『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**木を伐る**≪2023.秋季号 Vol.117≫

2023年11月17日 | 澤山輝彦

木を伐る

   澤山輝彦

 神宮外苑の再開発に伴う樹木の伐採は、全国区的問題になり私達も話題にした。阪神間道路問題ネットワークでは、阪神タイガース二軍球場が大物に移転する、その先の公園樹木の伐採(移植)が問題になった。この事は『みちしるべ』116号で取り上げた。つい最近ではビッグモーター社による、除草剤の散布で枯れた街路樹の伐採が問題になっている。

 良い環境の下での生活が大事とする市民意識が浸透してきた証である。環境を問題とする意識の無かった時代にも、木は大切なものだとして、景勝地の並木・巨樹、神社・仏閣の森、等々が大事に育てられていたのは、私達のよく知るところ。鎮守の森の木を伐採する政策に、南方熊楠が反対した運動はよくしられている。(明治政府の進めた神社合祀に反対した運動)

 太平洋戦争も終わりに近く、日本の旗色は悪くなるばかり。艦船は米軍のレーダー探知による攻撃で、ボコボコ沈められていった。日本にはもう鉄の船を造る力はなく、木造船に目を向けるしかない。木が要る、戦争が巨木を要求したのだ。「戦争が巨木を伐った――太平洋戦争と供木運動・木造船」こんなタイトルの本を偶然図書館で見つけて読んだ。

 太平洋戦争でガダルカナル島からの撤退に始まり、日本軍は守勢にならざるをえなかった。南太平洋、西太平洋と広がった戦線への人材、大量の物資を運ぶ船が必要だった。だが鋼鉄船は補修中が多く使えない、資材不足で造れない。そこで考え付いたのが木造船であり、そのための木材調達の手として、「軍需造船供木運動」というものを考え付いた。

 この運動と言う言葉の使い方に意味があるのだ。政府が上から命令するのではなく、大政翼賛会がやる国民運動にする。国民が自主的に木を供出する、そう言う機運を盛り上げていく、なかなか上手いやり方である。国有林や民有林の木を伐るのはお上の仕事、運動の必要はない。狙いの木は「特殊材」と呼んだ、平地林・社寺林・道路並木・屋敷林、等の「けやき」「かし」の長く大きな木であった。

 この運動の先頭に立ったのが大政翼賛会の実践部隊、大日本翼賛壮年団だから、大体どんな展開をした運動であったか見当が付くだろう。メディア、文化人のあおり、あの智恵子抄の高村光太郎も「軍需造船 供木の言葉」という26行の詩を書いている。(光太郎は戦後日本芸術院会員に推挙されたが辞退している)

 戦時下の大日本翼賛壮年団の運動だから、全てスムーズに行ったかといえば、やはり問題はあったようで、伐った木の横流しが問題になったりもした。面白いのは日光杉並木が守られたのは、翼賛壮年団の中で伐木反対の意見が出た。その結果、論争は中央まで巻き込んだのだが、杉並木は残った。箱根の杉並木もある一人の人間の知恵と勇気で守られている。静岡県のある屋敷の杉は、陸軍が目を付けて伐りにきたが、その家の老婆が「伐るなら自分を切ってからにしてくれ」と、まるで現代でもドラマ仕立てになるようなやりかたで伐木を止めている。武蔵野の一端のある寺院も禅の修行には木が大事と、伐木を止めさせ武蔵野を守る一助になった。書中、木造船の記述も詳しくあるが、伐木の部分にとどめた。

 さて、戦後何十年もたった今、情勢はどうだろう。為政者は結構強引になっている。こちら側はどうだろう。正確な情報が読めないイラつきもある。テレビは相も変わらず一億総白痴化の片棒を担いでいる。立秋も近いのに暑いなあ頭でも冷やそうか。

【投稿日 2023.8.6.】

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『みちしるべ』**「旧池田トンネル」へ**≪2023.春季号 Vol.115≫

2023年05月25日 | 澤山輝彦

「旧池田トンネル」へ

澤山輝彦

 使われることもなくなって久しいトンネルが、和歌山と大阪を遮る和泉山脈の南にある。今は使われることもなく通行上の存在価値の無い廃線や廃道などを探る趣味を持つ人たちや、探検心を持ったハイカーなどの間では一寸知られた「旧池田トンネル(1886年竣工)」と言うのがそれだ。旧トンネルと言うからには新トンネルがあるはずで、それは大阪府道・和歌山県道62号泉佐野打出線、古くは粉河街道と言った道に、名前もそのままにある池田トンネル(「池田隧道」1974年竣工)だ。

 この旧池田トンネルを3月21日息子と訪ねた。彼は先に書いた廃線、廃道探検を趣味の一つにしており、ここには一度来ているので案内に不足は無い。堺市から阪和自動車道、京奈和自動車道、県道62号線を北上して上記の池田トンネルを抜けたところに車をとめ、山あいの県道62号線を「旧池田トンネル」への入り口に向かって歩き出す。トンネルは、ほぼこの右上あたりだそうだ。採石場でもあるのか大型ダンプがよく通る。県道62号線沿い右側の川に橋が現れ、これを渡った所が「旧池田トンネル」への取っ掛かりで、そこから轍のある林道のような道をたどるのだ。

 昨日の雨の後で所どころ水溜りがあり、足元注意で先へ進む。道はだらだらと上っており汗ばんできた。轍も消えはじめ道の左右の自然の豊かさが目をひく。フキノトウの花が目立ち、シダ、苔類の緑が気持ち良い。キノコも出るだろうな、自然観察派と一緒ではなかなか先へ進まない道だなあ、そんなことを考えながら歩く。あそこだ、と息子が指さした所に旧池田トンネルの入り口がみえた。

 トンネルに着いて見ると、上部アーチのは赤レンガはきれいなものだが、入り口の下部は土砂で埋まっている。乗り越えて中へ入る。汽車や自動車を通す道ではなかったからか、高さは2メートル位のレンガ造りの小ぶりなトンネルだ。大ぶり小ぶりは旧福知山線のハイキングコースのトンネルと比べての表現だ。先へ進み中間にかかると暗くなり灯りがほしいと思った。懐中電灯を車においてきてしまったのだ。でも100メートルもないトンネル(全長80m)のこと、先の明かりも見えるので何とか通り抜けた。

 出た所から振り返り見上げるとトンネルの表札・扁額があり左書きで「池田隧道」とあった。そこから先へ進む道は左右に踏み跡程度の物しかなく、少したどってみたが崖があり不明瞭なので引き返した。こちら側から来る人はほとんど無いのかもしれない。でも扁額があるところを見ればこちらが正面にあたるのかなあ。小休止し水分補給後、スマホのライト(これがあったのだ)で壁面などをゆっくりみながら引き返す。崩れた所などなく案外きれいな壁面であった。蝙蝠はいなかったが、カマドウマが数匹壁にいた。

 この小さなトンネルも昔は泉佐野、粉河を結ぶ粉河街道の距離、時間の短縮に大いに役立ったのだろう。ヨーロッパアルプスを貫く大トンネルが出来、ドーバー海峡には海底トンネルも出来た。トンネル掘削技術は著しい進歩を遂げている。問題になっているリニア新幹線計画の中にある、南アルプストンネルなど昨今のトンネル掘削技術でもってすれば易々たるものであろう。

 だが、このトンネル掘削による水問題を考えるとこのトンネルは掘らない方がいい。技術力で自然を抑えつけてしまった数々の失敗例を見るがよい。元々リニア新幹線など狭い日本には必要ないのだ。これを必要だと叫ぶ者は“時は金なり”しか目にない経済界やそこにすくう金権亡者、担ぎ担がれる時の政権である。政権はリニア新幹線で国力を誇示出来るとでも思っているのだろうが、現状の世界関係ではそんなものは通用しないだろう。国力を誇示し世界の注目を浴びたければ、無理を承知でもロシア、ウクライナ間に堂々と割り込み停戦の仲立ちをする、これこそ国力の誇示ではないか。

 さて、「旧池田トンネル」を午前中に見て、午後は和泉市久保惣記念美術館へ、記念展「世界をひらく」——古地図への誘(いざな)い——を見に行った。これだけの距離を移動し早々と楽しい一日で終えることが出来たのも、高速道路網のおかげであると思わざるをえなかった。このことは一般人にとって、小さな受益であるとも言える。

 こんな所が道路問題にたいする認識のあり方が低調である一因でもあろうか、そんなことを実感したのだった。でも道路建設による身近な環境破壊が身体に及ぼす影響や、その出所を精査することもなく、基本的人権を無視する動きに迷わず加担する権力、それらに関して生じた問題を連帯問題として取り組もうとする阪神間道路問題ネットワーク設立の精神を私は決して失わない。

※ 「旧池田トンネル」の詳細を知りたい方はインターネットで「旧池田トンネル」で検索してください。書けば長くなりますが、写真・動画も見ることができます。

※ 久保惣記念美術館は4月9日から6月4日まで、日本美術の名品・宮本武蔵の墨絵も見ることができます。

【投稿日2023.4.15.】 

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『みちしるべ』**10年後の情勢**≪2021.夏季号 Vol.110≫

2021年08月21日 | 澤山輝彦

10年後の情勢

澤山輝彦

 「10年後の情勢」とは、おとぎ話的でも、SF的夢物語でもない。現状に立脚した情勢分析による近い将来の予想なのである。戦後何十年たってもアメリカの属国的な日本。首都上空を国法を無視して飛ぶ米軍のヘリコプター、自然破壊なんのその辺野古の米軍基地建設、この国辱状態は革命でも起こらない限り10年後も続くであろう。

 これは私達高齢者と交代する世代が、物事の真実を伝える情報を与えられていないことに原因がある。マスゴミと揶揄されてもびくともしない新聞、テレビ、特に一億総白痴化の元といわれるテレビは、その期待に答えてきた。今はSNSとかいう情報媒体が変な動きをみせている。こんな世に生きる若者に10年後を期待するのは無理だ、と私は見る。

 自衛権の拡大解釈は、中国の台湾解放宣言により米国の介入、開戦になれば自衛隊の参戦に繋がる。こんな事を真面目に考えなければならないのだ。政治はもとより、生死にかかわる食料の自給を確立しなければならないのも、10年後の大問題であろう。米作だけはなんとかなっていた日本である。誤った農政、米の減反をやってしまった。食料安保という言葉が出来るくらい、他国からの食料輸入は安心し続けられるものではない。いまからでも遅くは無い、田地の復旧を図らねばならない。山林を荒廃させた罰は今降りてきている。水資源の確保も問題になってくる。

 お先真っ暗ではないか。電子機器の氾濫は国際的なレアメタルの不足が騒がれている。だれもかも、どいつもこいつもスマホ、スマホの時代は10年後も続くかな。また昔のような情報通信環境に戻るかもしれないな。科学、化学を否定するものではない。でもあまりにも見境なくそれらへの依存は人間性の破壊につながる近道だ。

 そうだ人間性、人の存在の根本になる人間性、思想、精神的なもの、それらも変化してしまっているかもしれない。コロナウイルスに対抗するワクチン、あれの人体試験はまだ行われていない。その結果を見るには10年かかるというではないか。私はそんな近い未来をおそらく見ることなくあの世行きだろう。幸せかもしれない。

 こんなことが10年前のあるじじいの寝言であった、というような時代になっていればいいのになあ。

【投稿日】2021.7.5.

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『みちしるべ』**自動車騒音に見舞われた私**<2020.春季号 Vol.106>

2020年07月11日 | 澤山輝彦

自動車騒音に見舞われた私

澤山輝彦

 もう開通して何年になるのだろう。川西市北部を通る新名神高速道路(初期は第二名神と称していた)の建設に、川西自然教室は反対する運動を展開して来た。第二名神が通る川西市北部は、川西自然教室の大事な自然観察のフィールドだったからだ。

 丁度そんな時、あちこちの道路問題について共に話し合わないかと、呼びかけがあった。その「阪神間道路問題ネットワーク」(以後「ネットワーク」と省略)の設立会議に参加し、川西自然教室は趣旨に賛同、発足後ずっと加盟団体の一つとして今日に至っている。

 第二名神については反対運動をしたものの、結果はどうにもならず出来上がってしまつた。私は川西自然教室から派遣され、ずっとネットワークと付き合って、今日に至っている。ここで、「付き合って来た」というやや軽い言葉を使ってしまったが、それにはわけがある。これから私が書く、極最近、わが身の受けた体験からすれば、これまで行動を共にして来た反対運動の数々を、まったく他人事としてしか考えていなかったのだ、ということがわかったからだ。

 私は、この四月に川西市から吹田市竹見団地へ引っ越した。公団住宅である。今では都市再生機構とかいう名に変わったが、私には公団住宅という言い方がなじんでしまい、今もそう言っている。そんな竹見台団地なのである。

 住まいは建築年の古い東西に面した建物の一階だ。窓から他の棟が前後左右に見えるということはなく、自然と人工の緑が見える。最寄の阪急千里線・南千里駅から10分ほど、ほとんど平地で高齢者には良い条件であることなどから、ここで私は辞世の句を詠むことになるのか、など考えながら越してきたのである。それはそれで良かった。

 私は自分の部屋を東側に取り、画室として十分足りるので快適な時を過ごし、幸先は良いなと思っていたのだが、少し経ってあることが気になりだした。ネットワーク的に言うと車の騒音なのだ。今、自分の身に降りかかった騒音問題を考えるとネットワークで共に取り組んだと思っていた騒音問題、排気問題など結局は他人事としてしか考えていなかった、という部分が多かったのに気付いた。

 だから今、自分の問題とした時、これまでのネットワークでの私の運動は、「付き合いでしかなかった」のではなかったかと反省しているのだ。まあ許して下さい。

 竹見台の私の部屋の東側約50m、約3mほど低くなった所に、ルート121府道吹田箕面線がある。片側2車線、中央分離帯、両側に並木の植栽帯、その外側に歩道と、よく出来た路である。並木は歩道に日陰をつくり歩くのには気分の良い道で、ジョギングする人も多い。問題はこの道路の交差点の一つである、津雲台二丁目の交差点がほとんど私の棟の横にあり、信号待ちの車の停車発車音が少し気になりだしたのだ。

 特に発車時のエンジンをふかす音、そのブウーンという音のウーンという、低い周波数音の部分が部屋にこもり響くのだ。大型・中型トラックやバスにその原因が強い。まあ一日中絶え間なくということではないから、我慢しなければならないのかなあ、と思いもする。大型自動二輪や高級外車の発進音にも、時々うるさいのがあり、これは嫌いだ、我慢したくない。

 以前、ハイブリッド車、音なしの自動車が危ない、なんて書いたことがある。確かに静かな走行をする。全ての車種がこんな機構を搭載すれば問題は解決するが、まあ無理だろう。せめて夜間だけでも市街地の走行は静かにということで、なんとかならないのかなと思う。これまでここに住まわれた方々には、こんな感覚はなかったのだろうか、まだどなたにも聞いていない。当分は我慢して慣れるか、自分なりの対処法を考えることにしょう。

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『みちしるべ』**「都市と自転車」ひとつの新聞記事から**<2019. 秋季号 Vol.104>

2020年01月03日 | 澤山輝彦
「都市と自転車」ひとつの新聞記事から
 
澤山輝彦
 
 毎日新聞12月11日の朝刊7ページ、経済面の「経済観測」というコラム欄に「オランダの自転車事情」という記事を読んだ。こんな記事が経済欄の片隅と言っては悪いが、そんな所に出ているのはもったいない。もっと一般的な目の届く場に掲載されるべきではないかと思った。

 オランダでは1970年代の自動車の急激な増加、交通事故の多発に対し、73年の石油危機をチャンスとして、自転車中心の都市交通網の整備方針をとった。以下、記事を引用する。

現在、全土にわたる自転車専用道路のネットワークは、道路計画の中に位置づけられ、自動車が通行する道路とは分離された専用ゾーンとして整備されてきた。道路との交差点では自転車優先の場合が多く、オランダでは自転車が自動車よりも優先された交通手段となっている。学校では、自転車に慣れ親しむ教育とともに交通ルールを徹底して学ぶ。小さい頃から自転車は生活の一部であり、当然、小学生の自転車通学は当たり前だ。市街地では駐車場も少なく、自動車の乗り入れもかなり制限されていることから自転車は市民の足として定着している。自転車が優先される一方で、自転車にも厳格な道路法規が義務付けられ、無謀な運転、赤信号無視等には罰金が科せられる。日本でも最近、道路に自転車優先ゾーンが整備されて自転車交通への期待が高まっているが、車道と明確に区分されておらず、安全性が確保されていない。同時に体系的な自転車交通計画も確立されておらず、場当たりの感が強い。また子どもたちだけではなく、大人に対しても自転車の交通ルールの学習機会も少ないように感じる。オランダの事例から、都市交通の明確な戦略と、それを使いこなす自己責任の重要性がみえてくる。

 NHKに対する風当たりは強い。当然だと思うことは確かにある。だがドキュメンタリー番組などには優れたものがあるのも確かで、そんな中で私は「世界ふれあい街あるき」という番組が好きで殆ど見ている。そこで見たオランダかベルギーだったか、あのあたりの国の都市風景での自転車の量は半端ではなかった。坂の少ない地理的条件があるからできるんだ、などと言ってはならない。
 
 さて、場当たり的と断定されている日本だが、私が経験しただけでも消失する自転車レーンがあった。分離されていた所を走っていたら、いつの間にか消えてしまっていて、車道に合流しているのだった。また交通安全週間ともなれば、交通警官が学校に出張して子どもに交通ルールを教える風景は、まるで歳時記のように新聞に載る。自転車は車両だから歩道を走るなと言っても、大型トラックやバスの横を走るのは恐怖である。だから歩道部分に自転車レーンか引かれているところがある。そこを走る自転車の速いこと、そしてはみ出してくること、ここでは歩行者が恐怖をおぼえる。まさに先の引用記事の終わり部分どおりの対策が必要であろう。そのためにも冒頭にも書いたが、ジャーナリズムはあのような記事を経済欄の片隅においておくようなことを続けていてはならないと思うのだが。

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『みちしるべ』**《画家》高橋由一と《県令》三島通庸**<2019.夏季 Vol.103>

2019年08月26日 | 澤山輝彦
《画家》高橋由一と《県令》三島通庸
 
澤山輝彦
 
 高橋由一は日本近代絵画史に大きな足跡を残した画家です。と言っても美術史に特に感心が深く無ければ、「ああそう知りません」ということもあるでしょう。でも中学校か高等学校の美術の教科書に載っていた「鮭」の絵、荒縄に吊るされ頭から下半分ほどは切りおろされて赤い身と骨がみえている、そこから尾まで皮がついたまま、描写は超克明で質感が迫ってくる。ああ、あの絵なら知っている、となりませんか、あの画を描いたのが高橋由一なのです。

 この高橋由一について、芳賀 徹 著「絵画の領分―近代日本比較文化史研究」という本の第一章、「歴史の中の高橋由一」を読んでいて、高橋由一のある一面を初めて知ったのです。このことについてはもう一人の人物を知る必要があります。三島通庸(みしまみちつね1835~1888)です。

 日本歴史大事典で三島通庸を見ると「自由民権運動の弾圧に剛腕を振るい、東北地方の道路開発に功績を残した明治の官僚」と始まっています。弾圧、剛腕をふるい鬼県令として明治史名高いと言われる人物なのです。明治史に名高いと言われても私は知りませんでした。高橋由一のように良く知られた作品が残っていればいいのですが、私はそれを知りませんでしたし、自由民権運動を詳しく研究したこともなかったのですから。

 ただし東北地方の方、あるいは土木関係の人、近代史の研究をした人でしたらあの三島なのだとわかるのです。とにかく学校で学ぶ日本史は近現代史がほとんど抜けているような気がします。前後しましたが県令というのも事典で調べると今の知事なのですね。この三島県令が東北地方の道路開発に功績を残しており、そこに高橋由一が、買われたか売り込んだかで関係しているのです。

 三島は明治7年(1874)酒田県令、9年山形県令、15年(1882)福島県令を歴任します。明治維新まもなくの東北地方に大きな権力を持って乗り込んだ三島は、この地方と中央東京を結ぶには道路が欠かせないものであると確信し、山形から福島を通る万世大路などの大土木工事を行います。まあそれはいいとして、そのためこれらの工事のために人夫の徴発、受益地域への工費の賦課、予定地の収用など、住民の反対不平を無視し独断専行。まさに鬼県令と呼ばれる手法でもって向かって行ったのです。福島では会津三方道路の開発を強行します。
こんな人だったのですが、自分のやった仕事を、当時西洋画家として名のあった高橋由一に画かせ、手柄の一つにしようとします。由一も売り込んだ風があります。当時の日本画的な名所旧跡絵図には納得のいかない三島県令にとって、高橋は新しい感覚の風景画を描く事の出来る人物であり利用価値があり、高橋も画料稼ぎと権力につながるというところに魅力もあつたのでしょう。

 建築物や橋、トンネル掘削現場の絵などを描きます。さて由一は東北地方に三島の残したそんな道、建物、橋、などを写生してまわり、後日東京に帰ってから石版手彩色の立派な画帳を作ります。(私はこれを何年か前に京都国立近代美術館の高橋由一展で鮭の絵共々見ていますが、この頃、道路問題に関連づけてこれを見ていなかったことに気が付きました。)高価なものですが、三島へ上納するほか自費で三十部作ります。三島の威光を借りて売れると算段したからでした。だがそれが出来上がった頃、三島は内務省土木局長に昇進しており、そうなれば県の役人など三島の顔色をうかがう必要もないので、そんな高価な画帳など買いません。これは由一のもくろみ外れ、負担は大きかったであろう。高橋由一と三島通庸との間にはこんな関係があったのです。

 三島の作った道路の詳細、そのために起きた事件の数々、高橋由一の足跡など興味深いことはたくさんありますが、長くなってしまいますので、ここはタイトルにそっておおざっぱに書きました。なお、当時のそんな道路の状況を書いたものが、明治11年東北地方を旅した、英国人イサペラ・バードの『日本奥地紀行』に次のようにあります。「せっかくの馬車道なのに馬車の姿はなく、行き交うのは人力車と荷車と駄馬と歩行者ばかり、ただし何マイルにもわたって混み合っていた」と。
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『みちしるべ』**大橋さんの思い出**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月11日 | 澤山輝彦

大橋さんの思い出

澤山輝彦

 大橋昭さんが亡くなられた。闘病中なのは知っていたが、回復されることを願い一度もお見舞いにも行かなかったことが悔やまれる。阪神間道路問題ネットワーク立ち上げの初めが大橋さんとの出会いであり、代表世話人をしていただいたことがある大事な人であった。

 今となれば、長かったのか短かったのか分からない付き合いのなかで、砕けた打ち解けた話しの記憶は案外少なく、固い話しばかりしたのを思い出すのも大橋さんらしいのではなかろうかと思う。

 そんな数少ない打ち解けた話であったと私が思っている中に、メキシコの作曲家、アグスティン・ララのソラメンテ・ウナ・ヴェスという歌がある。トリオ・ロス・パンチョスが歌っていた。どんなはずみで、どちらが言い出したのかも思いだせないのだが、大橋さんが、あの歌好きやねんええなあ、と言われ私も好きな歌だったので、意気投合したことがある。叙情性豊かな曲であるだけ、ほろ苦い思い出でになる。

 もう一つも歌のからんだ話しになるが、戦後の流行歌に岡晴夫が歌った東京の花売娘というのがあり、その歌詞の中に「粋なジャンパー アメリカ兵の」という所がある。澤山さん知ってるか、と大橋さんが教えてくれた。庶民のための流行歌にこんな歌詞が入っている、そんな時代背景が大橋さんには強く印象に残ったのだろう。

 こんな事を大橋さんは何か秘密でもあるかのように、小声で言ってくれた。顔はもちろん笑顔であった。こんな時の大橋さんを思い出にしておきたい。

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『みちしるべ』**おおまがどき・たそがれ時**<2018.7.&9.&11. Vol.101>

2019年01月10日 | 澤山輝彦

おおまがどき・たそがれ時

澤山輝彦

 各戸配布の兵庫県広報紙「県民だより」2018年12月号には、人も車も交通事故に遭わないために、という特集が組まれていた。特に、この時季の夕暮れ時は要注意とある。

 古くから、暮れの薄暗くなって行くころ、たそがれ時を、大禍時、大魔時、逢魔時(すべて「おおまがどき」)と言い、大きな禍の起こる時間と呼んだのである。県民だよりには日没前後1時間の「薄暮」は人影が見えにくく、帰宅時間と重なることもあって、交通事故が急増する「魔」の時間帯とある。まさに魔ものに出会う時間、街灯などでぐんと明るくなった二十一世紀にあっても、この時間は逢魔時なのである。さすれば現代の我々が、この時に出会う魔ものは水木しげる先生の画く怪しきものではなく、自動車なのではないか。そうだと言ってしまえば、優良なドライバーには申し訳ないが、人には魔がさす、ということもあるのだから。

 「県民だより」では夕暮れ時、夜間の事故を防ぐためとしてドライバー向けに、①早めにライトの点灯、②暗い道でハイビーム、③歩行者がいたら「横断するかも」が前提の三つをあげている。早めのライトの点灯、それはそれでけっこう。②のハイビームはどうだろう。私は歩車分離のない道での対向車のハイビームは好きではない。対向車のハイビームに目がくらむのだ。歩く先が一瞬だが見えなくなり、足元が不安になるのである。ここはハイビームにしなくてもよいと思う。スピードを落しさえすればいいのだ。歩道の無い住宅街の道路などでは、夜間は時速30kmぐらいで走ればいいのだ。これで制動距離も短くなり、事故防止に効果があるだろう。スピードを落として走行すれば「魔」は着かないのである。

 歩行者向けの事故防止策として、「県民だより」では反射材を身に着ける、と書いてある。子供ならともかく、大の大人がぴかぴかする物を身につけて、家路をたどるなんてあまり格好のいいものではないが、迷信的「おまもり」より効果があるのはたしかだ。装着できる人はすればいい。また夜間は明るい服装で外出とあるが、これも一日の流れがあるから朝の出かける時から夜間を想定して明るい服装をと決めることは難しい時もあるだろう。でも、明るい服装をするということは自己防衛のためにはそうするほうがいいにちがいない。「魔」ものは明るく白っぽいのを好まないのだから。

 交通事故にあわないために、広報紙でこんな特集を組まねばならないこと、なげかわしいことではないか。

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『みちしるべ』**砂場徹 えんどうの煮物 阪神間道路問題ネットワーク**<2018.5. Vol.100>

2018年06月25日 | 澤山輝彦

砂場徹…えんどうの煮物…阪神間道路問題ネットワーク

澤山輝彦

 えんどうやそらまめの花が好きだ。畑や家庭菜園に咲いているのを見ると、必ず立ち止まり、その色、形を愛で飽かず眺める。まさに名歌「野薔薇」のごとくにである。そんな野菜として栽培されるえんどうやそらまめではなく、雑草と言われて迷惑植物にされているカラスノエンドウのピンクの花もまた可愛いものだ。春の散歩にそれを見つけるのは無償の喜びである。であるから我が家の小庭に侵入したカラスエンドウは抜き捨てられることもなく天寿をまっとうする。

 花だけではなく、実、豆もいい。スーパーなどで売られている袋入りの甘い煮豆は、おかずよりおやつにして食べてしまう。えんどうの煮物や豆ごはんは旬の物、いいなぁ、大好きだ。シーズンに一度か二度食卓に上がるが、この一度か二度という回数は少ないが、それがまたいいのだ。今年もう一度あるかなぁ、もう来年まで待たねばならないか、もういっぺん食べられるかどうか、そんないやしい期待を持たせてくれるからである。

 阪神間各地で道路公害、道路建設をめぐって様々な反対運動が取り組まれていたのを、それらがいっしょになって、共通の問題意識を持って闘おうではないかと、道路問題ネットワーク立ち上げを計ったのが亡き砂場徹さんであった。当時、川西市には第二名神高速道路建設計画が発表され、自然保護団体である川西自然教室はそれに反対することになった。そこへ、ネットワーク立ち上げの案内があったらしい。川西自然教室のリーダーだった私はリーダー会議の席で、その会合に参加してくれないかと言われ、私が行くことになった。そしてそれが今日まで続くことになったのだ。

 その初会合、日時は思い出せない。「みちしるべ」のバックナンバーを見ればわかるはずだが、どこにしまったのか探しだせないのだ。とにかく日中ではなく夜の集まりだった。砂場さん宅、どこだったかな武庫之荘へ移転される前のお住まいであった。近くから電話をして迎えに来ていただいた。話し合いの後、ビールかお酒が出た。ごはんもいただいたかな。ごはんのおかずだったのか、酒の肴にでたのか、小鉢に入ったえんどうの煮物が出たのだ。好物のこの豆の煮物だけは忘れられない、しっかり覚えている。というのも他にどなたが参加しておられたか、後には分かることになるが、自分では思い出せなかったのだから。砂場徹、えんどうの煮物、阪神間道路問題ネットワークはこうつながっているのだ。

 この五月(2018)大和郡山市にある禅寺、慈光院へ行ってきた。やや強い雨の日であった。そのおかげか私達の他には二人の女性だけという、ほぼ貸切状態の中で国の名勝・史跡に指定されている庭園を眺めながら茶を喫するという、一寸した贅沢を味わってきた。その寺の壮年の僧侶と話をする機会があった。面白かったのは、この僧が自院は石州流という茶道の発祥地であるにもかかわらず、現代の茶道のあり方を批判したのである。その他色んな話が出たが、中でも「この頃は人を家へあげる、招くことがなくなったようだ。会うといえば、どこそこでと外の場を指定するようになった。」という話しにぴんと来るものがあった。そうだ砂場さんとの出会いは砂場さんの自宅で始まったのだ。人を自宅に招く、砂場さんに息づいていた昔気質の一面があったればこそ、今その出会いが、あたかも昨日の事であったかのように思いださせてくれるのだ。あれが近所の居酒屋か喫茶店であればどうだっただろう。うーんと私はうなるだけだ。

 今、私達阪神間では身近に闘争中の道路問題はない。全て負け戦の結果の平穏である。そんな時を予想された砂場さんは、それからの運動のあり方をどうすればいいかなぁ、とよく言われた。こうありたい、ああすべきではないか、と言われても決してこうすべきだとは言われなかった。ただ、お互いに戦列からは離れないでいこう、と言われたことは確かである。

 戦列、今は忘れられかけているが、案外過激な言葉なのではないか。私はこの戦列を様々な方面に繋がなくてはならないのではないかと思っている。ここに阪神間道路問題の今後のあり方が見つかるのである。

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『みちしるべ』**難聴から難癖へ**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月11日 | 澤山輝彦

澤山輝彦

 暦の数字の並びにこじつけて「何々の日」とするのが日本人の好みだ。三月三日を耳の日、八月七日が鼻の日となるのである。

 寄る年波には勝てないと言う。どんな波がどこにおしよせるのか、ひねもすのたりのたりと寄せる春の海の波は目で見ることが出来るし、まだ泳ぐにはやすぎるので、これはどうでもいい波だ。目には見えないが押し寄せる波、音波、言葉の波、こいつが押し寄せては私を負かす勝てない波なのだ。人声である音波をきっちり受け止め正しく神経系統に伝達させる機能が、寄る年波に洗われ海辺の貝殻のように磨り減り衰えてきている。加齢に伴う難聴なのだ。

 飼い犬の太郎がまだ元気で私も今より十数年も若かった頃、太郎と散歩に出た時(特に夜)、テレビの音が大きく外まで聞こえてくるお宅があちこちにあった。あ、ここはドラマ「水戸黄門」だ、耳の遠いご老人が観ておいでなのだなぁ。ここはニュースの時間か、するともう9時、帰らねば、なんて考えながら歩いたものだったが。先日、自宅の雨戸を点検に出た時、テレビの音量の大きさに気付き、俺もとうとうあの頃の人の仲間になったかと、つくづく思い知ったのであった。もちろん、それまでも人の話やテレビの音が聴き取りにくいという自覚症状はあったし、家内からは「一度耳鼻科へ行ってちゃんと診てもらわないと」と言われ続けていた。まあ日常生活には別に不自由を感じることはないし、うまく難聴のせいにして好都合だったりすることもあったりして、それ相応の付き合いをして来たのであった。でも、意見を述べねばならない会議や座談の折には一寸困る。頓珍漢を言うわけにはいかないし、あまり何度も聞き返すというのもなんだから、ここは不便というより困るところだ。いつか、もうこういう場を乗りこせなくなる時がくるのだろう。その時は補聴器の世話にならねばならないのだ。

 耳と言えば、画家のゴッホが耳を切った事件は有名だ。耳を切った後、本人は耳に包帯を巻き、パイプをくゆらしている自画像を画いている。包帯を巻いた自画像は鏡を見て画いたから右耳に包帯があててあるが、切ったのは左耳なのだ。耳を切った理由は様々言われているが、錯乱状態だったゴッホは何も覚えていなかったそうだから、諸説すべて類推なのだ。その中で、以前に画いた自画像の耳の書き方がまずいと批判されて、頭にきたというのを私はとりたい。

 ゴッホはとにかく、私は会話などで聴き取りにくい時は、耳介に手をあててしのいでいるが、あまり格好のいいものではない。先にも書いたが、日常生活には別段困ることはなく、車のエンジン音・走行音とかは十分聞き取れるので、それによる事故の心配はないと自分では思っている。しかし、最近よく見るハイブリッド車が、電気モーター走行している時の静かさ、あれの接近には驚かされる。これは聴力の優劣の問題を超えた危険性を含んでいる。

 ハイブリッド車ではない純粋電気自動車の開発も進んでいるようだが、私が小学生の頃にも電気自動車はあったのだ。小型のたしかタマという名だったと思う。前車軸と後車軸の間に積んだ黒い大きなバッテリーが動力源だった。そんな当時、大阪市内は市電が全盛であった。架線からポールで電気を取っていたが、時々ポールがはずれ、スパークと共に架線が切れる、そんな光景を我家の前で度々見たことがある。架線が切れたら修理車がやってくる。それはトラックで後部に昇降式の高所作業用の台を具えていた。そんな車の中に電気自動車があったような気がするのだが、思い違いかもしれない。

 子供の頃、自動車が大好きで中学生になった時には、運送会社の社宅に住んでいた先輩と自称自動車部を名乗り、新車の発表会を見に行ったり、カタログを集めたりして自動車のあれこれを研究したものだ。当時まだ日本車には搭載されていなかったトルクコンバーター自動変速機についても、そのしくみなど十分理解していたのだった。大人になって自動車を持てるようになった頃、私にとって自動車は公害に加担する道具にすぎない所に停まってしまい、個人として所有するのは罪であるとまで考えるようになり、車を持つことに興味はなくなった。ただしスタイリング、デザインとして自動車の形状には未だ興味をもっている。最近の乗用車のヘッドライト回りの目がつりあがったような、鮫の目を連想させるあの部分は大いに気にいらない。狡猾でずるそうな顔つきをしている。大きな口を開いたようなラジエーター周りもきらいだ。あの目のまわりとこの口、まるで人食鮫ジョーズではないか。

 難聴の話から自動車のデザインに難ぐせをつけて終わり、埋め草の役目を果たしたつもりである。

コメント
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