『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(52)**<2008.7. Vol.53>

2008年07月05日 | 横断車道

「今時の若い者は……。」とか言うのは、昔から言われていること。年長者にとって、若年者は常に物足りないのは当然。何の斟酌もしなければ、永遠に語り継がれるだろう▼ところで、小泉内閣の痛みばかりの構造改革で、若者を中心に『ワーキング・プア』(働く貧乏人)が広まっている。年収200万円以下の世帯に暮らす人口が、1000万人を超えているという。団塊の世代は、就職したら車を買うことを目指したものだ。今の若者は車どころか、パソコンも買えない者も多いという。最低限死守するのは、携帯電話だそうだ▼そんな20~30代の若者に、小林多喜二の『蟹工船』が読まれているらしい。戦前の北洋漁業での過酷な船内労働に、労働者が自然発生的な労働争議を起こすという小説。船内では労働者が団結し勝利するのだが、艦船で駆けつけた官憲は、違法労働を強制した会社側の支配者を逮捕するのではなく、労働者のリーダーを逮捕するところで終わる▼古い言葉遣いで読み辛い『蟹工船』を、何故、思いもよらぬ若者が買い求めるのか。火をつけたのは我社と、朝日新聞も毎日新聞も書いている。確かに本屋という本屋には、平積みで売っているのだからブームは本物だ。新書モノのベスト10に入っていて、既に135万冊も売れているらしい▼『ワーキング・プア』と『蟹工船』の接点を考えるのに、納得する出来事があった。小生のブログに『みちしるべ』のコラム3点を掲載させてもらっている。編集長の『斑猫独言』も、その一つ。ブログのアクセス解析機能で、よく見られるブログ内のベスト10を知ることができる。音楽を中心としたブログなので、その関係のページが常にベスト10になっていた。が、『みちしるべ』第48号(07年9月)の『斑猫独言』が10位に顔を出して、1ヶ月以上を経過した今も、その位置をキープしている。内容はアメリカ版『炭坑節』とだけ書いておこう。(バックナンバーあります)▼考えてみれば、明治維新も戦後の民主化も、60年と70年の安保闘争も、総て若者が主導権をとってきた。日本の人口の多くの部分を占めていた団塊の世代も、そろそろ定年退職の時代を迎える。団塊の重石が崩れだし、第2次ベビー・ブームの世代が頭をもたげてきたような気がするのだ。「今時の若い者」を応援したい気持ちになっているのは、異端者なのだろうか▼急速にIT時代を迎えて、激変の時代にITを駆使できる世代が、ITという新たな機能を以って、何かをするような気がする。ITは権力者にだけ使えるものではない。ごく普通の若者が、周囲に呼びかければ、韓国のように大統領降ろしのデモに発展する。欧米では前日に計画された集会に、数万人が集るという。総てはITを駆使した、若者のやったことだ▼21世紀初頭の激変の嵐の胎動を感じながら、邪魔せず何の支援ができるのか、考える此の頃…… (コラムX)

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『みちしるべ』クロアチアヘの短い旅**<2008.7. Vol.53>

2008年07月04日 | 藤井新造

クロアチアヘの短い旅
戦禍の傷痕も生々しいドブログニクの街

芦屋市 藤井新造

 ある冊子に映画『サラエボの花』についての批評文を書いた。その時、旧ユーゴスラビア連邦共和国(以下「ユーゴ」と言う)についての知識は少なく、間に合わせで何冊かの本を読んだが、当然生半可な理解で終わった。

 今までのユーゴについて、私の知識と言えば、チトー大統領がスターリンのソビエト衛星国支配体制から距離をおき、1950年代後半より、第二の道として「非同盟政策」を標榜し、彼が中心となり、インドのネール首相、エジプトのナセル大統領と会合を重ね、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをまきこみ、世界平和を目指して動いていた時くらいである。

 そして当時私は、漠然とある種の期待、アメリカ、ソビエトの世界支配体制を上記の発展途上国の発言により、もしかしたら歴史は違ったいい方向に行くかもしれないとみていた。しかし「非同盟政策」の進展もナセル大統領の急死で頓挫してしまった。それ以後、1989年ベルリンの壁の崩壊をはじめとし、ソビエト体制も同じ運命をたどり亡くなり、それに連動するかの如く、ユーゴも北から1990年にスロヴエニア、クロアチア、そして1992年にボスニア・ヘルッエゴビナと独立国家を宣言し、ユーゴ連邦共和国は事実上解体した。

 その後、知られるようにコソボの独立をめぐり7年間の不幸な内戦が続き、1995年NATOが軍事力を行使し一応の平定に至っている。このこと――なぜ内戦が勃発したのかについて、新聞、雑誌の類を読んでもわからず、深く立ち入って考えることもしなかった。遠い国の出来事と思っていた。しかし映画を観て、上述したように泥縄式の読書をした。それでわずかの知識を得たが、主人公のエスマが内戦中にセルビア人にレイプされトラウマ(心的外傷後遺症)に苦しみ、何回も癒しの場《セラピー》に行く場面があったが、そのことについての理解と言うか、彼女のつらい体験に思いをはせるのが不十分なままに終わっていた。このことが、あとあとまで自分の心のなかで後味の悪さとして残っていた。

 そこで今回、ユーゴで最初に分離独立したクロアチア、スロベニア、主としてクロアチアヘ行くことにした。コソボヘ行くことが困難であれど、周辺や両国へは観光客として訪れる人が増えていると聞き、直接その国を実体験すれば、少しぐらい映画の背景の雰囲気位を味わえると想像したからである。又、何年か前にイタリアのヴェネツィアヘ行った時、僅かの距離をへだてたアドリア海の向こうにユ一ゴがあることを知り、何時か訪れてみようと考えていた。クロアチアの首都ザグレブは、この国の北部に位置している。この首都への飛行機の直行便はない。今回はトルコ航空に乗り、イスタンブール経由になった。そしていったんイスタンブールで降り、トルコ国内に入り、ここで半日観光をすることができた。

金角湾に浮かぶグラダ橋との短い再会――イスタンブールにて

 後でわかるがザグレブの空港は大阪空港位の規模であり、国際空港としては小さく見えた。多分直行便はまだまだ先のようだ。

 それはともかくとして、イスタンブールの観光は、例え半日観光と言えどもクロアチアヘの旅行の楽しみを倍加させるものであった。

 一昨年の春、トルコへの格安ツアーでここで二日間滞在し、バザールの見学、ボスポラス海峡クルーズの体験を楽しんだのを、今回も半日でありながら再現できるからである。特に海辺で育った私は、ボスポラス海峡を見ることができるのを何よりも楽しみにしていた。

 あの時、金角湾にかかる新・旧市街地を結ぶガラダ橋を人に押されるように歩いた。海峡の周辺は歩行者あり、釣をしている人、クルーズを楽しんでいる人々で、何万人とも言える人種の違った人間がうごめいていた。ガラダ橋は二階建になっており、下は歩行者専用で、何千人もの観光客、土地の人が往き来している。釣りをしている人はとれた小魚を二階の店で料理して食べさしてくれる所もあると言う。

 そして二階では、釣りをしている人、下道を往来する人、クルーズ船を眺めながら飲食して陽気な笑い声を出している群ばかりである。私は前回と同じく今回もこの橋の上を歩きたかったが、時間がなく、有名なトプカプ宮殿と旧市街の見学だけで終わった。残念ながらボスポラス海峡との短い時間の再会で終わった。ここで半日余の時間を費やし飛行機にてクロアチアの国に入る。

 クロアチアの人口は約400万人、日本の本州の広さ位と聞いていたが、ここも南の方は岩山が多く、平野の面積は少ないように見えた。しかし、北から南東にかけて長い海岸線はアドリア海に面し、北西はイタリアに近く、ロ一マ帝国の侵入、そしてベネチアに占拠された時代もあった。従ってザダールの街にはロマネスク様式では、ヨーロッパ最大の教会があり、有名なドヴロヴニクには同じくロマネスク様式の中世の回廊が残っている。

 アドリア海の穏やかな潮風と暖かそうな気温のせいで、夏には欧州、ロシアから今ではチェコ、ハンガリーからもバカンスの地として多くの外国人が訪れ宿泊するという。気をつけて見ていると、海岸線に点在する主要な都市でホテルらしき建物の建築中があっちこっちで見えた。内戦後10余年のなかEUにも加盟し、観光客を積極的に受け入れる体制を作り、なかでも日本に対しては親和的な関係を保っているらしい。

 そのせいか、安心して国内旅行ができた。一口で言えば置き引き、スリによる盗難がないことだ。私はどこのホテルに泊まっても近くのスーパーに行くことにしている。スーパーでどんな品物が揃っているのか、特に果実類に興味があるからである。ここでも果実はどれをみても、日本より大振りであるが、値段は以外と安い。時間をかけて物色することができた。

 話をもとに戻すと、先に日本について親和的と言ったのは、この国が日本の教育制度を視察に来て、日本の義務教育を参考にして内戦後に作ったからである。

 大学の入学については比較的やさしく、入学してから毎年の進級試験がきびしいと言っていた。従って留年する学生も多いそうだ。

 多くの都市で、大人の喫煙が少ないのに比し、街頭で高校生位の学生が男女を問わずタバコを吸っているのをよく見かけた。喫煙についてとかく言う資格のない私であるが、どうみても多すぎはしまいかと思える。それをガイドに聞くと、生徒の学校外の言動については親の責任であり、学校は関与しない、と言っていた。

 だから日本のように生徒が校外で何か問題を起こした時、学校の責任者(教頭、校長)が謝罪している姿(テレビの前などで)が不思議に思えるらしい。個人責任と、そうでないものの区分が徹底している感じである。

破壊された建物の銘板に心がうずく

 次に、この国の東南地方の都市は内戦により多くの家屋が破壊された。観光地で有名なドブロヴニクの街も例外なく壊されたが復興が著しく、それもスパニッシュ風のカラーの屋根と白壁の新しい建物が多いのは驚いた。このことについては、建築物だけでなく消費材全般について購入した価格の半分は個人に還元されるので、物が買いやすいという。それでか、青空マーケットの果物、野菜類は別だが、小さい店で売っているバン類など飲食物が高い。例えば、昼食にサンドイッチ類など軽食ですませようとしても高いので買う気がしなくなったこともあった。

 ドブロヴニクの旧市街地は要塞の街として中世の面影を残しているが、入口の左側の壁には、迫撃砲を撃ち込まれ破壊された家が黒い点で銘板に明示されている。内戦によりどの家が壊されたか一目でわかるようにしている。これを見ると、この小さい旧市街地でも多くの建物が被害をうけたことがわかる。その傷痕を忘れないよう、人々の記憶にとどめようとしている証しとして何時までも残るのであろうか。それとこの街のすぐ北側の裾から上に標高300m位のスルジ山を仰ぎみることができる。下から見ると、山頂ヘケーブルらしきものがあったように見える。中腹にはその支柱らしきものがあるだけで、たしかにそれとはわからない。このスルジ山へは一時間もあれば登れると聞いたので、行くことにした。すると坂道の途中に地雷で亡くなった人の十字架が道々に建っていた。又、山頂ではケーブルカーの降車場のセメントで固めた土台と、建物の立ち上げの部分を残したのみで、黒ずんだまま残っている。そして、その周辺ではきれいな黄色い花の野草が可憐に咲いていた。山頂より眼下に見えるアドリア海の紺碧の海の色とドブロヴニクの旧市街地が鮮やかに絵模様のように美しく見える。上述したように10年前に内戦により、この市街地が迫撃砲により砲弾が撃ち込まれ、多くの家屋がなくなったと想像できない程の美しい景色なのだ。

 さて、この国に来てはじめて私は映画『コソボの花』の背景が少し理解できた。旧ユーゴが多民族多宗教の国であること、その一つの例としてドブロヴニクからコトルの街に行く途中、海に浮かぶ小さい島(周囲200m位か)にも、カソリック教会、セルビア教会の建物、ユダヤ教のモスクがあり、宗教上に於いても複雑な国家であることがわかる。

 そしてクロアチアの国の海岸線の一部9kmにわたりボスニア・ヘルッエゴビナの領土があり、国境でパスポートの検閲があった。

 何回も書くが、内戦が終わって10年余しか経っていない現在、この国の人々の心の中で「戦争」と言う「悪」の行為にともないその残酷さが今もトラウマとして残っており、子供たちの明るい顔に比し大人たちの表情は心なしか暗いように思えた。

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『みちしるべ』段ボールの再生率は99%**<2008.7. Vol.53>

2008年07月03日 | 神崎敏則

古段ボール再生工場見学
段ボールの再生率は99%

みちと環境の会 神崎敏則

 先日、尼崎にある段ボールの再生工場を見学しましたので、その報告をさせていただきます。見学先は、段ボール業界では日本一のシェアーを誇る㈱レンゴーの尼崎工場です。

 担当者によれば、段ボールは99%が再利用されているそうです。新パルプの混入率は0.7~0.9%だけで、古紙の他は繊維の強度を高める目的で松やに等を少量混入する程度とか。古紙ではあっても新聞紙などは使用せずにもっぱら古段ボールだけ。その古段ボールも、中国が段ボールの製造に力を入れだして購入単価が上がり、この1年で2倍になって、今では20円/kgで古段ボールを購入して50円/kgの商品を製造しているそうです。この工場だけで、一日1200kgの古紙を再生しているそうです。

 段ボール板紙は、表面のライナーと言われる2枚と、波形の中紙の計3層で構成されていますが、尼崎工場ではその中の波形紙を製造して、三田や京都府の工場へ搬送しています。

 工場では、まず最初に古段ボールを大型の溶解槽に入れて溶かします。

 その大型の洗濯槽の中では液体と古紙が攪拌され、その中心部分に、鎖のようなもので不純物をまきとって取り出しています。不純物とは、古紙に付着しているビニールひもや針金のたぐいだそうです。その針金などの金属もバン線の原料に利用していると担当者は自慢げでした。

 大型洗濯機で攪拌された液状の古紙は、和紙の製造でいえばすく作業に入りますが、ここでは攪拌された古紙を液体もろとも吹き付け、それを大型ローラーが巻きつけながら蒸気と熱で乾燥します。何本ものローラーが入った大型ボックスの中を分速600mもの速さで送られ、ボックスから出た段階で長さ6m直径2mのロール紙が完成します。段ボールの中紙を製造している工場ですが、同じ中紙でも紙厚は何種類かあり、大型古紙に含まれている針金やビニールなどボックスの中を走る速度は、紙厚の種類により分速1000mの速度に調整するものもあるそうです。完成したロール紙は、ロール巻きのまま回転しながら2本のカッターのようなもので3本のロール紙に切断されます。

 段ボール製造業界でもご多分にもれず、燃料の高騰が現在の課題だそうです。もともと関電の電気代は高いので、昼間はガスエンジン、ガスタービン、蒸気タービンの3種類の自家発電機を使って昼間は運転し、夜間は関電の電気単価が低いので、その時間帯は関電の電気を使用しているそうです。

 担当者が言うには、段ボールは脱色や漂白をしないので古紙再生に適しているそうです。最近問題が顕在化した紙の再生率の偽装については、もともとコピー用紙などは、白さと鉛筆書きが可能な平滑さが求められているので再生が難しく、そもそも再生紙を使うこと自体が無理だと分かっていたはず、というのが担当者の見解でした。

 現場に足を踏み入れると、妙に説得力を感じてしまいました。

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『みちしるべ』**「阪神間道路問題ネットワーク」13年のエピソード**<2008.7. Vol.53>

2008年07月02日 | 藤井隆幸

「阪神間道路問題ネットワーク」月例会
13年のエピソード(準備会編)

世話人 藤井隆幸

誰でも気軽に参加できる月例会

 当ネットワークの月例会は、誰でも参加を拒まないのが伝統になっています。初めての人でも、団体代表でなくとも、自由に参加して発言できるのが慣わしになっています。そんな自由な感覚を持ち込んだのは、何の関係も無い人達が、道路建設や公害に困ったという課題だけで、集ったというところに因縁があるようです。

 ネットワークの準備会の始まりは、阪神淡路大震災の年、1995年5月25日のことでした。「みちと環境の会」が今取り組んでいる、県道尼宝線拡幅計画。その工区の沿道に、当時あった砂場さんの賃貸マンションに集ったのが最初でした。

 メンバーは、初代代表世話人の砂場さん、当時の「南北高速に反対する会」の大橋さん(現代表世話人)、川西自然教室の澤山さん(『みちじるべ』編集長)、当時の阪神高速北神戸線東伸部の建設反対運動の三橋さん(現熊野の仙人)、それに私の5人でした。それぞれ個性的で色とりどりのメンバーですが、自由を尊ぶ雰囲気が共通したのではないでしょうか。

 その時の議事録メモをみて、砂場さんの発言を振り返ってみます。

 (道路建設は)市民(国民)の税金を使っていながら、市民は何も知らされていない。震災の被害が少なかった者として、(ネットワークの)音頭をとって行きたい。キッチリとした組織作りを、急がずにやって行こうと思う。お互いが分かり合う機会を大切にしたい

 それぞれ立場の異なった者同士が集り、今日まで続けてこられたのも、このような精神の筋を通してきたからではないでしょうか。

準備会の過去を振り返って

 第2回の準備会は翌月の6月18日、川西自然教室のお世話で、能勢電鉄多田駅近くの岡本寺(こうほんじ)で行なわれました。岡本寺といえば禅宗の曹洞宗のお寺で、名物和尚の平田さん(川西自然教室リーダー)が住職を勤められているところ。当時は御老僧の代で、まだ修行僧の身分でした。

 ともかく、現地で騒動になっていた、第二名神の地権者も集りました。この時から西宮の山手幹線のメンバーも参加されました。故染原さん(甲子園口北町自治会々長=当時)、故黒住先生(NPO法人アジア眼科医療協力会理事長・市立芦屋病院眼科部長=いずれも当時)、それに山手幹線の架橋拡幅後にご主人を亡くされた横内さん。振り返ると懐かしくなったりします。

 第3回の準備会は8月6日に、上甲子園サービスセンターで行なわれました。地元の山手幹線では、座り込みの実力行使が始まっていた頃だと思います。運動経過報告をされた山本夫人も、熱のはいった生々しいものだったと記憶しています。

 この準備会の直前、7月7日の七夕の日に、国道43号線道路裁判の最高裁判決が出たのは衝撃的事件でした。判決の内容や意義について、多くの質問が出たことを覚えています。

 第4回の準備会は9月10日、武庫地区会館で行なわれ、最初で最後であった新聞記者の取材がありました。神戸新聞の坂田さん、朝日新聞の三木さんでした。西宮の山手幹線からは、寿町からも参加がありました。南北高速道も大庄地区からの参加もあり、臨戦態勢の時期であったことが、そのことからも判ります。

 第5回の準備会は10月8日、たしか川西市中央公民館であったように記憶しています。そろそろ正式発足に向けた話し合いが行なわれてゆきました。機関紙の発行や名称について、また会則や会費についても検討することを、次々回の準備会の宿題としました。

 第6回の準備会は11月23日に、川西自然教室の“芋煮会”に参加することになりました。会議が重なり、私は参加できなかったのですが、参加者には大変好評だったと聞きました。

 第7回の準備会は12月10日の年末でした。今は震災後の再開発で“プレラ”と改名され、建っている位置も多少違うのですが、阪急西宮北口駅の南西にあった西宮中央公民館で行なわれました。

 この時には芦屋から大挙11人も参加され、故染原自治会長の議長で開催されました。いよいよ正式発足を決定したのですが、このときに決ったのは「阪神間道路問題ネットワーク」という名称だけでした。

 次回、第1回月例会を芦屋で開催することを決め、散会となりました。

判らなくなったことも多くなってきた

 こうしてまとめてみると、既に忘れてしまって記録の無いことが多くあります。参加者への案内は、砂場さんが行なっていたものと思うのですが、案内状らしきものが見当たりません。震災後のことなので、資料の紛失でもないでしょう。電話での連絡だったのかとも思います。第7回の準備会から、参加者名簿を作成しているのですが、それまでのものは作らなかったのか。どうも記憶がありません。判ることがあれば、また、記憶しておられれば、ご連絡いただければ幸いです。

(つづく)

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『みちしるべ』**私が総理大臣になったら**<2008.7. Vol.53>

2008年07月01日 | 単独記事

私が総理大臣になったら

三橋雅子

第1次産業の復活を果たす。

 疲弊した農業はいうまでもなく、枯れかかった森の創生、ガソリン税に圧迫される漁業の復活が日本の生き残る地道な道に繋がる。明日に迫る世界の食糧危機を、労働力の移行で回避し、森を生き返らせて川を、海を守る事が急務である。

 既に第1次産業で、苦しくても、経済的に報われる事が些少であろうと、自然と対峙して奮闘しているけなげな若者たちを励まし、貴重な食糧生産を支えている要員として優遇措置をとる。おのずと、都会の第3次産業でしか、生き延びるすべがないと思い込んでいる若者たちのエネルギーは第1次産業に流入する。将来を見通す程に、やけっぱちにならざるを得ない人生に絶望し、他者を傷つけるしか術を知らない若者たちの居場所は確実に見つかるはず。

 先ず、無一文の若者が労働力と心意気だけを引っさげて真摯に生産に励んでみようとすることを可能にする手立てを講じる。ほとんどがドブに捨てるような公共事業に莫大な財源を投入してきた償いのためには、これくらいの財源は何としても掻き集めなければならない。生産手段の土地や森は人手に渇望しているのだ。

 自然は自分の投入した労力や能力を公平に査定し、結果に反映させてくれる。自分の無知も怠惰も勤勉も、厳しく、しかし正当に評価して、結果を見せつけてくれるのだ。情実も賄賂も通用しない「自業自得」の厳しい現実に脱帽せざるを得ない。しかし自然は厳しくとも、確実に自分の投入した労働の証しを見せてくれる。

 しかも本来、自然はおおらかで、些細なミスやズボラやいい加減さも見過ごして包み込み、怠惰や無知に対しても温かく、そこそこのご褒美は振舞ってくれる。この一番の「自然の敵」である人間をも、差別なく他の動植物と同等に慈しんでくれているではないか。その代わり、無能でいい加減な上司に向けるおべんちゃらは通用しない。厳しい結果は、ほとんど全て自分の怠惰と無能の当然の帰結という事実を見せつけられ、自然の正当な評価を、素直に受け入れざるを得ない現実に直面する。自己とそれを取り巻く現実に向き合わざるを得ないのだ。無責任な匿名による虚の世界のお遊びは歯牙にもかけられない。そこでは、都会の、夢とうつつの境界が定かでない、掴んでいたものが零れ落ちるような、はかなさと不条理の世界は無縁である。しかしこの文明社会の落とし子の、目くるめくような幻惑の世界とも全く無縁の暮らしは寂し過ぎる、という向きには、月1でも無料の夜行バスを原宿、六本木でも、アキバだろうがアカサカサーカスだろうが、はたまた通天閣かミナミかキタか、選り取りみどりの横付けにするくらいの「ご褒美」は自然に倣ってするべきであろう。

 第1次産業の従事者も、将来を見通そうとすれば絶望せぎるを得ない状況に変わりはないが、そこで見えてくる、自然や、自分の労働に対する理不尽な仕打ちは、明らかに政治の無策や不条理としてオテントサマの下に明らかになるから、不満の標的や正すべき相手を見失う事はない。

 ここで鍛えられた若者は、私利私欲がらみの腐敗した政治の罪悪と、何よりそれを許している選挙民の愚かさと不条理に気付き、然るべき人材に自分のかけがいのない主権をゆだねる事に真剣になるであろう。人任せの危うさに気付く筈である。そうでなければ、私が総理大臣になって奮闘しても、世の中良くすることは出来ない。

編者メモ

 「私が総理大臣になったら」なんて、「いったい三橋さんどないしはったん」。冒頭に出たこの一種違和感唐突感のあるタイトルの文章を、そう思いながら読まれた方がおいでではないだろうか。私が何も知らずにここでこの文章を読めばそう思うから、私が思えば皆もそう思うだろうと、いつもの私の勝手な思い込みでそう思ったから、そう思うのである。編者は6月の例会を欠席したのだが、その例会で、私が政権をとったら何をするか、一つ各自でマニフェストを作ってみないか、という話になり、それを“みちしるべ”次号、この号に発表しよう、ということになったらしい。だが約束通りこの号に間に合わせてくれたのは三橋さんだけだったので、冒頭の唐突感をぬぐうためこのメモを付けたのだ。とは言え編者も例会の報告はもらっているから、マニフェストを書くことを知らなかったとは言えない。これは欠席したなんて言い逃れをしている編者のだらしない声でもあるのだ。

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