『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(14)**<20050.1. Vol.33>

2006年01月12日 | 熊野より

三橋雅子

<熊野タイム>

 沖縄に永いこと住んでいた息子が帰省の折、何事ものんびりになって時間の約束がルーズなのを他の息子達に咎められる。私も内心、そんな風に育てた覚えはないが…と不満だが、本人が言うには、沖縄タイムというのはこうなんだ、何時集合といってもおよそ、そのくらいに行けば良いので、一時間や二時間のずれは誰も咎めないんだという。真偽のほどは分らないが、飲み屋が明け方までやっていて、夜の十時は、飲みに行くにはまだまだ早い、というのは本当らしい。時間に追われてあくせく働くことのない土地柄ならありそうなことか、とも思う。ここ熊野も、時計要らずの、お天道様の出具合、隠れ次第で暮らしが廻っていることにかけては人後に落ちない場所のこと、沖縄タイムに劣らぬ熊野タイムがあろうかと、密かに楽しみにしていた。ところが、あにはからんや、ここでは会合に定刻に少し早め、のつもりで五分くらい前に着くと、大抵皆勢揃いしていることに驚く。一度など、送ってくれるドライバーの都合で開始時間三十分以上早く着いたので本でも読んで待とうと会場近くまで行くと、驚いた事にほぼ全員揃っているではないか。時間を間違えたかと思ったが、さにあらず、皆熱心に世間話をしている。定刻になって初めて司会者が、では始めよか、となる。従って会合は大体定刻には始まる。その前のおしゃべりは、重要な情報交換の時間とみえる。皆暇人ばかりだから?これもさにあらず。田んぼが終わらんでのう、日が落ちるまでは勿体のうてなあ、欲張って遅うなって、ようやっと飯かっ込んで来たわ…と、せわしなく駆け込んでくるのもある。まだまだ時間はあるのに、ゆっくりご飯を食べてくればいいのに、とついこっちは余計なことを考えるが、皆律儀で大真面目なのである。見回すと、大体五分前くらいに、遅うなったという顔もせずに入ってくる(当たり前だが)のは、Uターン族かIターン族。従って、こういう雰囲気の中で遅刻して来る、というのは極めてばつが悪いものだ。Iターン族が増えて(その可能性はありそうもないが)マチの会合の常識を持ち込まないことを願っている。

 終わりも遅れることは先ずない。どこかの公民館か何とか会場のように、定刻までに片づけを済ませてとにかく部屋は明け渡して鍵を返さないと、とにかく出てください、話の続きはロビーで、なんてバタバタするのと違って、誰も留守番がいるわけでもなく、わがらで(自分達で)戸締りをしていくだけで誰にも気兼ねもないのに、大体は定刻ぴったりに、それには司会者が十分以上前には、そろそろ終わりの時間なので、何か言い残したことはないか、これだけは是非、ということはないか、とねんごろに促し確認してほぼ定刻には、ホナさいなら、ごくろうじゃったのう、と別れていく。極めて紳士的。

 地区の氏神様のお祭りで、十時からと言うので、早めに出かけて十分前に着いた。この地域を下りていった四〜五キロ先からも集まり、総勢十二軒、貴重な学童持ちの二世帯も含め家族連れで出てくるから、境内は日頃見たこともない二十人以上という大勢の賑わいで、皆チンとお行儀よく待っている。我が家がお供物(お米を一つまみ、おひねりにして供える)を上げ、拍手を打って拝み終わるや、ホナそろそろ始めよか、と区長さんの声。我が家を待っていてくれたのだと知って、遅刻したわけではないが、なんだか恐縮してしまう。最初に行事のお誘いを受けた時は、行事といっても、新年会とお祭りの二回くらいだが、顔出すも出さんも、好きにしてくれたらええんよ、なんも義理立てすることはないんよ、面白そうやったら来てみいや、と区長さんは繰り返し「自由意志」を強調してくれたのだ。もし我々が気が進まなかったり忘れてしまっても、ああしてみんなで待っているんだろうか。ちょっと気が重い。

 道普請と称する、一斉、共同の溝掃除、道路清掃がお盆前と暮れの年二回ある。公民館までの優に二キロ以上を三軒でクリアしなければならないから、私も及ばずながら出る。それでも皆仕事が早いから、二人で一人前になるかどうか?夏は七時、冬は八時の開始時間までの優に三十分前には、西隣二百メートル奥から兄ちゃん(といっても五十近いが)がスコップ、さらいなど道具一式を担いで通るではないか。ほらほら、ここではもう時間なんよ、と相棒を促すが、まさかこんな早うから、なんか用でもあるんだろう、と一向に動かない。用たって、ここで済む用なんか何もないじゃない、おしっこくらいしか。ほら、もうおしっこも済んだ頃だからいこいこ、とようやく促して出かけてみれば、案の定、数百メートル行けども人影は見えず、溝は木の葉一つなく、道もきれいに掃かれてしまっているではないか。まだまだ先のくねりを曲がったところで、やっと東隣の還暦過ぎの兄ちゃんと二人を捉えることが出来た。挨拶するにも全く間が悪い。やがて、少しは人手の多い下から上がってくる一行と出合って、いやいや二人で出てくんしゃったか、とねぎらわれ、私達やっとこ半人前ですから、と少しいい気持ちになって終了となる。

 思うに日頃、時計に束縛されない生活をしているから、時間を指定されると、律儀なだけに落ち着かなくて早め早めに出かけてしまうのだろうか?この熊野タイムも、どこまでの範囲のものか、ほんの本宮町界隈だけのことなのか分らない。いささか気の揉める習慣である。

 冬至越え杉に去る陽もやや遅れ

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