『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(67)**<2012.11. Vol.75>

2012年11月06日 | 横断車道

朝から晩まで、ほぼデスクワーク。気晴らしに外食したのを除いて、2日も続いた。ご多分に漏れず、パソコンとニラメッコである。溜まった仕事を一気に済ませる結果ではある▼インターネットの進化は加速的で、昨今、総ての事が網羅される。調べだすと限がない。これにハマると、ネット中毒症ということになるのかも。学業・生業は仕方なく社会と付き合うが、趣味の世界はネットの中。で、殆どの生活がそうなってしまう。バーチャルリアリティーだ▼本来、ヒトは社会的動物である。いくら社会との付合いを否定しても、関わらずに済まない。働くこと、学ぶことなど、社会的存在である。それを否定しては、生き辛くなって、結局のところ心療内科のお世話になることに……▼家庭崩壊やクラス崩壊の一因になっているような気がする。携帯電話がスマートホンに、急速に転換しつつある。スマホは携帯するパソコンに、電話機能が付いたものだそうだ。電車に乗っていると、携帯電話電源OFF車両でも、優先座席でも、スマホ画面上で指を滑らせている▼還暦を過ぎた者にとって、一歩部屋を出ると、他者とのお付合いがある。社会での生活が、殆どを占めることになる。バーチャル空間の入り込む隙は、殆ど無いと言っていい。ところが、若者の中には、スマホが無くなると生きて行けないという実態があるらしい▼ネット社会を有効に利用しているのであろうが、行き過ぎという事も無いではない。ある若手事業家の話であるが、スタッフには二通りあるという。一つは、仕事を覚えて独立してゆく者。一方は将来ずっと、雇われていたいという者だという。後者が圧倒的に多いらしい。中小業者にとって、どんどん独立してもらわねば、その職種では、高給の従業員を抱えて行けないという。他の業種を併設せねば……、と悩んでいた▼行き着いた職種と職場で、条件が如何とも、すがりつくしかない若者が多い現状を知った。経済社会の歪みがそうさせるのであろうが、空想空間で漂い、現実社会と向き合いたくない、若者なのだろうか▼ところで、旧態依然の組織が、ネットを忌嫌う傾向にあるのも、困ったものだ。組織連絡をメールで済ませられない。HPやブログの活用ができない。twitterやface bookのアカウントもないなど、現代社会のスタンダードに付いて行けない。これも問題であろう。若者と足して2で割る事は出来ないものか?そういえば、「みちしるべ」の電子版はないが…… (コラムX)

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『みちしるべ』斑猫独語(52)**目は口ほどにものを言う**<2012.11. Vol.75>

2012年11月05日 | 斑猫独語

目は口ほどにものを言う

≪人間は戦争する為に動物を利用した≫

澤山輝彦

 歴史を見れば人間はたくさん戦争をしてきた。戦争に勝つために様々な兵器を考案した。また機械ではない動物も使ったのである。大きな動物は人より力が強かったし、脅しもきいたのだ。ハンニバルがアルプス超えをした戦で戦争用の象をつれていたことは世界史の時間に聞いた。近代戦では軍馬、軍用犬などが前線で働いたし、軍需用皮革、羽毛の供給の為に飼育された動物なども間接的に戦争に加担する働きをさせられたのである。太平洋戦争中、今の羽曳野市、古市あたりに私は母と妹と三人で疎開していた。その時、近くにヌートリアを飼っていたプールがあり、そこで泳いでいるヌートリアをよく見に行った。あれは兵隊用の脚絆等をつくるために飼われていたのだと少し大きくなってから母から聞いた。(こんなヌートリア達が昨今の迷惑動物となった先祖なのかもしれない)科学技術の進んだ21世紀にもなればもう昔のように動物を利用しなければならない戦争などないだろう。そこで、過去の戦争における動物の働きを反省方々記録することが行われ、それが物語になったり、映画化されたりするのである。そんな物の一つとしてスピルバーグ監督の映画『戦火の馬』があった。私は宝塚のシネ・ピピアでそれを見た。

 第一次世界大戦、ヨーロッパの戦線に送られた馬の話である。戦争にかり出された馬は数千数万頭いただろう。その中の一頭と飼い主の少年とが主人公の話である。農耕馬として不適当と見られた馬が飼い主の少年と心を通わせいい馬になって行く。その馬が徴用され戦場に送られ苦労を重ねる。口がきけたらどんなセリフをはくのだろうと思った。少年(彼も大きくなっているから青年か)もやがて兵隊になりこれも苦しい戦争をする。塹壕から出れば機関銃の射撃でばたばた打ち倒される。それでも突撃だ。塹壕にただよう毒ガス、こんな戦場を少年の馬は走るのである。やがて毒ガスで目をやられて病院にいる飼い主の少年と馬が出会うというのが大筋だ。戦争場面でたくさんの馬か死んでよこたわっているシーンをみて、映画作りのすごさを感じたし、そんな場面(ここだけではないけど)から厭戦気分が少しでも生まれればそれはそれで娯楽映画も反戦映画になりうると思ったのだった。さて、戦争の為に馬を徴用する、というは勿論我国にもあったことだ。先の映画のように飼育者との別れはあったから、こんな歌が出来たのだろう。ご存じの方もおられるはずだ。「ぬれた子馬のたてがみを、なでりゃ両手に朝の露」という歌詞だった。これは母がよく歌っていたもので、これなどまさに戦火の馬に準ずるものであろう。このあたりはもうすこし深く軍歌などと関連づけて調べる必要があるだろう。この歌のメロディーが春歌になって歌われたのは後年職場の忘年会でのことだった。

 ところで動物の目だが、牛馬の目は大きくぬれていて常に何かを訴えている。もちろん喜びの表情も読み取れるが、つらさ悲しさなども訴えていると見てしまう。牛馬だけではないどんな動物の目も訴える物を持っている。私はそんな目に弱いのだ。活きづくりなんかきらいだ。辛さ悲しさ苦労はいやだ。それらが物語に、映画になって人に訴え、苦しみ悲しみに同情し同化しそれを避ける智恵を考えさせる。戦争の悲惨さを訴えることは、そこから戦争を避け、反戦の考えを生み出す。

 ところが、最近の戦争現場ではそんな相手に同情心がうまれたり、可哀想なんて気をおこさない冷酷な人間になるための教育が行われるという。戦争も目前のむごさを見ることのない距離をおいた電子戦争になっていく。遠くで引く引き金はまったくゲームと同じなのだ。ゲーム感覚で人を殺すのである。こんな時代に反戦を訴えるのに、これまでのような感情をたよりにすることは出来なくなるかもしれない。何か新しいテクニックで反戦を訴えねばならなくなるかもしれない。こんなことはすでに誰かが研究していることだろう。もし、まだなら平和側は戦争したい側に完全に負けていることになる。まあ、私達は戦争は絶対にしてはならない、このことを言い続けるしかないだろう。

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『みちしるべ』赤い夕陽(4)**言葉-その楽しさと残酷さ**<2012.11. Vol.75>

2012年11月04日 | 赤い夕陽

言葉-その楽しさと残酷さ(赤い夕陽 4)

三橋雅子

 青い表紙のロシヤ語会話本は、ますます貴重な必需品となる。1945年秋の満州新京市、もはや街頭の追剥などという生易しい時期は過ぎて、ソ連兵たちは容赦なくどんどん家の中に土足で入ってきては、あたりかまわず泥棒、強盗、多分強姦・・・とすさんだ軍隊の本性を露わにしてきて、おちおち、安穏には暮らせなくなってきた。ゲーペーウー(国家保安総局)などはあってないも同然、全くの無政府状態で、兵隊たちはすさんだ野獣が檻から解放されたかのごとく、好き勝手に力をふるって傍若無人のふるまいをしていた。内地での、アメリカによる占領が、GHQの整然とした統率のもとになされたらしいのと対照的である。米兵は略奪どころか、チョコレイト、ガム、たばこ・・・と永く日本人が飢えていたものを振舞ってくれたというではないか。以来根深い反ソ親米感情のもといの一つと思われる。(昨日までの「鬼畜米英」にかくもころりと感情を転換させる構造は理解に苦しむが)

 大人も何しろ初めて戦争に負けたのだから、何とも訳が分からない。戦争に負けるということはこういうことか、を毎日思い知らされ、身を守ることが精いっぱいであった。青い表紙のロシヤ語会話本が、引き続きどころか、これまでに増して大活躍である。

 玄関にどやどやと音がすると、「女たち」は一目散に逃げる。残る父とまだ「女」に非ざる小4の私が、玄関の荒くれどもと応対、「ダワイダワイ(早く早く)」とわめくのを、得意の「ズドラースチェ(こんにちは)」と、後は訳が分からなくても、手にした文庫本から何でも構わずロシア語を並べ立てることで時間を稼ぎ、「女たち」が物置や、離れに逃げ終わるのまでの防波堤になって、必死の対応。母に兄嫁、姉二人と、いつもどん尻になる、何かと要領の悪いねえやのお尻が見えなくなるまでの永いこと、こっちも思わず「ダワイダワイ(早く早く)」とどなってしまう。荒くれどもは聞きかじって、玄関の向こうで「シトー(何が)ダワイ?」などと言っている。やおら玄関を開けて、改めて「ズドラースチェ(こんにちは)」に始まる、やたらめったらの、訳分からずとも単語の羅列。

 彼らの要求は、ものの見事に一律「ジェンギ(お金)」と「チャスイ(時計)」であった。そのうち時計を、両の腕にずらりといくつもはめるようになり、それでもなおかつ「イッショー チャスイ イッショー アジン (もっと時計を、もう一つ)」なのであった。ちいちゃなコチコチいう機械が刻々時間を表していることが彼らには魔法のおもちゃに見えたのだろうか。果ては、これでお風呂に入ったら、みんな止まってしまった、と言って、怒っていることもあった。今のようにウォータープルーフなどではないのだ。ナルダンですら。止まった時計でも、時計ときたら、彼らはいくらでも欲しいのである。

 ある時、知り合いがやってきてこぼす。「こないだ、うちに来たロスケときたら、チャスイチャスイ言うから、お茶を入れてうやうやしくもっていったら『ニエット(no)!ニエット!』とお茶をぶちまけそうに、えらい勢いで怒られてねえ」と首をかしげる。チャースイ(茶水)は中国語でお茶のこと。ギャグではなく、大真面目でお茶を運んで怒鳴られるのを「理不尽」とは。チャスイは時計のこと、と教えると、「なーるほど」と膝を打って納得した。私は「大人って案外バカなんだなあ」と思った。

 またあるおじさんは、「どうもおかしいんだよなあ、ロスケに『ニーハラショー』と言うと、どうも不機嫌になる・・・」と首をひねる。彼は中国語の二人称「ニー」を使って、ハラショーはgoodだから「あなたはいい人」と機嫌を取ってるつもりだろうが、「ニー」はロシヤ語の否定語「ニエ」に聞こえて「よくない、よくない」と言われれば、自分らの非道ぶりを咎められているようで、良い機嫌になるわけはない。大人は日本語以外を使えばいい、中国語でも通じると思うのだろうか?と不可解であった。永く、占領国民として、他の理不尽なことと同様、日本語が大手を振ってまかり通ってきた。通じないのは常に相手が悪い、歩み寄りではなく、通じない不自由には常に相手が労を費やすべき、という理不尽な力関係を目の当たりに見てきた。そして周囲の現実は見事に流暢な日本語を操る中国人、韓国人達であった。卑屈なまでに。日本語は彼らの生きるすべとして必須の道具だったのであろう。

 しかし韓国人に至っては、自国語を使うことすら禁じられてきたのだ。こんな残酷なことがあろうか?無論今に始まったことではなく、アイヌの同化政策も同様であるが、国家というのはどうしてこう国の大義名分を使って、個人の幸せをないがしろにするのだろう。

 これまでの日本人の非道に耐えてきた人々は、今、この日本人がさげすんで来た「ロスケ」の言葉のチンプンカンプンの嵐を受けて、その狼狽ぶりをほくそえんで眺めていることだろう。幼い私は表現こそ出来なかったが、言葉の力関係の残酷さを身に染みて感じた。

 それでは、私のやっていること、ロシヤ語を必死で覚えることも同じことの裏返しで卑屈なことだろうか?とは、言葉を覚える楽しさで思い及ばなかった。それまでも4年生になると、中国語が正課に入って、身近に聞きなれている言葉を習うことは、とても楽しいことだった。しかし何と、習ってきた言葉を、家に帰って早速ボーイ達に使ってみるのだが、残念なことにほぼチンプンカンプンで通じない。誠にがっかりしたものだ。大きい兄が、中国は広い国で、方言がたくさんあるし満州語はまた全然違うからしょうがないんだ、と慰めてくれた。日本人学校で教えるのは多分北京漢話で使用人たちは様々な出身の言語だったに違いない。薩摩藩江戸屋敷でのお殿様はじめ使用人同士もチンプンカンプンの珍会話(井上ひさし『国語元年』)みたいなものか。狭い日本ですら、なのだ。

 少なくともその時は、ロシヤ語という、今まで聞いたことのない新しい言葉を覚える楽しさ、そして何より、それが相手に通じる、役に立つことが嬉しくて楽しくてしょうがなかった。見慣れないロシヤ文字も暇を見ては書いて楽しんだ。自分の名前をロシヤ文字で表し、兵士に読ませて、違うところを修正してもったりして自分の「署名」を確立したり、おもちゃには事欠かなかった。閉口したのは文法が分からないことである。大人に聞くということは昔はあまりしなかったように思うが、それより、大人は日々刻々の「安全」の配慮で、余計なことに耳を貸す精神的ゆとりがなかったようだ。一人で、「椅子」というところに並べて書いてある「ストール」と「ストールイ」はどっちがホントなのだろう?略奪にきた兵士に椅子を指して「ストール?」それとも「ストールイ?」と聞く。すると彼は「ダーダー(yes,yes)ストール、ストール」と頭を撫でるから、なるほど最初に書いてあるストールでいいのか、と椅子はストール、と覚える。しかし待てよ、じゃあ、次に書いてあるストールイはなによ。そこでまた別の機会に「ストール?」それとも「ストールイ?」を繰り返す。すると更に混乱したことには、時によって、答えはストールイもあればストールもあるということに頭を抱えてしまった。おそらく一つだけを指した時と、2脚以上あるときに、まとめて指したのだろうか。名詞に単数形と複数形の別があることなど思いもよらない。第一、単数とか複数という言葉も知らない。また更によく聞いていると単語の語尾が時によって、どうもちょっとずつ違っているとことに気付いたが、これは無視することにした。ロシヤ語の名詞に6つの格変化があるなんてことはずっと後、ドイツ語の冠詞の4格変化に四苦八苦しながら気付いたことである。

 楽しかったのは、「飴がお皿にタリョールカ」などと覚えたことで、これはのちにロシヤの将校たちと同居していた時、日本人の使用人が将校たちに「ダワイ、ダワイ(早く、早く)タリョールカ・・・」とどなって、せつかれた時、「タリョールカ」ってなんだっけ?そうそう、まさこさんの「飴がお皿にタリョールカ」なんて唱えながら、「皿」を整えて運んでいた。しかしこれが通用するのは、ちょっとした特殊な状況であろう。ふつう、飴はお皿に垂れない。当時満州ですら、ご多分に漏れず「甘い物不足」で固形の飴玉などはなかった。糖分の補給は「軍の酒保」からドカンと一斗缶で来る水飴。これを何か器に取り出し、舐めるにもお皿に受けて口に運ぶ。従って、飴はお皿に垂れるものだった。

 少なくとも「厳粛に」唱えなければならない教育勅語を訳も分からず暗誦し、ギョメイギョジなんて漢字を覚えることより、はるかに楽しかった。

 真っ赤な夕陽が沈む頃、我が家では「今日も皆無事で、一人も欠けることなく何とか終わった」と互いに顔を見合わせ、安堵を噛みしめる食卓に付くのだった。実際はその言葉が終わるか終らぬうちに、またしてもどやどやガタガタと略奪の一団に押し込まれることもたびたびなのだが。そして女たちが姿を消した後のタリョールカの数だけ見ても、大勢が食べかけだったことが一目瞭然の食卓の景を言いつくろうのに、また四苦八苦・・・。一日一日が重く緊張のうちに暮れて行った。

冊子より取り出す言の葉兵士らに珠玉となりて笑顔誘う

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『みちしるべ』街を往く(其の十一)**<2012.11. Vol.75>

2012年11月03日 | 街を往く


街を往く(其の十一) 徳島市で賀川豊彦についての講演会を聞いて

高松、坂出市へと足をのばす

藤井新造

 少し旧聞になるが、3月に鳴門市賀川豊彦記念館創立10周年の記念行事として≪賀川豊彦と友愛革命≫と題した講演会が徳島市であり、知人に誘われでかけて行った。

 ここでも書いたことがあるが、人に誘われると時間があれば拒むことなく気軽に参加するのが私の習い性になっている。

 今回も講演会の題名に魅力があり、賀川についての知識が少ない私は彼の業績を知るいい機会と思い誘いにのった。これも最近自分で本を読むより、人の話を聞いたり、テレビを見て理解しようと安易な気持によりかかる姿勢が一層強くなったせいである。その原因の一つとして活字を何時間も読む根気がなくなったせいかもしれない。

 それはそれとして、講師の小林正弥氏(千葉大学教授)についても彼の著作を読むことなく、講演の題名にひかれて参加した。と言うのは、賀川が唱えた「友愛」について講師より何程かの知識が得られると期待したからである。

 もともと、私は労働運動と生活協同組合という狭い領域のなかでの仕事しか知らず限定された範囲内での活動であり、主として「実践」で、理論書は多く読んでいない。だから賀川については、1921年当時の川崎三菱造船の争議の指導者であったこと、又神戸の貧民街でのキリスト教の伝道活動をしていたこと、それに我国の農民運動の初期の指導者であったこと、それだけでなく日本の生協活動の組織者であった――特にコープ神戸の生みの親であることをわずかの本を読んで知っていたのみであった。

 個人的なことを言えば、今から約35年前に東京の中野綜合病院を訪れた時、この病院を賀川が設立したことを聞いて感心させられたことがあった。(この病院は生活協同病院として法人として、昭和の初期に設立される。)

 彼の活動範囲の広さと深さに比し、何かしら彼についての評価が私の中では低かった。

 このことは、『賀川豊彦』(隅谷三喜男著・岩波文庫)の本でも指摘されているので、あながち私だけでないことがわかり安堵したが、それにしても彼の著作類を読まないで、勝手に彼の業績を低く、評価していたのだから、その罪は大きい。

 さて、当日の小林氏による講演の内容については長時間の話なので、当日配布された「談話」(レジメ)を少し長くなるが引用させてもらい参考にして戴くことにする。

 「賀川が、このような実践的活動(『死線を越えて』の作家・小説家そして労働運動、農民運動、協同組合運動、キリスト教福音運動での活躍)に立ち上がった動機は『愛』であり、このような愛は社会的には友愛として表現されることが多いのです。友愛は自由・平等とともにフランス革命の3原理のひとつです。賀川は、この愛を基礎にして、新しい経済学や協同組合を基礎にする経済のビジョン、そして平和のビジョンを提起しました。私たちは、先人である賀川から、彼の実践やこのような理想を学ぶことができます。」

 そして、「『友愛革命』は、今日の日本に求められている政治的・社会的な構造変化にとって基軸となる精神の革命を指しています。私は、これがフランス革命に匹敵する世界史的意義をもつ新しい世界を拓くものであり、それが日本において段階的に展開してゆくと考えています」としめくくっている。このことを当日1時間30分にわたり聞かされた。

 講義の内容を理解するため、徳島から帰り次第、前述の隅谷さんの本を読みかえした。勿論、小林さんの文庫本にも眼を通した。

 賀川の膨大な全集(24巻)を読むには、今の私には時間的にも困難であるからである。

 尚、当日講演会の会場はほぼ満席で約200名の出席者があった。講演会が終り、レセプションには、徳島県知事をはじめ各界(農協、生協、全労済etc.)多方面からの参加で盛況をきわめた1日であった。

 同席していた労働運動、全労済で活躍された先輩のKさんは、賀川の思想と活動の影響を受けた人、又彼の功績を讃える人が、このように沢山集まっていたことに深く感じ入っていた。

 Kさんは、神戸の賀川豊彦記念館の運営に長らく携わっていた筈であったが、そのことを聞くのを忘れていた。

 一昨年、日本福祉医療生協連合会(前身は日生協医療部会)によって、賀川の生涯を綴った映画が製作された。その映画が、尼崎でも上映(自主上映)されたので、映画好きの私はさっそく観に行ったが、私の感想として映画化が成功した作品とは思われなかった。

 コープ神戸と賀川との関係は上述した通りであるが、このコープは三木市に同生協の役・職員の研修施設「協同学苑」を今から15年程前に設立した。私も二度宿泊した経験があるが、少し交通の便が悪い難点があるが、研修施設としては申し分ない立派な建物である。

 別棟にイギリスの「生協」の発祥地である「ロッチディール公正開拓組合」の記念館を模した建物があり、イギリス・日本の「生協」運動の歴史を紹介し、賀川についての著作類も展示していて参考資料も多い。

 「生協にかかわる役・職員は一度は訪問した方がいいのでないかと思う。

 今日「生協」のあり方、将来について様々な厳しい意見があるが、そのことについては『世界』(2012年11月号)で特集しているので参考にされるといいと思います。

 <この項、次号に続く> 

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『みちしるべ』**震災復興を考える**<2012.11. Vol.75>

2012年11月02日 | 藤井隆幸

震災復興を考える

藤井隆幸

 福島第一原発事故と東日本大震災

 東日本大震災から1年8ヶ月が過ぎた。東北の今は、未だ復興途上。最も困難なことは、原発の過酷事故。人類は放射能に対処する術を知らない。制御不能の装置を、安全と偽って稼働してきた、そのツケが回ったのである。

 問題は原子力技術継続のため、アメリカ支配層は日本に圧力をかけ続けている。世界三大原発メーカーは、フランスのアレバ社・ゼネラルエレクトリック社(GE)・アメリカのウエスティングハウス社(WH)であった。スリーマイル島の過酷事故以来、アメリカの原発新設はない。GEの原子力部門は日本の日立が、WHは東芝が買収させられた。

 世界の原発の殆どを、日本企業が建設することになった。原発は高度な軍事技術でもある。潜水艦の脅威は、原子力を搭載したことで、人が耐えうる間、何か月でも潜航できる。また、航空母艦など巨大な艦船が、燃料の補給をせずに航行できる。

 この高度な軍事技術を、実はアメリカは日本に任せているのである。ロシア・中国に対し、核開発で後れを取ることはできない。アメリカが、日本の政権に強力な圧力をかけるのは、その辺にあると考えるのが軍事的常識というところだ。

 ところで日本も、インドやベトナムに原発を輸出予定である。原発1基1兆円。おそらく、日本のODA(政府開発援助)での借款。インドの原発は日立が受注している。日本政府から代金を貰うので、利益率が大幅に良いとみる。インド国民は、日本政府に借金をする上に、福一原発事故と同じ脅威にさらされることに。インド軍の暴力に抗して、インド住民が反対運動をしていることは、日本のマスゴミは報道しない。

 かくして、原発事故の本質は隠され、今後も原発を続けるというのが、民主・自民の方針となった。30年後に全廃するという政策も、40年以上稼働した、老朽化した原発を廃炉して、新しい原発を相当数建設する計画であることは知られていない。福一原発4号機は、未だに危険な状態で推移している。使用済み燃料プールは、大地震が来ると過酷事故を再来させる。これら隠ぺい政策のために、東北の復興は困難をきたしている。

 それにしても、余りにも復興が進まないのは何故だろうか?

何が復興を遅らせているか

 阪神淡路大震災では、瓦礫処理は半年で終了している。東日本では、緒に就いたばかりである。これは瓦礫に放射能汚染があるだけではなく、津波による海底からの汚染物質である、六価クロム・ヒ素・有機水銀等が多く、困難を増幅させている。阪神淡路大震災の瓦礫総量は2000万トンに対して、2100万トンしかない。前者は、その8割を埋め立て処分した。今回、政府は何を思ったか、全量焼却の方針を打ち出した。現地に19基の仮設焼却炉を建設し、1900万トンを焼却する。当初は残りが400万トンになる計算だったが、整理してみると200万トンしかなかった。

 東京都・北九州・大阪府と市などが受け入れて、焼却しだしている。全国の自治体では、ダイオキシン対策のために、国の勧めでガス化溶融炉などを設置している。炉の温度を1200℃に保つために、24時間365日燃やし続けている。が、環境意識の進展により、ゴミが少なくなっている。燃やす物が無いのだ。そのため、石油や天然ガスを燃やし続けているのが実態である。

 そこで、東北の危険な瓦礫を焼却すると、その費用とともにランニングコストも看てあげると、国が提案した。「絆」どころか、震災復興予算の分捕り合いであった。そして、焼却自治体周辺住民は、放射能汚染を受けねばならなくなった。

 復興予算が、沖縄の道路や軍事衛星に使われたという話もあった。阪神淡路大震災でも、震災前に計画のあった道路(西宮市と芦屋市の市道山手幹線)が、震災後に『震災復興道路』とされ、復興予算が使われた経緯がある。

 複数の道路があると、どれかが残存し、震災復興に利用できるという論理だ。だが、幹線道路沿道の象徴である国道43号線は、復興が最も遅れたベルト地帯であった。また、震災で自動車専用道路が完全にストップする中で、神戸市長田区はマイカーの乱入で消火活動ができず、大火で多くの人が焼死した事実がある。

 幹線道路は、実際には震災被害を助長し、住民の復興を遅らせる効果がある。道路建設の職員は、造るのは専門であるが、道路交通には全くの素人である。が、復興予算(阪神14・東北15兆円)の分捕りだけはやるのである。

阪神淡路大震災は復興したのか

 阪神淡路大震災の復興は早かったと、錯覚されているようだ。確かに、見た目では。未だに「震災さえなければ……」という声が多い。二重ローンや商店・事務所の復旧の借金が、今なお重荷になっている。

 復興したのは、税金が投入された道路や鉄道、それに企業ビルだけである。庶民の復興は、未だなお、進行中なのである。東北では、人件費の安さに企業が進出した。が、津波で被害を受けると、さっさと撤退した。農漁業の為には鉄道も道路も、復旧させる意欲は国家にはない。大手企業の傘下が撤退したところに、必要はないのだ。

 一方、地元自治体が何かしようという時、補助金頼みの東北では、国の意向が無くては何も出来ない。そこのところが、復興の遅れという現象になっている。

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『みちしるべ』**白秋と民衆、総力戦への「道」**<2012.11. Vol.75>

2012年11月01日 | 神崎敏則

白秋と民衆、総力戦への「道」

「詩歌と戦争」(中野敏男;著)より

神崎敏則

 頭の中が釈然としないまま、6月26日に尼崎市議会で「日の丸条例」の修正案が可決されてしまいました。保守系会派「新政会」から議会に提案されたのが2月20日。それから急しのぎで「STOP日の丸条例・尼崎市民緊急行動」が立ち上げられ、僕もできる限りの参加をさせてもらいました。

 橋下大阪市長の影響に感化されて勢いづく保守議員。抗議集会や座り込みを妨害しに来た、排外主義を公然と主張するネット右翼グループ。従来の尼崎の運動の局面とは異なる状況が多々ありました。しかし一番驚いたことは、駅頭で宣伝活動をおこなうと「日の丸条例」を批判する訴えに対して反発する市民が少なからずいたことです。ナショナリズムと排外主義は意外に浸透していました。この「STOP日の丸条例」の運動の中で、なるほどと感心させられることも多々ありましたし、こんなすごい人もいるんだと思える人と出会うこともできました。かえすがえすも、修正案が可決されてしまったことはとても残念でなりません。でもその一方で、これから多くの市民と一緒にどんな運動を展開していくのか、この問題意識を自分の中にしっかりと根付かせたいと思っています。

 そんな時に中野敏男著『詩歌と戦争』(NHKブックス)という本に出会いました。

一 しずかな しずかな 里の秋
  お背戸(せど)に 木の実の 落ちる夜は
  ああ かあさんと ただ二人
  栗の実 煮てます いろりばた

二 あかるい あかるい 星の空
  鳴き鳴き 夜鴨(よがも)の 渡る夜は
  ああ とうさんの あの笑顔
  栗の実 食べては おもいだす

三 さよなら さよなら 椰子の島
  お舟に ゆられて 帰られる
  ああ とうさんよ 御無事でと
  今夜も かあさんと いのります

 これは日本人なら誰もが知る『里の秋』の歌詞です。1945年12月24日に「外地引揚同胞激励の午後」というラジオ番組で初めて放送されました。国民学校の教師をしていた斎藤信夫が作詞したそうです。当日から反響が絶大で、『里の秋』は童謡としては珍しい「大ヒット曲」となっていきました。しかしこの『里の秋』には『星月夜』という原作品があることをこの本を読んで初めて知りました。

 1941年12月に同じ斎藤信夫によって作詞された『星月夜』は1番と2番は『里の秋』と同じなのですが、3番と4番が次のようになっていたそうです。

三 きれいな きれいな 椰子の島
  しっかり 護(まも)って くださいと
  ああ 父さんの ご武運を
  今夜も ひとりで 祈ります

四 大きく 大きく なったなら
  兵隊さんだよ うれしいな
  ねえ 母さんよ 僕だって
  必ず お国を 護ります

 日米開戦という状況下で、戦争遂行に貢献したいと願う軍国少年の心情を表した翼賛詩歌として作られていました。しかしそれは斎藤信夫個人の特異性ではありません。

 戦前戦中の翼賛体制の中で、軍部や特高によって切り刻まれるように言論を弾圧されてきた歴史があるのも事実ですが、文学者や作曲家や演奏者、新聞・ラジオなどのマスメディアを含めて、自ら進んで戦争協力に邁進していった大きな流れもあるのだそうです。

 1931年の満州事変により、国民総動員の総力戦の「十五年戦争」に突入した流れは、著者によれば1923年の関東大震災を起点にしているのだそうです。当時は大正デモクラシーの真っただ中で、

  • 1920年「十五夜お月さん」
  •   21年「赤とんぼ」「どんぐりころころ」「青い目の人形」「雀(すずめ)の学校」「夕日」
  •   22年「砂山」「赤い靴」「シャボン玉」「黄金虫」
  •   23年「春よ来い」「月の砂漠」「おもちゃのマーチ」「肩たたき」
  •   24年「からたちの花」「あの町この町」「兎(うさぎ)のダンス」「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」
  •   25年「ペチカ」「雨降りお月さん」「アメフリ」
  •   26年「この道」

など、私たちが子どものころに覚えた、懐かしい童謡が発表されていました。

 1925年8月7日、北原白秋は鉄道省主催の樺太観光団の一員として樺太・北海道の旅に出ます。その2日前の8月5日、後の昭和天皇裕仁(当時は摂政裕仁)が初めての樺太訪問に向けて最新鋭戦艦長門に乗艦し横須賀港を出発していました。時の摂政裕仁は、当時病状が進行していた大正天皇の代行として日本各地に「巡啓」「行啓」を重ね、行く先々で国民は数千、数万の単位で集まり、日の丸の旗を振り、最敬礼をして君が代を斉唱し万歳を叫ぶ、「臣民」としての経験を体感することが繰り替えし実践されていました。

 植民地の拡大を目指して進んでいた大日本帝国の歩み=摂政裕仁の樺太巡啓と白秋の旅が実際の旅程において重なり合いました。白秋は樺太からの帰途に立ち寄った北海道での感慨を基礎に「この道」を創作しました。

この道

 この道はいつか来た道、
   ああ、そうだよ、
 あかしやの花が咲いている。

 あの丘はいつか見た丘、
   ああ、そうだよ。
 ほら、白い時計台だよ。

 この道はいつか来た道、
   ああ、そうだよ、
 母さんと馬車で行ったよ。

 あの雲はいつか見た雲、
   ああ、そうだよ。
 山査子(さんざし)の枝も垂れてる。

 この道とは、異郷の地である樺太とは違う北海道の道であり、「いつか来た」と感じてしまうほどの郷愁を抱かせる風景でした。そして樺太という植民地の道は、その後の白秋の中では、天皇が「知ろしめす道」へと発展(??)していくのです。

 25年10月28日の白秋は『都新聞』に「明治天皇頌歌」を発表します。

一 大空の窮(きわ)みなき道、わが日(ひ)の本(もと)の、
  天皇(すめらみこと)の神(かん)ながら知(し)ろしめす道。
  故(ゆえ)こそ畏(かしこ)き大御心(おほみごころ)
    仰(あふ)げや、国民(くにたみ)。
    崇(あが)めや、諸人(もろびと)、
    われらが明治の大(おほ)き帝(みかど)を。

四 まつろはぬ、陵威(いづ)のまにまにうち平(ことむ)けて、
  四方(よも)を和(やわ)すと高領(たかし)るや恩沢(めぐみ)うるほう。
  故こそ正しき大御軍(おほみいくさ)。
    仰げや、国民。
    崇めや、諸人、
    われらが明治の大き帝を。

 ここで表現されている道とは、大空にきわみがないのと同じように、日本の天皇が支配する道もまたきわみなくどこまでも続く道だと高らかに宣言しているのでしょう。嫌悪感で寒気がします。

 そして26年2月、詩人北原白秋は「建国歌」と題する作品を発表しました。

一 そのかみ天(あめ)つち闢(ひら)けし初め、
   げに萌えあがる、葦禾(あしかび)なして、
   立たしし神こそ、
   国の常立(とこたち)。
      いざ、
      いざ仰(あふ)げ、起(た)ち復(かえ)り、
      かの若々し神の業(わざ)を。

四 爾(ここ)にぞ、明治の大(おほ)き帝(みかど)、
  げに晴れわたる、青高空(あをたかぞら)と、
  更(さら)にし照らさす、
  四方(よも)の八隅(やすみ)に。
     いざ、
     いざ仰(あふ)げ、起(た)ち復(かえ)り、
     わが弥栄(いやさか)の日の出(づ)る国を。

 思わず眉をひそめてしまうくらいの、あまりにも露骨な天皇賛美の作品です。

 震災後という状況を脱して平時に復帰するのではなく、本格的な総力戦とそれへの総動員の時代が始まろうとしていました。詩人白秋とそれを読む日本の民衆の心情の変化をうかがい知ることができる本です。

 現在の私たちが直面する課題にそのまま当時の状況を当てはめることはできません。しかし、ナショナリズムや排外主義の影響を受ける国民が多数となってしまうのか、それとも少数に封じ込めることができるのか、私たちはその局面に今立たされているような気がしてなりません。本誌「みちしるべ」が指し示す道とはどんな道なのでしょうか。

コメント
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