東日本大震災3年目の追悼紀行
2014(平成26)年3月22日
神戸・市民交流会事務局長
1・17つどい実行副委員長
山川 泰宏
第24回目の東日本大震災支援ボラバス(ひょうごボランタリープラザ主催)に協賛、神戸・市民交流会の仲間と共に、3月10日から13日までの3泊4日(車中2泊、研修所1泊)の被災地追悼行事に参加してきました。
今回の参加はスタッフ含め、ボランテア59名(最高齢79歳男性・最年少14歳女性)。10日≪17:30≫神戸駅近くのクリスタルタワーにて出発式。摩耶埠頭公園の神戸・市民交流会事務所で、竹灯篭300本をボランテアの皆さまの手により観光バスに積み込み、14時間のバスの旅が始まりました。3台の観光バスにて、北陸自動車~磐越自動車道~東北自動車道を経由、道中降雪が心配でしたが、予定どおり最初の目的地【宮城県名取市閖上地区の旧閖上中学校】に到着しました。
旧閖上中学校にて津波で亡くなった、14名の中学生の名前の刻まれたモニュメントの前で、犠牲者を悼み黙祷をしました。次に、震災後、閖上地区の象徴的になった日和山(ひよりやま)公園に立ちより、小高い丘から被災地を遠望し、ボランテアの皆さまと閖上地区の津波犠牲者を悼み黙祷をしました。
2年前の3月11日に訪れた時の、山のような瓦礫はなくなり、将来の閖上の「盛土高」を示すモデルがあります。瓦礫は消えていましたが、見渡す限り、家々の土台が空しく、住む人の無い廃屋と共に点在。震災前、多くの閖上市民が暮らしていた生活の匂いはなく、3年過ぎても戻らない現実が見えてきます。
盛り土の嵩あげ工事の完工が2017年以降と聞きます。莫大な嵩上げ材料である残土を何処から調達するのか、工事が完了しても閖上の人々は戻るのか。震災前の人々の交流の場所が戻るのでしょうか? 被災地の現状を知るほどに、机上の復興が、被災地の人達を置き去りにしたようで、空しく感じるのです。
日和山に卒塔婆が立てられ、市民の方々が捧げる犠牲者を追悼する花束が、月命日の供養で捧げられています。神戸・市民交流会が1・17で使用した竹灯篭をメッセージと共に、“希望の灯り”からの分灯で、閖上の皆さまの心の復幸と街並みの復旧を祈り、献灯させていただきました。
震災後、家屋の廃材を再利用し、閖上の個人が建立された小さな社が、街並みの復旧を願っていました。その前で、震災後の津波体験の語り部である長沼氏の話を聞く、今回訪問したボランテアのみなさん達です。
多くの土台の残る場所にプレハブが建設されていました。未だ帰らない、人々が暮らす日々の団欒と、近所づきあいのあるコミュニテイの笑顔と、喧騒の日常の日々が戻るのを祈らざるを得ませんでした。
11日の今回の目的地、愛島東部仮設住宅(180世帯)にて、神戸の19年目の1・17の追悼行事で使用した竹灯篭300本で、仮設住宅の駐車場前の広場に「3・11」と「絆」の字を描きました。3・11の竹灯篭には、仮設団地自治会長・遠藤さんにお知らせ頂いた、津波犠牲者の御尊名と戒名、そして閖上中学校の子供たちの名前179名分を神戸から書いていったものを飾らせていただきました。その飾り付けの際、仮設住民の方から、是非この方の名前を書いて下さいとの強い希望があり、6名の方々のお名前を書かせていただきました。
地震到来の時刻≪14:46≫、この日も強風が吹き、神戸の“希望の灯り”から持参した、灯はつけては消えつけては消える中で、集まった住民とボランテアで黙祷し犠牲者の追悼をさせていただきました。夜半に入り、強風も夜のとばりと共に凪いで、ローソクの光りは夜空に輝き、仮設で暮らす人々の思いと、天国にいる津波犠牲者の魂の声なき声が届いたものと信じています。
“希望の灯り”で灯された、「3・11」と「絆」の灯りの文字、輪になって手を繋ぎ祈りの言霊が、集まった人々の瞳を濡らしたひと時。お別れの片づけをして、名残惜しんで見送る住民の皆さまの手を振る姿に、参加して良かったとの思いを抱きつつ宿舎の仙台市内に戻りました。
日没に灯るローソクの灯り 犠牲者の名前が刻まれた竹灯篭
愛島仮設の3・11の竹文字 竹灯篭のメッセージ(山川書)
神戸・市民交流会の仲間たち(3名不在)*愛島仮設団地の語り部 高橋久子さん
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