『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(48)**<2007.11. Vol.49>

2007年11月06日 | 横断車道

北部水源池問題連絡会主催の、滋賀県立琵琶湖博物館と長浜黒壁スクウェアーの日帰りバスツアーに参加した。メインは水問題と取組む同連絡会の研修であったので、琵琶湖博物館のほうであった。しかし、長浜の街の、特に商店街の「まちおこし」が興味深かった。「まちおこし」前の長浜を知らないので、現在との比較は出来ない。とはいえ、土曜日の午後だが、女性客を中心に多くの観光客で賑っていた▼「黒壁」とは昔、銀行であって、漆喰を黒く染めた建物を、ガラス博物館にしたもの。その建物を中心に、古い建物を生かしたレトロな商店街を形成。ガラス細工を中心に、郷土色に染めた菓子・食品・飲食店が多かった。時計屋の柱時計やゼンマイ式目覚まし時計の陳列も、興味を引いた。荒物店には木製の桶やブリキのバケツ。衣料品店には手染めの品物が飾ってあった。ガラスに因んだのか、万華鏡が街のテーマになっていて、お店の三角錐の統一看板には、天辺に実物の様々な万華鏡が取り付けてあった。日本一大きい万華鏡が建設され、その周辺ではフリーマーケットが出展していた▼何年か前に行ったときよりも、観光客が多く感じられた。一番興味深かったのは、東西南北に何筋かある商店街に、殆ど車の通行がないことだった。前回は、よく車が通行していたが、今回は一時間半で、三台の車しか見なかった。推測だが、通行許可車しか進入が出来なくしているのだろう▼同じ「まちおこし」の、神戸北野の異人館通りがある。ここも土日祝日は前面通行禁止になる。もし、車の通行を許したとしたなら、殆ど観光客は来ないのは明白である。それでなくとも、道路幅はかなり狭い。一台の車が通行することによって、観光客は歩行を止めて、立ち止まらなければならない。ゆっくりと散策は出来ない。長浜では、車が歩行者に気を使っていたのか、多勢に無勢で止むを得なかったのか、終始徐行をしていた▼神戸北野ではレトロ観光バスが、各駅から異人館通りの入り口まで、観光客を運んでくれる。長浜でも、商店街の入り口にバスの乗降用の駐車場があった。そこは狭くて、十台ほどの観光バスしか止まれない。乗降の時以外は、別の駐車場に移動していて、集合時間に戻ってくるというシステムであった。マイカーの駐車場は、少しばかり遠いところに配置してあるようである▼考えてみると「甲子園野球場には駐車場はおまへん」と、元阪神タイガース選手のオマリー氏が宣伝している。毎回五万人もの観衆が集まるのだが、殆どは阪神電車を利用する。マイカー客など一割どころか数パーセントに過ぎない▼商店街の活性化や集客力のアップには、何といってもノーマイカーが有効なようだ(コラムX)

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『みちしるべ』私のモロッコ紀行(3)**<2007.11. Vol.49>

2007年11月05日 | 藤井新造

私のモロッコ紀行(3)

芦屋市 藤井新造

フェズの街よリアトラス山脈を越え砂丘見学のためエルフードヘ

 いよいよ今回の旅行の目玉商品である砂丘見学のため、アトラス山脈を越える日である。

 山脈と言うだけあって4000mの標高がある山々がほぼ東西にわたり延びている。フェズの街を出発し、高級別荘地の間を通り抜ける。どの家も広大な土地に、何百坪もありそうな豪邸ばかりである。殆ど王家の係累のエリート族の別荘地と言う。ヘミングウェイの小説の題名「持つ者と持たざる者」を思い出し、ここでは貧富の差が歴然としているのを見せつけられた。

 この一帯を通り、1時間半も車が走るとアトラス山脈の山々の嶺がくっきりと見える。先ず中アトラス山脈からアトラス山脈へと、山の稜線を大きくまきながら峠越えである。車窓からの風景は、映画のフィルムを廻しているように変化する。赤茶色の土地であり、樹本も少なくなり、標高2178mのジャアド峠にさしかかっても、ここがそんなに高い場所であるとの実感が湧いてこない。

 アトラス山脈を越え、平地の方へとおりかかると、リンゴ畑がある。そしてこの地では大理石が多く採掘さねる鉱床があると言う。そのせいか道路上でアンモナイト化石を売っている小さい出店が、一定距離をおいて在るのを目にした。

 エルフードでのホテルはメルズーカ大砂丘見学のためだけで建てられたホテルのようだ。と言うのは建物の造りは外見上彩色豊かで、だだっ広いロビーがあって、ホテル内は安っぽい感じの装飾品ばかりである。

 早朝4時過ぎに起きて砂丘での日の出見学への準備。ロビーの温度計は気温4度。外は暗くて寒さのため厚着をし、マフラーを首にまいて外に出る。添乗員より番号札を渡されその番号の貼った4輪駆動車に4人乗車した。

 暗いので外の様子は全然見えない。乗車した中古車らしき車は、デコボコ道を容赦なくスピードをあげて走る。悪道のせいもあろうが、ドーン、ドーンと大きい音を響かせ走るのでお尻がはねあがり揺れる。前部のワッパを強く握りしめていないと身体が外に飛び出すのではないかと思えた位である。

 周辺は何台かの車が同じ方向を目指して走っているのが、車のライトの灯でわかる。およそ50分も走ると、日の出が拝める砂丘に到着する。時計をみると6時半である。そこから徒歩で50m位ラクダに乗る場所まで歩くのだが、細かい砂なので歩きにくいことこの上もなし。息もたえだえ身体を前のめりにして左右の足を交互に持ち上げ前進する。そう、泥沼に足を入れた時の感じとよく似ている。映画では、現地の人が軽々と歩いているが、普通の靴では砂丘を歩くのは難しい。

 私は、ラクダに乗るのははじめてであり、少し不安もあったが、ラクダの背に鉄製の横棒の取手があり、両手で強く握っていると、あっというまに太陽が昇るのを拝める場所に着いた。到着した砂丘の場所では、私達のツアーだけでなく、いくつものグループがあっちこっちに点在して固まっていた。言葉は、英語だけでなく中国語、韓国語も聞こえてくる。そういえば、どこかの街角で「チャイナー」と聞かれたことがあり、面倒なので無責任にも「イエス」と答え返したこともあった。

 まもなく7時前になると東の空に薄い光が射してくる。そして予定された如く丁度7時15分に太陽が姿をあらわす。前方向180度以上の広角に昇ってくる太陽を眺めることができた。まさに自然の幻想的な風景を肌で感じるような喜びを味わった。

映画ロケーションの地、ワルザザートの街

 砂丘見学を終え、今回のツアーで最も西の街、ワルザザートヘと向かう。途中モロッコのグランドキヤニオンと呼ばれているトドラ峡谷へ昼食のため立ち寄る。街道では両側でナツメヤシの木がたくさん植わっている。この峡谷の小川のほとりのレストランで昼食をとったが、面白いことに、言うと怒らねるかもしれないが、アルコール類は一切おいてない。従ってのみたい人は持参して下さいと、添乗員が前以て説明していた。戒律(禁酒)を守るイスラム教徒の信者が多数居住している土地のせいかもしれない。

 この峡谷の川沿いで衣類を洗濯したり、それらを木の枝とか、木と木を紐でつなぎ干している光景をみかけ、なんとなくなつかしかった。この地方では、先住民のベルベル人が早くから定着し、今も自然の中で昔からの習慣として、川の水をこのように上手に利用しており、家屋は赤土を使い、日干しレンガを作り組み建てており、それは古代から人間の叡知を活かした生活の営みが延々と続いているように窺えたからである。

 ワルザザートヘ行く街道は別名バラ街道と呼ばれている。途中、日本の道の駅の大きさのショップでバラの花からとれた化粧品、オイルを売っており、ご婦人方は一斉にそのコーナーに殺到していた。又、道端でナツメヤシの乾燥したものを売っている人がいる。試食すると結構おいしいので、1kgの箱詰のものを買った。

 ワルザザートヘの道をおよそ500m以上の峡谷に沿ってバスが走る。トルコでコンヤからカッパドギアヘ向かう200kmの行程でも確か信号は一つしかなかったが、ここも同じである。但し、ここは薄黄色で、どちらかと言えば、赤く黒ずんだ土の色に近く、陽のあたりようで山の麓の色が変化に富み単調さがない。

 ワルザザートの街はずれに、映画製作所が三つもあり、映画『アラビアのロレンス』の舞台になった村を通る。このあたりは、映画『アレキサンダー大王』のシーンが撮影されたと聞くが、砂漠に近くロケーションとして格好の土地だったのかもしれない。

 ワルザザートからマラケシュヘの道も、2260mのテイシカ峠を越えて行く。オート・アトラス山脈も3000mから4000rn級の高い山が連なっており、この山脈越えで出会う車は少ない。わずかに建築資材を積んで走っている大型のトラックとすれ違う位である。

モロッコで二番目の古都マラケシュヘ

 マラケシュの街は、北は大西洋から又、サハラ砂漠からと多くの人々が集う都市である。歴史的にみると、11世紀ベルベル人による最初のイスラム国家が誕生し、王朝の宮殿をここに設営した。モロッコでフェズについで二番目の古都である。

 長い間首都がここにあり、商工業だけでなく、学問、芸術をはじめとした文化都市であった。それ故か、旧市街地の建物は整然として並んでおり、公園にはナツメヤシ、オリーブ、の木がたくさん植えてあり、赤茶色の建物の色に対し緑色が映え、美しい街である。西洋のどこかの都市とみまちがえるように、観光用の二頭馬車が人を乗せてゆったり走っている。

 この街に着いてすぐ世界遺産として有名なサアード王朝(16世紀~17世紀)の大墳墓群、バイア宮殿を見学した。王朝の衰退の歴史を説明してくれたが、名前を覚えるのが難しい位古い歴史のある都市であることはわかった。

 私がモロッコヘ行って見たかったのは、最初のカサブランカの街、続いて大砂丘見学、そしてジャマ・エル・フナ広場であった。

 まだ明るい陽が射す間を利用して1時間余りこの広場を見て廻る。何千人もの観光客が集う大広場は多くの見世物がある。例えば蛇使いが笛を吹くと蛇が起き上がり、周囲の人が興味深く見ている。アクロバット芸をしている大道芸人を囲み、大勢の人が輪を作り見て楽しんでいる。そして広場全体の中央に屋台があり、周辺にナツメヤシ、リンゴ、ミカンの果物類、香辛料などの店が何十軒もあり賑やかである。日本の出店と店の規模も違い大きいものばかりである。

 屋台の一角ではケバブを焼いて食べさす店があり、観光客だけでなく、土地の家族連れらしい客が椅子に座って並んでいる。陽が沈むと、広場全体の各所で電灯が煌々と輝き、まるで昼間のように明るい。

 この広場の北側にスーク(市場)と呼ばれる有名な商店街(?)があり、衣料品、生鮮食品、装飾品、家具、皮革、陶器……と日常生活に必要なものを含め、ありとあらゆるものを売っている。つれあいが鞄を買うため一軒の店に入る。それから値段の交渉が大変である。店員が値段を下げて数字を書き示すのだが、こちらが高いと言うと、「そちらで値段を言え」と言葉が返ってくる。こちらで数字を書くと、首を振って売らない。店の外に出ようとすると、そこは売り手の方でなれたものである。値段を下げて売ると言う。店員が、商品の「売り方」をまるで楽しんでいるように思えた。

 この旅で連想したのは、映画『モロッコ』のラストシーンである。外人部隊が砂漠に向かって行進をはじめた時、この部隊を後追いするように多くの女達が歩いて行く。その女達の一人で、歌姫に扮する女優、マレーネ・ディートリッヒが婚約者との約束をけって、急遽靴を脱ぎすて、愛する兵士、トム・ブラウン(ゲーリー・クーパー)の姿を追う印象的な激写があった。この映画で忘れられない場面である。実は、私のモロッコ旅行への誘いも、この映画の(甘美)な終わりによったのかも知ねない。やはり「女性の靴」に縁があったのか。

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『みちしるべ』与力大塩平八郎展を観て**<2007.11. Vol.49>

2007年11月04日 | 大橋 昭

与力大塩平八郎展を観て

代表世話人 大橋 昭

 かねてから近世江戸時代の民衆の一揆(世直し)について学ぶ機会を期していたところ、今秋伊丹市立博物館で開催中の秋季企画展・「大塩平八郎の乱と伊丹」を観る機会に恵まれ早速でかけてみた。

 周知のように江戸時代の四大飢饉には、寛永・享保・天明と江戸後期の天保の大飢饉が特筆され、天保の飢饉も例外なく洪水や冷害を原因とし、その影響が米の不作をもたらし、米価の急騰が庶民の生活を直撃、各地に百姓一揆や打ちこわしが頻発したことは歴史の示すところである。

 今回の催し展は今年が天保の「乱」(大塩らによる反幕府革命蜂起)から数えて170年を迎えるのを機に、飢饉と「乱」との因果関係を探り、これらを単なる過去の出来事として風化させてしまうのではなく、改めて「乱」の今日的意義を見直す意欲的な企画は、時代考証も当時をリアルに再現する数々の展示物によく整備され充実した内容であった。

 先ず会場入り口には「乱」に際して掲げた「救民」の旗が目を引く。また「乱」の全容(蜂起にいたる経過や顛末まで)を理解しやすいように作られたVTRの活用や、有名な「四海困窮」に始まる中国の古典を出典にした、民衆への蜂起を呼びかける檄文の現代語訳などの文献が展示され、この「乱」が幕藩体制崩壊の引き金となった歴史の内実を再現し今を生きる私たちに日頃忘れがちな先人たちの義挙を思想的精神面からも単なる回顧の次元に終わらせず、理もれかける近世史の熱い歴史にスポットライトを当て「温故知新」を実感させてくれる意義深いものを感じることが出来た。

 大塩平人郎は江戸後期の大坂東町奉行与力。江戸時代の大坂の統治は東西奉行所が掌握し、その配下で東西各30騎の与力と50人の同心が警務を担う。「乱」の首謀者大塩は陽明学者としても名を知られ、その主張や行いは「知行合一(先ずその言を行い而して後にこれに従う)」を信奉する儒学者で、彼の清廉潔白はつとに知られ周りからの信望も厚く、また伊丹との関係が深かった国学者・頼山陽との深い交わりもあった。

 大塩は度々伊丹に出かけては商人や農民に陽明学の出前講座を行ったという記録も遺されている。38歳で養子格之助に家督を譲り隠居。

 時に天保2年(1831)摂津国川辺郡(今の伊丹付近)で流行していた豊年祝いの神踊り(お蔭踊り)とは裏腹に、その後の天候不順は人々に想像を絶する飢餓地獄をもたらす。歴史に言う「天保の飢饉」の始まりである。

 しかし、多くの窮民や餓死者をよそに役人たちは町人からの付け届けや賄賂で私腹を肥やし、市中に餓死者の出る惨状に有効な対策を立てずに放置、この事態を看過できないと考えた大塩はすぐさま町奉行に窮民の救済策を上申するも事態の解決には至らず、鴻池などの豪商にも救済を訴えるが思わしくいかず、無為無策の幕府権力・町奉行・豪商の対応に激怒する。

 ここに至り大塩は信奉する儒教の教えに従い、飢餓に苦しむ窮民の救済には自ら所有する書籍を売却し(当時の価格で620両ともいわれる大金)、これを救済金に当て多くの庶民を救済し、また「武装蜂起」の準備資金に当て、同時にこの日までに近隣四方に「檄文(呼びかけ文)」を発し蜂起の正当性を訴え、市中見回り途中の町奉行を襲撃する予定であったが、直前の寝返りに遭ったために予定よりも早い天保8年(1887)2月19日午前8時、20余名の門弟と共に自宅に火を放ち決起する。蜂起隊は「窮民」「天照皇太神官」の旗や幟を先頭に掲げ、豪商の屋敷などを焼き払いつつ蜂起は決行された。その主力は与力時代から陽明学の講義を通じて開いた私塾「洗心洞」(封建社会の矛盾を説き、天下の政道のあり方を教え「知行合一」の哲理の実践をめざす)塾生や、近郷近在の町民や農民や下級武士の他に、大坂奉行所の与力や同心、摂津や北河内などの豪商も塾に学んだことが知られている。「檄文」を読み蜂起に加わった人数は100余名であったという。

 市中の豪商宅に当時としては異色であった種々の火器(大筒・棒火矢・炮碌)による攻撃を加えたことで大坂の町は約5分の1も焼失し、約3400戸の家屋も焼失する大火をもたらしたが、庶民はこれを「大塩焼」と語り非難する者はいなかったという。

 しかし峰起側に利あらず、僅か8時間後には鎮圧されるという悲劇的な結末を迎え、幕府による蜂起参加者への探索は夜を日に執拗に行われ、死罪を含む苛烈な処断で多くの命が奪われた。蜂起の衝撃波はしかし、遠く越後や備後に伝播、飛び火し、燎原の火のごとく燃え広がり、各地での一揆や打ちこわしが続く。

 支配階級内部からの反乱に幕府・諸幕の動揺は収まらず、これが後に「天保改革」を生む契機となるも、大塩は蜂起に先立って幕府首脳へ不正の調査報告を送っていたことが近年の研究で昭かにされている。

 遠い天保の昔に世の不正を許さず、命を賭して民衆のため「乱」を起こした義人たちの、早すぎた革命がやがて徳川藩幕体制から近代明治維新への導火線となって行く歴史の激変に息を呑む思いをする。

 翻って今日、私たちの周りの政治家に民衆を思う誠なく、私利私欲を追う官僚どもの汚職、信用よりも嘘・偽りで金儲けに狂う商人の横溢、際限なき格差社会の矛盾に世も末かと嘆きたくなるような世相だが、「大塩平八郎の乱」の燦然と輝く歴史に触れ、「世直し」へ「造反有理」の必然を意識した。

記述には展覧会パンフ等を参考にした

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『みちしるべ』**国土交通省(道路関係)概算要求【資料】**<2007.11. Vol.49>

2007年11月03日 | 単独記事

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『みちしるべ』暴言を許さずに当局を追い詰めよう**<2007.11. Vol.49>

2007年11月02日 | 神崎敏則

尼宝線(武庫工区)拡幅整備問題の途中経過
暴言を許さずに当局を追い詰めよう

みちと環境の会 神崎敏則

説明会の開催申し入れに西宮土木事務所ヘ

 昨年12月、西宮土木事務所道路整備2課が開いた住民への説明会では、説明会の再開を約束して終了しました。しかしその後、開催の動きが見られないので、10月 5日に住民のOさんと二人で西宮土木事務所に出向いて住民への説明会の開催を求めました。課長との話の内容を要約すると以下の通りです。

「説明会は工事着工前に1回」とはとんでもない!

≪課長≫昨年12月の説明会で「改めて説明会をする」と言った事実は認める。ただしその方法は、①ホームページを活用して行う、②測量の際にその都度個別に説明している、③事務所に来ていただいたら個別に説明する、などとしたい。全体の説明会は、工事を着工する前には1度おこなう予定だ。

≪住民≫それでは昨年の「改めて説明会をする」という約束に反している。

≪課長≫1年後とか2年後とかの期限を言ったつもりはない。今開催しても同じ回答しかできないので、意義があるとは思えない。

≪住民≫意義があるかどうかを判断するのは課長ではなくて住民の方だ。そもそもパンフレットにあるように、住民と県との考えに大きな隔たりがあるので、それを理める努力をすることが行政の役割だ。問題となっている遮音壁は設置しないのか!

騒音被害をこのまま放置するほうが公平性を欠いている

≪課長≫遮音壁は、他の県道には設置していないのに武庫工区だけに設置するのは、公平性を欠く。

≪住民≫このまま騒音被害を放置することの方が公平性を欠いている。パンフレットを読めば住民の騒音被害がどれほどひどいか、良く分かるはずだ。

≪課長≫法律や憲法は達成すべき目標とか理想を書いているものなので・・・。

≪住民≫そんなことはない。守らなければならないと行政は義務付けられている。

≪課長≫現状では、遮音壁を設置する予算はないし、法律を変えるとか大きな動きがないと対応できない。

検討もせずに拒否することが問題

≪住民≫公平性を欠くとか予算がなくてできないとか、検討すらしないことが問題だ。検討した結果、ここには建てられるが、あちらにはできないとかのプロセスを経れば、住民だってある程度納得できる。

≪課長≫現時点で提示できるのは、低騒音舗装と、排ガスを分解する触媒を塗布する技術だけだ。

≪住民≫しかし、現実には山手幹線でも遮音壁が設置されている。

≪課長≫山手幹線では、これまで道絡が全く通っていない部分を道路にしたので、遮音壁などの技術を導入した。尼宝線は低騒音舗装で交通量の増加分はカバーできる。

低騒音舗装の効果は国土交通省でも否定的

≪住民≫低騒音舗装の効果が損なわれないようなメンテナンスを継続して行なうとまだ約束してもらっていない。
 
≪課長≫道路の維持管理の部署に必ずメンテナンスを継続するように申し送る。

≪住民≫国土交通省関係の研究機関が「高圧洗浄などのメンテナンスをおこなっても、機能の回復は充分とは言えない」と発表している。素材をゴム製のものにすればもっと効果が上がるが、これはコストが高く実躍的でないといわれている。低騒音舗装をしても、実際には現状より騒音被害は大きくなるのではないか。パンフレットの中では、騒音や排ガス対策として、2車線のみの供用をするべきだと提示しているので、この問題で説明会をする必要があるのではないか?

あきらめるわけにはいかない

≪課長≫2車線のみの供用については検討したい。県の答えは神崎さん個人にお返しすればよいと思う。

≪住民≫パンフレットは個人的な考えや意見を載せているのではない。これまで多くの住氏と相談したり、案をニュースで住民におしらせしてきたものだ。住民全体の議論や意見交換をしてできたものなので、住民全体の問題だ。

≪課長≫話し合いは、今の段階で開いても進展すると思えないので、開かない。

≪住民≫住民にとっては日々の生活の問題なので、これであきらめるわけにはいかない。住民のみなさんに県の対応がこんなにひどかったことをお知らせして、みんなで議論して今後対応する。

*************************************

 住民への説明会から逃れたい当局の姿勢が手に取るようにうかがえました。それにしても、「法律や憲法は達成すべき目標とか理想を書いているもの」という課長の認識には驚かされました。これでは主権在民もたまったものではありません。尼宝線の問題が直接憲法を守る闘いに結び付いているとは言いませんが、行政の姿勢を変えなければならないことを痛切に感じました。

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『みちしるべ』**第33回 道路公害反対運動全国交流集会 参加報告**<2007.11. Vol.49>

2007年11月01日 | 藤井隆幸

第33回 道路公害反対運動全国交流集会 参加報告

世話人 藤井隆幸

異例の連続でドタバタの参加だった

 10月26日に全国連絡会の事務局長から電話が入り、これから案内を送るので、誰か参加して欲しいとのこと。集会は11月10日(土)~ 12日(月)で、2週間しかありませんでした。正直なところ、案内も来ないので、今年は参加しないつもりでいました。11日は会議が入っていて、急遠、代理をお願いして、 ドタバタの段取りで参加してきました。そのような次第で、今年の開催案内は、皆さんにお届けするのが間際になりました。現地実行委員会の事務局長が体調を崩して、手続きに不備があったとのことでした。2年連続ともなると、大変なのは理解できます。兵庫県で引き受けることは、現状の体制では、不可能であることから考えても、さすが東京と思います。

 今年の集会は、昨年と同じ東京経済大学(国分寺市)で行われました。本来、大阪の順番でしたが市長選挙直前で、実行委員会メンバーが揃わないとのこと。他に予定しているところもなく、例外的に2年連続で東京が引き受けることになりました。来年は大阪での開催ですので、宿泊費も要らず交通費も僅かですので、気軽に参加できると思います。来年は早目に案内をもらって、皆さんにお届けできると思います。

 兵庫からは、中国道・山陽道・第二名神のジャンクションにお住まいの「中の自然と住環境を守る会」の西田さんも、11日の午後に参加されました。

雨の中の現地見学

 初日は遠方からの参加もあり、恒例により午後からです。毎回現地見学が計画されていますが、あいにくの雨でした。東京駅から中央線で新宿まで。新宿駅から集合場所の東京都庁へ。雨天でも総て地下道でつながっているのは、さすが東京。60人ほどの参加があり、観光バスに随行車をつけなければならない盛況ぶり。

 まず、首都高速中央環状新宿線の建設現場を、バスの中から見てまわりました。地下30mにシールドエ法で通しているとのこと。巨大な換気塔(45m)が印象的でした。地上の環状6号線も中央分離帯や歩道。自転車道など、環境対策も取り入れ、幅員40mほどの道路になるようです。ほんの僅かの交通量の削減で、渋滞は解消すると言うのに、巨大な建設工事で、効果はそれほどないばかりか、公害が増加するのは納得の行かないものでした。

 地元の住民運動は、計画中止に追い込むことは出来ないまでも、住宅の地下を通させないとか、色々の環境対策を勝ち取ったようです。中でも驚いたのは、首都高速3号線とのジャンクションを、全面的に蓋掛けにしてしまったことです。大橋ジャンクションと言いますが、巨大な建築物が一部分出来ていて、その大きさに驚きました。その広さはサッカー球場がスッポリ入ってしまうというのですから。高さも10階建てビルほどもあり、雨があがったのでバスを降りて見学しました。

 次の国分寺3・2・8号線は、環状8号線(通称「還8」)の渋滞で、時間がなくなってしまい、現地の運動をしている人からの説明だけに終わりました。

初日の集会テーマは東京大気裁判の勝利的和解

 初日の午後4時半から全体集会で、中心は東京大気裁判の報告でした。東京の裁判は他の裁判と違い、工場排煙を出した企業が被告になっていないことです。それに道路管理者のほかに、ディーゼル自動車のメーカーが被告になっていることです。

 今年の8月8日に東京高裁と同地裁で和解が成立しました。この内容については、重要なポイントがありますので、次の機会に詳述したいと思います。簡単に説明すると、①東京都の喘息患者に対する医療費助成制度の創設。②公害対策の実施。③原告団・国・都で「連絡会」を設置する。④メーカーによる解決金の支払い。

 問題点としては、医療費助成が喘息に限られ、気管支炎や肺気腫などが含まれていないこと。3年の時限的制度であることなどです。これは今後の運動で改善してゆく決意を、原告団の代表者から報告されました。国からは道路建設が環境対策である旨を和解条項に入れるとの主張がありましたが、原告側は「それを入れるなら和解はない。」と突き放したことは評価できます。

懇親会は食べ切れなかった

 昨年の懇親会は、大学食堂のシェフが美味しさ中心に考えてくれました。が、あっという間になくなってしまい、急遠、何品かのメニューを追加してもらいました。その経験を生かして、今回は絶対に量的不満はないとの、シェフのメニューでした。

 さすがは料理人と感心しました。料理の質を落としたり、脂っこいものを入れるなどしてはいません。集会参加者は相対的にお年寄り。美食且つ満足感のある料理に、食べきれず多く残してしまいました。地球上で1日に3万人も餓死をしているのに、食べ物を残すなんて出来ない。でも、食べきれない。

 シェフは予想していた通りで、満足していたようです。それも、手伝ってくれた学生たちが持って帰れる段取りも、キチンとしているところは、環境に配慮した料理人です。持ち帰っても問題のないものが多く、且つ、お持ち帰り用パックの用意も段取りしてくれていました。

2日目は記念講演と分散会

 記念講演は環境自治体会議・環境政策研究所の主任研究員の上岡直見先生が、「道路整備は環境を改善するか~道路政策と計画・評価技術の問題点~」と題してお話がありました。パソコンのパワーポイントを使い、液晶プロジェクターでのビジュアルな説明で、判りやすかったのが印象です。これからの時代は、これでなければと、考えさせられました。

 ただ、専門家らしく、断定的な発言をされないのは、運動団体としては物足りなかったのではないでしょうか。前日の篠原弁護士のように、被告を切り倒すような発言は、爽快そのものです。しかしながら、参加者が理論的に高まればよいことで、学者はそんなものだと思います。

 分散会は3会場に分かれて行われました。私の参加した分散会も、例によって発言したくて仕方のない人が、マイクを握って放しません。カラオケのマイクさながらです。そこは名司会者の配慮で、総ての参加者に発言してもらえるように、心配りが充分でした。主には、自らの運動の説明に終始したと言う感じです。それでも、お互いの素性が交流できて、今後の運動に協力関係も出来ていたようでした。一言しか発言しなかった私にも、広島からご招待の話がありました。

国交省交渉が中止になっていた!

 延べ180人の参加でした。「みちと環境の会」の神崎さんから、パンフレットの販売を頼まれていました。今年は、現地実行委員会から4人の販売スタッフが付いていましたので、総てお願いすることに。例年通り、たくさんの販売があり、特徴はダンピング。出版社製の本が100円、300円のカンパで何冊でもとか。分散会でも紹介したのですが、他にも5冊ほどの売り込みも。結局、3冊しか売れませんでした。

 集会の報告資料集は200冊作ったそうで、余りを200円で販売したとのことですが、集会の終わりには残っていませんでした。今回は皆さんにお渡しするものがありませんので、ご容赦願います。

 集会が終わって、明日は国交省交渉かと思っていたら、既に中止に。2日目のホテルも予約支払済みでしたので、夜のプライベート懇親会に参加して、遅くまで飲んでしまいました。現地実行委員会の事務局長の体調不良は、最後までたたりました。翌日は環境・国交省に、資料請求にとも思いましたが、午前中に帰路に着きました。

 全国連絡会のホームページも更新されず、メーリングリストも書き込みがない状態です。12月8日に名古屋のメンバーの設定で、実行委員会を持ち、今後のインターネット戦略を話し合う予定です。 

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