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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

2016年1月例会のご案内

2015年12月15日 | 月例会案内

阪神間道路問題ネットワーク
2016新年1月例会のご案内

2016年1月25日(月)13:30~15:30
西宮市立勤労会館 第4会議室(3F)

2月例会のご案内
2016年2月22日(月)13:30~15:30
西宮市立勤労会館 第4会議室(3F)

2015年も残すところ半月。何かと慌しい中ですが、新年1月例会のご案内です▼12月例会は、11月例会のご案内に掲載しましたが、独自にご案内するのを忘れていました。よって、「北部水源池問題連絡会」代表のNさんとS画伯、それに私の3人でした。参加者の少なかった10月例会で日程を決めたこともあって、「みちと環境の会」のHさんとYさん、それに「川西自然教室」会長のTさんも差支えでした▼ともあれ、折角バス出来たのでと、Nさんが呑物と軽食を買出してこられ、S画伯持参のワインも頂き、忘年会に▼1月例会は平日に設定してみました。結構忙しい人ばかりで、土日は差支えておられることが多く、平日でも可能という意見も多かったので、2月例会も含め、月曜日になっていますので、お間違えの無いようお願いします▼『みちしるべ』91号の印刷が遅れています。20日に予定していますので、今しばらくお待ち頂きますよう。92号の正月号も急ぎ、発行しなければなりませんが、まだ原稿がありません。いくつか予約を頂いていますが、まだまだ不足です▼さて、我がネットワークの会計年度は1月に始まります。91号の印刷代も酒井事務所に借金になりそうです。会費の納入もよろしくお願いします。団体によっては、会計年度が4月と言うところもあろうかと思います。とりあえずは、何人かの個人会員の方と、1~2団体の会費が頂ければ、92号までは支払えると思います。よろしくお願いします。お問合せは、『みちしるべ』表紙の事務局まで。(F)

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『みちしるべ』**横断車道(80)**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月05日 | 横断車道

横断車道―80―

パソコンでネットを見ていて、「子供達を責めないで」という歌と言うか、音楽付絶叫?があるのを知った。散々、子供をこき下ろし「私は子供が嫌いだ!」と叫ぶのである。これをどのように評価するかは論じないが。個人的には逆説だと思っている。ともかく子供に対して、厄介だと思う感覚が、世間に浸透しているのだと感じた▼実際の社会問題で、保育所や学校がうるさいという苦情が増えているという。近所の了解が得られず、保育所の土地確保が難しいという。元々あった学校周辺に、建売住宅開発があり、その住民が苦情を言うなど、我儘もいいところ▼明治から戦前にかけて、学校は設立に際して、地域住民が金と労力を提供したものらしい。その為、地域住民は学校に集い、何かと世話をしたとのこと。学校に苦情を言うものは、地域から叱られたという。今の学校は「地域に開かれた学校」といって、新設校の門も塀も設置しなかった。が、池田小学校事件で、慌ててフェンスを建てて警備員を置くこととなった▼「地域に開かれた」と言う意味が取り違えられている。地域住民に体育館を使わせ、ママさんコーラスに音楽室を開放するのが、地域との交流ではないはず。悪くはないが、政治屋的発想。職員室を校門の近くから、二階へ隔離する考え方。地域の人たちに協力を得る考えがない。シルバー人材に、登下校の見守りをお願いするのは良い事なのだが。学校も地域も閉塞している▼子供の話とは違うが、日本では風力発電に苦情が出る。ドイツでは全くないとのこと。それは農村の地域産業として立地しているからである。地域住民を主体として、みんなで協力しているか、単に企業利益でやっているかの違いだろう▼少子化対策大臣を置かなければならない日本で、「子供を大切に」が飾り言葉になっている。少子化対策は、若い世代の収入を増やすしかない。その反対の政策しかないのでは……。それにしても、子供を心から大切に思わない風潮は何なのか?▼孫が15人もいて、子供を見ると笑顔になる知人がいる。その影響か、小さい子供を見ると笑いかけてみたり、手を振る癖がついた。子供も、笑顔で対応してくれる。中高生にも、気軽に声をかけると、人懐っこい反応がある。今の世の中は、労働の密度が極端に高くなって、心の余裕が失われているような気がする。それに、経済生活も厳しい▼車は殺人凶器にもなる。S画伯などは、「私は安全運転で事故を起しません」と三回唱えないと、エンジンが掛らないようにしなければ、PL法違反だという。そんな車だが、段々と歩行者に配慮しない無謀運転が多くなっている。随分以前は、免許は一つのステータスで、ハンドルを握ったら高い意識があったように思う。社会が車対応型になって、渋滞する中で、社会性を失ってイライラ運転になっているのだと思う

(コラムX)

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『みちしるべ』**サイン・コサイン・タンジェント(斑猫独語67)**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月04日 | 斑猫独語

サイン・コサイン・タンジェント(斑猫独語67)

澤山輝彦

「女子に三角関数何になる」鹿児島県知事「口滑った」

 「伊藤祐一郎鹿児島県知事は8月27日の県総合教育会議で「高等教育で女子に(三角関数の)サイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるか」と発言したのだ。「女性委員に怒られるけど」と前置きした上で「サイン、コサイン、タンジェントを社会で使ったことがあるか女性に問うと10分の9は使ったことがないと答える」とも述べた。28日の定例記者会見で、発言について「自分自身も使ったことがないよねという意味。口が滑った」と述べた。以上新聞記事である。

 男性だって「サイン・コサイン・タンジェント」を社会で使ったことがあるか、と問われれば、それこそ10分の9は使ったことが無いと答えるだろう。要するに私たちが習ってきた数学は社会的な必要性のないもの、文化としての価値を持たないものになっているのだ。こうした実用からかけはなれたような数学だが、現代科学技術のためには必要欠くべからざるものであることは明らかである。非実用な物の文化的な価値を認めることが出来る我々である。数学も単なる技術への応用という実用面を超えた、文化として受け入れねばならないのである。まあこんな事を言ったのなら鹿児島県知事の発言は、三角関数にからめた数学教育への批判となり、別に問題はないのである。

 数学が不得意な者など、そうだそうだと相槌もうちたくなるし、笑い話にもなる。だが「女性委員に怒られるけど」という一言、この前置きが問題なのだ。日ごろの女性軽視蔑視差別心があふれ出てしまったのである。新聞記者はここをとらえ笑い話ではすまさなかったのである。政治家の先生達の口滑らしはもう日常的であり、何度もそんなことを見せてもらい、読ませていただいている。ある意味笑えるのだが、行政のトップに立つ者の口滑らしについては、政治家の先生達のようにはいかない。彼らは我々の身近におり、彼らに行政を託しているという感じがつよいのだ。だからこそ彼らの口滑らしを笑って済ませるということは出来ず強い反感を持つのである。

 使う、使わないにかかわらず、高等数学をおもしろくない物、文化としての価値を持たない物にしてしまったのは、やはり教える側に問題がある。数学はパズルのようなもので、解ければ本当に面白く楽しくもう一丁という気になるものだ。またその実用面は世の中の多方面に及んでいる。排気ガスの測定値を左右する装置など、やはり数学の応用があったのだろうな。数学の面白い実用の例などを示してまず興味を持たせ、そこから数式を使った本論に入る、このような教え方が教える側には少なかった、と私は思う。

 これは私が教えてもらった高等学校の数学教師を念頭においての話になるが。職業として日常、授業にそれを教えていくうえで、時間の制約もあれば、大学入試対策などもある。時間をかけてゆっくり、どうだわかるか、面白いだろうという所までは、したくても出来なかったのだろう。教育が文化を担う者をつくるという本意をはなれ、大学受験技術という、まさに小さな実用性にこだわり落ちてしまったからなのだ。そこで分からない者にはそのままなんとか単位は与え、卒業させるシステムが出来上がったのである。そんなシステムのおかげで、私は留年することもなく卒業できたのであるから、ありがたや、なのである。

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 非実用的な数学であってもそれは立派な文化として、価値ある物だと誰もが認めることが出来るようにする、そんな教育が期待される。サイン・コサインからこんな話になったが、憲法の解釈をその時々で平気で変える、そんなことを平気でやれる連中がいる。彼らには数学的に、理論整然と思考する能力が欠けているからで、そんな連中がいろんな掟をつくる。それも同胞をまもらない、同胞をきりすてる掟である。彼らにもう一度教育を受けさせる必要がある。物事の真理を見つめる、文化とは何かを認識することが出来る教育を受けさせる。彼らはそれが出来る人にならなくてはならないのだ。

 そんなことをされては今の政権はひっくりかえる。そんなことやらないよ。私たちは賢くなる必要はない、このままで結構。まして国民に賢くなられてはたまらない。教育など受けない人が増える方がやりやすいんだからな。逆奨学金、不就学奨励金を出し、愚民の大量生産をすればいいのだ。文系など切り捨て1000万分の1程度にして、必要な技術のための教育を受けさせておけばいい。いや従順なロボットを作ればいいのだ。これを作るだけの頭脳を確保すればいいのだ。

 こんな悪夢SF的な教育政策を持つ政権が出来るかもしれない。つい先ごろまで想像空想であったSF的発想を、現実に見ることができる時代である。あるいはこんなことが近未来におこるかもしれない。

 私たち人間は先人の残した様々な知恵の結晶を持っている。数学もその一つだ。時々そんな結晶を取り出し、触れ、眺め、あるいは溶かして飲むなどして、心を鍛えることが大事である、SFは夢、悪夢は不要、現実をまずしっかり見つめよう。

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『みちしるべ』**伊太利亜旅行より**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月03日 | 川西自然教室

伊太利亜旅行より

田中 廉

 10月27日より、4泊6日でバチカン国際音楽祭鑑賞の為にロ-マに滞在ということに。急に決まったので24日の「道路ネット」の例会に出られない旨、藤井さんにメ-ルしたところ、「イタリアの自動車事情など書いてください」との依頼。遅まきながら思い出しつつ書いています。

 アリタリア航空で成田からロ-マまで直行する予定でしたが、なんと8時間遅れとのことで、航空会社の手配で5時間ほど近くのホテルの部屋で休憩となりました。美味しい昼食も付き少し仮眠もでき、私としては面白い体験でした。ロ-マ着は27日夕方が28日の朝となり、結局3泊6日の旅となりました。

 ロ-マ市内は石畳の道が多く、私の様に年を取ってすり足気味の者は、気を付けないと足をひっかけそうになります。町中ではマンション・事務所に専用の駐車場は少なく、多くは路上駐車です。そのため小型車が多く、日本の軽自動車より小さい二人乗りのSmartという車が目につきました。この小ささを武器に路上駐車も、縦列でなく頭から駐車しているのをよく見かけました。一人乗りの車も2台見ました。これは更に小さく、何か人間魚雷の操舵室のような感じで、圧迫感があり乗りたいと思うような代物ではありませんでした。

 バスの中からわかる範囲で調べると、駐車中、走行中の日本車のシェアは10%弱で、韓国車は7~8%ほどでした(インターネットで調べると2014年の新車登録では日本車は9.0%、韓国車は5.0%)。海外に行くと、日本車と韓国車の普及率を知らず知らずのうちに数えています。概していうと、田舎では両国の車のシェアは低く、都会で多くなります。これは都会の方がコストパホ-マンス重視で、外国車に対する抵抗感が少ないのでしょう。また、発展途上国では韓国車の比率は高い傾向でした。これは単純に経済性でしょうか。

 何故、アジア車にこだわるかというと、西洋社会でどれ程「アジア」が受け入れられているのかに関心があるからです。私は米国資本の会社で長く働いていました。一つか二つ上ぐらいまでの上司は日本人ですが、その上はアメリカ人です。アメリカ人は概して明るく友好的です。個人的には好意の持てる人たちです。しかし、人種差別というか、白人の方が政治経済、文化面で優れているという意識は根強いものがあると思います。いわゆる『文明国』のほとんどは欧米諸国で、圧倒的な富と力を持っています。

 ノーベル賞受賞者も、最近日本人、中国人が多くなったとはいえ、80~90%は欧米人です。近代は欧米人が圧倒的に世界を支配してきました。国連でも常任理事国が強大な権利を持ち国際政治を支配しています。私たちが接する世界のニュ-スの発信源のほとんどは欧米です。このような現実に接していると、自然と欧米人=白人は、自分たちは有色人種より優れているのだと、意識下に刷り込まれてしまうのではないかと思います。

 1986年、中曽根首相が黒人、プエルトリコ、メキシカンに対する差別発言をし、米国の下院で非難決議が出される寸前まで行くという、大問題になったことがありました。その時、私は米国に滞在中でしたが、なんと馬鹿な発言をしたのかと思いました。白人、特にエリ-ト層にとって、人種差別発言は社会的地位を失うほどの失態です。米国では人種差別を克服するため、多大な努力をしています。ヘイトスピーチは論外で、人種差別には社会的に大きな制裁が加えられています。米国ではコマーシャル、パーティーなどでは、その中に何人か黒人、時にはアジア人が入っています。

 しかし、共和党の大統領候補であるトランプ氏が、人種差別発言を繰り返しているにもかかわらず、25%ほどの支持率があるということは、その差別意識が白人保守中間層に支持されてからだと分析されています。それほどに人種差別の根は深いのです。それほど強くなくても、「現実社会を見れば自分たち(欧米人)の方がうまくやっている」という意識は有るのだと思います。それを打破するにはどうするか。

 私たちの親の世代は、中国人や朝鮮人に対する差別意識、日本人の方が優れているのだという意識が強くありました。その意識は当時、経済的に日本の方が進んでいたという事実に、裏打ちされていたのではないかと思います。しかし、今ではどうしようもないレイシストを除いて、人種的に日本人の方が優れていると言わないし、思いもしないでしょう。それは経済的に両国の力が付き、日本と同じようになってきたからだと思います。

 事実が偏見をなくしたのです。欧米人の認識を変えさせるには、有色人種諸国、現時点では日本・中国・韓国・インドをはじめとするアジア諸国が力をつけ、彼らの目の前に現実として、「同等の能力を持つ」ということを示すことが大切だと思います。そうすれば、我々が変わってきたように、彼らの認識も徐々に変わって来るのではないかと思います。

 そういうわけで、中国・韓国・インドさらにはベトナムなどが力をつけ、その存在感を示すことは面白いと考え、期待しています。そのうちに中東、アフリカ、中南米の諸国も同じように、経済的・文化的にも力をつけ、差別をブッ飛ばすようになるでしょう。

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『みちしるべ』**街を往く(其の十七)**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月03日 | 街を往く

街を往く(其の十七)

藤井新造

八十八ヶ所廻りで有名になった我が村

 尼崎市の旧『みちと環境の会』を通じて、阪神間道路問題ネットワークの機関誌『みちしるべ』を受けとり読ましてもらってきた。何時頃からであったであろうか。多分、2000年頃(実際は2001年9月号 Vol.13から;編集子注)だと思うが自信はない。読むだけではなく、同姓の編集者の藤井さん(当時の編集長はS画伯;編集子注)より何か書けと言われ、時に投稿するハメになった。

 その前に旧『みちと環境の会』の集まりに加入していた。但し、会費納入会員であった。その時は、後に会長を務めた大橋さんによる強力な誘いと、熱心な勧誘によるもので、私からの主体的なかかわりの姿勢は薄かった。それ故、恥かしながら、その姿勢は終始消極的であった。勤務していた職場は休日出勤も多く、会の行事に参加するゆとりが心身ともになかった。それでも退職して若干の時間ができたが、少し経つと元の勤務先に、主として病気で通院する人達の送迎ボランティア団体があり、そこの活動を手伝うことになった。

 そして3年ばかり手伝い、その後に熟年者ユニオンに加入し僅かばかりの活動に参加している。もう10年以上にもなる。以上のように、不良会員であり続けた言い訳の材料はあるが、一貫して不良「会員」であることに間違いはない。それに、もう一つの言い訳もある。

共同住宅・保育所作りを目指して芦屋市へ

 居住が尼崎市でなく芦屋市であることも影響しているかも知れない。そもそも芦屋市に移住したのは、友人たちと共同住宅を建て保育所を作ることだった。共同住宅の立地条件として、大阪と神戸の中間地点で、各々の職場への通勤距離が便利な土地を探し、結果として芦屋市に決まった。その間、阪急の武庫之荘駅近辺の格好の土地もあったが、事情があり実現できなかった。

 個人的なことをいえば今の土地にこんなに長く住むとは思いも及ばなかった。子供たちの育児・通学が終れば、尼崎市かその近くに引っ越すつもりであったが、今日まで約48年間ずるずると住み続けている。

 この土地を選択したのは、各家庭に各々子供が誕生し、0才児を預ける保育所が必要になった。しかし、当時0才児を預かる施設は公私ともなく、わずかに宗教団体系の救貧政策(慈善)としての施設があるのみであった。それでは、自分達で共同住宅を建て保育所を作ろうと、共通する目標を持つ者が集まることになった。要約すると、保育所つきの共同住宅を目指したものだった。この土地に定住したのは、そのような必然性と偶然性(土地)によるものであった。

詳しくは樋口恵子さんの著作集にあり

 当時、芦屋市の人口は5万人弱。私の故郷の坂出市の人口とほぼ同じだったので、覚えやすく記憶にとどめやすかった。その人口が今や倍増し、10万人弱になった。人口倍増に貢献したのが、阪急神戸線以北の朝日ヶ丘町を中心にして、霊園一帯に拡張開発されたマンション。次から次へと無秩序に林立した結果によるものであった。

 乱開発の最たるものは開森橋(阪急芦屋川駅より六甲山の方へ100m)より北、六甲山登山口の渓谷沿いの高層住宅一群である。開森橋付近は、谷崎潤一郎の小説『細雪』の舞台として、又桜の名所としても有名である。それもあり、山手町を中心に地域住民による環境保全の運動が起り、行政の方でも「芦屋市都市景観条例」(平成21年3月)を制定せざるを得なかった。

 しかし、芦屋川下流からこれらの高層住宅を眺めれば、自然破壊の実態というか、その変容ぶりは明らかである。それのみならず海岸地帯も、神戸市の都市政策をまねて埋め立て、住宅地を造成した。遠からず起きるであろう大震災の時、押し寄せる津波被害対策は大丈夫だろうかと、他人事ならず心配する。

瀬戸大橋架橋、何時まで続くのか赤字道路

 さて、話を私の故郷の村の顛末に移そう。

 私が生まれた時の地名は、綾部郡大字松山村字大薮という地名である。薮林が多くあったのだろうか。この村は、南から神谷、高屋、青海、大薮と山沿いに北へのびて、4つのがあった。「青海」の地名は以前、ここでも書いたように、崇徳上皇の御陵がある。上皇を偲んで西行法師が参拝し、彼の有名な歌碑もあり、歌には「松山」との地名もみられる。しかし、この御陵より近くにある、四国88ヶ所巡りの札所の寺、白峰寺(81番)、根来寺(82番)の方が有名である。御陵に参拝する人は殆どいないが、札所巡りの人は後を絶たない程いると言う。

 それ故、「青梅」という名は古くから開けた村落として形成されていたのであろう。村落の東南には小高い山があり、少し厚かましいと思える通称五色連峰と言う山々がある。海岸沿いには、これも又珍しく塩田があり、何十㎞も西へ延びていた。幼少より小高い山の中腹で働いて、みかん畑の農作業を手伝っていた私にとって、塩田で働く人は蟻の如く動き廻っているようにみえた。その塩田産業も、海水より直接塩を製造できる機械の技術が開発され、塩田は不要になり、土地は田・畑に再成された。

 この時と共に、昭和の大合併により松山村は坂出市に吸収合併され、村名は消えた。この市は、周辺の町村の人口を吸収したのみならず、塩飽(しわく)諸島の瀬居島・沙弥(しゃみ)島海岸を埋め立て、陸続きにして準工業地帯を作った。そして当然の如く、二島の住民の反対運動を弾圧して、漁業権を放棄させた。二つの島の名前も、また消えてしまった。

 1988年には、児島(岡山県)と坂出市の間に瀬戸大橋架橋が完成したが、この一帯の自然風景は激変もいいところである。開通したこの大橋は赤字路線としても有名になった。海水浴が出来た塩田の外側の海岸線、僅かの砂浜も今はなく、コンクリートばかりが目立って味気ない風景になった。

 昨年の春、四国山脈の近くに住む従弟に会った時、「農業をする人の高齢化がはげしく、都会では定年退職者の65才の人が青年部ですよ。」と苦笑しながら語っていた。そして、畑の近辺は猪と猿ばかり増えて困っていると言う。最近の新聞の短歌壇に次の一句が載っていた。

犬も猿も雉もゐる村鬼退治する若者の一人もをらぬ  木村桂子

亥年の私は苦笑せずにはおられなかったが、

亥の子餅亥歳の母に参らしぬ 鈴木しげを

の俳句もあり安心した。(亥の子は陰暦10月の最初の亥の日の行事。明日【11月18日】が其の亥の子だが、収穫を祝い、子孫繁栄を願う。坪内稔典 著)

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『みちしるべ』**父母の残した鴎だより!!**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月01日 | 山川泰宏

父母の残した鴎だより!!

2015(平成27)年9月3日

山川 泰宏

 昭和40~50年代の冬期、北海道沿岸部の漁業従事者や東北地方の農村部の人々は、関東方面に出稼ぎ(季節労務者)として、建設現場等に長期間、故郷から出ていました。東京オリンピックを控えた建設ラッシュ。影の功労者であったことを忘れないで下さい。昭和50年度、季節労働者の出稼ぎが終焉し繁栄された街が出来たのです。

 正月3ヶ日を故郷で過ごし、青森発上野駅行きの夜行急行列車は、出稼ぎや学生の群れが堅い座席にひしめいて座っています。それぞれが、故郷に家族を残し冬季の厳しい日々を案じながら、日々の糧の為に建設現場へ出かけていました。私も昭和33年から36年は東京の大学へ、青函連絡船と急行列車での函館から上野駅まで、懐かしい学割を使用した両親の住む故郷からの望郷の鉄道の旅でした。

 その時代、私の心の中に残る汽車の中の出来事の一つ。出稼ぎに向かう人々との交わりでした。東京に向かう車中、出稼ぎの人たちが“お母あー”の自慢料理を車内に持ち込み、数ヶ月味わうことのできない故郷の食べ物。素朴で無愛想な中に見せる人懐かしさに、見ず知らずの人との交流が繰り広げられたのです。時折、東北の農村部の人たちが一升瓶に入れて持ち込んだ、どぶろくの美味しさ。知らず知らずのうちに腰を抜かすほど酔い、今では遠い過去の話になります。

 一方、北海道茅部郡南茅部町古部の1月から6月頃まで、若者が出稼ぎに出かけた後の、地元に残る人や子供たちの交流の文集が発行されていました。その『鴎だより』に掲載された、私の父の文章を以下に記します。

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【鴎だより】第45号 昭和50年6月10日発行(最終号)

古部出稼援護組合

驚き!ももの木・サンショの木
 ローソクホッケキロ5円!!

出稼援護組合古部支部長 山川善司
函館中部高校32期(昭和5年卒)
[2000年1月14日逝去 享年91歳]

 出稼ぎして働いている皆様にとっては、月日の流れは遅々と感ぜられたでしょうか。留守を預かっている私達(特に私のように老人の部類に入ってる者)には全く早く思われ、かもめ便りも最後の月になってしまいました。

 たびたびお知らせしているように、今年は大雪に見舞われたので、草木はいつになったら萌え出るのかと心配しておりましたが、やはり季節が来ると、様々な山菜が食卓を賑わしてくれました。また、桜も気をもませず、例年の通り花(山桜)が咲きました。ただ、今年は桜が満開だと思ったとたん、強風にやられ、アットいうまに無残に散ってしまい、花見をしたのかどうか、わからぬ状態でした。今は全山きれいな新緑におおわれており、その中に紅の山つつじが美しく初夏の訪れを思わせています。

 婦人部と老人クラブが、それぞれ日本一といわれている青森の古牧温泉に旅行をして、今までの疲れを流し、大変楽しかったと申しております。古部の母ちゃんたちは働き者で、ちょっとの間も惜しんで働き者です。先日もアスパラの働きに出た人がいます。また五月初旬から工事が始まった古部漁港の現場にも、4~5名のお母ちゃんが元気に働いております。

 さて、漁の様子についてお知らせしなければなりません。

 今年のテンテン(鱒の一本釣り)はあまり良い漁がなかったのですが漁場の網(定置網)、特に囲(屋号=カクイ漁業)さんの定置網が建ってから、マスが獲れだし、しばらくぶりでラシャマスの姿も見え、毎日が大漁でした。網起こしのたびに相当の漁獲があり、囲漁業部の漁は木直(キナオシ)の全定置網の2倍以上の漁獲量の成績を上げています。

 マスの他にホッケも獲れたし、毎日何百箱という水揚げでした。でも最初のうちはホッケの値もよかったのですが、大漁ビンボーの名のとおり、最後にはキロ5円まで値下がりし本当にがっかりデス。それでも獲れないより、獲れたほうが活気があっていいので張り切って頑張りました。

 ただの5円という小型ホッケ(通称=ローソクホッケ)の漁獲が薄くなってきたら、囲(カクイ)の小網にマグロが7尾(全部で800キロ)入り、その翌日は大きい定置網で同じくマグロ7本(平均214キロ)の漁獲があり、久しぶりの大漁旗をなびかせ古部漁港は活気づきました。今のところホッケは薄くなっているが、モグリがありますので今後が楽しみです。

 囲漁場は現在、木直管内で一番の漁獲量なのでこれからもなんとか大漁が続き、今年こそ水揚げ億の声を聞きたいものと、強く念願しております。特に今年は前記のようにめずらしく大型のマグロ揚がりましたので何か幸先が良いように思えます。(近年この海域は大間のマグロ、戸井のマグロの漁場=平成年代) 又キ(屋号)齋藤漁場も新しく岡(陸地より)のほうに、ミニ定置網を建てており、又キ・ヤマ三(屋号)浜田漁場ともどもホッケ、モグリ等々相当の漁獲を挙げております。

 皆さん、内地はかなり暑いでしょう。でも今年は時々寒い日が来るようです。風邪は万病の元と申しますから、身体には充分気を付けて働いてください。保育所の子どもたちも毎日元気に通っていますからお母さん、お父さんご安心ください。帰郷時期が近いですから油断しないで働きになり、元気な顔でのお帰りをまっています。

追伸:北海道人(道産子)は津軽海峡から北は外地、津軽海峡から南(本州)を内地と呼びます。屯田兵の厳しい開拓時代を彷彿させているのかもしれません(私の勝手な解釈)

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『みちしるべ』**青函連絡船と青函トンネル**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月01日 | 山川泰宏

青函連絡船と青函トンネル

2004年9月 山川 泰宏(西宮在住)

 私は当時、函館中部高校1年に在学中でした。洞爺丸台風で函館市立中央中学校の3年の担任恩師(田中幸之丞先生)が洞爺丸に乗船していて亡くなりました。あの時以来、我々の中学校の同窓会は永遠に訪れなくなりました。

 そして、あの時、函館の町で、ひそかにささやかれた言葉がありました。津軽海峡のイカは多くの犠牲者の遺体を食べているので、イカ刺しは食べれないんでない……と。

 青函貨物連絡船の乗務員の多くの犠牲者は津軽海峡の藻くずとなり、海の屍となった悲しみの物語から五十年の歳月が過ぎていました。

 以下、函館新聞(早坂直美記者)の記事。文中敬称略、年齢は当時のもの。

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洞爺丸台風から半世紀・五十年目を迎えて

 北海道道南の災害史上、忘れることのできない洞爺丸台風から半世紀を迎える。海難事故としては、氷山に衝突して沈没したイギリスの豪華客船・タイタニック号に次ぐ、世界第二の大惨事。

その日

 出港わずか二十分後大しけ。「木の葉のように揺れ、今まで体験したことのない大時化でした」――。二等航海士の山田友二は(29)は、当時の船の様子をこう表現する。

 1954(昭和29)年9月26日。台風15号の動向をうかがっていた青函連絡船「洞爺丸」は予定より4時間遅れの午後6時39分、青森へ向けて函館の桟橋を出港した。海上の状況が急変したのは、20分後。強い風と波が船を襲った。洞爺丸は,続航中止を決め、午後7時1分、函館港外に碇を下ろし、しけが収まるのを待った。

 山田はこの時、船内のブリッジにいた。激しい横揺れと縦揺れに加え、船は錨を中心に振り子のように右へ左へと180度近く揺さぶられた。「何かにつかまっていなければ立っていられなかった」。台風15号はこの時、北海道南西海上でさらに発達を続ける一方、進行速度を落としていた。道南一帯では5時間あまり暴風雨が続いた。

 洞爺丸は七重浜へと押し流され、沖合に座礁。「砂浜に乗り上げたからもう大丈夫」。ブリッジ内の船員誰もがこう思った直後、船体は急激に傾き、午後10時43分、転覆―――。船がぐぐっと右へ傾斜した時、山田は船体左の窓枠につかまった。船が横転した際、いち早くブリッジの外に出ることができたが、船外は荒れ狂う暗黒の海。すぐさま波に攫われ、海に投げ出された。

 激しい波が次から次へと襲いかかる。海水をガブガブ飲み、頭はパニック状態、自力ではどうすることもできず、波にもまれながらも奇跡的に七重浜に打ち上げられた。小さな明かりを頼りに暗い砂浜を歩き、民家に助けを求めた。生存者や遺体が続々、この浜へ打ち上げられたのは、この直後だった。「浜は真っ暗闇で状況はよく分からなかった。どうも自分が最初に打ち上げられたようでした。最後の力を振り絞り、民家に助けを求めました」と、山田は振り返る。

 洞爺丸の乗員・乗客1334人のうち、1175人が亡くなった。洞爺丸のほか、青函貨物船の第11青函丸、日高丸、北見丸、十勝丸も函館港内で沈没。のちに「洞爺丸台風」と呼ばれる台風15号は、船5隻の乗員・乗客1430人もの命を奪った。

翌日 

海辺に転がる死体の山

 洞爺丸転覆後、上磯町の七重浜には遺体が続々と打ち上げられた。泣き叫ぶ者、悲痛な表情で海を見つめる者、黙って手を合わせる者……。多くの遺族が浜につめかけた。「兄さん、いたの!洞爺丸が大変ですよ」斬波正夫(29)は9月27日早朝、近所の人にたたき起こされた。前日昼まで、無線通信士として洞爺丸に乗船、七重浜にある国鉄宿舎で寝ていた。

 斬波はすぐさま、浜へと走った。海辺には、ゴロゴロと死体が転がっている。「大変なことになった……」。全身に震えが走った。沖合いには、洞爺丸が無残な姿で横たわっていた。海上では潜水夫が船内から遺体を引き揚げていた。斬波は遺体収容作業に加わり、運ばれてくる遺体を見て、「これは○○さん」と係の人に教える役を努めた。「悲しみにくれる暇などなかった」。

 新聞各紙は連日、一面トップ扱いで事故の惨事を伝えた。「夫が私を呼ぶ夢をみました」「家で26日の夜、障子にサチ子の影がうつったきがしました、そのとき死んだのですね」「子供のことを考えると本当にわたくしたちも夫についていきたくなります」。10月2日の函館新聞(当時)には、肉親を亡くした遺族の心の叫びが記されている。

第十一青函丸も沈没

 吉田幸(36)のもとに青函貨物船第十一青函丸沈没の報が入ったのは、27日朝のことだった。夫の虎夫(44)が乗船していた。最初は「何が何だか分からなかった」が、とにかく七重浜に向った。第十一青函丸には、乗員・乗客266人がいたが、全員が帰らぬ人となった。遺体が発見されず「行方不明」とされた人も多かった。「随分探したけど見つからなかった。最初はどこかで生きていると思っていましたが、11月には葬式を出しました」。

 吉田のもとには、4人の子供が残った。末っ子はまだ小学校1年生。無我夢中で子供たちを育ててきたが、9月26日に慰霊碑前に足を運ぶことは欠かさなかった。どんなに悔やんでも悲しんでも夫は戻ってこない。「二度と事故が起きないように」。吉田はこの半世紀願い続けている。

 日本中を震撼させた洞爺丸台風のあと、青函トンネル建設の話がにわかに活気付いた。事故から34年後の1988年、青函トンネルが開通し、青函連絡船は歴史に幕を閉じた。事故の教訓から、気象予報や造船などの技術は進歩を遂げた。だが、たとえ津軽海峡の主役が代わっても、半世紀もの時が経過しても、事故の悲しみは癒えることがない。

水底に貝がら鳴り
 水底に貝がらふるえ
  波の日元気に海峡を渡り
   遂にかえらない
    幾たりかの友だち
 潮流に貝がら流れ
  潮流に貝がら叫び
   暗黒の水底からじっと
    故里を見守る数多くの瞳
  海底から貝がらうもれ
   海底に貝がらむせび
    あヽこれはそも
     唯人の骨片であろうか

北見丸事務掛として遭難した 故 亀谷利博氏の遺稿詩

 

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