『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(63)**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月08日 | 横断車道

東日本大震災の被害の大きさの前に、自然の猛威の巨大さを、改めて思い知らされた。そして、進化した筈の人の社会は、ますます後退する局面に立たされていることを実感させられた▼人の作った筈の金が、巨大化して資本となり、マネーとなると、人の心をコントロールするようになる。儲け本位のために、『安全神話』を創り上げたが、福島原発で自然の警告を受けた。自然の警告より、儲けが肝心の『懲りない面々』は、『想定外』で逃れようとしている。原子炉一基は1兆円の商機。福島原発収束は10年単位の数兆円の商売なのだ▼阪神淡路大震災は16年前だ。この教訓が活かされたのか? まったく活かされていない事に愕然とする。これも金の為せる、人心の迷いなのだろう。長田区で起った大火は、車社会の反作用の典型である。便利に思うマイカーは、日頃は90%ガレージに眠っている。災害の際に、一斉に公道に出れば、渋滞で機能しないのは、冷静になれば当たり前だ▼神戸の街は六甲山脈と、瀬戸内海に挟まれた細長い街だ。河川は急峻で、その殆どが暗渠にされている。そのことが悲劇を生んだ。海には無尽蔵の水があった。僅か2kmの送水ができなかった。高速道路から一般道の長田区に乱入したマイカーに、ホースは100%破裂させられた。▼お江戸でさえ、大火に大八車を持ち出した者は、処刑されたという。震災時には車はキーをつけたまま、公道の左に寄せて放棄する。これが鉄則である。高価な車も、人の命には代えがたいのである。ガレージにある車は、使用厳禁なのだ▼朝日新聞に教訓というには、余りにも情けない記事が出た。津波避難に、人々は一斉に車に乗ったという。大渋滞が発生し、殆どの人が津波にのまれたという。警察官がドアを叩いて、車を放置して逃げるように言っても、従った人は少なかったとのことである。冷静さを欠いたのか、命より車が大事だったのか?▼防火訓練は、いざという時に効果があるものと聞く。震災時には、どんなにローンが残っていても、廃棄する必要がある。車を買う時には、そのことを徹底しなければ、人命は救えない。それが防災訓練の基本だ。そんなことを言っては、車は売れない。まして、人生の1%にも満たない時間のために、一生の稼ぎの数10%以上も注がなければならないマイカー。金儲けの為に、事実を完全に隠す必要があるのだ▼福島原発のダウンで、今夏はクーラーの自粛が言われている。が、クーラーの発熱は、コンプレッサーの駆動熱しか出さない。室内外の温度はいずれ相殺される。しかし、車は石油を燃やして、莫大な発熱をする。巨大ストーブを焚いているのだ。夏場の気温は、南の和歌山市よりも、北の大阪市の方が高いのだ。その大方の気温を、車による発熱が作っている。エアコン自粛より、マイカー自粛の方が格段に必要なことなのだが(コラムX)

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『みちしるべ』**事務局だより**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月07日 | 単独記事

事務局だより

「みちしるべ」バックナンバー在庫表
※  お入用の方は、事務局(藤井)までご連絡ください。

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『みちしるべ』斑猫独語(45)**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月06日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<切手収集という趣味があった>

 チケットショップ(金券ショップとも言う)、私が使っている二昔前の大辞林(1988年版)にこの語は無いが、広辞苑の最新版には有る。チケットショップは今ではざらで、社会的に認められた存在になっているのだ。そんなチケットショップで郵便切手が売られていることがある。数年前に発行された記念切手などが額面より安く売られているのだ。何十年前のことになるか、切手収集をしていた時のことを思うとこの安さは考えられないことなのだ。

 切手収集趣味の歴史は古く、私がそれを始めた頃には、趣味は切手収集です、という人はいっぱいいたし、有名人が趣味は切手収集です、と答えたりしていたのである。

 その頃、記念切手の発行日にはそれを買うため郵便局に行列が出来たりしたもので、私達子供は一枚か二枚ぐらいしか買えなかったが、投機対象としてシートごと買っている人達もいたのである。中学生の時、昼休みにたしかレスリングの国際試合を記念する切手を買いに行き、午後の授業に遅れてしかられたことがあった。自分で買えない時には母に頼んだりした。そうしないと、すぐ切手商のショウウインドウに額面を超えた値段で並んでしまうのである。その頃の記念切手にはそれだけ値打があったのだ。それが今額面を割る値段で売られている。なんでだろ。いろんなことが考えられるがとにかく切手に値打がなくなってしまったのだ。そんな切手など集めても仕方がない、今では切手収集という趣味の世界は少数派のものになってしまった。まあ、他に面白いものがいっぱいあるからしょうがないのかなあ。

 切手収集を勧める言葉に“切手で知る世界”というのがあった。私にはこの言葉はその通りに作用した。世界のことをいろいろ知ることが出来たし、覚えたのであった。

 例えば、アジア、アフリカの植民地のほとんどが独立したが、その前と後、宗主国と独立後の国名等を自然に覚えたし、セルビアやモンテネグロなどユーゴスラビア建国と解体にからんで聞いた国々のことも、それらの国の切手を持っていたので、少しは知っていた。博物学的興味をかきたてる切手もたくさんあったし、デザイン感覚を養うのに良いものも多くあった。私には楽しくあれこれ役にたった趣味であった。

 郵便切手とは郵便料金を払ったことを証明する証紙である。極論すれば料金が読める数字さえあればいいのである。実に郵便局でのメータースタンプがそうであるし、クロネコメール便もバーコードだけである。だが、最初の切手、英国で発行されたものに国王の肖像が入ったのである。こんな始まりがあったものだから、数字だけというものの方が少数派、特殊なものになり、切手は様々な図柄を持つようになり、収集の対象になったのである。そして今では濫発ではないかと思われるくらい次々と切手が出る。濫発では面白さに欠ける。なぜこの切手が発行されたのか、その意味すらはっきりしないものまであるのだ。

 「そんな事分からんのか。儲けるためやないか、小さな切手一枚刷ってなんぼやおもてんねん、その一枚が80円や120円で売れるのだ、儲かるやろ」人々はそんな心を見抜いたのである。そんな物に見向きもしなくなったのだ。ここに切手収集趣味が下火になった原因の一つがある、と私は確信しているのだ。

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『みちしるべ』街を往く(其の七)**県立美術館でショパンの演奏を聞いて**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月04日 | 街を往く

街を往く(其の七) 県立美術館でショパンの演奏を聞いて

犬も歩けば棒にあたる

藤井新造

 映画が好きな私は、県立美術館(ミュージアムホール)へ年何回かは足を運ぶ。この会館でNPO神戸100年映画祭主催の映画作品が上映されるからである。

 古い話になるが、昨年9月に井上麻紀トークとコンサートがあった。昨年はショパン生誕200年で、彼の曲目の演奏会ポスターを街のなかでよくみかけた。私はたまたま映画を見に行った時、同館のアトリエ室で井上さんのコンサートがあるのを知り、時間があったもので出かけて行った。

 彼女の2時間にわたるショパンの何曲かの演奏とトークに、無料とはいえ会場に人が入りきれず廊下にまで人があふれ盛況であった。ピアノ演奏は、ショパンの有名な短い曲で「革命」「ポロネーズ」「マズルカ」など久しぶりに聞いた。彼女はワルシャワの音楽学校に入学し、その期間を入れて約7年間滞在し、勉強していた日々の想い出を、ワルシャワの中央公園のスライド映像をバックにして語っていた。特にワルシャワの中央公園は、ポーランド滞在中、この公園の魅力にとりつかれよく散歩したとつけ加えていた。

 私もいくつかの国を訪れ、有名な公園を散歩した経験があるが、ワルシャワの公園についてはどうしてか印象が強く残っており、今でも記憶として鮮明に浮かんでくる部分がある。私が訪れたのは、04年6月であった。約7年前である。井上さんがスライドで号していた公園が、ショパンの銅像があった「ワジェンスキ公園」か、もう一つの有名な無名戦士の墓がある「サヌキ公園」か、定かに想い出せず家に帰ってアルバムをとりだして見たが、やはり特定することができなかった。

 私が歩いた公園は、ポプラの樹のような大木が空に向かって真直ぐにのびていて、高さは20~30mにも見えた。とにかく、高くそびえている感じであった。それが適当な間隔に整然と植わっている。西欧の公園はどこでもそうであるが、若いカップルが仲むつまじくベンチに座ってじゃれあっているかと思えば、一方では年配のカップルがゆっくりした歩調で散策していた。そこには静ひつな空気をかもしだす雰囲気が漂い、歩いていても気持ちがよかった。

 話が飛ぶが、私のポーランド旅行は映画の『灰とダイヤモンド』『地下水道』(ともにアイジェ・ワイダ監督)を見て、その時から何時か、彼の地へ行きたいとの思いが、50年以上たってやっと実現したものであった。

 1944年8月1日、ドイツに制圧されていたワルシャワを自力で解放しようと市民が一斉に蜂起し、約20万人が亡くなった。その人たちを弔って建てられたワルシャワ蜂起記念碑を見ておきたかった。それと、アウシュヴッツ強制収容所跡に行って自分の眼で確かめたいものがあった。そして死者に対し、ささやかな私なりの祈りをしておきたかった。ワルシャワ蜂起記念碑もアウシュヴッツ収容所棟も、今は外国からこの国を旅行する人が訪れる定番の観光名所になっているようだ。

 話をもとに戻すと、井上さんが弾いたショパンの曲目のなかで想い出したのが『灰とダイヤモンド』の映画の最終場面に近いシーンである。ドイツ占領から解放された新生ポーランドを祝福する宴が、ワルシャワ市長のもとに開催される。この祝賀会は、軍、党の幹部によってくりひろげられるが、宴会後も何十人かは翌朝薄陽が射すまで踊り続ける。この場面のダンスのため演奏された曲目が、この日彼女が弾いた「ポロネーズ」であった。

 50年前かの我青春のフラッシュバックである。学生時代、教室へ足を運ばず、日夜アルバイトにあけくれ、新劇、映画、コンサートばかりの行事を追いかけていた。今は、当時勉強しなかったことに悔いが残るが、私の青春がそれらであった。それはそれとして、ポーランド旅行のなかでショパンの生家を訪れた。ショパンが若くしてポーランドを離れパリーへ行き一度も祖国に帰らなかったのは有名な話であるが、まさか私が彼の生家を訪れる機会があろうとは、それも又予想だにしたことがなかったものである。

 彼が死に際し、自分の心臓はポーランドに埋めて欲しいとの願いにより、今ではワルシャワの聖十字架教会内にある所へ、訪れられたこともそうである。

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『みちしるべ』**災害時における公園の重要性について**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月03日 | 川西自然教室

災害時における公園の重要性について

川西自然教室 田中 廉

 3月11日は夜明けまでテレビに釘付けであった。津波のすさまじさには声も出なかった。翌日も津波の被害と原発事故で、一日中TVはつけっぱなしであった。大震災より1ケ月が過ぎようとしているのに、いまだ行方不明者が1万人以上である。亡くなった多くの人たちのご冥福と、肉親、友人を失った人々、傷ついた人たちの苦しみが癒されることを祈ります。いまだ肉親の行方が分からない人たちの心境を思うと胸がつぶれる思いである。原発事故で故郷を離れなければならなくなった人たちの悔しさと不安はいかばかりであろうか。又、災害援助に携わる多くの人たち、原発事故で危険を知りつつ被害軽減のために努力されている現場の人々に深く感謝をしたい。多くの人々がいまだ体育館、公民館、教室などで避難所生活を送っている。避難所はプライバシ-が守られにくいこと、占有面積が少ないこと、同じ空間で生活するので風邪などが蔓延しやすいことなど問題点が多くあり、一刻も早く落ち着いた人間らしい生活ができる住宅に移ることが望まれる。

 町が再建されるまでには何年もかかる。多くの人が住みなれた町の近くの仮設住宅を望んでいると聞く。しかし、早急に、多くの仮設住宅を建設するには難しいようである。問題は三つ有る。第一に仮設住宅の必要数が圧倒的に足らないこと。第二に仮設住宅を建設する場所が非常に少ないこと。第三に膨大な廃材、ごみの捨て場が少ないことである。報道を見ているとまとまった面積の場所を確保するのは非常に難しい。広い面積の私有地を利用するのには何人もの地権者から承諾を得なくてはならず、時間とコストがかかる。まとまった面積の公的な場所があれば、もっと早く仮設住宅は建設され、被災者はより快適な生活を、町の再建はよりスムーズに進むだろう。東北地方の苦境を見るにつけ、公的な公園の大切さをつくづくと思う。

 今、兵庫県では仕分け作業により西武庫公園を尼崎に譲りたいと提案したそうだ。数年間は経費の半分は県が負担するという条件付であるが、尼崎は経費がかかるからと断ったという。これで県が譲渡を諦めて公園が存続すれば言うことは無いが、一番心配なのは民間に売却されることである。私有地になれば、特に建物が建てばこの場所を県、又は市が災害時に自由に使用することはできない。私は公園は市民の憩いの場であるだけでなく、災害時の避難場所、仮設住宅用地として、県民に貢献する非常に大切な場所だと思うので県が管理することを強く願う。面積7.2haはいざという時に非常に多くの仮設住宅が建設できる、不幸にして災害にあったとしても、かなり多くの人が仮設住宅に住むことができる。住んだ人の通勤に便利な場所にこれほど広い面積を持つ公園は、他の都市では中々見つからない私たちの大切な宝だと思う。維持経費が問題になるのであれば、管理棟は閉鎖し、緊急時の仮設住宅部材や、救命道具類の保管場所とするのはどうだろうか? 今回のような災害時に少しでも役に立つであろう。その場合、部屋は締め切っておくと、収納物が傷むので窓は蛇腹にして風通しを良くするなどの工夫が必要であろう。 また、樹木も面積が7.2Haと広い公園であれば多くの木はそのまま自然の樹形で育てればよく、芝生は管理が大変なので草地にして年数回の草刈だけで済ませる。極力管理に人手をかけないようにして人件費を減らすなどのスリム化を測りなんとしても公園を維持して欲しい。被災地の人々の苦労を思いながら、以上のようなことを考えた。

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『みちしるべ』斑猫独語(44)**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月02日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<言行一致>

 福島原発事故は「想定外」の津波による天災とする考え方に立った人もいたようだが、事故発生から一月もたち、何がどうなったのか、そこがはっきり知れて来るとさすがに「天災だった」と言う人は影を潜めたようだ。あれは人災だったのだ。原発は安全だ、心配ないと言って人々を安心させて造ったはずなのに安全ではなかったのだ。大きな津波が来るかもしれない、ということを気にもかけず、注意をおこたって来たことがこの災害をうんだのだから、これはもうはっきり人災なのだ。そして補償という言葉まで東電から出るようになったのである。

 それにしてもあの事故の始めの頃、テレビのニュース番組で原発や放射能について語っていた科学者たち、彼等のほとんどは平気な顔で大丈夫、大したことはない、と言っていたのではなかったか。あれは人を欺きおとしいれる犯罪だと私は憤慨していたのである。ある民放の番組に出ていた学者が「あの放射能ぐらいなら何も心配はいらないのだ」と座して言ったのをとらえて同じ番組に出ていた芸人が「先生それもっと大声で前で言いなはれ」と言ったのだが、番組はそれをさせることなく終った。私は腹が立ちTV局に「なぜあの先生にあれを言わせなかったのか」と抗議の電話をした。きれいなお姉さんと思う声の方が、はいはい、と聞いてくれた。それだけだった。NHKでも腹が立つことがあった。これもさる学者が半径30Km内なんてなんでもないと言うではないか。私はこれには電子メールを送った。その先生を半径30Km内で生活させその映像を映せ、それは説得力を持ったものになると。これをお姉さんが読んでくれたか、おじさんがよんでくれたか、分からず終いである。まあ当座のうっぷん晴らしにはなったけれど。

 人をあげつらいこうは言っても、私自身あまり大きなことは言えないと内心忸怩たるものがある。なぜなら、たった一行か二行の原発反対の署名をしたことで、私は反原発である、と思っておりながら、私の日常はこの福島原発事故が起きるまで原発の危険な存在について考えてもいなかったのと全く同じだったのである。これでは原発推進者とどこもちがわないのだ。ここに来て、私は何々に反対する、と言うことの重さ、真剣さ、を考え直さねばならないと肝に銘じたのである。

 山手幹線反対運動は私達の仲間が本当の反対を身をもって展開した貴重なものであった。私もかすかにかかわれたことを誇りに思うのである。これからは何事においても言行一致の行動をとるのが、自分に正直であり、健全な精神が健康な体を呼ぶのである。そしてそんな仲間たちと楽しく酒を呑みたいものだ。あ、禁酒節酒の誓いを破らねばならない、言行一致の難しさ目の前に現れたではないか。まだまだ笑われる姿がちらつくようで。

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『みちしるべ』福島原発事故は人災だ**<2011.3.&5. Vol.68>

2011年05月01日 | 神崎敏則

福島原発事故は人災だ

みちと環境の会 神崎敏則

設計寿命を無理やり延長

 東日本大震災をニュースで見る映像は驚くものばかりだった。自然の持つエネルギーの強さがこれほどまでに大きいものとは想像すらできなかった。これが僕自身の、そしておそらく一般市民の率直な感想だと思う。

 東電の責任者は福島原発の事故を「想定外だった」と繰り返した。しかし、私たちの想像を越える津波と、原発を運転する東電の想定する津波が同一レベルであってはならない。そもそも、原発の運転停止を求める裁判では、この地震や津波が焦点となり、それでも安全だと繰り返し主張してきたのが各電力会社なのだ。

 ネットで福島原発の耐用年数を検索すると、「福島第一原発1号機の40年超運転に反対し情報公開と県民説明会の開催を求める申入書」(http://hairoaction.com/?p=70)なる文書にヒットした。少し引用しよう。

 「貴社福島第一原発1号機は、3月26日に営業運転開始40年となり、当初の設計寿命を迎えます。(中略)貴社がどのような見通しで福島第一原発1号機の40年超運転を実施するのか、設計寿命を超えて運転することの合理性と安全性に対して、福島県民は大いに不安を感じています。事業者である貴社は、当初の設計寿命40年を超えて長期運転に入る事態を重く受け止めるべきです。(中略)この際、住民、県民に直接説明する場をつくり、設計寿命を超えて長期運転することの合理性と安全性の根拠を説明すべきです。住民、県民の合意もないまま40年超運転を強行することは、許されません。効率優先で稼働率アップのために老朽炉を長期運転で酷使することは、安全性を犠牲にするものです。」 この申し入れ日は今年2月23日になっている。

 別のホームページによれば、「東電は昨年3月、1号機は最長60年まで現状維持で使えるという技術評価書を国に提出。経産省の原子力安全・保安院が今年2月7日に、今後10年間の運転継続を認可したばかりだった」との経過に触れている。この技術評価書を国に提出した東電、そして運転継続を認可した原子力安全・保安院の責任は重い。原発の安全よりもコストを優先してきた延長線上に「設計寿命」を越えての運転がある。

設計段階でも重大な欠陥があった

 また、@niftyニュースによれば、福島第一原子力発電の設計をおこなったアメリカ・GEのブライデンバーさんが1975年から製造中止を訴え続けてきたことを詳述している。

 「福島第一原子力発電所の原子炉には重大な欠陥があった──爆発事故を起こした原子炉の設計にかかわった日米の元技術者がそろって証言を始めた。経済性を優先するあまりに小型に造ったため、冷却システムなどに余裕がなく、地震や大規模停電になると爆発しやすいという。今回の地震では、まさにその心配が現実になった可能性が高い。(中略)

 GEでマーク1の安全性を再評価する責任者だったブライデンバーさんは75年ごろ、炉内から冷却水が失われると圧力に耐えられる設計ではないことを知り、操業中の同型炉を停止させる是非の議論を始めた。

 当時、マーク1は米国で16基、福島第1原発を含め約10基が米国外で稼働中。上司は「(電力会社に)操業を続けさせなければGEの原子炉は売れなくなる」と議論を封印。ブライデンバーさんは76年、約24年間勤めたGEを退職した。

 ブライデンバーさんは退職直後、原子炉格納容器の上部が小さく、下部と結合する構造が脆弱で万一の事故の際には危険であることを米議会で証言。マーク1の設計上の問題は、米原子力規制委員会の専門家も指摘し、GEは弁を取り付けて原子炉内の減圧を可能にし、格納容器を下から支える構造物の強度も改善。GEによると、福島第1原発にも反映された。

 しかし福島第1原発の原子炉損傷の可能性が伝えられる今、ブライデンバーさんは『補強しても基本設計は同じ。水素爆発などで生じた力に耐えられる強度がなかった』とみる。また『東京電力が違法に安全を見落としたのではない』としながらも、『電気設備の一部を原子炉格納容器の地下に置くなど、複数の重大なミスも重なった』と分析した」そうだ。

 福島第1原発がベントなる非常時用の弁を取り付けていたことは不幸中の幸いであるが、水素爆発に耐えられる構造ではなく、また、水に浸かってはならない電気設備を原子炉格納容器の地下に置くことは、重大なミスだとブライデンバーさんは主張している。そして構造的な問題は他にもある。

「海依存」が弱点 冷却に構造的課題
 
 日経新聞・編集委員の滝順一氏によれば、「福島第1も、複数の緊急冷却装置や多数の非常用電源を備え、原子炉を多重的に守っていた。しかし、海にすべて依存する冷却システムという基本構造が損なわれると、たちまち機能不全に陥った。

 同原発の建設にかかわった専門家が「冷却塔があれば」と漏らしたという話を人づてに聞いた。仮定の話が許されるなら、福島第1の原子炉のいくつかを空冷にしていたら、事態は違ったかもしれない」と言う。

 日本の原発は冷却水を海水にしている。これにより、冷却水系のポンプ設備は海抜10㍍以内に設置しなくてはならない。10㍍よりも高い所にポンプを設置すると、どんなに能力の高いポンプでも海面から海水を吸い上げることはできない。極端なたとえ話だが、海中に大型の熱交換器を置いて冷却水を冷やす配管を密閉型にすれば冷却水ポンプを海抜30㍍や50㍍に設置しても循環できるが、これだと、海中の熱交換器が津波に持って行かれるので意味がない。ともかく、冷却システムを海に依存する限り、高さ10㍍以内にポンプ設備を設置するほかはない。高さ10㍍以上の津波には必然的に冷却水系統が損なわれるのだ。

 それではなぜ日本の冷却水系統は海水に依存したのか。
滝順一氏は「原子炉を効率的・経済的に冷やせる海を前に立地しながら、わざわざ巨大な冷却塔を建てる必要を、事業者も規制官庁も考えなかったに違いない」と断言する。

 冷却システムも安全よりもコストが優先されて設置されていたのだ。そして福島第1原発3号炉には更に問題がある。

ウラン型の炉心でプルトニウムを燃料に

 福島老朽原発を考える会(フクロウの会)のホームページによれば、「通常の原発はウランを燃料にすることを前提に作られています。そこに無理やりにプルトニウム燃料を入れて使うのがプルサーマルです。ウランとプルトニウムの特性の違いから、安全上のさまざまな問題が出てくることは、東京電力も認めています。異常が起きたときにそれを止めるための制御棒がはたらきにくくなったり、異常をさらに加速する『暴走』を起こしやすくなったりする、といった問題です。さらに、毒性が強いことから、放射能が放出するような事故の際には、被害はウラン燃料の何倍にもなります。

 国や電力会社はプルサーマルについて、ヨーロッパで十分な実績があるものであり、さらに国内での実験によって安全性が確認されていると宣伝しています。しかしその実験は、たった2体のしかも濃度が低いプルトニウム燃料を小型炉に入れただけのものです。240体の、濃度が高いプルトニウム燃料を入れる本格利用とはあまりに条件が違いすぎます。ヨーロッパの実績についても、東京電力の原発と同じ型であるBWR(沸騰水型原子炉)では、現在ドイツの2機の原発で使われているにすぎません。ヨーロッパでは再処理をやめプルトニウム利用から撤退しようという動きが続いています」と訴えています。

 プルトニウムはウランよりもはるかに危険な物質であること、いったん異常が起きると暴走を起こしやすいこと、世界的に安全性の確認がなされていない段階であること、等から問題が計りしれません。

 安全がこれほどに軽視されていいはずがありません。それでも政府や東電やマスコミのほとんどは、原発政策の転換を頑なに拒否しています。彼らに原発問題を任せるわけにはいきません。私たちがしっかりと声を上げていきましょう。

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