海と島と柿本人麻呂の歌碑(1)
芦屋市 藤井新造
海とは何か。私は確かに幼児から海の子であり、海で泳ぎ、貝をとり、魚を釣り海と共に育った。今も冬場を除いて、何回か一人で芦屋浜へ行く。干潟はほんの少ししか残っていないがそれでも海を見たくなる。そして暫く海の波と六甲の山々の稜線を眺める。それだけであきたらず、時には明石の海を見に行く。その時の私の心情は海に癒されたいという高尚なものではなく、ただ漢然と見るだけで心が和み深く考えたことはない。
私が生まれた田舎(旧松山村大字大薮、現坂出市大屋冨町)の海は波があまりたたない穏やかな凪の海である場合が多かった。
学校に通っていた期間(中学~高校)、特に夏は休み日数が多いが、この間みかん畑の除草、消毒、肥料まき、そして冬にはみかんの収穫時にみかんのもぎり、山からみかんを担いで降ろすなど手伝っている時、目の前に海があった。そして海の手前に西へ向かって林田町、坂出市の方へ海岸線ぞいに延々と塩田が広がっていた。村では水田の米、新田の野菜と並んで塩業(塩田)が主産業であった。夏には、みかん畑の除草、山で草を刈りみかん畑の木の下に敷く仕事が終わると、山を降り弟と海に入りー浴びして汗を流して帰る時もあったが、冬の海に近づくことはなかった。
昔は、京阪神のみならず名古屋あたりから金平神宮詣での船が海上を往ききしていたと、私は祖母から聞いていた。私のから乃生岬まで東北の方向、高松市に向かって約10キロ位弓状に道が走っている海岸がある。冬は俗に言う金平さんまいりの船が、北西の風にあおられて難破し、その船に乗っていた人達の死体が打ち上がってきたという。
その時、行方不明になった家族を探しにに死体の検分をしに来る人があったが、殆ど身元が判明せず帰って行ったらしい。私の祖父が身元不明の二組の遺体を火葬し、今でも祖父母の墓の横に、名もない小さい墓(高さが5 0cm位だろうか)が二つある。祖母はわが家が繁栄しているのは、祖父のこのような慈悲深い心に仏が答えてくれたおかげと、それとなく私に語っていた。
私は祖父母の墓参りする時、この祖母の言葉を思い出し、今でも苦笑しながら何時も二体の名もない無縁仏の墓に自然と手を含わす習慣が続いている。
瀬戸内でも北西の風が強く吹く冬の海の怖さについては、船が難破する程荒々しい海に変化することを小さいときから聞かされていた。
太陽は冬でも夏でも塩飽諸島の高見島、広島、佐柳島あたりに何時も沈んで行く。陽は冬と夏とは左右どちらかに(南の高見島から北方向の広島までの巾広い範囲で)沈んでいったに違いない。それが私には何時も同じ島々の間に沈んで行く錯覚を感じさせた。多分、夕方島々の姿がよく似てそう見えたのであろうか。
深紅の太陽が西の島々に沈む時、だんだんと小さくなり海に入って行く。この神々しい景色にきれいだ、美しいなあ一と感じていたが、それより私には今日一日の仕事が終わったという解放感の方が強かった。
夏の間、目の前の島々、牛島本島、広島、高見島、佐柳島へは父の仕事(除虫菊の売買)に連れ立ってよく行った。父は私をその仕事を引き継がせようと島々に渡り、除虫菊の買い方を見せたかったからである。
父が敗戦により中国より帰還したのは私が小学校の5、6年生位であったろうか。戦後、上記の島々には宿泊施設はなく、島の有力者(村長とか網元)の家で、他よりは少し大きい家に泊まっていた。どの家でもおかずの魚は何種類もでるが、主食のご飯は米粒はなく、さざぎと麦の入った茶がゆであった。この主食は、私が父と島へ行っていた期間、1955年頃まで続いていた。
上記の島への船便は今でもそうであるが、高見島、佐柳島、広島、白石島へは多度津港(金平詣での船着場)よリー日2回の定期船が、牛島、本島へは丸亀港から下津井間の定期便は数多くあり、この便の船は大きかった。何時も父と一緒の短い船旅であった。
続く
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