『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

≪E-mail news≫「高尾山の自然をまもる市民の会」からの署名要請

2013年12月31日 | E-mail news より

「高尾山の自然をまもる市民の会」から署名の要請です

 以下、署名文を紹介します。よかったら署名用紙をE-mailにてご請求ください。そして署名用紙の宛先まで郵送してあげてください。よろしくお願いします。

署名用紙申込先 piano_tuner_fujii★maia.eonet.ne.jp
             ★印を@マークに変換してください
             ファイル形式はMS社のWordかAD社のPDFになります

***********************************

緑地保全と自然保護の精神に立った公正な判決を求める要請書

  ミシュラン三ツ星・高尾山の前山(さきやま)である金比羅山は高尾山と並んで地元住民にとって最も身近な山です。山頂の金刀比羅神社は地元の神社として大勢の人びとが参詣し、その境内は地元住民のコミュニティの場として利用されてきました。

 金刀比羅神社は江戸時代から現在の場所に建っていますが、1985年には、神社の敷地の当時の持ち主であった学校法人矢野学園が金比羅山の山頂を30メートル削って学校の造成をしようと東京都に開発許可を申請。1990年9月に都は条件つきながら開発許可をしたものの、自然破壊を許さないという住民の運動によって、矢野学園は1993年5月に造成計画を断念した経過があります。

 矢野学園が金比羅山の開発を断念した背景には、金比羅山の頂上にある金刀比羅神社の敷地利用権が存在していること、金刀比羅神社の存在と金比羅山の緑地が一体の自然環境として地元住民から支持を受けてきたからです。

 こののち、住民の請願を受け、八王子市は、2006年2月20日に、金刀比羅神社を中心とする金比羅山を「市街地内丘陵地のみどりの保全に関する条例」に基づく斜面緑地保全区域に指定。矢野学園所有地である金比羅山も市の買収確保地になりました。

 ところが、2013年2月26日、矢野学園はその所有地を三和土木株式会社に売却し、この会社が開発を名目に金刀比羅神社の立ち退きなどを求め裁判を起こしました(東京地方裁判所立川支部民事3部平成25年(ワ)第1220号。)。

 金刀比羅神社が土地を利用する権原をもっていることは、同神社が長年同地に存在し、祭祀などの活動を行い、長年にわたり神社の敷地及び通路の土地所有者もこの利用を認めて来たこと、同神社が地元の住民に親しまれてきたことに示されています。また、前主のもとでは緑地保全区域とされていたものが、土地の持ち主が変わるだけで覆されるというのでは、緑地や自然の保護はできません。

 裁判所が、緑地保全や自然保護の住民の願いを理解され、金刀比羅神社が土地を利用する権原を持っていることを認める公正な判決を言い渡されることを求めます。

東京地方裁判所立川支部民事第3部 殿

高尾・浅川の自然を守る会
浅川地下壕の保存をすすめる会

署名の連絡先
〒193-0841 八王子市裏高尾町1343-1
高尾山の自然をまもる市民の会
Tel&Fax 042(662)8115
Eメール cap-mt.takao★nifty.com(★印を@に替えてください)

***********************************

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』バックナンバーの一部を処分します

2013年12月23日 | 日記

『みちしるべ』バックナンバーの処分

 年末、この時期になると、大掃除をしたくなるのが日本人かな? とはいっても、あまり片付けの上手な方ではないのですよね。

 特段、体の変調がある訳でもありませんが、歳柄、身辺を整理しだしています。そのような中、部屋の片隅を占拠していた、『みちしるべ』のバックナンバーの山が気になっていました。

 創刊が1999年9月でした。原則、2ヵ月に一度の発行で、2013年11月号がNo.81になりました。印刷したモノの残りは、ずっと保管していましたが、大変な量になってきました。11月号の印刷の際に、印刷をずっと担当して頂いたKさんと、澤山画伯に了解を得て、一部を処分することにしました。

 とはいっても、20冊を上限に、各号を残すことにしました。既に、バックナンバーがなくなったものもあります。多い号では、30~40冊も処分になります。当初、550冊を印刷配布していましたが、組織体制の変更などと共に、徐々に変動しながら減っています。現在は350冊を印刷しています。

 創刊から第5号までは、亡き砂場徹・初代の代表世話人が、ワープロで作成しています。以後、第55号までを、澤山画伯が担当しました。勿論、ワープロデータも存在が不明ですし、澤山画伯もパソコンデータが残っていないようです。その後のモノは、一応、デジタルデータを残しています。

 このブログにアップした記事は、デジタル復旧しています。以前のもので、デジタル化がされてなくても、印刷データはすべてそろえていますので、今後、ブログアップしてゆきます。

 かつて、第54号にバックナンバー在庫(第52号まで)を発表したことがあります。が、殆んどご注文はありませんでした。そんな経緯もあり、最小限の在庫に減らさせて頂きたいと思います。

 今回のバックナンバー処分にかかわらず、ご注文には、最大限お応えしたいと思いますので、ご請求いただければ幸いです。また、いずれにしてもデジタル化して、総ての記事は保存したいと思っています。

 このところ、周辺の高齢化に伴い、古新聞やチラシ・雑誌の資源回収をお手伝いしています。町会の子供会が資金稼ぎ(西宮市の補助制度)で、毎月資源回収をやっております。1ヶ月分の古新聞は、お年寄りには重量物になってきます。

 そんなわけで、2軒分の古新聞やチラシを出しています。それと一緒に、年明けの資源回収に協力し、『みちしるべ』バックナンバーを処分したいと思います。

 一応、年末(12/28)の例会<忘年会>に、ご報告させて頂きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

≪E-mail news≫京丹後市・経ケ岬に米軍基地はいりません=平和の叫び&人間のくさり=

2013年12月18日 | E-mail news より

言いたい放題・もの申す≪迷惑通信≫by M.Hirade

京丹後市・経ケ岬に米軍基地はいりません
=平和の叫び&人間のくさり=

 京都府のいちばん北にある京丹後市。美しい自然に恵まれたこの地に住民に十分な説明がないまま、航空自衛隊経ヶ岬(きょうがみさき)分屯基地にレーダー基地とともに米兵など約160名が配属される計画が進行中です。

 12月15日、地元の「米軍基地建設を憂う宇川有志の会」の呼びかけで、開催された「京丹後市・経ケ岬に米軍基地はいりません 平和の叫び&人間のくさり」(午後2時/京丹後市約所前)に参加しました。

【北の弾道ミサイル追尾、京都にXバンドレーダー 空自基地に来年設置】

 日米両政府は、弾道ミサイルを追尾できる、「Xバンドレーダー」と呼ばれるアメリカ軍の高性能レーダーを京都府京丹後市の航空自衛隊・経ヶ岬分屯基地に配備する計画で、12月12日開かれた日米合同委員会で、レーダーを設置する用地として、民間から借り上げた土地と経ヶ岬分屯基地の敷地、あわせておよそ3万5000平方メートルをアメリカ側に提供することで合意しました。

 これに関連して、小野寺防衛大臣は、東京都内で行った講演で、「来年にはレーダーができ、何かあった時には、日本とアメリカに情報が送られることになる」と述べ、来年中に、レーダーが設置されるという見通しを明らかにしました。国内で、Xバンドレーダーが設置されるのは、青森県つがる市の航空自衛隊・車力分屯基地に続いて2基目となります。

 京丹後市の中山泰市長は、「住民の安全・安心を確保するために提示した条件を確実に守り、今後も住民に不安や懸念がないようすべてにおいて誠実で丁寧な手続きを強く要請したい」とコメントしました。

【12月12日 18時03分】

 丹後半島、特に経ケ岬一帯は、ジオパ-クに登録、国定公園にも指定され、京都府や国指定の希少種・絶滅危惧種や穴文殊などの自然を育んでいます。京丹後はこうしたし自然と人知を尽くして生活している人々のものです。また、米軍基地と米軍人、軍属は、日本の国内法の埒外にあり治外法権です。日米地位協定の抜本的改正なしに住民の安心・安全はまもれません。京丹後で暮らす人々の生産と生活を踏みにじって進める米軍基地建設は直ちに撤回すべきです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

≪E-mail news≫東京都の喘息患者への医療費助成制度が縮小&廃止の危機

2013年12月18日 | E-mail news より

道路全国連のお仲間(東京都)である長谷川さんよりメールがありました。以下に全文、ご紹介します。

 東京大気汚染裁判で勝ち取った原告と被告との和解に基き行われている喘息患者への医療費助成制度が縮小&廃止の危機に直面しています。

 都は、新年度よりの新規申請を打ち切り、また制度自体を3年程度で終了する案を発表しました。主な要因は国とメーカーが財源の拠出に難色を示していることにあります。(下記ニュースリンク参照下さい)

 喘息患者会や東京大気汚染裁判弁護団などは、東京都と共に国やメーカーへの制度継続の要請行動を既に行っておりますが、都が市区への説明を始める14年度新年度初めや制度変更をする為の条例変更を予定している14年9月まで断続的に抗議行動と要請行動を予定しています。

 都庁前の座り込みなども予定しております。

 今後、私の方からも、東京あおぞら連絡会などからの行動予定を逐次お知らせしますので、首都圏の方々を中心として、行動への参加や支援へのご協力をお願いいたします。 以下は昨日行った環境庁交渉時の申し入れ書です。

 ********************************************

2013年12月17日

内閣総理大臣 安倍晋三 殿
環境大臣    石原伸晃 殿

東京大気汚染公害裁判原告団  団長   西 順司 
東京大気汚染公害裁判弁護団  団長   鶴見佑策
東京公害患者と家族の会     会長代行 秋元正雄
東京あおぞら連絡会         理事長  清水鳩子

申入書

 貴職におかれましては、日頃より環境改善と公害被害者の救済に尽力されており、敬意を表します。
 国との間では、東京高等裁判所ならびに東京地方裁判所に係属した東京大気汚染公害訴訟において、2007年8月8日和解が成立し、国が制度創設にあたり、公害健康被害予防基金から予防事業の実施にあてるためとして、60億円を拠出したなかで、2008年8月から、東京都は、大気汚染医療費助成制度をスタートさせました。認定された患者は、2013年11月末現在で、総数77,003人を数えるまでになっています。
 同制度実施にともない「お金の心配がなく治療に専念できるようになった(79.5%)」「積極的に治療しようと思えるようになった(67.7%)」のみならず、「症状が改善した(52.0%)」との声が寄せられ(東京保険医協会患者アンケート調査)、都民の健康回復に大きな効果をあげております。
 このような状況に加え、実態をよく知る東京都内の地域医師会53の内、41の医師会から都知事あてに、全額助成を変えることなく同制度を継続するよう求める要請書が寄せられ、また朝日新聞主催の喘息シンポジュームでも、制度の存続を求める識者の声が相次いでいます。
 この間東京都も、この状況を「よくわかっている」とその効果を承知し、大気汚染の状況に関しても「大きく変化はしていない」との認識を示していました。
 しかし一方で、東京都は、国および自動車メーカー各社などの再度の財源拠出がない限り、現行制度のままの存続は困難とし、今後の救済レベルの切り下げをも示唆しておりました。そして、12月都議会において、「2014年度末をもって新規の認定を打切り、その後は3ヵ年の激変緩和措置をつけるものの、それまで認定された患者については医療費の本人負担全額助成から3分の1助成に縮小する。」との方向を示しました。
 「新規認定打切り」については、絶対に認める事はできません。1988年の公健法指定地域解除にともなって、救済の道を閉ざされた患者が東京大気汚染公害訴訟によって、やっと手にした「救いの制度」なのです。
 また「3分の1助成に縮小」は、制度の意義を根底から覆すものであります。
 新規認定打切り、救済レベルの切り下げは、国、自動車メーカー各社と患者の間に新たな紛争の種を生むことにもなりかねません。
 77,000人を超す患者の多くが、この制度が突然変更されるなどとは思っておらず、恒常的な制度だと思っています。国におかれては、本制度の存続のための責任を果たされるよう申入れます。

  ********************************************

 取り急ぎ第一報は状況報告です。

 

東京都:ぜんそく認定中止、患者助成も縮小へ 拠出金尽き

毎日新聞 2013年12月05日

http://mainichi.jp/select/news/20131206k0000m040025000c.html

 

患者団体など都の減額表明受け要望

読売新聞 2013年12月7日

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=89320

 

ぜんそく患者の新規認定 14年度末で取りやめ

東京新聞 2013年12月6日

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20131206/CK2013120602000113.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』第81号(2013年11月号)印刷完了 配布開始しています

2013年12月15日 | 日記

 大変お待たせ致しました。もう、恒常的な遅配に、みなさんも慣れてしまったのでしょうね。オイオイ、師走も半ばでござる

 なかなか原稿の集まりが、〆切りに間に合わないのが悩みのタネですね。それぞれ、それなりの御事情があって、催促も充分ではなかったのですが……。

 ともかく、本日12/15に印刷・紙折・セットを、尼崎のKさんとS画伯、それに遅刻した私で行いました。本日中に、殆んどの団体と郵送も完了しました。

 団体によっては、その団体誌の正月号と一緒の配布になるようです。今しばらくお待ち願うところもあるので、ご容赦のほど願います。

紅葉する松もあるんだ!!!???

 午前中に印刷とセットを完了しました。私の担当分は、自宅に持ち帰り仕分け。お昼を済ませて、庭の猫ちゃん(野良か飼猫かは不明)のウンチの片付け。ついでに、気になったご近所の清掃をチョット済ませ、団体配布に向かいました。

 いつものコースで、武庫川右岸のサイクリングロードを、ひたすら宝塚に向かって北上していました。もう陽が傾きかけていて、北風も強かったですね。名残のコスモスも、必死に咲いていました。

 西国街道(国道171号線)に近づくころ、エーッ、松が紅葉しちゃっている。下の写真が、その松です。これは新発見か???

 実は、夕陽に染められているのです。水平近い太陽光線に、当る部分だけが真っ赤になっていました。対岸(尼崎側)は、日当たりも良く、殆んどの樹木が染まっていました。前代表世話人のO氏のマンションも、紅に燃えていました。

 松の紅葉という、非常に珍しい現象も、ほんの一瞬でした。直ぐに雲に隠れて、夕陽が消えてしまいました。元の松に変~身~ン。

 長距離サイクリングということで、荷物はできるだけ持たずに出かけました。いつもならデジカメも持たないのですが、何かあるんじゃないかと思って……。

 こんなに予測が当たるんなら、年末ジャンボでも買ってみるかな? でも、¥3000はモッタイナイな! というわけで、今年も貧乏で年が暮れようとしています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』横断車道(72)**<2013.11. Vol.81>

2013年12月05日 | 横断車道

明治維新の直前に、世の中が激変すると、大方の庶民は考えなかったに違いない。ただただ世の閉塞感に浸っていただろう▼蒸気機関の発明を端に、産業革命がおこった欧米で、大量失業が起きた。これに怒った庶民は、ラッダイト(機械打壊し)運動を起こしたと聞く。機械力は社会をよくしないと勘違いしたのか、とりあえずの仕事よこせ運動であったのか?急速な変化に、人々の心も社会も対応不能だったのではあろう▼ところが昨今、時代の流れが急速で、“10年ひと昔”の変化を忘れてしまうのである。阪神淡路大震災から19年になろうとしているが、当時、携帯電話など特殊な人の持物。10年前、iモードはパケット料金が高額であった。今日、ネット接続機器としてのスマホが、主流となった▼変わり行く時に流されて、変化に順応しているかに見えない事も無い。が、人間の根本問題について言えば、激変しようとしている時代に、殆ど気が付いていないのが庶民ではなかろうか▼高度な文明を誇ったイスラムの民が、ヨーロッパの遊牧の民に、十字軍などという山賊・海賊の軍事力に浸食された。そして、何世紀も続く欧米の文明と軍事力が、世界を支配してきた。それがあまりにも長かったので、崩壊の序章が始まったのにも気が付かない。江戸時代が長く、変化に鈍感になったことと共通する▼第二次大戦後、欧米のリーダーとして、唯一の戦場にならなかった米国が覇権をふるってきた。その力は、今も軍事力では世界を圧倒する。その経済がおかしくなっている。経済力に比して、借金をしてよい限度を越してしまったのだ。昨年末の“財政の崖”は、クリアしたわけではない。財政法の規制を緩和して、借金の限度額を増やしたに過ぎない。今後、この収支を改善できるプランはないのだ。唯一、軍事力の大量削減だけが、生き残るすべなのだ▼安倍内閣をして、自衛隊を米軍配下に仕組む画策がある。『特定秘密保護法』は、米軍の一部になるためには、情報ダダ漏れの自衛隊では都合が悪い。正に米軍に要請された法律。だが右翼安倍内閣は、戦前の『治安維持法』にまで強化するつもりは明らかだ▼欧米の覇権の次に来るのは、明らかにアジア。それも公称13億の中国の台頭だ。GDP(国内総生産)で米国を抜くのは、2016年だといわれている。軍事力で超えるのも、そう遠いことではない。その際、国民に選挙権のない国体に、覇権が握られることに懸念が無いではない▼現代軍事力は、人類滅亡を簡単に遂げられる威力がある。大国が軍事力で覇権を握る時代は、この先に選択肢としては無い。国際的に市民が手を取り合う時代が来たといえる。インターネットの技術は、それを可能にしている。米国が覇権を維持する悪あがきを許すのか、中国がその座を取得するのを黙認するのか▼時代は、すべての人々に問題提起を突き付けているのだが (コラムX)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』今年もあと五週間になった(斑猫独語 58)**<2013.11. Vol.81>

2013年12月05日 | 斑猫独語

今年もあと五週間になった(斑猫独語 58)

澤山輝彦

 画でもさわるか、本でも読むか、俳句でも作るか、という気になってひとまずスタートしようと机に向かったのだが、まわりに色々な物を積み重ねてきたのが眼につきだし、これを片付け始めたところ、あれもこれもと大げさな事になってしまい、ほとんど午後半日を費やしてしまった。こういう発作を年に何回か起こしている。

 この片付け仕事なかなかてきぱきと進まないのである。写真が見つかれば、どこで、いつのことや、と昔の事を思い出すのだから時間はかかる。コピーした文書などやはり読んでしまう。そんな中の一冊の雑記帳に、川西自然教室が第二名神反対運動に取り組み始めた頃の事だろう、童謡や唱歌、世界名曲の歌詞を第二名神反対という替え歌にしたものを書き留めていたのを見つけた。すっかり忘れてしまったけれどやったことは思い出した。ほんの一晩か二晩の乱造物であるが、まあ懐かしい物であった。

 能勢電に乗って川西能勢口へ出る途中で、能勢電をまたぐ第二名神の架橋工事現場が眼につくようになった。山は無惨にけずられている。反対運動って何だったんだろう。そんな気がする。一つは、あの運動の総括が出来ていないからであると思う。(総括という言葉に何か懐かしみを感じるのだが)もとより私達の運動で第二名神がつぶれるだろうとは思っていなかったけれど、そんな中での運動だ、何か得るところ、価値あることがあったはずだ。そこの所をしっかり総括してこなかったことが、今、工事現場を眼にして、打ちのめされてしまうことになるのではないか。いや、ちゃんと総括はしてある、と言われたら夜都市波田(寄る年なみだ、こんな字に変換されました)と自分を責めて終りにしますが。

 今日、伊丹市立美術館でベン・シャーン展を見てきた。なかで、1954年の水爆実験に被災した第五福龍丸を扱ったシリーズ物の前で、しばし足が止ってしまった。ちゃんとこんな仕事がなされていたのである。この国の現状と言えば、3.11はもう昔のことにしてしまっている。外国には首相直々に出かけて原発を売り込んでいるし、原発再稼働の声は強くなる一方だ。新聞は原発再稼働反対のキャンペーンをはれない。秘密保護法まで出来てしまったのだ。ほんの少しだが芸術にかかわった私だ。厭な物はいや、憎むべきものは憎む、そんなことを根底にした作品を作らねばと思ったのだ。

 政治に不満があっても、元はと言えば選挙で彼等を選んだ人々があるからで、その結果がこうなるのだから仕方がない。でも、外国からそのやり方が心配されるような政治は、多数決の結果だから文句あんのんか、と言ってしまえばそれは危険だ。まあ、大衆がかしこくならなければいつまでたっても何を言っても無駄だ。

 ベン・シャーン展は12月23日までです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』赤い夕陽⑩ **さまざまなソ連将校たち**<2013.11. Vol.81>

2013年12月05日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑩ さまざまなソ連将校たち

三橋雅子

<ラボータ(労働)と国民性?>

 我が家と同居していたソ連の将校たちは、軍服を着るとバリッとして、ピカピカの肩章も似合う男前達なのに、どてらを好んで着て蓄音機に耳を当て、いつまでも飽きることなくトランプに興じるさまはあどけなかった。暇さえあれば遊ぼう、か歌おう。彼らの勤務はどうなっていたのだろう。たまに一人が軍服を着て、後ろ髪を引かれるように、口をへの字に曲げて出かけていくのを、遊びの輪にいる同僚たちは口笛を吹いて「なんとかかんとかタワーリシチ(同志よ)」とほざいてザマーミロのごとく見送るのであった。

 しかし朝から晩まで彼らに付き合って機嫌を取って暮らすわけにはいかない。食べ物に不足することはなかったらしいが、まともなお米などはなく、混入している稗や石などを選らなくてはならない。あるいは玄米のままを、一升瓶に入れて、棒で搗いて白くする仕事があった。「明日の糧の為に我々は働かなくてはならない。ラボータ、ラボータ(労働)」というと、彼らはこのラボータには殊の外弱い。「働かざる者食うべからず」(いわゆる「スターリン憲法」の第12条・労働の義務規定)のお国柄では絶対の切り札で、諦めて解放してくれるだけでなく、彼らも喜んで「ラボータ、ラボータ」と手伝ってくれた。彼らの腕力で一升瓶をシャカシャカやると、たちまち白いお米になるのだった。「オーチェン ハラショー(very good),スパシーボ(thank you)」と言えば、子供のように喜んではしゃいでいくらでも、もう十分、と言ってもやってくれる。「もうお米粒が小さくなっちゃう、もったいないから止めて・・・酒米じゃあるまいし・・・」と止めるのに必死。彼らは腕力に優れているだけでなく、飽きることを知らず、始めた仕事はいつまでも根気よくし続ける特性があるようだった。

 後に佐貫亦男著『発想のモザイク』を読んで、各国の民族性の洞察に驚いたが、その中でロシヤ人の特質は一旦やり出したら、やめない、止まらない、という持続性が記されている(時定率に対して、出力がいつまでも落ちない)のを発見して、「これだ!」と膝を打った。あの時の観察、感想は間違っていなかった、と懐かしく思った。「ロシヤ人は道に水を撒け、とひとたび命じられると、いつまでもこの作業をし続け、雨が降ってきてもまだ撒き続けている」というジョークには吹き出してしまうが、如何にもありそう、とうなづける。

 ついでに彼らの「特性」を思い浮かべると、何となく愛嬌のある「抜けている」性癖があるようだ。ソ連の兵士や憲兵達は、物を探すのに誠に大雑把で、押入れを片方開けて目指すものがないと、「ニエット」と諦めよくスタスタ行ってしまう、ということがある。実際、どやどやと踏み込まれて押入れに隠れた女性が、反対側の襖をガラッと開けられて、ああ次はこっち側、もう駄目だ、と観念してぶるぶる震えていたら、そのまま行ってしまって、拍子抜けの命拾いをした、ということも聞いた。また運悪く、潜んでいた方の襖をガラッと開けられて「もう駄目だ」と観念し、破れかぶれで「わーっ」と大声を出して首っ玉に飛びついたら、相手は腰を抜かしそうに驚き、振りほどいてほうほうの態で逃げ去ったとも。あれで兵士が務まるのかねえ?最後まで諦めるものではないよ、と彼女は述懐していた。

 そういう時必ず引き合いに出されるのは中国人のしぶとさである。彼らが押入れの片方を開けそびれるなどということはあり得ないし、探し物をするときは、壁という壁までコンコンと叩いて異常を確かめる。日本人は初め、その行動を理解できず、やや経って、大事なものを壁の中に隠すという方法を知る。日本人の知恵はせいぜい庭の土を掘って埋めることくらいだが、それも目印に木の周辺だったりする幼稚さである。我が家が庭に埋めたという、いくつものお金の袋は、庭中に水が撒かれ、凹んだところを掘り起こして、ことごとく持ち去られたらしい。天井裏に燈火管制時の黒い布にさりげなく包んで放り投げてあったお金の包みも、ソ連軍の引揚げまでは無事だったが、中国支配後は電線を張り巡らせて、ことごとく持ち去られていた。彼らが生き抜いてきた知恵からは、日本人の隠し所の看破など、赤子の手をひねるようなものなのだろう。

<ケレオの失敗>

 ある時ケレオが、バザール(市場)に行ってきた、と言って、新聞紙に包んだ小鯵をから揚げにしてくれという。

 中身が如何にも少ない。母はこれっぽち?自分の分しか買ってこなかったのか、ケチだねえと言いながら調理をしかかった。彼は頭を掻きながら説明をする。バザールで買った新聞紙の包みを持って彼が歩いていると、「モシモーシ、モシモーシ」と呼びかけられたが、立ち止まっても意味が分からない。そのまままた大手を振っていくとまたまた何回もモシモーシと言われる。彼は軍隊の行進のような格好で、大股で両手を振って部屋中を歩き回り、時々傍らによってモシモーシとよびかけるジェスチャーを何回も繰り返す。そのうち沿道で笑いあったりする身振りも添え、「ヤー ニエポニュマーユ(分からない)」と首をすくめたまま家に帰ってきたら、中身がこれっぽっちしかなかった。途中で、あらかた振り落してきてしまったらしい、と肩をすくめて泣きべその顔をする。私たちはもうおかしくておかしくて、涙が出るほど笑い転げた。出来上がった唐揚げを、「はい、よく分かったから、お一人で全部召し上がれ、ポジャールスタ(どうぞ)」と差し出すと彼は首をすくめながら、ニエットニエット(いや、いや)、みんなで食べよう、と一匹づつ口に入れてくれた。笑い転げた後の、久しぶりの珍しい御馳走はまさに「オーチェン ハラショー!(very good)」であった。今でも鯵のから揚げには、この時のおかしさが出てきてしまう。

<最初が肝心?>

 彼らがあまりにレコードのボリュームを上げて、ガンガン鳴らしていると、父は「うるさい!もっと小さくしろ」と遠慮会釈なく怒鳴りつけた。首をすくめるくらいでいうことを聞かないと、父は「ここを誰の家だと思ってるんだ!居候らしくしろ!」と怒鳴りつける(自分自身「追い出され先」の居候なのだが)。彼らは首をすくめながら「パパさんフィーッ」と追いやる格好をし、人差し指と中指をトコトコさせて手を払い、あっちへ行け、ヤーパン(日本)へ、というしぐさをする。2本の指は歩く格好なので、父は激怒して「馬鹿を言え!日本に帰るには海があるんだぞ、海が!誰が歩いて帰れるんだ!」と怒鳴りつける。私たちに「海はなんていうんだ、海があるといってやれ!」「えーっとモーリェ?モーリェ…だっけ」なんてその問答がおかしいやら・・・。しかし母が笑いながらもふっと涙ぐんだのを見て、帰りたくても帰るに帰れない父の、それ以上に、ハタチ前に裸一貫で「狭い日本」を飛び出し、この地に苦節40年、ひと言も口には出さなかったが、ここで骨を埋めるつもりで修羅場を潜り抜けてきた父の心情を垣間見た気がした。将校たちは、その剣幕に、素直にボリュームを下げ、座布団を上からかぶせたり、大きい図体を丸めて蓄音機に耳を付けて聞いたりしているのが、何ともおかしかった。

 隣の老夫婦がやってきて、ほとほとこまっている、とこぼした。訊けば餃子を作れと言われて作ったら、こんなもん餃子じゃない、と怒られて機嫌が治らない、作り方が分かったら教えて欲しいという。ロシヤの餃子ペリメニは女の眼という、中国のそれとは違った形をしている。私たちはそれは食べたことがないから作りようもない。父はまた激怒して、「そんなことをいちいち相手にしているから相手はいくらでもつけあがるのです。我々の餃子はこれだからこれしか作れない。いやなら食うな、自分で作って教えろ、と言えばいいでしょう。」とどなった。聞けば横暴は今に始まったことでなく、彼らのご帰還には、夫婦で三つ指をついて「お帰りなさいませ」と出迎えるのだという。そうでないと機嫌が悪く、やるまで上がってこない、とも。父はますます怒り、「戦争に負けたからって、誰がそんなことまでやれといってるんですか、大体三つ指ついて出迎える風習なんて、奴らが知ってるはずないじゃないか、スターリンなら、こうして出迎えるのか、と言ってやりなさい。平等の国じゃなかったのかい?そんなことをして、のさばらせているから、際限なく奴らはつけ上がるのです。敗戦国民だって、もっと毅然とするべきです」と、もう怒り心頭で、年長の夫婦に向かってどなった。そこにも父の「必要以上にへりくだる敗戦国民の悔しさ」が滲み出ていた。夫婦が帰ってから父は「最初が肝腎」といい、母は「子供がいなくて気の毒」とぽつりと言った。

 しかし子沢山の、反対側の隣家はもっと悲惨だった。子沢山ゆえに。我が家と大体同年輩のお嬢さん達は、同居の将校たちの眼を避けて、物置や天井裏に隠れて暮らしているという。時々草が丈高く茂った裏庭で、背の高い将校が「女の匂いがする」というようなことを呟きながら、鼻をぴくつかせ、鋭い目つきで草を掻き分けているのが怖かった。「隙を見て娘たちに三度三度のご飯を運ぶのがねえ」と老夫婦は溜息をついた。父は最初が肝心と言い、母はうちは良い連中に恵まれて運が良かった、と溜息をついた。

「同じ屋に喜怒哀楽を分かち合う将校達と我が家の幸運」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』富岡町の復興はるか遠い道のり**<2013.11. Vol.81>

2013年12月04日 | 神崎敏則

富岡町の復興はるか遠い道のり

神崎敏則

時計の針はピクリとも動いていない

 今では日課となってしまった、いくつかのMLをチェックしていると、福島へのツアーを募集しているメールに出くわした。早速参加希望を主催者である小林さんにメールした。目的地は福島県双葉郡富岡町。今でも線量は高いらしい。

 11月29日朝、新大阪駅6時23分発の新幹線のぞみの最後尾の車両の最後尾の座席で、西明石駅から乗っている小林さんに初めてお会いした(小林さんの募集に応じたのは僕だけだった)。東京駅で山手線に乗り換え、40分ほど時間待ちして10時発特急スーパーひたちに乗車し、12時2分にいわき市駅に到着。日差しはとても温かいが、日陰に入ると冷蔵庫の中を移動しているような冷たさだった。

 案内役の藤田さんと待ち合わせたのは、JRいわき駅前。藤田さんのワゴン車の後部座席に乗ろうとすると線量計が置いてあった。車が富岡町へ向けてスタートすると、いわき市内はほぼ0.2μ㏜前後。北隣の広野町に入ると、線量は変わらないが、道路わきの斜面などは幅1~2メートルほど草木を刈りこんでいる。いたるところに除染の跡がうかがえた。

 汚染土を包んだ黒い袋がJRのレールに沿って並べられていた。その西側には、広大な面積に黒い袋を並べた上に緑色のシートがかぶせてあった。「あのシートの下に除染袋は3段に積み上げられているんですよ」と藤田さんが説明する。

  広野町もその北隣の楢葉町も風景にさしたる差異は感じられない。除染が進んでいる中で、人々の生活が静かに確実にあった。畑は耕され、家々にも人の気配がうかがえた。 ところが楢葉町からさらに北隣の富岡町に入った途端に景色が一変した。

 海岸近くに行くと、うずたかく積み上げられたがれきの横に、建物の基礎がある。基礎以外の全てを津波にもっていかれたそうだ。その30メートルほど西には、建物の2階部分が地面に座っていた。海側の壁が抜かれたままの住宅。傾いたまま放置されている屋根。風雨にむしばまれていること、荒れた田畑に伸びる雑草の2点を除けば、富岡町の景色は、2011年3月11日の時を刻んだまま、針はピクリとも動いていない。

 小道の十字路に来た時「ここで警察が避難誘導をしていたんです」と藤田さんは説明し始めた。十字路から北へ2㍍ほとの道路わきに車の残骸があった。「これ、パトカーなんです。ここにパトカーの名残があるでしょう」と指さすその部分に、白色のボディーに黒色のペイントの帯が確かに確認できた。ボディーの鉄板が残っているのはその部分だけだった。ラジエータもエンジンもむき出しになっていた。運転席のラジオのチャンネルの上にあるはずのフロントガラスも天井も、天井に取り付けられていたはずのパトライトももちろんない。「ここで警察官2名が殉職しました。1体は沖合500㍍付近で発見されました。もう1体はまだ不明です。花が手向けられていますね」と語る。

 かつて特急が停車していた富岡駅は、改札の欄干だけがホームの手前でさびしそうにたたずんでいた。案内役の藤田大さんは「改札の横のここには駅舎があって、穴空きのガラス越しに切符を手渡す窓口があって、高校時代に毎日通ってたからすごく思い入れがある場所です。あの頃はホームに立っても海がこんなに近いとは思いませんでした」と聞き、けげんな顔をすると「駅の向こう側は家が建ち並んでいたので海が見えなかったんです。」と説明される。改札の欄干以外に駅舎で残っているのは、上り線ホームと下り線ホームをつなぐ陸橋のほか、目を凝らしてみなければすぐには分からない看板や、使用不能なトイレしかなかった。そしてかつてはあったはずの民家は基礎のコンクリートしか残されていなかった。

ゼネコンのための復興なのか

 「下水処理センターの外観はそれほど傷んでないように見えるでしょ。でもポンプや設備などはもうダメだし、中はぐちゃぐちゃなんです。震災前は富岡町の人口は1万6千人ほどで、センターの中の処理槽は3つあったんです。復興を進めるためにはとりあえずは1槽だけ稼働できるような処理センターを造ればいいはずなんですけど、国から助成を受けるとなると、震災前と同じ3槽とも稼働できるものを造るように決められている。そうすると町の予算が立たなくて、処理センターの建て直しに手がつけられない。おかしな話でしょう。」と説明される。誰のための復興なのか、町民のためであることは間違いないが、軸足が、受注するゼネコンに移動してはいないだろうか?

 富岡町は、年間線量でいえば20m㏜以下の避難指示解除準備区域、20~50m㏜の住居制限区域、50m㏜以上の帰還困難区域のどれかに指定されている。除染が始められつつあるのは、20m㏜以下の区域だ。50m㏜居住困難区域にある住宅には出入りができないように、H鋼を横たえた上にガードレールを固定し、玄関前には鉄製の引き戸がつけられ、ご丁寧に南京錠がかけられている。藤田さんは物々しさにあきれ果てて「やっぱりゼネコンのためなんだろう」とつぶやいた。

賠償金とアリ地獄

 やっと除染がはじまりだした。でも順番が気になる。小学校の広い校庭は一面7、8㌢も表土を取り除いている。藤田さんは「少し早すぎますよ」と語る。

 校門のすぐ手前にバイク屋があり屋外に5、6台のバイクが並んでいた。ブルーシートの残骸がハンドルやシートにまとわりつき、ぼろぼろに引き裂かれた青い繊維が風にたなびいていた。「ここは僕の同級生の渡部君の家で、お父さんは新潟の方に避難していたんですけど、バイクの整備やパンクの修理をしていて生計を立てていた人が、他のことでなかなか働けないでしょう。お父さん自殺したんです。」と聞かされ、返事ができなかった。

 いわき市に戻る車中で、「僕もいわきで生活していますけど、3人の子どもたちがいるのでもう富岡町に戻ることはありません。子どものいる家庭はどこもそうだと思います」と複雑な思いを語る。

 「地震や津波で家を失ったりしたら、あきらめもついてそこからスタートすっぺと割り切れるんですけど、東電という加害者がいると難しいんです」と藤田さんは言う。「事故前に夫が月収30万で、妻のパートの収入が10万で、原発事故のために仕事を失ったらその分が東電から40万賠償されます。それに子どもが2人いたら、精神的な苦痛を与えているということで一人10万、4人で40万の慰謝料が毎月もらえます。月80万ももらっていて誰が働きます?」という藤田さんの顔は悲しそうだった。東電から補償金を得ているのか得ていないのかで、理屈では越えられない深い分断が生じている。そこには信頼関係など産まれないかのような深い溝があるのかもしれない。

 藤田さんは、事故直後に原発作業員がカップラーメンなどのインスタント食品などしか食べられない状況を知り、「しっかり栄養の摂れる弁当を作って出すから、俺にやらせてくれ」と東電の本店と交渉して許可を取り付け、弁当工場を建てて専務として事業を進めている。困難な状況に立たされても、しっかりと向き合ってそれらを乗り越えてきた。

 「原発が爆発したとき、子どもたちを守らねばと思い、今から出て行くぞと家族に言うと、長男が『いやだ』と言って逃げだしたので、追いかけてひっつかまえて車に押し込みました。息子は、『仲のいい友だちを置いて自分だけ逃げだすのはイヤだ』と言ってました。最初はいわき市内のマンションの4階で暮らしてたんですけど、子どもたちは以前と同じように家の中で走り回ったりとび跳ねたりして、下の階の人に迷惑をかけてました。苦情が来たのでそれからは子どもたちが騒ぎそうになると両手で体を抱きしめて『ここでは騒いじゃなんねえ』と言っても、子どもだから言うことをきいてくれません。自分が会社に出ている昼間に下の階の人から妻がどなられて、オロオロして会社に電話してきました。すぐに自分が話ししに行きました。『家の中では騒がないようにきっちり言ってますけど、子どもだからやっぱりおとなしくばっかりはできねえ。これ以上静かにしろと言われたら、子どもたちの足をちょん切るしかないです。何かあったら直接自分に電話してください』と言いました。もう妻には言わないだろうと思っていたんですが、それから2回も言われ、妻はノイローゼになっていました。それで仕方なく一戸建てを探していたら、僕は運が本当にいいんです。すぐに良いところが見つかりました」

 一つひとつ困難を乗り越える福島県民と、賠償金に溺れる福島県民。そのどちらもが現実だ。復興という表看板の下には、県民の抜き差しならない分断が横たわっている。原発震災がつくりあげた悲劇であり、人の心の弱さを映し出した地獄絵かもしれない。誰だって、賠償金に溺れたくはないはずだ。ただ心が弱いだけだ。アリ地獄から抜け出せないでいる状況は、どうすれば改善されるのだろうか?

*****************************************************

 翌日は、いわき市内の仮設住宅に行き、そこの自治会長さんのお話を伺いました。その内容は次号にて報告いたします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みちしるべ』18号台風水害被災地でのボラ活動に参加して**<2013.11. Vol.81>

2013年12月03日 | 山川泰宏

18号台風水害被災地でのボラ活動に参加して

山川 泰宏(甲陽園在住)

 2013年9月中旬に日本列島を襲った、18号台風は予想もしない地域の河川を氾濫させて大きな被害を残し列島を駆け抜けて去りました。

 京都市の有名観光地の渡月橋付近の豪雨災害の爪痕や土産物屋等の床上浸水被害など、近年にない自然災害の猛威は想定外と云えるのでしょうか、これも異常気象が引き起した現象なのでしょう。

 京都府福知山市内の河川氾濫の豪雨災害の爪痕等々大きな被害は被災地に横たわる流木のなせる人的災害にも思えるような気がします。里山の荒廃は保水力の低下と樹木の伐採したままの荒れ果てた山林の姿が見えてきたのかもしれない。

 多くのボランテアの人々が被災地にいち早く駆けつけ、高齢化した社会の中で、家屋の整理や清掃など取り残されようとした、被災された人々の為に奉仕しました。その各地域から、馳せ参じるボランテア活動の人々のニュースや、被災地の人々が安心感と安堵した笑顔で語る言葉。そして、災害から頑張ろうとした人々の勇気と希望の中で感じるのは、人々の共助の姿、喜びであると感じました。

***************************************

 さて、その中の一市民として神戸市社会福祉協議会の水害被災地支援ボラバスの一員として参加する機会を得て多少、書き込んでみました。

実施日:2013(平成25)年9月29日(日) 集合8:00出発8:30~帰着20:00
支援地:滋賀県高島市社会福祉協議会との連携で鴨川流域の
      堤防決壊水害被災地の泥出し作業等々
参加者:公募者を含め<総勢34名>
           ボランテア公募者    22名
           コープこうべ      4名
           神戸市役所      4名
           神戸市社協スタッフ  4名

 総計34名はチャータした観光バスで現地に向かいました。集合場所で、今年の8月宮城県名取市閖上地区で開催の、お盆追悼行事にご一緒した疋田ご夫妻とお会いし、また、竹灯篭つくりでご一緒した、滝川中の先生とも久しぶりの対面でした。

 高島市社会福祉協議会の担当者の社員の指示により、3班に分かれて被災地の泥だし、後始末等で活動をしました。

 私を含む2班は総勢22名で地元市民の集会所と民家の住宅片付け。集会室は床上浸水の被害を受け、畳や床材ははぎとられ、床下の泥出しが数日前に、ボランテアの皆さまの支援で床下の乾燥中の状況でした。

 しかし、集会所のそばを流れる生活用水排水路(横1.2メートル×高さ1.5メートル×長さ20メートル)は泥土で埋まり、地域の住宅地から集中排水も流れない状況で、参加者全員により、泥土の排出作業をさせていただきました。溜まった泥掻き後、生活排水が勢い良く流れる状況に、ほっとした安堵感、達成感がありました。

 神戸市社会福祉協議会の他に、他の団体も参加していましたが、共に助け合う「共助」の姿に、支援を受けた被災地の人達の笑顔が、印象に残りました。

 遥々、手弁当で参加して、被災地の一人一人、社会福祉協議会の皆さん、そして、ボラバスでご一緒できた仲間同士の助け合いと、交流の絆が災害被災地の中で芽生えた交流こそ大切にしたいものです。

 さて、環境都市に住まいをする西宮住民とすれば、もう少し、自己中心の生活でなく、――自助・共助・公助――について、言葉でない経験と実践で学ぶ必要があるように感じます。

 今、西宮市民は自己の遊びや学びには熱心であるが、その学びが市民生活の中に、何ら役立てられていないのではないのでしょうか?

 高齢者から団塊世代へ、そして働き盛り世代から、子供たちへの継続のない文教都市・非核宣言都市・環境都市宣言が、言葉だけの一人歩きの情けない市政であると思えてなりません。

 一人の高齢者が唱えても、現状の打破は困難です。その解決として訴えるのは世間の中を知ることです。今の西宮市住民は、小さき封建社会から外に出て学ぶべきでないのかと感じるのは自分だけなのでしょうか?

 西宮在住の皆さまには、そのような人はいないと思いますが、もう少し、地域社会との交流に高齢者も関わってほしいと感じるのです。

 本来ならば西宮市社会福祉協議会は、何らかの形で支援作りの担い手になってほしいものと思うのは私だけの感じでしょうか?

 しかしながら、多くの人達が手を貸して被災地の人達を手助けする優しさがある限り、頼もしく思えたと信じる貴重な体験に感謝しています。後期高齢者ですが体力の続く限り参加したいと思います。

2013年9月29日

参加者の写真を転用させていただきました。

排水溝の泥出し処理

写真は<トム吉の災害支援活動ブログ>より
http://ameblo.jp/tomkichige/day-20130929.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする