敗戦の年のにがい想い出
一崇徳上皇陵への必勝祈願の参拝―
芦屋市 藤井新造
第二次世界大戦の終わった敗戦の年、私には春から夏にかけて忘れがたい出来ごとがあった。
私の村の奥(東方向)に白峯山があり、そこに崇徳上皇の御陵があった。小学校4年生になると、上級生と共に朝早く起きて登校前に学校に集合し、開戦日の12月 8日にちなんでか毎月8日に御陵に参拝させられた。所謂兵士の武運長久と戦争の必勝祈願である。この日は特別早く起きて学校に行き、往復1時間余をかけ、標高300m位の御陵まで登り参拝し急いで帰宅し又学校に行くのであった。
この行事は、この年の8月に私達の必勝祈願の甲斐(?)もなく敗戦となったので、私は4月から8月まで合計5回のみで終わる結果になった。
途中行程の左方向(東北)の山の中腹に崇徳上皇を火葬した時、煙がたなびいたという謂れで造られた建物もあり、この人は私の土地で言うえらい人であろうと想像できた。当時崇徳上皇がどんな人物か、又どんな理由で我が村に流されてきたのか。そしてその後この御陵が建立された理由も聞かされることなく参拝していた。ただしそのあたりの事情について説明を受けても、小学校4年生では理解できなかったであろう。
それでも御陵は白峯寺の近くで、山奥とまでは言えないが樹木の多い静かで荘厳な雰囲気をかもしだしていたので、参拝すれば御利益があるのかなあーと独り合点していた。
敗戦になり参拝の行事はなくなったが、生来の腕自小僧であった私は、この御陵のなかの神殿を見たく友達を誘っててかけた。敗戦後まもなくであったが、御陵の册を越えて白砂の上を恐る恐る歩き、神殿の扉を開けようと手をかけると、すうっと扉があくではないか。そして内は見事に空っぽで何もなかった。三種の神器に近いものでもあろうと想像していたが、ちょっと拍子抜けした感じになった。多分私より好奇心の強い人間がいて同じ思いを抱き神殿の内部を見に来た先客がいたのだ。それとも内に何かお金になるものでもなかろうかと盗みに来た者がいたのかもしれない。
その後中学生になり、崇徳上皇が武士を後盾にした宮廷内闘争「保元・平治の乱」に敗北して、この地に流罪になったことを教科書で知った。
それ以上のことは、上皇の死体は都から役人が検視にくるまで隣村の綾川の雲井御所跡の冷い水の船上に安置していたことを伝え聞く位で、これもどこまで史実であるかどうか確かめたことはない。
但し、そのあたりのトコロテンは水が冷たいのでおいしいとの評判があり、私も食べたことがあり、ある程度確かな話かも知れない。それと、前記の「煙の宮」の建物も(旧大字、青海)遠方から見れば屋根は青銅色で、柱は赤く塗ってあり立派そうに見えたが参拝する道とは尾根ちがいにあったので好奇心の強い私であったが見に行ったことがない。
崇徳上皇の御陵へは行かないが、白峯寺へ行ってゆっくり境内を散歩したのはずっと後になった。高校の教科書に歌人の西行が崇徳上皇の怨霊を慰めるためこの地に来て詠んだ歌があるのを知ったからである。
讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡をたづねけれど、かたも無かりければ、
松山とは私が生まれた松山村のことであり、昭和31年に坂出市にこの村が併合され、地名もなくなった。当時御陵らしいものはなく淋しい墓標位(注)しかなかったのかも知れない。そうであれば、今の御陵は多分明治維新以降に建立されたものであろう。尚、西行の四国への旅(このあと弘法大師の生地善通寺に行く)は仁安3年(1168)の秋とも冬とも書いてある本があるが詳細は知らない。
話は冒頭に戻るが、今から思えばまさしく正気の沙汰でない崇徳上皇の御陵への参拝(大東亜戦争必勝祈願)であったが、当時は真剣そのものの行事であった。
そうであれば戦争中この類の行事は全国いたる所にあったのだろうか。私にとっては上述した白峯寺が御陵から10分も歩けば着く場所にあり、古色蒼然としたたたずまいのこの寺の印象が強いのであるが。
それについでに言えば、この寺が四国八十八ケ所巡りの81番になり、82番の根香寺には母方の祖父が信心深い人であり、阿弥陀越えをして共に行った記憶がよみがえってきた。
寡黙な祖父は一日中尾根の小径を二人で歩いていても言葉を発することはなく、庭本になりそうな雑本を根の土ごと掘って持ち帰った。そして、帰宅しその植樹を終わって私に「この小さい木がやがて大きくなり立派な生け垣に育つのだ」と短い言葉で語っていたのを想い出す。
最近での白峯寺への参詣は、9年前に母の葬儀が終わり時間があったので、親戚の伯父、伯母をともない車で行った。その時3月末であったが80才過ぎの伯母(父の妹)が、桜の花が5分咲きであったのを観て、西行の有名な一首「ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」を口ずさんだのには驚いた。確かそう言えば西行はこの季節(3月31日)に死んでいたのであった。
尚、私は西行が73才で死去した年齢に少し間があるが、彼のこれも有名な一首「世の中を思えばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん」の心境に近づきつつある。
(注)『保元物語』では「・・・四国の辺地を巡見の時、讃岐国に渡り、白峯の御墓に尋参して拝奉ればわずかのほうぎょうの構を結置くといへ共、荒廃の後修造の功いたさず、曲がり破れて蔦葛のはひかかれる計也」(『西行』渡部治著)と書いているので墓を覆う小屋があったかも知れない。
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