『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』昭和の旅の巨人 宮本常一 **<2003.7. Vol.24>

2006年01月09日 | 川西自然教室

昭和の旅の巨人 宮本常一

川西自然教室 井上道博

 “私は伊予の小松から寺川という所へこえました。(中略)この道がまた大変な道で、あるかなきかの細道を急崖をのぼったり、橋のない川を渡ったりして木深い谷を奥へ奥へと行きました。その原始林の中で私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。しかし一見してはそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を、肩から腋に風呂敷包みを欅にかけておりました。大変なレプラ患者なのです。全くハッとしました。細い道です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。すると相手は、これから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分からないと答えました。そのうち少し気持ちも落ち着いて来たので「婆さんはどこから来た」ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。「こういう業病で人の歩くまともな道は歩けず、人里も通ることが出来ないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ」と聞き取りにくいカスレ声で申します。老婆の自分のような業病の者が四国には多く、そういう者のみ通る山道があるとのことです。私は胸の痛む思いがしました。”

「忘れられた日本人」土佐寺川夜話(岩波文庫)より

 1960年に出版された「忘れられた日本人」に書かれた土佐の山奥の村へ今も尋ね歩く若者がいるといいます。

 古くは歌人西行、江戸時代の芭蕉、菅江真澄、木食明満、伊能忠敬と旅の系譜に欠くことの出来ない人に、昭和の旅の巨人宮本一(1907~1981)がいます。戦前から戦後にかけてズック靴に薄汚れたリュックにコウモリ傘をさげて、辺境の地に生きる日本人の生きざまを記録した宮本常一の歩いた距離は73年の生涯に延べ4千日、地球を4周する16万Kmにのぼり民家千軒以上に泊めてもらい話を聞いたといわれています。昭和15年には1月から3月に、屋久島、種子島、大限半島から椎葉村。4月には伊豆西海岸から山梨へ。5月から7月はトカラ列島から奄美、鬼界ケ島。11月には新潟から北上青森から岩手、福島。昭和10年2月に愛媛、高知、徳島。4月に淡路島。7月に津軽。8月に美濃がら近江。9月に伊予がら大三島、因島。10月越前。12月に土佐と伊予を歩いています。

 また宮本の生涯に深くかかわつた渋沢敬三という人物を抜きに語ることは出来ません。渋沢敬三は、第一勧銀、東京火災、石川島播磨、東洋紡、新日鉄、キリンピールなどを設立し、「日本資本主義の父」とよばれる渋沢栄一の孫で日銀総裁や大蔵大臣も務めた人ですが、自宅にアチックミュージアムをつくりずっと民俗学、民族学のため援助をし続け、その遺志は今の国立民族学博物館に引き継がれています。

 宮本は晩年昭和52年には、山口県光市の周防猿回しの復活に力をかすなど、社会の底辺に生きる人、虐げられた者への愛情をもち続け、昭和56年1月30日、73歳の生涯を閉じました。

 “夏の晴れた暑い日の稲を見ると、ゴクリゴクリと田の水を飲んで、稲の葉が天をさしてのびていくのが分かるような気がするという。秋になって田に入れた水を落としてやると、その水がサラサラとさも自分たちの役目を果たしたようにさっぱりして流れていくのがわかるという。「はあ、みんなの声がきこえるような気がしますね」”

「忘れられた日本人」文字をもつ伝承(二 )
参照 佐野真一「旅する巨人」文藝春秋 

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