三橋雅子
<あさもよし紀の国の――新宮の文人達>
東京から夜行バスで帰ると、尾鷲を過ぎる辺りから、木の間隠れに海が見え始める。明けかかる熊野灘。外洋につながる大きさを秘めた海の、幽かな明るさの中で少しづつ激しく光が踊り出す。
拡がった海は青い。空も何という青さ。陽光の中の山の緑もまた何とみずみずしくあおいことか。何もかも青々と、ただ青い、ひたすら青いとしか言いようのないことに、私は自分の語彙の貧弱を思った。
この明けてゆく熊野灘を、他の乗客を気遣いながら、そっとカーテンをめくって満喫する魅力が捨てがたく、池袋〜新宮の「しんどい」夜行バスが止められない。往復ざっと2万円(大阪〜東京のスタンダード型片道5千円――あるいはもっと安いのもあるのかも――などと言う代物ではない、ちゃんとリクライニング付デラックス型である。)という安さだけが魅力なのではない。この、明け方の絶景に加えて、夜乗り込めば翌朝6時に東京池袋に着いて即、その日まるまる行動できるのだから、なにやら得した気分になる。新幹線を使うには大阪まで出るか、新宮廻りで名古屋から、と簡単には乗れないのだから。飛行機には白浜まで出れば乗れるが、東京に着いてからがうんざりだ。どうしてもバスに落ち着く。しかし若い時はまあまあだったけど、もう、あかんわ、と40台の人に言われて苦笑する。気がついて周囲を見回すと、確かに年寄は見当たらない。現に連れ合いはアカンくち。ほとんど眠れないらしく翌日は使い物にならない。どこでも、いつでもばたんと熟睡に入れる者には、なんとも有難い。
熊野三山のひとつ新宮速玉神社の一隅に、佐藤春夫記念館が密やかに建つ。赤煉瓦のアーチ型の門の脇にマロニエの木、といういささか場違いな洋風の趣だが、これはドイツに留学して夭折(ようせつ)した弟を忍んでのこととか。
誰もいない館内に春夫が生前吹き込んだテープが流れる。
「あさもよし、紀の国の‥‥‥空青し山青し海青し‥‥」望郷詩人の「望郷五月歌」。私は嬉しかった。彼にとってかけがえのない熊野灘の海、空、山を、春夫もただ「青し」としか言わなかった。かの、語彙豊かな詩人でも。
酒落(しゃれ)たマントルピース、「小さき程よし」とした二階のちんまりした書斎。さして大きくない造りに、反対側にも狭い階段。その贅沢を怪訝(けげん)に思いながら、身幅ギリギリの「あそび」の階段を降りてみた。上ったときとは違う場所に下りる面白さ。
この瀟酒(しょうしゃ)な家は、春夫が晩年まで過ごした東京文京区の家をそっくっ移したものという。やはりこの地で生まれ育った西村伊作の設計による。彼がその著作の通り、自身の「楽しい住家」を建てて家族と暮らしたモダンな家も記念館になっている。
戦後のダイニング、リヴィングルームブームの先駆けとなった、家族中心の家のモデルである。絵画と陶芸、木工などの作品が溢れる「パーラー」。続く食堂はゆったりした空間に広いテーブル、ここで石井柏亭、与謝野鉄幹・晶子夫妻らとサロンを展開し「新しい時代の近代人を養う自由主義教育」を論じ、構想を練ったのであろう。この伊作邸完成の7年後、神田・駿河台に文化学院が創設された。鉄幹が文学部長(後に春夫も)、晶子が女性部長、柏亭は絵筆の手ほどき、と伊作邸の常連が教授陣を固めている。
伊作が設計した座り心地の良い椅子にもたれれば、正面に彼が描いた濠と山の青々とした風景が迫る。彼もまた東京での忙しい日々に、青き故郷への思いを募らせたのだろうか? 多彩な才能を展示する片隅に、少し意外な食器棚風の家具が目に留まった。大石誠之助、大逆事件で処刑された、伊作の叔父の作品である。彼は確か「温厚な医者」だった筈。こんな、細工の難しそうなプロっぼい家具作りのゆとりがあるとは‥‥大正デモクラシーの基盤になった、多様な文化的素養の側面を垣間見る思いがする。
家族達ののびのびとした空間が確保される二階。ここにも二つの階段を発見して、またしても、と伊作の遊び心を想像した。
「与謝野晶子と周辺の人々」(香内信子著)には、いずれの記念館でもみられなかった「新宮鉄道新宮駅」の前にゆかりの人々がごちゃごちゃと並ぶ写真がある。晶子をはじめ、誠之助の妻や幼い遺児達、伊作の妻子達、総勢二十六人の中に伊作が見えないのは、彼が撮ったものだろうか。伊作の家が建った翌年のこと、新築祝いにでも集まった人々でもあろうか。一際高いところにソフト帽の、春夫二十三歳のダンディな姿が見える。
テレビのない時代から、この「陸の孤島」新宮には、なぜか東京の流行は名古屋、大阪を跳び越して直輸入された、といわれるが、なるほど、明治、大正から、新しい思想もファッションも東京と直結していたのか、と改めて思う。清清しい青い風景の中の想いである。
あくまでも青きさつきの熊野かな
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