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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(49)**<2008.1. Vol.50>

2008年01月10日 | 横断車道

今号で「みちしるべ」は第50号達成。2008年の正月号なのも、記念すべき廻り合わせ。編集・印刷・執筆の方々の労に感謝。また、毎号配布の方々にも感謝。その配布活動につき、元気印の報告を▼マイカーを手放して2年。それまで車で担当の各団体に届けていた。最初の頃は、初代代表世話人のS翁を乗せて、丹波笹山のM氏の所まで行ったことも。これは経費削減で、直ぐに郵送に。当初から郵送の1団体を省き、残りの7団体を60kmの行程で配布▼川西自然教室のNリーダーも、マイカー生活を脱却されたとのこと。阪神間でも山間部の川西市では、都心部の西宮市で脱車をするのとは、ちょっと決意の程度が違う。とにかく仲間が増えたことに、意を強くした▼脱車以後は、郵送が増えて3団体。1団体は毎月の会合の度に、バスで行き手渡し。残りの5団体は自転車で回ることに。もう随分と慣れた、第48号の珍道中の話である▼西宮市の南部中心に住むので、日頃の生活は徒歩と自転車で、なんら困ることもない。まずは行きつけの喫茶店で気合を入れる。マスターに配達計画を話すと、無理をしないようにと励まされる▼まずは甲子園口のYさんのお宅。ここはまだ街中で、距離も3.5kmと余裕。毎回違う道を通るのが楽しみ。部数の多いYさんの団体が終わって、リュックサックも軽くなる▼次は7km北上して、宝塚市安倉のSさんのお宅である。自転車にとって、車の交通量が難儀。この行程では、武庫川の河川敷の4kmが幸いである。河川敷は全面的に公園化され、自転車専用道の整備がある。冬の北風と多少の上り坂で、ギアを1段下げる。野鳥や川の流れに気を取られていると、向かってくる自転車もよそ見。結構危険▼日曜日の阪神競馬場を通過するので、遅くなっては混雑する。仁川駅でトイレ休憩。駅周辺は駐輪禁止で、トイレに自転車共に入る。折りたたみ式の小型で、結構問題なし。この頃になると、リュックと背中の間に汗を感じる。缶コーヒータイムをとって、汗を乾かす▼次は甲陽園駅周辺の2団体。関西学院大学を頂点にアップダウンである。出来るだけアップダウンの少ないルートを研究。この日も、ハッピールートを見つける。仁川から7kmの山間ルートである▼Mさん宅は600mの連続急坂である。平均斜度は6%程度。最初は低速ギアで意地で上ったが、押して上がっても時間的に変わらない。使う脚の筋肉も違うので、歩くことにした。この坂道を6分かけて登るが、下りは30秒の豪快な滑降。次のYさんに言ったら、危険だからゆっくり降りるようにと諭された▼最後に芦屋のIさん宅。やはり4kmのアップダウンである。街中なので滑降というわけには行かない。工事中の山手幹線が行くたびに進捗しているのを見る▼最後は家に帰る途中に一杯。全行程は30km弱。まだまだ元気な還暦前である。(コラムX)

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『みちしるべ』北極の化石探し《北欧旅行記 その1》**<2008.1. Vol.50>

2008年01月09日 | 川西自然教室

北極の化石探し 北欧旅行記その1

川西自然教室 森 雄三

 「地球の天辺(トップ)」という言葉から、人は何を想像するであろうか。平凡だが、私は北極のことを思う。北へ北へと進んで北極に到達したら、目印はなくても「天辺」の実感が湧くのだろうか。地球儀を手にとって見る。回転軸が貫通している所が北極で、軸を支える金具に半ば隠れてスバールバル諸島(ノルウェー領)がある。ここはすでに北極と呼んでもおかしくない場所なのだ。ひっくり返して南極側を見ると、意外なことにかの昭和基地は金具から外れている。スバールバル諸島、中でも最大の島スピッツベルゲンは、昭和基地よりもまだ1000キロメートルも極点に近い、文字通り「地球の天辺」という場所なのである。これは、その地球の天辺での化石探し体験談。

 最初に、そんな妙な経験をする事になったいきさつから話したい。会社を辞めて時間が自由になったので夫婦で念願の海外旅行、約4週間の北欧めぐりを計画した。日本からの往復は勿論、現地で移動するにもSASスカンジナビア航空が便利である。で、大阪にあるSASの支店まで出向いて旅行代理店用の資料――スカンジナビアン・パスの利用規制の詳細――を手に入れた。このパスを使うと北欧諸国内の空港はどこでもワンフライト約70米ドルで飛べる特典があり、うまくスケジュールに組み込むと非常に安くつく。例外があってノルウェーのオスロからアルタとキルケネス、それにLongyearbyenへの便に限り130米ドルである。前二者はいずれもオスロからかなり遠い都市なので値段が高いのは分かるがはて、Longyearbyenとは一体どこにあるのか?第一、何と発音するのか?ロングヤーバイン?はた、と気付いてスカンジナビア航空の時刻表のルートマップを見るとノルウェー本土から海を越えはるか北へ離れた島の空港である。ああそうかこれは有名な石炭産地スピッツベルゲン島なのだと理解した。その時の気持ちを一言で言えば「これはチャンス、今なら行けるがこの機会を逃したら二度と無理、たとえ炭鉱しか無くて他に何もなくても、氷と雪しか無くてただ眺めているだけでも良いから」と。人が常時居住する、おそらくは世界最北のこの町をロングヤービンと勝手に呼ぶ事にした。正確ではないかも知れないが現地ではチャンと通じたのであまり間違っていないと思う。

 北極点まで僅か1300キロメートルの極地にもかかわらず、メキシコ湾流の間接的な影響か、夏期には摂氏20度を記録した事もあると言う。地図上はノルウェー領だが、歴史的には1920年のスバールバル条約により、各国が経済目的又は研究目的のために諸島を利用できると言う条件で、ノルウェーの主権行使が認められた。主な産業は石炭鉱山で、その中心地ロングヤービンは同時に諸島の首都でもあり、近年はその地理的・気候的条件を生かして観光客も受け入れている。

 スピッツベルゲン島に関する観光資料は国内には極めて乏しく、北欧専門と称する旅行社に依頼して入手した資料はコピーしたものしかなかった。しかも現地発のツアーたるや「北極圏の大橇トレッキング12日間」とか、「北極熊の生息域探検8日間」とか、本格的探検風で日程的にも肉体的にも普通の人間にはとても付き合いきれないアクティビティーばかり。結局、ロングヤービン滞在中の丸2日間は何もしないでただ極北の雰囲気さえ味わえればそれで良し、ということにした。

 忘年7月6日、ノルウェー北部の町トロムソからバレンツ海を飛び越えて1時間35分、ロングヤービン空港着。風が冷たい。一切の装飾を排したと言えば聞こえは良いが、何となくうらぶれた感じの倉庫風の建物が空港ビルである。満席のDC9から降り立った乗客はあっという間に散って、バス停も無いし、様子の分からない私達夫婦は取り残されてしまった。案内所で聞くと、タクシーは出払っていて1時間から1時間半待たねばならぬという。町まで数キロメートルあるらしいがさてどしたものかと戸惑ってしまう。表に、団体客用?の小型バスが止っているので、駄目元と聞いてみる。「フンケンホテル、OK?」……運賃30クローナを払えば連れていってくれるらしいので、やれ助かった。バスは、フィヨルドを見ながら海岸沿いに走る。暗い色の海水一面に浮かぶパックアイス、彼方にそそり立つ万年雪を頂いた山々。樹木どころか草の緑さえ僅かな荒々しい地形。やがて町に入り建造中の家屋の横を通り過ぎる。基礎打ちは無く、地面に直接材木を組んでその上に床板を張っている全て木造である。永久凍土地帯では夏期、地面が持ち上がるので建物全体を浮かす構造にするのだという。

 今回の旅行で最も宿泊予約の難しかったのがスピッツベルゲンで、フンケンホテルは旅行社が根気よくキャンセル待ちをして取って〈れた。ここも内外装全木造、温かみの感じられるシックな肌合いの宿で、中へ入るとホッとする。西欧では珍しい事に、スピッツベルゲンでは屋内には履物を脱いで上がる習慣である。それは兎も角、チェックインする。宿泊客が入り口の辺りに脱ぎ散らかした靴やらブーツやらが見苦しい。日本旅館のように上がり框がはっきりせず、屋外の玄関口から廊下まで一続きの床面なのでそうなってしまう。

 部屋で一服してからロビーに降り、パンフレットを漁ると意外な事に日帰りツアーがいくつもある。明日の日曜日のプログラムは「浮氷のフィヨルド船旅」「ロングヤー氷河遡及とトレッキング」「ロングヤー高原トレッキング」「フィヨルド海のカヌー漕ぎ」「ボルターダーレン渓谷の化石探し」……が、船旅は人気が高くすでに満員、他のツアーは登山装備が必要、などとても無理で最後の「化石探し」ならただ歩くだけで身体も楽らしい、と参加する事にした。ところがこれがとんでもないハードなピクニックだったとはこの時は知る由もなかったのである。

 パンフレッHこよると、朝10時に集合し渓谷の底をたどって氷河末端の氷堆石堆積地まで行き、五~六千万年前の化石を探すもので、途中の行程12キロメートルの間は全く道が無く所要時間は約8時間となっている。雪解けの流れを渡渉するのでゴム長が必要であるが、これは貸してもらえるのでOK、がしかし英文によく分からない個所があるので尋ねてみる事にした。「Pack-dock」とは?ホテルのフロントが一生懸命説明してくれたが、英会話能力が限りなくゼロに近い者にとって何度聞き返してもはかが行かない。どうやら荷物運びのエスキモー犬を連れて行くらしかった。

 当日、日本で言うなら冬装束に身を固めノルウェー人用のブカブカの長靴を履いて、渓谷の入り口に建つガイドのベースキャンプを出発。一行はガイドの他ノルウェー人が4人、イタリー人2人、スウェーデン人1人、そして日本人の私達夫婦2人の合計10人のパーティーとなった。エスキモー犬はというと、先になり後になりして大喜びで皆にまとわりつくだけの事で、ガイドの説明では、どうやら北極熊が近付いてくる場合などのための危険予知の役割を果たすらしい。

 最初の間は、高台にあるベースキャンプから谷に並行するコースをとる穏かな丘陵越えで、谷底の河原へ向かって少しずつ下ってゆく。足下は、道路工事の砕石のような一面の砂礫で、やがて片側から山が追ってくると突然、敷き詰めたように一面に水苔が生えている地帯に差しかかり、それが何百メートルも続く。山麓から湧出する大量の雪解水が地面を伝わって河原に流れ落ちる地形で、注意して見るとそこにもここにも極く小さい黄色のチングルマのような花や、濃紫色のワスレナグサのような花がびっしりと咲いていて、よくまあこのような自然条件の厳しい所でと、感嘆してしまう。水苔の上は、一歩踏み出すたびに靴がめりこんで歩き難い事おびただしく、その上あちこちに点在する水たまりを避けるのでなかなかはかどらない、あっという間に私達は一行から遅れてしまった。

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『みちしるべ』マー坊との思い出**<2008.1. Vol.50>

2008年01月08日 | 神崎敏則

少年の日の、いまだに痛みを伴う、そして鉛のように重くて暗い出来事
マー坊との思い出

みちと環境の会 神崎敏則

 20代の後半頃、業務で淡路島を年に4、5回ほど訪れていました。日差しの厳しいある夏の日に洲本港に降りると、潮の香りと磯の匂いが嗅覚を刺激しました。自然に胸が大きく空気を吸い込んで、なぜだか解放感すら感じていました。ちょうど乾燥ワカメが水に浸されて元のワカメに戻って、瑞々(みずみず)しさを取り戻しているような感じでしようか。「この感覚は、確か中学の頃に感じたのものと同じだ」ととっさに思いました。

 中学生まで五島列島の小さな島で過ごした日々は、大げさに言えば、周囲からの圧迫感なんて感じたことが無かったような毎日でした。とは言っても、ノビノビ過ごしていたと表現するには語弊があります。

 小学生低学年ごろ、朝食の時にご飯を口の中に入れたまま、柱の年輪と節の模様に気を取られてぼんやりしていると、「また口ば開けたまま動かさんとボーっとしとっと」と母親からよく叱られていました。言い訳をすると、たぶん子供のころから、そして今も睡眠障害の傾向があったのだと、自分で勝手に思っています。学校の授業中でもいつもボーっとしたままでした。低学年のころの通知表には2と3しか並んでいませんでした。

 高学年になるにつれて、算数と理科くらいは4になっていましたが、勉強は嫌いでした。中学に入って、数学が得意科目だと自分でも思っていましたが、予習や復習どころか試験前の勉強もした記憶がありません。授業をきいていれば、だいたいそれでどうにかなっていました。英語も同じように家で全く勉強しない分、こちらはしっかりと成績に反映していました。それでも勉強しようなんて思ったことはありませんでした。

 中学3年になると、父親が、長崎市内の公立高校を受けることを強く勧めだしました。父方も母方も、少なくないいとこは、長崎市内の公立高校に行き国立大学に進んでいました。でも、彼ら彼女らはもともと子供の頃から成績が良かったのですから、僕とは全然違うのです。うちの父親はとんでもないことを言い出すもんだと思っていました。結局は最後まで拒否し続けることができなくて、高校受験の勉強を始めることになりました。それても、もともと勉強が嫌いでしたから、30分も勉強すると気分がむしゃくしやしてしまい、誰もいない海岸まで自転車で10分ほど走って、磯の大きな岩の上に寝そべって、大きく深呼吸していました。そうすると気分がとても落ち着くのです。洲本港で感じた解放感のようなものは、この時の心境と似ていたのかもしれません。子供の頃のいろんな思い出は、そのほとんどがぼんやりとしている少年の出来事です。でも、そんな子供の頃の思い出の中に、いまだに痛みを伴う、そして鉛のように重くて暗い出来事があります。

 僕が生まれたのは、五島列島の中程にある奈留島と言う小さな島です。父はイカを仕入れてスルメイカを作るのが生業でした。僕が小学校にあがる前に、五島列島の中では一番大きな島の福江に引っ越し、自宅で削り節を作っていました。それで生活は成り立っていたそうですが、借金を返済するには利益が薄く、福江の海岸近くに引っ越して、またスルメイカを作る仕事を始めました。その2度目の引っ越しの直後に小学校に入学したと思います。

 小学校では知り合いが誰もいないので心細く、同じクラスの朝子と夕子という双子の女の子といつも一緒にいました。学校からの帰り道の途中に朝子とタ子の家がありましたので、自然と一緒に帰るのです。朝子が学校帰りに歯医者に行く日は、夕子も歯医者について行くのですが、なぜだか僕も一緒でした。小学校と家との間には城跡があり、その城跡の門から入って中を通って帰る日も、城跡の周囲を迂回するようにして帰る日もなぜだか3人一緒でした。

 自宅の近所には同級生が一人だけいました。それがマー坊です。マー坊とは直ぐに友だちになりました。学校が休みの日には、近所の1~2歳離れた子供たちが集まって遊んでいました。冬休みは遊びの種類が増えます。凧(たこ)揚げや、独楽(こま)まわし、銀玉鉄砲遊びなどは冬休みの遊びの定番のようなものでした。

 独楽まわしでは、最初に全員が一斉に独楽を回し始め、こけた順に負けになります。最初に負けると、次の勝負では一番最初に独楽を回さなくてはなりません。そこからはい上がって順番を上げていけば良いのですが、ボーとしている僕はいつまでたっても順番を上げることができません。困り果てた僕を見かねてマー坊が僕の代わりに独楽を回して、僕のために順番を上げてくれることがしばしばありました。マー坊と僕は一番の仲良しでした。

 ある時、近所の子供たちで爆竹遊びをしていると、正ちゃんの父親が、マー坊の家に爆竹を投げてこい、とけしかけました。正ちゃんの家は、マー坊の向かいでお店屋さんを営んでいました。「朝鮮人の家の中にさ、投げてこんね」と言われて、正ちゃんとその兄は、マー坊の家の玄関の引き戸を開けて爆竹を放り投げては走って逃げ、また家の前に戻るのです。それを何度か楽しそうに繰り返していました。そんなときには僕はその遊びの輪に入りませんでした。僕は父から「マー坊は良か子たいね」と聞かされていましたし、それがどういう意味か何となく分かっていました。マー坊は一番の友だちだと自分でも思ってしました。

 おもてで遊ばない日は、マー坊の家でよくテレビを見ていました。

 それは、小学2年か3年の夏休みのことでした。近所に材木置き場がありました。小さな入り江の向こう岸とこちら岸に関を渡して、その内側で丸太を海水に浮かべて保存している場所です。ここで近所の子供たちが集まって鬼ごっこをしていました。海水に浮かんでいる丸太の上を走り回る遊びは、失敗すると海に落ちることもあり、スリル満点なのです。日が傾くのが遅い季節です。夕方になるまでそこで遊んで、遊び疲れ、もうぽちぼち帰る時刻になり、一緒に遊んでいる中の一人が「朝鮮ジ~ン」とはやしたて始めました。

 なぜだか覚えていません。そのとき僕も一緒になって「朝鮮ジ~ン」と差別に加わりました。なぜそんなことをしたのか、そのときの心境を思もい出すことができません。ともかく僕はマー坊に向かって2回も「朝鮮ジ~ン」と大きな声で叫びました。たまたまマー坊の2歳上の姉が家に帰るようにマー坊を連れにきていて、その姉の表情が一転しました。「もうトシ坊のようなあんな子と一緒に遊ばんて良か」と怒っていました。そのときのマー坊の表情は覚えていません。無表情だったような気もしますが、定かではありません。

 翌日、僕はいつものようにマー坊の家に遊びに行きました。マー坊は何も言いませんでした。話しかけても返事をしませんでした。それでもマー坊の家の畳の部屋で、二人ともごろ寝のような体勢になってテレビを見ていました。マー坊はしばらく話をしてくれませんでした。1~2時間もたってようやく話をし始めました。どんな話だったのか、まったく覚えていません。たぶんテレビ番組についての、そのときの二人にとってはどうでも良い会話だったと想像しています。その日のうちに、また二人でおもてに出て一緒に遊んでいました。近所の年長のある子供は、「マー坊とトシ坊は、絶対けんかばせんとね」と感心するように言っていました。

 小学4年の3月に、僕の父は、生まれ故郷の奈留島に戻ってスルメ製造の事業を拡大することを決めて、引越しすることになりました。父は荷物と一緒に運搬船に乗って先に出航してました。僕は、母や妹と一緒に小さな客船に乗っていました。客船が桟橋から離れる寸前に、マー坊が駆けつけてきて、船のデッキにいる僕に落花生の入ったビニール袋を投げました。「げんきにすっとよう一」と言って手を大きく振っていました。

 僕の心の痛みの理由は三つあります。一つは、マー坊にちゃんと謝らなかったことです。ひょっとしたらマー坊は僕を許してくれていたのかもしれません。でも自分がおこなった過ちをきちんと謝ることが最低限の責務なのに、それがいまだにできていないことです。

 二つ目は、自分が何をしたのかをしっかりと受け止めてこなかったことです。あの時僕は差別をしたんだと、はっきりと自覚したのは、大学に入って開放講座を学んだのがはじめてでした(言い訳をするつもりはありませんが、長崎では、同和教育がありませんでした)。18歳になるまで、自分がやったことをなんとなくやり過ごしていたのです。

 三つ目は、18歳で自分がおこなった差別をやっと自覚し始めたのに、それ以降も、差別をしたという自分にしか考えが至らなかったことです。僕から差別された、あの時のマー坊の思いはどのようなものだったのか、これまで想像することもありませんでした。この文章を書く為に、この一月ほど当時のことを振り返って考え続けていて、はじめてマー坊の思いを考えるようになりました。

 あの材木置き場の夕焼けをマー坊はどんな思いで見ていたのでしようか。マー坊には残酷な夕焼けに映っていたのかもしれません。

 僕にとって差別とは、自分の内側にあるものです。何かをきっかけにして人を差別する側に流されてしまうかもしれない、という不安定さを今も抱えています。普段は、決して差別をしないと決めているのですが、自分の内側の弱さが差別する側になる危険性を今でもはらんでいるのだと思います。

 自分の内側にある差別の構造は、簡単には克服できません。克服できるほど、僕は立派な人間ではありません。でも、少なくとも、同じような過ちを犯さないために、このマー坊との思い出をこれからもしっかりと抱えていこうと思います。意識の前面にはなくても、自分の心の奥底に置いて、これからもマー坊との思い出に向き合って生きていこうと思います。それが、自分のこれからの行き方の指針の一つだと思うのです。

 心の奥底にあるものを意識するときは、本当に痛みを伴います。この1ケ月ほど、当時を思い出すたびに、気分がひどく落ち込みました。

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『みちしるべ』熊野より(25)**<2008.1. Vol.50>

2008年01月07日 | 熊野より

三橋雅子

<ここによき湯あリ――湯の峰温泉①>

 我が家のお風呂、湯の峰温泉は千八百年来の日本最古の花が自然に積もり薬師如来の形になったものを本尊、湯峯薬師として東光寺が建てられた。座像をなしている、この本尊の胸から温泉が噴出していたため、古くは湯の胸温泉と呼ばれていたものが、湯の峰になったという。この真っ黒けの如来様は年二回ご開帳になる。湯の噴出口と言われる胸の穴は、私には弾丸の痕のように見える。薬師本尊の他、ここには重要文化財の不動明王像など、見ごたえのある変わったものが数点あるので、暗くて狭い本堂をそろそろすり抜けながら眺めるのも楽しみの一つ。

 脱衣所に珍しく広告らしいものがあった。旅行会社の調査による、関西圏温泉のランク表である。第一位がこの、古びた湯の峰温泉なのには驚いた。ちなみに二位は神戸の有馬温泉。知名度では断然上回るが、この名湯も当節のご多分に漏れず、塩素消毒による循環湯になっては一位は無理なのか。西宮時代は、近かったのでよく来客を案内した。懐かしい。

 ここはかつての村の財産区で、その地域の住人は無料、古い家には浴室がない。尤も本宮町全域というわけではない。この前の合併の前の、昭和の大合併以前の旧村の範囲である。無料は引っ越してその日から、というわけではなく、選挙権と同じく三ヶ月を経て資格が得られる。「みつき経ったけど、住民票か何か入り用ですか」と訊けば、湯番は「ああ何もいらないよ」で手続きは終わった。当時この公衆浴場は二百円だったが、世界遺産登録を機に二百五十円に上がった。ここは九十二度の源泉を水でうめているが、三百八十円の薬湯は源泉百%、一旦タンクに溜めて冷ましている。とろっとして濃度が高い。石鹸、シャンプー類は使用禁止。ここは住民も正規の料金を払わなくてはならないが、病気や怪我の時は特別の計らいをしてくれる。連れ合いも電動鋸で怪我をしたとき、しばらくの間一回三十円でここのお世話になった。気のせいか、年の割りに治りが早かった。傷に良い、ということで、飲むと胃潰瘍などに利くというのも胃の粘膜修復が早いのか。薬効の適応症は多岐に亘る。大阪や三重ナンバーの車を横付けして、二十リットルタンク(二百円)を十も二十も積み込む人も少なくない。腐らず二年はもつと言う。温泉粥は少し黄色くなるがとろっとしてなんともいえない香りと味である。湯豆腐は煮立ててもスが入らないのでゆっくり濃厚な味を楽しめる。茹でものは何でもこれで、用途は広いが、温泉コーヒーは、安物のインスタントが一番おいしくて、高い豆を手間暇かけて挽いたり、丹念に淹れるのはだめなのである。

 観光客は入るなり、石鹸もなければシャンプーもシャワーもないなんて、とこぼす。外に出ても暇を紛らすものはない。こんなとこ一週間もいたら気が変になる、などとブーイングしきり。お陰でリピーターがほとんどいないのは有難い。ここの愛好者は、今や全く少なくなった本来の掛け流し(全国で10%とも20%とも言われる)を求めて来る昔からの常連で、世界遺産登録とは関係ない。ちっとも変わらないねえ、でも以前は湯筒で、自由にお湯が汲めた、無論只で、などの話が聞ける。

 今湯筒は観光客の、卵や薩摩芋茹でで賑わう。地元も筍の季節には長時間嵩ばる袋を大きい石で沈め、旅館や民宿の女将も、蕗やゴンパチ(すいば)など、客用の茹でものをここでしている。硫黄臭のある高温の湯(重曹硫化水素泉)は、沸騰させない為においしさを保つのか。茹で卵は白身が先に硬くなって「温泉卵」にはならないが、わざわざ遠くから、何ケースもの卵を茹でて行く人もある。

 我が家も遅れ遅れの芋堀りがようやく終わり、お風呂の間サツマイモ茹でに費やす季節になった。湯船に漬かっている間では茹で上がらないので、連れ合いは寺の住職が営む「湯胸茶屋」で時間を漬す。もっともこれは茹でものがなくても定番なのだが。新聞配達のない我が家ではここのお古の新聞をもらってくるのに、風呂?温泉コーヒー?新聞取りが欠かせないコースなのである。無論私は家で安いインスタントコーヒーで温泉コーヒーを楽しめるのに、と茶屋に入る気にはならないから、車で、ほとんど唯一の読書タイムを楽しむ。

 熊野本宮大社例大祭初日の湯登神事では、湯の峰の温泉で湯垢離をとり、温泉粥を食したあと、湯の峰王子で神事をする。それから稚児を親が肩車に乗せてアップダウンのきつい大日越えをして本宮旧社地に向かう。ここはお風呂の前後の、ちよっときつい散歩に良い速足一時間強のコースだが、私の足では届かないような段差の激しいところも多く、装束をまとったり軽いとはいえ、子供を乗せての道行きの厳しさはさぞかしと思われる。

 かつて熊野詣の人たちの、本宮大社に入る前の禊の湯でもあったし、熊野御幸の時代にも、皇族や貴紳が休養にこの地を訪れ長旅の疲れを癒した。いまだに皇族との縁は深く、現天皇の皇太子時代、近くは皇后が末皇女婚礼の直前、二人で、いずれもお忍び来訪があったとか。

 ふだんの昼間は大抵一人湯だが、たまには高野山から小辺路を三泊四日、一人で歩いてきた、と大荷物を下ろす人もいる。湯の中で幸せそうに足を伸ばす東京人の、道中の話を聴くのも楽しい。

  湯の花の浮きて一人湯秋深む

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『みちしるべ』初夢で想い出したこと**<2008.1. Vol.50>

2008年01月06日 | 藤井新造

初夢で想い出したこと

芦屋市 藤井新造

幼い頃の村の祭りごといろいろ

 日本人はお祭りごとが好だと言うが、その例にもれず私もお祭りが好きな一人である。田舎育ちの私は、小さい時から祭りが好きであったが村の祭事は限られていた。秋の収穫祭と、各家庭での春祝い、夜桜の花見があった位である。

 生まれ育った地名が、松山村字大薮(現坂出市大家富町)なので、多分薮を切り開いてできあがった歴史の浅いと察していい。その歴史の浅いの数少ない祭事として、二日間の秋祭りがあった。一日目と二日目の午後まで獅子舞が各家庭を廻り、二日目の夜に神社に4つの地域から集まり境内で鉦と太鼓の伴奏により競技(?)を披露していた。同時に御神輿も各家庭を廻り、獅子舞を興じる同じ神社に集まり、祭りらしい賑やかな雰囲気をかもしだしていた。

 隣接している青海は、保元・平治の乱と呼ばれる宮廷闘争で敗北した宗徳院(上皇)の御陵があり、そこへ歌人の西行、俳人の芭蕉とかが来て参拝している。そして二人の歌碑・句碑もある。その近くには、四国八十八箇所めぐりの八十一番目の札所・白峯寺があり、古くからのであったが、特別伝統的な祭事があったとは聞いていない。大薮というは、海と小高い山の間に位置し狭い面積なので貧乏な家が多く、祭事を行う程の金もなく、時間の余裕もあまりなかったのかもしれない。

 村全体は高松市と坂出市の中間に位置し、海岸にそった場所で、農耕地として格好の地は塩田によって占められていた。余談になるが、私の母親の祖先は塩田の町・赤穂から同じく塩田のある林田町に移住してきたのを、後年塩田に関する本を読んで知った。

 話をもとに戻すと、秋祭り(2日間)と、春には塩田工場で働く人の大宴会が工場内であった位で、村民は絶えず休みなく働いていた。いや、休みなく働かないと食べて行けない戦中戦後が、私の小学・中学生の時代と重なった。田舎にいても稲作の田を持っていない私の家は、米食がなく、あの食糧難の時代、毎日、いも、かばちやの日々であった。

 そして。こと塩田に関してこう言うことがあった。夏になると午後より中学3年の男子生徒が学校を早引きし塩田の作業を手伝う。今で言うアルバイトの一面もあったが、家業として手伝っている者もいた。早引きした生徒の数の多さに、都会から就任してきた若い教師はその対象の生徒がおらないのに教壇で「半年もすれば卒業し仕事をする筈である。今しか勉強できないのに何故早退するのか」と怒りの言葉を発し、私達に投げつけるように言っていた。塩田以外の田畑を持っている家の子供(私も)は授業が終わると、すぐ家に帰り家業(農作業)を手伝っていた。勿論、日曜日など休日は朝早くから日が暮れるまで終日の労働である。雨の日は草履を作っていた。それ故私など、勉強は嫌いでも学校に行っている間は働かなくていいので身体が楽で嬉しかった。この村で上層に属する人には塩田の地主、戦後まで旧地主、土建業者(戦前の翼賛衆議院)とごく限られた人々で、あとは「チョボチョボ」の生活をしている者ばかりであった。

 話はそれるが面白いことに、この村から高松中学(現高校)、丸亀中学(現高校)に進学する家の子供は決まっていた。「上層」に近い家である。私の本家は後者の「丸亀組」であった。すると本家は村で少し豊かな方に属していたのかも知れない。しかし、分家の私の家は少しばかりのみかん畑と普通の大きさの家屋であった。それと、家を建築中に祖父が死んでいるので資産の分割が不十分なまま独立しているのでみかん畑は少ない方であった。従って「チョボチョボ」の家より下の方であったかも知れない。

楽しめる共同行事はいかが

 それで話を祭事に戻すと、秋の祭事の他に我が一族郎党による、今で言う家族の慰安旅行があった。戦中では、岡山県の玉野市の三井造船に行き、中村メイ子が慰問で歌ったのを聞いた記憶がある。戦後では岡山に本部のある金光教へ遊びに行っている。近くでは今は陸続きになった瀬居島ヘの「島祭り」を見学に行っている。何れも20人前後乗れる地元の運搬船を借りてである。遠くへは一族の宗派である京都の西本願寺派・興正寺へお参りし、あのだら広い本堂で泊まっている。泊まったといってもゴザと毛布を借りて雑魚寝したので、季節は夏であったと思う。

 一体誰が計画し、主導したのかさっばり記憶にないので、私の小学生の高学年か中学1、2年の頃であろうか。この家族旅行は本家と分家、それに近い親戚が参加していた。同じく、みかん畑の共同作業(みかんの木の消毒、収穫時)を特に人手が要する時計画的に行っていた。又、春祝いも同じであった。瀬戸内の魚・鯖がとれる時になると、一族が寄って春祝いをする。この時は早朝より本家に集まり、うどん、豆腐、うすあげ、ちらし寿司、押し寿司を作り皆で食べるのである。私にとっては一年間で一番御馳走にありつける日であったが、酢の強い押し寿司をおいしいと感じたことはなかった。

 またまた話は飛躍するが、我々のネットワークも「道路」以外にイベントを伴ったものを模索し共同で楽しみも共感し運動ができないものかと思った。昔の私が経験したような共同体社会と様式を現在にあてはめることは不可能であることがわかっていても、以上が初春の感想である。

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『みちしるべ』斑猫独語(32)**<2008.1. Vol.50>

2008年01月05日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<造られる言葉 使われる言葉>

 「里山」という言葉、今では誰もが何のこだわりもなく使っているが、昔からあった古い言葉ではない。1988年11月刊行の国語辞典三省堂大辞林第一刷には「里山」はまだ無い。環境問題が大きく一般の注目を浴びたころ、誰かがこの言葉を造り、よい言葉だ、と認められ日本語に定着したのだ。このようにして言葉は増えていく。もちろん使われず忘れられ消えていく言葉もある。

 昨年暮れから今年にかけて「限界集落」という言葉が目についた。限界集落とは「住人の半数以上が65歳以上で、やがて集落として機能しなくなることが予測される地域」だそうだ。どうせどこかの学者か官僚が考えついた言葉だろう。私の直感は、これを簡単に国語にしてしまってはならないと働いた。よい言葉とは思わないからだ。この言葉の意味する所にはやさしさ、救いが無い。切り捨てが潜んでいるのだ。工業製品などの規格や品質において限界という言葉は危機、危険を意味し、そこから先の余裕は認められないのだ。そんな認識、意識下にある限界という言葉を人が住む集落に適用して出来た限界集落という言葉はそこに住む事を許さない、認めないという意味をもっているにちがいないのだ。人は機械ではない。柔軟な思考を持っている。極めて不便な所でも住めば都という言葉どおり、そこに住み続けたっていいのだ。行政の都合で住むところまで口出しされてはかなわない人だっているだろう。限界集落という言葉を簡単に人の口に乗せてしまえば、そこに住む自由さえ奪われかねないのだ。私のこんな考えが考え過ぎであればいいのだが。

 俳人・宇多喜代子は日経新聞2007.12.16日号文化欄に載せた、山はおおきな水のかたまり、というタイトルの随筆中で、「限界集落」を「水源集落」と言い、水源の里として外部に理解を広げていけば、と書いている。「限界集落」を邪魔物扱いせず、再生に向かわせるという発想だ。そうありたい、そうすべきなのだ。

 年末年始の駅伝をテレビ観戦する楽しみを以前書いた。今年も箱根駅伝を見た。その時実況アナウンサーが、「ごぼうぬき、ごぼうぬき」と絶叫的に繰り返して言ったのが気になった。私はごぼうぬきとは垂直に物をぬく意味だと思っている。「ピケを張った労働者を機動隊がごぼうぬきに排除した」こう使われれば言葉としては気にならない。先に揚げた大辞林はごぽうぬきの意味として三番目に、競技で、数人を次々と追い抜くこととし、「ゴール直前でごぼうぬきにする」と例文を書いているが、新明解国語辞典第5版は、このことを「誤って、間を置かずに数人を追い抜く意にも用いられる」と書いてある。誤りと言っている。新明解さんの勝ち。でも使い続けると国語になってしまうのか。

 「埋蔵金」なんて本当にあるのかなあ、多田銀山で埋蔵金の発掘をしている人がいると聞くが。日本全国あちこちに埋蔵金伝説はある。夢のある話だ。ところが最近、霞ヶ関周辺から出た「埋蔵金」という言葉、これは夢のないいやな使用例で、国民をなめた言葉である。官庁の獲得予算が適切に執行出来ず残り溜まったもの、それを「埋蔵金」と呼ぶのだ。埋蔵でもなんでもない。そんな金は早く有効に使えばいいのだ。それを縛る法があるならそんなものこそ規制緩和しなくてはいけない。

 言葉使いの間違いさがしはまあ気軽にゲーム感覚で楽しむことが出来るが、言葉の背後に隠されたたくらみを見つけた時、もうゲームではすまない。私たちはそれに対抗しなければならないのだ。

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『みちしるべ』ご同慶の至り「みちじるべ」第50号**<2008.1. Vol.50>

2008年01月04日 | 澤山輝彦

ご同慶の至り「みちじるべ」第50号

世話人・編集長 澤山輝彦

 小寒、大寒とさすが一年で一番寒い季節、霙(みぞれ)が降り雪が積もるこの頃です。

 「みちしるべ」が50号を迎えたことは古めかしい言い方ですが、ご同慶の至りであります。道路公害・交通・都市問題で何か事が起きていないと、紙面には活気がないような感がなきにしもあらずですが、私達はそれらの問題に取り組まずにはおれなかったその感覚、考え方を常に生かし続けることが大事で、その意思表示の一つとして、みちしるべの継続発行があるのだと考えています。紙面を通じて交流を続けることが、いざという時、躊躇なく一人一人の立ち上がりをすばやくしてくれることでしょう。そんなわけで交流紙みちしるべはまだまだ続くのです。今回は藤井世話人が内容を分析してくれました。あれはあれで一つの事実資料です。私がやってきて困ったのは、原稿が早く集まらないことです。皆さん書いてくださいます。ただもう少し早くほしいのです。期限を設けませんから、いつでもおもいついたら投稿してほしいと思います。では、次号のために皆さんよろしくご投稿ください。手紙、フアックス、電子メール、どれをご利用くださっても結構です。誰や、交代してくれしてくれ言うたんは。

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『みちしるべ』**祝「みちじるべ」第50号の記念誌によせて**<2008.1. Vol.50>

2008年01月03日 | 藤井隆幸

祝「みちじるべ」第50号の記念誌によせて

世話人 藤井隆幸

 「みちしるべ」の創刊号は99年9月発行です。なんと8年余りも続いてきました。創刊号から第5号までは、初代、代表世話人の砂場徹氏が編集長も務めました。今では使われなくなったワープロ(Word Processor)で、総ての原稿を打ち直していました。富士通オアシスという、親指シフトの特殊キー配列のもので、結構指使いは早かったようです。パソコン全盛時代の到来で、澤山輝彦世話人が、第6号から第50号記念誌まで編集長を引き継いできました

 澤山世話人の息子さんは、パソコンの現代先端技術を駆使できるので、その協力も受けながら、長らく編集長を続けてこられました。原稿の端々にカットを楽しんでおられます。とはいいながら、定年退職組みの代表格。細かいパソコン操作には随分苦労されたとのことです。イメージチェンジの良い機会なので、編集長の交代を希望されています。大変な難問を抱えた記念誌号となりました。

 ところで「みちしるべ」の題字は、砂場夫人の恵美子さんによるものです。当初は、印刷の度にかすれてきたのですが、澤山さんが息子さんの手を借りて、かすれた題字をスキャンし、鮮明にしたものが現在の題字です。たまに影などつけているのですが、お気づきでしようか。

 さて、前川さんに「ゲッ、勤務評定!」と、また言われそうですが。原稿の投稿者リストを作ってみました。一つだけの投稿者22人を除く、ベスト20を発表します。「みちしるべ」の投稿は、編集長の原稿以外は『没』になったことがないのが特徴です。

 藤井新造さんの初投稿は第13号(01年9月)で、神崎敏則さんは第25号(03年9月)でこの投稿数ですから、今後に期待される投稿者といえそうです。三橋雅子さんも第6号(08年1月)の「のりもの断章」以来途切れていたのですが、第19号(02年9月)より「熊野
より」の投稿を続けてくれています。「熊野より」の原稿については、私のブログに許可を得て転載させていただきました。それまで1日のブログアクセスが20~30程度だったものが、急に100を超えるようになりました。「熊野の山姥」恐るべし。

 次に団体別の投稿者数をカウントして見ました。

 

 何といっても「川西自然教室」の文筆家の多いことに敬服します。「山幹の環境を守る市民の会」が多いのは、黒住先生の追悼文を書かれた人が多いためです。黒住先生自身も4本の投稿をされていますが、そのユニークな文章をもう期待できません。総て、山本寿満子さんの肩にかかっているのが現実です。今後は「みちと環境の会」に大きな期待がかかっています。

 おしまいに投稿内容について分析してみました。分類をするのが難しいのですが、独断と偏見により分類してみました。

 

 阪神間道路問題ネットワークは運動団体の集まりですから、主張・論文・報告・記録といったところが中心になるのは仕方ありません。「みちしるべ」の面白いところは、紀行・歴史・文化・文芸などの文化・芸術面が充実しているところでしょう。主なコラム記事は3種類あります。何かと「みち」に関する内容にと、それぞれの工夫が見て取れます。しかしながら、「みち」に拘らないものもOKというのが、編集者の意図するところでした。比較的に旅行記が多いのが特徴のようです。旅行というのは一般に非日常ですから、日常生活の惰性を乗り越えた気分が書けるのかと思います。まだまだ忙しい毎日のメンバーですが、文章の中だけでも、新しい自分を発見してもらいたいものです。

 「みちしるべ」の印刷は550部ということになっています。だいたい、それに近い部数は各団体に配布されています。現実に500前後の人たちに配布されています。なかなか感想をいただける状態にありませんが、感想の投稿も期待しております。第50号の記念に、何かの催しをという意見もあります。第30号の記念は、04年8月1日に西宮勤労会館にて、レセプションを行いました。

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『みちしるべ』**『道路公害反対運動全国交流集会』実行委員会報告**<2008.1. Vol.50>

2008年01月02日 | 藤井隆幸

『道路公害反対運動全国交流集会』実行委員会報告

世話人 藤井隆幸

日時;12月8日(土)午後1~ 5時
場所;名古屋港湾会館

議題

① 次回の大阪集会について
② 道路行政の転換への具体策について
③ 35周年記念の書籍出版について
④ 道路公害反対運動全国連絡会(全国連)の幹事会発足について
⑤ 全国連のホームページとメーリングリストについて

はじめに

 毎年開催されてきた『道路公害反対運動全国交流集会』は、07年の東京集会で33回目になりました。毎回、開催前に何度かの実行委員会をもち、開催の準備を行ってきました。今回の実行委員会は、これまでの実行委員会からステップアップしようという試みの一環でした。

 初期の『全国交流集会』は70年代の公害反対闘争の中で開催され、それこそ建設当局との体を張った闘争の決起集会でした。それら各地の運動の成果として、建設当局も環境に配慮せざるを得なくなり、一定の環境対策を勝ち取ってきました。80~90年代には環境アセスメント(影響評価)の闘いが重要になり、その科学的知識の交流に『全国交流集会』の果たす役割が変わってきました。21世紀に入り、財政の行詰りから建設当局の勢いは縮小してはきましたが、相変わらず巨大な予算とその利権に基本姿勢は変わりません。今後は、次世代への交通政策提言の必要性が求められる時代になり、経験交流だけでは情勢に相応しくなくなっています。

 70~ 80年代は実行委員会の事務局長だけ選んでいました。90年代には『連絡会』を立ち上げて分担金も徴収する中で、各地からの代表参加により実行委員会を開催し、集団での知恵を出し合えるようになりました。しかし、年に一度の『全国交流集会』を中心とした運動から、脱却したといえないのが現状です。その脱却をめざし、今回の実行委員会は行われました。

 『連絡会』に参加する団体は、年会費(分担金)¥5000を払っているようなのですが、兵庫県には年会費の納入団体が今のところありません。しかしながら、地域に漏れがないようにと、今回お誘いがありましたので、オブザーバー的に参加してきました。東京から3人、神奈川から2人、名古屋から3人、京都から1人、大阪から2人、広島から1人と私の合計13人が集まりました。

2008年全国交流集会in大阪

 まずは08年の『全国交流集会』開催の大阪から、集会の構想を提言してもらいました。開催日は11月8日(土)~9日(日)を予定するとのこと。初日の現地見学会は京都に集合してもらい、バスで第2京阪(下は国道1号線のバイパスで高架部は西日本高速道路)を京都高速道路新10条とのジャンクション予定地から、もう一方の大阪中央環状線(近畿自動車道)とのジャンクションの門真市まで見てもらう予定。半分ほどは開通しているはずですが、工事中も含め、できれば工事現場の中を通ってもらい、進捗状況の遅い寝屋川・門真は、現場近くの道路を通る計画だそうです。また、初日のシンポジュームは排ガス問題をテーマに、京都大学・東京理化学大学・神戸大学の工学・気象系と医学・疫学系の先生方に話をしているとのこと。ちなみに、懇親会は美味しいものを出すので期待してもらって結構とのことでした。

 2日目は分散会にするか、分科会にするかということですが、地元としては分科会にしたいとの意向でした。①健康被害、②行財政問題、③交通政策などを考えているそうです。毎回、分科会にしても総ての分科会が、自らの団体の自己紹介になってしまい、問題の掘り起こしや発展につながらないという意見もでました。討論の中で、参加者の理論的発展が可能なように、最低4時間以上の時間的保障をすることが確認されました。

道路行政の民主的転換を求める具体的行動

 今回の実行委員会が、前回の『全国交流集会』後の間もなく開かれたというのは、道路行政の分析や提言が出来るような、議論が出来ていないことへの反省もあったようです。以前の毎年の実行委員会には参加していませんので、そのような議論はされているものと思っていました。実際には、集会の段取りだけで忙殺されてしまい、政策的議論がされないというストレスがあったようです。

 東京や神奈川、名古屋の実行委員からは活発な意見が出ました。詳細は何かの機会に紹介できるかと思います。京都の実行委員がモバイルパソコンで、議論の中身を筆記して、USBメモリーで全国連事務局長に渡していましたので、その内にメールか何かでもらえるのではないかと思います。

 大阪の実行委員からは、昨夏は猛暑で誰もが地球温暖化に気を使う時代になってきたので、08年集会のテーマは「温暖化時代の道路問題」としたいとの意見がありました。東京の実行委員からは、国土交通省のホームページを見る必要性が力説されました。敵を知らなければならないのと同時に、国民に向けての意見募集もしています。「今後の10年の長期計画」は必見とのこと。07年11月の「公共工事の構想段階における住民参加についてのガイドライン(案)」に対する、パブリック・インボルムメント(一般意見)を募集しているとのこと。出来るだけ意見を出すようにとの要請でした。

35周年記念の出版

 『全国交流集会』の歴史の中で、15周年と25周年には記念出版をした経験があります。大阪集会の次は35周年記念に当たります。内容はともかく、出すか出さないかの意見はまとめようということでした。各地が販売をすれば、採算面からは何とかなるとの試算でした。各実行委員からは出すべきとの意見でまとまりました。今後、1年をかけて、内容をつめることになりました。

全国連の幹事会発足

 これまでは各地から実行委員が参加して、集会の段取りが中心の実行委員会でした。理論的整理などを行い、政策提言などが出来る組織にしてゆきたい。そのために、恒常的に連絡会に「幹事会」を設置したいとの提案がありました。

 幹事には誰がなるかなどの条文的なものはありません。各地から主なメンバーが参加し、今までの実行委員会より短期間に幹事会を開催することになりました。阪神間道路問題ネットワークとして、代表派遣してゆくのか否か、検討する必要もあるようです。しかしながら、分担金や代表派遣費の根拠となる財政もない段階で、結論を出すのは難しいのが現実です。当面は、オブザーバーとして連絡がもらえるようです。

 次回は、また地理的に中心の名古屋で、08年の1~ 2月頃に行われる予定です。

ホームページとメーリングリスト

 随分以前に、京都のH氏が全国連のホームページを作ってくれました。が、現在はH氏が別分野で活躍していて、放置されている現状です。同じ京都のHD氏が、更新しても良いとのことでした。次の幹事会あたりで、具体案が出るものと思われます。

 全国連のメーリングリストも、一部の学者の書き込みがある程度で、事実上停止しています。新たに全国連のメンバーに広く開放するメーリングリストと、幹事会だけのメーリングリストを立ち上げることになりました。古いメーリングリストは廃止する方向で話し合われました。全国連全般のメーリングリストには、阪神間道路問題ネットワークの、インターネット接続者も参加できるようなので、詳細がわかればお知らせします。

往復各駅停車の旅と懇親会

 今回参加するのに利用した交通手段ですが、JRの在来線を使いました。新幹線を使えば1時間半で行けるのですが、『熊野より』の“山姥さん”ではないのですが、「急ぐ旅でもなし」新快速を乗り継いで3時間の旅でした。新幹線では7500円ほどのところ、在来線では3500円ほどの半額です。新快速でも大阪から米原まで12駅も止まります。米原からは快速に乗り換え。快速といっても岐阜までの11駅は各駅停車。岐阜からは尾張一宮・名古屋・金山と20分程度の旅。金山でお昼を食べて、地下鉄で終点の名古屋港まで。帰りも同じ経路でした。

 「公害被害者総行動」というのが、毎年5月に東京で開かれています。「新幹線訴訟原告団」はバスをチャーターして、新幹線を使うことはありません。大阪空港訴訟原告団はバスか新幹線で、飛行機は絶対に使いませんでした。国道43号線訴訟原告団は最後の頃は新幹線でした。ともかく、意地でも被告の世話にはならないというのには、感心したものでした。私の場合、誰に気兼ねをしたわけでもないのですが、経済的理由というのが最大の理由です。S画伯は近鉄で、アーバンライナー(特急券が必要)を使わずに、丸特切符で1700円程度といっていました。今度は試してみようと思っています。

 実行委員会の後に、懇親会があったのですが、不況の阪神間では考えられない現象を見ました。名古屋駅周辺なら、東京方面から来ている新幹線指定席のメンバーも、ゆっくり参加できるということでした。土曜日というのに通勤帰りの服装の人達で満員の地下鉄に乗り、名古屋駅に付きました。大手居酒屋を何軒か回ったのですが、なんと何処も予約席で埋まっていました。忘年会シーズンとはいえ、土曜日も仕事帰りというのは驚きました。阪神間ならこの時期、何処のお店も空席が充分あります。まして土曜日など、駅前でもお休みの店があったりします。

 名古屋だけ活気が良いということだそうです。消費税を1円も払っていないのに、今年は2800億円も還付金。2兆円の純利益のトヨタのお膝元現象だそうです。尼崎には松下のプラズマテレビエ場誘致をしましたが、随分の違い。名古屋駅正面は一面のイルミネーション。若いカップルが携帯電話で、思い思いに写真を撮っていました。今年の阪神間は師走に入ってもジングルベル無しですが、名古屋では色とりどりのクリスマスの装飾を凝らした店舗が目立ちます。

 何とか残った10人のメンバーが入れるお店があり、狭く迷路のような2階で、火事があったら仕舞いだと言いながら、お酒にありつきました。新幹線指定の都合で、6~ 7時の1時間だけの懇親会。思いの外早く終了で、西宮には10時頃には帰り着きました。

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『みちしるべ』現状に屈せず人が大切にされる社会を!**<2008.1. Vol.50>

2008年01月01日 | 大橋 昭

現状に屈せず人が大切にされる社会を!

代表世話人 大橋 昭

 皆さん明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 「今年こそはよい年を」の願いをよそに2008年は原油、穀物の高騰、円高、株価の暴落など、内外の不安な経済情勢が私たちの生活に大きな影を落とす幕開けとなりました。

 既に昨年末からガソリン、食品の諸物価の値上がりが日常生活を直撃するという状況の中で、唯一「C型肝炎薬害患者」救済の朗報もありましたが、少子高齢化の加速と格差、貧困の拡大は加速し、福祉の低下、医療崩壊、教育崩壊、農村の疲弊、税金負担増、雇用の不安定化など重苦しい事態に依然明るい兆しが見えてきません。

 これらの社会不安を除去し国民に幸福と安心をもたらすべき、政治の原点「経世済民」を忘れた、今日の政治家や官僚、企業家たちに「偽」の名を付したことは当然の帰結です。まさに私利私欲と自己保身と情報隠しに終始し、無能、無策、無責任にまみれたその存在に国民の怒りは頂点に達した感があります。

 昨夏、参議院選挙で大敗を喫した自・公政権が、なおもアメリカの戦争政策に追随し、「ねじれ国会」をよいことに主権者不在の中で生活に関わる多くの重要法案をよそに「新テロ法案」を強行可決しました。これからは戦争という暴力ではなにも解決しないという認識の欠如は、国際貢献という名のもと戦争を放棄した平和憲法9条に反し、日本の外交戦略の脆弱さを暴露して余りあります。また汚職まみれの防衛族を依然手厚く保護し、莫大な血税を無駄使いする防衛政策政治は、世界平和の願いに逆行する看過できない暴挙です。一方、小泉、安倍、福田政権にまたがる構造改革という名の収奪は、一層の社会的弱者の切捨と格差、貧困を拡大させ、生存権を保証する平和憲法25条を形骸化し、生活の基盤である人と人の関係をバラバラにし、社会の安心と安全を崩壊させました。とりわけ社会の基本を支える働く者への労働法規の規制緩和「派遣法」は、働けども働けども人間らしく生きてゆけないまでに人間の尊厳を奪い、現況は生きる希望を砕いて余りあります 。

 今、私たちには弱肉強食の猛獣資本主義に決別し、安全で豊かな社会をめざし、不条理極まりない政治に対抗する主権者としての自覚と自立が緊要です。

 同時にすべての国、とりわけアジア近隣諸国との平和共存の実現と、あとがない地球環境は子孫からの預かり物の視点を失わず、あらゆる機会により多くの人達と交流連帯し、モノ・カネに囚われない価値観に立ち、日常の中から「共生と協働」の実践を通じ、現状に屈しない、人間として尊重され、生きて行ける社会への変革運動が急務であることを訴え新年のご挨拶とします。

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