『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(56)**<2009.3. Vol.57>

2009年03月08日 | 横断車道

日頃、車を利用する人も、しない人も、姿形は変化するものではない。但し、車依存症の人は歩かないし、乗車時の姿勢がリクライニングで、腰への負担が大きい。よく歩く人と比べれば、格段に腰痛持ちのことが多い。とは言え、見場は変わらない。ところが、脳内の働きは随分と変化することに注目したい▼駅から2km程度であれば、急坂でない限り、健常者であれば充分に歩ける距離。ところが日頃、車を運転していると、その僅か20分の歩行が長時間に感じてたまらない。マイカーなら数分なのだ。歩けば周囲の景色も見られるし、色々の人々にも遭遇する。車を運転していると、多くのものを見逃すのだが▼ところで、マイカーの値段が200万円としよう。その200万円を稼ぐのに、日8時間・月25日・半年間も働いた。合計1200時間を要したのである。毎日、2kmの駅まで往復して、歩行と車の時間差が30分として、年間183時間足らず。1200時間から183時間を差引いて、歩いた方が早かったわけである。単に駅までの往復2kmであるが、どんなにマイカーを飛ばしてみても、歩いて往復するほど早くないことは明瞭である▼都市の生活では、歩けば直ぐに信号機に出くわす。「赤信号、みんなで渡れば怖くない!」と志村ケン氏が言って、大流行。ヒンシュクを買ったものだ。ともあれ、自分の進む方向の赤信号は極めて煩わしい。何処で子供が見ているか分からないので、信号無視はしないと決め込んでいるのだが。この目障りな信号機。誰の為にあるのだろうか? 車に乗る人は『歩行者保護』のためだと考えている。が、実際は『車が事故を起さない為』だけに存在する▼東京銀座の複雑交差点のスクランブル信号。歩行青信号の時に1000人くらいが一度に行き交う。ところが、歩行者同士がぶつかった事故など聞いたことはない。一方、相互に日交通2000台程度の道路の交差点。信号機がなければ、毎年のように事故が発生する。日交通5000台ともなると、毎日の事故となる。殊ほど然様に『車というものはドン臭い』存在なのだ▼こうして客観的・科学的指摘をしても、車依存症の人々は反論の根拠を無理にも探そうとするのだ。何も『車の廃絶』なんて言っている訳ではない。日本経済が、世界経済が、車に過度な傾斜をし、車対応型社会の歪さを極度に体現してしまった。その反省も必要だと言いたいのだ▼100年に1度の大恐慌などといわれているが、アメリカのビッグ・スリーの末路を見た気がする。日本の自動車産業も、今のままでは立ち行かないだろう。世界の需要を遥かに越えた生産は転換されるべきだ。高速道路密度世界一の日本に、もう高速道路は要らない。今時の若者は低所得で、マイカーを所有する気も余裕もないのだ。偏重してきた『車依存社会』で、国民的目線も変えるべき時を感じている  (コラムX)

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『みちしるべ』**送る儀式 送られる儀式**<2009.3. Vol.57 >

2009年03月07日 | 藤井隆幸

送る儀式 送られる儀式
砂場 徹(初代 代表世話人)さんの場合

世話人 藤井隆幸

  先日、砂場徹さんの奥さんの恵美子さんからの依頼で、追悼文集となった『みちしるべ』を追加してお持ちしました。郵送した方が早かったのですが、お葬式以来、ご無沙汰しておりましたので、持って行くことにしました。結局、時間がとれずに日が経ってしまい、仕事を終えての夜の訪問になってしまいました。午後8時半を過ぎた頃に到着したのですが、少しのつもりが、10時頃まで話し込んでしまいました。

 「経験者は語る」ですが、お葬式や、その後の儀式について、色々な人が色々のことを言ってくるものです。言ってこられる人は、良かれと思っては居られるのですが、言われる方にしてみれば、まったく正反対のことを言う人もいて、双方の意見に戸惑うばかりです。

 私が始めて葬式を仕切ったのは、一番近くに住む伯父さんの時でした。遺されたのは叔母さんと従兄妹だけでしたので、男系社会である日本においては、傍にいる私が葬儀委員長を務めるしかありませんでした。幸い、従兄妹の友人に「葬式博士」がいて、関西における一般的『常識』は聞くことができました。また、他職に就いてはいるものの、お坊さんの方も居られました。近所の葬儀屋さんにお願いしたので、儲け以上に親身になってくれました。このような好条件で、無事、一連の儀式を済ませられました。

 伯父さんが亡くなったのは夜で、遠い病院から自宅に戻ったのは深夜でした。近所の御長老のお一人が、直ぐにも枕経をあげてもらわねばと、言い張った時には困りました。深夜にお寺さんを突然に呼ぶのも、心苦しいもの。前述の親しいお坊さんに電話で聞いたところ、「枕経というのは、亡くなって始めてあげてもらうお経の事で、翌朝一番にお寺に電話をし、早いうちに来てもらえばよいのです。」と知恵を授けてもらいました。さすがにお坊さんの言うことには、この御長老も引き下がらざるを得ませんでした。

 恵美子さんが言われるには、「49日が終われば、遅滞なくお骨を墓に納めなければ。」と主張される親戚が居るとのこと。関西の『通念』では、そういうこともあるようです。しかしながら、気が済むまで傍に置いておきたい人もいます。そんなことは如何でも良いことですが、その方は車で納骨に付き合うというのです。有難いような………。

 そもそも『常識』や『通念』とは、如何なるものでしょうか。近年、親戚でもないお葬式に、喪服という黒装束をまとうのが『普通』になっています。私の幼少の時は、近しい親戚しか『喪服』を着てはいませんでした。『香典』とやらも包んでいたかどうかは、更々疑問です。そもそも『香典』とは、皆で死者を送る費用を分担しようというものです。それが何時からか、『香典返し』なる『シキタリ』まで出没しだしました。広島の田舎では『香典返し』という風習そのものがないようです。

 お葬式は黒装束と決っていますが、本来、日本の不祝儀は白装束か浅葱(あさぎ)色と決っていました。今でも田舎に行けば、日本の本来の葬儀服として白装束が残っているところもあります。御棺に入る主人公だけが、紛れも無く白装束です。日本の葬儀が黒装束となったのは、明治天皇の葬儀で西欧の来客が黒であるので、それに合わせたのが始まりと聞き及んでおります。

 時代劇で切腹も将軍様の葬儀も、必ず浅葱色または白装束です。反対に結婚式は黒紋付と相場は決っています。日本の伝統から言えば、黒が祝儀で、白が不祝儀なのが『正しい』のでしょう。近年、みな中流になって、礼服ぐらい買える身分になり、あるものは着てみたくなるというのが真相のようです。また、『喪に服する』のも個人の自由で、親族が『喪に服さない』のも、他人が『喪に服する』のも自由のはず。喪にも服してないのに喪服というのもおかしなものです。

 葬式の大方の作法は、葬儀屋さん・お寺さん・関連業者の大儲けに由来しています。『香典返し』の風習ほど儲かるものもないのです。死んでから『戒名』を買っている人は多いのですが、これも勘違いでしょう。仏教には「五重」といって、五つの大事な経典があります。多くのお寺では何年かに一度、偉いお坊さんに来演してもらい、「五重」の勉強会を行ないます。その卒業証書に書かれてあるのが『戒名』なのです。死んでから高い値段で『…院……居士』の『戒名』をもらっても、有難いのか如何でしょうか?

 納骨の儀式にしても、49日の意味が分からなければ、如何でしょうか。死後、1週間ごとに修行して、7週目に仏の位に就くという謂れです。納骨とは関連が有りません。そもそも戦前は土葬が一般的で、衛生上と土地問題で、火葬が普及するのは戦後の話です。納骨という『シキタリ』自身が、最近の風習ということなのです。お骨をいつまでも家に置いて、くよくよするな位の意味しかないことは明白です。

 因みに、関東の骨壷は直径・高さとも30cmほどもあるそうです。若い人のしっかりした骨でも、かなりの部分が骨壷に納まるそうです。関西はというと骨壷は小さく、殆どの骨は骨壷に入りきりません。そして、咽喉仏を入れる小さな骨壷と2つあるのも特徴でしょう。骨揚げで骨壷に骨を入れて帰るのですが、関西では大半の骨は残して帰るわけです。残りの骨はどうなるのでしょう。単刀直入に言って、「産業廃棄物」です。私自身の希望としては、100%産業廃棄物にしてもらい、尼崎沖のフェニックスに埋まってしまうのが願いなのですが。

 ところで、最近は「散骨」ということが多く行なわれています。近年まで骨を自然界に撒くと、「死体遺棄」という刑法に触れていました。それでも国民的要求により、骨と分からなくなるまで砕いて粉にすれば、自然界や自宅の庭に撒くことができるようになりました。気をつけなければならないのは、粉といっても死体の一部です。遺族にとって良くても、他人さんには気味が悪いことかもしれません。その辺の配慮が必要でしょう。

 さて、砂場徹さんは生前に自らの葬儀のことを、恵美子さんに託しておられました。無宗教で行なうことや、葬儀会館まで手配をしていたようです。いつかのお正月、皆で砂場宅に押しかけた時に、「死んだら皆で酒を呑んで騒いでくれ」と言われていたことを思い出します。1度はシベリアで死んだ命。『私の「シベリア物語」』の続編を書きたかったようですが、望み叶わずとは言え、淡々と死んでいったように感じています。そして『因習』や『風習』にとらわれず、自由奔放に死んでいったと感じています。唯物論に徹した人生を感じさせます。

 砂場徹さんの最後の事業でもあった、道路公害を許さない運動。日本の道路行政は事実に反し、『渋滞解消のための道路建設』を一貫して主張してきました。この『常識』化された虚構に、砂場徹さんは挑んできました。また、『規制緩和』『構造改革』に衝かれたように政治が進んできた終焉は、金融の破綻でした。科学的に何が正しいのか検証することもなく、一部の強欲的利潤追求のお経のごとく、唱えられた『緩和』と『改革』。砂場徹さんは、この『常識』という誤りに、徹底して挑戦した人生であったと振り返っています。

 死んだ人のその後のことは、本人が決めることではなく、遺された人のためにあるのです。が、砂場徹流の儀式で、最後まで送ってあげたい気持ちで一杯です。

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『みちしるべ』斑猫独語(36)**<2009.3. Vol.57>

2009年03月06日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<糟湯酒>

 怪我をして入院した妻を病院に見舞った帰り、病院最寄り駅前にある酒屋の店頭に酒の粕が積んであるのが目についた。地元の蔵の酒粕だった。粕汁を作ろう、私は酒の粕を買って帰った。昨年泥酔し家族に迷惑をかけ禁酒を宣言したが、私はアルコール中毒ではないので粕汁は問題にならない。アル中を治療するための禁酒なら酒の粕はもちろん奈良漬けも厳禁と聞いたことがある。出来上がった粕汁はみそ汁に酒の粕を溶き込んだだけのようなものであまりおいしくなかった。そこで更に酒の粕を加え加えしていくと、どろどろになってしまった。これをどんぶり3杯ほど食べた。強い胸焼けがして夜の犬の散歩時は少々苦しかった。

 二日後、まだ残っている酒の粕を糟湯酒にしようと思いついた。これはなんとかして酒にありつこうといういじましい発想からではなく、万葉集からの発想であり、万葉時代の食の一面を実践してみようという高等な動機だったのである。糟湯酒、酒の粕を湯に溶いたもの、それはうまいものではなかった。料理用にとってあった酒を少量加えて飲んだ。私は万葉人にはなれないということがわかった。

 糟湯酒は万葉集のなか山上憶良の貧窮問答歌に出てくる。高校で国語の時間に習って頭にこびりつく強い印象を受けたのだった。それは次ぎのように始まる。

 「風まじり 雨ふる夜の 雨まじり 雪ふる夜は すべも無く 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに・・・・・」

 でもここで貧窮している者は糟湯酒を飲むことが出来るだけまだましなのだ。当時酒の粕を入手出来る人はそう多くはなかったと思うし、それに湯酒とあるから湯に溶いたのだ、ならば湯が身近にある人、これも恵まれている方の人だろう。万葉の時代、誰も彼もが必要な時に必要なだけ火を焚くということが簡単に出来なかったと思うのだ。これはもっともっと後の時代になっても、白湯の接待がごちそうであったということからでもわかる。

(このことは・・・あつい白湯なとめしあがれ・・・という言葉が出てくる文を習った覚えがあるのだ何だか忘れてしまった、知っている人教えてください) 

 貧窮問答歌は問答だから答の部分がある、その一部はこんな風だ。・・・・綿も入っていないぼろを身につけ、地べたに藁をひいて、一家はころがっている。竈に火はなく飯炊きにはクモの巣がはっている・・・・ここには火がないのだ。それだけ悲惨である。どうか今一度貧窮問答歌をよんでほしい。

 万葉集などもっと深読みしないといけないな。奈良や平安という時代、貴族とそれをとりまく連中以外、農民なんて搾取されるだけの存在だったのだ。うるわしき大和だとか、花咲く都なんていう涙なしで語られる歴史は、強者の歴史にすぎないのだ。こう言うと、偏見の強い歴史観と言われるかもしれないが、この時代に限らず、天皇ブランドに乗っかった地方豪族の歴史なんかも似たりよったりで、歴史というものは強者、勝者の歴史にすぎないのがはっきりわかる。普通の民、弱者、敗者の存在も学ばなければならないのだ。糟湯酒なかなかきいたのだった。

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『みちしるべ』熊野より(28-2)**<2009.3. Vol.57>

2009年03月05日 | 熊野より

三橋雅子

<新しい住人>

(前頁より)

 この土地の人が、先ず暮らしにはお金が必要だ、と言うのは一応理解できる。私より若い世代でも、幼いとき、戦後だというのに、現金収入の欠乏の苦労はいやと言うほど身に沁みているらしい。熊野川べりの石を袋に詰めて、よろよろしながら背負って運んだ、その現金収入で、お習字の道具とか、学用品など買ったのだとか、雨の日は、冷たくてもわらじを脱いで、走って学校に着いてからやっと履いた、長持ちさせるために、など。惨めな話ではなく、あっけらかんとして、よう文句も言わずに働いたもんだ、と懐かしんでいる。郵便局長とか、校長先生などちゃんとした現金収入がある家の子しか、上の学校には行けなかった、中学を出ると、田んぼや畑に出たり牛の世話などをするが、手が余ったり仕事もなければ、口減らしに即都会に出て働く、と中学出てから大阪でずっと、というU ターンも多い。わたしら勉強好きじゃなかったからよかったわ、今の子は可哀想だ、勉強なんか嫌いでも、いやでも高校に、下手すると大学まで行くんやから。全くだ、とそれには同感だが、永年親元でパラサイトシングルめいた暮らしをしていた身には、彼ら、彼女らのたくましさには、肩身狭く感心するばかりである。

 中学出たとき、あいつは折角スミキン(住友金属)の試験受かったのに、就職に和歌山まで行く路銀のメドがつかなくて、とうとうフイにしよった。ほうてでも行っといたら今頃ヨカ暮らししよったろうに、なんてことも聞く。

 しかし意外だったのは、Iターン族まで現金収入の必要性には殆ど同じ反応をすることである。街中での、羽が生えたようなお金を飛ばす暮らしに見切りをつけて、“こんなところ”の、お金はないけど心休まる暮らしを求めてきたのでは?お金がお金を生む異常な貨幣制度の中の、必要最小限度のお金というのは何なんだろう?と改めて考える。

 若いIターン族の大半は森林組合などの山仕事に入る。ある程度の収入は保証されるが、雨が降れば休み、雨季などは収入の激減、しかも気の抜けない、殆ど命がけの油断ならない仕事の割には決して高給とは言えない。晴れれば休日でもお構いなく仕事、となると、休みといえば大抵は雨で、従って畑をすることは先ず出来ない。

 我が新住人は、これでは何のためにこういうところに来るのか意味がないという。自分のため、家族のために自分の口に入るものを出来るだけ自給したいし、家族一緒の暮らしを楽しみたいという。荒れ放題の森林の回復に何らかの力を投入するのは確かに、浮き草のような第3次産業の、あるいはどこに繋がっているか分からないような、また、いつでも交換可能な歯車の一環でしかない居場所に比べれば「やりがいのある」ことかもしれないが。しかし、何とか米を作り、好きな釣りで動物蛋白をまかない・・・と彼が言う、限りなく自給自足に近づく術はまだまだあると私も思う。我が家は、米作りもしないで自給自足などとは到底言えないのだが。  

  春の野は蒔かぬものらの美味の原

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『みちしるべ』熊野より(28-1)**<2009.3. Vol.57>

2009年03月04日 | 熊野より

三橋雅子

《新しい住人》

 行き止まりかと誰もが見紛う我が家の更に奥に、昨秋未就学の子連れ一家が引っ越してきた。別荘にしていた持ち主が老齢化で、通うのがしんどい、管理に骨が折れる、と畑をぼさぼさの荒地にし放題で持て余していた。売りに出してはいても、こんなところを買う奇天烈人もなかろうと高をくくっていたら、冷やかしの下見に来たかと思いきや、なんと気に入って、ここに決める、と言うのにはこちらが驚いた。栗垣内(クリガイト)というと、どこで聞いても、あそこはやめた方が良いと言われるという。あんな不便なところにわざわざ住むことはあるまい、もっとましなところがあるよ、と異口同音に言うそうである。まあ、Iターンの三橋が住んでいるから訊くといい、と言われて訪ねて来た。

 我が家にとってのメリットは、塩素入りの簡易水道が未来永劫、敷設されないこと、自己流コンポストトイレが心置きなく可能なこと、近所が密集していなくて、生活が監視されない、夫婦喧嘩はまず聞こえる心配がないことを挙げたら、まさにそれが望むところだから、とほいほい引っ越してきてしまった。連れ合いなどは自分の仙人振りを棚に上げて、あいつアホとちゃうか、と呆れながら心配する。もちろん杉がまだまだ伸びて、畑の条件は悪くなるばかり、湿度がかなりのもの、子どもの仲間がいない、学校にはスクールバスまで4~5キロ送っていかなくては、とマイナス要因は漏れなく話した。救急車も入れないが、担架で運ばれて救急車が搬送してくれる大きな病院がこれまた遠いのも、老人の移転条件の最悪に挙げられるが、子持ちにとっても同じであろう。我が家にとっては、これは絶好の環境ではあるが。いざと言う時、苦しんでなければ救急車は呼ばないでおこうね、と言うのが二人の間の珍しく議論なしの合意である。痛かったりしんどい時は仕方ない、救急車のお世話になって、最小限の緩和策をしてもらって1時間半も揺られている間に事切れた、と言う展開になれば、めでたいからである。

 新住人の噂はたちまちの中に広がるようだった。人と顔を合わせれば、お宅の奥に引っ越してきたんだって? と皆呆れ顔で言うのである。情報伝達の早さは驚くばかりだが、さらに驚くのは、何を好き好んであんな所に、と異口同音の呆れようである。わが家のことも、こういう具合に人の口の端に上ったのか、と今更ながら驚く。道理で最近でも、初めての出会いの人に、ああ、あんただったんか、あんな奥に来てる人がいてるというのは聞いていたんだが、としげしげ見つめられることがある。何やら「伝説の人」になったような。

 どこへ行ってもその話で持ちきりで、どうやって暮らすんだろう、歳はいくつ? もう働き口は決まったのか、とか、いや、彼は働き口を探すつもりはないみたい、というと皆あきれ返る。お金を稼がなかったら、どうやって暮らすんだろう? 第一、子どもが育てられない、親はよくても子どもが可哀想だ、と。

 私には解せないことが多いが、これらの反応を、各人の人生観の一つのバロメーターとして面白く聞いている。 (続く)

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『みちしるべ』街を往く(其の一)**谷崎潤一郎記念館に入る**<2009.3. Vol.57>

2009年03月03日 | 街を往く

街を歩く(其の一) 谷崎潤一郎記念館に入る

藤井新造

 この街に住んで41年が過ぎた。この街でこんなに長く住むことになるとは思ってもみなかった。

 何時も職場があった尼崎か、尼崎に近い武庫川の両岸沿いのどこか、(そこではジョギングが可能と思い)に転居することばかりを考えた時期があった。そのことが出来なかった理由の一つは、友人たちと共同住宅を建て、そこで小さい共同保育所を運営しているからである。昨年にはこの小さい保育園を社会福祉法人化したので、ますます他市への転居ができそうにない。

 勿論、もう暫らくすると体力は一層衰え、まして財力もともなわないので当分この街に住むことになるのであろうか。そう思って今日も図書本館に行ってみると、入口で「谷崎潤一郎をめぐる女性たち~作品を彩ったモデルの実像」の看板があった。

 この記念館は1988年に開館しているので、丁度20年になる。一度も入館していないので見学することにした。谷崎の作品についてあまり読んでないが、仕事を辞めて時間もできたので「細雪」をじっくり読み直した。又、映画『細雪』の俳優が違うのを観ていた。そして今日は高峰秀子が主演している作品があるのを知った。(多分映画雑誌で読んでいたのだが忘れてしまっていた。)

 まあーそれはさておき、谷崎は高峰とか京マチ子、淡路恵子等の美人女優を贔屓にし交際していたらしい。又、日劇の春川ますみのダンスショーを見に行っている。

 私など高峰の出演している映画は何十本も観ているが、彼女のトークも聞かずに終わっている。羨ましい限りである。

 そして谷崎は再婚も何回かあり、これも私にとっては出来ないことなので半分羨ましい。

 展示室でみた文豪谷崎と私と、似ているところは彼には失礼だが酒好きである点か。そして筆跡は、上手と言う程のこともなくまあまあ普通の人という程であろう。私は字が下手なので他の人の筆跡が気になるタイプである。

 4年前の冬、友人と松山市に行き正岡子規記念館で夏目漱石の端正な字を見た時、この人は非常に生真面目で几帳面な人だなーと感心したことがあった。

 谷崎の直筆は、小学生が書くように大胆に筆をおろし字は太くおおらかな感じである。そして漱石と同じく天才と謳われた谷崎なので、小説・随筆は勿論のこと、短歌を作っても上手な人なのだ。短歌のなかにあきらかに恋心をおりこみ、受取人の女性にそれとすぐわかるものを送っているのも直情型の人間である谷崎らしいと思えた。

 その次に彼は京都へよく行って遊んでいる。これは私と共通する部分である。但し、彼は祇園の高級料亭「一力」でよく遊んでいるので、私など立呑みの部類の店から比較できないぜいたくなものを食べ、美しい舞妓さんに囲まれて酒を飲んでいる。それらの写真をみると、当然と言え段違いの上等な遊び方である。

 もう一つ話は全然別になるが、敗戦の年の夏、岡山に疎開していた谷崎のもとへ永井荷風が訪ねた記述があったのを想い出し、帰宅して荷風全集をとりだし読んでみた。この年に谷崎と荷風はよく書簡を交わしているのに、佐藤春夫との交友についての記述があれど、荷風について何も触れていない。そのことが少し符に落ちなかった。

 ついでに荷風の「断腸亭日乗」のなかで敗戦の年8月15日の日記が忘れがたいので引用したくなった。

 「……午後2時岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い休み休み三門の寓舎にかえる。S君夫婦、今正午ラヂヲの放送、日本戦争突然停止せし由を公表したりと言う、恰も好し、日暮染物屋の姿、鶏肉、ぶどう酒を持来る、休戦の祝宴を張り酔うて寝に就きぬ」とあり、奇人荷風がやっと空襲から解放され安眠できた様子がうかがえる。

 湯浅芳子が荷風について「荷風ぐらい徹底したエゴイストはいなかった。彼は自由を愛したといわれるが、それは自己の自由というもので、他人のことなぞ考えるひとではなかった」と痛烈な批判をし、そのことがあたっているのだが敗戦の日に「祝宴」とはいかにも荷風らしい。

 この年、10才の子供だった私は「敗戦」の意味が理解できず、何が何やらわからなかった。周囲の大人がおちつきがなくおろおろして、そして日本が戦争に敗けたことだけがわかった。荷風が「祝宴」と記した岡山の真向いの、海をはさんだ南の10kmの田舎の村で、これから先の社会の行く末について漠然たる不安な気持ちだけが先走っていたのを想い出す。

 それに比して、さすが荷風の記した「祝宴」の文句は何んと落着いていて座り心地のいい文字ではないか。

 東京の自宅。偏奇館が大空襲(3月19日)により炎上し、知人を頼って岡山まで落ちのびて一命をやっととりとめた者にとって、「祝宴」はまさしく彼にとってぴったの心境を物語っているようだ。

 話は谷崎から荷風とへ飛んだが、二人に共通していたのは「自己の自由を愛し、他人のことなぞ考える人」でなかったことであろうか。

 この谷崎記念館から10分程西に歩くと、芦屋川の右岸近くに高浜虚子記念館がある。機会を作り入館しようと考えている。

(‘08年11月のある日)

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『みちしるべ』園田西武庫線の整備問題(2)**<2009.3. Vol.57>

2009年03月02日 | 神崎敏則

園田西武庫線の整備問題(2)
水質を改善し、土壌の安全を保証するまでは、掘り返すな

みちと環境の会 神崎敏則

 園田西武庫線は、塚口にある三菱電機で途切れていますが、この三菱電機の地下をトンネルで結ぶ整備を兵庫県は07年12月に174億円で予算化しました。

 三菱電機のさらに東の藻川に、いまは橋がかかっていないのですが、こちらにも新たに橋を架けて大阪の内環状線に結ぶ予定です。

 僕は、この道路整備事業の必要性に疑問を感じます。また、安全性についても問題ありと断言します。

三菱電機への補償費が82億円

 この工事で三菱電機への補償費は、当初見積もり28億円から82億円に引き上げられました。どうしてそんなに補償費がかかるのでしょうか? 82億円の内訳をぜひ説明していただきたいものです。

クルマの通過が住環境を悪化

 園田西武庫線がつながる内環状線は豊中市を起点にして、江坂で国道423号線に、守口市で国道1号線にアクセスする4車線道路です。豊中市内の渋滞は極端に多くはありませんが、現在行き止まりになっている東園田や食満などの住宅地を、大型車をはじめとしたクルマが通過することになります。安全で環境の良い住宅地の雰囲気は一変するのではないでしょうか?

5分の迂回路で充分です

 実は、園田西武庫線としては途中が途切れていることになっていますが、同じ経路を県道606号西宮豊中線が重複しており、こちらは豊中から尼崎に入ると南に下り、聖トマス大学前を西に向かって通過し、尼崎池田線に合流して北上するという迂回路でつながっています。

 確かに直線的な道をつくれば、この部分だけで5分程度の時間短縮は可能かもしれません。しかし、そのために174億もの税金をつぎ込むべきなのでしょうか。

 5分程度の時間短縮というメリットよりも、住環境の悪化というデメリットのほうが大きいと考えます。

水質の改善と土壌の安全保証が最低条件

 今から10年前、三菱電機の敷地内の複数の井戸から有害物質であるトリクロロエチレンが高濃度で検出されました。

 この度そのデータの情報公開を請求し、文書で入手しました。

 尼崎市が行った測定によれば、00年2月7日測定では、0.03mg/ℓ以下の環境基準に対して最大5,333倍もの高濃度に達していました。最も新しいデータでも333倍です。発がん性が疑われる物質が環境基準の333倍もの高濃度であることに強い不安をおぼえます。まずは、水質が少なくとも環境基準以下になるまでは敷地内をトンネル化することに反対です。そしてさらに、この有害物質は氷山の一角にすぎない可能性があるのです。

 そもそも高濃度検出の発端は、「業界の自主検査」だそうです。電気製品に組み込まれている基盤などの洗浄にトリクロロエチレンが使用されていたと想像されます。しかし、電機工場の跡地を整備すると、重金属やPCBなどの有害物質が検出されたとの報道が後を絶ちません。これらの有害物質は測定すらされていません。少なくとも尼崎市公害対策課は把握していません。

 三菱電機の敷地内をトンネル化する前に、第1に、水質が少なくとも環境基準内になるように改善すること、第2に、土壌の安全を三菱電機が保証すること、この2点は最低条件だと考えます。

***************************************

トリクロロエチレン ※ 脱脂力が大きいため、半導体産業での洗浄用やクリーニング剤として1980年代頃までは広く用いられていた。しかし発癌性が指摘され、代替物質への移行が行われている。土壌汚染や地下水汚染を引き起こす原因ともなるため、各国で水質汚濁並びに土壌汚染に係る環境基準が定められている。

〈フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より〉

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『みちしるべ』ナノ粒子の人体への悪影響**<2009.3. Vol.57>

2009年03月01日 | 神崎敏則

『第34回道路公害反対運動全国交流集会』に参加して
ナノ粒子の人体への悪影響

みちと環境の会 神崎敏則

 『みちと環境の会』では、ほぼ年に6回程度の二酸化窒素測定活動を続けています。自動車排ガス問題を行政にまかせっきりにせずに、私たち住民の立場からしっかりとチェックすることが目的です。

 自動車排ガスには毒性の強い物質が複数あり、その代表的なものに、二酸化窒素とSPMがあげられます。SPM(Suspended Particulate Matter)とは、日本語では浮遊粒子状物質と言われ、粒の大きさを10μm(マイクロメートル:百万分の1mの単位、つまり10μmは0.01mm)以下のものと定義しています。ほこりなど粒が小さい物質ほど地面に落ちにくく大気中を漂う性質があります。逆に言うと、粒径が10μm(マイクロメートル)より大きなものは、大気中を浮遊することなく降沈しやすいのです。二酸化窒素とSPMとを比較すると、SPMの方が毒性が強いと言われています。SPMとはそれほど危険な物質なのです。

 ところでSPMには、排ガスなどの人為的な物質だけではなく、花粉や、土ぼこりなど自然由来のものも含まれます。欧米では、その自然由来の物質を含まない数値に着目して、PM2.5(2.5μm(マイクロメートル)の環境基準を設けています。PM2.5の方が、排ガスなどの人為的な物質により限定しやすく、しかも粒径をSPMの1/4以下に定義している物質なので、肺の奥まで入りやすく健康への影響が大きいと考えられているのです。PM2.5の環境基準が設置されていない日本の規制は、残念ながら緩いと言わざるを得ません。ここまでは、みなさんもよくご存じのことと思います。

 さて、今回『道路公害反対運動全国交流集会』に参加して、島田章則先生(鳥取大学農学部獣医病理学教室)の記念講演で初めて知ったことがあまりにも衝撃的だったので、以下報告します。

最新ディーゼル車はナノ粒子を大量排出

 人間の体はさまざまな防御システムを備え持っています。大気のホコリなどは鼻孔の粘液がとらえ、鼻孔を通り抜けた異物は気道(気管支)の粘液がとらえ、体外に排出します。肺に入ってからも繊毛運動によって体外に押し出します。それを越えて入ってきた微細異物は白血球の一種(マクロファージ)が捕食して排出します。

 さて、自動車排ガスの段階的な規制強化にともなって、規制に適合させるために二つの方法が取られました。一つは、排ガスを自動車が排出する直前にDPFと呼ばれる高性能のフィルターを取り付けて、SPMの中でも比較的大きな物質を除去する方法です。もう一つは、燃料を高圧噴射することで燃料(軽油)の粒子を超微細粒子にして燃焼効率を高めることにより、排ガス中のSPMの濃度をおさえるのです。このシステムをコモンレール・エンジンと呼びます。

 この二つの方法によって、大気中のSPM濃度は改善傾向にあります。ここまでは、めでたしめでたしなのですが、実は大問題が潜伏しているのです。

 ディーゼル排ガスの最新適合車はすべて、燃料を高圧噴射するシステム(コモンレール・エンジン)を取り付けています。これにより確かにSPMの濃度を下げることはできるのですが、SPMの中でも超微細粒子(ナノ粒子、1nm=1/1000μm)はケタ違いに増えるのです。そしてナノ粒子は、セラミック構造のDPFではその多くが素通りして大気に放出されてしまいます。人の目には見えないため、排気口から排出されるガスも昔のような真っ黒な黒煙は出ません。そのため一見、排ガスが大幅に改善されたように感じるのですが、実は、学者・研究者が懸念しているナノサイズの粒子状物質をこれまでの黒煙に代わって大量放出しているのです。

 島田章則先生は長年にわたり死亡した犬を解剖してきました。犬の肺は排ガスで汚れ、しかも肺胞にも沈着していました。電子顕微鏡でとらえた、肺胞部分の微細粒子が血管壁を通過して体内の血管内に侵入している写真はグロテスクですが、問題の深刻さを表しています。ナノ粒子が、肺胞に沈着し毛細血管を通過して全身循環し、脳に到達して脳障害を起こすとか、胎児に影響を及ぼすと報告する研究を証明しているのです。

 SPMの濃度を低減させることに成功した技術には、健康被害をより大きくする危険性が潜伏していることを広めたいと強く思いました。

二酸化窒素測定活動の意義も大きい

 さて、日本ではPM2.5の環境基準がなく、測定データもほとんどありません。しかし、PM2.5と二酸化窒素とには(正の)相関関係があるとのことでしたから、二酸化窒素濃度の高い地点は、PM2.5も高いことになります。二酸化窒素測定活動の意義もより大きくなります。

 健康被害をより大きくする動きをストップさせるためにも、多くの市民の監視の目が必要です。

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