砂場さんを偲んで
代表世話人 大橋 昭
昨夏の異常な猛暑のさなか、奥様から砂場さんの体調がすぐれないとお聞きしていましたので、そのうちに一度お伺いしなければと、気になりつつもやっと実現したのは暑さも落ち着きかけた11月中旬ごろでした。その日は幸い体調も良いと、ベッドから起きて来られ久ぶりにしばらく話し込んでしまいました。早速「みちと環境の会」の運営委員会で第10回の定期総会が12月7日に決まったことをお知らせしたところ「今度の総会には是非行きたいのだが」と言われたので、無理のないようにご検討下さいと申し上げ、ついでに「砂場さんもうすぐ正月ですね。それまで元気にしていてくださいよ。地域の仲間が集りたいと言っていますから、また、大いに賑やかにやりましょう。楽しみにしていてくださいよ」と、つい調子に乗ってしまい申し上げたところ、いつものように「よっしゃ」と言われうんうんとうなずいておられたお姿が今も目に焼きついています。
年が明けた1月4日、体調を崩され関西労災病院に入院されたことを知り心配しておりましたところ、1月7日夜に至り容態の急変を聞き驚き急遽病室へ駆けつけました。病床にある砂場さんの、その余りの変わりように一瞬、言葉を失ってしまいました。苦しい呼吸を続けながらも、最後の力を振り絞って必死に病魔と闘う砂場さんに奥さんやご親戚の方々の懸命の励ましと、急を聞いて病室に駆けつけた地域の大勢の仲間たちの声に、砂場さんは生への力一杯の執念を表し応えてくれました。しかし天は無情でした。1月7日午後10時19分薬石の効無く遂に、84歳のお誕生日の目前にあの元気な砂場さんが、こんなに早く私たちと永久の別れをお告げになろうとは…今でも信じられません。
想えば砂場さんが尼崎に来られてからもう25年の歳月が経過したのですね。最初お目にかかったのは確か1986年秋、大阪の市岡にある毛沢東思想学院主催の「社会問題研究会」でした。当時、鉄鋼会社の現場労働者として働いていた私のところに「鉄鋼合理化と職場の状態と労務管理」をテーマにした職場報告をとの依頼が舞い込み、非力を省みず拙い報告をさせて頂いたことや「大阪哲学学校」でのこともありました。「社会問題研究会」のときでしたか、報告も終わりホッとしている私のところに、それまで全く一面識もなかった砂場さんが来られ、「あなたの今の報告は良かったよ」と、お声を掛けて頂いたときが、忘れられない砂場さんとの出会いでした。恥ずかしい話ですがお褒めの言葉に、一瞬驚きと望外の嬉しさを感じたのを昨日のように想い出します。
散会後、偶然にも帰る方向が同じということで、鉄鋼の労働職場のことなど話題にしながら、武庫之荘駅に着くまでの、短い時間でしたがそのときもお話ししました。砂場さんの鉄鋼への関心の広さと熱心なご質問にタジタジでしたが、私も興にのり恥も外聞もなくまるで旧知の仲と勘違いするほどの親しみを覚えました。あのとき以来、砂場さんは物静でにこやかに、終始年齢の差など意識させず、相手への配慮を忘れない、親しみを込めた暖かい態度で接して下さいました。砂場さんとお話するごとに私の中では、広い心の持ち主でありスケールの大きい尊敬すべき人だという印象を抱き、内外情勢の話題では鋭い分析や評論が時の経つのを忘れさせてくれました。もし初対面の場で砂場さんから、あの一言を掛けて頂かなかったら、その後の永いお付き合いも、砂場さんから多くのことを学ばして頂く機会もなかったでしょう。
砂場さんが尼崎に於いて多方面にご活躍され、その功績は枚挙に暇がないほどですが、その中でも1992年に始まる「阪神間南北高速道路建設」反対運動に大きな役割を担われたことは、協働した地域住民の誇りでした。当時、国道43号線の道路公害は全国にあまねく知られ、そこに住む人たちの自動車排気ガスに苦しむ姿を眼前に、私たちはもうこれ以上「尼崎の空を汚染させるな」「子供たちに青空を」を合言葉に尼宝線沿道の住民に建設反対を呼びかけ、翌年11月武庫公民館ホールに、自らの力で住環境を守ろうと決意した建設反対住民組織の結成大会に300名近い人たちが結集されたのには、正直その関心強さに本当に驚きました。そのとき反対運動の代表に砂場さんが選出され、以後、幾多の困難にも屈せず、かたくなに一切の情報を封印する、兵庫県と尼崎市に対して、果敢に住民側の論理を掲げ闘いました。
砂場さんは炎暑酷寒を厭わずあらゆる抗議行動の先頭に立ち、行政の住民無視の姿勢に対し一貫して「情報公開と住民参加」を前面に掲げ、住民への資金カンパや独自の啓蒙パンフの作成など住民を主体にした反対運動の指導に、卓越したリーダーシップを発揮され、全員参加と全員による決定の原則を守る姿勢を貫かれました。その中でも特筆すべきは自治体選挙に出馬する候補者への「阪神間南北高速道路建設」賛否のアンケートの実施という砂場さんアイデアです。年々低下する投票率も問題でしたが、現下の「道路建設」に立候補者がどんな見解をお持ちなのかを問うたことでした。その結果を「青空だより」に掲載したところ、地域の住民の方々からは大変参考になると喜んでもらえました。
そんな時あの大震災でした。想像を絶する事態を前に砂場さんは、ご自分のことは後回しにされ、何よりも会員や被災者への迅速な情報伝達と反対運動の防衛のためにいち早く、「青空だより」の発行を指示され、手分けし全力で取り組みました。なによりも地域住民へ正確な情報提供を最優先だと主張され、大混乱の中で、原稿を書き印刷手段もままならぬ中での「青空だより」作りは、印刷手段も持たない事態の中で困難を極めましたが、地域の仲間のご支援に頼って東奔西走し、やっと印刷を終えたときの感動は格別でした。混乱時の情報がいかに大切かを実践された、砂場さんのご慧眼とご判断には今も敬服しています。
1996年初夏、砂場さんが古希をお迎えになられたのを機に、ご夫婦をお招きしみんなでお祝いしようということになり、みなさんに呼びかけたところ30名近くの仲間たちが駆けつけてくれました。席上ご夫婦で合唱された、静かなロシア民謡は今も耳に残っています。地震から一年余、まだ日々の生活が安定しない中に多くの仲間が集い、砂場さんご夫婦のご健勝と一層の交流を確認し合えた意義は今も生きています。
その後、地域住民の粘りと団結力は、1998年3月、行政側をして「阪神間南北高速道路建設」問題は「建設費・環境問題・住民の反対」を理由に「計画中断」という、歴史的状況を生み出し、予期せぬ大成果を収めました。あの時はみんなで小躍りしてこの吉報をかみ締めたことが本当に昨日のように想い出されます。
砂場さんはこの成果を「住民の団結力」と評価され、決して自らは前面に出ることはなく、一貫して謙虚な姿勢でおられました。その後、この成果の上に立ってこれからの闘いをどう進めるかでずいぶん、激しい議論が行われましたが、砂場さんは、いつも発言者の意見を静かに聞きながら、すべては住民の意向を優先しようと、全会員へのアンケートを実施しその結果を尊重しようということで収まりました。それは、今後「行政側の道路建設の動向を引き続き監視しつつ、自動車公害から地域住民の生活を守って行く」運動方向の確認とで、同時に「阪神間南北高速道路の建設に反対する会」から、名称も現在の「みちと環境の会」へと改称まで適確にリードされました。本当にいろんな出来事に遭遇して来ましが、住民の力を信頼し団結と連帯で民主的組織運営の原則を堅持し、選択した結論はそれ以後の運動にとって正しい選択だったと信じています。
そして、砂場さんは市民不在の矛盾した道路問題の根底に存在する「歪められた政治」の変革を絶えず、日常普段の言葉で語られ、意見の相違があればとことん話し合い、個人の意見を尊重し住民運動にとって、人間関係の重要性を繰り返し説かれ私たちを勇気づけつつ、自らの信念に全情熱を賭した勇姿は忘れられません。
しかし、砂場さんはこれに満足することなく、次の目標を目指されました。それはあの大地震の混乱の中で、各地の行政がこれ幸いとばかりに、住民不在の都市計画を随所で強行し始めたことに対する怒りの反撃でした。被災者住民の要求は「道路よりも水や食料だ」を掲げ、行政の震災に乗じた理不尽な都市計画を糾弾しつつ、その中から砂場さんは阪神間の被災地に点在する有志に、住民自らの力で生活の復興と自動車公害のない住環境の確立を共通課題に「阪神間道路ネットワーク」の結成を呼びかけられました。その過程で阪神間を中心に行政の理不尽な対応と苦闘する各地の住民運動団体・組織(西宮・芦屋・川西・北六甲・須磨・尼崎)が結集した意義は、被災地住民のみならず、あの状況下に行政から見捨てられた人たちに大きな希望を与えてくれました。
以来、砂場さんは「阪神間道路ネットワーク」の代表も兼ねられつつ、実に多忙な活動を担われてきました。そして、ここでも砂場さんは絶えず「道路を造るか造らないかを決めるのはわれわれ住民だ」を繰り返し強調され、主権者である住民を無視した蜜室での非民主的な道路政策が、この国の癌だと言われ、膨大な公共事業を支える政治のあり方にも絶えず、鋭い批判を投げかけられ、住民による主体的な反対運動の重要性を繰り返し強調され続けられました。
こんな砂場さんも、込み入った難しい会議や集会の後には、一転して本来の陽気な砂場さんに返られるのです。花見やカラオケなどでは、直立不動でマイクを持たれ、楽しい気分で歌われ、「早春譜」や「ロシア民謡」の数々は青春の過ぎし日への回想を込め、味わい深いソフトバリトンの調べに私たちは魅了し、決して中途半端な内容ではではありませんでした。飲むほどに酔うほどに生来の楽天さのバブルは全面展開し、社会時評・戦争体験・文化芸術・青春時代のエピソードなどいつ果てるとも知れない交流の中で、その博覧強記の記憶力に感服したものでした。
お元気だった2年前にご自分の戦争体験をまとめられ、『私のシベリヤ物語』を私費出版され多くの人たちに感銘を与えてくれました。人間が想像すら出来ない極寒のシベリヤの大地での捕らわれの体験は読む者の胸を打ちました。砂場さんのこの筆舌に尽くせぬ過酷なご体験が、帰国後の反戦平和運動の土台となり、常に頭から去らないシベリヤの悠久の大地への限りなき愛着を、その後の人生のエネルギーにされたのではと想像してしまいます。『私のシベリヤ物語』で、天皇制軍隊の不条理と非人間性への弾劾を活写されていますが、いまでは遺作となってしまいましたが、戦争を知らない世代への大きな贈り物です。
戦後帰国された後、最愛の奥様とかっての戦場であった「旧満州・佳木斯(じゃむす)」を訪ねられたときに奥様が、
若き日に捕虜となりたるシベリアへ 共に往かんと夫はいざなう
と一首詠まれているのを想い出し、ここに転載させて頂きます。砂場さんご夫婦は私たちの前ではよく口論らしき様子をみせましたが、それは全くの見せ掛けで、その内実は共に苦難を乗り切って来られた自負と傍目もうらやむ相思相愛のご夫妻仲は私たちの間でも周知のことで、そのことは私たちの鏡でした。
砂場さんはご自分の立場から、日本や世界の動向への関心を絶えず私たちに語りかけ、その重要性を話してくれました。身近な自動車公害問題と地球環境問題特に温暖化というグローバルな問題にも積極的な鋭い発言や、とりわけ社会の「変革」を熱い想いで語られる言葉は、いつも心の琴線に響いて余りありました。本当にどんなことにもぶれることなく、しかも自らに溺れることなく常に主体性を持ちつつ、いつも周囲の仲間たちを気遣い、周囲の人たちを励ましながら、堂々と真直ぐに正面を見つめながら発言されたお姿は、私たちに限りなき勇気と力を与えて下さいました。
砂場さん、今私たちはアメリカ発の世界同時不況と地球環境破壊の進行という大変な激動に直面し、明日への不安をつのらせています。これからの世界を考えるとき私たちはきわめて困難な選択を迫られています。しかし、ご安心下さい。私たちは砂場さんが繰り返し強調された、「人が人として生きて往ける社会」と「絶対に戦争をしない、させない平和な国づくり」をめざし前進してゆきます。
そして、人間の尊厳を目指し安易な妥協を排し、世界中の人びとの連帯を求め、次世代への配慮をも怠らず、未来への希望を失わず砂場さんのご遺志を継承してゆく所存です。
砂場さん 今、どこにおられますか。遥かかなたのシベリヤの大地ですか。また、きっとどこかでお会いするのを楽しみにしています。本当に永い間ありがとうございました。どうかごゆっくりお休み下さい。