熊本地震ボランティアに参加して
尼崎市在住 神崎敏則
尼崎市社会福祉協議会が主催した熊本地震ボランティアに参加しました。
出発の2日ほど前に携帯に社会福祉協議会から電話が入り、「水にぬれる作業になりそうなので、必ず長靴と着替えを余分に準備してほしい」と伝えられ、その夜に、あわててホームセンターで長靴、安全靴、アンダーシャツ、軍手、靴下等々を買いました。
5月20日(金)20時にバスでJR尼崎駅南を出発し、23日早朝に尼崎に戻るというハードスケジュールでした。参加者は社協の事務局を含めて約30名。正確ではありませんが、年代別には20代1人、30代3人、40代4人、50代6人、60代以上が残り約半数、男女比は3対7くらいでした。
土曜日午前6時すぎに熊本市に入りました。窓からは、屋根を覆っているブルーシートが点々と見えました。市街地に入ると右手に自衛隊の宿営地、左手は無人の団地――多分耐震構造でないので建て替え準備中――が並んでいました。
7時に屋外ボランティアセンターの真如苑に到着。地元の社協事務局の方から依頼され、テント立て、机、椅子の設置などを手伝いました。ボランティアの目印となるシールを受けとり、自分の肩にそれを貼りました。これから水前寺公園に路面電車で移動するので、そのシールを見せてボランティアと確認されると乗車料が無料になる約束事になっているそうです。最寄りの駅に全員で移動して、路面電車に乗り、6つ目の駅で降りて水前寺公園に入りました。
水前寺公園の池は地震により水が抜けて水位が戻らないということはニュースで知っていましたが、その日は前日から少し水位が回復しつつあるとのことでした。
水前寺公園の正式名称は水前寺成趣(じょうじゅ)園。細川氏初代藩主が約400年前に築いた大名庭園だそうです。残された文書によれば、かつて池に砂利を大量に投入したことがあり、その頃は湧水の量も豊富で枯れることはありませんでした。今回池の中の砂利を取り出す目的は、湧水が戻る可能性があることと、藻が発生し、水質が悪化しているので清掃することでした。
私たちが到着して現地で作業の段取りなどの説明を受けている間に、地元の小学生の集団が、池の浅い部分に入り作業を始めていました。ボランティアと遠足と兼ねたような、和やかな取り組みのように見えました。1時間程度で子どもたちの活動は終了しました。
その内に各地らからとボランティアが次々に入ってきました。
尼崎からの30人が2グループに分かれて池の中に入り、砂利をスコップですくってバケツに受け、それをリレーで回して岸で受けとり、一輪車に載せて、所定の場所へ運びました。作業している全員が半分水遊びのようで楽しくて、でも妙にペースが上がってバケツの数が足りない訳でもないのに素早く回したり、一輪車を押すのに駆け足になったりとか、全員がどんどんハイペースになっていました。疲れ切る前に休憩をとって、また作業を始めてどんどんペースが上がってを繰り返しました。結構体力を使いました。
17時には屋外ボランティアセンターに戻ることになっていましたので、15時過ぎに作業を終えて、水道水で軽く手足を洗って路面電車で戻りました。
17時にバスで熊本市を出発し、佐賀市に向かい、長崎自動車道・佐賀大和インターを降りて、近くのスーパーで夕食を購入して宿泊先のホテルに入りました。5人部屋で22時ごろには全員寝入っていました。
22日6時前からバイキング形式の朝食をとり、6時過ぎにはホテルを出発し再び熊本へ。7時すぎに前日と同じ屋外ボランティアセンターに入りました。3人から5人のグループに分かれてそれぞれグループの責任者を決めるように言われ、私たち4人のグループの責任者は60歳のAさんがなっていただきました。
ボランティアセンターの事務局の方がグループごとに必要な道具などを出そうとするので、「指示してもらったら自分たちで出しますから」と言って、こちらで台車、土嚢袋、バール、ハンマーを出して、指示されたワゴン車に積み込みました。そのワゴン車には2グループが乗り込み、2ヶ所の被災者宅へ相乗りで向かいました。車を運転されたのは地元のタクシー乗務員の方でした。私たちは15分程度で大きなL字型のマンションに到着しました。
車から見ていると被災しているようには思えませんでしたが、車を降りてエントランス近くにくると、壁のクラックが目に入りました。後で知ったことですが、エントランスの自動ドアも地震で動かなくなっていたそうです。
エレベータで上がり、被災者のお部屋に向かう途中の廊下のL字型の角にあたる接続箇所では、1cm程度の段差がありました。
廊下の壁にも数か所クラックが入っていました。お宅の玄関に入り、そのまま土足で上がってほしいと言われましたが、玄関と廊下が思っていた以上にきれいに片づけられていたので、土足に躊躇しました。2、3度すすめられてやっと土足で上がることができました。
廊下から扉を開けると正面と右手がリビング、左手の座敷に80歳代と50歳代の女性二人がおられました。顔がそっくりなので母娘だと勝手に思ってしまいましたが、叔母と姪の間柄でした。依頼内容はリビングを片付けてほしいということでした。姪御さんは「私は今日の午後の飛行機で帰るのでよろしくお願いします」と言われ、言葉の端に、緊張感のようなものが感じられました。
リビングの壁を背にして本棚と食器棚が並んでいるはずでしたが、食器棚の上段半分は前のソファーに転倒していました。食器棚のガラス戸がソファーの背もたれ側に、背板が天井側に向いていました。
食器棚を片付けるために、まず本棚の移動から始めました。幅60cmほど高さ180cmほどのスリムな本棚には本がぎっしりと詰まっていました。4人がリレー式で本を座敷に移動させるのに10分ほどかかり、空になった本棚を1mほど移動させました。
次に一番肝心の転倒している食器棚をどうすべきか、良い方法がなかなか思いつきません。転倒している食器棚の中には割れていない食器が3割ほどありそうでしたので、できるだけすくい出すことを目標にしました。上部が斜めに下を向いているのを通常の向きに戻そうとすると135度回転させて、その間ガラス戸はどちらかと言えば下側に位置しますので、食器が余計に割れそうです。この方法はあきらめて、上部を完全に下側に向かせてガラス戸を開けて食器を取り出すことにしました。
食器棚の傾きを少しだけ大きくしてガラス戸をちょっと開けて、少しずつ中の食器を取り出し、次にまた傾きを大きくして、ガラス戸をもう少し開けて、中の食器を取り出す、という流れを繰り返しました。割れている食器は土嚢袋にどんどん詰めていきました。
どうにかすべての食器を取り出しましたが、組皿は一枚でも割れていると廃棄にとのことでしたので、全体の2割も残りませんでした。やっと空にした食器棚を通常の位置に戻そうとすると、姪御さんから、食器棚は使わないので処分してほしいと依頼されました。土嚢袋10袋近くと食器棚とを4人で1階外の廃棄置き場へ持って行きました。そこで食器棚の分解をするのに、責任者のAさんが「自分が残ってやります」と言われ、お願いしました。残り3人はお宅に戻って、本棚を元の位置に戻して、本をできるだけ同じように並べようとしましたが、正確に覚えていなくて、並べ方で少々悩みましたが、「あとは私がやりますから」とご本人に言われて、結局は納めるだけにしました。
「他に何かすることはありませんか?」とお聞きして、予定にはなかったようですが、冷蔵庫を3cmほど移動させて、11時前にはそのお宅での作業が完了しました。
4人で最後に挨拶をして帰る際に、「少しだけだったけど本当に困っている人の手助けができて良かった」と実感しました。でも後から考えると複雑です。その日からまた80歳代の方の一人暮らしが続いているのですから、たいしたことは何もできなかったのかもしれません。
11時前にボランティアセンターにAさんが電話して車で迎えをお願いしましたが、「運転手が出払っていて、すぐには迎えに行けない」との返事でした。30分近く待ってやっと車が迎えに来ました。
11時45分ごろにボランティアセンターに戻ると、ボランティアの方の順番待ちの状態が続いていました。尼崎のグループのほとんどはすでに戻っていて、最後尾で順番待ちをしていたのですが、そのまえの100人ほどの人たちはまだ1度もボランティアに出ていないそうです。結局私たちは、1日目の水前寺公園の池の砂利すくいに行くことにしました。
ボランティアを受け入れる地元事務局の作業量は膨大なのに、スタッフが少なすぎるように感じました。
午後からの水前寺公園の作業を終えて、バスで18時ごろには博多の銭湯に入り、その近くの食堂などで三々五々夕食を摂り、翌朝7時前にJR尼崎駅に戻りました。事前の予定ではそのまま出勤するつもりでしたが、到着時間が少し早まったので、自宅に戻り、洗濯機をセットしてから出勤しました。ハードスケジュールでしたが、充実していました。何ができたのか、複雑な気持ちは残りました。