが彼のなかにあり、それが彼の短歌にもあり、散文にもあると私は考えるがどうであろう。」と続いて、「わかりにくいということ、わかりにくいというものがあるということは、一つの弱点として認めねばならぬ。しかし茂吉の場合、わかりにくいというこの弱点が、そのままの姿で一つの魅力となっていることを見逃せぬであろう。」と断言している。中野はこの『ノート』を書く時点で茂吉の歌、約一万八千首を読んでいる。中野程の真面目さと、短歌にむきあう誠実さがない私は、歌を少し読んだだけで、山形県上山市にある茂吉記念館を訪れた。(『みちしるべ』31号32号33号)

 又、中野は次のように書いている。

 「……そして最後にこういうことを感じた。なんと茂吉が肉親主義者であったことだろう。彼が全く人間的に、しかもほとんど動物的に、祖母にたいする、また父にたいする、母にたいする、兄弟たちにたいする、肉親の愛を告白したことであろう。

 彼は、職業の上からも家にしばられていた。斎藤の家(茂吉は斉藤家の養子;著者注)にである。これは全く順当なことである。しかし、彼は同時に、生涯血縁の家にしばられていた。そうして、歌の上での温熱は全くこの方にある。それは悲しいばかりに彼の全矛盾をあらわに出している。そして、そこは、あるいは歴史の問題で多分あるのだろう。このへんのところの解釈は、まだ私にできそうにない。」(『日本詩人全集』新潮社 1967年10月分刊 詩人業書より)

 このような文章(評論)を、それなりに私は高く評価し、又、佐藤佐太郎の入門書が、茂吉の歌について理解しやすいように書いていることを認める。が、しかし、二人とも茂吉の戦争歌についてと、もう一つ女性歌人=永井ふさ子との男女関係について触れてないことについて大いなる不満を持っている。

 中野のものは、戦時中の執筆なので、当時、執筆禁止、出版禁止の期間が長く、官権(軍部)の弾圧を恐れて筆先が縮んだかも知れないが、佐藤佐太郎は自由にものが書けた筈である。弟子は師匠を批判できないので、この世界の古かった時代を思わせる。

 そもそも、この文章を書く動機になったのは、高校生の時の教科書にあった、正岡子規他の短歌、例えば「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」(正岡子規)、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」(佐々木信綱)、「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」(石川啄木)等の歌に魅せられ、暗唱したことによるのだろう。

 若い時に多くの者は、石川啄木・島崎藤村の歌に接し、共鳴したものである。このことは年齢をましても忘れないものになっている。

 永田和弘は次の様に言っている。

 「明治以来の近代という時間の中で、当時の歌人たちは、これだけの豊かな世界を築いてきた。そして、それらの多くは、日常の生活の隅々で、さりげなく呟かれ、意識されてきた歌たちであった。謂わば、われわれ日本人の身体の中に、DNAとして(細胞生物学者としてはという言い方は嫌いなのだが)刻み込まれてきた歌たちなのである。はっきり知っていようと、そうでなかろうと、それらの歌が日本人の心情のもっとも深いところで我々の情緒を知らず知らず規定してきたものであることは間違いない。再々言うが、それらを知らなくとも今の世界で生きてゆくことはできる。しかし、知っているのと知らないのとでは、現実の世界を感受する豊かさにおいて圧倒的な違いがあることは言うまでもない。」(『近代秀歌』永田和弘;著)

 短歌は日本人にとって心の恵みを与えてくれ、勇気を与えてくれるが、前述したように戦争を礼讃し、讃美する歌を作った歌人もいたことを決して忘れてはいけない。

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『みちしるべ』**街を往く(其の十五)**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月10日 | 街を往く

街を往く(其の十五)

一杯のコーヒーにくつろぐギリシアの下町の人々

藤井新造

 格安の海外パック旅行は、金銭上の負担は少ないが、その分長時間飛行となり加齢と共に肉体的に段々ときつくなりつつある。特に遠方の国がそうである。

 昨年初めにブラジルのカーニバルの最終日のショー見学に合わせリオへ行ってきた。飛行時間は約35時間を要し、さすがの旅行好きの私も大変疲れた。旅行社は途中休憩個所としてトロントで降りて、ナイヤガラの滝見物の機会を作ってくれていた。その時、夜だったので、全体の風景は充分観察することができなかったが、滝そのものの雄大さもさることながら、カジノあり、キラキラと輝くネオンのホテル群があり、一見してレジャーランドの様相を示していた。滝も又、後にブラジルで見たイグアスの滝と比較すると、その規模は小さいものであったが。それでも一見に値するものだった。

 私は、旅行先の国を決める時、映画を観て感動したり本を読んで興味を持ったところから選んで行っている。又、訪れた国では、必ずと言っていいほど、地下鉄に乗ったり、スーパーへ買物に行く。そして街を歩くようにしている。また、パブ(これに近いもの)をみつけてワイン、又はビールを飲むのを楽しみにしている。

 今回のギリシア旅行も、今から15年前に映画『旅芸人の記録』(テオ・アンゲロプロス監督)を観てから、機会があれば常々行きたいと思っていた。それと、現在EUの中で経済状況が悪いと新聞・雑誌で書いているので、そういう社会の一端を覗いておきたかった。また、ギリシア文明に一度は接しておきたかったことなどを理由にして、この国へ足を運んだ。

 前述した映画『旅芸人の記録』は、4時間近くの上映であり、しかも上映後、新藤兼人監督のトークがあった。新藤監督は当時、映画『午後の遺言状』を制作中であったが、主演の一人、杉村春子の手があかないので撮影を中断していると語っていた。

 この映画はモノクロの画面で、全体として暗い感じが長時間続くので、観る方として随分疲れを覚えた。記憶として残っていたのは、旅芸人の一座が次から次へと芝居を演じながら、ギリシア国内を彷徨するもの悲しい姿であった。一座が追われるように場所を変え、流民の如く移動する姿は、ただ哀れではない、何かを感じさせるものがあったが、当時、それが何によるものか理解できなかった。

 今回ギリシアへ行く前に、『物語、近現代史ギリシャの歴史』(村田奈々子;著)を読み、近年のギリシア国家の悲劇的とも言える複雑な歴史を知り、あの映画を理解できる手助けをしてくれた。

 前書きが少し長くなったが、以下は旅行記というより感想文に近いものである。

 今回は初めての3泊4日のエーゲ海クルーズを含めての遺跡めぐりであった。廻った島は、ミコノス島・クサダシ・パトモス島・クレタ島・サントリーニ島の5島で、一般的によく催行されるコースであった。島の中では、400余の教会があるところがあり、半分は遺跡と教会めぐりみたいであった。

 クルーズも初体験であり、何といってもアクロポリスの丘の神殿・ゼウス神殿ほか、ギリシア文明の有名な遺跡群をゆっくり見学したいとの希望が旅立つ前にあった。

 先ずアテネの市内見学である。アクロポリスの丘に登り、パルテノン神殿の観光。この丘に登ると眼下にアテネ市内が一望のもとに見渡せるようになっている。

 アテネ近郊には約300万人が住んでいるというが、それほど大きい都市とは見えないが、カラフルな褐色の屋根とスパニッシュ風の壁の建物でぎっしりと詰まっている。アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿は、絵葉書でよく見るように、柱頭のみ残していて他は何もない。遺跡にあった文化財の多くは英国の博物館に収容されているからである。残ったものは、ギリシア全土の文化財が集められた考古学博物館内にある。もう一つ将来、英国より返却されることを予定し、アクロポリスの文化財を収容する国立博物館を見学した。

 
エーゲ海に浮かぶサントリーニ島(写真提供=藤井新造氏)

 

ギリシア文化財を簒奪(さんだつ)したい大英帝国博物館

 英国は今のところ、それらの文化財をギリシアに返す姿勢は示していない。エジプトの文化財を大英帝国博物館に展示し、自国の文化財の如く誇示しているのと同じ構造である。

 ギリシア文明、文化財は有名な遺跡の周辺のみならず、いたる所にある。例えば、ホテルのロビーの床が部厚いガラスで敷かれていて、脚下に遺跡が見えるように工夫している。又、地下鉄の通路の壁も、文化財(レリーフ)を埋め込み、通行人が見えるようにしている。まるで美術館の通路のようである。

 どこを歩いていても、古代文化のギリシアの文化財を見ることができる。今から50年前になるが、三島由紀夫は次のように書いている。「アテネの町は、行人の数も商品も数多いのに、日本の縁日のような物寂しさがどこかにひそんでいる。夜の街衢(がいく)のありさまはブラジルの都会に似て、路上で立話をしている人が沢山おり、それを縫って歩くことが容易でない。……、夕刻の交通の劇しい車道を両手にグラスや壜(びん)をいっぱい積んだ銀の盆を捧げた給仕が、自動車やバスの間を縫って物馴れた様子で横切ってゆくのは、奇妙な面白い眺めである」(『物語、近現代ギリシャ歴史』村田奈々子;著)。彼が訪れた時代は、「約10年にわたる戦争で荒廃した国土」(上記の書より)のアテネの町の描写である。

 このようなブラジルもアテネ市内ともども、社会は激しく変化し、50年後の今日、当然といえ、政治・経済の変容は著しい。例えば、ブラジルのリオも三島が観た光景とは一変している。貧富の差が大きいことは叫ばれているが、世界でも美しいと評判のコパカバーナの海岸では、若者がサッカーに興じていたり、泳ぎのあと浜辺で日光浴を楽しんでいる大勢の男女の群れが見られた。時間がゆったりと流れているのを感じたものである。それは昨年の2月のことであった。ブラジルと同じくギリシアも失業者が多く、特に若者は2人に1人が職についていないと聞いていたが、アテネはそのような暗い雰囲気はなく、明るい顔をして誰しもにこやかに歩いている。

 ホテルから一歩外へ出ると、空気は乾燥し、古代の文化財がどこにもあり眩しく映ってくる。

 アテネ市内で大きい公設市場に入ったが、そこでは果物・漁貝類・穀物・香辛料、その他の食用品が豊富で多くの人で賑わっていた。

 アテネ市内で現地のガイドの婦人(ギリシア在住30年)より、経済がおちこみ失業者が多いと説明された。しかし、ギリシア国民は誰しも、一日一杯のコーヒーを飲む習慣は、今も続いている。但し、その一杯のコーヒーは、今まで3.5ユーロから5ユーロまでの値段のものを飲んでいたが、今では1.5ユーロから3ユーロのものと値段の安いものを飲んでいるという。

 ギリシア人はギリシア人として、当然の如く自分達の生活習慣を守っているのを感じた。
 次にアテネの街で、アテネ大学の前を通ったか、入口に向かって左側にソクラテス、右側にプラトンの石像があった。ここは2000年前、偉大な哲学者の生誕地であり、二人とも、この大学で教鞭をとっていた。そのことを何故か失念していたことを恥ずかしく思った。

 二人のことを忘れる程、三島由紀夫も「古代の遺跡やさまざまな美術品に対し称賛の言葉」を惜しまなかったと同様に、私も文化財に圧倒されて、二人のことを忘れていたのかもしれない。

 さて、エーゲ海クルーズである。前述した島々には主としてギリシア正教会であったが、何と教会の数が多いのにびっくりした。

 私は、何時も教会に入る時に思うことがある。

 西洋人は別にして、日本人の場合どんな気持ちを抱き入っているのであろうか。私の場合も信仰心の薄い者の一人であるが、それでも教会に入ると何となく「祈り」たくなる。若い時、大学のチャペルに入る時、それだけでも異和感を持ったが、年をとると、それなりに一端の信仰心に近いものが身体の内より湧いてきているのだろうか。

 今回も、パトモス島へ行き、偶然にも聖ヨハネが黙示録を記述した洞窟を見ることになった。聖ヨハネ修道院は、当時イスラムの海賊から身を守るため、堅固な城壁に囲まれていたので、彼もじっくり思考を重ね、福音書を書きあげることができたのかもしれない。

 修道院と言えば、山上の岩盤に建った尼僧院「大メテオラ修道院」「ルサノウ修道院」を見学した印象が強く残っているが、また機会があればふれてみたい。


パルテノン神殿(写真提供=藤井新造氏)

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『みちしるべ』街を往く(其の十四)**<2014.3. Vol.83>

2014年04月06日 | 街を往く

街を往く(其の十四)
『絵画と文学』展
1926年~1936年*小林多喜二から梅原龍三郎まで

藤井新造

 昨年11月20日~12月29日まで、兵庫県立美術館で「絵画と文学」展があった。私は2度行ったが、1度目は「西垣良美・大河内淳矢デビューコンサート」があり、この演奏を聞いて続いて学芸員による解説を聴講し、展示会をみるという慌しいが贅沢な午後の半日間を過ごした。

 コンサートは県立美術館が土曜日ごとに午後2時より催す無料のものである。時間が許す限り行ってみたいのだが、昨年はこれを含め2~3回しか聞くことができなかった。

 さて、展示会の感想であるが、私は他でも短いものを書いているので重複する箇所があるのを御勘弁願いたい。展示会をみたかったのは、私が若い時に読んだプロレタリア文学作家、中野重治、小林多喜二、佐多稲子(窪川稲子)、宮本百合子(中条百合子)、平林たい子たちの初版本の装幀、本人の若い時の写真、雑誌の表紙などであった。

 彼らはプロレタリア文学の高揚期から後退期まで約10年、大正の終わりから昭和にかけて、まさに激動期に生き、文学を作った。

 特に中野重治は若くして、かの有名な詩「辛よ さようなら/金よ さようなら/君らは雨の降る品川駅から乗車する/李よ さようなら/もう一人の李よ さようなら/君らは君らの父母の国にかえる……」にはじまる『雨の降る品川駅』、又「お前は歌うな/お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな/風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな……」にはじまる抒情詩『おまえは歌うな』をひっさげて詩壇に華やかにして登場した人物である。

 この時代、大正の終わりから昭和にかけて雑誌『驢馬(ろば)』の詩人グループに依拠して詩作を発表できた彼に対して、作家 伊藤 整(せい・本名=ひとし)は次のように羨望と嫉妬心をかくすことなく吐露している。

 「私の詩集『雪明りの路』の校正が出はじめていたこの年の秋頃、室生犀星が『日本詩人』に『驢馬』という雑誌に出ることを予告する短い文章を発表した。それは自分の知っている若い詩人たちが雑誌を出す筈で、自分と芥川龍之介とがそれに力を貸してやることになっている、という趣旨のものだった。その同人として、平木二六・堀 辰雄・窪川鶴次郎・宮本喜久雄・中野重治・西沢隆二・太田辰夫という名前が挙げられてあった。私は、平木二六の名を、どれかの詩の雑誌で見た覚えがあるだけで、この一群の若い詩人たちの名は初めて見るのであったが、彼等を強く羨望した。室生犀星と芥川龍之介とに公然と支持されて雑誌を出すことのできるこの数人の青年たちの幸福を考えると、私の胸は嫉妬心でうずいた」(『若い詩人の肖像』伊藤 整;著)。

 そして、杉浦明平も次の如く書き記している。「……中野たちの青春も、その次の世代つまりわれわれとくらべれば、花々しくボヘミンにも見えるが、ともかく抑圧されていなかった。佐多稲子の『私の東京地図』の終わりの方で、そういう中野たちの群像を見ることができる。そこでは政治と文学とがまだ分離していなかった。中野でさえ、政治と文学との二律背反の苦しみを味わないで済んだのである。だから花々しさがあった。しかも彼らは20そこそこで日本のジャーナリズムに登場して、いわば早くから舞台の上で活躍するのになれている」(杉浦明平;著 筑摩全集「中野重治」月報23号)。

 そのように彼の文学者としての位置は早くから確立していた。中野が斎藤茂吉について「茂吉は日本文学にある一定の地位を占めている」と、『斎藤茂吉ノート』で書いているが、彼の人生も又、小説・詩・評論家として多くの作品を残し、日本文学の中で確かな地位を占めていることも事実ではなかろうか。

治安維持法のもとでの文学者たちの苦難の生き方

 その中野も、1932年日本プロレタリア文化連盟の活動をしたことにより逮捕され、以降2年余りにわたり獄中生活を強いられる。当時の治安維持法下での執筆、政治活動は今では想像出来ない過酷な状況下にあった。中野は次のように語っている。「私は書いたことがありますが、残された普通の文献というものは、ことに1930年代から戦争の終るまでのあいだでは、残されなかった文献と或る関係を持っています。残された文献はもちろん極めて貴重です。ただ、残されて今研究者たちの手にある文献が、書かれた文献のすべてではない。このことが見のがされ勝ちになる。出版された刊行物、文献が片っ端から没収されて闇に葬られる。書かれたものが印刷されぬうちに奪われてしまう。或る問題について或ることを書こうとしていた人間が、筆をつける直前に肉体として消される。そこで、書かれた文献の書かれる以前、印刷される以前そこに存在して仕事をしていた肉体、その動きその苦労、その喜び、それはそのものとして文献の形に残されなかったのですから、いま学者たちがAの文献、Bの文献、思いもかけぬ人、その文献まで持ってきて、それらをつないで筋の通った説明をする場合、そこに生き働いて、しかし文献の形に何かを残すことができなかった人間の姿はどこかへ消えてしまうということがある。常に必ずではありませんが、場合によって一再ならずそういうことがありました。あったと私は思います。」(「中野重治は語る」平凡社≪久保 栄 について≫)

 また、ある時は「……印刷されたものについての検閲はもうどうでもよかった。ただ死んだり、殺されたりすることが恐ろしかった。裁判所のにらみは十分きいていた。要するにもう一度しばられるのがいやだった」と、『小説の書けぬ小説家』(1936年)の主人公に言わしめている。

 絶えず死の恐怖を身近に感じた生活であったことがうかがえる。私も、かつて人民戦線事件で連座した古くからの活動家から聞かされたことがあった。

 そして執筆禁止により生活も困窮をきわめる。「執筆禁止により、作品の発表なし。翌年(1939年)にかけて職業紹介を介し東京市社会局調査課千駄ヶ谷分室に臨時雇で就職」。(「中野重治年譜」筑摩書房;昭和29年発行)。今でいうところのパート、アルバイトの類の仕事であったのであろう。

 そして、同時代のプロレタリア作家の1人、前田河広一郎も後年こう書いている。「その時代は、私などの予言したより早く来た。宿命的に戦争に突入すべく定められていた日本の帝国主義的資本主義は一もなく二もなくわれわれの運動にのしかかって来た。機関雑誌は四つに裂き、五つに裂けて、同志というものをちりじりばらばらになった。私はどうにかこうにか食って行くための努力で精一杯となった。」(「葉山嘉樹について」1954年)

 文学者達も執筆もままならず、日常生活を維持することも困難であったことがわかる。そんななかでも女性グループの平林たい子・神近市子・太田洋子・林芙美子等は、立場、考えの違いをこえて協力し合い、お互い励まし合い何とか生きのびようと努力したと聞いている。

 展覧会を見ながら、そのような時代を生き抜いたプロレタリア文学の人達に熱い想いをはせざるを得なかった。

(この項つづく)

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『みちしるべ』街を往く(其の十三)**旧神戸移住センターを訪ねて<2013.3. Vol.77>

2013年03月24日 | 街を往く

旧神戸移住センターを訪ねて
  ブラジルへ渡った人々を想う(街を往く 其の十三)

藤井新造

  1930年3月8日。神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、街も朝から夕暮れどきのように暗い。

 三ノ宮駅から山の手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく後から後からと続く行列である。この道が丘につき当って行き詰ったところに黄色い無装備の大きなビルディングが建っている。後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な光塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚らしい細民街に連なる丘の上の是が「国立海外移民収容所」である。

 小説『蒼氓(そうぼう)』の冒頭の出だし部分である。今から約80年前の「国立海外移民収容所」、現在は、「海外移住と文化の交流センター」と名前を変更し改築され新しい建物に生まれかわっている。

 ここへ来たのは2回目である。1回目は約4年前に、この建物が「神戸移住センター」と呼ばれていた時である。同館の年表によると2008年5月に改築のため、一時神戸の深江に仮移転したことがあるが、その時である。その年の3月に近く建物が壊され新しくなると、新聞記事を見て訪ねて行った。旧い建物を見ておきたかったのだが、既に外壁は工事用のシートで覆われ、内部を覗きみることしかできなかった。前回この場所を探すため、北野通りの異人館あたりをうろうろして歩き見つけた結果、建物の中に入れず非常に残念であった。

 今回は、正月の慌ただしい日々が過ぎ、少し時間ができたので再度行くことにした。と言うのは、小説『蒼氓』を読み何時かはここへ行こうとの何年ごしかの想いの実現であった。

 それでという訳でないが、小説の方は以前は眼を通していたのみで終わっていたのを、今回はゆっくりと読む機会を与えてくれた。

 5階建のビル(?)の外壁はクリーム色で塗られ、新しいせいか非常に立派というか堂々として見える。建物の名称も変わり、それにふさわしく「関西在住のブラジル人児童を対象としたポルトガル語と日本語の学習支援を中心とした教室」を設け、色々と行事を行っているようだ。

 私が行った当日も、20人位の生徒を相手に語学の勉強をしている風景がみられた。勉強の邪魔をしてはいけないと思い、余り長居せず立ち去ったが、熱心な勉強態度は充分伝わってきた。

 今はブラジルへここを起点として移住する人はなく、この建物を「文化の交流センター」として活用しているようだ。当日1階で色々と日本人のブラジル移住についての資料の展示があった。例えば、どの県から何人ブラジルへ移住したかについて詳しく書かれていた。意外に思ったのは、広島県から2万人以上の移住者がいて、東北、信州からが思ったより少なかったことである。そのことについて館内の人に聞いてみたが、理由がわからないとの返事であった。多分、人から人への口伝えにより増えたのではないかと想像されるが……とのことを言っていた。

 次に、各国からブラジルへの移住者は(1813年より)イタリアより約151万人、ポルトガルより約146万人、日本より19万人、次にスペインより約6万人の順になっている。地球の裏に位置する日本からより、イタリア、ブラジルの宗主国のポルトガルからの移住者が多いのは距離的にいって理解できるが、他国から少ないのはどうしてであろうかとの疑問をもった。

小説『蒼氓』を生んだ時代背景は

 して、この建物は作家の石川達三が『蒼氓』を書き、1935年第1回の芥川賞を受けたことで一層有名になった。そして、小説の内容を一言で要約すると、日本よりブラジルへ移民する人々がここで移住するため、1週間宿泊・諸準備をする、まさしく移住センター(当初は「移民収容所」と呼んでいた)であった。

 国が一番心配していたことは移住者の健康状態である。今では想像もできないが、特に感染病であったトラホーム(眼の病気)については非常に気をつかっていた。戦後間もない頃には幼い子供がよくこの病気を患っていた。この病気に感染している者は移住検査をパスできない。

 このように健康チェックが第1の目的であり、その次についで、ブラジルの国の気候、習慣についての知識、初歩的な挨拶言葉を習うことであった。又、宿泊しているこの間、現地で必要な労働服を買ったり、生活に必要な日常品(鍋釜、石鹸、洗濯たらい、ゴム靴御飯杓子、亀ノ子タワシと)を購入し現地での生活が容易にできるよう準備した。

 このような宿泊所での移住者の各々の家族が過した1週間をこの小説は描いている。著者の石川達三自身がブラジル渡航を実体験しているので、それをもとに、作家の眼でフィルターにかけ作品構成をし、上莧の小説に仕上げている。

 出身地としては東北出身者達が多く登場する。第1回移住者は953人(乗船者)とある。

 さて、この作品の時代背景をある程度知っておかなければ、何故日本から多くの移住者がブラジルへ行ったのか理解できないであろう。

 そこで『昭和史』(今井清一他2名・岩波新書)を参考にして歴史を少しだけなぞっておこう。

 1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街でおこった株式の暴落をきっかけにし、全世界を恐慌に巻き込んだ。この大恐慌は勿論日本経済に大きい打撃を与えた。

 特に信州、東北地方の貧しい農民と、都会の労働者を一層生活苦に喘ぐ状態を作った。

 当時の流行語として「大学を出たけど」の映画が作られるほど、若者は職にありつけず都会失業者が街に溢れる程であった。そして都会での失業者は、再び自分の故郷へ帰るはめになった。汽車賃のない人々が街道ぞいに歩く列がつづき「東海道53次は時ならぬ賑わいを呈した」と当時の新聞は報じている。(朝日新聞)

 そして翌年1930年には冷害におそわれた東北・北海道地方の状態は悲惨だった。この地方の鉄道沿線では旅客の投げる弁当から残飯めあてにひろおうとして、子供たちが列車に集まるみじめさがみられた。弁当をもたないで学校にくる欠食児童。子女の「身売り」が、どの地方でも多数にのぼって社会問題化したという。

 だから『蒼氓』の文中のなかで、移民するなかの農民の1人に次の如く語らせている。「……何のために此処に4人からの移民が居るかっていうと、農村では食えないからだ。その食えないっての抑に(そもそも)政治家が農民百姓を馬鹿にしている。……」

 (この項、次回に続く)

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『みちしるべ』街を往く(其の十二)**徳島より高松へ向かい坂出へも足をのばす<2013.1.Vol.76>

2013年02月19日 | 街を往く

徳島市より高松市へ向かい坂出市へも足をのばす(2)

(街を往く 其の十二)

藤井新造

 中国人旅行者の多い栗林公園

  さて、前回からの続きであるが、徳島まで行くのであれば、社会運動の先輩であるKさんを訪ねるため、瀬戸大橋が見渡せる私の故郷にある『かんぽの宿坂出』で宿泊する計画を立てておいた。

 神戸より徳島までは高速バスを利用したので、高松市へはJRを利用することにした。JRに指定席の残席を事前に問い合わすと、少ないですよと言われたので購入していたが、乗ってみると空席が多い。しかも指定席は一輌の半分しかない。全体として乗客が少ないことがわかった。

 このJRの急行列車は、四国独特のひなびた農村風景のなかをゆっくりと走ってとても「急行」とは思えなかったが、それでも一時間後には高松駅に到着した。

 そこで、当日の午後と翌日の午前中、ドライバーをしてくれる従弟のT君との待ち合わせ場所であった。

 この日は、屋島と栗林公園へ行くことにした。先ず、屋島へと向かうが、ここでの眺望は素晴らしい筈であったが、あいにく霧がかかり遠方は見えない。残念という他なし。ずい分昔、屋島へ来たが、ここで瓦煎餅投げをした記憶がよみがえったが、その店を探したが見当たらなかった。

 次に香川県で数少ない名所の一つ、栗林公園へと足を運ぶ。入園すると、私達3人組に対しボランティアガイドがサポートしてくれ、園内を案内してくれる。そして、1時間余散策した。これまで数回入園しているが、このようにゆったりした気分で園内を廻ったのは初めてである。

 公園の衆によると「全国で8番目の特別名勝の指定を受けた回遊式大名庭園で最大面積を有する日本を代表する名園」とある。それであれば、金沢の兼六園、岡山の後楽園に匹敵する様式と広さがあるかもしれない。公園内を散策する途中、小旗を掲げた観光ガイドに従い移動するツアー客が多く眼につく。従弟のT君に聞くと、中国から来日した観光客が殆どだと言う。その理由として、中国から高松空港を利用して来日し、ここを中継して京都、奈良、東京への観光コースを辿るのが定番になっているらしい。高松空港への飛行運賃が格安なので、この地を利用して、旅行業者がツアー客を呼びこんでいる訳である。

 但し、今は日中の国交関係が悪くなっているので、中国からの観光客は大幅に減っていることだろう。

 翌朝、遅い朝食をとり、部屋で休んでいる間、眼下に坂出市の準工業地帯(四国電力・川崎重工・三菱化成・コスモ石油など)が一望できる。その一つより間歇温泉のように煙突より吐き出す白煙を眺めていたKさんは、「相当の量の煤煙が出ているなぁー」と心配そうな言葉で呟いた。この工業地帯の北側に、塩飽諸島がある。

 星野芳郎は名著『瀬戸内海汚染』(岩波新書)のなかで「塩飽諸島の過去と現在」について次の如く書き記している。

埋められた塩田と海岸線

 「太平洋の水は、東は紀伊水道、西は豊後水道から、満潮とともに瀬戸内海中央部より東の塩飽諸島のあたりで東西の潮が合する。そして、干潮とともにふたたび二つの水道から太平洋へと、二つの潮は引いて行く。」

 続いて、そこは「四国の坂出から西、三崎半島に到る海岸と、中国の児島半島から西、水島灘とのあいだにはさまれた島々で、与島・本島・広島・高見島・佐柳島・手島などを配置し、古くから瀬戸内海屈指の漁場であった」と述べている。

 この島々の中で「屈指の漁場」の一つ、瀬居島・沙弥島と坂出市を強引に結び準コンビナートが作られた。1960年中頃より日本の高度経済成長の一つとして、ここでも海岸線を埋めて工場群が急増されたのだ。

 当初、この埋立てに両島の漁民による反対運動が起り全島民あげての抵抗運動にまで発展した。そして漁民による坂出市議会を占拠する実力行使にまで到った。しかしこれに対し市は、機動隊の出動を要請し、市議会を占拠した住民を強制退去、もしくは逮捕し、徹底した弾圧手段をとったと、当時、阪神間地区の新聞にまで報道された。

 その後、更に県と市は強引にアジア共同石油誘致を一方的に決めた。今度は前記の二つ以外の櫃石島・与島・宇多津町の漁民、市民による抗議運動を県当局に行ったが、これも又、機動隊により追っぱらわれた。

 結果として、魚が生息し育つ「番の州・瀬居の州・沙弥の州・ナンコの州」の藻場の埋め立てがなされた。

 このことは、この海につらなる私たちの海岸線・塩飽諸島の東南に位置する村(今は坂出市に吸収合併されている)にまで、影響してきた。「番の州」の近くであったからである。

 ここはかつて「屈指の漁場」であり、この近辺に住む私達にとっても、特に幼い子供達にとっては、貝を獲り、小魚を追って遊び、泳ぎを覚えた浅瀬があり、魚介類を育てる藻場があった。遠浅の海で、子供達は泳ぐ時に藻に足がからめとられないように気をつけていた。まさしく豊饒の海そのものであった。又、小さい河口には塩田より積みこまれた塩荷の運搬船と、二、三の小船が係留されていて、夏には子供達の泳ぎ場になっていた。

 日本のどこにでも見られた小さい港のありふれた風景があった。今も沖の方では絶えず塩飽諸島の間を縫うように大小の船が往きかっていた。

 私は塩田も海辺も埋められて、昔日の面影はどこにも見られず、眼前の工業地帯を見ながら、幼少の頃の故郷は既に跡形もなくなっているのを改めて知ることになった。

 今回、鳴門市賀川豊彦記念館10周年の講演会に参加したが、実は誘ってくれたKさんは、今から8年前、2004年に同記念館で、「賀川とニュージーランド」なる題名で後援している程、賀川について研究しているのを後日知った。灯台もと暗しとは、このようなことを言うのであろう。鳴門祈念館が開館して、まもない時期である。

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